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2013/01/31

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(3)


Heikegani


[平家蟹]

 「へいけがに」は甲の表面に凸凹があつて、それが恰も恨み怒つて居る人の顏の如くに見えるので名高いが、これも姿を隱すことが頗る巧い。普通の「かに」は走るときには四對の足を悉く用ゐるが、「へいけがに」では、四對ある足の中で前の二對だけが匍ふのに用ゐられ、後の二對は上向きに曲つて、常に空いた介殼を支へる役を務める。それ故この「かに」が海の底で靜止して居るときは、恰も死んだ「はまぐり」の介殼が一枚離れて落ちて居る如くに見えて、下に「かに」の隱れ居ることは一寸分らぬ。かやうに「へいけがに」は年中介殼を脊負つて歩き、自身の甲を露出することがないが、常に保護せられて居る體部が次第に弱くなるのは自然の規則であると見えて、他の「かに」類に比べると甲が稍薄くて、内部にある種種の器官の位置が表面から明に知れる。普通の「かに」では甲は厚くて、その表面は平滑であるが、「へいけがに」では筋肉の附著して居る處などが著しく凹んで、心臟のある處、胃のある處、鰓のある處、肝臟のある處が、皆判然と境せられ、その形が偶然人の怒つた顏に似て居るので、平家の人々の怨靈(をんりやう)であるなどとの傳説が仕組まれた。但し、この「かに」は決して平家一同の討死した壇の浦邊に限り産するものではなく、日本沿岸にはどこにも居るであらう。現に東京灣でも、網を引くと幾らも掛つて來る。また前の二對の足は匍行に用ゐられるから、普通の「かに」の足と同じ形狀であるが、後の二對は役目が違ふから形も餘程違つて短く小さく、且尖端の爪は介殼を保つことの出來るやうに半月形に曲つて居る。その上、根元の位置も甲の上面の方へ移つて、甲の後端に近い處から恰も牙が生えて居る如くに左右へ突出して居るので、顏の相が益々鬼らしく見える。この「かに」は生のときは泥のやうな色であるが、「かに」でも「えび」でも煮ると、他の色素は分解して赤色のものが殘るから、一度茹でたら、先年帝劇で平家蟹という外題の狂言に澤山出したやうな赤いものとなるであらう。

[やぶちゃん注:「へいけがに」丘先生の謂いから考えると、甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ Heikeopsis japonica 及び同属の仲間は勿論、ヘイケガニの近縁種で甲羅が同様の人面や鬼面様を呈する種(後述)をも含んだものと考えられる。以下、ウィキの「ヘイケガニ」を参照・引用(引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)する。ヘイケガニ Heikeopsis japonicaの体色は一様に褐色をしており、甲幅・甲長とも二〇ミリメートル程度。甲は上から押しつぶされたように平たい丸みを帯びた台形で、甲は筋肉がつながる位置に明白な溝があって、内臓及び体節の各区域をはっきりと仕切っている。甲羅を上方から見た時、吊りあがった目(鰓域前部)、団子鼻(心域)、固く結んだ口(甲後縁)といった人の怒った表情に確かに見える。第二・第三歩脚は甲と同じく扁平で、甲幅の二倍以上の長さがある。鋏脚は小さいが、♂の鋏脚は右が僅かに大きい。歩脚の後ろ二対は小さな鉤状で、先端に小さな鋏を持つ。本邦の北海道南部・相模湾から紀伊半島・瀬戸内海・有明海、朝鮮半島・中国北部・ベトナムまで東アジア沿岸域に広く分布し、水深一〇~三〇メートル程度の、貝殻が多い砂泥底に棲息する。短い歩脚で二枚貝の貝殻や、棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目カシパン亜目スカシカシパン科 Astriclypeus 属スカシカシパン Astriclypeus manni 等のカシパン類の生体及び死殼、海綿類などを背負って身を隠す習性を持つ。長い脚で水を掻いて泳ぐことも出来るが、この際には腹部を上に向けて背泳ぎをする。産卵期は夏から秋にかけてで、この時期には抱卵したメスが見られる。同様の形状を持つ近縁種としては、

サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata

甲幅は約二五ミリメートル。ヘイケガニに似るが大型で、和名通り、体がザラザラしている。また、♂の鋏脚上面に毛が生える。北海道から台湾までの東アジア沿岸域に分布し、水深二〇~一五〇メートル程度の砂泥底に棲息する。福島県いわき市周辺では、貝殻を被った姿を股旅姿に見立てて「サンドガサ」と呼ぶ。

キメンガニ Dorippe sinica

甲幅約三五ミリメートル。サメハダヘイケガニよりも更に大型で、甲羅には人面に似た凹凸に加え、毛や疣状突起があり、さらに「彫り」が深く、「目」の部分が大きく見開かれ、その外辺部に角のような棘もあって、鬼面に見えるとこから和名がついた。東北地方からオーストラリアまでの西太平洋とインド洋に広く分布し、水深七〇メートル程度まで棲息する。

カクヘイケガニ Ethusa quadrata

甲幅約一〇ミリメートルの小型種。「目」の外辺部に棘があり、甲の形は長方形に近い。相模湾から東シナ海南部にかけて分布し、水深三五~二〇〇メートル程度まで棲息する。

マルミヘイケガニ Ethusa sexdentata

甲幅約三五ミリメートル。「目」の外辺部の棘は短くて前向きである。和名は他種に比べて歩脚の断面が丸みを帯びることに由来する。犬吠埼・対馬以南から鹿児島県沿岸までと、アンダマン海にも分布している。水深四〇~三六〇メートル程度まで棲息する。

イズヘイケガニ Ethusa izuensis

甲幅一二ミリメートルの小型種。「目」の外辺部の棘は大きいが、それよりも四つに分岐した額角が前に出るのと、全身に短毛が生えるが特徴。相模湾から東シナ海南部まで分布し、水深三〇~一一五メートル程度まで棲息する。

などが挙げられる。以下、「甲羅の模様の人為選択説」の項。『ヘイケガニの甲羅の溝が怒った人間の顔に見えることは、明治時代から幾人かの科学者の興味を呼び起こしてきた。 一九五二年に進化生物学者ジュリアン・ハクスレー(Julian Huxley)はライフ誌でヘイケガニを取り上げ、この模様が偶然にしては人の顔に似すぎているため、人為選択による選択圧が作用したのではないかと述べている。この人為選択説では甲羅の模様の成因を、それが顔に似ている程、人々が食べることを敬遠し、カニが生き残るチャンスが増えたため、ますます人の顔に似て来たのだと説明する』。これは、『一九八〇年に天文学者カール・セーガンも、テレビ・シリーズ「コスモス」と同名の著書の中で、このヘイケガニの人為選択について取り上げている。彼は、平氏の亡霊が乗り移ったという伝説が、人間の怒った顔に似た模様が出ている甲羅を持つカニを漁獲するしないの選択に作用しているならば、その伝説が色濃い瀬戸内海、特に壇ノ浦に近いところほど、漁師がこのカニを捕まえるのを嫌がったかもしれず、そうすれば壇ノ浦からの距離が近いほどより人間の顔に近い模様になっているのではないかという仮説を提唱した』(提唱とあるが、これはハックスリーの仮説のまんまである)。『この説については甲殻類学者酒井恒が著書「蟹―その生態の神秘」の中で触れており、ヘイケガニやその近縁種は日本以外の北西太平洋にも分布し人の顔に見える特徴は変わらないこと、化石の段階で既に人間の顔をした模様が認められること、ヘイケガニは食用にならないため捕獲の対象とされないことなどの理由で否定している』とある。これについて、荒俣宏氏は「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」で詳述されており(そこではハックスレーはこの人為選択説を柳田国男を通して酒井に伺いをたてたとある)、ところが、それでもハックスレーはそれでも『自説を捨てきれなかったらしく』、一九五四年八月の「ライフ」『誌上にヘイケガニの繁栄にまつわる記事を寄せている』とある(ハックスレーは二度「ライフ」にこの人為選択説を載せたらしい)。これについて、酒井氏は著書「蟹―その生態の神秘」(一九八〇年講談社刊)の中で次のように述べているとして引用、「平家蟹」の項を擱筆されておられる。この引用が実にいい。カンマ・ピリオドを句読点を変更して引用し、本注の最後としたい。――『へいけがにの面相が動物形態学の上でどのような意味をもつものであるか、またへいけがにの海底における生活がどうであるか、人間生活との関係がいかなるものかを知らないで人間だけの想像力で判断していくと、自然に対してとんだ結論をおしつけることにならないともかぎらない。』――

「先年帝劇で平家蟹という外題の狂言に澤山出した」明治の末年、明治四五(一九一二)年に初演された岡本綺堂作の「平家蟹」。梗概は個人のHP「じゃわ's じゃんくしょん」の平家蟹」を参照されたい。]

耳嚢 巻之六 いぼをとる呪の事 (二話)

 いぼをとる呪の事

 

 雷の鳴る時、みご箒(はうき)にて、いぼの上を二三遍はき候得(さふらえ)ば、奇妙にいぼとれ候由。ためし見しに違はざるよし、人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。定番の民間伝承の呪(まじな)い療法シリーズ。雷の鳴る時という、限定性が面白い。恐らく、雷神と稲霊(いなだま)の霊力がみご箒のアース線を通じてそこに集中するのであろう。

・「みご箒」「みご」とは「稭」「稈心」などと表記し、「わらみご」、稲穂の芯のこと。藁の外側の葉や葉鞘をむき去った上部の茎。藁しべのことを言う。それを集めて作った箒のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣を取る呪いの事

 

 雷の鳴る時に、稈心箒(みごほうき)を用いて、疣(いぼ)の上を二、三遍、掃いて御座れば、奇妙に、疣は取れて御座る由。試して見たところが、間違いないと、人が語って御座った。

 

 

   又

 

 黑胡麻を、いぼの數程かぞへて、土中へ深く埋め置(おき)、右ごまくされ候得ば、いぼも失せ候なり。深く埋(うむ)るは、芽を不出(いださず)、くさらするためなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:疣取り呪(まじな)い二連発。典型的類感呪術ながら、必ず腐らせるという解説部分が呪いの圏外にいる冷静な観察者の妙に論理的な視点で面白いではないか。ここはもしかすると、根岸の附言なのかも知れない。

・「黑胡麻」双子葉植物綱ゴマノハグサ目ゴマ科ゴマ Sesamum indicum の種子。黒ゴマ・白ゴマ・金ゴマという区別は種皮の色の違いであり、それぞれに改良品種がある(参照したウィキゴマ」によれば、ヨーロッパでは白ゴマしか流通していない)。底本鈴木氏注には、『和漢三才図会に、胡麻の花をよくすりこむと、いぼがとれるとある。茄子の液がよいというのは一般的であろう』(底本の刊行は一九七〇年であるが、現在のネット上にもウィルス性イボをナスのヘタで擦過したり、茄子を腐らせた液を塗付することで治癒したとする記載が実際にある)。『中国では塩を塗って牛になめさせると、すす落ちるという説もあるが、和漢とも灸がよくきくといっている。しかし決定的な療法がない故か、まじないや、いぼ神信仰が栄えた』と注されておられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣を取る呪いの事 その二

 

 黒胡麻を、疣の數だけ数えて、土中へ深く埋め置き、その胡麻が腐って御座ったならば、同時期に疣も失せて御座る。深く埋めるのは、芽を出させずに、確実に腐らせるためである。

 

一言芳談 八十

  八十

 明禪法印云、往生は、大事なることのやすきなり。

〇大事なることのやすきなり、大事とおもひてますますはげむべし。やすしと心得て卑下(ひげ)することなかれ。

[やぶちゃん注:「大事なることのやすきなり」これは「大事なることの、やすきことなり」の謂い、則ち、格助詞「の」は連体修飾格ではなく、同格である。――並々ならぬ大切なことであって、同時に簡単で容易いことである――というのである
「やすしと心得て卑下することなかれ」この場合の「卑下する」は、自身を劣ったものとして賤しめるの意であり、往生は大事と心得てますます称名念仏に専心し、同時に如何にも容易なことと素直に思うことが大切――自身が無智蒙昧の凡夫なれば、とてものことに往生など出来ぬに違いないなんどといらぬ卑下などを成してはならぬ――というのである。]

2013/01/30

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 景政社・大佛

  景政社・大佛

 

 

 これより、權五郎景政の社(やしろ)をうちすぎ、甘繩(あまなは)の明神(めうじん)の森。この邊りに盛久(もりひさ)敷皮(しきがは)の跡塚(あとつか)あり。宿屋(やどや)村の先に大佛堂高德院。日朗法師の土の牢(ろう)、此邊(へん)なり。みこしが崎、大佛の濡佛(ぬれぼとけ)にて、數(す)丈の御丈(みたけ)、座像なれども、見あぐるばかりなり。六錢(ぜん)にて大佛の胎内(たいない)をおがましむ。大異山淸淨泉寺(だいゐざんしやうじやうせんじ)といふ。座像の御丈、三丈五尺、膝囘(ひざまは)り、横五間半あり。

〽狂 大(だい)ぶつは

 かまくら山の

ほし月夜

これ白膏(びやくごう)の

 ひかり

  なりけり

「なんと、京の大佛さまのお鼻の穴から、人が唐傘(からかさ)をさして出られるといふ事だが、看板のお鼻がその位(くらゐ)な物(もの)だから、さぞ、お金(きん)玉は、どのやうに大層(そう)な物であらう。貴男(あなた)が座像で、すはつてばかりござるからよいが、あれが、たつておあるきなさる段になつたら、あのお金玉が、邪魔になつて、おひろいなさりにくからうから、大きな紙帳(してう)の中へでも、お金玉をいれて、首にかけてゞも、おあるきなされずばなるまい。儂(わし)も、疝氣(せんき)で人並みより金玉がおほきいから、普段、袋にいれて首にかけてあるきますが、さてさてこんな邪魔な物はない。しかし、儂にはまた重宝なこともござります。この間も、講中(こうぢう)と一緒に勸化(くはんげ)にでた時、儂は首にかけてある金玉をたゝいて、『おんあぼきやあへいるしやな』といつてあるきました。」

[やぶちゃん注:「權五郎景政の社」現在の御霊神社。

「甘繩(あまなは)の明神」現在の甘繩神明神社。

「盛久敷皮の跡塚」盛久頸坐(くびざ)とも。現在、江ノ電由比ヶ浜駅の北、由比ヶ浜通り長谷東町バス停近くに同定されているが、庚申塔数基が残るのみ。「盛久」は平家家人主馬(しゅめ)盛久。詳しい伝承と考証は「新編鎌倉志卷之五」の「盛久頸座」の条と私の注を参照されたい。

「宿屋村」現在の光則寺辺の呼称らしいが、鎌倉地誌ではあまり聞いたことがない。得宗被官であった宿屋光則(やどや みつのり 生没年不詳)の旧自邸が光則寺である。『光則は日蓮との関わりが深く、日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。日蓮の書状には、宿屋入道の名前で度々登場している。日蓮が捕縛されると、日朗、日真、四条頼基の身柄を預かった。日朗らは光則の屋敷の裏山にある土牢に幽閉された。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として光則寺を建立した』(以上はウィキの「宿屋光則」より引用)。大仏高徳院を挟んで、「日朗法師の土の牢此邊」とあるが、日朗の土牢は光則寺のすぐ裏にあって、この辺りも、どうも一九は実地踏査を行っていない嫌いがある。

「みこしが崎」御輿嶽(みこしがたけ)。大仏東北方から大仏の後ろを西へ回り込んだ霊山ヶ崎までの山並みを呼称する。

「大異山高德院淸淨泉寺」と高徳院同一。

「白膏」「白毫」が正しい。眉間白毫相のことで、表記は「びやくがうさう(びゃくごうそう)」が正しい。仏の三十二相の一。仏の眉間にあって光明を放つ長く白い巻き毛。仏像では水晶などをはめ込んだり浮き彫りにしたりして表わす。私は思わず、一九が膏薬を額に張り付けているのに洒落のめしたのかとも思ったが、真相は不明。

「貴男(あなた)」は「彼方」(に坐(おは)すの意)かも知れないが、金玉の叙述から、かく当てた。

「おひろい」の「ひろい」は「拾ひ」で、この場合は、高貴な人が泥濘(ぬかるみ)でない場所を拾うようにして歩む、の意から生じた、徒歩で行くことの尊敬語である。

「紙帳」紙をはり合わせて作った蚊帳。防寒具にも用いたから、ここはそれを袋状にして首から掛けられるようにした支持具。

「疝氣」「疝積」とも言った近代以前の日本の病名。当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つ。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある。一方、津村淙庵(そうあん)の「譚海」(寛政七(一七九五)年)には大便をする際に出てくる白く細長い虫が「せんきの虫」であると述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人は、それをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、( )内の寄生虫の注は私のオリジナルである)。ここでは睾丸の腫脹が顕著であるから、睾丸炎が候補とはなるが、「普段、袋にいれて首にかけてあるきます」という表現が誇張でないと考えると、これは「大金玉」、象皮病で知られる人体寄生性のフィラリア症、バンクロフト糸状虫 Wuchereria bancrofti 感染後遺症としてを引き起こされた陰嚢水腫の可能性が頗る高いものと私は判断する。信じられない方は群馬県高崎市小八木町はっとり皮膚科医院HPの服部瑛氏の「錦小路家本『異本病草紙』について-その5 フィラリア症」をご覧になられたい。ページ下方に俵のように腫脹した患者の医学記録写真があるが、この手の画像に免疫のない方には、クリックをお勧めしない。

「勸化」一般的な謂いでは、僧が仏寺仏像を造営するため、信者に寄付を勧めて集める、勧進を言うが、ここでは単なる講中連中との寺社参りを言っている。

「おんあぼきやあへいるしやな」これは密教経典である「不空羂索神変真言経(菩提流志訳)」や「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言(不空訳)」に説かれる光明真言(正式名称は不空大灌頂光真言)という密教の真言に冒頭、「オン アボキャ ベイロシャノウ」の、音写である。漢訳「唵 阿謨伽 尾盧左曩」、意味は「オン」が聖音の「オーム」で、以下、「不空なる御方よ 毘盧遮那仏よ」の意(以上はウィキ光明真言に拠る)。最後の部分の「るしやな」は漢訳で分かる通り、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)=大日如来を指す。高徳院の鎌倉大仏は無量光仏=阿弥陀如来である。まあ、著名な與謝野晶子も「鎌倉やみほとけなれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな」と誤っているぐらいだから、この洒落も許容範囲の内。]

耳嚢 巻之六 妖は實に勝ざる事

 妖は實に勝ざる事

 

 ある僧、祈禱・呪(まじな)いなんどをなして、藝州の家中へも立入りけるが、信仰の者も多く、人々の手を出させ惡血(あくち)をとり候由にて、小刀を拳(こぶし)の上へ釣りて持(もち)、勿論拳へ小刀はつかざれど、手の甲より血ながれ出る事奇妙なりと、いづれも不思議がりしを、物頭(ものがしら)を勤(つとめ)ける、名は聞落(ききおと)せし由、大に憤り、妖僧の爲に武家の身としてたぶらかされ、其身より血の出るを不思議なりと稱する事歎しき事にて、藝州一家中に、右體の妖僧を屈伏させざる事、外聞ともに不宜(よろしからず)、我も右僧に對面せんとて面會いたし、我等も惡血有べき間、とりて給(たまは)り候へかしと手を出しけるに、彼(かの)僧いへるは、御身に惡血なし、とるに及ばざる由を答へければ、彼物頭申けるは、惡血あるなしは如何してわかり候や、惡血在者(あるもの)、血をとりて見せ給へと責(せめ)けるに、彼僧甚だこまりて、今日は不快の由斷りければ、彼物頭氣色を替、不快にたくし斷(ことわり)なれども、我等も望(のぞみ)かゝりし事なれば是非見申度(まうしたく)、其業(わざ)難成(なりがたき)上は全く人を欺く賣僧(まいす)の所業なりと、切(きつ)て捨てべき勢ひゆゑ、彼僧大いに恐れ、誤(あやまり)入る旨申ければ、然る上は當家江戸在所共、急度立入申間敷(きつとたちいりまうすまじく)、武士の手へ刄(やいば)を當(あて)ず血を取る抔と妖法をなす段、不屆の至りなりと大きに愧(はぢ)しめければ、彼僧も(一トちゞみに成り)鼠の如く迯(にげ)歸りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖しげな僧のマジックを気骨ある武士が喝破する変形ではあるが、武辺譚連関。しかし、この話、既出の「耳嚢 巻之二」「妖術勇気に不勝事」にコンセプトが完全に酷似している。しかし、これだけ似ていると、これを記しながら、根岸がその酷似に気づかなかったことは考え難く、やはり、「妖術勇気に不勝事」で注したように、根岸は都市伝説として再三蘇えってくるものをも、煩を厭わず(というより、プラグマティックに言えば、百話、ひいては既にターゲットとして意識し始めていたであろう千話の数を稼ぐためと言ってもよいであろう)洩れなく記そうとしたものとも思われる。しかし、こういう話柄が複数存在するということは、こうした下らないマジックを以って取り入った連中が実際に多くいたこと、それ以上に騙される連中たちが多かった事実を示すものでもあろう。因みに、この血は勿論、被験者の血ではなく、僧によって用意された血糊であると思われる(疵が少しでも残れば、これはいっかな腰抜け侍でも気色ばむ)。甲を凝視させていれば、上から(例えば袖に隠し持った)血糊を降り掛けても、恰も甲から噴き出したように錯覚する。いや、もしかすると、何らかの薬物二薬の化学反応を用いているのかも知れない。事前に透明な甲薬を秘かに手の甲の上に塗っておき、呪いの途中で透明な乙薬を秘かに降り掛けて発色させているのかも知れない。物頭は恐らく自分の目の位置まで拳を挙げ、僧の裾の内や、僧が手の甲に触れようとする瞬間を凝っと観察していたものと思われ、僧のトリックがどうやっても見破られる見方であったのであろう。そういうシチュエーションで訳してみた。

・「物頭」武頭(ぶがしら)とも。弓組・鉄砲組などを統率する長。

・「惡血在者(あるもの)」実は底本では、ここは『惡血在者(あらば)』(「在者(あらば)」は底本のルビ)となっている。しかし、これでは如何にも文意が通り難い。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に『悪血あるもの血を取て見せ給へ』とあるのを参考に読みを変えた。

・「(一トちゞみに成り)」底本には『(尊經閣本)』によって補正した旨の傍注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖術は誠心に勝てぬという事

 

 ある僧、祈禱・呪(まじな)いなどをなして、安芸国の御家中へも大手を振って立ち入って御座ったが、この妖しげな僧を信仰する者も、これ多く、何でも、人々に手を出ださせ、

「悪血(あくち)をとり申そうず。」

との由にて、小刀(さすが)を拳(こぶし)の上へ釣り下げて持ち――勿論、一切、拳へ小刀の刃先も刃も接することは、これ、無きにも拘わらず――見る見るうちに、

……じんわりと

……手の甲より

……一筋の血が流れ出でて参る――

「……いや! まっこと、奇妙なことじゃ!……」

と、誰もが不思議がっておったを、たまたま物頭(ものがしら)を勤めて御座った――姓名は聞きそびれたとの由――大いに憤り、

「――妖僧がために、武家の身でありながら、誑(たぶら)かされたばかりか――その御主君がための、一箇の大事なる肉身(にくみ)より――あろうことか、血の吹き出ずるを、これ、不思議なり、なんどと称すること、これ、甚だ歎かわしきことじゃ! 安芸国一家中にあって、右体(てい)の妖僧を屈伏させずにおると申すは――これ、武士の一分に於いても――また御当家の外聞に於いても、宜しからず!――我らも、その僧とやらに対面(たいめ)せん!」

と、即刻、呼びつけて面会致いた。

 しかして、

「――我らも悪血あるによって、お取り願おうではないか。」

と、

――グッ!

と、握った手を僧の眼前へ、

――ヌッツ!

と、己れの目の高さに突き出だいて、

――キッ!

