北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート1〈富士の巻狩り〉
富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討
[やぶちゃん注:本話は二部に分けて注する。従って本来は本文は続くものであることを注意されたい。]
同四年五月十六日右大將賴朝卿富士野藍澤(あゐざは)の夏狩(なつかり)を見給ふ。五間(けん)の假屋に賴朝、若君旅館として、御家人同じく軒を連ねて假屋(かりや)を作る。若君初て鹿を射さしめ候ふ。愛甲三郎季隆は物逢(ものあひ)の故實を存ずる上、折節近く、御眼路(がんろ)に候(こう)ず。若君の放ち給ふ所の矢過(あやま)たず鹿に中(あたつ)て羽(は)ぶくらをせめて立ちたり。究竟(くつきやう)の矢壺(やつぼ)なれば、一矢にて留(とゞ)まる。賴朝感悦(かんえつ)淺からず、山神に祭り、梶原平次景高を鎌倉に遣(つかは)して、御臺所政子の御方へ申さしめらる。御臺更に御感なし。「武將の嫡子として、野山の鹿鳥を射取りたるは珍しからず。楚忽(そこつ)の早使(はやづかひ)こそ氣疎(きうと)けれ」と宣ふに、景高面(おも)なくて歸りまゐりぬ。二十七日の未明(びめい)より勢子(せこ)を催し狩り給ふに、各(おのおの)手を盡して藝を顯(あらは)す。一日狩暮して、明日は卷狩(まきがり)あるべしと定めらる。
[やぶちゃん注:〈富士の巻狩り〉
本話全体は富士の牧狩りと、そこで起こった有名な曾我の仇討ちの一件を記したもので、「吾妻鏡」からは、前半部に巻十三の建久四(一一九三)年五月十五日・十六日・二十二日・二十七日の条が、後半の仇討ちのシーンは、同五月二十八日・二十九日及び六月七日の条が参照されている。本話はこの前後に分けて注することとする。
「富士野藍澤」現在の御殿場市新橋鮎沢(あゆざわ)。
「五間」約九メートル。
「若君」頼家。当時、満十二歳。
「愛甲三郎季隆」愛甲季隆(あいこう/あいきょうすえたか ?~建保元(一二一三)年)は相模国愛甲郡愛甲荘(現在の神奈川県厚木市愛甲)の武将。弓射に優れ、将軍随兵や正月の御的始の射手を務めており、元久二(一二〇五)年に起った畠山重忠の乱の二俣川の戦いでは、武勇の誉れ高かった重忠に矢を的中させて首級を取り、幕府軍大将北条義時に献上している。建保元(一二一三)年の和田合戦で義盛方に与して敗北、兄義久ら一族と共に討ち死にした(以上はウィキの「愛甲季隆」に拠る)。
「物逢」射芸用語で、射手が的に向かった際の作法のこと。
「御眼路に候ず」頼家公の間近にお控えし、その微妙な物逢いについて助言申し上げた、という意であろう。
「羽ぶくら」底本頭注には『羽ぶくらの所まで』とある。「羽ぶくら」とは矢羽のこと。矢の後尾に附いた羽根。羽房(はぶさ)とも言う。
「せめて立ちたり」矢が鹿の体の矢羽の根元まで喰い込んだことを言う。
「究竟の矢壺」射どころとして一撃必死の最も的確な部位。
「梶原平次景高」(永万元(一一六五)年~正治二(一二〇〇)年)梶原景時次男。長男景季の実弟。一ノ谷の戦いの緒戦であった生田の森の戦いでは父の制止をきかずに平家の陣に先駆けして奮戦した名将。駿河狐崎(きつねがさき)での在地御家人と戦いにより、一族とともに討死した。
「御臺更に御感なし」多くの方はここに不審を抱かれるであろう(「氣疎けれ」とは、疎ましく不快だ、といった謂いである)。しかし、これは「吾妻鏡」を仔細に読んでゆくとよく分かるのである。以下で検証してみよう。まず、この前日建久四(一一九三) 年五月十五日の記事から。
〇原文
