耳嚢 巻之五 強氣にて思わざる福ひを得し者の事
強氣にて思わざる福ひを得し者の事
芝居役者中嶋勘左衞門が弟子に中嶋國四郎といふ者有しが、男ぶりはいかにも大きく、實惡には打(うち)つけの男成しが、藝は殊の外下手にて、暫く狂言にも出しかども、江戸にても誰有(たれあつ)て看る者もなかりしが、ひと年山下金作と心安くやありけん、金作に付て大坂へ登りしが、大坂道頓堀芝居にて座附きの口上など述(のべ)しに、彼(かの)大坂の笹瀨手打(ささせてうちれん)連中などいへる立衆(たてしゆ)も、江戸なまり面白なしなど色々惡口(あくこう)くちぐち成(なり)しが、能々の事にもありけん、翌日も同樣にて彼(かの)棧敷(さじき)に來り居し町方掛りの者よりも、鎭り侯樣聲を懸け候位(ぐらい)也し由。國四郎も芝居濟て宿へ歸りしが、今日の如くにては誠に芝居面(つ)ラ出しもならず、大坂へ居候(きよしさふらふ)事は難成(なりがたく)、江戸へ歸りても最早役者は成らざる事と十方(とはふ)にくれ、兼て日蓮宗にありしが一夜に水を三拾度沿びて一心に鬼子母神(きしもじん)を祈り、扨翌日は彼舞臺へ出る時、兼て所持せし脇差を密(ひそか)に持(もち)て出端(でば)に至り、例の通(とほり)舞臺へ出しに、案のごとく口々の惡たひきのふに增りし樣子也ければ、國四郎舞臺の中に立上り、此間中(うち)よりの惡口、我等は芝居者なれば何樣いわれたり共其通りの事也、然るに江戸なまり面白なしなどと存外の惡口、最早聞濟(ききずみ)難し、當時町御奉行勤(つとめ)給ふ御方も皆江戸表より來り給ふ。御奉行所へ出て御吟味の節江戸なまり面白なしといわるゝや、江戸を誹(そし)りて萬人中(うち)の惡口、我身のみならねば最早堪忍成難(なりがた)し、口計(ばかり)にては如何樣(いかさま)にもいわるべし、惡口申せし人何人(なんぴと)にても相手にならん、是(これ)へ出給へと兩肌をぬぎ尻を七の圖(づ)迄からげて呼(よばは)りければ、始のぎせいに似ず、誰(たれ)あつて答ふる者なし。芝居抔も身を捨ての勢ひ故手を附ず、此上如何取鎭(とりしづま)るべき哉(や)と思ひしに、大坂にて重立(おもだち)候町人其外立衆仲間の親分立出(たちい)で、國四郎申(まうす)處逸々(いちいち)尤也、扨々氣味のよき男也(なり)、何分我らにめんじて免し給へと割(わり)を入て、其(その)幕を引て、國四郎は男也(なり)と是より贔屓(ひいき)の者多く、翌日より國四郎への積物進物(つみものしんもつ)日毎にて、左(さ)迄もなき役者、右の一事故(いちじゆへ)評判よく大當り也(なり)し。夫(それ)に付(つき)おかしき事は、鴻の池とやらん鹿嶋やとやらんより、右國四郎を呼て、氣味よき男也、酒を呑めとて酒を振舞ひ、肴に貮百兩計(ばかり)の沽券(こけん)を可遣(つかはすべし)といひしが、國四郎義沽券といふ事を不知(しらず)、酒の肴ならば鯛にても何にても可差出(さしいださるべし)、沽券とやらはいらざる由答けるを、扨々欲心のなき男也と彌(いよいよ)賞翫されしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:実悪向き狂言(歌舞伎)役者(但し、先は実悪の名人、こっちはがたい葉は実悪向きながら芝居は大根)で連関する技芸譚。
・「福ひ」は「さいはひ」と読む。
・「中嶋勘左衞門」三代目中島勘左衛門(元文三(一七三八)年~寛政六
(一七九四)年) の誤り。二代目の子。江戸生。三代中島勘六を経て、宝暦一二(一七六二)年に三代勘左衛門を襲名、江戸を代表する敵役(かたきやく)として重きをなした。屋号は中島屋(以上は講談社「日本人名大辞典」を参照した)。
・「中嶋國四郎」底本の鈴木氏注に『後に和田右衛門と称す』とある。寛政六年五月の桐座興行「敵討乗合話」での中島和田右衛門と中村此蔵を描いた、東洲斎写楽の「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権」の浮世絵があるが、この右手の瘦せた中島和田右衛門が本話の主人公「中嶋國四郎」か? 識者の御教授を乞うものである(リンク先は「アダチ版画研究所」のサイトの販売用当該作品ページ)。
・「山下金作」(享保一八(一七三三)年~寛政一一(一七九九)年)初代中村富十郎の門人中村半太夫として活動を始め、寛延二(一七四九)年、前年引退した初代金作の養子となって二代目を襲名した。以後、上方と江戸を往来、地芸、特に濡れ事にすぐれた色っぽい若女形として人気があり、後年は女武道や敵役もよくした。当たり役の一つに八百屋お七があるが、この役で使った笄(こうがい)を象った「金作花笄(はなこうがい)」が売り出されて流行した。丸々と肥った大柄な体格に特徴があった。金作の名前は若女形として明治一〇年代まで続いた。屋号は天王寺屋(以上は「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。