と、眼を据えて、僧の挙措動作を凝っと睨んで御座った。

 すると、かの僧の言うことに、

「……い、いや……御身には、これ……悪血は御座らぬ……取るには、及びませぬて……」

と答えたによって、かの物頭、畳み掛けて、

「――悪血の有る無しは、これ、如何して分かって御座るものか!――我らにない、となれば――では――悪血有る者を、ここに呼ぶによって、その悪血を、取って見せ給え!」

と責めたてたところ、かの僧、甚だ困惑致し、

「……いや、そのぅ、今日は……拙僧、聊か気分が、すぐれざれば……」

とか何とか申し、断って御座ったゆえ、かの物頭、痛く気色ばんで、

「不快を口実の断りなれども、我らも、たっての望み――相応の覚悟を掛けてのことなればこそ――是非とも見申したく存ずる!……もしも……その業(わざ)、成しがたしと申す上は――これ、全く以って、人を欺く売僧(まいす)の所業じゃッ!!」

と、太刀の柄に手を添え、今にも斬って捨てんとの勢いで御座ったゆえ、かの僧、大いに恐れ、

「……お、お許し下されぃ!……へっ! どうか、ご勘弁のほど!……」

と這い廻る如、ひらに謝ったによって、物頭曰く、

「――然る上は、向後、当家江戸・在所ともに、急度(きっと)、立ち入らざること!――そもそも、武士が手へ、刃(やいば)を当てずに血を取るなんどと申す、いかがわしき法をなす段! これ、不届き至極! 淫猥なる僧形の悪人めが! とっとと、国境(くにざかい)を越えて消え失せるがよい! 二度とその腐った面を!――見せるでない!!」

と大いに辱め、罵倒致いたによって、蟇蛙の如、這い蹲って御座ったかの僧は、

――ギュウッ

さらにひと縮み致いて、今度は鼠の如、逃げるように退出致いた、とのことで御座る。

一言芳談 七十九

  七十九

 

 正信(しやうしん)上人云、念佛宗は、義なきを義とするなり。

 

〇義なきを義とす、念佛往生の別の仔細なしといふが淨土宗の義門なり。

 

[やぶちゃん注:「正信」湛空(安元二(一一七六)年~建長五(一二五三)年)は浄土僧。

右大臣徳大寺公能(きんよし)の子。初め比叡山に登り、第六十六代天台座主実全に師事して顕密二教を学んだ後、法然に帰依、その四国への流罪にも従ったとされる。師の死後は嵯峨の二尊院にあって、師の遺骨を迎えて宝塔を建立して更なる布教に勤め、その門下は嵯峨門徒と呼ばれた。正信房は号。

「義なきを義とする」これは唯円の「歎異抄」第十条の冒頭に、親鸞の直話として、

念佛には無義をもて義とす。不可稱、不可説、不可思議のゆえに、とおほせさふらひき。

と出る。この「義」について、例えば、大橋氏『理屈』と訳され、その他にも「歎異抄」では『義は宣ということ。善を善とし惡を惡として判斷するこ、つまり、はかろうこと』(相和二九(一九五四)年刊角川文庫・梅原真隆氏訳註「歎異抄」の注)、『思い計』ること・『人間の判断』(昭和四七(一九七二)年刊講談社文庫・梅原猛校注「歎異抄」の注)、『みづからの〈知〉のはたらきによって捉えた法義、教理』(青土社平成四(一九九二)年刊・佐藤正英「歎異抄 論注」とある。要は、この逆説自体が、こざかしい人智の「判断」という移ろい易い虚妄の現象を開示するメタな言説であると私は考えている。]

2013/01/29

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 腰越 星の井 初瀨觀音

      腰越 星の井 初瀨觀音

 

 江の嶋をいでゝ、腰越(こしごへ)の漁師町をうちすぎて、七里の濱つたひ、向かふに安房上總(あわかづさ)の山々を見わたし、景色よし。されども、砂道にて難儀なり。此間(あいだ)、牛にのりてよし。この中程に行合(ゆきあい)川といふあり。日蓮上人御難儀の時、鎌倉の使(つか)ひと遣使(けんし)よりの使ひと、行合(ゆきあひ)しところなりといふ。

〽狂 たいくつさあともどりする

 すなみちをのりたるうしの

      よだれだらだら

「なんと子僧、この中で、俺(おれ)が一番よい男だらう。この邊にも、俺がやうなよい男はあるまい。どうだ、どうだ。」

「お前、まづ錢(ぜに)をくれさつしやい。錢をくれたら、ほめてやりませう。ひよつと先へほめて、錢をくださらぬと損だから、錢から先へくれさつしやい。」

「こいつ、如才(じよさい)のない子憎めだ。こつちも、そのとほり、さきへ錢をやつて、ひよつとほめてくれないと、こつちの損だから、先錢(さきぜに)は御免だ。」

「そんなら、くれずとおりつしやい。もらつた所が、どふも、褒め樣(やう)のない顏だから、わしも、もらはぬ方が氣が樂でよふござるよ。」

 濱邊より鎌倉道(かまくらみち)いる所(ところ)に茶屋あり。こゝにて鎌倉の繪圖(ゑづ)をいだし、講釋してこれをあきなふ。横手原(よこてはら)、日蓮上人の袈裟掛松(けさかけまつ)あり。それより虛空藏堂(こくうぞうだどう)、星の井(ゐ)。村立場(たてば)、茶屋おほし。これより、初瀨(はせ)の觀音あり。海光山(かいくわうさん)といふ。坂東巡禮四番の札所なり。

〽狂 煮(にへ)かへりあせふく

      ばかり

 めしをたく

      かまくら

  みちの

   夏(なつ)の旅人(たびゝと)

旅人

「ヲヤ、この婆(ばあ)さまは、たれもきかうといひもせぬのに、この繪圖の講釋をして、その代(だい)を十二文とるのか。よしよし、こなたのいつたとほり、儂がよくおぼへたから、此方(こなた)へ儂が講釋してきかせやうから、その十二文こつちへかへしなさい。」

「そんなら、お前、よくおぼへさしやいな。てふど、つい、向かふにやすんでござるお方へ、お前、講釋をしてあげてくれなさい。その錢はこつちへとつて、それでてうど、よふござらう。」

「婆さま、こゝの家(うち)に娘はないか。あるなら、だして見せなさい。婆さまと娘では茶代の置き樣(やう)がちがいます。」

[やぶちゃん注:「日蓮上人御難儀」日蓮四大法難の一つである龍ノ口の法難。文永八(一二七二)年九月十三日、「立正安国論」を幕府に奏上した日蓮が捕らえられ、龍ノ口の刑場(後に竜口寺となる)で斬首されんとした事件。江ノ島上空に黒雲が湧き起り、妖しい光球が首切り役人の刀に落ちて、刑が滞ったとする。同時に幕命によって処刑が中止され、その双方の使者(本文の「鎌倉の使ひ」が幕府からの中止命令を携えた使者、私が「遣使(けんし)よりの使ひ」と漢字で当てたのが、斬首実行部隊が妖異によって執行が出来ない旨を幕府に伝えるための伝令)行き合ったところが行合川と伝えるが、実際には、当時の執権北条時宗夫人覚山尼が懐妊中(十二月に後の第九代執権貞時を出産)であったことから、悪僧とはいえ、祟りを恐れて一等減じ、佐渡配流となっていたものを、絶大な権勢を恣にしていた北条家執事平頼綱による独断専行の処刑が停止されたものとする説を私は採る(皮肉にも後に貞時によって頼綱は誅殺されている)。また、御家人の中には宿屋光則を始めとして日蓮のシンパサイザーも頗る多く、後にこうした伝説が容易に形成され得たものと私は考えている。私は話柄としては面白いが、こうした宗教人のスーパー・マジック的なパフォーマンス伝承の類いが、頗る附きで嫌いであることだけは言っておきたい(だから、今まで鎌倉地誌書の注でもこのことを語ることを私は敢えて避けてきたのである)。

「牛にのりてよし」牛が当時、こうした砂浜海岸での旅人の足として機能していたことは私には面白く感じられる。また、全くの偶然であろうが、養和二(一一八二)年(五月二十七日に寿永に改元)の「吾妻鏡」の四月五日の条に、頼朝が、このルートの、腰越側の金洗沢で牛追物を催していることが、どうにも頭に絡みついて離れないのである(私の電子テクスト「北條九代記 賴朝腰越に出づる 付榎嶋辨才天」などを参照されたい)。

「なんと子僧、この中で」鶴岡氏は『なんと子僧ッ子の中で』と判読されておられるが、「ッ(ツ)」には見えないし、それでは文意が通じない。

「ひょつと」副詞の「ひょっと」であるが、最初の牛引きの小僧の台詞のそれは、うっかりの意、後の乗客の謂いは、万一の謂いがしっくりくる。

「先錢」ここでは乗車賃ではなく、酒手(絵の少年だとお駄賃か)の謂いであろう。

「横手原」「新編鎌倉志卷之六」の「稻村〔附稻村が崎 横手原〕」に、

此海濱を横手原(よこてばら)と云ふ。【太平記】に、新田義貞、廿一日の夜半に、此處へ打ち蒞(のぞ)み、明け行く月に、敵の陣を見給へば、北は切通(きりとをし)〔極樂寺也。〕まで、山高く路嶮しきに、木戸を構へ、垣楯(かひだて)を搔いて、數萬の兵陣を雙(なら)べて並居たりけり。南は稻村崎まで、沙頭路狹(せば)きに、浪打涯(なみうちきは)まで逆木(さかもぎ)をしげく引懸て、澳(をき)四五町が程に、大船共を並べて矢倉(やぐら)をかき、横矢射(よこやい)させんと構へたり。誠(げ)にも此陣の寄手(よせて)、叶はで引ぬらんも理り也と見給へば、義貞馬より下(を)り給ひ、海上を遙々と伏し拜み、龍神に向て祈誓し給ひければ、其夜の月の入方に、前々更に干る事もなかりける稻村が崎、俄に二十餘町干上つて、平沙渺々たり。横矢射んと構へたる數千の兵船も、落ち行く潮にさそはれて、遙かの澳に漂へりと有は此所なり。故に横手原とは名くるなり。

とある。現在の稲村ガ崎二丁目、江ノ電稲村ヶ崎駅入口付近に相当する。

「日蓮上人の袈裟掛松」「新編鎌倉志卷之六」には、

日蓮袈裟掛松 日蓮の袈裟掛松(ねさかけまつ)は、音無瀧(をとなしのたき)の少し南なり。海道より北にある一株の松なり。枝葉たれたり。日蓮、龍口(たつのくち)にて難に遭し時、袈裟を此松に掛けられたりと云傳ふ。

とある、そこで私は以下のように注した。『掛けたのは袈裟を血で穢すのは畏れ多いとしたからとされる。現存せず、碑が立つのみであるが、現在、その碑は十一人塚を極楽寺方向へ百五十メートル程行った箇所に立っている。先に掲げた絵図[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之六」参照。]を見ると、不思議なことが判明する。絵図ではまさに現在の日蓮袈裟掛松跡に「音無瀧」と記されているのである。そして、絵図の「十一人塚」と「音無瀧」の位置関係から見ると、絵図の「日蓮袈裟掛松」が存在したのは現在の江ノ電稲村ヶ崎駅のすぐ西、何と現在「音無橋」と名が残る音無川の辺りに比定されるように見えるのだ。だから何だと言われそうだが、何だか私には不思議な感じがするのである』。

「虛空藏堂」極楽寺切通を抜けて下った坂の下、左側、次の星月夜の井の上方にある。星月山星井寺(せいげつさんせいせいじ)と号し、江戸期から成就院の持分であるが、この部分の描写、甚だ違和感がある。所謂、極楽寺及び同切通を含む部分が、記載からごっそり抜け落ちているからである。私は、一九はここを実際には踏破していない疑いが濃厚であるように思われる。

「星の井」星月夜の井。

「村立場」人足や駕籠掻きなどが休息する場所。

「茶屋おほし」鶴岡氏は『飴(あめ)屋おほし』と判読されておられるが、どうみても「あめや」とは読めない。「ちやや」である。立場なら、なおのこと、茶屋でこそ自然である。

「初瀨の觀音」長谷観音、長谷寺のこと。寺伝によれば、天平八(七三六)年に大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老五(七二一)年に徳道は楠の大木から二体の十一面観音を造り、その一体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう一体(末)を祈請の上で海に流したところ、その十五年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされており(以上はウィキの「長谷寺(鎌倉市)」に拠る)、大和の長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山である(但し、現在の鎌倉の長谷寺は慶長一二(一六〇七)年の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗している)。

「そんなら、お前、よくおぼへさしやいな。てふど、つい、」の部分は鶴岡氏のテクストから脱落している。画像左中央の講釈する老婦の絵図の直ぐ上にあり、失礼ながら、鶴岡氏が見落としたものと思われる。私の拙い判読の内、最後の「つい」は自信がない。識者の御教授を乞うものである。しかし、この部分が、「旅人」のではなく、この「婆さま」の台詞であってみれば、実にこのシーンの問答はすんなりと通るように思われるが、如何?]

西東三鬼 『變身』以後

これを以って僕のブログ・カテゴリ「西東三鬼」では、三鬼の知られた通年の、絶筆に至る主たる作品群を電子化し終えることとなる。


■『變身』以後
(角川書店より昭和五五(一九八〇)年四月に刊行された「西東三鬼読本」収載分)

[やぶちゃん注:ここは底本に、歴史的仮名遣に準拠した朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。]

昭和三十六(一九六一)年

蜂蜜に透く永片も今限り

耳嚙んで踊るや暑き死の太鼓(ボンゴ)

  山口誓子先生還曆祝句

黑松の鳴り立つ十一月三日

 奧の細道

  福島、しのぶの里

深綠蔭の嚴男來る女來る

  佐藤兄弟墓

燒石の忠義兄弟いまは涼し

[やぶちゃん注:福島県福島市医王寺にある源義経の忠臣であった佐藤継信・忠信兄弟の墓。]

  作並温泉

爺と婆深靑谷の岩の湯に

  多賀城址

哭きつつ消えし老人靑胡桃

夏草の今も細道俳句の徒

  塩竈、佐藤鬼房と行を別つ

男の別れ貝殼山の冷ゆる夏

[やぶちゃん注:佐藤鬼房(おにふさ 大正八(一九一九)年~平成一四(二〇〇二)年)は岩手県釜石市出身の俳人。本名、喜太郎。塩竈町立商業補習学校卒業後、『句と評論』に投句。渡辺白泉の選句を受ける。徴兵を経て、戦後は西東三鬼に師事。山口誓子主宰の『天狼』」同人を経て、昭和六〇(一九八五)年に宮城県塩竈市で『小熊座』を創刊、主宰した(以上はウィキの「佐藤鬼房」に拠る)。「貝殼山」は牡蠣殻の山で固有名詞ではあるまい。]

  松島

夏潮にほろびの小島舟蟲共

  瑞巖寺

一僧を見ず夏霧に女濡れ

  圓通院

蟬穴の暗き貫通ばらの寺

[やぶちゃん注:「圓通院」「えんつういん」と読む。宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の寺院。瑞巌寺の南側に隣接している。十九歳で早世した伊達政宗の孫光宗の菩提寺。光宗の霊廟三慧殿の厨子には、慶長遣欧使節を率いた支倉常長がヨーロッパから持ち帰ったバラと、フィレンツェを象徴する水仙が描かれており、この厨子のバラをヒントに先代住職天野明道が、「白華峰西洋の庭」(六千平方メートル余)に色とりどりのバラを植え込んで開放したため、通称、薔薇寺と呼称される。但し、現在はバラの数は少なくなり、境内いたるところに苔を配し、苔の寺として知られるようである(以上はウィキの「円通院」その他を参照した)。]

信じつつ落ちつつ全圓海の秋日

颱風一過髮の先まで三つに編む

[やぶちゃん注:底本では「颱風」の表記は「台風」。過去の作例から「颱風」を採った。]

露けき夜喜劇と悲劇二本立

父と兄癌もて呼ぶか彼岸花

蟲の音に體漂へり死の病

海に足浸る三日月に首吊らば

入院や葉脈あざやかなる落葉

昭和三十七(一九六二)年

 魔の病

入院車へ正坐犬猫秋の風

病院の中庭暗め秋の猫

  手術前夜

剃毛の音も命もかそけし秋

  手術後

赤き暗黑破れて秋の顏々あり

  術後二週間一滴の水も與えられず

這ひ出でて夜露舐めたや魔の病

切り捨てし胃の腑かはいや秋の暮

[やぶちゃん注:前書の「與えられず」の「え」はママ。]

  退院

煙立つ生きて歸りし落葉焚

[やぶちゃん注:ここまでの六句は沖積舎刊の「西東三鬼全句集」によれば、同年『天狼』一月号収載句で、手術から退院は先の句集『變身』の最後に注した、前年十月の出来事。吟詠も、即吟か、前年末にかけての作である。]

縱横の冬の蜜蜂足痿え立て

[やぶちゃん注:底本ではこの句の前に「*」を挟む。この句から「木枯に」までの七句は沖積舎刊の「西東三鬼全句集」によれば、『天狼』二月号収載句。]

降りつもる落葉肩まで頭上まで

病み枯れの手足に焚火付きたがる

犬猫と夜はめつむる落葉の家

枯るる中野鳩の聲の香生訓

ばら植ゑて手の泥まみれ病み上り

  「體内の惡しきものきり捨つべし」靜塔の手紙

木枯にからだ吹き飛ぶ惡切り捨て

神の杉傳ひて下る天の寒氣

ひよどりのやくざ健やか朝日の樹

死後も犬霜夜の穴に全身黑

餠のかびいよいよ烈し夫婦和し

[やぶちゃん注:「いよいよ」の後半は、底本では踊り字「〱」。]

添伏しの陽氣な死神冬日の濱

木枯のひびく體中他人の血

ついばむや胃なし男と寒雀

大寒の富士なり天に楔打ち

寒鴉口あけて呼ぶ火山島

音こぼしこぼし寒析地の涯へ

[やぶちゃん注:「こぼしこぼし」の後半は底本では踊り字「〱」。]

聲要らぬ春の雀等光の子

地震來て冬眠の森ゆり覺ます

ぐつたりと鯛燒ぬくし春の星

春の海近しと野川鳴り流る

海南風女髮に靑き松葉降らす

靑天に紅梅晩年の仰ぎ癖

人遠く春三日月と死が近し

陽炎によごれ氣安し雀らは

鷄犬に春のあかつき猫には死

木瓜の朱へ這ひつつ寄れば家人泣く

春の入日へ豆腐屋喇叭息長し

春を病み松の根つ子も見あきたり

[やぶちゃん注:最後の句は下に『絶筆(三月七日作)』と附す。]

耳嚢 巻之六 物の師其心底格別なる事

 物の師其心底格別なる事

 

 享保の末、元文寛保の頃なりし。鑓劍(さうけん)の師範せし吉田彌五右衞門龍翁齋といへるありしが、弟子もあまたありて師範も手廣くなしけるが、又其頃、是も素鑓(すやり)の師範せし浪人山本雪窓と云ふもの、同じく牛込にありて、年も七十餘にて門弟も少々はありしが、至(いたつ)て貧窮にて渡世なしけるを、彌五右衞門弟子石岡千八といへる剛氣もの、雪窓方へ至り、龍翁齋の門弟にて印可も申請候得(まうしうけさふらえ)ども、他流の立會も不致間(いたさざるあいだ)、兼て承り及び候間、立合呉(くれ)候樣いたし度(たし)と申ければ、雪窓も打笑ひて、兼て彌五右衞門は師範も廣くいたされ、流儀の樣子も粗承及(ほぼうけたまはりおよび)候處、面白き事にて上手の由承りをよび候、我等は老年に及び殊に藝も未熟故、なかなか各(おのおの)と立合候やう成(なる)事には無之(これなく)、未鍊比興(みれんひきやう)にも可被存(ぞんぜられべく)候得ども、浪人のすぎわい外に無之(これなき)故、執心の人には師範いたしすぎわひに致(いたし)候間、仕合等の儀御免の樣(やう)いたし度(たき)旨、和らかに述ければ、千八もせん方なく立歸り、彌五右衞門稽古場へ出(いで)、雪窓はさてさて役にたゝざる師匠にて、かくかくの事なりとあざけり語りけるを、彌五右衞門聞(きき)て大(おほい)に憤り、武藝は其身の爲に修行なして、なんぞ他の批判勝劣を爭ふべきや、其方(そのはう)は雪窓に勝(かち)候心得に有(ある)べけれど左にあらず、雪窓に慰さまれたるなり、是より雪窓方へ參り、先刻の不調法後悔いたし候由を申、幾重にも侘いたし可然(しかるべし)、其儀難成(なりがたく)候はゞ以來破門の趣(おもむき)、急度(きつと)申ける故、千八も實に後悔の樣子なれど、尚(なほ)すまざるや、三男なりける鑓次郎差添(さしそへ)て雪窓方へ千八を遣はし佗させけるに、かゝる勇剛の心あれば、さこそ藝も被勵候畢(はげまれさふらはん)、能き御弟子なり、いさゝか雪窓心にかけざると、よくよく彌五右衞門へも達し給(たまひ)候樣申けると也。雪窓は一生浪人にておわりけるが、悴(せがれ)は當時大家へ被抱(かかへられ)、鑓術(さうじゆつ)の師範致しけると、彌五右衞門三男鑓之助、當時吉田一帆齋とて鑓術の師をなしけるが、右一帆齋かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関;感じさせない。本格武辺物。

・「享保の末、元文寛保の頃」享保は二十一(一七三六)年に元文に改元しているから、享保十八(一七三三)年頃から延享元・寛保四(一七四四)年までの間となる。

・「吉田彌五右衞門龍翁齋」作家隆慶一郎氏の公式サイト「隆慶一郎わーるど」の資料にある、清水礫洲(れきしゅう 寛政一一(一七九九)年~安政六(一八五九)年)は江戸生まれの儒者であるが、槍術剣術などの武術に優れ、沼田逸平次について伊勢流武家故実を修めた。天保一二 (一八四一) 年より伊勢長島藩藩儒として仕えた。)の「ありやなしや」に、礫洲が指南を受けた槍術として、酒井要人なる人物を掲げ(引用はリンク先のものを恣意的に正字化した)、

酒井要人(此頃は牛が淵櫻井藏之介地面に住す。顯祖。名正徳。字俊藏。號赤城山人。又淡菴。上毛人。謙山先生第二子。嘉永三年五月歿。齡八十三。葬小石川小日向日輪寺。配安平氏生四男一女。長即先人。次曰正則。次曰正順。出冐大橋氏。李曰正春。本編跋文其所撰也。女適村田氏。文久中。幕府建武場。養子要人。與淸水正熾等同徴。爲槍術教授)これはもと濱松水野家(遠江濱松水野越前守)の浪人吉田彌五右衞門といへるの高弟にて、小野派一刀流劍術、高田派寶藏院流槍術を指南す。御旗本に數百人の門弟あり。先人の門人なれば、余も若年には二術ともにその人に學べり。後に小川町今川小路に轉宅せり。今の要人は養子なり。

とあり、この「吉田彌五右衞門龍翁齋」なる人物が浜松水野家の浪人であったこと、高田派宝蔵院流槍術の師範であったこと、その高弟が「御旗本に數百人の門弟あり」とあるのだから、その師が相当な遣い手であったことが偲ばれる。

・「未鍊比興」未練卑怯に同じい。「卑怯」は元来は「比興」と書くのが正しいともされる。

・「三男なりける鑓次郎」「彌五右衞門三男鑓之助」底本では、それぞれの通称部分の右に『(ママ)』表記あり。武士の名はしばしば改名されたし、必ずしも次男が次郎という訳でもないので、そのまま用いた。なお、この「吉田一帆齋」なる人物については、「広島県史 近世2」に、

一帆斎流

 天明~寛政期に吉田一帆斎という浪人が広島城下で剣・槍・長刀を教え、時の藩主、浅野重晟もその業前を見たという。

とある(個人ブログ「無双神伝英信流 渋川一流…道標」の広島の剣術流派 3から孫引き)。浅野重晟(しげあきら 寛保三(一七四三)年~文化一〇(一八一四)年)は安芸広島藩第七代藩主。事蹟的にも時間的にも齟齬はない。この自ら新流を起こした人物と同一人であろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 如何なるものにてもその師なる御仁のその心底は格別である事

 

 享保の末、元文・寛保の頃のことと申す。

 鑓剣(そうけん)の師範たる吉田弥五右衛門龍翁斎と申す御仁が御座った。弟子もあまたあって、師範として指導も手広く勤めて御座った。

 またその頃、これも素鑓(すやり)の師範を致いておった浪人山本雪窓と申す御仁が、同じく牛込にあった。雪窓殿は、これもう、齢(よわい)、七十余りにて、門弟も少しはあったものの、こちらは、至って貧窮にて、渡世して御座ったと申す。

 さて、ここに、弥五右衛門殿の弟子石岡千八と申す剛毅の者が御座ったが、或る日、雪窓方へ至り、

「――龍翁斎の門弟にて印可も申し請けておりまする者なれど、他流との立ち合い、これ、かつて致さざるゆえ、兼ねてより、雪窓殿が御名声、承り及んで御座るによって、お立ち合い下さるよう、お願いに参上致いた!」

と申したところ、雪窓、うち笑(わろ)うて言うことに、

「……兼ねて弥五右衛門殿は師範も手広く致され、その高田派宝蔵院流槍術流儀も、ほぼ承り及んで御座る。……それはもう、心惹かるるほどの上手の由、承って御座る。……我らは、これ、老年に及び、しかも、ことに鑓の芸なんども未熟なればこそ……なかなか、他流の御方々とも立ち合い致すようなる分際にてはこれなく……未練にして卑怯なる者ともお思いにならるるものかとは存ずるが……我らの素鑓の指南は、これ、貧乏浪人の生業(なりわい)以外のなにものにても御座なく、鑓術好きで、たってと言わるる御仁に形ばかりの師範を致すという程度の……まあ、食い扶持を得んがための生業として、ぼんくら鑓を振り回しておる輩(やから)に過ぎざる者なれば……試合の儀は、これ、何卒、ひらに御免下さるよう、お願い申し上ぐる……」

といったことを、実に和(なご)やかに述べて辞したによって、千八も、詮方なく、立ち歸って御座ったと申す。

 さて、千八儀、そのまま弥五右衛門方の稽古場へ出でて、

「――かの噂に聴いた雪窓なる御仁、これ、さてさて、役にたたぬ老い耄れお師匠(っしょう)さまにて、他流試合を申し込んだら、かくかくの体(てい)たらくじゃったわ! ハハハ!」

と同門の仲間に嘲り語って御座ったを、弥五右衞門が耳にし、大いに憤り、

「――武芸はその身のために修行をなすものじゃ! これ、他流他者を批判致し、その技の勝劣を爭うことが目指すにては、これ、ない!――その方は、今、雪窓に勝った――と心得ておるようなれど――さにあらず! その方は、雪窓に、その根本の誤りを、これ、体(てい)よく、宥(なだ)められたに過ぎぬ!――さても! これより雪窓方へ参り、『先刻の不調法後悔致し候』由を申し、幾重にも詫び致いて然るべし!――もし――その儀なり難しと申さば――以後、破門の儀、急度(きっと)申しつくるものなり!!」

と、激しく叱咤された。

 この師匠の言葉に突かれて、千八も心より後悔致いた様子にて、即座に雪窓方へと参らんとしたが、弥五右衞門はなお、それでも気が済まざるものが御座ったものか、自身の懐刀三男鑓次郎を千八にさし添えさせ、同道の上、雪窓方へ千八を遣わし。詫びを入れさせたと申す。

 しかし、迎えた雪窓は、

「……かかる勇猛剛毅なる心を持っておらるるとならば、さぞ、鑓の芸も大いに励んで、相応の技を体得なさっておらるることと拝察致いた。まっこと、貴殿はよき御弟子にて御座る。……聊かも、雪窓、気にはして御座らぬ由、よくよく、彌五右衛門殿へもお達し給はるるように。……」

と申されたとのことで御座った。

 この雪窓殿は、遂に生涯、浪人にて終わられたが、その悴(せがれ)と申すは、当時の大家へ抱えられ、鑓術の師範役となった。

――弥五右衛門三男鑓之助、号して当時、吉田一帆齋――

比類なき鑓術の師範にて御座った。

 以上は、その一帆斎殿御自身が語られた話で御座る。

一言芳談 七十九

  七十八

 

 敬仙房(きやうせんばう)云、一生はたゞ生をいとへ。

 

〇生をいとへ、生をむさぼれば又生死の生を受くるなり。

〇生死ははじめもしらず、おはりもなし。死がまへか、生がうしろか、しる人まれなるべし。春が花をさかすか、花が春をなすか、いづれも分別の外にて有(ある)なめれ。莊子もそのにねぶりて、われと蝶とをわかず。釋迦文佛(しやかもんぶつ)も往來娑婆八千まで覺えて、無量は説(とき)たなはず。死は生のもと、生は死の末にて有べきか。たゞ生をいとへとは、一字關にて候へ。根本無明を識得するが、生のいとひやうにてある也。たゞ淨家の念佛者ならば、何となく念佛したるが、生をいとふさまなるべし。(句解)

 

[やぶちゃん注:「敬仙房」既出。「六十八」の注参照。

「又生死の生を受くる」六道輪廻転生を謂う。

「釋迦文佛」「釈迦文」は梵語の「シャカムニ」漢訳「釈迦文尼」の略で、釈迦の尊称。

「往來娑婆八千」往来娑婆八千遍。釈尊は衆生教化のために、八千回も生死を繰り返した末に最後インドで悟りを開き、仏となったということが「梵網経(ぼんもうきょう)」の説で、蓮如によって本願寺派で三文四事の聖教の一つと見做す筆者不詳の「安心決定鈔」に、

佛體よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流轉しけるなり。かるがゆゑに「般舟讚」には、『おほきにすべからく慚愧すべし。釋迦如來はまことにこれ慈悲の父母なり』といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釋し、自にはぢ他にはづとも釋せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、彌陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釋尊は五百塵點劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。

と載る(以上は安心決定鈔 – WikiArcに拠るが、引用は正字化し、記号の一部を変えた)。

「一字關」特に唐朝以後の禅僧が用いる、参禅者を禅機へ導くための一喝。言葉で表現することの出来ない仏法の真理を一字で表現したもの。「喝」だけでなく、「露」「参」「看」「咄」「関」「力」「聻(にい)」などがある。

「淨家」浄土教信徒。]

2013/01/28

詩人の死ぬや悲し 萩原朔太郎

 詩人の死ぬや悲し

 ある日の芥川龍之介が、救ひのない絶望に沈みながら、死の暗黑と生の無意義について私に語つた。それは語るのでなく、むしろ訴へてゐるのであつた。
「でも君は、後世に殘るべき著作を書いてる。その上にも高い名聲がある。」
 ふと、彼を慰めるつもりで言つた私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟し、眞劍になつて怒らせてしまつた。あの小心で、羞かみやで、いつもストイツクに表情を隱す男が、その時顏色を變へて烈しく言つた。
「著作? 名聲? そんなものが何になる!」
 獨逸のある瘋癲病院で、妹に看護されながら暮して居た晩年の寂しいニイチエが、或る日ふと空を見ながら、狂氣の頭腦に追憶をたぐつて言つた。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。
 あの傲岸不遜のニイチエ。自ら稱して「人類史以來の天才」と傲語したニイチエが、これはまた何と悲しく、痛々しさの眼に沁みる言葉であらう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める爲に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうに、また空洞(うつろ)な悲しいものであつたらう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」
 ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。トラフアルガルの海戰で重傷を負つたネルソンが、軍醫や部下の幕僚たちに圍まれながら、死にのぞんで言つた言葉は有名である。「余は祖國に對する義務を果たした。」と。ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東郷大將やの人々が、おそらくはまた死の床で、靜かに過去を懷想しながら、自分の心に向つて言つたであらう。
「余は、余の爲すべきすべてを盡した。」と。そして莞爾として微笑しながら、心に滿足して死んで行つた。
 それ故に諺は言ふ。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善しと。だが我々の側の地球に於ては、それが逆に韻律され、アクセントの強い言葉等で、もつと惱み深く言ひ變へられる。
 ――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!

