北條九代記 姫君病惱 付 死去
○姫君病惱 付 死去
故賴朝卿の息女乙姫君は、去ぬる比淸水冠者討れしより以來病惱常に御身を犯し、快然たる日を知り給はず、歎(なげき)の物思に引籠りておはします。此比(このごろ)は殊更に重らせ給ひ、漿水(しやうすゐ)を斷ちて惱み給ふ。御母尼御臺大に驚き給ひて、諸社の祈願諸寺の祈禱、その丹誠を盡し給ふ。又殿中には阿野少輔公(あののすけのきみ)大法師聖尊(しやうそん)を請じて、一字金輪(こんりん)の法をぞ行はれける。京都に飛脚を遣して、針博士(しんはなせ)丹波時長を召さるる所に、辭し申して仰に從はず。重(かさね)て使を上(のぼ)せられ、此度障(さはり)を申さしめば子細を仙洞(せんとう)に奏達すべき旨を、在京の御家人等に仰付けらる。醫師時長大に畏(かしこま)り、不日(ふじつ)に下著(げちやく)せしかば、左近將監能直相倶して、下向しける由申入れければ、畠山次郎重忠が南の門の宅に召置(めしお)かれ、姫君の御所近く、御療治勤め參らせんが爲とかや。軈(やが)て御脉を伺ひ朱砂(しゆしや)丸を奉る。五月の中比には姫君驗氣(けんき)を得給ひ聊(いさゝか)食事に御付有りとて、内外上下の人々悦び奉りける所に、六月半(なかば)より又殊の外に惱み出で給ひて、剩(あまつさへ)天吊搐搦(てんてうちくでき)し給ふ。この事凶相の由(よし)時長驚き申す。今に於ては浮世の賴みもこれなし力及ばすとて、御暇(おんいとま)給はり時長は歸上(かへりのぼ)りけり。尼御臺所は手を握り、足を空になして、如何はせんと周章(あは)て給ふ。此上は人力(じんりよく)の叶ふべきにあらず、佛神の御力を偏(ひとへ)に賴み奉るとて、鶴ヶ岡を初て神社に使を立てられ、百燈(とう)百味(み)、神樂御湯(かぐらみゆ)を參らせらるゝに、託宣の趣(おもむき)いづれもよろしからずと申す。鎌倉中の寺々には御祈禱仰付けられて、護摩を修(しゆ)すれば、燻りて燃上(もえあが)らず、閼伽の水乾きて潤(うるほひ)なし。御符(ごふう)の墨色(すみいろ)卷數(かんじゆ)の文字皆不吉の相なりとて、片津(かたづ)を呑んで私語(さゝやき)あひけるが、同二十日の午尅(うまのこく)に遂に事切れさせ給ひけり。御年・未だ十四歳、蕾(つぼ)める花の僅(わづか)に綻(ほころ)び、萠出(もえい)づる若草の人の結びし跡絶えて、思(おもひ)をすまの夕煙(ゆふけぶり)伐(こり)焚(た)く柴のしばしばに、誰爲(たがため)にとて長生(ながら)ふる、辛(つら)き命よなにせんと、朝夕歎(なげき)に臥沈(ふししづ)み給ひしが、遂に空しくなり給へば、尼御臺所の御歎(おんなげき)同じ道にとあこがれ給ひ、乳母(めのと)の夫(をつと)掃部頭(かもんのかみ)親能(ちかよし)は歎(なげき)の思に堪兼(たへか)ね、宣豪(せんがう)法橋を戒師として出家をぞ遂(とげ)たる。姫君の空しき御尸(おんから)をば親能法師(ちかよしほふし)が龜谷(かめがやつ)の堂の傍(かたはら)に葬り奉る。江馬殿を初(はじめ)て、小田、三浦、結城、八田(やた)、足立、畠山、梶原、宇都宮、佐々木小三郎以下供奉して、孤憤一堆(たい)の主となし奉る。墳墓堂(はかだう)を作り、此所(こゝ)にして中陰の御佛事を營まる。果(はて)の日は尼御臺所參詣あり。宰相阿闍梨尊曉導師として、御諷誦を讀み給ふ。文章美(うるは)しくして、情を盡しければ、尼御臺所數行(すかう)の涙に咽(むせ)び給へば、御供の人々も皆袂をぞ濡しける。哀(あはれ)なりし事共なり。
[やぶちゃん注:頼朝次女で大姫や頼家の妹・実朝の姉に当たる三幡(字(あざな))、通称乙姫の死を描く。「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九五)年三月五日・三月十二日、五月七日・五月八日・五月二十九日、六月十四日・五月三十日及び七月六日の条に基づく。前話の元とも重なるが三月五日の条を引いておきたい。
〇原文
五日丁酉。雨降。後藤左衞門尉基淸依有罪科。被改讃岐守護職。被補近藤七國平。幕下將軍御時被定置事被改之始也云々。
又故將軍姫君。〔號乙姫君。字三幡。〕自去比御病惱。御温氣也。頗及危急。尼御臺所諸社有祈願。諸寺修誦經給。亦於御所。被修一字金輪法。大法師聖尊〔号阿野少輔公。〕奉仕之。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日丁酉。雨降る。後藤左衞門尉基清、罪科有るに依りて、譛岐守護職を改められ、近藤七國平に補せらる。幕下將軍の御時に定め置かるる事を、改めらるるの始也と云々。
