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2012/12/17

耳嚢 巻之五 蘇生の人の事

 蘇生の人の事

 

 寛政六年の頃、芝邊のかるき日雇取(ひやとひどり)などしてくらしける男、風與(ふと)煩ひて頓死同樣にてありしを、念佛講中間(なかま)抔寄合(よりあひ)て寺へ遣し葬(はふむり)けるが、一兩日立て場の内にてうなる聲しけるが次第に高く也し故、寺僧も驚(おどろき)て掘(ほり)うがち見んとて、施主へ申達(まうしたつ)し掘らせけるが、活(いき)てあるに違ひなければ寺社奉行へも寺より訴へ、其節の町奉行小田切土佐守方へ町方より右蘇生人引取(ひきとり)候由相屆け、段々療養の上(うえ)力附(つき)て則(すなはち)番所へも出(いで)し故、其始末を尋(たづね)しに、我等は死し候とは曾て不存(ぞんぜず)、何か京都へ登り祇園邊を歩行(あるき)、大阪道頓堀邊をもあるき東海道を歸りしに、大井川にて路銀無之(これなき)處、川越の者憐みて渡し呉(くれ)、夫より宿へ歸りしに、まつくらにて何かわからざる故聲を立(たて)候と覺へたり。全く夢を見し心也と語りし由、土州(どしふ)の物語り也。右夢の内に冥官にも獄卒にも不逢(あはず)といふ所、正直成(なる)者と感笑しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐譚から蘇生譚の怪異連関。幽体離脱した生霊譚としては、それが「大井川にて路銀無之處、川越の者憐みて渡し呉」と、明確な実態を持っている点が面白い。主人公の病気は細部が分からないが、循環器や脳に何らかの障害があったものとするなら、意識喪失と不整脈などで、死の判定を下され、葬られ、土中で覚醒するまでその間、夢を見ていたことになるが、それにしても京は祇園に大阪道頓堀の漫遊とは、如何にも「感笑」、いやいや、私なんぞも――芸者遊びのオプションも附けて貰い――あやかりたい夢では、これ、御座る。

・「中間(なかま)」『なか』は底本のルビであるが、これは原本のものらしく、丸括弧がない。

・「念佛講」念仏を行なう講(本来は社寺の参詣・寄進などをする信者の団体(伊勢講・富士講等)を指したが、以下に示すように、後にはそうしたものが実利的相互扶助組織となって貯蓄や金の融通を行う団体となっていった)。元は念仏を信ずる者たちが当番となった者の家に集って念仏を行なっていたが、後にはその構成員が毎月掛金を出して、それを講中の死亡者に贈る弔慰金・講中の会食・親睦等の費用に当てるといった、頼母子講(たのもしこう:一定の期日に構成員が掛け金を出し合ったものをプールし、講中で定期的に行う籤等に当った者に一定の金額を給付、これがほぼ全構成員に行き渡ったところで解散するという民間金融互助組織。古くは鎌倉時代に始まり、江戸時代に爆発的に流行した)的なものに変化していった。

