一言芳談 二十八
二十八
又云、善導の御釋(おんしやく)を拜見するに、源空が目には、三心四修(さんじんししゆ)皆共に、南無あみだ佛と見ゆるなり。
〇法然上人云、是は口傳あることなり。
[やぶちゃん注:大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、この一条は国宝「法然上人行所絵図」の第二十一の外、複数の法然の叙述に現われることが詳述されている。注にある「口傳」とは奥義を伝えた文書や書物、秘伝書の謂いで、これらの文書のこと指していよう。
「御釋」国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元(一六四八)年林甚右衛門板行版「一言芳談抄」二巻本現物画像では「尺」である。底本Ⅰに準じた。これは善導が撰述した「仏説観無量寿経」の注釈書である「観無量寿経疏」(かんむりょうじゅきょうしょ)を指す。
「源空」は法然自身の諱。因みに法然は房号である。
「三心四修」「三心」は、念仏信仰で浄土に生れるための至誠心・深心(しんじん)・回向発願心(えこうほつがんしん)の三つの信心(安心(あんじん)とも)を指す。「至誠心」とは誠心を以って素直に阿弥陀仏の「誠心」を受け止める心、「深心」は己の凡夫たることを知り(機の信心)、弥陀の四十八誓願の教えを深く信ずること(法の信心)。「回向発願心」は以上を得て、阿弥陀仏と向き合って自らの極楽往生への願を発すること。次の「四修」とは恭敬修(くぎょうしゅ)・無余修(むよしゅ)・無間修(むけんしゅ)・長時修(ぢょうじしゅ)という念仏の正しい称え方や保ち方を指す。「恭敬修」は恭しく敬った心を持って、「無余修」は雑念をなくして、「無間修」何時でも何処でも、「長時修」は生涯かけて、念仏を修せよとの謂いである(大阪府高槻市の浄土宗光松寺(こうしょうじ)のHPにある「仏教質問箱」の記載を参考にさせて戴いた)。
「法然上人云」Ⅰでは組み直されて「念佛」のパートに離れて出るため、名前が出ている(以降は同様のケースがあっても煩瑣なので原則、省略する)。]