『行動』第二巻十一號 昭和九(一九三四)年十一號。後に「宿命」に載せられたものの初出形。筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集」第二巻を底本とした。

耳嚢 巻之六 狐義死の事

 狐義死の事

 

 享和三年の春なりし、四ッ谷邊の由、鼠夥敷(おびただしく)出て渡世の品を喰損(くひそん)さしけるを、其あるじいとひて、石見銀山の砒藥(ひやく)を調ひて食に交へ置しに、鼠四五疋其邊に斃(たふれ)しを、よき事せしと塵塚へ取捨しに、翌日朝、狐の子右鼠をくらひけるや、其邊に是又斃ける由。しかるに或日彼(かの)ものゝ妻外へ至り、肌に負ける子、いつの間にやいづちへ行けんかいくれ見へず。妻は歎き悲しみけるを、其夫大(おほい)に憤り、定(さだめ)て狐の仕業なるべし、いかに畜類なれば迚、狐をとるべきとて藥に當りし鼠を捨(すて)しにあらず、子狐食を貪りて死せしに、我に仇して最愛の子をとりし事の無道なりと、其邊の稻荷社へ至りて、理を解委(ときくはし)く憤りけるが、翌朝彼者の庭先へ、過し頃の子狐の死骸、我子のなきがらとも捨置(すておき)、井戸の内に雌雄の狐入水してありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:享和三年西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな出来事で連関。但し、こちらは都市伝説の類い。

・「渡世の品を喰損さしける」この屋の主人は、次の「食に交へ置し」というところからも何らかの食料品を商う町人であったものと思われる。

・「石見銀山の砒藥」『石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素、硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは亜ヒ酸を主成分とし、殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた』(以上はウィキの「石見銀山」より引用)。笹ヶ谷鉱山『は、戦国時代から銀を産出していた石見銀山(同県大田市大森町)と共に戦略上から幕府直轄領(いわゆる天領)とされ、大森奉行所(のち代官所に格下げ)の支配下とされたので無関係ではないが、砒素の産地が何処であるか(正しくは前者)については混乱も見られる。元禄期には銀山の産出が減る一方で、その後も笹ヶ谷からの殺鼠剤販売が続き名前が一人歩きするようになった為、と考えられている』。『砒素化合物は一般に猛毒であり、毒物及び劇物取締法により厳しく取り締まられ、幼児・愛玩動物・家畜などが誤食すると危険なため現在では殺鼠剤としては使われていない。また笹ヶ谷鉱山は既に廃鉱とな』った(以上はウィキの「石見銀山ねずみ捕りより引用)。さらに岩波版長谷川氏注には、『馬喰町三丁目吉田屋小吉製のものを売り歩いた』とある。古川柳にも「馬喰町いたづらものの元祖なり」とあり(個人HP「モルセラの独り言」より)、合巻「夜嵐於絹花仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)」(明治一一(一八七八)年)の孟斎芳虎(もうさいよしとら:別名永島辰五郎。江戸時代末期の浮世絵師。)などの絵によると、『「石見銀山鼠取受合」の字を青地に白く染め出した、木綿巾で縦五尺ほどの幟(のぼり)を担いで』、『皿に盛られた薬入りの食物を食べている鼠を画模様に染めだした半纏を着て、鼠取薬の入った小箱を脇にかけ』、『大体貧乏そうな扮装で』、『いたずらものはいないかな、いないかな、いないかな」の大きな呼び声でやって来』た、と言う(以上は、中公文庫版一九九五年刊三谷一馬「江戸商売図絵」の「鼠取薬売り」の項より引用)。なお、吉田屋小吉なる人物は幕末に大量の唄本(流行歌)を発行した版元としても知られる。「改訂増補近世書林板元総覧』(一九九八年刊日本書誌学大系七十六所収)には次のようにある。

◎吉田屋小吉 吉田氏 江戸馬喰町三町目☆三四郎店

 商売往来千秋楽 文政二合

 一枚摺番付・関東市町定日案内

  尾張の源内くどき(上下八枚物)明治十七

  *瓦版多し。嘉永五年閏二月の月行事(地本草紙問屋名前帳)。

  *石見銀山鼠取り薬で有名。守貞漫稿に看板あり。

   満類吉、丸喜知とも書き、商標が丸に吉ノ字。

   同じ町に和泉屋栄吉がいて、小吉との合板多し。

   明治に栄吉は吉田氏を称している。

とある(以上は、板垣俊一氏の幕末江戸の唄本屋―吉田屋小吉が発行した唄本について―(『県立新潟女子短期大学研究紀要(38)』二〇〇一年三月発行)より孫引き。但し、(アラビア数字を漢数字に代えた)。

・「塵塚」ごみ捨て場。

・「かいくれ見えず」「かいくる」は「掻い繰る」(「かきくる」の音変化。「かいぐる」とも)で、両手を交互に動かして、手元に引き寄せる、手繰り寄せる、の謂いだが、意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『曾(かつ)て見えず』とあり、これなら自然である。こちらを訳では用いた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐が義を以って死んだ事

 

 享和三年の春のこと、四谷辺での出来事の由。

 鼠が夥しく出でて、売り物の食品を食い荒らされて御座ったゆえ、その家の主人、これ、甚だ厭うて、猛毒の石見銀山の砒素薬(ひそぐすり)を買い求め、食い物に混ぜて置いておいたところ、翌日には鼠が四、五匹、その辺りに倒れ、頓死して御座ったによって、

「しめしめ! 上手くいったわ!」

と、その鼠の骸(むくろ)を何とものう、塵塚(ちりづか)へそのまま取り捨てておいた。

 すると、また、その翌朝のこと、子狐が――かの毒に当たった鼠の死骸を食うたものか――その辺りに頓死して御座ったと申す。

 しかるに――それから数日を経、かの主人の妻、外出した折り、背負うて御座った子(こお)の姿が――これ、不思議なことに――何時(いつ)の間にやら――何処(いずく)へ行ったものやら――皆目分からぬうちに――全く、姿が見ずなって御座ったと申す。

 妻は嘆き悲しみ、それを知った主人も大いに憤って、

「……これは、もう、狐の仕業に相違ない! 如何に畜生とは申せ……我は、狐を駆除(か)らんとて、毒に当たって死んだ鼠を、塵塚に捨て置いたのでは、これ、ない!……子狐が、不注意にも、ひもじさのあまり、貪り食うて死んだに!……我を逆恨み致いて、最愛の我が子をかどわかしたこと! これ、非道の極みじゃ!……」

と、近くの稲荷の祠(やしろ)へと赴き、稲荷神に向かって道理を説いて、ひどく憤って御座ったと申す。

 すると――また、その翌朝のこと――かの町人の家の庭先へ――かの以前、塵塚に死んでおった子狐の骸(むくろ)と――町人の子(こお)の亡骸(なきがら)とが――並べて捨て置かれてあり――さらに――庭内の井戸の内には――雌雄の狐が――これ、入水して死んでおった、とのことで御座る。

一言芳談 七十七

  七十七

 明遍僧都云、無智にぞありたき。

〇無智にぞありたき、かしこだてがやめられぬものぞといふ心なり。一枚起請のごとく無智の身になるべし。その德多し。

2013/01/27

西東三鬼句集「變身」 昭和三十六(一九六一)年十月まで 一〇〇句 / 西東三鬼4句集 了

昭和三十六(一九六一)年十月まで 一〇〇句

 

かかる仕事冬濱の砂俵(ひょう)に詰め

 

[やぶちゃん注:「ひょう」は底本「ひよう」であるが、現代仮名遣統一の句集であるから、促音化した。]

 

冬日あり老盲漁夫の棒ぎれ杖

 

沖まで冬雙肩高き岩の鳶

 

應えなき冬濱の砂貧漁夫

 

老婆來て魚の血流す冬の灣

 

冬霧の鉛の濱に日本の子等

 

駄犬駄人冬日わかちて濱に臥す

 

冬濱に死を嗅ぎつけて掘る犬か

 

北風吹けば砂粒うごく失語の濱

 

  廣島より漬菜到來

 

廣島漬菜まつさおなるに戰慄す

 

死の階は夜が一段落葉降る

 

みつめられ汚る裸婦像暖房に

 

冬眠の畑土撫でて人も眠げ

 

霜ひびき犬の死神犬に來し

 

木の實添へ犬の埋葬木に化(な)れと

 

吹雪を行く呼吸の孔を二つ開け

 

霜燒けの薔薇の蕾は嚙みて呑む

 

元日の猫に幹ありよぢ登る

 

元日の地に書く文字鳩ついばむ

 

けもの裂き魚裂き寒の地を流す

 

姉呼んで馳ける弟麥の針芽

 

寒の空半分黄色働く唄

 

實に直線寒山のトンネルは

 

死の輕さ小鳥の骸手より穴へ

 

大寒の炎え雲仰ぎ龜乾く

 

折鶴千羽寒夜飛び去る少女の死

 

[やぶちゃん注:この少女は被爆した少女で、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなっている佐々木禎子さん(一九四三年~一九五五年十月二十五日)であろうか。以下、ウィキの「佐々木禎子」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略、読点を追加した)。

   《引用開始》

名前は父、母が元気に育つようにと願いをこめて、店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。[やぶちゃん注:彼女(長女)の両親は理髪店(りはつてん)を営んでいた。但し、父は出兵して不在であった。]

運動神経抜群で将来の夢は「中学校の体育の先生」になること。

一九四五年八月六日、二歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から一・七キロメートルの自宅で黒い雨により被爆した。同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。一九五四年八月の検査では異常なかった。また小学六年生の秋の運動会ではチームを一位に導き、その日付は一九五四年十月二十五日と記録されており、偶然にも自身の命日となるちょうど一年前であった。しかし、十一月頃より首のまわりにシコリができはじめ、一九五五年一月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、二月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明。長くても一年の命と診断され、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。

一九五五年八月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。八月の下旬に折った鶴は千羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人は「もう千羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。千羽折ったものの病気が回復することはなく、同年十月二十五日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。最後はお茶漬けを二口食べ「あー おいしかった」と言い残し亡くなった。

死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に二、三羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。

禎子が生前、折った折り鶴の数は一三〇〇羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、一五〇〇羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋は「二千以上のようです」と語っている(二〇一〇年二月二十二日朝日新聞)。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が十二羽有った。その後創られた、多くの創話により千羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。

   《引用終了》

因みに、本句との関係の有無は不詳であるが、オーストリアの児童文学作家カルル・ブルックナー(Karl Bruckner 一九〇六年~一九八六年)は一九六一年に佐々木禎子について描いた“Sadako will leben”(サダコは生きる)を出版している。この本は二十二の言語に翻訳され、一二二以上の国々で出版されている(日本語への翻訳は一九六四年に片岡啓治訳で「サダコは生きる―ある原爆少女の物語」として学研新書から出版された)。広島平和記念資料館平成十三(二〇〇一)年度第二回企画展「サダコと折り鶴」も併せて御覧になられたい。]

 

霰降り夜も降り顏を笑わしむ

 

鳶の輪の上に鳶の輪冬に捲く

 

腦弱き子等手をつなぎ冬の道

 

全しや寒の太陽猫の交尾

 

老いの屁と汗大寒のごみ車

 

月あゆみ氷柱の國に人は死す

 

寒の眉下大粒なみだ湧く泉

 

落ちしところが鷗の墓場寒き砂

 

死にてからび羽毛吹かるる冬鷗

 

岩海苔の笊を貴重に礁跳ぶ

 

うぐいすや引潮川の水速く

 

虻が來る女の蜜柑三角波

 

豆腐屋の笛に長鳴き犬の春

 

大干潟小粒の牡蠣を割り啜る

 

  新宿御苑 七句

 

[やぶちゃん注:底本編者注に、『原形の六句表示は誤り』とある。なお、同年譜によれば、これは二月十二日のことで、山一句会の吟行であった。]

 

美男美女に異常乾燥期の園

 

枯芝を燒きたくて燒くてのひらほど

 

少年を枝にとまらせ春待つ木

 

飛行機よ薔薇の木に薔薇の芽のうずき

 

サボテン愛す春曉のミサ修し來て

 

喇叭高鳴らせ温室の大サボテン

 

蘭の花幽かに搖れて人に見す

 

  埼玉縣吉見百穴 一〇句

 

卒業の大靴づかと靑荒地

 

貞操や春田土うれくつがえり

 

かげろうに消防車解體中も赤

 

芽吹く樹の前後抱きしめ女二人

 

老婆出て霞む百穴ただ見つむ

 

古代墳墓暗し古代のすみれ搖れ

 

百穴百の顏ありて復活祭

 

[やぶちゃん注:「復活祭」キリストの復活祭は移動祝日で、元来、太陰暦に従って決められた日であるから、太陽暦では年によって日付が変わる。グレゴリオ暦を用いる西方教会では、復活祭は三月二十二日から四月二十五日の間のいずれかの日曜日(ユリウス暦を用いる東方教会ではグレゴリオ暦の四月四日から五月八日の間のいずれかの日曜日)に祝われる。西方教会の日本福音ルーテル板橋教会HPの復活祭(イースター)一覧表に、この年一九六一年の復活祭はこの吟行(後注参照)の日、四月二日であった。]

 

聲のみの雲雀の天へ光る沼

 

みつまたの花嗅ぎ斷崖下の處女

 

春田深々刺して農夫を待てる鍬

 

[やぶちゃん注:底本の年譜によれば、同年四月二日、埼玉県吉見百穴へ『断崖』の吟行をし、帰途、新宿で数人と痛飲、とある。]

 

  南多摩百草園 一〇句

 

婆手打つげんげ田あれば河あれば

 

ひげの鯉に噴出烈し五月の水

 

溝川に砂鐵きらめき五月來ぬ

 

青梅びつしり女と女手をつなぎ

 

初蟬の唄絶えしまま羊齒の國

 

熊ん蜂狂ひ藤房明日は果つ

 

峽畑に寸の農婦となり耕す

 

風靑し古うぐひすの歎きぶし

 

つつじ赤く白くて鳶の戀高し

 

初蟬や松を愛して雷死にし

 

椎匂う強烈な闇誰かを抱く

 

臀丸く葱坊主よりよるべなし

 

子が育つ靑蔦ひたと葉を重ね

 

薔薇の家犬が先づ死に老女死す

 

薔薇の家かつら外(はず)れし老女の死

 

  奈良 八句

 

飛ぶものは白くて強し柳絮と蝶

 

青野に吹く鹿寄せ喇叭貸し給へ

 

突き上げて仔鹿乳呑む綠の森

 

乳房吸う仔鹿せせらぎ吸う母鹿

 

幼き聲々大仏殿にこもる五月

 

遠足隊わめき五月の森とび出す

 

藥師寺の尻切れとかげ水飮むよ

 

白砂眩し盲鑑眞は奧の奧に

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、この年五月に関西に旅して、二十五日に奈良着、当日、薬師寺・飛火野(とぶひの。奈良市街の東、春日大社に接する林野。「とびひの」とも。池や沢などもあり,奈良公園に属する。七一二年に急を告げる烽火(のろし)が置かれた地で、万葉などの古歌にも詠まれた歌枕)・春日大社を歩き、二十六日には東大寺・正倉院付近を歩いて神戸へ発っている。]

 

出水後の日へ赤き蟹雙眼立て

 

子供の笛とろとろ炎天死の眠

 

日本の笑顏海にびつしり低空飛行

 

岩あれば濡れて原色の男女あり

 

岩礁の裸女よ血の一滴を舐め

 

飴ふくみ火山の方へ泳ぎ出す

 

魚ひそみ乳房あらはれ岩の島

 

  市川流燈會 六句

 

[やぶちゃん注:これは千葉県市川市仏教連合会が毎年七月に催していた流燈会(灯籠流し)に寄せた句。底本年譜の七月二十九日の項に『市川に流灯会と花火を見に行く、夜「鶴」の句会に出る』とある。但し、その句会で作られた句かどうかは不明。]

 

流燈の夜も顏つけて印刻む

 

花火滅亡す七星ひややかに

 

遠雲の雷火に呼ばれ流燈達

 

流燈の列消しすすみ死の黑船

 

流燈の天愚かなる大花火

 

流燈の列へ拡聲器の濁み聲

 

  松山 七句

 

呼吸合う五月の闇の燈臺光

 

船尾より日出船首に五月の闇

 

萬綠の上の吊り籠(ゴンドラ)昇天せよ

 

城攻める濃綠の中鷄鳴けり

 

城古び五月の孔雀身がかゆし

 

天守閣の四望に四大黄麥原

 

麥刈りやハモニカへ幼女の肺活量

 

[やぶちゃん注:この句群は時間が巻き戻っている。先の関西行の一つで、例の奈良から神戸へ帰った五月二十六日夜、船で松山へ向かい、翌朝九時に松山着、その日の午後には『炎昼』の句会をこなし、二十八日砥部(とべ)窯場(砥部焼は愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器で別名、喧嘩器とも呼ばれる)を見学、二十九日に松本城・道後温泉に遊び、三十日には蛸壺漁などもしている。三十一日夜十一時に乗船して、翌六月一日朝九時に神戸帰着、その日のうちに、大阪で人に会い、午後、『天狼』発行所に立ち寄り、夜、十一時に葉山の自宅に帰った。当時、満六十一歳、もの凄い、パワーである。]

 

 

 

あとがき

 

 この句集は前句集「今日」以後の一〇七三句から成り、昭和二十六年秋から昭和三十六年秋まで、紛十年間の作品である。この間に十數年を過した關西から神奈川縣葉山に移住した。職業も齒科醫をやめ、いわゆる專門俳人になった。背水の陣である。それにもかかわらず、作品に精彩を缺くとせば、ただ自らの才能貧しきが故とせねばならない。

 この句集が突如刊行のはこびに至ったのは、昭和三十六年十月、私が胃癌の手術をうけ、餘病を發して危篤に陷った時、かけつけて來られた友人諸兄の協議によるのである。遺著にもなるべかりし句集を、命びろいして机上に置き得るのも運命というものであろう。

 この句集刊行の事に當られた友人諸兄に、心からなるお禮を申上げる。

  昭和三十六年歳晩

                                   著者

 

[やぶちゃん注:底本年譜によれば、同年八月上旬から胃の具合が悪くなり、九月に入ってレントゲンや検査を複数回受け、十九日に横浜市立大学附属病院で胃癌の疑い濃厚で切開手術の要ありと診断された(この間もその後も各種俳句大会や会議、恒例になっていた少年院訪問、さらに評論執筆など、実に精力的に動いている)。十月二日、横浜市立大学附属病院入院、病名、胃癌。九日、術式(午前九時開始、午後一時半終了)。十一月九日、退院(この間、十一月四日の『天狼』名古屋大会の挨拶を録音している)。十二月十六日の退院後の初めての外出先は久里浜少年院であった。二十日、東京の山一句会に出席、俳人協会設立に参加、とある。]

これで、西東三鬼が生前に出した四冊の句集は総て電子化した。

耳嚢 巻之六 幼兒實心人の情を得る事

 幼兒實心人の情を得る事

 

 享和三年の春、中川飛州(ひしふ)、支配所(どころ)廻村に出しに、野州芳賀都眞岡町邊通行の處、同所にて年頃十一二歳の小兒、願ひ有之(これある)由にて飛州駕籠の前に踞(うずくま)りし故、いかなる事にやと尋(たづね)しに、渠(かれ)は代々醫師に候處、四歳の節(せつ)親子離れ、祖母の養育にて生育せしが、何卒家の醫業致度候得共(いたしたくさふらえども)、在所にては修行も出來兼(かね)候間、江戸表へ出申度(まうしたき)由の願ひの由故、隨分江戸表へ召連れ行可遣(ゆきつかはすべき)なれど、幼年ものゝ儀、仔細もわからざる故、所のものへ尋(たづね)問ひしに、渠が親は篠崎玄徹と申(まうし)、小兒の申通(まうすとほり)、逸々(いちいち)無相違(さういなき)旨申(まうし)けるゆゑ、彼(かの)小兒の心より出し事とも思われず、祖母其外親類の申(まうし)勸めける事ならんとせちに糺(ただし)けれど、さる事にもあらざれど、猶(なほ)ためし見んと、江戸へ召(めし)連れ候には、坊主にいたさずしては難成(なりがたき)由を申聞(まうしきか)させけるに、坊主と聞(きき)て少しいなみし故、左もあらんと思ひしに、小兒心(をさなごころ)に坊主といえる、衣體(いたい)を着(ちやく)す出家の事なりと思ひいなみしよし。けさ衣(ごろも)を不用(もちゐざる)坊主は隨分いなみ候事なしと即座に髮を剃(そり)、飛州に附添ひ江戸へ召連れ、多喜安長方へ遺はしけるが、よほどかしこき性質(たち)の由、飛州物語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:少年綺譚連関。私好み。されば、訳の一部を映像的に敷衍して拡張してある。

・「実心」「じつしん」と読み、真心・実意・まことの心・偽りなき真実の心の意。

・「享和三年」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな話題である。

・「中川飛州」中川飛騨守忠英(ただてる 宝暦三(一七五三)年~文政一三(一八三〇)年)。明和四(一七六七)年に十五歳で家督(石高千石)を継ぐ。小普請支配組頭・目付を経て、寛政七(一七九五)年に長崎奉行となり、従五位下飛騨守となる。長崎奉行は寛政九(一七九七)年二月までこれを務めたが、長崎在勤中には手附出役の近藤重蔵らに命じて、唐通事(中国語通訳官)を動員、清の江南や福建などから来朝した商人たちより風俗などを聞き書きさせ、これを図説した名著「清俗紀聞」を編纂監修している。寛政九年、勘定奉行となり、関東郡代を兼帯した。本話柄の享和三年のまさに廻村の際、武蔵国栗橋宿(現在の埼玉県久喜市栗橋)に静御前の墓碑がないことを哀れんで、「静女之墳」の碑を建立している。文化三(一八〇六)年、関東郡代兼帯のまま大目付、文化四(一八〇七)年には蝦夷地に派遣され、文化八(一八一一)年には朝鮮通信使の応接を務めている。その後は文政三(一八二〇)年、留守居役(旗奉行を歴任)。旗奉行現職のまま、没。享和三年当時は満五十歳。因みに聴き手の根岸は南町奉行現職で六十六歳である。

・「野州芳賀都眞岡町」現在の栃木県真岡市。

・「坊主にいたさずしては難成」当時の医師は剃髪(坊主)している者が多かった。

・「坊主と聞て少しいなみし故、左もあらんと思ひしに、小兒心に坊主といえる、衣體を着す出家の事なりと思ひいなみしよし」少年は、坊主を出家して僧になることと考え、家名を継ぐことが出来ず、家名が途絶えると考えて難色を示したのであるが、忠英は子供心で坊主頭になるのが嫌なのだろうと一人合点したのである。

・「多喜安長」多喜元簡(もとやす 宝暦五(一七五五)年~年文化七(一八一〇)年)。寛政二(一七九〇)年侍医、同一一年には父元悳(もとのり)の致仕に伴い、その後を襲って医学館督事(幕府の医学校校長)となった。享和元(一八〇〇)年には医官の詮衡(=選考)について直言、上旨(将軍への進言)にまで及んだため屏居(=隠退・隠居)を命ぜられた。後、文化七(一八一〇)年に再び召し出されたが、その年の十二月に急死した。屏居中には著述に没頭、著書が頗る多い。「多喜安長方へ遺はしける」とは、当時、彼が督事であった医学館の学生として貰うように依頼したことを言う(以上は底本の鈴木棠三氏の注を参照した)。享和三年当時は医学館督事で満五十歳。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  幼な心の偽りなき誠が人の情けを得た事

 

 享和三年の春、中川飛騨守忠英(ただてる)殿が、御支配地を廻村なさておられた折りの話で御座る。

 

 上野国芳賀郡真岡町辺を通って御座ったところ、同所にて十一、二歳の少年が、

「――お願いが御座いまする!」

と、拙者の駕籠の前に蹲(うずくま)って御座ったゆえ、

「如何なることか?」

と尋ねたところ、

「……私の家は代々医師で御座いましたが、四歳の時、親と死に別れまして、祖母の養育にて育ちました。……しかし何としても、家業の医業を継ぎたく存じます。なれど、この田舎にあっては、医の修業も出来申さざれば、何とかして、江戸表へ出とう存じます!」

との願い出にて御座った。

「……それは……まあ、出来ることならば……江戸表へ召し連れて参ることは、これ、出来ぬ訳でも、ないが……」

と答えつつも、未だ頑是ない子どもこと、加えて仔細の事情も分からざれば、ところの者に訊ねてみたところ、

「……へえ、この者の親は篠崎玄徹と申す医者でござんした。子どもの申し上げましたことは、これ、一つ残らず、間違い御座いません。」

といった答えで御座ったが、

「いや……それにしても……この、もの謂い……坊主! うぬが本心から出たものとも、これ、思われぬ。……実はそなたのお祖母(ばあ)さまや、その外の親族なんどが、言い含めて勧めたことであろう? どうじゃ?」

と執拗(しゅうね)く問い糺いてみて御座ったれど……どうも、そういうことにても、これ、御座らぬ様子なれば、

「では……」

『さらに試してみると致そう。』

と存じ、

「……江戸へ召し連れて参るには――坊主に致さずんば――これ、叶え難いが……それでも、よいか?……」

と、その少年に申し聞かせたところが、「坊主」と聞いて、少し躊躇致いたゆえ、拙者、内心ほくそ笑んで、

『やはり、な。』

と思うて御座ったのじゃが、

「……坊主……とは……出家して僧侶となる……ということにて御座いまするか?」

と訊き返したゆえ、

「いやいや、そうではない。近頃の医者は法体(ほったい)と相場が決まっておる。」

と答えたところ。

「法体とは?」

と即座に訊き返すゆえ、

「法体とは、頭を丸めることじゃ。」

と答えたところ――少年は、ぱっと笑顔になって御座ったゆえ、よく訊き質いてみたところ、子供心にも、

「先ほど、お侍さまの仰せられた『坊主』、これ、坊主になるとは、かの袈裟などの衣帯を着(ちゃく)して出家となること、すなわち、家名を捨てて、出家遁世致さずんばならずということ、と存じたによって、少し躊躇致いて御座いました!」