・「小田切土佐守」小田切直年(寛保三(一七四三)年~文化八(一八一一)年)は旗本。小田切家は元は甲斐武田氏に仕え、武田氏滅亡後に徳川家康の家臣となって近侍したという経歴を持つ家系である。明和二(一七六五)年に二十三歳で西ノ丸書院番となった後、御使番・小普請・駿府町奉行・大坂町奉行・遠国奉行を歴任、寛政四(一七九二)年に五十歳で江戸北町奉行に就任した。その後、文化八(一八一一)年に現職のまま六十九歳で没するまで実に十八年間も奉行職にあった(これは町奉行歴代四番目に長い永年勤続である)。これによって幕府が小田切に対して篤い信頼を寄せていたことが分かる。以下、参照したウィキの「小田切直年」には、町奉行時代のエピソードが豊富に載り、中には何と根岸(小田切より四歳年下であり、根岸の南町奉行就任は寛政一〇(一七九八)年で、本話執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春は未だ勘定奉行であった。以下の小田切との裁定対立も公事方勘定奉行時代のものである)との裁定の対立が語られて実に興味深いので、以下に引用しておく。『小田切自身、奉行として優れた裁きを下しており、後の模範となる多数の判例を残している。駿府町奉行在任中には男同士の心中事件を裁いている。盗賊として有名な鬼坊主清吉を裁いたのも小田切であった』。『小田切が奉行にあった時代は、犯罪の凶悪化に拍車がかかっており、件数自体も増加していた。そのため老中達は刑法である御定書を厳格化する制定を下したのだが、小田切は長谷川宣以などと共にこの政策に反対し、刑罰を杓子定規に適用することなく出来る限りの斟酌をして寛大な措置を施す道を模索していた。例えば、大阪町奉行に在任していた最中、ある女盗賊を捕らえた。この女盗賊は最終的には評定所の採決によって死罪に処されたのだが、小田切は彼女に対して遠島の処分を申し渡していた。当時は女性の法人人格が男性より格下とみなされており、それを考慮した採決であった』。また、十歳の商家の娘かよが十九歳の奉公人喜八に姦通を強要、『喜八がついに折れて渋々承諾し、行為中に突如かよが意識を失いそのまま死亡するという事件が起こり、小田切は根岸鎮衛と共にこれを裁断した。根岸と寺社奉行は引き回しの上獄門を、二人の勘定奉行は死罪を主張したが、小田切は前例や状況を入念に吟味し、無理心中であると主張、広義では死刑であるものの、死刑の中でも最も穏当な処分である「下手人」を主張した。最終的に喜八は死罪を賜ったが、この事例にも小田切の寛大かつ深慮に富んだ姿勢が伺える』。『しかし良いことばかりではなく、「街談文々集要」や「藤岡屋日記」によると、文化七年(一八一〇年)五月二二日、年貢の納入に関するトラブルで取り調べを受けていた農民が、与力の刀を奪って北町奉行所内で暴れ、役人二名、および敷地内の役宅にいた夫人二名を斬殺し、子供も含めた多数に負傷させるも、役人たちは逃げ回るばかりで、犯人は下男が取り押さえると言う大醜態をさらした。犯人は処刑され、出身の村にも連座が適用されたが、刀を奪われた与力が改易され、その他逃げ回っていた役人多数が処分を受けた。この不祥事に「百姓に与力同心小田切られ主も家来もまごついた土佐」という落首が出て皮肉られている』(最後の引用はアラビア数字を漢数字に代えた)。この最後の不祥事は、「耳嚢 卷之四」の「不時の異變心得あるべき事」を髣髴とさせる。根岸の時代劇調の格好いい出来事は寛政七(一七九五)年であるから、小田切の一件よりはずっと前であるが、この顛末を聴いた根岸は、自身のあの時の体験をダブらせて、感慨も一入であったことは想像に難くない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蘇生した人の事

 

 寛政六年の頃、芝辺りで賤しい日雇いなんどを生業(なりわい)と致いて暮らしておった男が、ふと患って、まあ、言うところ――頓死――といった風に、死んだ。

 念仏講仲間なんどが寄り集まって、寺へと送り、形ばかりでは御座ったが、葬儀も滞りなく済んで、葬って御座った由。

 ところが……

……一日二日して……塚の内にて……これ、呻(うな)る声の、する――!――

……それが――!――

……次第に高(たこ)うなる!――

 これ、流石に寺僧も驚き、

「……掘り返して見ずんばならず!」

と、施主へ異変を申し遣わし、掘らせてみたところが――

――これ、座棺の桶の中に――ぶるぶると震えて、

「……ウーン……ウーン! アハアアッ!……」

と呻いてあればこそ、

「……お、おいッ!……こ、これ、生きて、おるに違いないぞッ!……」

と、もう、上へ下への大騒ぎと相い成って御座った。

 寺より寺社奉行へ驚天動地の事実を訴え出で、その節の町奉行小田切土佐守直年殿方へも、町方の者より、蘇生人を引き取った旨、相い届けて御座った。……

 だんだんに療養の上、本人も徐々に起き上がるほどの力もついたによって、自身も番所へと出頭した故、その顛末につき、訊問致いたところが、

「……我らは……そのぅ……死んでしもうたとは……これ……いっかな……存じませなんだじゃ。……へぇ……そんでもって……何かその……旅を……へぇ……京都へ上って、祇園辺りをぶらついて……それから……大阪は、かの道頓堀辺も歩いて……そんでもって………東海道を帰(けえ)って……その途次にては……あの大井川にて、路銀がないようなっておりやしたによって……渡れずに困っておりやしたところが……川越えの人足が、これ、哀れんで……担いで渡して呉れやした。……そんでもって……宿へ帰(けえ)ったところが……何か、この……その……家中(いえじゅう)が……これ、真っ暗で……何(なん)か……その……訳がわからんことになって……ともかくも! っと……声を立てた……というところまでは……よう、覚えとりやす。……へぇ……もう、全く、永(なげ)え永え夢を……これ、見ておったとような心持ちで御座んした……へぇ……」

と語った由。――

 以上は土佐守殿の話された実話にて、

「……それにしても……その夢の中(うち)にては、冥府の役人にも、獄卒にも、これ、逢わなんだと申すは……如何にも正直者、というべきで御座ろうか、の。」

と、二人して笑い合(お)うたもので御座った。

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