鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 十一人塚/七里濱/金洗澤/腰越村
十一人塚
極樂寺ノ切通ヨリ七里濱へ出ル路邊ノ左ニアリ。昔新田義貞ノ勇士十一人、此所ニテ討死有シヲ、塚ニ築コメ上ニ十一面觀音堂ヲ立クル跡ナリト云。
七 里 濱
腰越へ行、北ハ山、南ハ海ナリ。濱ノ浪打際ヲ云也。關東道七里アリ。古へ戰場ニテ、人ノ死骨、或ハ太刀ノ折レ、具足ノ金物ナド、砂ニ交テ今ニアリ。
[やぶちゃん注:「關東道七里」既に示した通り、「關東道」は坂東里で一里は六町、六五四メートルであるから、四キロ五七八メートル。但し、例えば現在の稲村ヶ崎の突端を起点に、現在の海岸線を西に計測してみても、当該距離の到達点は新江ノ島水族館辺りになってしまう。現在の七里ヶ浜の全長は二・九キロメートルとされる。この齟齬について、例えばウィキの「七里ヶ浜」には、近年これについては、鶴岡八幡宮と腰越の間の距離を言っており、それを「浜七里」と呼んだのではないかという説が出されている、とある。これは密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門(南西)方向に七里の腰越までが浜七里だとし、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向の横浜市栄区に今も野七里という地名が現存する、とある。但し、八幡宮からこの野七里までの直線距離は関東里の七里に満たないが、間には険阻な丘陵があるので朝比奈切通しを経由すると若干遠回りになる、ともある(それで実測関東道で七里となるということか)。『これはまだ通説にはなっていないようだが、興味深い説である』と記されてある。]
金 洗 澤
七里濱ノ中程、海へ流出ル澤ナリ。行合川トモ云也。此所ニテ古ハ金ヲ掘タル故ニ金洗澤ト云。亦日蓮龍ノ口ニテ成敗ニ極テ、敷皮ニナヲリケル時、奇瑞多キニ因テ其由ヲ告ル使ト、鎌倉ヨリ時賴ノ赦免ノ使ト、此川ニテ行合タル故ニ行逢川トモ云ト也。此後ロノ谷ニ津村ト云地アリ。昔ノ津村ノ湊ト云是ナリ。
腰 越 村
江嶋ノ前ノ村也。嚴本院ノ縁起ニハ、昔江嶋ニ大蛇住テ人ヲ取タル故ニ、子死戀ト書クト云フ。〔戀、一作越〕此海ノ前へ出タル山ヲ八王子山ト云ナリ。海中へ指出タル松アリ。是ヲ常動松ト云フ。常ニ風波此岸ニアタル故ニ此松動クト云。
[やぶちゃん注:「嚴本院」の「嚴」は「巖」の誤り。
「常動松」初見。読み不詳。現在の「小動(こゆるぎ)」という地名の由来であるから、これで「こゆるぎ」と読ませているか。識者の御教授を乞う。]
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