と――あたかも拙者の心内(こころうち)の、ほくそ笑みを覗かれた如――否む体(てい)を示した理由まで、はっきりと申して御座った。

 そうして、その笑顔のままに、

「――袈裟衣を用いざる『坊主』なれば――全く以って否むものにては御座いませぬ!」

と言うが早いか、近くの百姓屋に飛び込んだかと思うと、借りて参ったらしい剃刀を以って、拙者の前にて、

――すっつすっつ

と即座に髪を剃ってしもうたので御座る。……

……されば拙者、もう、何も申さず、伴の者に命じて連れ添わせ、江戸表へ召し連れ帰って、医学館督事の多紀安長殿に頼んで、医学館の学生(がくしょう)にして貰いました。

 先日、安長殿に逢いましたが、安長殿も、

「かの少年は、これ、よほど賢き性質(たち)にて、随分、頑張って御座います。」

と申して御座った。……

 

 以上、飛騨守殿の直談にて御座る。

一言芳談 七十六

   七十六

 

 解脱上人云、一年三百六十日は、みな無常にしたがふべきなり。しかれば日夜十二時(とき)は、しかしながら終焉のきざみと思ふべし。

 

〇一年三百六十日、一年の日の内に、吉日といへども、人の死なぬ日といふはなし。禮讚に一切臨終時(じ)とあるを良忠上人の記に、時々尅々(じじこくこく)に臨終のおもひをなすと釋し給へり。

〇一年三百六十日は、無常のおしうつる也。人間百年よはひともいひ、七十古來まれなり共、杜子は作りける。一年といふより一日にいたり、十二時は無情の緩急をかきたり。

 

[やぶちゃん注:「一年三百六十日」本邦の旧暦は太陰太陽暦によるが、旧暦の一ヶ月の日数は月に固定されず、年毎に各月が三十日の大の月か、二十九日の小の月となり、その近似値として十二ヶ月×三十日で三百六十日とした謂いである。実際の太陰太陽暦における一年の日数は、平年で三百五十四日程度、補正のための閏月のある閏年の場合は三百八十四日程度で、年によって大きく異なる。

「禮讚に一切臨終時とある」善導「往生礼讃」の偈十二に、

あまねく師僧・父母および善知識、法界の衆生、三障を斷除して、同じく阿彌陀佛國に往生することを得んがために、歸命し懺悔したてまつる。

 心を至して懺悔す。

十方の佛に南無し懺悔したてまつる。願はくは一切のもろもろの罪根を滅したまへ。いま久近に修するところの善をもつて、囘して自他安樂の因となす。つねに願はくは一切臨終の時、勝縁・勝境ことごとく現前せん。願はくは彌陀大悲主、觀音・勢至・十方尊を覩たてまつらん。仰ぎ願はくは神光授手を蒙りて、佛の本願に乘じてかの國に生ぜん。

 懺悔し囘向し發願しをはりて、心を至して阿彌陀佛に歸命したてまつる。

とある。引用は「往生礼讃 (七祖) WikiArc」のものを正字化して引用した。

「良忠」(正治元(一一九九)年~弘安一〇(一二八七)年)は浄土僧。諱は然阿(ねんな)。謚号記主禅師(示寂七年後の永仁元 (一二九三) 年に伏見天皇より贈)。浄土宗第三祖とされる。「良忠上人の記」は不詳。識者の御教授を乞う。

「七十古來まれなり共、杜子は作りける」杜甫「曲江」より。七五八年、安禄山の乱が平定されたこの頃、杜甫は長安で左拾遺(さしゅうい)の官に就いていたが、敗戦の責任を問われた宰相房琯(ぼうかん)の弁護をして粛宗の怒りに触れ、曲江に通っては酒に憂さをはらしていた四十七歳の頃の作。

   曲江

 朝囘日日典春衣

 毎日江頭盡醉歸

 酒債尋常行處有

 人生七十古來稀

 穿花蛺蝶深深見

 點水蜻蜓款款飛

 傳語風光共流轉

 暫時相賞莫相違

  朝(てう)より回(かへ)りて 日日春衣(しゆんい)を典(てん)し

  毎日 江頭(かうとう)に酔(ゑ)ひを盡くして歸る

  酒債(しゆさい)は尋常 行く処に有り

  人生七十 古來稀なり

  花を穿(うが)つ蛺蝶(けふてふ)は深深(しんしん)として見え

  水に點ずる蜻蜓(せいてい)は款款(くわんくわん)として飛ぶ

  傳語(でんご)す 風光 共に流轉して

  暫時相ひ賞して 相ひ違(たが)ふこと莫(なか)れと

・「曲江」漢の武帝が長安城の東南隅に作った池。水流が之(し)の字形に曲折していたためかく名づけられた。当時は長安最大の行楽地であった(埋め立てられて現存しない)。

・「朝囘」朝廷から帰参する。

・「典」質に入れる。

・「酒債」酒代の借金。

・「蛺蝶」アゲハチョウ。又は蝶の仲間の総称。

・「蜻蜓」蜻蛉。トンボ。

・「款款」緩緩に同じい。ゆるやかなさま。

・「穿花」花の間を縫うように飛ぶ。一説に、蝶が蜜を吸うために花の中に入り込むことともいう。

・「點水」水面に尾をつける。トンボが産卵のために水面に尾をちょんちょんとつけるさま。

・「傳語」言伝(ことづ)てする。]

2013/01/26

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 荏之嶋辨才天

      荏之嶋辨才天

 

 金龜山荏之嶋辨才天(きんきさんゑのしまべんざいてん)は、上(かみ)の宮、下(しも)の宮、本宮(ほんぐう)、御旅所(おたびしよ)、いづれも結構華麗なり。別當岩本院、上(かみ)の坊、下の坊あり。また、窟(いわや)の辨天、洞(ほら)穴の中(うち)にたゝせ玉ふ。東國扶桑(ふそう)の景致(けいち)なり。名物、貝細工いろいろ、鮑(あはび)の粕漬(かすづけ)あり。春は江戸の休客(きうかく)、參詣おほく、いたつてにぎはしく群集(くんじゆ)なすは、まつたく御神(かみ)の利生(りせう)いちじるき故(ゆへ)なり。毎年四月上(かみ)の巳(み)の日、巳の刻に、窟本宮(いわやほんぐう)より山上の御旅所まで、音樂にて祭禮あり。

〽狂 むらさきのかすみに

    あけのたまがきや

  ごくさいしきのえの

    しまのけい

「なんと、昔の淸盛(きよもり)といふ人は、嚴島(いつくしま)の辨天さまにほれたといふことだが、俺等(おいら)もどうぞ、辨天さまを女房にはしいものだ。」

「とんだことをいふ。貴樣(きさま)と淸盛と一つになるものか。淸盛は佛(ほとけ)を妾(めかけ)にした人だから、その筈(はづ)の事だ。」

「イヤ、そういふな。俺(おれ)も佛を妾にしたことがあつた。」

「なに、貴樣の妾の佛といふは、何時(いつ)ぞや、貴樣の家(うち)に食客(いそうろう)にゐた比丘尼婆々(びくにばゞあ)のことであらう。世間には、いろいろがある。己(おら)が隣りの割鍋(われなべ)、その亭(てい)主が、綴蓋(とぢぶた)を女房にしてゐるは相應だが、その向かふの下駄(げた)屋の女房は燒味噌(やきみそ)。まだつりあはぬは、新道(しんみち)の提燈屋(てうちんや)の亭主は、釣鐘(つりがね)を女房にもつてゐる。」

「これこれ、割鍋屋の綴蓋もよし、下駄屋の燒味噌といふは、あの嬶(かゝあ)は燒き手(て)だといふことだから、それで燒味噌はきこへたが、提燈屋の女房を釣鐘といふは、どうしたわけだ。」

「イヤ、女房の渾名(あだな)を釣鐘といふは、御亭主のつくたびに、いつも、うんうんと、うなるそうだから、それで釣鐘といひます。」

[やぶちゃん注:江ノ島の詳細は新編鎌倉志巻之六の「江島」及び鎌倉攬勝考卷之十一附録の「江之島」の項を参照されたい。

「御旅所」神社の祭神が神輿・鳳輦また船などで神幸した際、仮に遷座する場所のこと。頓宮・御輿宿・御旅宮などともいう。これは現在では江の島の奥津宮(本宮)そのものを言う。鎌倉攬勝考卷之十一附録の「江之島」の項に、

本宮御旅所 毎年四月上旬初巳より、十月初亥日迄は、此山上の宮に遷座、仍て神體其餘寶器も、皆山上の假宮に移し奉る。

とあり、また同「例祭」の項には、

例祭 毎年四月初巳日、龍窟より辨財天を神輿に遷し奉り、別當岩本院を始とし、社僧神人行装を整へ、音樂を奏し、御旅所え遷座。此節は参詣の緇素、群をなせり。十月初亥日、又龍窟へ還幸、行装前後同じ。

引用文中の「緇素」の「緇」は黒、「素」は白で、僧と俗人の衣服から、僧俗の意である。以上から考えると、本宮と御旅所は別箇な建物ではなく、恐らくは祭礼時に本宮をハレの場として御旅所・仮宮と別に呼称したもののように思われる。

「扶桑」日本国の異称。

「景致」自然の有り様や趣き。風趣。

「窟本宮」引用で分かるように龍窟を指し、現在の第一窟に相当する。昔はここに現在の辺津宮(下の宮)にある弁財天が祀られていた。

「嚴島の辨天」宮島の大願寺蔵の厳島弁財天像。江の島と琵琶湖の竹生島とともに日本三弁財天と称される。空海作と伝えられる秘仏で、現在は年に一度、六月十七日にのみ開帳される。

「淸盛は佛を妾にした」晩年の清盛が寵愛した白拍子仏御前に掛けた洒落。

「比丘尼」江戸期、尼の姿をした下級売春婦をかく呼称した。

「己が隣りの割鍋、その亭主が、綴蓋を女房にしてゐる」話者の隣人は、鋳掛屋であった(後文で「割れ鍋屋」と出る。銅や鉄の鍋釜を鞴持参で修理した行商人)のに、「割れ鍋に綴じ蓋」の諺を掛けた洒落。「割れ鍋に綴じ蓋」とは、破損した鍋であっても、それに似合う蓋があることの謂いから、どんな(一般には不細工不器用な)人にもそれなりに相応しい配偶者があるという譬え、又は、主に男女というものは似通った者同士の組み合わせが上手くゆくという譬えとして用いられるが、所謂、褒め言葉としては通常、使われない。

「下駄屋の燒味噌」斜め向かいの亭主が下駄屋であったことを、「下駄と焼味噌」という諺に掛けた洒落。味噌を板や箆につけて焼いた焼き味噌と、履き心地と持ちをよくするために材を焼いた杉下駄は、その形だけしか似ていない、という意から、外形は似ているが実質は全く異なることの譬え。

「新道」恐らくは話者の住むのは裏長屋の路地で、そこよりやや広い道が、新道とか小路とか呼ばれ、道幅が九尺(約三メートル)以上あった。

「きこえたが」この「きこゆ」は相手の言うことを納得して認めることが出来る。物事の訳が理解出来るの謂い。分かったが。

「提燈屋の亭主は、釣鐘を女房にもつてゐる」は提燈屋の亭主に「提燈に釣鐘」、「割れ鍋に綴じ蓋」の逆で、形は似ていても重さに格段の違いがあるところから、物事の釣り合わないことの譬えの諺を掛けた洒落。なおこれは、一方が重い、すなわち「片重い」であるから、片思いの洒落としても用いる。……但し、最後の明らかになるように、これには、そうではなく……美事にエロティックな洒落が掛けられているのである。]

西東三鬼句集「變身」 昭和三十五(一九六〇)年 八九句

昭和三十五(一九六〇)年 八九句

 

海越えて白富士も來る瘤から芽

 

木になれぬ生身(なまみ)は歩く落葉一重

 

氣ままな鳶冬雲垂れて沖に垂れ

 

老斑の月より落葉一枚着く

 

丸い寒月泣かんばかりにドラム打つ

 

ひつそりと遠火事あくびする赤子

 

太陽や農夫葱さげ漁夫章魚さげ

 

凧揚げて膿の平を一歩踏む

 

巨犬起ち人の胸押す寒い漁港

 

廢船に天水すこしそれも寒し

 

晝月も寒月戀の猫跳べり

 

赤い女の絶壁寒い海その底

 

明日までは轉覆し置く寒暮のトロ

 

[やぶちゃん注:「トロ」はトロ箱であろう。鮮魚を入れて運ぶ箱で、トロはトロール網を語源とする。]

 

寒の入日へ金色(こんじき)の道海の上

 

細き靴脱ぎ砂こぼす寒の濱

 

富士白し童子童女の砂の城

 

寒雀仰ぐ日の聲雲の聲

 

寒雀おろおろ赤子火の泣聲

 

髮長き女よ燒野匂い立つ

 

大寒の手紙「癒えたし子産みたし」

 

鐵路まで伊吹の雪の自厚し

 

深雪搔く家と家とをつながんと

 

  黑谷忠居

 

一夜明け先づ京風の寒雀

 

[やぶちゃん注:「黑谷忠」は『天狼』同人。]

 

飢えの眠りの仔犬一塊梅咲けり

 

自由な鳶自由な春の濤つかみ

 

蛇出でて優しき小川這ひ渡る

 

もんぺの脚短く開き耕す母

 

耕しの母石ころを子に投げて

 

底は冥途の夜明けの沼に椿浮く

 

黑髮に戻る染め髮ひな祭

 

  秩父長瀞 九句

 

風出でて野遊びの髮よき亂れ

 

鶯にくつくつ笑う泉あり

 

常にくつくつ笑ふ泉あり

 

春水の眠りを覺ます石投げて

 

一粒づずつ砂利確かめて河原の蝶

 

萬年の瀞の渦卷蝶溺れ

 

電球に晝の黄光ちる櫻

 

老眼や埃のごとく櫻ちる

 

花冷えをゆく灰色のはぐれ婆

 

草餠や太古の巖を撫でて來て

 

炎えている他人(ひと)の心身夜の櫻

 

黄金指輪三月重い身の端に

 

どくだみの十字に目覺め誕生日

 

薔薇に付け還曆の鼻うごめかす

 

五月の海へ手垂れ足垂れ誕生日

 

  横濱ヨットレース 六句

 

ヨット出發女子大生のピストルに

 

潮垂らす後頭ヨットに弓反りに

 

大學生襤褸干す五月潮しぼり

 

大南風赤きヨットに集中す

 

女のヨット内灣に入り安定す

 

猫一族の音なき出入り黴の家

 

うつむく母あふむく赤子稻光

 

夏落葉亡ぶよ煙なき焰

 

熱砂に背を擦る犬天に四肢もだえ

 

暑き舌犬と垂らして言はず開かず

 

産みし子と肌密着し海に入る

 

老いざるは不具か礁に髮焦げて

 

炎天に一筋涼し猫の殺氣

 

晝寢覺凹凸おなじ顏洗ふ

 

近づく雷濤が若者さし上げる

 

海から誕生光る水着に肉つまり

 

夜の深さ風の果さに泳ぐ聲

 

暗い沖へ手あげ爪立ち盆踊

 

地を蹴つて摑む鐵棒歸燕あまた

 

東京タワーという昆蟲の灯の呼吸

 

洞窟に湛え忘却一の水澄めり

 

死火山麓かまきり顏をねぢむけて

 

  妻、高血壓

 

草食の妻秋風に肥汲むや

 

  手賀沼 一〇句

 

いわし雲人はどこでも土平(なら)す

 

麹干しつつ口にも運ぶ舊街道

 

陸稻刈るにも赤き帶紺がすり

 

臀丸き妻の脱穀ベルト張り

 

犬連れて沼田の稻架を裸にす

 

穭田の水の太陽げに圓し

 

[やぶちゃん注:「穭田」は「ひつじだ」と読む。秋の田の稲を刈った後のその切り株からまた新しい青い芽が出て茎が伸びている状態を「穭(ひつじ)・と呼び、一面にそれが出た田を「穭田(ひつじだ)」という。秋の季語。]

 

東西より道來て消えし沼の秋

 

千の鴨木がくれ沼に曇りつつ

 

蜂に凴かれ赤シャツ逃げる枯蘆原

 

[やぶちゃん注:「凴かれ」の「凴」は「凭」と同字であるが、凭れるの意の「凭」はまた、「憑」と同字でもあるため、ここは「つかれ」と訓じているものと思われる。]

 

雲はずれしずかに明治芝居の野菊咲く

 

鳶ちぎれ飛ぶ逆撫での野分山

 

渚來る胸の豐隆秋の暮

 

秋の暮大魚の骨を海が引く

 

  名古屋

 

大鐵塔の秋雨しつく首を打つ

 

  田縣神社

 

木の男根鬱々秋の小社(やしろ)に

 

[やぶちゃん注:「田縣神社」愛知県小牧市田県町にある田縣(たがた)神社。毎年三月に行なわれる豊年祭で知られる。以下、ウィキ田縣神社を主に参照して記載する。創建年代不詳のかなり古い土着信仰に基づく神社で、子宝と農業の信仰を結びつけた神社であり、延喜式神名帳にある「尾張国丹羽郡 田縣神社」、貞治三(一三六四)年の「尾張国内神名牒」にある『従三位上 田方天神』に比定されている。現在地は旧春日井郡なので後に遷座したことになる。祭神は五穀豊穣と子宝の御歳神(としがみ)と玉姫神で、社伝によれば、当地は大荒田命(「旧事本紀」にみえる神で尾張邇波県(にわのあがたの)君の祖。娘の玉姫が饒速日(にぎはやひの)命の十二代の孫建稲種(たけいなだねの)命の妻となり二男四女を生んだとする)の邸の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。玉姫は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られるようになったという。境内には、男根をかたどった石などが、多数祀られている。豊年祭は毎年三月十五日に行われる奇祭で、別名「扁之古祭(へのこまつり)」ともいう。男達が「大男茎形(おおおわせがた)」と呼ばれる男根をかたどった神輿を担いで練り歩き、小ぶりな男根をかたどったものを巫女たちが抱えて練り歩く。それに触れると、「子どもを授かる」と言われており、この祭事は、男根を「天」、女陰を「地」と見立てて、天からの恵みによって大地が潤い、五穀豊穣となる事と子宝に恵まれることを祈願する祭事である。春に行われる理由は、「新しい生命の誕生」をも意味するからである。なお、少し離れた場所にある犬山市の大縣神社の豊年祭(別名「於祖々祭(おそそまつり)」)が対になっており、こちらは女陰をかたどった山車などが練り歩く。お土産品として男根を象った飴やチョコレート、オブジェなどが売られている。]

 

  黑谷忠

 

亡妻(つま)戀いの涙時雨の禿げあたま

 

  神戸埠頭

 

病む美女に船みな消ゆる秋の暮

 

濃き汗を拭いて男の仮面剝げし

 

足跡燒く晩夏の濱に火を焚きて

 

沖へ歩け晩夏の濱の黑洋傘(こうもり)

 

吹く風に細き裸の狐花

耳囊 卷之六 窮兒も福分有事

 

 窮兒も福分有事

 

 石川左近將監(しやうげん)かたりけるは、十八九年以前大御番(おほごばん)を勤(つとめ)、在番とて上方へ登りしに、由比(ゆひ)の河原(かはら)に拾貮計(ばかり)の坊主、肌薄(はだうす)にて泣入居(なきいりをり)候を頻りに不便(ふびん)に思ひ、立寄りて樣子を尋問(たづねとひ)しに、八王子のものにて京都智積院(ちしやくゐん)へ學問に登るとて同志の出家に伴はれけるに、連れの出家は途中にて離れ、ひとりさまよひしに、わるものゝために衣類荷物等を奪れ、すべき樣なしと申けるを頻りに不便に思ひ、何卒其行方(ゆくかた)へ送り可遣(つかはすべき)處、八王子へ送るべき樣も無之(これなく)、上方へ伴ひ遣さんと尋ねければ、さもあらば誠にありがたしと答へける所へ、江戶新川(しんかは)の酒屋手代通り懸り、是も上方へ登り、江州に在所有之(これあり)、是より立寄候間、江州までは可召連れ(めしつれべし)といひし故、左近將監が供連(ともつれ)の内へ入れて、次の泊りに旅宿(はたご)の者を賴み古着など調へ着せ、右新川の手代に渡し、跡へ成(なり)先へなり大津まで至りしに、約束なれば、新川の手代は江州より分れ、大津にて人を賴み智積院へをくるべきや如何(いかが)せんと思ひしに、眞言宗の出家兩人、大津の馬宿(うまやど)へ差懸(さしかか)り、右小僧の樣子を左近將監が從者に聞(きき)て、さてさて仕合成(しあはせなる)者なり、同宗の僧侶すて置(おく)べきにあらず、我らより智積院へをくるべきと言ひし。幸(さいはひ)なる事と、いさいに右出家の樣子を聞しに、是も智積院へ學問修行に登るよし。右出家へ引渡しけるが、京都智積院よりも大阪在番先へ、右小僧屆(とどき)し趣(おもむき)申來(まうしきた)り、其後は音信(いんしん)もなかりしが、今は八王子在大畠村寶生寺といへる御朱印地の寺に住職して、左近將監方へは、其恩儀を思ひ絕へず尋問して、懇意に致候となり。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。私は何故か、この小話が好きである。映画に撮ってみたいぐらい、好きである。

 

・「石川左近將監」前の「英雄の人神威ある事」に既出の石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)彼は安永二(一七七三)年に大番、天明八(一七八八)年には大番組頭となって寛政三(一七九一)年に目付に就任するまで続けている。「左近將監」は、ここで注しておくと、左近衛府の判官(じょう)のことを指す。

 

・「十八九年以前大御番を勤」「大御番」は同じく「英雄の人神威ある事」の注を参照のこと。ここは大阪城警護である。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、ここから逆算すると「十八九年以前」は、天明五(一七八五)年か六年辺りを下限とするから、どんぴしゃり! 石川が大番組頭になる前の大番であった頃の出来事であることが分かる。【2014年7月15日追記】最近、フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!

 

・「由比」静岡県の中部の旧庵原郡にあった東海道由比宿の宿場町。現在は静岡市清水区。『東海道の親不知』と呼ばれた断崖に位置する。付近には複数の河川があり、同定不能。

 

・「智積院」現在の京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町にある真言宗智山派総本山五百佛山(いおぶさん)智積院(ちしゃくいん)。寺号を根来寺(ねごろじ)という。ここ(グーグル・マップ・データ)。開基は玄宥(げんゆう)。

 

・「新川」東京都中央区新川の霊岸島付近。霊岸島とは元、日本橋川下流の新堀と亀島川に挟まれた島で古くは江戸の中島と呼ばれたが,改名は寛永元(一六二四)年に霊巌雄誉が霊巌寺を建立したことに由来する。しかし明暦の大火後に寺が深川に移転、その後は町屋が増加し、後に河村瑞賢が日本橋川に並行して中央に運河である新川を掘削、これが現称地名の「新川」となった。以後この付近は永代橋まで畿内からの廻船が入り込むことが可能であっために、江戸の港として栄え、下り物の問屋として霊岸島町には瀬戸物問屋が多く、また銀(しろがね)町や四日市町には酒問屋が多かった(以上は平凡社「世界大百科事典」の「霊岸島」に拠った)。

 

・「可召連れ」「れ」の送りはママ。

 

・「馬宿」一般名詞。駅馬・伝馬に用いる馬を用意しておく場所。

 

・「をくるべきと言ひし」の「べき」はママ。

 

・「大畠村寶生寺」底本の鈴木氏注に、『大幡が正。宝生寺は山号大幡山。八王子市西寺方町。真言宗智山派。中興開山頼紹僧正は小田原北条氏時代、八王子城主から信仰され、天正十八年落城のとき、城内で怨敵退散の護摩をたき、そのまま焼死をとげた。のち家康が寺領十石を寄進した』とある。開山は明鑁(めいばん)上人で応永三十二(一四二五)年と伝えられるが、没年が延文五(一三六〇)年と合わず、開山は儀海とする説もある。

 

・「御朱印地」幕府が寺社などに御朱印状を下付し、年貢諸役を免除した土地を指す。質入は厳禁され、国役金が課され、御朱印状は将軍代替わりごとに下付された。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 窮したる子にも神仏の御加護があるという事

 

 

 石川左近将監(さこんのしょうげん)忠房殿のお話。

 

……十八、九年以前のこと、大御番(おおごばん)を勤め、在番方として上方へ登って御座ったが、その途中、駿河の由比の河原(かわら)にて、十二歳ばかりの青坊主、如何にもな薄着のままに、泣きながら蹲って御座った。……

 

……その泣き声、これ、頻りに不憫を誘いましてのぅ……立ち寄って、仔細を尋ね問うてみましたところ……これ、八王子の者にて、京都智積院(ちしゃくいん)へ学問修行に登るとて、同志の出家に伴はれて発ったものの、連れの出家とは途中にて逸(はぐ)れ、独り彷徨(さまよ)うて御座ったところが、悪者がために衣類荷物、悉くを奪れ……

 

「……どうしたらよいか……分かりませぬ……」

 

と今にも消え入りそうな声で申しけるによって、頻りに不憫に思うて、

 

「……まあ、何とか御坊の、行く方(かた)へと送って遣わそうとは存ずるが……八王子へ送り帰すは、これ、なかなかのことじゃ……いっそ、上方へ伴(ともの)うて遣わそうと存ずるが、如何(いかが)?」

 

と、訊ねたところ、

 

「……そうして戴けるならば……これ、誠に、ありがたきことに御座いまするぅ!……」

 

と、切羽詰って縋(すが)って参った。……

 

 たまたま、そこへ江戸新川の酒屋の手代が通りかかりましての。聴けば、これ、

 

「……へえ、儂(あっし)は上方へと登りやす。……ただ、近江に在所がありやすんで、そこへちょいと立ち寄ろうかと思うておりやすんで……しかし、不憫な子(こお)や――分(あ)かりやした! 近江までは儂(あっし)が連れて参りやしょう!」

 

と肯(がえ)んじたゆえ、拙者の供連(ともづれ)の内へ、この手代と小坊主を入れての、道中と相い成って御座った。……

 

 次の宿場にて、旅籠(はたご)の者に頼み、古着なんどを買わせて着せ、かの新川の手代に引き渡し、その後(のち)も、拙者の後へなり先へなりして、大津まで参って御座った。

 

 約束なれば、新川の手代は、ここより近江の在所へと別れて御座った。

 

拙者は、さて……大津にて人に頼んで智積院へ送るがよいか……いや……にしても……悪しき者どもに襲われたるこの子(こお)の心持ちを思えば……これ……頼むべき人物も……相応に考えずばなるまい……さても……如何(いかが)せんとするが、よきか……』

 

 

と思案致いて御座った。……

 

 そう考え込んで御座った丁度その折り、大津の馬宿(うまやど)へさしかかって御座ったのじゃが、これまた、たまたま、真言宗の出家が二人、拙者の供連れと歩む少年僧が眼に入って、そっと我らが従者に仔細を訊ねて御座ったと申す。

 

 従者の話を聴いた二人の僧は、早速に拙者に言上致いて、

 

「いや! さてさて、この男児も幸せなる者で御座る! 同宗の僧侶なればこそ、捨て置く訳には、これ、参りませぬ。我ら方より、確かに智積院へお送り申し上げましょうぞ!」

 

と、先方より願い出て御座った。

 

「幸いなることじゃ!」

 

と、委細に、かの二人の出家に問うて素性を確かめたところが、実はこの二人も、かの智積院へ学問修行に登る途中の由に御座ったゆえ、これならばと心得、その出家たちへ少年僧を引き渡して、くれぐれも確かに届け呉るるように頼み、その場は別れて御座った。……

 

 その後、京都智積院からも拙者の勤むる大阪在番先へ、かの二人の僧に預けた小僧が辿り着いた旨の申し状が届いて御座った。……

 

 その後は……暫くは消息も御座らなんだが……修学よろしく、かの青坊主……今は八王子在の大畠村、かの知られた宝生寺(ほうしょうじ)という御朱印地の寺にて、住職と相い成って御座ってのぅ!……拙者が方へは、かの折りの恩儀を思うて、これ、絶えず訪ねて参りましてのぅ……大層、懇意に致して御座るのじゃ。……

 

と、忠房殿、如何にも嬉しそうに、目を細めて語られて御座った。

一言芳談 七十五

  七十五

 

 有云く、「後世をねがはゞ、世路(せいろ)をいとなむがごとし。けふすでに暮れぬ。渡世はげまざるにやすし。今年もやみやみと闌(た)けぬ、一期(いちご)いそがざるに過ぎぬ。よひにはふしてなげくべし、いたづらにくれぬることを。暁(あかつき)にはさめて思ふべし、ひめもすに行(ぎやう)ぜん事を。懈怠(けだい)の時には、生死無常を思へ。惡念思惟(あくねんしゆい)の時には聲をあげて念佛すべし。鬼神魔緣(きじんまえん)等におきては、慈悲をおこして利益をあたへ、降伏(がうぶく)の思ひをなす事なかれ。貧は菩提のたね、日々に佛道にすゝむ。富は輪廻のきづな、夜々(やや)に惡業をます。」

 

〇或云、行者用心集にこれを引きて惠心の釋と云ふ。

 

[やぶちゃん注:「世路(せいろ)」読みはⅠ・Ⅲに拠る。Ⅱは「せろ」と振る。何れで読んでも、世の中を渡って行く道、世渡り。また、渡って行く世の中、世途であり、『極楽往生を願うこと』は『人生を生きること』と同じである、というのである。

「やみやみと闌けぬ」本来は、盛りの時期・状態になる、たけなわになる、又は、盛りの時期・状態を過ぎるであり、ここが今年も何も出来ず無為に暮れてしまった、の意。Ⅱ・Ⅲは「やみやみと」が「やみやみ」。

「一期いそがざるに」人生は、主体的に急ごうと思っている訳でもないのに。

「ひめもす」「終日(ひねもす)」に同じい。

「魔緣」人の心を迷わせる悪魔。

「夜々」夜毎。日毎で、無明の闇を掛けるのであろう。

「行者用心集」室町時代の天台僧存海が天文一五(一五四七)年に記したもの。彼は釈存海と名乗っているから晩年は浄土宗に帰依したものと思われる。

「惠心」源信。]

2013/01/25

「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の「鹽嘗地藏」の「明道ノ石佛」注補正

「ひょっとこ太郎」氏より御指摘を頂き、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の「鹽嘗地藏」の「明道ノ石佛」の注を補正した。孤独な作業者としての僕としては、「ひょっとこ太郎」氏には、何遍、謝意を評しても足らない気がしている。ありがとう!

