鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 田代屋敷/田代観音/辻薬師/乱橋/材木座村/丁字谷/紅谷/桐谷
田代屋敷
田代ノ觀音ノ北ノ前ナル畠也。田代判官信綱ガ舊跡也。建仁三年九月二日ニ害セラルト云リ。
[やぶちゃん注:「田代判官信綱」(生没年不詳)は後三条天皇の後胤といい、父は伊豆守為綱、母は狩野工藤介茂光娘と伝える。石橋山の戦いで頼朝に従い、三草山・一の谷・屋島の合戦では源義経の麾下にあったが、文治元(一一八五)年に西海にあった信綱に対し、頼朝は義経に「隨ふべから」ず、という書状を遣わしている(以上は「朝日日本歴史人物事典」による)。その後の事蹟は不詳であるが、ここで光圀が建仁三(一二〇三)年「九月二日ニ害セラル」と言っているのは何かの誤解と思われる。この日は確かに「害せら」れてもおかしくはない。かの比企能員の変で比企一族が滅ぼされた日であるからである。ところが、「吾妻鏡」には彼の名は登場していない。頼朝直参の家臣であり、万一参加していて戦死したとすれば、名が挙がらないことはあり得ないからである(実は「吾妻鏡」の彼の最後の叙述は事蹟に記した、元暦二年(八月に文治に改元)四月二十九日の、彼に義経に「隨ふべから」ずの命が頼朝から下された部分なのである)。さらに、信綱について調べると、伊豆市の公式HP内の「市指定-史跡・名勝」の中に「田代信綱の墓及び砦跡」が挙がっており、そこには、平家追討の恩賞によって伊豆の狩野荘田代郷(母の在であろう)の地頭に補せられ、更に承久の乱にても功を立てて、和泉国大島郷の地頭職を得ているとあり、建仁三年に死んでいては承久の乱もへったくれもない。あるネット上の未確認記載(データ元は明らかでない)では没年を、安貞二(一二二八)年か、とするものがあった。ともかくもこの「田代屋敷」とは、恐らくは比企一族方の家臣団の誰かの館などを誤認した伝承ではなかろうか。]
田代觀音
關東ノ順禮三番目ノ札所也。本尊ハ木像ノ千手觀音也。本體ハ繪像ナリト云。今ハ安養院ニ在ト也。本堂ノ額ニ白花山トアリ。今按ニ燒阿彌陀ノ緣起ニ、田代ノ阿闍梨我藏寺ヲ建立ト云フハ是歟。
[やぶちゃん注:「今按ニ燒阿彌陀ノ緣起ニ、田代ノ阿闍梨我藏寺ヲ建立ト云フハ是歟」は、先行する「光觸寺」の条を再見のこと。]
辻 藥 師
觀音ヨリ南ニテ少シ東へ入タル所ナリ。長善寺ト云。本尊ハ藥師十二神、行基ノ作ト云。大進坊作ノ寶劍アリ。長サ三尺計。無銘也。眞言宗ナレバ、祈念ノ法具ニ用ルトナリ。
亂 橋
觀音ヨリ南ノ少キ石杠(ハシ)也。橋ノ西ニ連理ノ木アリ。
[やぶちゃん注:底本では「少」の右に『(小)』と編注する。「杠」は一本橋のこと。]
材木座村
亂橋ノ南ノ漁村也。徒然草ニ云。鎌倉ノ海ニ鰹魚ト云魚ハ、彼界ニハ左右ナキ物ニテ、此比モテナス物也ト有。此邊都(スベ)テ漁人多シ。
丁 字 谷
亂橋ノ東ニアリ。
紅 谷(ベニノヤツ)
花ノ谷材木座ノ村ヨリ村、名越ノ方ニ見ユル谷ナリ。
桐谷〔或ハ霧谷ニ作ル〕
補陀落寺ノ後ヲ云也。又光明寺ヨリ名越ノ方ノ谷ヲ云トモ云傳フ。東海道名所記ニ、右ノ方ニ祝嶋ト云地アリ。
[やぶちゃん注:「祝嶋」不詳。初見。「東海道名所記」を私は所持ていないので、確かなことは言えないが、これはもしかすると和賀江の島のことを指して言っているのではあるまいか? 補陀落寺背後の峰から右手海方向という位置関係と、「祝」と「和賀江」の文字が妙に通底するように思われるのである。識者の御教授を乞うものである。]