芥川龍之介漢詩全集 二十二
二十二 甲
春 陰
似雨非晴幽意加
輕寒如水入窓紗
室中永昼香煙冷
簷角雲容簾影斜
靜處有詩三碗酒
閑時無夢一甌茶
春愁今日寄何處
古瓦樓頭數朶花
〇やぶちゃん訓読
二十二 甲
春 陰
雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意(いうい) 加はる
輕寒(けいかん) 水のごとく 窓紗(さうさ)に入る
室中(しつちう) 永昼(えいちう) 香煙(かうえん)冷(さむ)く
簷角(えんかく) 雲容(うんよう) 簾影(れんえい)斜(ななめ)なり
靜處(せいしよ) 詩有り 三碗(さんわん)の酒
閑時(かんじ) 夢無く 一甌(いちおう)の茶
春愁(しゆんしう) 今日(こんにち) 何處(いづく)にか寄す
古瓦(こぐわ) 樓頭(ろうとう) 數朶(すうだ)の花(はな)
二十二 乙
春 陰
似雨非晴幽意加
輕寒如水入窓紗
室中永昼香煙冷
簷角陰雲簾影斜
案有新詩三碗酒
牀無殘夢一甌茶
春愁今日寄何處
古瓦樓頭數朶花
〇やぶちゃん訓読
二十二 乙
春 陰
雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意 加はる
輕寒 水のごとく 窓紗に入る
室中 永昼 香煙冷く
簷角 陰雲 簾影斜なり
案ずる有り 新詩 三碗の酒
牀(しやう)する無く 殘夢 一甌の茶
春愁 今日 何處にか寄す
古瓦 樓頭 數朶の花
二十二 丙
春 陰
似雨非晴幽意加
輕寒如水入窓紗
室中永昼香煙冷
簷角重雲簾影斜
案有新詩三碗酒
牀無殘夢一甌茶
春愁今日寄何處
古瓦樓頭數朶花
〇やぶちゃん訓読
二十二 丙
春 陰
雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意 加はる
輕寒 水のごとく 窓紗に入る
室中 永昼 香煙冷く
簷角 重雲 簾影斜なり
案ずる有り 新詩 三碗の酒
牀する無く 殘夢 一甌の茶
春愁 今日 何處にか寄す
古瓦 樓頭 數朶の花
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
①「甲」は大正九(一九二〇)年三月二十二日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七五)
②「乙」は大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛(岩波版旧全集書簡番号六七七)
③「丙」は大正九(一九二〇)年三月二十二日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七八)
に所載する。①と③は同じ小島宛であり、「甲」を推敲したものを「丙」として示したものである。但し、次の引用から分かるように、この詩は最終句に小島の俳号である「古瓦」を詠み込んだ、一種の贈答詩であるからではある。それにしても、その他の以下の評言からは、龍之介にとってはこの七言律詩が相当な自信作であったことを窺わせる。
①では、冒頭、
古瓦樓の詩を一つ獻上
この詩蘇峯學人などよりうまいと思ふがどうでせう
七律が一つ出來ると甚得意です
とあり、また「二伸」(詩の前にある)では小島に
詩を讀む氣があつたら「絶句類選」と云ふものから御始なさい 好い絶句ばかり澤山集つてゐます 時代淸まであります よく行はれた本だから何處にでもありませう 高くつて二三円です(薄葉刷はもつと高い)安い活字本は五十錢位
と漢詩学習指南もしている。
・「蘇峯學人」はジャーナリスト徳富蘇峰(文久三(一八六三)年~昭和三二(一九五七)年)。彼は肩書に漢詩人とあるものもあり、漢詩の弟子として政治家後藤新平が挙がるほどである。
「絶句類選」津阪孝綽編輯、斎藤拙堂評語になる絶句類選評本。唐から清までの七絶三千首を、二十一類に分けて編集、欄外に簡単な批評文を添えた書。津藩の儒者津阪東陽(延享元・寛保四(一七四四)年~文政八(一八二五)年。孝綽は名)が文政七年に完成したものの、生前には刊行に至らなかったと思われ、子息の津阪有功らの手によって刊行に至ったのは死の三年後の文政十一年のことであった。