西東三鬼句集「變身」 昭和三十四(一九五九)年 九六句

昭和三十四(一九五九)年 九六句

 

  宇都宮大谷採石場 五句

 

落葉しつかな木々石山に根を下ろし

 

遺愛山掘り掘つてどん底霧沈む

 

面壁の石に血が冷えたがねの香

巨大なる影も石切る地下の秋燈

 

切石負い地上の秋へ一歩一歩

 

木の林檎匂ひ火山に煙立つ

 

冬耕の短き鍬が老婆の手

 

冬に生ればつた遲すぎる早すぎる

 

けもの臭き手袋呉れて行方知れず

 

  信濃 五句

 

黑天にあまる寒星信濃古し

 

個々に太陽ありて雪嶺全しや

 

地吹雪の果に池あり虹鱒あり

 

卵しごきて放つ虹鱒若者よ

 

月光のつらら折り持ち生き延びる

 

滿開の梅の空白まひる時

 

豐隆の胸の呼吸へ寒怒濤

 

霰うつ嚴に渇きて若い女

 

寒の濱婚期の焰焚火より

 

春の小鳥水浴び散らし弱い地震

 

  世田谷ぼろ市 五句

 

寒星下賣る風船に息吹き込む

 

寒夜市目なし達磨が行列す

 

寒夜市餠臼買ひて餠つきたし

 

ぼろ市に新しきもの夜の霜

 

ぼろ市さらば精神ぼろの古男

 

[やぶちゃん注:「世田谷ボロ市」は、天正六(一五七八)年に小田原城主北条氏政がこの地に楽市を開いたのが始まりとされ、世田谷を代表する伝統行事として四百年以上の歴史を有し、現在も続いている。当初は古着や古道具・農産物などを持ち寄ったことから「ボロ市」という名前がついたとされてるが、現在では骨董品・日用雑貨・古本や中古ゲームソフトを売る露天もあり、代官屋敷のあるボロ市通りを中心に、約七百店の露天が所狭しと並び、毎年多くの人々で賑う。(三瓶嶺良(さんぺいれいら)氏の「がんばれぼくらの世田谷線~東急世田谷線ファンサイト~」の「世田谷ボロ市」の記載に拠る)]

 

うぐひすや水を打擲する子等に

 

腰伸(の)して手を振る老婆徒長の麥

 

[やぶちゃん注:「徒長」は「とちょう」と読み、日光不足(より強い光を求めて上へ上へと伸長する結果瘦せる)・水分過多(水太りのようになって急速な細胞分裂が生じ、縦に無意味に伸び、結果、各細胞の細胞壁が薄い状態が持続してしまう)・栄養不足(細胞壁の堅固な生成に必要な窒素を補給出来ず細胞壁が薄いまま分裂してしまう。但し、栄養不足で徒長が必ず植物に起こるという訳ではなく、各植物の性質に拠るが、徒長せずに普通に育つものでも、極度に脆いというケースの方が多い)・栄養過多(稀なケースで、窒素が過剰だと勢いよく生長し、結果として徒長してしまうことがある)などが原因で起こる植物の状態を指す語。株全体がヒョロヒョロと縦に長く生長し、正常に育った個体と比べると病弱虚弱で、野菜の場合は収穫量が減り、園芸植物の場合は花の数が極端に減る。生物学的には総じて細胞壁が薄くなるため、葉を食害する虫にとっては大変食べやすく、アブラムシなどの汁を吸う虫にとっても大変吸いやすい状態となる。また、ウィルス等から身を守る細胞壁の薄化は免疫力の低下を齎し、結果として病気にも罹患し易くなる。多くの場合は水分過多も平行して併発しているので、水分さえ適量ならば栄養過多で徒長することはあまりない(以上はサイト「園芸百科事典 おもしろ野菜」の「徒長」に拠った)。]

 

火の山のとどろく霞船着きぬ

 

生ぱんと女心やはらか春風

 

[やぶちゃん注:「生ぱん」生パン。焼いていないパン、また、パン作り工程上で焼く直前のパン生地状態のもの、あるいはトーストしていない食パンの謂いであるが、最後のものであろう。]

 

西方に春日紅玉死にゆく人

 

晝のおぼろ泉を出でて水奔る

 

舐め癒やす傷やぼうぼう木の芽山

 

黑眼ひたと萌ゆる林を出で來たる

 

椿ぽとりと落ちし暗さにかがむ女

 

男等萌え女等現れ春の丘

 

種まく手自由に振つて老農夫

 

筍の聲か月下の藪さわぐ

 

夜が明ける太筍の黑あたま

 

  横濱 七句

 

巨大な棺五月プール乾燥し

 

光り飛ぶ矢新樹の谷に的ありて

 

沖に船氷菓舐め取る舌の先

 

眼鏡かけて刻む西曆椎の花

 

椎どつと花降らす下修道女

 

船の煙突に王冠三つ汗ばむ女

 

煙と排水ほそぼそ北歐船晝寢

 

新じゃがのえくぼ噴井に來て磨く

 

燕の巣いそがしデスマスクの埃

 

春畫に吹く煙草のけむり黴の家

 

岩沈むほかなし梅雨の女浪滿ち

 

犬も唸るあまり平らの梅雨の海

 

畑に光る露出玉葱生き延びよと

 

言葉要らぬ麥扱母子影重ね

 

麥ぽこり母に息子の臍探し

 

麥殼の柱竝み立て今も小作

 

踊の輪老婆眼さだめ口むすび

 

炎天の「考える人」火の熱さ

 

黑雲から風髮切蟲鳴かす猫

 

全き別離笛ひりひりと夏天の鳶

 

海溝の魚に手觸れて泡叫ぶ

 

蟹死にて仰向く海の底の墓

 

沖に群れ鳴る雷濱に花會

 

逃げ出す小鳥も銜える猫も晩夏一家

 

朝草の籠負い皺の手の長さ

 

蟲鳴いて萬の火花のしんの闇

 

蠅と遊ぶ石の唐獅子磯祭

 

棒に集る雲の綿菓子秋祭

 

波なき夜祭芝居は人を斬る

 

  一夜、草田男氏笑っていう、

  「一九〇〇年生まれの三鬼は一九世紀、

   一九〇一年生まれの我は二〇世紀」と

 

汗舐めて十九世紀の母乳の香

 

象みずから靑草かずき人を見る

 

ゴリラ留守の炎天太きゴムタイヤ

 

死火山の美貌あきらか蚊帳透きて

 

秋滿ちて脱皮一片大榎

 

露の草嚙む猫ひろき地の隅に

 

昔々の墓より墓へもぐらの路

 

白濁は泉より出で天高し

 

秋の蜂群がり土藏龜裂せり

 

女顏蜘蛛の巣破り秋の森

 

學僧も架くる陸稻も蒼白し

 

  草城先生遺宅 二句

 

實となりし草はら遺愛の猫瘦せて

 

死靈棲みひくひく秋の枝蛙

 

  須磨水族館  三句

 

美女病みて水族館の鱶に笑む

 

新しき今日の噴水指あたたか

 

乾き並ぶ鯨の巨根秋の風

 

  松山へ 三句

 

水漬くテープ月下地上の若者さらば

 

露の航ペンキ厚くて女多し

 

力士の臍眠りて探し秋の航

 

  予志と八句

 

松山平らか歩きつつ食ふ柿いちじく

 

秋日ふんだん伊豫の鷄聲たくさん

 

あたたかし金魚病むは予志の一大事

 

赤き靑き生姜菓子賣る秋の暮

 

城高し刻み引き裂き點うつ百舌鳥

 

切れぬ山脈柿色の柿地に觸れて

 

小屋ありて爺婆ひそむ秋の暮

 

みどり子が奥深き秋の鏡舐め

 

[やぶちゃん注:谷野予志(たにのよし 明治四〇(一九〇七)年~平成七(一九九五)年)俳人。本名は谷野芳輝。旧制松山高等学校を経て京都大学英文科を卒業、愛媛大学教授。昭和九(一九三四)年より作句を始め、水原秋櫻子の『馬酔木』と『京大俳句』に投句。昭和一四(一九三九)年「馬酔木」同人となるが、昭和二三(一九四八)年に山口誓子の『天狼』創刊とともに『馬酔木』を辞し創刊同人として参加した。昭和二四(一九四九)年『炎昼』創刊主宰。三鬼より七つ下の松山の『天狼』派(「インターネット俳句センター」の谷野予志に拠る。彼の句は同所の野予志の俳句 秀句とその鑑賞で読める。]

 

  藤井未萌居 二句

 

文鳥の純白の秋老母のもの

 

旅ここまで月光に乾くヒトデあり

 

[やぶちゃん注:「藤井未萌」桜楓社「新訂俳句シリーズ・人と作品13 西東三鬼」の「三、松山行」の二八二~二八三頁によれば、『天狼』派の俳人で伊予市の内科医。]

耳嚢 巻之六 女妖の事

 女妖の事

 

 萩原彌五兵衞御代官所下總國豐田郡川尻村名主新右衞門家來、百姓喜右衞門後家さきといふ者、享和三亥年、八拾三歳になり、新右衞門方にて召仕(めしつかひ)同樣いたし置(おき)けるに、同村吉右衞門迚(とて)五十六歳になりける者と、一兩年此方(このかた)心易(こころやすく)、夫婦になり度(たき)由さきより新右衞門の内に願ひけれども、年寄の事あるべき事にもあらずと、差押取合(さしおさへとりあは)ざりけるが、吉右衞門と申合(まうしあひ)、駈落(かけおち)もいたすべき風聞ありければ、新右衞門も止(やむ)事を得ず、さきが願ひにまかせ吉右衞門を入夫(にふふ)になしける由。鈴木門三郎廻村の節、新右衞門墓所に右さき居合(ゐあひ)候を見をよびしが、齒は落不申(おちまうさず)、鐡漿(かね)黑く附(つき)て、頭は白髮にて、立廻りは五十歳位にも見へしと、門三郎かたりぬ。所にては、吉右衞門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交(まじは)りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:享和年間の出来事で連関。ハッスルさきおばあちゃんのお話で、都市伝説というより、記述の仕方が、地下文書風で、最後の一文の興味本位の叙述を除き、事実譚として捉えてよい。

・「萩原彌五兵衞」「萩原」ではなく荻原が正しい(訳では訂した)。荻原友標(ともすえ 寛保元・元文六(一七四一)年~?)。底本の鈴木氏注に、『明和二年(二十五歳)家督』(明和二年は西暦一七六五年)、『六年御勘定、八年御代官に転ず。享和三年武鑑に、常陸下総の代官と出ている』とあるから、享和三(一八〇三)年とぴったり一致し、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、極めてホットな噂話でもあることが分かる。

・「さきといふ者、享和三亥年、八拾三歳」さきちゃんの生年は享保六(一七二一)年になる。

・「下總國豐田郡川尻村」現在の茨城県結城郡八千代町川尻。底本の鈴木氏注に、『豊田郡は旧名岡田郡。延喜式には豊田郡で出ている。その後郡名を失ったが、徳川幕府の初め、鬼怒川の東を豊田、西を岡田郡とした』とある。

・「吉右衞門迚五十六歳」さきちゃんより二十七歳も若いきっちゃんの生年は寛延元・延享五(一七四八)年となる。

・「鈴木門三郎」既出。勘定吟味役として主に治水のために廻村していたことが、本巻の先行する老農達者の事に出る。リンク先を参照されたい。

・「所にては、吉右衞門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。」この部分底本では尊経閣本で( )部分を補った形で、

所にては、吉右衞門も夫婦になりて、(夜の□りには)をくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。

であるが、如何にもな伏字といい、気に入らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

所にては、「吉右衛門も夫婦に成(なり)て、夜の契りにはをくれのみ取(とり)ていと迷惑す」と語り、「まのあたり交りをも見て驚ろきし」と語るものありしが、是(これ)は流言や、誠しからずとかたりぬ。

であり、後者を主に前者と混淆させて表記した。例えば、底本「語る」と「かたる」の違いは、後者が猥雑なる流言を「騙る」の謂いをも利かせてくるので、そちらを採っておいた。

・「をくれのみとりて」あっちの方では、常に八十三のさきちゃんにリードされて。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 女妖の事

 

 荻原弥五兵衛殿が勤めて御座った御代官所、下総国豊田郡川尻村名主、新右衛門が家來、故百姓喜右衛門の後家に、『さき女(じょ)』と申す者、享和三年の亥の年で八十三歳になり、新右衛門方にては亡き喜右衛門の縁者なればとて、召使い同様に養(やしの)う御座ったが、同村の吉右衞門とて五十六歳になったばかりの者と、この二年ほど心易うして御座ったが、突如、

「……吉衛門さまと、夫婦(めおと)になりとう存じます。……」

と、かの、さき女より主人新右衛門へ願い出て参った。

 されども、

「……何を血迷うておるのじゃ?!……棺桶に片足突っ込んだ八十三の年寄りのことなれば、……そ、そんなことは、あるびょうことも、はっ! あらざる仕儀じゃ!」

とて、許さず、

「年よりの世迷言(よまいごと)じゃ! 呆(ぼ)けたかのぅ、あの婆あも……」

と、全く以ってとり合わずに御座ったところが……

……さき女、何と!

「……御主人さま……そ、その……さき……で御座いますが……村にては……何でも……吉右衛門と申し合わせ……か、駈け落ちをも辞さぬらしい……と……専らの噂にて……へえ……」

という風聞を下男の者より小耳に挟んだゆえ、新右衛門も止むを得ず、さき女が願いにまかせ、吉右衛門を入り聟(むこ)に成して御座った由。

 例の勘定吟味役鈴木門三郎殿が廻村の節、新右衛門が先祖の墓所に参じた際、この、さき女が居合わせて御座ったを実見に及んだとのことで、

「……いや、もう、……歯なんどは、これ、一本たりとも欠いておらず、お歯黒もきりりと粋に黒うつけて……流石に、頭は白髪(はくはつ)にては御座ったれど……その立ち居振る舞いなんどは、これ、五十歳位にしか見えず御座った。……オッホン……その……それから附言致しますると……川尻村在所にては――吉右衛門自身が『夫婦(めおと)になって、その夜(よる)の契りの方にては、常に遅れのみとって、大層、迷惑致いておる』と申したとか――また、忌まわしくも――『目の当たり、二人の交わりをも見たが、その、さき女の、いや、凄いこと! これには!驚ろいた!』――なんどと語る者も御座いましたが、これはまず、……騙り流言の類いかと思われ、誠にては御座りませぬ。……」

と、門三郎殿の語って御座った。

一言芳談 七十四

   七十四

 

 乘願房云、さすがに年のよるしるしには、淨土もちかく、決定往生(けつじやうわうじやう)しつべき事は、おもひしられて候ふまり。所詮、眞實に往生を心ざし候はんには、念佛は行住坐臥(ぎやうぢゆうざが)を論ぜぬとなれば、たゞ一心に、ねても、さめても、たちゐ、おきふしにも、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と申して候ふは、決定往生のつととおぼえ候ふなり。學問も大切なる樣に候へども、さのみ往生の要(かなめ)なることも候はず。又學して一の不審を披(ひら)くといへども、するにしたがひて、あらぬ不審のみいできたるあひだ、一期(いちご)は不審さばくりにて、心しづかに念佛する事もなし。然而(しかうして)念佛のたよりにはならで、なかなか大なるさはりにて候ふなり。

 

〇決定往生のつと、家土産(いへづと)というは俗にみやげという事なり。旅裹(たびづと)というは旅にもつ食物なり。往生のつととは往生の資糧(しりやう)なり。

〇往生の要、往生の支度の樞要(すうえう)なり。

〇不審、いぶかしき事なり。

〇さばくり、取りあつかふ義なり。

 

[やぶちゃん注:「乘願房」宗源(そうげん 仁安三(一一六八)年~建長三(一二五一)年)は浄土宗の僧。権中納言藤原長方八男。当初は仁和寺で密教を学んだが、後に法然の弟子となり、京都醍醐の菩提樹下谷・清水の竹谷に棲み、念仏教化に努めた。竹谷上人とも言い、公家の帰依者も多かった。常に念仏し、建長三年七月三日に享年八十四歳で念仏往生した。

〇「つと」標註で十分であるが、「苞」「苞苴」と漢字表記し、「包む」と同語源の語。藁や葦・竹の皮などを束ねたり編み束ねて作った容器、又は、その中に食物を包んだものをいう。藁苞(わらづと)。食糧・魚や果実などの食品を包み入れて持ち運んだ。荒巻きなどともいう。旅行用の携帯食糧を入れる他にも、出先への贈り物を包んで携行したり、そこから帰る際の土産物を入れたりしたことから、土地の名産や土産物をも言う語ともなり、家への土産を「家苞(いえづど)」と称するようになった。]

北條九代記 柏原彌三郎逐電 付 田文の評定  / 【第二巻~了】

      ○柏原彌三郎逐電  田文の評定

近江國の住人柏原(かしはばらの)彌三郎は故右大將家の御時に西海に赴き、拔群の働(はたらき)あるを以て、平氏滅亡の後、勳功の賞として、江州柏原の莊を賜り、京都警衞の人數に加へられ、仙洞に候(こう)して、奉公を勤めけるところに、恣(ほしいまゝ)に振舞(ふるまひ)て、法令を破り、神社の木を伐り、佛寺の料を奪ひ、公卿殿上人に無禮緩怠(くわんたい)を致し、屢々帝命を背く事、重々の罪科あり。加之(しかのみならず)、己が領地に引込て、鹿狩川狩を事とし、百姓を凌礫する由、院宮、甚(はなはだ)惡(にく)み給ひ、頭辨(とうのべん)公定(きんさだ)朝臣、奉行として彌三郎追罸(ついばつ)の宣下あり。佐々木左衞門尉定綱、飛脚をもつて鎌倉に告げ申す。同十一月四日、將軍家より畏(かしこま)り申され、澁谷(しぶやの)次郎高重、土肥先(せん)次郎惟光を使節として手の郎等を引率して上洛す。斯る所に、關東の左右をも待たず、京都伺公(しこう)の官軍四百餘騎、江州に押よせ、柏原の莊に至り、彼(か)の館(たち)に向ひしに、三尾谷(みをのやの)十郎、夜に迷(まぎ)れて、先登(さきがけ)し、館の後(うしろ)の山間(やまあひ)より閧(とき)の聲を發せしかば、彌三郎恐(おそれ)惑ひ、妻子郎從諸共に館を逃(にげ)て逐電す。其行方(ゆくかた)を尋ぬれども更に聞えず、關東の兩使はその詮なく、押返して下向あり。官も亦、寄(よせ)かけたる甲斐なし。三尾谷が所行、更に軍事の法に非ず、柏原を取逃したり。さだめて關東の御気色、仙院の叡慮よろしかるべかと思はぬ人はなかりけり。されども別に仰せ出さるゝ旨もなければ、何となく靜まりぬ。將軍家には諸國の田文(たぶみ)を召出(めしいだ)され、源性に仰せて勘定せしめ、治承養和より以來(このかた)、新恩の領地毎人五百町に限り、其餘田を召放ちて無足(むそく)の近習に下さるべき由御沙汰あり、廣元朝臣、之を聞て、殆(ほとんど)珍事の御評定、世のそしり、人の憂(うれへ)何事か是に優らんと、宿老達は皆共に汗を握りて周章せり。大夫屬(さくわん)入道善信、しきりに諷諫(ふうかん)を奉る。賴家卿、理服(りふく)し給ひ、先(まづ)閣(さしお)かれける事は、せめて天下靜謐(せいひつ)の運命盡きざるところなり。これを聞(きゝ)ける大名小名、愈(いよいよ)賴家卿を疎(うとみ)參らせ、色には出さずといへども、心の底には怨(うらみ)をぞ含みける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年十一月一日・四日、十二月二十七日・二十八日などに基づく。第二巻の掉尾に至って遂に、暗君(と筆者が断ずる)頼家が、まさに「裸の大様」化してゆく様子が見てとれる部分である。

「柏原彌三郎」柏原為永。村上源氏の末裔で、源頼光の弟頼平の系統を引く。近江国柏原庄(現在の滋賀県米原市)を領し、清滝(現在の米原市清滝)に居館を構えていた。

「仙洞に候して」の部分の彼が従ったのは後白河法皇。但し、「彌三郎追罸の宣下」を下したのは後鳥羽上皇。

「緩怠」いい加減に考えて、怠けること。他に、無礼無作法なことをも指す。

「凌礫」「陵轢」とも書き、車輪がものを轢き潰すことから、侮って踏みにじることをいう。

「頭辨公定」三条公定(きんさだ 長寛元(一一六三)年~?)は公卿。西園寺実宗長男。但し、当時は従四位上修理左宮城使で、彼が右大弁で蔵人頭を兼ねたのは、この翌年の正治三年(一二〇一)に正四位下になってからであり、引用元の「吾妻鏡」の記述のタイム・ラグによる誤りが露呈している。

「三尾谷十郎」三尾谷広徳(みおやひろなり 生没年不詳)。源頼朝の直臣。三保谷郷(現在の埼玉県比企郡川島町)出身。「吾妻鏡」の正治二年十二月二十七日の条では、三尾谷十郎何某が『襲件居所後面山之間。賊徒逐電畢。今兩使雖伺其行方。依無所據。歸參云々』(三(件の居所の後面の山を襲ふの間、賊徒、逐電し畢んぬ。今、兩使、其の行方を伺ふと雖も、據所(よんどころ)無き依つて、歸參すと云々)とだけあって、殊更に三尾谷広徳の早掛けを非難する表現はない。

「田文」一国の荘園・公領における田畑の面積や領有関係などを詳しく記した田籍簿。

「五百町」約五ヘクタール。

「無足の近習」地頭職に任ぜられていない頼家直属の寵愛の何でもアリの近習連。以上の部分は「吾妻鏡」でもはっきりと頼家批判は顕在化している部分なので、以下に示す。

〇原文

廿八日庚戌。金吾仰政所。被召出諸國田文等。令源性算勘之。治承養和以後新恩之地。毎人。於過五百町者。召放其餘剩。可賜無足近仕等之由。日來内々及御沙汰。昨日可令施行之旨被仰下廣元朝臣。已珍事也。人之愁。世之謗。何事如之哉之趣。彼朝臣以下宿老殊周章。今日如善信頻盡諷詞之間。憖以被閣之。明春可有御沙汰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日庚戌。金吾、政所に仰せて、諸國の田文等を召出され、源性をして之を算勘せしむ。治承・養和以後の新恩の地、人毎(ごと)に、五百町を過ぐるに於いては、其の餘剩を召し放ち、無足の近仕等に賜ふべきの由、日來内々に御沙汰に及び、昨日、施行せしむべきの旨、廣元朝臣に仰せ下さる。已に珍事なり。人の愁ひ、世の謗(そし)り、何事か之にしかんやの趣き、彼(か)の朝臣以下の宿老、殊に周章す。今日、善信のごときが、頻に諷詞(ふうし)を盡すの間、憖(なまじ)ひに以つて之を閣(さしお)かれ、明春、御沙汰有るべしと云々。

最後の部分は、善信以下の宿老から、陰に陽に示された諫言に、仕方なく取り敢えずは、その施行の留保をなさったが、それでも来年の春には執行命令を必ず出すであろう、と仰せられた、という謂いである。]

2013/01/24

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 四谷 藤澤

これでやっと、次回、守備範囲の江の島に突入!



