鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 光明寺/道寸城
光 明 寺
山門ニ天照山ト勅額アリ。本堂ニ勅謚記主禪師ト額アリ。武藏守平經時建立。開山記主、號ハ然阿、諱ハ良忠。詳ニ記主ノ傳記アリ。佛殿ニ阿彌陀三尊、運慶作也。腹ノ内ニ道慶作記主自作ノ木像有。寺領十貫文アリ。
寺寶
大名號〔長さ九間、文字の内は八間アリ。幅九尺アリ。弘法筆ト云。古ハ房州ノ金胎寺ノ什物ナリシガ、一亂ノ時奪取テ此寺ニ納トナリ。〕
[やぶちゃん注:「房州の金胎寺」とは現在の関東三大厄除け大師の一つ、通称遍智院小塚大師、正式名曼茶羅山金胎寺遍智院のことか。弘法大師自らが弘仁六(八一五)
年に創建したと伝えられる知られざる名刹。但し、現在の住所は館山市大神宮で、「新編鎌倉志卷之七」に載せる「佐野」とか「砂場」という地名を見出し得ない(今考えるに、この『弘法、佐野の砂場(スナバ)にて下書(シタガキ)をかゝれたり。故に佐野の名號と云ふと也』という「砂場」は固有名詞ではなく、砂地を使って、の謂いかも知れない)。識者の御教授を乞う。]
菅相公硯 一面
松陰硯 一面
〔裏ニ永享五年十二月廿五日トアリ。法然ヨリ聖光へユヅリ、聖光ヲリ紀主へユヅリテ今ニアリ。紀主ノ添帖アリ。〕
[やぶちゃん注:「永享五年」西暦一四三四年。足利持氏の永享の乱(永享一〇年)のきな臭さが臭い始めた頃である。]
二位殿硯 一面
阿彌陀畫 四幅 トモニ惠心筆
中將姫繡阿彌陀像 一幅
當麻曼荼羅緣起 二卷
〔字ハ勅筆カト云。畫ハ土佐筆ナリ。〕
法然名號 一幅
同筆三部經 三卷
法然影 一幅〔聖光筆〕
記主自筆弟子〔江〕讓状 一通
記主影〔鏡ノ影ト云。自畫ナリ。〕一幅
十九羅漢像〔唐筆、信忠筆ト云傳フ〕
南岳袈裟 一ツ
傳通院開山了譽ノ十八通
祈禱堂阿彌陀 一軀 運慶作
魂室ノ阿彌陀 一軀
定朝作、惠心ト同時ノ人、俗名ヲサダトモト云シ人ナリ。
[やぶちゃん注:「魂室」不詳。「新編鎌倉志卷之七」の「光明寺」の「祈禱堂」の本尊とするものかともと考えられるが(但し、ここでも後掲される「内藤帶刀忠興一家の菩提所」に、その『靈屋に阿彌陀、如意輪の像を安ず。阿彌陀は定朝が作』ともある)、但し、その何れにも「魂室」の文字はない。字面から本尊と同様の胎内仏のように読めるが……識者の御教授を乞う。]
善導直作木俊 一軀
衣ノ上ニ金字ニ阿彌陀經ヲ書テアリ。
江嶋辨才天木像 一軀
[やぶちゃん注:ここに何故江の島弁財天像があるかは、「新編鎌倉志卷之七」の「光明寺」の「祈禱堂」に経緯が記されてある。]
山ニ善導ノ墓アリ。寺内ノ南ニ、内藤帶刀忠興室ノ菩捏所アリ。
[やぶちゃん注:「内藤帶刀忠興室ノ菩捏所」の「室」は不要。「新編鎌倉志卷之七」で注したが、特に再注する。私はかつてここが好きでたびたび訪れたものだった。初代日向延岡藩主内藤忠興が十七世紀中頃に内藤家菩提寺であった霊岸寺と衝突、光明寺大檀家となってここへ内藤家一族の墓所を移築したものである。実際には現在も光明寺によって供養管理されているが、巨大な法篋印塔数十基を始めとして二百基余りの墓石群が、鬱蒼と茂る雑草の中に朽ち果てつつある様は、三十数年前、初めてここを訪れた私には真に「棄景」というに相応しいものであったのである。]
道 寸 城
三浦道寸義同ガ古城、光明寺ノ南隣ノ山ナリ。永正ノ比ニヤ、北條早雲ト戰ヒテ三浦荒井へ引寵リ、三年アリテ終討死ス。北條五代記ニ詳ナリ。別紙ニ圖アリ。小壺村ノ内ニモ古城山アリ。圖ニ見へタリ。此所ヨリ飯嶋ナドヲ望ミテ由比濱ヲ歸ル。
[やぶちゃん注:この図は現存しないのか? これがあれば、現在はほぼ完全に失われた住吉城址及び、ここに言うところの小坪の砦(若しくは住吉城に付随する城塞構造部)の如き遺構が分かるのであるが……。]

