芥川龍之介漢詩全集 二十四
二十四
窮巷賣文偏寂寞
寒厨缺酒自淸修
拈毫窓外西風晩
欲寫胸中落木秋
〇やぶちゃん訓読
窮巷 文を賣りて 偏へに寂寞(せきばく)
寒厨(かんちゆう) 酒を缺きて 自(おのづ)から淸修(せいしう)
毫(がう)を拈(と)る 窓外 西風の晩
寫(うつ)さんと欲す 胸中落木の秋
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。丁度この頃、龍之介は上野の小料理屋清凌亭で仲居をしていた田島稲子(後の作家佐田稲子)と出逢って親交を結んでいる(自死の直前には自殺未遂経験のあった彼女に自殺決行当時の心境を問うている)。
大正九(一九二〇)年五月十一日附與謝野晶子宛(岩波版旧全集書簡番号七一五)
に所載する。詩の前に、鉄幹が「詩を作られる事を知」ったのは「愉快です」とあって(この「詩」とは漢詩のことと思われる)、
この頃人の書畫帖に下手な畫を描いた上同じく下手な詩を題しました景物に御らんに入れます
と書いて本詩を掲げている。「景物」とは、場に興を添えるもの、珍しい芸の意。本詩を画賛と記しているが、当該の画と思われるものは、一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したことがある。産經新聞社の同展解説書に載る「1-33」の「落木図」がそれである(但し、写真でモノクロームであるから、実物は現存しない可能性がある)。その解説には、
一九二〇(大正九)年晩秋、小穴隆一の実家にて游心帖に描いたもの。冬枯れの木も、龍之介が好んで描いたものの一つ。しかし、この画を描いた際の龍之介は、落木図を見せたかったのではなく、実はできたての七言絶句を示したかったのであろうといわれる。この七絶を、小穴は『黄雀風』の裏表紙に入れようとしたが、龍之介に断られている。
とある(晩秋とあるのが引っ掛かる。芥川はこれ以前に同様な画賛を誰かに贈っているのかも知れない。その礼節から大正一三(一九二四)年七月刊行の作品集「黄雀風」への装幀を拒絶したともとれる)。当該図版で確認すると、詩は冒頭に二行書き、
「缺」は「欠」
で、中央にくねった枯木の絵を配した後に(枯葉を数枚各所の枝先にぶら下げ、三葉が地面に散ったものであるが、御世辞にも上手い絵とは私は思わない)、
庚申晩秋
我鬼山人墨戲
と記す。
書簡の文面は如何にも卑小な謙遜をしているが、未だ知り合って間もない天下の名歌人晶子(当時満四十二歳。鷺年譜によれば、龍之介が晶子の歌会に出て親しく接するようになったのは大正八(一九一九)年末頃と思われる)へ示すというのは、本詩への龍之介の自信の在りようが見て取れる。
「窮巷」「陋巷」と同じい。狭い路地。貧家の比喩。
「寒厨」寒々とした貧乏人の厨(くりや)。同じく貧家の比喩。
「淸修」仏教や道教で、人と交わらずにたった独りで瞑想修行することを指す。
「毫を拈る」筆を執る。]