鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 万福寺/袂浦/龍口寺/龍口明神/片瀬川/西行見帰松/笈焼松/唐原/砥上原
万 福 寺 〔或ハ作滿〕
龍護山ト號ス。眞言宗、手廣村靑蓮寺ノ末ナリ。開山行基。本尊藥師、行基作。義經ノ宿セラレシ所ナリト云。辨慶申狀ヲ書テ硯水ヲ捨タル所ノ池幷ニ松アリト云。馬上ヨリ望見テ過ヌ。
〔私闇齋遠遊記ニ、辨慶書タル申狀ノ草創猶在、東鑑ニ載スル所ニハ、首尾ニ左衞門少尉ノ五字アリ、愁ヲ紅ニ作リ抱ヲ胞ニ作ル。想ニソレ淨寫シテ、コレヲ添、コレヲ改ルナラン。〕
[やぶちゃん注:「万」は「萬」としようと思ったが、変えずにおいた。割注は底本では全体が一字下げ。
「私闇齋遠遊記」不詳。朱子学者山崎闇斎(やまざきあんさい 元和四年(一六一九)年~天和二(一六八二)年)の紀行か。識者の御教授を乞う。
「草創」は「草稿」の誤りであろう。以下の異同については、私が完全校閲・比較提示したものが「新編鎌倉志巻之六」の「滿福寺」注にある。是非、参照されたい。]
袂 浦
腰越ヨリ江嶋へノ直道、南へノ出崎ノ入江ノ濱、袂ノ如クナル地ヲ云トナン。
夫木集 讀人シラズ
ナヒキコシ袂ノ浦ノカヒシアラハ 千鳥ノ跡ヲタヘストハナン
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
靡(なびき)き越し袂(たもと)の浦の甲斐しあらば千鳥の跡を絶えずとはなむ
「カヒ」は甲斐と貝を掛けていよう。]
龍 口 寺
寂光山ト號ス。腰越村ノ末ニアリ。日蓮ノ取立タル寺ニテ、初ヨリ開山ナシ。祖師堂ニ首ノ座ノ石アリ。石ノ籠モアリ。日蓮難ニ遭ヒシハ文永八年九月十二日ト云リ。七坊アリ。七ヶ寺ヨリ輪番ニ勤之(之を勤む)。七坊、妙傳寺〔比企谷ノ末〕、本成寺〔身延ノ末〕、本立寺〔比企谷ノ末〕、法玄寺、勤行寺〔玉澤ノ末〕、東漸寺〔中山ノ末〕、是ナリ。外ニ常立寺ト云アリ。悲田派武藏ノ碑文谷ノ末ナリ。近ゴロ公事有テ、今ハ輪番ニ入ラズ。本堂ニ日蓮ノ木像アリ。番神堂ハ松平飛騨守利次室再興也。
龍口明神
寂光山ノ東邦ニアリ。昔五頭龍王アリ。人ヲ以テ牲トセシニ、江嶋ノ辨才天女夫婦ノ契アリテヨリ、龍口明神ト祭ルトナリ。
片 瀨 川
藤澤海道ノ南へ流出ル小川也。駿河次郎淸重討死ノ所也。東鑑ニ片瀨ノ在所ノアタリニテハ片瀨トイフ。石上堂村ノ前ニテハ石上川ト云。
中務卿宗尊親王
歸來テ又見ンコトハカタセ川 ニコレル水ノスマヌ世ナレハ
海道宿次百首 參議爲相
打ワタス今ヤ汐干ノカタセ川 思ヒシヨリモ淺キ水カナ
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
歸り來て又見ん事もかたせ川濁れる水の澄まぬ世なれば
將軍職を辞任し、本意ならず帰洛した際の歌とされる哀傷歌である。
打ち渡す今や潮干(しほひ)の片瀨川思ひしよりは淺き水かな]
西行見歸松〔又西行戻(モドリ)松云〕
片瀬村へユク路邊ノ右ニアリトナン。此所迄西行來シガ、是ヨリ歸タリト云。
笈 燒 松
片瀨村ヨリ南へ行道アリ。此所ヨリ出、六町程ユキテ在家ノ後ロノ竹藪ノ際ニアリトナン。駿河次郎淸重ガ笈ヲ燒シ所ナリト云。
唐 原
片瀬川ノ出崎、海ノ方、東南ノ原ヲ云。
夫木集 藤原忠房
名ニシオハハ虎ヤ伏ラン東野ニタツトイフナルモロコシカハラ
同集 讀人不知
遙カナル中コソウケレ夢ナラテ 遠ク見ユケリ唐カ原
[やぶちゃん注:最初の和歌の「タツ」は二字で「有」の草書の誤写であろう。和歌を読み易く書き直しておく。
名にし負はば虎や伏すらむ東野(あづまの)に有りと云ふなる唐(もろこし)が原
遙かなる中こそ憂(う)けれ夢ならで遠く見にけり唐が原
後者は「夫木和歌抄」では「唐が原」が「唐の原」である。]
砥上原〔又砥身原トモ科見原トモ書ト云〕
片瀬ヨリ西ニ當リテアリ。
長明海道記
ヤツマツノヤ千代ノカケニ思ナシテ トカミカ原ニ色モカハラシ
里俗西行ノ歌トテ語シハ
浦近キトカミカ原ニ駒トメテ 片瀨ノ川ノ汐干ヲソマツ
立カヘル名殘ハ春ニ結ヒケン トカミカ原ノクスノ冬哉
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
八松(やつまつ)の八千代の蔭に思ひなして砥上(とがみ)が原(はら)に色も變らじ
長明入鎌直前の嘱目吟とされる歌である。
浦近き砥上原が原に駒とめて片瀨の川の汐干(しほひ)をぞ待つ
立ち歸ヘる名殘(なごりは春に結びけむ砥上が原の葛(くず)の冬枯(が)れ
但し、前者は後世の西行仮託作「西行物語」所収のもの、後者は西行の作ではなく、冷泉為相の和歌である(嘉元元(一三〇三)年頃に編せられた「為相百首」に所収する)。]