十五日庚辰。藍澤御狩。事終入御富士野御旅舘。當南面立五間假屋。御家人同連詹。狩野介者參會路次。北條殿者豫被參候其所。令献駄餉給。今日者依爲齋日無御狩。終日御酒宴也。手越黄瀨河已下近邊遊女令群參。列候御前。而召里見冠者義成。向後可爲遊君別當。只今即彼等群集。頗物忩也。相率于傍。撰置藝能者。可随召之由被仰付云々。其後遊女事等至訴論等。義成一向執申之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日庚辰。藍澤の御狩、事終りて、富士野の御旅舘に入御す。南面に當りて五間の假屋を立つ。御家人同じく詹(のき)を連らぬ。狩野介は路次に參會す。北條殿は、豫(あらかじ)め其の所へ參候せられ、駄餉(だしやう)を献ぜしめ給ふ。今日は、齋日(さいにち)たるに依つて、御狩無く、終日御酒宴なり。手越(てごし)・黄瀨河(きせがは)已下、近邊の遊女群參せしめ、御前に列候す。而かうして里見冠者義成を召し、「向後は遊君の別當たるべし。只今、即ち彼等群集す。頗る物忩(ぶつそう)なり。傍(かたはら)に相ひ率して、藝能者を撰び置き、召に随ふべし。」との由、仰せ付らると云々。
其の後、遊女の事等、訴論(そろん)等に至るまで、義成、一向に之を執り申すと云々。
・「狩野介宗茂」(生没年未詳)後半で曾我兄弟に討たれる工藤祐経の叔父工藤茂光(?~治承四(一一八〇)年)の子。
・「駄餉」簡易の弁当。
・「齋日」六斎日(ろくさいにち)。仏教の殺生戒に基づく斎日の一つ。月の内で八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日がそれに当たる。ここは十四日であった。
・「手越」現在の静岡市駿河区手越。次の「黄瀨河」とともに東海道の宿場町として栄えた。
・「黄瀨河」現在の沼津市大岡木瀬川。
・「里見冠者義成」(保元二(一一五七)年~文暦二(一二三四)年)は新田義重の長男里見義俊(里見氏の祖)の子で頼朝の寵臣であった。それにしても遊女担当別当職として遊女関連訴訟まで総てを任されるというのは――何ともはや。漁色家であった頼朝の羽目の外し具合がよく分かる場面である。そうして、これが、間違いなく政子にバレていたのである(因みにこれは政子の憶測ではなく、彼女に繋がる密告ルートが頼朝の身辺に必ずや存在したものと私は見ている)。これが続く政子不機嫌の元凶と考えて、これ、間違いない。
以下、翌日の条の冒頭。
〇原文
十六日辛巳。富士野御狩之間。將軍家督若君始令射鹿給。愛甲三郎季隆本自存物達故實之上。折節候近々。殊勝追合之間。忽有此飲羽云々。尤可及優賞之由。將軍家以大友左近將監能直。内々被感仰季隆云々。此後被止今日御狩訖。屬晩。於其所被祭山神矢口等。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日辛巳。富士野の御狩の間、將軍家督の若君、始めて鹿を射しめ給ふ。愛甲三郎季隆、本より物逢ひの故實を存ずるの上、折節近々に候じ、殊勝に追い合はすの間、忽ち此の飲羽(いんう)有りと云々。
尤も優賞に及ぶべしの由、將軍家、大友左近將監能直を以て、内々に季隆に感じ仰せらると云々。
此の後、今日の御狩を止められ訖んぬ。晩に屬して、其の所に於いて山の神・矢口(やぐち)等を祭らる。江間殿、餠を献ぜしめ給ふ。(以下略)
・「飲羽」本文の「羽ぶくらをせめて立ちたり」に同じ。
・「矢口」狩り場の口開けに初めて矢を射たり射た後に行った神事や儀式を言う。
その翌日の条。
〇原文