その後、同じ津藩の儒者斎藤拙堂(寛政九(一七九七)年~慶応元・元治二(一八六五)年。正謙は名)が主な詩に批評を書き加えた。この批評文を加えた書は、「絶句類選評本」として文久二(一八六二)年に刊行されたが、龍之介が所持し、小島に勧めているのは、恐らく明治一四(一八八一)年双玉書楼翻刻になる二冊本と思われる。本記載で参照した小林昭夫氏の「らんだむ書籍館」の「6」に画像と詳細な解説がある)。
・「薄葉刷」「うすようずり」と読む。薄手の鳥の子紙・雁皮紙で出来た江戸末期から明治初期の和書の装幀の一種。
②では、この前に「十九」を載せた後に既に述べた通り、
「實は夜原稿を書く爲ひるまくたびれて寢てゐる所だもう一つ序に披露する」
として本詩を掲げる。後に、
古瓦なる人間に寄せた春陰の詩だが井ノ哲先生の七律より少しうまいと云ふ自信がある如何もう一つ
として更に三つ目の詩「二十 乙」を載せて、これも既に述べたが、
どうもこんな事をして遊んでゐる方が小説を書くより面白いので困る
と記している。
・「井ノ哲」「いのてつ」と読む。国家主義者であった哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)の通称。東京帝国大学で日本人初の哲学教授(明治二十三(一八九〇)~大正一二(一九二三)年)となった(“metaphysical”の訳語「形而上」は彼になるもの)。文学史では近代詩集の濫觴として必ず覚えさせられる(読んでも頗る退屈な非詩的内容なのに)「新体詩抄」を、外山正一・矢田部良吉らとともに明治一五(一八八二)年に刊行、「孝女白菊詩」などの漢詩でも有名で、当時、現役の東大教授である。その彼より「少しうまい」とはこれ、龍之介のおちゃらけでは、毛頭、ないと言うべきである(以上はウィキの「井上哲次郎」を参考にした)。
③は、これ先に示したが、
題画竹の詩なぞきはどくつていけません 簾外松花落の五絶の方が遙に自信があります あの方が悠々としてゐると思ひませんか
と「十九」への自信を覗かせた直後に、
律は改めました
として③を配するのは、これ、我々が想像する以上の自信と読まねばなならぬ。最後に、
律の三、四句、五、六句は前後とも聯句だから一句だけ褒ちやいけません 褒めるなら一しよに御褒めなさい 一句だけぢや褒則貶に成るんだから作者は閉口します
どうも詩や俳句の方が小説を書くより氣樂で泰然としてゐて、風流なやうです
と記している。
・「褒則貶」は「ほうそくへん」と読んで居よう。毀誉褒貶からの造語。
これ、何だか人を小馬鹿にしたような謂いであるが、実は①の書簡の最後には詩の次行直下に「我鬼散人」とあって改行して「古瓦先生 淸鑒」とあるのであが、これは推測ながら、
小島は①の頷聯(三・四句)及び頸聯(五・六句)めの、それぞれの片句(若しくは一部)を、その返信で褒めたのではなかったろうか?
更に、龍之介が改めた箇所を見ると、小島が褒めた一箇所は、対句部分で唯一改稿しなかった頷聯の前句(四句目)、
簷角陰雲簾影斜
であったという推理が成り立つ。
なお、この最後の芥川の口ぶりは考えて見ると、詩人や俳人を売文とする連中への皮肉のニュアンスも感じられぬでもないが、寧ろ、それだけ、この時期の龍之介の産みの苦しみの甚だしかったことを、再度認識すべきではあろう。
「幽意」幽意閑情などと使い、幽遠で奥深く暗い静謐さをいう。
「永晝」日永。春の長い昼の間の意。
「簷角」軒の角。軒先。
「閑時 夢無く」邱氏は『目が覚めると』と訳しておられる。
「甌」こしき。土器製の甕(かめ)のような形のもので、上部が大きく、間がくびれてその下部は三脚又は四脚となっており、ものを煮るのに用いた。
「數朶の花」邱氏はこの尾聯(七・八句)は中唐の劉禹錫の「春詞」に影響されたものであろう、と注されておられる。「唐詩三百首」に載る。
春 詞
新粧宜面下朱樓
深鎖春光一院愁
行到中庭數花朶
蜻蜒飛上玉搔頭
〇やぶちゃん訓読
春 詞
新粧 面(おもて)に宜(よろし)く 朱樓を下る
深く春光に鎖ざす 一院の愁(しう)
行きて中庭に到り 花朶(かだ)を數ふ
蜻蜒(せいえん) 飛上(ひしやう)す 玉搔頭(ぎよくさうとう)
・「花朶を數ふ」恋の花占(はなうら)であろう。
・「蜻蜒」オニヤンマ等の大型のトンボ。
この龍之介の詩の尾聯は、詩人の「春愁」を寄せる対象を求め(「詩経」の昔から「有女懐春」である)ており、それを受けるとすれば、「春詞」のインスパイアから行間に花占が潜むであろう。邱氏もここを『古瓦楼頭で花びらを数えればわかるであろう』と訳されておられる。]