又、故將軍の姫君〔乙姫君と號す、字は三幡〕去る比より御病惱、御温氣也。頗る危急に及ぶ。尼御臺所、諸社に祈願有り、諸寺に誦經を修し給ふ。亦、御所に於いて、一字金輪法を修せらる。大法師聖尊〔阿野少輔公と號す。〕、之を奉仕す。
この記述が意味するところを素直に読むと、乙姫の発病も、これ、頼家が『幕下將軍の御時に定め置かるる事を、改め』た結果であろう、と暗に「吾妻鏡」筆者が述べているのだということが分かる。
「去ぬる比淸水冠者討れしより以來病惱常に御身を犯し、快然たる日を知り給はず、歎の物思に引籠りておはします」の部分は長女大姫の事蹟と混同した叙述で全くの誤り(大姫の死は「吾妻鏡」の欠落部で、もしかすると筆者は確信犯でわざと大姫と乙姫をハイブリッド化したのだとも考えられる)。大姫は先立つ建久八(一一九七)年七月十四日に病死している。政子は実に建久六(一一九五)年の頼朝の死以来、二年おきに愛する近親を失っており、本話の後半部の嘆きは察するに余りある。なればこそ筆者は、この歴史的事実とは全く無縁な、殆ど記憶されることのない乙姫の死をわざわざここに配して、政子という女の悲哀と絶望を美事に描ききったのだろう。但し、読み進めると分かるが、後の男をさしおいた政子の政治進出に対しては極めて批判的であるから、その場面への対位法的伏線とも読めるようにも私には思われる。
「一字金輪法」「一字金輪」は一字頂輪王・金輪仏頂などとも呼ばれ、諸仏菩薩の功徳を代表する尊像を指す。真言密教では秘仏とされ、息災や長寿のためにこの仏を祈る一字金輪法は、古くは東寺長者以外は修することを禁じられた秘法であったと言われる(国立博物館の「e国寶」の「一字金輪像」の解説に拠る(リンク先に一字金輪像の画像あり)。なお、そこでは「きんりん」と読んでいる)。
「丹波時長」(生没年不詳)は医師。典薬頭丹波長基の子。官位は従四位上・典薬頭。医者として名声を極めた人物で、この後、承久元(一二一九)年第四代将軍九条頼経が後継将軍として鎌倉に下向した際には、子の長世とともに鎌倉に下向して将軍家権侍医として仕えたと伝える。
「仙洞」後鳥羽上皇。「吾妻鏡」の記載も本文の通りであるが、ウィキの「丹波時長」では、はっきりと、院宣が出たために下向した、との記載がある。公的な院宣であるかどうかは別として、これだけ固辞していたものが一転したのは、脅迫以外に非公式な院からの口添えがあったと考えた方が自然ではある。
「朱砂丸」硫化水銀を主成分とする漢方薬。鎮静・催眠を目的として、現在でも使用される。有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて、辰砂のような水に難溶な化合物は毒性が低いと考えられている。代表的処方には「朱砂安神丸」等がある(ウィキの「辰砂」に拠る)。
「天吊搐搦(てんてうちくでき)」「吾妻鏡」の建久十(一一九五)年六月十四日の条には、
十四日甲戌。晴。姫君猶令疲勞給。剩自去十二日御目上腫御。此事殊凶相之由。時長驚申之。於今者少其恃歟。凡匪人力之所覃也。
十四日甲戌。晴る。姫君、猶ほ疲勞せしめ給ふ。剰(あまつさ)へ去ぬる十二日より御目の上、腫れ御(たま)ふ。此の事、殊に凶相の由、時長、之を驚き申す。今に於いては其の恃み少なからんか。凡そ人力の覃(およ)ぶ所に匪(あら)ざるなり。
という叙述、増淵氏の訳、及び漢方叙述の中に顔面に発生する症状を示す語に「天吊」(てんちょう)の語があることから、上目蓋が腫れあがる(若しくは腫脹によって目が鬼面のように吊り上って見える)症状を言っていると考えられる。「搐搦」は通常は「ちくじゃく」と読み、ひきつけや痙攣を起すことを意味する。
「足を空に」足が地につかないほどに慌て急ぐさま。
「百味」神仏へのさまざまな供物。
「御湯」「湯立て」「湯立ち」のことであろう。神道の禊(みそぎ)の一つで神前の大釜に湯を沸かし、巫女や神官が熱湯に笹の葉を浸して自分のからだや参詣人に降り掛けて邪気を払う儀式である。直後に「託宣の趣いづれもよろしからず」とあるから、所謂、「くがたち」盟神探湯に似たような儀式を指すとも考えられるが、この辺は筆者の創作部分である。
「片津」固唾。
「乳母の夫掃部頭親能」中原親能(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)は文官御家人。文治二(一一八六)年に京都守護に任じられて上洛、建久二(一一九一)年には政所公事奉行に任ぜられ、十三人の合議制の一人となった。乙姫誕生により彼女の乳父となり、本文にある通り、六月二十五日に乙姫が危篤となるや、京から帰鎌、死去に伴い出家して寂忍と称した(ウィキの「中原親能」に拠る)。
「江馬殿」北条義時。]