廿二日丁亥。若公令獲鹿給事。將軍家自愛餘。被差進梶原平二左衞門尉景高於鎌倉。令賀申御臺所御方給。景高馳參。以女房申入之處。敢不及御感。御使還失面目。爲武將之嫡嗣。獲原野之鹿鳥。強不足爲希有。楚忽專使。頗有其煩歟者。景高歸參富士野。今日申此趣云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿二日丁亥。若公、鹿を獲らしめ給ふ事、將軍家、自愛の餘り、梶原平二左衞門尉景高を鎌倉へ差し進ぜられ、御臺所の御方に賀し申さしめ給ふ。景高、馳せ參じ、女房を以つて申し入るの處、敢へて御感に及ばず、御使、還つて面目を失ふ。「武將の嫡嗣(ちやくし)として、原野の鹿鳥を獲るは、強ちに希有と爲るに足らず。楚忽(そこつ)の專使、頗る其の煩ひ有るか。」てへれば、景高、富士野へ歸參、今日、此の趣を申すと云々。
・「二十七日の未明より勢子を催し狩り給ふに、各手を盡して藝を顯す。一日狩暮して、明日は卷狩あるべしと定めらる」ある面で、政子の一喝がポジティヴな前半が、この日から実は「吾妻鏡」の叙述では急速に不吉に暗転し、奈落への陰風が吹きすさんでゆくのである。それを見よう。
二十七日の条。
〇原文
廿七日壬辰。未明催立勢子等。終日有御狩。射手等面々顯藝。莫不風毛雨血。爰無雙大鹿一頭走來于御駕前。工藤庄司景光〔著作與美水干。駕鹿毛馬。〕兼有御馬左方。此鹿者景光分也。可射取之由申請之。被仰可然之旨。本自究竸射手也。人皆扣駕見之。景光聊相開而通懸于弓手。發射一矢不令中。鹿拔于一段許之前。景光押懸打鞭。二三矢又以同前。鹿入本山畢。景光弃弓安駕云。景光十一歳以來。以狩獵爲業。而已七旬餘。莫未獲弓手物。而今心神惘然太迷惑。是則爲山神駕之條無疑歟。運命縮畢。後日諸人可思合云々。各又成奇異思之處。晩鐘之程。景光發病云々。仰云。此事尤恠異也。止狩可有還御歟云々。宿老等申不可然之由。仍自明日七ケ日可有巻狩云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日壬辰。未明、勢子等を催し立て、終日御狩有り。射手等、面々に藝を顯はす。風毛雨血ならずといふこと莫し。爰に無雙の大鹿一頭、御駕の前に走り來たる。工藤庄司景光〔作與美(さゆみ)の水干を著(き)、鹿毛馬に駕す。〕、兼ねて御馬の左方に有り。「此の鹿は景光が分なり。射取るべし。」の由、之を申し請くるに、「然るべし。」の旨を仰せらる。本より究竸の射手なり。人皆、駕を扣(ひか)へて之を見る。景光、聊か相ひ開きて、弓手(ゆんで)に通し懸け、一の矢を發ち射るに中らしめず。鹿、一段許りの前に拔きんづ。景光、押し懸けて鞭を打つ。二三の矢、又、以つて前に同じ。鹿は本の山に入り畢んぬ。景光、弓を弃(す)て、駕を安んじて云はく、「景光、十一歳より以來(このかた)、狩獵を以つて業(わざ)と爲す。而して已に七旬餘、未だ弓手に物を獲(え)ずといふこと莫し。而るに今、心神惘然(ばうぜん)として太だ迷ひに惑ふ。是れ、則ち山神の駕たる條、疑ひ無からんか。運命、縮(しじ)まり畢んぬ。後日、諸人思ひ合はすべし。」と云々。
各々又、奇異の思ひを成すの處、晩鐘の程、景光發病すと云々。
仰せて云はく、「此の事、尤も恠異なり。狩りを止め、還御有るべきか。」と云々。
宿老等、然るべからざるの由を申す。仍つて明日より七ケ日、巻狩有るべしと云々。
・「勢子」底本に『鳥獸を狩出す列卒』と頭注する。
・「作與美」「貲布・細布」とも書き、音変化して「さいみ」とも読む。織り目の粗い麻布。夏衣や蚊帳などに用いた。
・「惘然」「呆然」に同じい。気が抜けてぼんやりしている状態を言う。
・「宿老等然るべからずの由を申す」ここは非常に気になるところである。景光の言う通り、山の神の載った鹿を射てしまったのだったとするなら、これはヤマトタケルの故事と同じで、とんでもない凶事である。従って頼朝の命に従うなら、即日、鎌倉へ帰ることになったはずである。それは至当である。しかし、だとすると木曾兄弟の仇討ちは未遂に終わった可能性が強烈に高まる。この牧狩り続行を進言した宿老は(誰だかは不明)、実は木曾の仇討ちを知っていた木曾兄弟所縁のシンパサイザーであったのではないかという疑いを私は払拭出来ないのである。]