      四谷 藤澤

 

 四谷より半道ゆきて藤澤宿(しゆく)なり。このところ、遊行寺(ゆぎやうでら)の前の橋をわたりて、荏之嶋(えのしま)道なり。これより二里、片瀨村、日蓮上人の寺あり。荏之嶋入口(いりくち)の渡しをうちこし、鳥居前にいたる。兩側(かは)に茶屋、軒をならべ、にぎはヘり。嶋の入口、七八丁の間、潮のひたる時は徒(かち)ゆく。潮みちたる時は船渡しなり。

〽狂 けさやどをたつの

        くちまで

   きはめけん

    馬のかたせを

       おりるたび人

旅人

「さてさて、今日も天氣がすこしなまけてまいりました。これまでは奇妙なことには、私(わたし)が旅へでると天氣つゞいて、この前も五十日ばかり旅へ出て、毎日、日にてらされて、體(からだ)がいつそひあがつてかへりましたが、今度(こんど)はこんなにふつたりてつたりいたしますから、これでは生干(なまび)になつてかへるでござりませう。」

「さやうさやう、私はまた、どうも、ふられてなりませぬ。去年(きよねん)も旅へ出て、ふられたほどに、ふられたほどに、後(のち)にはいつそう體がふやけて、どこもふくれてかへりましたが、その時、内(うち)の山の神がおこつて申には、

『旅では憂(う)い目辛(つら)い目にあふものだから、人は旅へゆくと、やせてかへるに、お前はそんなにふとつてかへりなさつたは、旅でおもろいことがあつたのだ。妾(わたし)には、留守で苦勞をさせ、何がおもろかつた。』

と腹をたつから、

『これこれ、そうではない、このふとつたのは雨にぬれて、總身(そうみ)がふやけたのだ。おもしろいことがあつてふとつたではない。』

といふと、女房が、

『そんなら、そうかへ、お前は平生(へいぜい)ほそい所があつたが、何處(どこ)も彼處(かこ)も、ふとつたといひなされば、妾はなによりかそれがうれしい。』

と申して、機嫌(きげん)がなをつたから、大笑(わら)ひさ。」

[やぶちゃん注:「日蓮上人の寺」龍口寺。

「荏之嶋」漢字表記は以下の本書の記載のものを用いた。

「これまでは奇妙なことには、私が旅へでると天氣つゞいて、この前も五十日ばかり旅へ出て、毎日、日にてらされて」鶴岡氏の翻刻では「でると天氣つゞいて、この前も五十日ばかり旅へ」の部分がない。]

西東三鬼句集「變身」 昭和三十三(一九五八)年 八五句

昭和三十三(一九五八)年 八五句

 

個は全や落葉の道の大曲り

 

落葉して木りんりんと新しや

 

夜の別れ木枯炎ゆる梢あり

 

ネロの業火石燒芋の竈に燃ゆ

 

地に立つ木離れず鳥も切れ凧も

 

  南伊豆一二句

 

枯廣き拓地の聲は岩起す

 

岩山の淺き地表に豆の花

 

餠燒けば谷間の鴉來よ來よと

 

鼻風邪や南面巨巖ありがたく

 

死顏の寒季の富士は夜光る

 

刈田靑み伊豆の重たき鴉とぶ

 

山畑のすみれや背負う肥一桶

 

老いて割る嚴や金柑鈴生りに

 

蕗の薹岩間の土にひきしまる

 

呼ぶ聲や寒嚴の胎深きより

 

岩山の北風靑し目白捕り

 

犬妊み寒潮に浮く島七つ

 

素手で搔く岩海苔富士と共に白髮

 

夜の吹雪言葉ごとく耳に入る

 

寒析に合せて生ける肌たたく

 

[やぶちゃん注:「寒析」は「かんたく」と読む。「析」とは拍子木のこと。冬の季語。]

 

黑き月のせて三日月いつまで冬

 

これが最後の枯木の踊一つ星

 

落椿かかる地上に菓子のごとし

 

花咲く樹人の別れは背を向け合い

 

岩傳う干潟の獨語誰も聞くな

 

うぐひすや死顏めきて嚴に寢て

 

絶壁の氷柱夜となる底びかり

 

永柱くわえ泣きの涙の犬走る

 

寒のビール狐の落ちし顏で飮む

 

吹雪く野に立ち太き棒細き棒

 

首かしげおのれついばみ寒鴉

 

天の國いよいよ遠し寒雀

 

犬を呼ぶ女の口笛雪降り出す

 

宙凍てて鐵骨林に火の鋲とぶ

 

降る雪を高階に見て地上に濡る

 

蠅生れ天使の翼ひろげたり

 

道場の雄叫び春の鳩接吻

 

忘却の靑い銅像春のデモ

 

櫻冷え遠方へ砂利踏みゆく音

 

老斑の月よりの風新樹光る

 

體ぬくし大綠䕃の綠の馬

 

まかげして五月えを待つよ光る沖

 

[やぶちゃん注:「まかげ」は「目陰・目蔭」で、遠くを見る際、光線を遮るために手を額に翳(かざ)すことをいう。]

 

誕生日五月の顏は犬にのみ

 

荒れ濁る海へ草笛鳴りそろう

 

分ち飮む冷乳蝕の風起る

 

[やぶちゃん注:同年四月十九日に日本で大きく欠ける日食があった。]

 

いま淸き麻醉の女體朝の月

 

緑蔭の累卵に立ち鹽の塔

 

[やぶちゃん注:「累卵」は卵を積み重ねること。また、「累卵の危うき」で、積み上げた卵のように、非常に不安定で危険な状態の譬えともなる(「史記」范雎伝に拠る故事成句)。実景にこの故事を利かせるか。]

 

光る森馬には馬の汗ながれ

 

荒地すすみ朝燒雀みな前向き

 

遁走の蟬の行手に落ちゆく日

 

耳立てて泳ぐや沖の聲なき聲

 

強き母弱き父田を植えすすむ

 

假住みのここの藪蚊も縞あざやか

 

  大島・下賀茂 一二句

 

夜光蟲明日の火山へ船すすむ

 

知惠で臭い狐や夏の火山島

 

死者生者竜舌蘭に刻みし名

 

溶岩の谷間文字食う山羊の夏

 

靑バナナ逆立ち太る硝子の家

 

飛び込まず眼下巖嚙む夏潮へ

 

母音まるし海南風の溶岩(らば)岬

 

[やぶちゃん注:ルビの「らば」は日本語ではない。“lava”(ラヴァ)で英語で溶岩の意。元来はイタリア語の豪雨で突然発生した奔流の意の“lava”が語源。]

 

ラムネ瓶握りて太し見えぬ火山

 

聲涼しさぼてん村の呆け鴉

 

巖窟の泉水增えし一滴音

 

老いの手の線香花火山犬吠え

 

裸そのまま力士の泳ぎ秋祭

 

秋祭生きてこまごま光る種子(たね)

 

秋潮に神輿浮かべて富士に見す

 

天高しきちがいペンをもてあそぶ

 

石崖に嚙みつく蝮穴まどひ

 

梯子あり颱風の目の靑空へ

 

颱風の目の空氣中女氣(によき)を絶つ

 

新涼の咽喉透き通り水下る

 

つぶやく名良夜の蟲の光り過ぐ

 

眞つ向に名月照れり何はじまる

 

犬の戀の樂園苦園秋の風

 

  男鹿半島と八郎潟 一〇句

 

生ける雉子火山半島の路はばむ

 

舊火山純なるものは暖かし

 

水飮みて醉ふ秋晴の燈臺下

 

若き漁夫の口笛千鳥從へて

 

白魚を潟に啜りて歎かんや

 

遠い女シベリヤの鴨潟に浮き

 

どぶろくや金切聲の鵙去りて

 

手をこすり血を呼ぶ深田晩稻刈

 

夕霧に冷えてかたまり農一家

 

稻積んで暮れる細舟女ばかり

耳嚢 巻之六 夢想にて石佛を得し事

 夢想にて石佛を得し事

 

 信州坂本宿に角兵衞といえる百姓ありしが、十一年程以前、村境の樫の木のもとに我(わが)像埋(うま)り居(ゐ)候間、取出し候樣、一人の出家覺しき者枕にたちて告(つげ)しを、夢幻となく聞(きき)て、あたりのものへ咄しければ、取しまらざる事故打捨置(うちすておき)しに、享和元年或(ある)夜の夢に同じく見えし故、村役人抔へかたりしに、かゝる事有べき樣なしとて打過(うちすぎ)ぬるを、又享和二年にも夢見しとて、何卒ほりたきといひしを、度々の事故、村役人もいづれ掘て見可然(しかるべし)と相談決し凡(およそ)四五尺も掘(ほり)しに、五寸計(ばかり)の石像掘出(ほりいだ)しぬ。右角兵衞至(いたつ)て正直ものにて、目論見事などいたす者にもあらず。支配の御代官蓑(みの)笠之介え訴へ、同人より御勘定奉行へも申立(まうしたて)、一旦江府(かうふ)へも取寄(とりよせ)になりしが、角兵衞は日蓮宗の由にありしが、右像は彌陀釋迦等其外多寶(たほう)勢至などの類にも無之(これなく)、出家の石像にて、圓光大師の像なりといふ人も有(あり)し。尤(もつとも)角兵衞へ石像は返し給(たまは)り、右に付(つき)人集(ひとあつめ)等不致(いたさず)、異説等申觸(まうしふれ)まじきと、御代官より申(まうし)渡させけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。三つ前の「感夢歌の事」と夢告霊異譚で直連関。

・「信州坂本宿」中山道六十九次の内、江戸から数えて十七番目の宿場。現在の群馬県安中市松井田町坂本。中山道の難所であった碓氷峠の東の入口に当り、本陣と脇本陣合わせて四軒、旅籠は最盛期には四十軒あった比較的大きな宿場であった(以上はウィキの「坂本宿」に拠った)。「信州」とあるが、上野国の誤りである。訳では訂した。

・「享和元年」西暦一八〇一年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、これで逆算すると「十一年程以前」は寛政五(一七九三)年になってしまう。ということは享和元年起算で「十一年」後は、文化九(一八一二)年となり、これは「卷之十」の下限である、死の前年文化十一(一八一四)年六月までに一致する。もしかすると、根岸は「卷之十」の完成に合わせて、過去の記録の数字を時計に合わせて補正したのかも知れないなどと考えた。無論、この記載を「享和元年」から「十一年程以前」と言っているとも取れぬことはない。その場合は、初回の夢告は寛政二(一七九〇)年の出来事となり、本巻の時系列には合致する。しかし、十一年のブランクは話柄としてはおかしい感じがする。この間、法然上人の御魂、どこぞで教化でもして御座って、忙しかったのかしらん? などと馬鹿なことを考えているうちに、私の大きな愚かさに気づいた。以下に注するように、ここに登場する蓑笠之介が代官であったのは元文四(一七三九)年から延享二(一七四五)年の間であった。しかし、そうすると、更に時間軸に大きなパラドックスが生じる。延享二(一七四五)年起算の十一年後は宝暦六(一七五六)年となり、享和二年とは四十六年も隔たってしまい、そもそもこの時、蓑笠之介は既に代官ではないどころか、後注でご覧の通り、勘定奉行支配下から職務不行届から罷免されて小普請入り、まさにこの年に隠居しているのである。どうも、この話柄、眉唾物という感じがする。

・「蓑笠之介」蓑正高(みのまさたか 貞享四(一六八七)年~明和八(一七七一)年)幕府代官。農政家。「耳嚢 巻之三」の「本庄宿鳥居谷三右衞門が事」で既出であるが、再注しておく。以下、「朝日日本歴史人物事典」の記載(数字・記号の一部を変更した)。『松平光長の家臣小沢庄兵衛の長男。江戸生まれ。享保一(一七一六)年猿楽師で宝生座配下の蓑(巳野)兼正の養子となり、同三年に家督を相続。農政・治水に通じ、田中丘隅の娘を妻とする。同一四年幕府に召し出され、大岡忠相の支配下に入り、相模国足柄上・下郡の内七十三カ村を支配、酒匂川の普請なども行う。元文四(一七三九)年代官となり扶持米一六〇俵。支配地はのちさらに加増され、計七万石となった。延享二(一七四五)年勘定奉行の支配下に移るが、寛延二(一七四九)年手代の不正のため罷免され、小普請入り。宝暦六(一七五六)年隠居。剃髪して相山と号した』。著作に「農家貫行」がある、と記す。

・「多寶」多宝如来。東方の宝浄世界の教主。「法華経」の「見宝塔品」に載る如来。法華の説法のある場所に宝塔を出現させて説法の真実を証明して讚嘆、半座を譲って釈迦を請じ入れたという。

・「圓光大師」法然の大師号の一つ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 夢想にて石仏を得た事

 

 上州坂本宿に角兵衛と申す百姓が御座った。

 十一年程以前、

「――村境の樫の木の根元に――我が像、埋まりおるにつき――取り出だいて、くるるよう――」

と、一人の出家と思しい者が枕上に立って告げたを、夢現(ゆめうつつ)とのう、聞いたによって、住まう辺りの者へも話してはみたが、

「益体(やくたい)もない出鱈目じゃ。」

と一笑に付されたゆえ、うち捨てて御座った。……

 ところが、享和元年のある夜の夢に、全く同じきものを見たゆえ、村役人などへも申し上げたところ、

「そのようなこと、これ、あろうはずも、なし!」

と一笑に附され、またしても無為にうち過ぎたと申す。

 ところがまた、翌享和二年、

「……全く同じ夢を見申したれば……何卒、そこを、掘りとう御座いまする……」

と再三申し出でたによって、度々のことなればと、村役人も、

「……まあ、しょうがない。いずれにしても、掘って見るに若くはあるまい。」

と、談議が決した。

 ところが……およそ四、五尺も掘ったところで……

……これ、五寸ばかりの

――小さな石像が

これ、掘り出されて御座った。

 この角兵衞と申す百姓、近在でも至って正直者として知られており、悪しき謀りごとなんどを致す者にもあらざれば、当時の支配の御代官蓑(みの)笠之介殿へ訴え出でて、同人より御勘定奉行へも申し立てが御座って、一旦、かの石仏、江戸表勘定方へも取り寄せとなって仔細が調べられた。

 その資料によれば――角兵衞の宗旨は日蓮宗の由で御座ったが、右像は弥陀・釈迦など、また、その他の多宝如来や勢至菩薩などの類いにてはこれなく、出家の僧を彫ったる石像にて、ある者は、

「これは円光大師法然の像である。」

と申す者も御座った。

 もつとも、結果としては、角兵衞へ石像はお返しとなり、

「――右石像に附き――くれぐれも、当像をもって夢告の像なんどと称し、人集めなんどは致さぬように。――また、夢告にて掘り出だいた、なんど申す、不届き千万なる異説や噂なんどをも、ゆめゆめ、申し触れまじいこと――」

と、御代官簑殿より申し渡させた、とのことで御座る。

一言芳談 七十三

   七十三

 

 俊乘房云、後世をおもはんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一(ひとつ)も、もつまじき物とこそ心えて候へ。

 

〇糂汰瓶(じんだがめ)、糠味噌つぼなり。此事くはしくは沙石集にあり。

 

[やぶちゃん注:本条は「徒然草」第九十八段に、二項目として、後掲する「百」の解脱上人条の一部とカップリングして、

 一、 後世(ごせ)を思はん者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經・本尊に至いたるまで、よきものを持つまじきなり。

と引用されてある。また、松尾芭蕉に、「柞原集」に載る元禄四(一六九一)年四十八歳の時の膳所義仲寺での著名な清貧の詠、

    庵に掛けんとて句空が書かせける兼好の繪に

  秋の色糠味噌壺もなかりけり

はこれを元としており、句空は「草庵集」で、この『句は兼好の贊とて書きたまへるを、常は庵の壁に掛けて對面の心地し侍り。先年義仲寺にて翁の枕もとに臥したるある夜、うちふけて我を起さる。何事にか、と答へたれば、あれ聞きたまへ、きりぎりすの鳴き弱りたる、と。かかる事まで思ひ出だして、しきりに涙のこぼれ侍り。』としみじみと回顧して記している(「草庵集」以下は伊藤洋氏の「芭蕉DB」の当該句鑑賞を参照した)。

「此事くはしくは沙石集にあり」「沙石集 卷第四」の「道心執著を捨つ可き事」の冒頭にある。以下に引用する(底本は読み易い一九四三年筑土鈴寛校訂の岩波文庫版を用いた)。後に極少数の語注を附しておいた。

大原の僧正、顯眞座主、四十八日の間、往生要集の談議し給ふ事有けり。法然房の上人俊乘房の上人なんど、談議の衆にて、大原の上人達あまた座につらなり、如法の後世の學問の談議なりけり。四十八日功をへて、人々退散しけるに、法然房俊乘房兩上人斗ばかりはしちかく居て、法然房申されけるは、この程の談議の所詮いかが御心得候と俊乘房に申されければ、秦太(じんだ)瓶一なりとも、執心とまらん物はすつべきとこそ心得て候へとかたらる。僧正御簾のうちにきき給ひて、上人たち何事ヲ語り給ふぞと仰せられければ、俊乘房かくこそ申し候へと、法然房申されければ、御衣の袖に御涙を、はらはらとこぼして、このほどの談議に、これほどにめづらしき事承らずとて、隨喜し給ひけるよし、或人語り給ひき。

・「大原の僧正」顕真(天承元(一一三一)年~建久三(一一九二)年)天台僧。藤原顕能の子。母参議藤原為隆娘。比叡山で明雲らに天台教学や密教を学んだ後、承安三(一一七三)年、大原別所に隠棲した。浄土信仰へ傾き、文治二(一一八六)年に、勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて、大原問答を行ったとされる(本話。但し、参加者については異説もある)。翌文治三年には勝林院で不断念仏をはじめ、建久元(一一九〇)年、第六十一代天台座主に就任した(ウィキの「顕真」に拠った)。

・「所詮」本講義によって示された結論。]

2013/01/23

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 子安 伊勢原 田村 / ブログ記事5000超

本投稿を以って本ブログ「鬼火~日々の迷走」(2005年7月6日開設)は公開記事5000を超えた。



    子安 伊勢原 田村

 

 大山の麓、子安といふところより一里ゆきて伊勢原なり。このところより田村へ一里。田村川、舟渡(ふなわた)し。これより三里ゆきて東海道四谷(よつや)といふ合(あい)の宿へいづるなり。

〽狂 田むら川鈴鹿(すゞか)

  にあらではやき瀨(せ)は

 千の矢(や)をゐるごとき水せい

〽狂 いそげども日あしも

  はやくくれあいの

 しゆくときこへし

     よつやにぞ

          つく

駕籠(かご)

「旦那(だんな)さま、滅相(めつそう)に骨をおりました。どうぞ、酒手(さかて)をしつかりとおたのみ申します。」

「なんだ酒手だ。儂(わし)は攝州(せつしう)大物(だいもつ)の浦の船頭松右衞門といふものだが、船で妻子をやしなひながら、ついに酒手といふことを。」

「ヲヽ、しらぬ筈(はづ)しらぬ筈、この安駕籠(やすかご)にのりながら、わざとねたふり空鼾(そらいびき)、しらずばいつてきかせませう。駄賃のほかに一人前(ひとりまへ)廿四文くれるを酒手といふわいなふ。」

「おいおい、それでのみこんだ。そんなら、どうぞ、一人前八文づゝにまけてくれ。これをまけつといふわいのふ。」

「ハヽヽ、こりや旦那は盛衰記(せいすいき)ではなくて、狡(こす)い氣(き)だ、狡い氣だ。」

「それから、それから、これは御繁盛の旦那方から、儂にも酒手を一文くださりませ。おぬきなさるが御面倒なら、緡包(さしぐるみみなげてくださりませ。これはしたり、貴公(きかう)たんとおぬきなさるから、そんなに、たんとくださると思つたら、みんなあつちへぬいてとりて、緡ばかり下さるとは、なるほど、旦那は狡い氣だ、狡い氣だ。」

「儂はお山で屁(へ)がひりたかつたが、こゝでひつてはもつたいないとおもつたから、そつと紙をひろげて尻へあてがい、ひつてはつゝみ、ひつてはつゝみ、袂(たもと)にいれて、お山をおりたらすてよふと思つて、つい、そこまでもつてきたが、なんと駕籠の旦那、一包(ひとつゝみ)あげやう。慰みにかいで見なさらぬか。」

「イヤイヤ、儂もひり合はせをもつている。さつきからひつたのが、しやんとすわつてうごかずにゐるものだから、その臭(にほ)ひが、何處(どこ)へもいかずにいるを、ときどき、懷(ふところ)をあけて、臭ひをかぐのが、樂しみさ。」

[やぶちゃん注:「田村」現在の平塚市田村。相模川河口から六キロメートル程上流の右岸に位置する。

「田村川」古くはこの辺りで相模川を田村川と呼び、ここに田村の渡しがあった(左岸が高座郡で右岸が旧大住郡)。江戸時代は大山石尊への参詣人の往復で賑わった。「平塚の史跡と文化財めぐり」より引用された平塚市都市整備部水政課金丸亜紀雄氏のHP「平塚の川と橋」の相模川」のページによれば、江戸時代には、渡船四隻が置かれており、渡し賃は一〇文であったとあり、現在でも『東側の堤から西を眺めると、裾野の長く広い富士山をはじめ、大山、丹沢山、足柄山、箱根山、伊豆の山々がある時は濃くあるときは淡く、日本画の名品に接する趣がある。新編相模国風土記も「渡頭よりの眺め最も佳景なり」と載せている』とある。

「東海道四谷」田村の渡しを通って現在の辻堂駅の北にある四谷。

「合の宿」間の宿。宿場と宿場との中間に設けられた休憩のための宿で、本来、宿泊は禁じられていた。

「なんだ酒手だ。儂は攝州大物の浦の船頭松右衞門といふものだが、船で妻子をやしなひながら、ついに酒手といふことを。」「攝州大物の浦」は現在の兵庫県尼崎市の一地区。古くは猪名(いな)川の河口港として栄え、元暦二(一一八五)年二月に源義経が平家追討のため船出した地として知られる(現在は内陸化)が、ここは、「平家物語」の「逆櫓」の舞台のモデルでもあり、「逆櫓」の「酒手」を懸け、梶原景時が兵船に逆櫓を装備して進退を自由にすることを発案したのに対して、予め後退に具えるは戦意を殺ぐとし、景時が、進むばかりの能しかなく、退くを知らぬは猪武者、と言い放って義経と対立した有名な逆櫓論争を踏まえて憤激しているのである。

「まけつ」値切る、の意の「まける」は現在は全国区の言葉であるが、元来は西の地方が発祥であったか。但し、ここはまけさせたものの、酒手を出せと言うのに従ったことを、「負け」に掛けて言ったものか。「けつ」は「尻(けつ)」で最後の「屁」と響き合わせているのかも知れぬ。

「狡い氣」「狡い」は、人を欺いて自分に有利に立ち回るさまで、悪賢い、狡猾である、ずるいの意。また、吝嗇(けち)だ、という意もある。先に出た「酒手」から「逆櫓」で、その縁語の「源平盛衰記」を引き合いに出し、「せいすいき」を「こすいき」に掛けた洒落である。

「緡」緡縄。銭の穴に差し通す細い縄。又それに差した銭束。因みに、この台詞を言っている人物は、誰だろう? 駕籠掻きの相棒か? 絵はそれを解き明かしては呉れない。時にこの絵、右手にいるのは露天商のようであるが、彼は一体、何を売っているのだろう? それに、この駕籠の前を行く屈強な男が背負っている長尺の板は何か? 社寺仏閣か霊地などに立てるための、何かの講中の標札か? それぞれに識者の御教授を乞うものである。【2013年2月6日追記】以上の内、男の背負っているものは判明した。これは大山講中の奉納用の木太刀である。たまたま再読していた林美一「江戸の二十四時間」(河出文庫一九九六年)の中に、『相州大山の山開きは六月の二十八日である。この日には関八州から信者たちが「大願成就」と墨書した大きな納太刀(木太刀である)をかついで出掛けてゆく。中には借金のがれに山へ逃げる不心得な信心者もいるらしいが、同注はさぞ賑』ったことであろう、とあったからである。従って、この道中絵も六月二十八日である可能性が高いということになる。思わぬところで目から鱗であった。]

