一言芳談 二十九
二十九
法然上人或人にをしえて云、人の命はうまき物を、大口にくひて、むせてしぬる事もある也。しかれば南無阿みだ佛とかんで、南無阿みだ佛とて、ぐとのみ入(いる)べし。
〇法然上人、此御ことば御傳二十一にあり。無常のことわりにて、無間修の御すゝめなり。
龍舒居士云、凡起居飲食、語默動靜、皆不忘淨土(淨土を忘れざるときは)、則此身雖居五濁(五濁に居ると雖も)、而其心已在淨土(而も其の心、已に淨土に在り)。
[やぶちゃん注:しっかり咀嚼して、しっかりと飲み下すがよい、という実践的養生法のように見えるが、これは換喩であって、恐らくは「南無阿弥陀仏!」と唱えてしっかりと息を吸い、「南無阿弥陀仏!」と唱えてしっかりと息を吐きなさい、とも法然は言うはずである。
「南無阿みだ佛とて、ぐとのみ入べし」大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、「続群書類従」所収本では、
なむあみだ佛とのみ入るべし
となっている、とある(正字化して示した)。
「龍舒居士云、凡起居飲食、語默動靜、皆不忘淨土、則此身雖居五濁、而其心已在淨土」私の訓読で総てを書き下すと、
龍舒居士云はく、「凡そ、起居飲食(ききよおんじき)・語默動靜(ごもくどうじやう)、皆、淨土を忘れざるときは、則ち此れ、五濁に居ると雖も、而も其の心、已に淨土に在り。」と。
・「龍舒居士」(?~一一七三)は南宋の王日休(おうにっきゅう)のこと。
龍舒(現在の安徽省舒城(じょじょう))生れであったことから龍舒居士とも言った。 儒学に通じたが、後に浄土教に帰依、「浄土文(じょうどもん)」を編纂した。
・「起居飲食、語默動靜」眠っている時も、覚醒している時も、ものを飲み食いしている時も、喋っている時も、黙っている時も、動いている時も、静かに観想している時も、行住坐臥、如何なる瞬間にても、の謂い。]