・「座附きの口上」観客への一座新規参入の披露の挨拶。
・「笹瀨手打連中」「手打連中」とは歌舞伎用語で、上方に古くあった御贔屓筋の集団。所謂、いっちゃってるファン組織である。顔見世のときには一座の俳優に進物を贈り、茶屋の軒には連中の印のある箱提灯をかけた。揃いの頭巾を被っており、呼称は奇妙な拍手を打ったことに由来する。中でも享保から安永にかけて(一七一六年~一七八一年)大坂で次々に生まれた「笹瀬」「大手」「藤石」「花王(さくら)」という、所謂、四連中が有名である。「見連(けんれん)」「組」「組見(くみけん)」とも呼ぶ(以上は平凡社「世界大百科事典」を参照した)。
・「立衆」「伊達衆・達衆」で「たてしゅう」「だてしゅう」「だてし」とも読む。通人、粋人。但し、そうした連中と部分集合を作り易い侠客の意でも用いられる。
・「彼(かの)棧敷」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『役座敷(やくざしき)』とあり、長谷川氏注に『役人のために設けた桟敷』とあって、後述部分との整合性もよいので、現代語訳ではそちらを採った。
・「十方(とはう)」は底本のルビ。途方。
・「兼て日蓮宗にありしが一夜に水を三拾度沿びて一心に鬼子母神を祈り」日蓮は、十羅刹女(じゅうらせつにょ)とともに、仏教の天部における十人の諸天善神の女性鬼神の中でも特に鬼子母神を法華経の守護神として大曼陀羅の中に勧請し、重視していた。
・「出端」出場。役者の登場する場やタイミング。
・「惡たひ」底本では右に『(惡態)』と傍注する。
・「いわるゝ」「いわる」はママ。
・「七の圖」「七の椎」とも書く。尻の上部。背骨の大椎(東洋医学では背骨ではっきりと視認で最上部の隆椎とも呼ばれる第七頸椎)から数えて第七椎と第八椎の間辺り。丁度、尻の上辺りに相当する。
・「ぎせい」「きせい」で気勢のこと。
・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。
・「積物」歌舞伎興行の際に祝儀の酒樽や俵物などを積み重ねて飾ったもの。
・「鴻池」江戸時代の豪商として知られた大坂の両替商鴻池家(今橋鴻池)当主、鴻池善右衛門。家伝によれば摂津伊丹の酒造業者鴻池直文の子善右衛門正成が大坂で一家を立てたのを初代とし、明暦二(一六五六)年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥ともいうべきものを形成、歴代当主からは茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる(以上はウィキの「鴻池善右衛門」を参照した)。登場人物の生没年から推すと、六代目鴻池善右衛門であろう。
・「鹿嶋や」加島屋。大名貸で鴻池家と並び称された大坂の豪商。寛永の頃から大坂御堂前で米問屋を始め、両替商も兼営した。のちに十人両替(大坂で両替屋仲間の統制・幕府公金の出納・金銀相場の支配などにあたった十人の大両替屋のこと。十人組とも)に任命されている(以上はウィキの「加島屋(豪商)」を参照した)。岩波の長谷川氏注には『久右衛門諸家あり』とある。
・「沽券」「沽」は売るの意で、土地・山林・家屋等の売り渡し証文のこと。そこから転じて、人の値うち・体面・品位の意で「沽券に係わる」と使う。
■やぶちゃん現代語訳
強気に出でて思わぬ幸いを得た者の事
江戸の芝居役者中島勘左衛門が弟子に中島国四郎と申す者があったが、男ぶりは如何にも大きく、実悪には打ってつけの男であったが、芸は殊の外――これ、下手であった。
暫く狂言の舞台にも出ておったものの、江戸にては、これ、誰(たれ)一人褒むる者もなき故、上方で女形として知られておった山下金作――どうも国四郎は、かの者と親しゅうしておったようじゃが――この金作について、大阪へと上った。……
ところが、大阪道頓堀の芝居にて、座付きの口上を述べたところが、大阪の笹瀬手打連中(ささせてうちれんじゅう)なんどと呼ばるるところの、かの奇体な贔屓筋の立衆(たてしゅ)どもが、
「あほんだら! なんや! それ!」
「江戸訛りは――面白う――ないわい!」
「そや! そや!」
「……さ、が、っ、て、も、ら、い、ま、ひょ、か……」
と、色々の悪口(あっこう)、まあ、これ、賑やかなこと!