北條九代記 太輔房源性異僧に遇ふ算術奇特 付 安倍晴明が奇特

      ○太輔房源性異僧に遇ふ算術奇特  安倍晴明が奇特

將軍賴家卿、御行跡(こうせき)雅意(がい)に任せ、政道の事は露計(ばかり)も御心に入れられず。只朝夕は近習の五六輩を友とし、色に※じ、酒に長じ、或は逍遙漁獵(ぎよれう)に日を送り、或は伎術(ぎじゅつ)薄藝に夜を明し給ひければ、上(かみ)の好む所、下これに效(なら)ひ、技能藝術の道を履(ふ)む者、四方より集(あつま)り、鎌倉中に留つて、世を謟(へつら)ひ人に媚び、恩賜を望み、輕薄を致す。此所(こゝ)に大輔房(たいふばう)源性とて、本(もと)は京師の間に住宅し、仙洞に伺候して、進士(しんじ)左衞門尉源整子(まさこ)と號す。儒流の文を學し、翰墨の字を練り、高野大師五筆の祕奥を傳へたり。垂露偃波(すいろえんは)の點(てん)、囘鸞翩鵲(くわいらんへんじやく)の畫(くわく)、蝌斗(くわと)、龍書(れうしよ)、慶雲(けいうん)、鳳書(ほうしよ)皆以て骨法を得たりと傍若無人に自稱を吐散(はきちら)し、「蔡邕(さいいう)は飛(とん)で白からず、羲之(ぎし)は白くして飛(とば)ず」なんど云ひわたり、後に入道して、太輔房源性と名付け、關東に下りて將軍家に召出だされ、近侍出頭殆(ほとんど)時めきけり。然のみならず蹴鞠は殊に賴家卿好ませ給ふ。源性又この藝を得て、毎度御詰にぞ參りける、利口才學の致す所にや。算術の藝は當時無雙(ふさう)なり。況や田頭里坪(でんとうりひやう)の積(つもり)、高低長短の漢、段歩畦境(たんほけいきやう)、其(その)眼力(がんりよく)の及ぶ所(ところ)分寸をも違へずと世の人是(これ)をもてはやす。漢の洛下閎(らくかくわう)、唐の一行、本朝曆算に妙を得たる安倍晴明と云ふとも、是より外には出づべからずと、慢相(まんさう)尤(もつとも)顯(あきらか)なり。此比奥州伊達郡(だてのこほり)に境目(さかいめ)の相論あり。其實檢の爲源性をぞ遣されける。幾程經ずして鎌倉に下向し、將軍家の御前に出でたりければ、奥州の事共尋仰せらる。源性物語申しけるは「今度奥州下向の次(ついで)に松島を見ばやと存じて、彼處(かしこ)に赴き候處に、一人の老僧あつて草菴の内にあり、日暮(ひく)れ、里遠(とほか)りければ、案内して一夜の宿を借りけるに、主の僧心ありて、粟飯(あはいひ)を炊(かし)き、柏の葉に盛りて、旅の疲(つかれ)を助(たすけ)たり。夜もすがら種々の法門を談ずるに、皆その奥義を現す。翌朝(よくてう)この僧云ふやう、我は天下第一の算師なり。樹頭(じゆとう)の棗(なつめ)を數へ、洞中(とうちう)の木を計る、是等はいと安(やすか)りなん。たとひ龍猛大士(りうみやうだいし)の行ひ給ひし隱形(おんぎやう)の算と云ふとも理(り)を盡し置き渡たさんに難らずと語る。源性是を聞くに慢心起りて思ふ樣、かゝる荒涼の言葉は誠に蠡測井蛙(いしよくせいあ)の心なり、流石、遠(とほ)田舍に住(すみ)慣れて、土民百姓の耳を欺く曲(くせ)なるべし。源性が算術をもとくべき人は世には覺えぬものを、と侮りける。其心根や色に出けん、彼の僧重て云ふやう、只今常座を改めず、速(すみやか)に驗(しるし)を見すべしとて、算木(さんぎ)を取りて、源牲が座の圍(めぐり)に置き渡すに、源性忽(たちまち)に心耄(ほ)れ、神(たましひ)暗みて、朦霧(もうむ)の中にあるが如く、四方甚(はなはだ)暗く、草菴の内總て變じて大海となる。圓座は化して盤石(ばんじやく)となり、飄風(へうふう)吹(ふき)起り、怒浪(どらう)、聲(こえ)急なり。忙然として、是非に惑ふ。既に死せりや、死せざるや、生死(しやうじ)の間(あいだ)辨(わきまへ)難し。時尅(じこく)を移して主の僧の聲として、慢心今は後悔ありやと、源性大に恐服(おそれふく)して、頗る後悔の由云ひければ、言葉の下に心神(しんじん)潔く夢の覺(さめ)たるが如くにして、白日、窓に輝けり。餘(あまり)の奇特(きどく)を感歎し、傳受の望(のぞみ)を致せしに、末世の下根に於ては授(さづけ)難き神術なり、今は疾々(とくとく)出でて歸れと勸めける程に、三拜して別れたり」と申す。賴家卿聞(きき)給ひ、「その僧を伴(ともなひ)來らざるこそ越度(をつど)なれ。何條狐に妖(ばか)されたるらん」と、さして奇特の御感もなし。古(いにしへ)安倍晴明は天文の博士(はかせ)として、算術に妙を得たり。或時、禁中に參りける、庚申の夜なりければ、若殿上人多く參り集り給ひ、寢(ね)ぬ夜の御慰(なぐさみ)樣々なり。晴明を召して「何ぞ面白からん事仕出して見せよ」と仰(おほせ)あり。「さらば今夜の興を催し、人々を笑はせ奉らん。構(かまへ)て悔み給ふまじきや」と申ければ、「算術にて人を笑せん事、いか樣にすともあるべき業(わざ)ならず。仕(つかまつり)損じたらんには賭物(かけもの)を出(いだ)せ」と仰あり、「畏(かしこま)り候」とて算木を取出しつゝ、座の前にさらさらと置き渡したりければ、何となく目に見ゆる者もあらで、座中の人々可笑(をかしく)なりて頻(しきり)に笑ひ出で給ふ。止めんとすれども叶はず。坐(そゞろ)に笑(わらは)れて頤(おとがひ)を解き腹を捧(さゝ)げ、後には物をもえ云はず、腹筋(はらすぢ)の切る計になりつゝ轉(ころび)を打ちても、可笑さは愈(いや)優(まさ)りなり。人々涙を流し手を合せて頷(うなづ)き給ふ。「さては笑(わらひ)飽きたまへり。急ぎ止(とゞ)め奉らん」とて算木を疊み侍りしかば、可笑さ打(うち)醒めて何の事もなかりけり。人々奇特を感じ給へりとかや。算法(さんぱう)の不思議はかゝる事共少からず、彼の源性が僅(わづか)に物の積(つもり)を辨へ、田歩の廣狹(くわうけう)を知るを以て、慢心自稱を吐散らす、小智薄術を戒めて、かゝる奇特を現しけん。松島の僧と云ふは狐魅(こみ)の所行か、天狗の所爲(しよゐ)か、重(かさね)て尋ねらるれども、僧の行方(ゆくがた)は知る人なし。

[やぶちゃん注:「※」=「氵」+(「搖」-「扌」)。「淫」の異体字。「いんじ」と読んでいるか(ルビはない)。本話は「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年十二月三日に拠り、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、後半の安倍晴明のエピソードは寛文二(一六六二)年板行の浅井了意「安倍晴明物語」の巻三「庚申の夜殿上の人々をわらはせし事」に拠るとする。

「奇特」本文にあるように、仏教用語としては「きどく」と濁る。神仏の持っている、超人間的な力・霊験をいう。

「謟(へつら)ひ」この「謟」には「へつらふ」という意はない。「疑(うたが)ふ」又は「違(たが)ふ」であり、「へつらふ」ならば「諂」である。ここは文意からも「世間にへつらって」ではおかしい(増淵氏は「世間にへつらって人々に媚び」と訳しておられるが、意味が通らない。この「人」は頼家であろう)。筆者は「世に謟(たが)ひ」と書いたものと私は判断している。

「雅意に任せ」「我意に任す」と同義で、自分の考え通りにする、我儘に振る舞う、の意。

「伎術薄藝」歌舞・音曲の芸能。

「大輔房源性」「進士左衞門尉源整子(まさこ)と號す」「諸將連署して梶原長時を訴ふ」の注に引用した「吾妻鏡」に既出。そこでは「えんしやう(えんしょう)」と読んでいる。頼家側近で、比類なき算術者にして蹴鞠の名手という、ここに記された以上の事蹟は私は不詳。但し、「進士左衞門尉源整子と號す」という部分は、「吾妻鏡」の従来の読みでは「源進士左衞門尉整が子」であり、本書に基づいたと思われる後年の曲亭馬琴の「苅萱後傳玉櫛笥(かるかやごでんたまくしげ)」(文化四(一八〇七)年板行)の上之巻に載る「源性(げんせう)が算術繁光が射法巧拙によつておのおの賞罰を蒙る事」では『進士(しんし)左衞門尉源(みなもとの)整子(まさたね)』とある。なお、「進士」は中国の科挙を真似た律令制の官吏登用試験の科目の名称で、それに合格した文章生(もんじょうしょう)のことをいう。

「仙洞」後鳥羽上皇では、院政の開始が建久九(一一九八)年で短すぎるので、後白河法皇であろう。

「高野大師」書道の名人としても知られた弘法大師。

「五筆」両手・両足及び口に筆を銜えて文字を書く術。弘法大師が行ったとされる。

「垂露偃波の點」「垂露」は、上から下に引く直線の収筆を少し逆に戻して終るもの、「偃波」は形がさざなみに似ているところからいい、古くは詔(みことのり)を記した詔書に用いた。その独特の止めを言うか。

「囘鸞翩鵲の畫」「囘鸞」も「翩鵲」も筆法の一つという。

「蝌斗」「蝌蚪」に同じい。中国古代の字体の一つで、古体篆字のこと。箆(へら)に漆をつけて竹簡に書かれたが、その文字の線は初めが太く先細りとなり、オタマジャクシの形に似るところから、かく呼んだ。

「龍書」書体の一種。伏羲が龍を見てそれを基に文字を作ったとされることに由来するもので、管見したものでは、総ての画(かく)がリアルな龍で出来ている絵文字であった。

「慶雲」「鳳書」いずれも書体の一種という。

「骨法」芸道などの急所となる心得。コツ。

「蔡邕」(さいよう 一三二年又は一三三年~一九二年)は後漢末期の政治家・儒者・書家。飛白体の創始者とされる。飛白体とは、刷毛筆を用いた、かすれが多く装飾的な書法。「飛」は筆勢の飛動を、「白」は点画のかすれを意味する。

「羲之」東晋の政治家で「書聖」と称された王羲之(三〇三年~三六一年)。行書の「蘭亭序」が最も知られるが、参照したウィキ王羲之によれば、王羲之は楷書・行書・草書・章草・飛白の五体を能くし、梁の武帝の撰になる「古今書人優劣評」には、「王羲之の書の筆勢は、一際、威勢がよく、竜が天門を跳ねるがごとく、虎が鳳闕に臥すがごとし」と形容されているとある。

「田頭里坪の積」本来、「田頭」は荘園に於いて荘田を耕作した農民を、「里坪」は「りつぼ」とも読んで、古代からの条里制における土地区画をいう。ここは、荘田の田畑の面積を見積もることを言っている。

「高低長短の漢、段歩畦境、其眼力の及ぶ所分寸をも違へず」「漢」は不詳。勘案の「勘」の誤りか。増淵氏は『思案』と訳しておられる。「段歩」は「反歩」とも書き、普通は「たんぶ」と読む。田畑の面積を「反(たん)」を単位として数えるのに用いる語。ここは、その鋭い眼力の及ぶところの検地の――当該田地の高低や、ちょっとした距離の長短の勘案、田圃とその畦や境界等々――その目測に於いては、これ、一分一寸たりとも決して誤ったことがない、の謂いであろう。

「洛下閎」漢の武帝の時代(前一四〇年~前八七年)の方士で天文学者。太初暦(武帝の太初元(紀元前一〇四)年の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法の一種)の暦纂者で、初めて渾天儀を製作したとされる人物。

「此比奥州伊達郡に境目の相論あり。其實檢の爲源性をぞ遣されける……」以下、「吾妻鏡」を引く。

〇原文

三日乙酉。陰。有大輔房源性〔源進士左衞門尉整が子。〕者。無双算術者也。加之。見田頭里坪。於眼精之所覃。不違段歩云々。又伺高野大師跡。顯五筆之藝。而陸奥國伊達郡有境相論。爲其實檢。去八月下向。夜前歸著。今日參御所。是被賞右筆幷蹴鞠兩藝。日來所奉昵近。仍無左右被召御前。被尋仰奥州事等。源性申云。今度以下向之次。斗藪松嶋。於此所有獨住僧。一宿其庵之間。談法門奥旨。翌朝。僧云。吾爲天下第一算師也。雖隱形算。寧劣龍猛菩薩之術哉云々。而更不可勝源性之由。吐詞之處。彼僧云。不改當座。速可令見勝利云々。源性承諾之。仍取算。置源性座之廻。于時如霞霧之掩而四方太暗。方丈之内忽變大海。所著之圓座爲磐石。松風頻吹。波浪聲急。心惘然難辨存亡也。移剋之後。以亭主僧之聲云。自讚已有後悔哉云々。源性答後悔之由。彼僧重云。然者永可停算術慢心。源性答。早可停止。其後蒙霧漸散。白日已明。欽仰之餘。雖成傳受之望。於末世之機根。稱難授之由。不免之云々。仰云。不伴參其僧。甚越度也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

三日乙酉。陰る。大輔房源性(げんしやう)〔源進士左衛門尉整が子。〕といふ者有り。算術の無双の者なり。加之(しかのみならず)、田頭(でんと)の里坪(りひやう)を見て、眼精の覃(およ)ぶ所に於いては、段歩(だんぶ)を違へずと云々。

又、高野大師の跡を伺ひ、五筆の藝を顯はす。而るに陸奥國伊達郡に境相論有り。其の實檢の爲に、去る八月、下向す。前夜歸著し、今日御所へ參る。是れ、右筆幷びに蹴鞠の兩藝を賞せられ、日來(ひごろ)、昵近(ぢつきん)奉る所なり。仍つて左右(さう)無く御前に召され、奥州の事等を尋ね仰せらる。源性、申して云はく、

「今度、下向の次(ついで)を以つて、松嶋に斗藪(とさう)す。此の所に獨住の僧有り。其の庵に一宿するの間、法門の奥旨を談ず。翌朝、僧云はく、

『吾、天下第一の算師たるなり。隱形(おんぎやう)の算と雖も、寧んぞ龍猛(りうみやう)菩薩の術に劣らんや。』

と云々。

而れども、

『更に源性に勝るべからず。』

の由、詞を吐くの處、彼の僧云はく、

『當座を改めず、速かに勝利を見せしむべし。』

と云々。

源性、之を承諾す。仍つて算を取りて、源性が座の廻りに置く。時に霞霧の掩(おほ)ふがごとくして、四方、太(はなはだ)暗く、方丈の内、忽ち大海に變じ、著する所の圓座、磐石と爲る。松風、頻りに吹き、波浪の聲、急にして、心、惘然(ぼうぜん)とし、存亡を辨(わきま)へ難きなり。剋(とき)を移すの後、亭の主の僧の聲を以つて云はく、

『自讚、已に後悔有るや。』

と云々。

源性、後悔の由を答ふ。彼の僧重ねて云はく、

『然らば、永く算術の慢心を停めるべし。』

と。源性、答ふらく、

『早く停止(ちやうじ)すべし。』

と。其の後、蒙霧、漸く散じ、白日、已に明かし。欽仰の餘りに、傳受の望みを成すと雖も、

『末世の機根に於いて、授け難し。』

の由を稱し、之を免さず。」と云々。

仰せて云はく、

「其の僧を伴ひ參らざるは、甚だ越度(をちど)なり。」

と云々。

・「伊達郡」現在の福島県北部の伊達市・桑折町・国見町・川俣町・福島市の一部に相当する。律令制で道国郡制が整備されたとき、当初は現在の福島市とほぼ同じ地域と伊達郡・伊達市の地域を合わせて信夫郡(しのぶぐん)であった(古代には「信夫」は「忍」とも表記された)が、それが十世紀前半に信夫郡から伊達郡が分割された(これは当時、律令制の租庸調の課税を整備する必要性から各郡の人口をほぼ均一にするために、朝廷が郡の分割や住民の強制移動を全国的に行ったことによるもので、朝廷から見ると開拓地であった陸奥国にあってはこうした再編成が盛んに行われた)。この分割によって旧信夫郡の内、小倉郷・安岐(安芸)郷・岑越(みねこし)郷・曰理(わたり)郷が新信夫郡となり、伊達郷と靜戸(しずりべ)郷と鍬山郷の三郷が新たに伊達郡となった(以上はウィキの「伊達郡」に拠る)。

・「實檢」実地検地。

・「斗藪」梵語ドゥータの漢訳語で、衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にし、修行することを言う。

・「隱形の算」自分の姿を隠して見えなくする呪術。

・「龍猛菩薩」龍樹。二世紀中頃から三世紀中頃のインド大乗仏教中観(ちゅうがん)派の祖。南インドのバラモンの出身で、一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の注釈書を多数著して宣揚した。

・「算」「北條九代記」に出る算木。易で、卦(け)を表す四角の棒。長さ約九センチメートルで、六本一組。各々の四面の内、二面は爻(こう)の陽を表し、他の二面は陰を表す。

・「末世の機根に於いて、授け難し」「機根」は仏の教えを受けて発動する能力や資質をいう。本文でははっきりと教えを受けられるレベルが最低の「下根」と評している(但し、これは最低でも受けられるレベルではある)――世は最早、乱れに乱れ(暗に暗愚の君たる頼家を揶揄している)、救い難き末世となっており、そのような世の下級の機根しか持たぬそなたには授け難い――という謂いである。]

耳嚢 巻之六 夜發佳名の事

 夜發佳名の事

 

 いまだ元文の頃は、賤(いやし)き者にも風流なる事ありしやと、秋山翁かたりしは、柳原へ出候夜發(やほつ)、大晦日の夜、三百六拾人の客をとりし女有(あり)て、其抱主(かかへぬし)承りて、今夜に限り、ひと年の日數なさけ商ひし事珍しとて、ひと年おかんと名乘候へかしと云し由。其頃毎夜夥敷(おびただしき)見物なりし由。秋山も小兒の頃故、おわれて見に行しが、美惡は覺へずと、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:元文年間の出来事で連関。

・「夜發」既出。「やほつ」「やほち」と読み、夜間に路傍で客を引いた最下級の売春婦のこと。底本鈴木氏注に、『三村注「守貞漫稿に云、夜鷹は土妓也、古の夜発と云者是歟、或書云、本所夜鷹の始りは、元禄十一年九月六日、数寄屋橋より出火し、風雨にて千住迄焼亡す、其焼跡へ小屋掛し折節、本所より夜々女来りて小屋に泊る、世のよき時節故、若い者徒然の慰みに、互に争ひ買ひけるより始る云々、本所より出る夜たかに名を一年と云あり、ひとゝせと訓ず、此土妓の詠歌に、身の秋はいかにわびしくよひよひは顔さらしなの運の月かげ、何人の果なるを詳にせず、由ある女の零落なるべし」』とある。岩波版長谷川氏注によって、これは「守貞漫稿」の二十二(活字本の二十)であることが分かり、長谷川氏は更に、講釈師馬場文耕の「当世武野(ぶや)俗談」(宝暦七(一七五七)年板行)に『同様の夜鷹の話あり、「一とせのおしゆん」という』ともある。

・「佳名」「嘉名」とも書く。いい名・縁起のよい名、又は、いい評判・名声、の意で、ここでは洒落た源氏名という謂いの他に、売れっ子の意も含んでいる。

・「ひと年の日數」本邦の旧暦は太陰太陽暦によるが、旧暦の一ヶ月の日数は月に固定されず、年毎に各月が三十日の大の月か、二十九日の小の月となり、その近似値として十二ヶ月×三十日で三百六十日とした謂いである。実際の太陰太陽暦における一年の日数は、平年で三百五十四日程度、補正のための閏月のある閏年の場合は三百八十四日程度で、年によって大きく異なる。
・「秋山」「卷之四」の痔の神と人の信仰可笑事に登場した根岸の知音で、脇坂家に仕え、「脚気辨惑論」などの医書を表わしている江戸の著名な医師秋山宜修(かくしゅう 生没年未詳、号玄瑞)であろう。

・「おわれて」ママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 夜發の佳名の事

 

 「……未だ元文の頃には、賤しき身分の者にも……これ、相応に風流なる仕儀が御座ったことじゃ……」

と、秋山玄瑞翁の語ったことには――

 

……柳原へ夜な夜な出でて御座った一人の夜発(やほち)のうちに、ある年の大晦日の夜(よ)、丁度、三百六十人の客をとった女が御座っての、その抱え主がそのことを聴き、

「……今夜(こよい)と限って、一年(ひととせ)の日数(ひかず)、情(なさ)けを商(あきの)うたことは、これ、珍らしきことじゃ。……」

とて、

「……向後は、そなた、『ひと年(とせ)おかん』と名のりなさるがよい。……」

と云うたそうな。……

 いや、その頃は、毎夜の如、一目、その「ひと年おかん」の顔を拝まんと、まあ、夥しき見物人で御座った。……

 我らも、未だも小児の頃で御座ったゆえ、乳母に負われて見に参りましたが……さて……流石に、幼な子の折りの、遠き昔のことなれば……「ひと年おかん」のその美醜は、これ、覺へては御座らぬが、の……」

 

と語って御座ったよ。

西東三鬼句集「變身」 昭和三十二(一九五七)年 九七句

昭和三十二(一九五七)年 九七句

 

新年を見る薔薇色の富士にのみ

 

一波に消ゆる書初め砂濱に

 

初漁を待つや枕木に油さし

 

初日一さす畦老農の二本杖

 

刈株の鎌跡ななめ正月休み

 

熱湯を噴く巖天に初鴉

 

ばら色のままに富士凍て草城忌

 

[やぶちゃん注:「草城忌」一月二十九日。日野草城の一周忌。]

 

小鳥の巣ほどけ吹かれて寒深む

 

雪片をうけて童女の舌ひつこむ

 

北極星ひかり生きもの餠の黴

 

薔薇の芽のきびの如し寒日ざし

 

寒の雨東京に馬見ずなりぬ

 

鳴るポンプ病者養う寒の水

 

石橋に厚さ増しつつ雪輕し

 

凍り田に歸り忽ち鷺凍る

 

影過ぎてまたざらざらと寒の壁

 

老いの足小刻み麥と光踏み

 

耳に手を添え耕し同志遠い話

 

野良犬とわれに紅皿寒の濱

 

春山の氷柱みずから落ちし音

 

生ける枝杖とし春の尾根傳い

 

紅梅のみなぎる枝に死せる富士

 

斷層に蝶富士消えて我消えて

 

寒き江に顏を浮べて魚泳ぐ

 

弟子の忌や紙の櫻に小提灯

 

[やぶちゃん注:時系列から見て、前年二月十六日に自殺した中村丘の一周忌である。]

 

春晝の巖やしたたり絞りだし

 

うぐひすや巖の眠りの眞晝時

 

すみれ搖れ大鋸の急がぬ音

 

紋章の蝶消え春の巖のこる

 

日の遠さ撓めしばられて梨芽吹く

 

春濱に食えるもの尋(と)め老婆の眼

 

富士滿面櫻滿開きようも不漁か

 

ぼろの旗なして若布に東風荒し

 

網つくろう胡坐どつかと春の濱

 

荒れる海「わしらに花見はない」と漁夫

 

荒海や巖をあゆみて蝶倒る

 

斷崖下海足裏おどり母の海女

 

流木を火となし母の海女を待つ

 

太陽へ海女の太腕蚫さゝげ

 

浮くたびに磯笛はげし海中暗し

 

海女浮けよ焚火に石が爆ぜ跳べり

 

笑う漁夫怒る海蛇ともに裸

 

靑嵐滅びの砂岩砂こぼす

 

喫泉飮む疲れて黑き鳥となり

 

ふつふつと生きて夜中の梅雨運河

 

落梅は地にあり漁師海にあり

 

黴の家單音ひかり佛の具

 

荒梅雨の沖の汽笛や誰かの忌

 

梅雨赤日落つるを海が荒れて待つ

 

モナリザは夜も眠らず黴の花

 

かぼちや咲き眼立て爪立て蟹よろこぶ

 

やわらかき子等梅雨の間の岩礁に

 

花火見んとて土を踏み階を踏み

 

  青森一〇句

 

舌重き若者林檎いまだ小粒

 

鐡球の硬さ靑空靑林檎

 

長柄大鎌夏草を薙ぐ惡を刈る

 

落林檎澁し阿呆もアダムの裔

 

横長き夕燒太宰の山黑し

 

   乘らざりし連絡船

 

なお北へ船の半身夕燒けて

 

靑高原わが變身の裸馬逃げよ

 

炎天涼し山小屋に積む冬の薪

 

寡默の國童子童女に草いちご

 

港灣や靑森の蟬のけぞり鳴く

 

つつ立ちてゆがみゆく顏土用波

 

富士見ると船蟲集う秋の巖

 

笛吹き立ち太鼓打ち坐し秋の富士

 

漁夫の手に綿菓子の棒秋祭

 

濡れ紙で金魚すくうと泣きもせず

 

パシと鳴るグローブ晩夏の工場裏

 

  長良川 一〇句

 

   夜と晝

 

鵜舟曳く身を折り曲げて雇われて

 

火の粉吐き突つ立つ鵜匠はたらく鵜

 

早舟の火の粉鵜川の皮焦がす

 

はばたく鵜古代の川の鮎あたらし

 

潛り出て鮎を得ざりし鵜の顏よ

 

晝の鵜や鵜匠頭(うしようのかみ)の指ついばみ

 

いわし雲細身の鵜舟ひる眠る

 

籠の鵜が飢えし河原の鳶をみる

 

鵜の糞の黄色鮮烈秋の風

 

晝の今淸しなまぐさかりし鵜川

 

枯れ星や人形芝居幕を引く

 

食えぬ茸光り獸の道せまし

 

ぅつむきて黑こほろぎの道一筋

 

立ちて逃ぐる力欲しくて芋食うよ

 

冬の蠅耳にささやく最後の語

 

こほろぎが暗闇の使者跳ねてくる

 

  岐阜二句

 

秋の鳶城の森出て宙に遊ぶ

 

板垣銅像手上げて錆びて秋の森

 

冬怒る海へ靑年石投げ込む

 

曲る梃子霜もろともに巖もたげ

 

枯葉のため小鳥のために石の椅子

 

子の指先彌次郎兵衞立つ大枯野

 

安定所の冬石段のかかる磨滅

 

寒月下の戀雙頭の犬となりぬ

 

河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり

 

月枯れて漁夫の墓みな腕組める

一言芳談 七十二

   七十二

 又云く、或時心佛房に示して云、世間の鍛冶(かぢ)・番匠(ばんじやう)等が其道を傳ふる事は、かならずしもことごとく教へねども、其中に宗(むね)とあることをしつれば、其道を傳へたりといふぞかし。其定(ぢやう)に此二三年そひたるしるしには、世をのがれたる身にて、無常を忘れずしてだにあらば、本意なるべし。

〇そひたる、敬佛房、心佛房につきそひ給へるなり。

[やぶちゃん注:「心佛房」伝不詳。敬仏房の弟子。標註の謂いに頭を傾げる方もあろうかとも思われるが、高校の古文の授業を思い出して戴きたい。「つきそふ」は「かしづく」と同じく、人の世話をするの意で、それ自体に上下関係や敬意の関係はない。それに為手(して)尊敬の補助動詞「給ふ」のみが附されるのであるから、ここには「つきそふ」の動作主である敬仏房のみに敬語が用いられている。おかしくないのである。
「宗」中心となるもの、また、重要なもの。
「しつれば」の「し」な「爲」。
「無常を忘れず」Ⅱの大橋注に(引用中の古文引用部を正字化した)、
   《引用開始》
賞山の『父子相迎上末諺註』に「あはれ、佛の御はからひにても、一期こゝろに無常わすれず。くちに念佛をやまぬ身にしあらば、いかばかり世のありさまもどかしう、すみたる心のうちならん。これなむ、又なくあらまほしき心なり』を注して、この敬仏房の法語を引いて、「聖光上人の持言に云、安心起行の要は念死念佛に有、いづる息、いる息を待ず。たすけ給へあみだほとけ、南無阿彌陀佛と云々。有本に無常をわすれずと有」という。
   《引用終了》
とある。「父子相迎上末諺註」は、元亨年間(一三二一年~一三二四年)に成立した和文で浄土宗の教義を説く向阿証賢の「三部仮名鈔」(「帰命本願鈔」・「西要鈔」・「父子相迎」)の中の「父子相迎」の註釈書と思われ、筆者の賞山とは恐らく江戸時代の隆堯なる僧で、古書店の目録を見ると同人の「父子相迎諺註」(貞享三(一六八六)年跋・寛政三(一七九一)年板行)というのがある。これであろう。]

2013/01/22

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 旗立山 同定

「ひょっとこ太郎」氏より更なる情報を頂戴し、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の冒頭で未確定であった「旗立山」を同定した。
誰も振り返って立ち止まっては呉れないと思っていたのに――タルコフスキイが言うように――必ず振り返って――そして微笑んで呉れる人がいるんだなぁ……

西東三鬼句集「變身」 昭和三十一(一九五六)年 一一四句

昭和三十一(一九五六)年 一一四句

 

霧ひらく赤襟卷のわが行けば

 

枯樹鳴る石をたたみし道の上

 

老の仕事大根たばね木に掛けて

 

聖誕祭わが體出でし水光る

 

相寄りし枯野自轉車また左右へ

 

地下の街誰かの老婆熟柿賣る

 

相寄りし枯野自轉車また左右へ

 

寒夜の蜘蛛仮死をほどきて失せにけり

 

眼がさめてたぐる霜野の鷄鳴を

 

地下の街誰かの老婆熟柿賣る

 