翌日も全く変わらず、あまりの罵声と騒動に、たまたま役桟敷(やくさじき)に観察に来ておった町方の役人の者からも、度を越した理不尽ならんと、
「いいかげんにせんか! ちいと、鎮まれ!」
と、注意が飛んだほどであったと申す。……
……国四郎、芝居が済んで、宿へ帰ってはみたものの、
「……今日のようなていたらくじゃぁ……そもそもが芝居にひょいと面(つら)ぁ出すも、ままなんねぇ……こんな調子じゃぁ、大阪で役者としてやってくてぇのは、とてものことに、難しい……かと言って……江戸へ帰ぇても、これ、最早……役者で食っていくってぇは……あり得ねぇ……」
と途方に暮れ、かねてより宗旨は日蓮宗にて御座ったれば、その夜、一晩に水を三十度も浴びて、一心不乱に鬼子母神(きしもじん)を祈請致いた。……
さて翌日、国四郎、かの舞台へ出ずる時、かねてより所持致いて御座った脇差しを密かに懐中に刺して、出番に至って、何時もの通り、舞台に上がった。
されど、察した通り、口々の悪態、昨日に増して、ひどい有様なれば、
――国四郎!
――舞台の真ん中に!
――隆々と立ち上がり!
「――この間(あいだ)うちよりの悪口! 我らは芝居者なれば――拙なる芝居に何様(なにさま)言われたりとも、これ、言わるるまま――その通りじゃ!……然るに、『江戸訛り、面白うない!』なんどとは、存外の悪口! 最早、これ、聴き捨てならん! 今時(こんじ)、町奉行を勤め給う御方も、これ皆、江戸表より来たり給う! さても、うぬら、御奉行所へ出でて、御吟味の最中(さなか)、御奉行様に向こうて、『江戸なまり、面白うない!』とのたもうかッ?! これ――我らのみならず――江戸者への罵詈雑言と心得たッツ! 最早、これ、堪忍成り難し! 口ばかりにては、如何様(いかさま)にも申そうず! 悪口申した御仁! 何人にても相手にならん! ここへ出で給えッツ!……」
――と
――諸肌脱いで!
――尻を七の図(ず)までからげて呼ばわった!……
「…………、…………、…………」
――と
……さっきまでの気勢はどこへやら……
……誰(たれ)一人として答ふる者……これ、ない。……
……舞台におった他の役者どもも、これ、国四郎の、身を捨てたる勢いに、すっかり呑まれてしもうて、どうにも手出し出来ずなって、ただ氷の如、立ち尽くすばかり、
『……この上……一体……如何にして場を鎮むること……出来ようかのぅ……』
と恐々と致いて御座った。……
――と
……大阪にても顔役と知らるる者やら……その他の立衆連(たてしゅれん)の親分さんが、静かに舞台へと立ち出でて、
「……国四郎の申すところ、これ、いちいち尤もなことじゃ!……さてさて、なんとも小気味よい男やないかい!……国四郎はん……わてらに免じて、ここは一つ、あんじょう、許しておくんない!」
と詫びを入れて、満座を収め、幕が引かれたと、申す。……
さても、このかた、
「国四郎は――男やで!」
と贔屓する者、これ、後を絶たず、翌日よりは、国四郎への積み物・進物(しんもつ)、これ、日毎に山を成す盛況にて――さまで大した役者にてもなきに――かの一件を以って――大当たり致いて御座ったと、申す。……
さて最後じゃ。
こうなってからの国四郎につき、面白きことを添えおくことと致そう。……
……鴻池(こうのいけ)とやらん、加島とやらん、かの大阪の豪商が、この国四郎を呼んで、
「まっこと、気風(きっぷ)のよき男やの! まあ、酒、呑めや!」
と、宴を設けて酒を振る舞(も)うた際、
「……一つ、どや?……酒の肴に――二百両ばかりの沽券(こけん)――これ、やりましょか?」
と申したところが――当の国四郎――「沽券」の意味を知らなんだによって、
「――酒の肴ならば、鯛にても何にても、さし出ださるれば、これ、食わしてもらう……が……あの、沽券と申すものだけは……これ、勘弁しておくない!」
と申したを、
「……さてさて! まあ、なんと欲のなき――男やのう!……」
と、これまた、いよいよ褒め称えられた、とのことで、御座る。
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