機關車單車おのが白息踏み越えて

 

聖誕祭男が流す眞赤な血

 

 靜塔へ

 

蟹の脚嚙み割る狂人守ルカは

 

  悼日野草城先生 六句

 

寒き花白蠟草城先生の足へ

 

死者生者共にかじかみ合掌す

 

觸れざりき故草城先生の廣額(ぬか)

 

師の柩車寒の砂塵に見失ふ

 

深く寒し草城先生燒かるる爐

 

寒の鳥樹にぶつかれり泣く涙

 

[やぶちゃん注:「ミヤコホテル論争」で知られた日野草城(明治三四(一九〇一)年~昭和三一(一九五六)年)は昭和二一(一九四六)年に肺結核を発症、以後十数年、病床にあった。心臓衰弱のためにこの年の一月二十九日に亡くなった。底本注に初出の『断崖』では前書は『悼舊師』とある(「旧」を正字化した)。]

 

初日さす蓮田無用の莖滿てり

 

走れずよ谷の飯場の春著の子

 

夜の吹雪オーデコロンの雫貰う

 

山の若者五人が搗きし餠伸びる

 

初釜のたぎちはげしや美女の前

 

寒きびし琴柱うごかす一つずつ

 

寒夜肉聲琴三味線の老姉妹

 

獅子頭背にがつくりと重荷なす

 

霰を撥ね石の柱のごとく待つ

 

雪晴れの船に乘るため散髮す

 

膝にあてへし折る枯枝女學生

 

卒業や尻こそばゆきバスに乘り

 

寒明けの水光り落つ駄金魚に

 

昭和穴居の煙出しより春の煙

 

襁褓はためき春の山脈大うねり

 

老殘の藁塚いそぐ陽炎よ

 

下萌えの崖を仰げば子のちんぽこ

 

紅梅の蕾を噴きて枯木ならず

 

薪能薪の火の粉上に昇る

 

火を焚くが仕丁の勤め薪能

 

  中村丘の死

 

自息黑息骸の彼へひた急ぐ

 

髮黑々と若者の死の假面

 

死にたれば一段高し蠟涙ツツ

 

立ちて凍つ弟子の燒かるる穴の前

 

手の甲の雪舐む弟子を死なしめて

 

弟子葬り歸りし生身(なまみ)鹽に打たる

 

亡者釆よ櫻の下の晝外燈

 

若者死に失せ春の石段折れ曲る

 

[やぶちゃん注:底本の編者注に、初出『断崖』の原題は『丘に捧ぐ』とする。中村丘は三鬼と同じ津山市出身で、三鬼門流の『断崖』に属していた若き俳人であったが、この年の二月十六日に自殺(短銃によるものとされる)した。享年二十一歳であったが、実はその背景には三鬼の愛人との三角関係があった。私も所持する沢木欣一・鈴木六林男共著「西東三鬼」(桜楓社昭和五四(一九七九)年刊)に詳しいが、「齋藤百鬼の俳句閑日」の三鬼と若き俳人の自死に上手く纏められているので参照されたい。]

 

汝も吠え責む春山霧の中の犬

 

うぐひすの夕べざくりと山の創

 

冷乳飮む下目使いに靑麥原

 

春のミサ雨着に生まの身を包み

 

道しるべ前うしろ指し山櫻

 

黑冷えの蓮掘りのため菜種炎ゆ

 

木の椿地の椿ひとのもの赤し

 

靑天へ口あけ餌待ち雀の子

 

一指彈松の花粉を滿月へ

 

遠くにも種播く拳閉ぢ開く

 

尺八の指撥ね春の三日月撥ね

 

牛の尾のおのれ鞭打ち耕せる

 

芽吹きつつ石より硬し樫大樹

 

代田出て泥の手袋草で脱ぐ

 

麥秋や若者の髮炎なす

 

今つぶすいちごや白き過去未來

 

吸殼を突きさし拾う聖五月

 

  中村丘の墓

 

若者の木の墓ますぐ綠斜面

 

田掻馬棚田にそびえ人かがむ

 

田を出でて早乙女光る鯖買える

 

五月の風種牛腹をしぼり咆え

 

梅雨の崖屑屋の秤光り來る

 

下向きの月上向きの蛙の田

 

毛蟲燒く梯子の上の五十歳

 

茣蓙負ひて田搔きの腰をいつ伸ばす

 

若くして梅雨のプールに伸び進む

 

黴の家振子がうごき人うごく

 

旅の梅雨クレーン濡れつつ動きつつ

 

田を植うる無言や毒の雨しとしと

 

  太郎病氣再發

 

鮮血噴く子の口邊の鬚ぬぐふ

 

[やぶちゃん注:底本年譜の同年六月の項に、『長男太郎、再喀血。入院手術のため上京。角川書店に就職のため』、勤務していた大阪女子医科大学(現在の関西医科大学)付属香里(こり)病院を辞職した旨の記載があり、八月十三日に神奈川県葉山町堀の内に転居した。]

 

眼を細め波郷狹庭の蠅叩く

 

犬にも死四方に四色の雲の峰

 

雷火野に立ち蟻共に羽根生える

 

[やぶちゃん注:「雷火野に」「らいか/のに」と読むか。]

 

失職の手足に羽蟻ねばりつく

 

艦に米旗西日の潮に下駄流れ

 

老いは黄色野太き胡瓜ぶらさがり

 

蚊帳の蚊も靑がみなりもわが家族

 

岩に爪たてて空蟬泥まみれ

 

靑萱につぶれず夫婦川渉る

 

炎天にもつこかつぎの彼が弟子

 

鰯雲小舟けなげの頭をもたげ

 

垂れし手に灼け石摑み貨車を押す

 

秋富士消え中まで石の獅子坐る

 

秋濱に描きし大魚へ潮さし來

 

  子の手術

 

太郎に血賣りし君達秋の雨

 

乳われを見んと麻醉のまぶたもたぐ

 

  津山、蒜山(ひるせん) 六句

 

龜の甲乾きてならぶ晩夏の城

 

今が永遠顏振り振つて晩夏の熊

 

赤かぼちや開拓小屋に人けなし

 

つめたき石背負ひ開拓者の名を背負う

 

痩せ陸稻へ死火山脈の吹きおろし

 

雨の粒冷泉うちて玉走る

 

老いし母怒濤を前に籾平(なら)す

 

冬海の巖も人型うるさしや

 

落葉して裸やすらか城の樹々

 

風よよと落穗拾いの横鬢に

 

赤黒き掛とうがらしそれも欲し

 

黄林に玉のごとしや握り飯

 

枯山の筑波を囘り呼ぶ名一つ

 

金の朝日流寓の寒き崖に洩る

 

北への旅夜明けの鵙に導かれ

 

城の濠涸れつつ草の紅炎えつつ

 

石の冬靑天に鵙さけび消え

 

汽車降りて落穗拾ひに並ばんかと

 

藷殼の黑塚群れてわれを待つ

 

冬耕の馬を日暮の鵙囃す

 

一切を見ず冬耕の腰曲げて

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 大山石尊

    大山石尊

 

 雨降山大山寺(うごうさんおほやまでら)は、大住郡(おほすみごほり)にありて、良辨僧正(りやうべんそうぜう)の開基、眞言宗(しんごうしう)、別當は八大院、坊舍十八院。御師(おし)は百五十餘(よ)あり。麓(ふもと)の子安村(こやすむら)より前不動まで廿八丁。坂道の兩側は商人(あきんど)・旅籠(はたごや)たてつゞき、名物の挽物(ひきもの)をうる家おほし。本社は石尊(せきそん)大權現(ごんげん)、奧の不動より險難の坂道廿八丁、そのほか難所(なんじよ)おほし。

〽狂 參(さん)けいの貴賤(きせん)は次第(しだい)ふ動尊(どうそん)

    平等利(べうどうり)やくをたるゝ大山

さんけい

「私(わたし)は先年(せんねん)、このお山へ參詣したとき、擂粉木(すりこぎ)を一本もつてきて、不動さまへおさめましたら、そのとき、宿(やど)屋へとまつた晩の夢に、天狗樣があらはれ玉ひて、

『これこれ、その方(ほう)は、なにとて人並みに太刀はおさめず、擂粉木をおさめしぞ』

とのたまふにより、私のいふには、

『私の太刀といふは、その擂粉木なり。侍の魂(たましい)といふは太刀刀(たちかたな)、町人の私の魂は擂粉木。常は宙(ちう)にふらふらとぶらついて邪魔(ぢやま)なものでござりますが、まさかの時は、きつと役にたつ擂粉木、私の爲には大事の擂粉木、太刀刀もおなじことでござりますから、それで擂粉木をおさめました』

といふと、天狗さまが、

『なるほど、それでわかつた。いかさま、擂粉木は男の魂、しかれば擂鉢(すりはち)は女の魂。そこで擂粉木を太刀の代はりにおさめたはよいが、この方(はう)にも擂粉木は澤山あつてこまる。めいめい持前(もちまへ)の擂粉木一本づゝ前にぶらさげている上に、顏にまた、擂粉木が一本あるから、もふ、擂粉木はいらぬ、これから參詣するなら、擂粉木より擂鉢をおさめてくれろ』

とおつしやつたから、こいつ合點(がてん)がゆかぬ。擂鉢は女だとおつしやつたから、擂鉢をおさめてくれとは、もしや、儂(わし)が嬶(かゝあ)をおさめろといふから、こいつ氣味のわるいことゝ、それからさつぱり參詣しませぬが、去年(きよねん)、儂の嬶(かゝあ)はしんだから、それで今年(ことし)は參詣にさんじました。」

[やぶちゃん注:「大山石尊」現在の伊勢原市の大山(丹沢山地の東端伊勢原市域の西北端に位置する。標高一二五二メートル)、別名、雨降山(あふりやま)にある大山阿夫利(あふり)神社。「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。相模国の式内社十三社の内の一社で、現在は本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。但し、これらの神は明治の神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神であった石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからかく呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には奥社に大天狗が、前社には小天狗がそれぞれ祀られていた。これが全国八大天狗に数えられた大山伯耆坊で、元来は伯耆大山の天狗であった者が、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったため、その後任として移って来たと伝承されている。富士講中で特に信仰されたと伝えられる。社伝によれば崇神天皇の御代の創建とあり、「延喜式神名帳」では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。天平勝宝七(七五五)年、良弁(後注)によって神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏などの武家の厚い崇敬を受けた。江戸期には当社に参詣する大山講が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣したが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈によって石尊大権現の名称や大山寺は一時廃され、旧来の阿夫利神社に改称された(その後の事蹟は次注参照。以上は主にウィキ大山阿夫利神社に拠ったが、大山公式サイト「お歴史」の記載で補正をしてある)。

「大山寺」前注と重なる部分もあるが、本文読解にとって有益と思われるので、煩を厭わず、注する。大山寺は現在の大山阿夫利神社のある大山山麓(当初の本堂不動堂は中腹)にある真言宗大覚寺派の寺院。大山不動の通称で知られる。山号は雨降山(あぶりさん)。本尊不動明王。高幡山金剛寺・成田山新勝寺とともに、しばしば「関東の三大不動」に数えられ、江戸期には落語の「大山詣」「百人坊主」などで知られるように、江戸近郊の崇敬地、観光地として賑わった。「続群書類従」所載の「大山寺縁起」では、先に記したように天平勝宝七(七五五)年、東大寺初代別当良弁が聖武天皇の勅願寺として開創したといい、寺伝では空海を三世住持と伝承する。元慶二(八七八)年に地震に伴う火災で焼失、同八(八八四)年に復興したとする。「吾妻鏡」によれば建久三(一一九二)年八月九日には、源頼朝が政子の安産祈願のために当寺を含む相模国の寺社に神馬を奉納している。その後、一時衰退するが、文永年間(一二六四年~一二七五年)に願行房憲静(けんじょう)により中興、中世には修験系の信仰の場として栄えた。近世初頭、徳川家康が大山寺の改革を断行、慶長一三(一六〇八)年に五十七石、同一五(一六一〇)年には更に百石を寄進するなどして保護を与える一方、修験者や妻帯僧を下山させて清僧(妻帯していない僧)のみを山上に住持させた。第三代将軍家光も伽藍の修復代を寄進するなどの援助を与え、家光の代参として春日局が二度に亙って参詣している。江戸中期の十八世紀後半以降は、豊作や商売繁盛などの現世利益を祈念する人々による「大山詣で」が盛んになり、関東各地に「大山講」が組織され、大山参詣へ向かう「大山道」が整備された。前述の家康の改革で下山した修験者らは「御師」として参詣者の先導役を務め、山麓の伊勢原や秦野には参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えた。しかし、前注で示したように、明治初期の神仏分離令による廃仏毀釈で大山の廃仏と神社化が図られ、大山中腹にあった不動堂は破却、現在の大山阿夫利神社下社となった。その後、明治九(一八七六)年に現在地(元の来迎院の跡地)に不動堂の再建が着手され、明治一八(一八八五)年に明王院という寺名で再興、大正四(一九一五)年には明王院は観音寺と合併して、本来の大山寺の旧寺号が復活した(以上はウィキ大山寺伊勢原市)」に拠った)。

「大住郡」相模国に存在した郡(現在の伊勢原市全域及び平塚市・秦野市・厚木市の一部)。古えの郡衙は平塚市四之宮付近にあったと考えられている。

「子安村」現在の伊勢原市子易(こやす)。現在の伊勢原駅から大山方向へ約五キロメートル入った山村。

「麓の子安村より前不動まで廿八丁」約三・五キロメートル。これは、現在の参詣道経由の実測ともほぼ一致する。

「奧の不動より險難の坂道廿八丁」これは恐らく、大山石尊(現在の大山阿夫利神社)を越えて、大山山頂までの距離と考えられる。]

耳嚢 巻之六 守財輪廻の事

 守財輪廻の事

 

 元文の頃の由、羽州(うしう)山形に、予が知音(ちいん)秋山某(なにがし)逗留せし頃聞(きき)し迚(とて)咄しける。天童町といふ所に、炭薪を商ふ富家有しが、平生心やすくゆき通ふなるもの、金三十兩時がりに借(か)る事ありしが、ある夜右富家の翁かりける方え來りて、金子請取べき旨申けるゆゑ、明日返し可申持置(まうすべくもちおき)候と申答へけるに、只今致し呉(くれ)侯樣(やう)にと申儘(まうすまま)、直に右金子を渡しけるに、右老人いづちへ行けん見へざるゆゑ、夜中老人三里もある處をかへり候も心もとなしと、あとを追ひ、無難に帰り給ふやと尋ければ、彼(かの)老人は昨夜頓死いたし、翌日葬禮いとなむとて、殊の外取込(とりこむ)の由答へける故、大に驚ろき、不思議成(なる)事も有(ある)なり、只今借用の金子請取(うけとり)に被參(まゐられ)、渡しぬれど、夜中獨り被歸(かえられ)候を氣遣ひ、跡より見屆(みとどけ)に參りしと申ければ、亭主甚(はなはだ)憤り、返濟なくば其通(そのとほり)の儀、聊(いささか)なる金子に付、老父へ疵を付候申方(まうしかた)、恥辱を與へしとて摑み合けるを、葬禮に差懸(さしかか)りよからぬ事と、有合(ありあひ)候者取支(とりさ)へ押鎭(おししづめ)けるが、死人を收(をさむ)るとて夜具などふるひ取(とり)片付けしに、封じたる金子、寢床より出るに付(つき)見改(みあらため)しに、上書は則(すなはち)かの自筆故、あきれて互に和睦せしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:夢告譚から心霊譚ではあるが、寧ろ、冒頭から四つめの「意念奇談」との親和性を強く感じさせる心霊譚である。但し、「意念奇談」は明確な離魂であるが、こちらの老人は訪れと死んだ時期が微妙ではある。

・「守財の輪廻」この「輪廻」は執着心の強いことを謂う。

・「元文」西暦一七三六年~一七四〇年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、六十年以上遡る、かなり古い都市伝説である。

・「時がり」は「時借り」で、一時的に金などを借りること。当座の借り。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 守財への執心の事

 

 元文の頃のことの由。

 出羽国山形に私の親友で御座る秋山某(ぼう)が、逗留致いた折りに聞いたとのことで、話し呉れたもので御座る。

 天童町というところに、炭薪(すみたきぎ)を商(あきの)うておる、裕福なる商家が御座った。

 その家(や)と平生、親しく付き合(お)うて御座ったある者、金三十両を当座の間、かの家主(いえぬし)より借り受けたことがあった。

 ある夜のこと、かの富家(ふけ)の老主人、ふらっと、その三十両を借りておった男の方へと来たって、

「……かの金子……返し呉りょう……」

と申すゆえ、

「……へえ、明日(みょうにち)お返しに参らんと存じ、用意致いては御座いましたが……」

と申し開き致いたところが、老主人の答うるに、

「……只今……直ぐに渡し呉るるよう……お頼(たの)、申す……」

と丁寧な答えながら、何やらん、急(せ)かすような気味も、これあればこそ、直ちに、かの用意致いて御座った金子を渡いた。

――と

……はっと気が付くと、老人の姿は、目の前から掻き消えて御座った。

「……今、金子を渡した、とばかり……一体、どこへ行かれたものか……」

と後架なんども覗いても見えぬゆえ、

「……それにしても……この夜中、老人が三里もある道のり、これ、帰らるるは心もとなきことじゃ……」

と、一本道の山道、後を追った。

 結局、追い付くことのう、老人が家へと辿り着いてしもうたによって、不審に思いつつも、

「ご亭主は、ご無事でお帰りか?」

と門口を訪ねたところは、主人惣領が出て参り、

「……我らが父、昨夜頓死致し……今日、葬礼を営むことと相い成って御座る……家内(いえうち)もご覧の通り、殊の外、取り込んで御座るによって……」

と応じたゆえ、大いに驚ろき、

「……いや……不思議なることも、これ、あることじゃ!……実は……つい今さっき、ご亭主自ら……我らが借用致いて御座った金子を受け取りに参られ、請わるるがままにお渡し致いたが、この夜中に独りお帰りにならるる危うさを気遣い、無事、お帰りになったかどうか心配なれば、後を追って見届に参った次第……」

と申したところ、若亭主、甚だ以って憤り、

「……おのれ!……返済せずに、そのまま踏み倒さんという魂胆かッ!……たかが三十両ぽっちの金子につき、我らが老父の執着と騙(かた)るとはッ!……父の面子(めんつ)に疵をつけ呉りょうた! その憎(にっ)くき申し様! よくも! 我らが家に、おぞましき恥辱を掛けよったなッ!」

と叫ぶや、取っ組み合いの喧嘩を始めた。

 されば、すぐに、

「葬礼に差し障り、以ての外の狼藉じゃ!」

と、その場に居合わせて御座った者どもが二人を分けて取り押さえ、それぞれに諭しを入れて鎮めさせ、ともかくも葬儀をとり行う仕儀と相い成った。

 ところが、さても桶に死人(しびと)を納めんと、夜具なんど振るってとり片付けたところが――

――封じた金子、これ、三十両

――寝床の間より出でたによって

――見改めたところが……

……その上書は、則ち、かの借り受けた者の自筆の封であったがゆえ、その場の者ども、一残らず、これ、呆れて、暫くものも言えずなった、と申す。

 無論、冨家の若主人と借り受けた男は、これ、互いに和睦致いた、とのことで御座る。

一言芳談 七十一

   七十一

 

 敬佛房云く、後世者の法文は、義は淺くて、心ざしが深かかるべき也。

 

[やぶちゃん注:Ⅰは「三」の「學問」の部立ての最初に、前の「七十」を、最後にこの「七十一」を配している。この場合、この二つのエピグラムを並べるよりは、確かに遙かに違った意味合いを読む者に与える効果はあるように思われる。

「義」論理。

「淺くて」短くて。淡くて。あっさりとしていて。]

2013/01/21

西東三鬼句集「變身」 昭和三十(一九五五)年 一四三句

昭和三十(一九五五)年 一四三句

 

刈田照り赤き童女の一つまみ

 

藁塚作る朝日に笑ひまきちらし

 

荒るる潟鳰くつがへり冬日照る

 

つまずく山羊かえりみ走る枯野乙女

 

小赤旗ちぎれんばかり枯野工場

 

北國の意志の巖あり落葉す

 

聲なりし寒禽霧をつらぬき來(く)

 

冬潟の荒れにこぎ出で何を得る

 

冬日照農の埃のはげ頭

 

雪ちらほら古電柱は拔かず切る

 

風呂場寒し共に裸の油蟲

 

脚ちぢめ蠅死す人の大晦日

 

寒鮒黑し金魚昇天したるあと

 

眉と眼と間曇りて雪が降る

 

百の貧患者に寒のぼろ太陽

 

寒の星一點ひびく基地の上

 

霜燒けの薔薇の蕾に飛行音

 

枯山に日はじわじわと指えくぼ

 

地にころぶ黑寒雀今の友

 

枯土堤の山羊の白さに心(しん)弱る

 

少女舌出すごと頂上に雪すこし

 

  島津亮を見舞う

 

君生きよ風船の笛枯野に鳴る

 

[やぶちゃん注:島津亮(しまづりょう 大正七(一九一八)年~平成一二(二〇〇〇)年)は俳人。「―俳句空間―豈weekly」の「俳句九十九折(21) 俳人ファイル ⅩⅢ 島津亮」の冨田拓也氏の記載によれば、昭和二一(一九四六)年に三鬼と邂逅し、『青天』に参加して句作を始めた。『雷光』『梟』『夜盗派』『縄』『海程』『ユニコーン』などに参加する。年譜によれば、この前年の昭和二九(一九五四)年に右肺上葉部を切除しており、結核かと推測される。但し、この昭和三〇(一九五五)年には退院しており、第四句集まで出し、享年八十二歳で亡くなっている。リンク先では彼の句も読める。]

 

かかわりなき賣地の霰こまかな粒

 

枯山に路あり赤き手の女中

 

寒雷やセメント袋石と化し

 

寒行の足音戰前戰後なし

 

ヘヤピンを前齒でひらく雪降り出す

 

寒嚴に乘る腹中に餠溶けて

 

北風(きた)あたらしマラソン少女髮撥ねて

 

寒肥まく貧の小走り小走りに

 

酸素の火みつめ寒夜の鐵假面

 

鐡色に戻る寒夜の燒爐出て

 

寒木が枝打ち鳴らす犬の戀

 

春の崖に黄金朝日バタなき麺麭

 

芽吹くもの風化の巖に根を下ろし

 

死の灰や戀のポートの尻沈み

 

冬越え得し金魚の新鮮なる欠伸

 

[やぶちゃん注:「欠」は私の恣意的な判断で正字化しなかった。]

 

春の沖へ叫ぶ根のある嚴に立ち

 

最高となり廿舊上の巖の林檎

 

蠅黑く生れ山中の嚴つかむ

 

極寒の病者の口をのぞき込む

 

寒燈を消し滅亡に驛眠る

 

病院の岩窪の霧夜光る

 

貧しき退院胸に霰をはじきつつ

 

踏切番の口笛寒夜の木割りつつ

 

浮き沈む雪片石切場の火花

 

無口の牛打ちては個々に死ぬ霰

 

卒業近し髮揚げ耳を掻く片眼

 

石炭にシャベル突つ立つ少女の死

 

木の芽山容漉き印度人の墓碑

 

鳥も死にしか春山墓地の片つばさ

 

春山に小市民と犬埴輪の顏

 

しやべる戀春もよごれて雀らは

 

羽ばたけり腐れ運河の春の家鴨

 

春山にひらく辨當こんにやく黑し

 

蠅生れ墓石を舐め羽づくろい

 

肉色の春月燃ゆる墓の上

 

春園の巖頭ゆで卵もて叩く

 

すみれに風一段高くボートの池

 

囘る木馬一頭赤し春の晝

 

子を追いて馳け拔ける犬夕櫻

 

春の洲に牛の重みの足の跡

 

この鐡路霞の奥にグヮンと打つ

 

農夫婦帽子あたらし麥あたらし

 

櫻ごし赤屋根ごしに屍室の扉

 

雨の珠耳朶にきらめく勞働祭

 

水ありて蛙天國星の闇

 

  印旛沼 五句

   ――秋元不死男、石塚友二等と――

 

栗咲けりピストル型の犬の陰(ほと)

 

黑蝶となり靑沼にくつがへる

 

靑沼ヘ音かたぶきて晝花火

 

腰以下を黑き沼田に胸邊(むねべ)鋤く

 

よしきりや石塚友二身を投げず

 

石の獅子五月の風に鼻孔ひらく

 

雌雀に乘り降り乘り降り實(げ)に五月

 

靑梅が瘦せてぎつしり夜の甕

 

皺だみし干梅嚙んで何なさむ

 

麥車曳きなし遂げし牛の顏

 

電報の文字は「ユルセヨ」梅雨の星

 

光る針縫ひただよへり黴の家

 

  大野音次の死 八句

 

蚊帳よろけいで片假名の訃報よむ

 

彼の死へ夏河渡り夏山越え

 

炎天に體浮くごとし弟子の死へ

 

團扇動かす膝立てしなきがらへ

 

これは故(もと)音次金の蠅に憑かれ

 

手を振つて死顏の蠅拂うのみ

 

雷若し胎に動きてすでに遺兒

 

棺あまり小さし海南風に待つ

 

[やぶちゃん注:三鬼の愛弟子大野音次は同年六月二十六日に急逝した。編者注に『断崖』初出の原題は「弟子の死」とある。最後の句の「海南風」は「かいなんふう・かいなんぷう」と読み、夏の季語で、南の海方向から吹き寄せる季節風のこと。「うみみなみ」とも読むが、ここは「かいなん/ふう」であろう。因みに、恐らくは次の句の「彼」も音次と思われる。]

 

彼の亡き地上綠䕃日の模樣

 

發光する基地まで闇の萬の蛙

 

尺八細音暗き家出で炎天へ

 

片蔭にチンドン屋夫妻しつかな語

 

動くもの靑炎天の肥車

 

  藥師寺

 

苗代の密なる綠いつまで

 

梅雨雀古代の塔を湧き立たす

 

梅雨荒れの砂利踏み天女像へゆく

 

佛見る間梅雨の野良犬そこに待てよ

 

天女の前ゴム長靴にほとびし足

 

泥鰌に泥鴉に暗綠大樹あり

 

  淺井久子を見舞う

 

手鏡に梅雨の渦雲ひた寄する

 

[やぶちゃん注:俳人と思われる。塚本邦雄の「百句燦燦」(講談社一九七四年)の掲載俳人の中に彼女の名が認められる。]

 

朝蟬の摺り摺る聲と日の聲と

 

大旱の崖の赤土ゑぐる仕事

 

大旱の岩起す挺子弓反りに

 

大旱や子の泣聲の細く長く

 

一片の薔薇散る天地旱の中

 

下駄はきて星を探しに雷後雨後

 

廣島の忌や浮袋砂まぶれ

 

原爆の日の擴聲器沖へ向く

 

眼を張りて炎天いゆく心の喪

 

[やぶちゃん注:「いゆく」の「い」は接頭語で、行く、の意。万葉の時代から用いられた古語。]

 

天地旱トラックの尾の赤き布

 

土色ばつたのため平らかに白光土

 

大旱やトラック砂利をしたたらす

 

  岡山縣蒜山(ひるせん)高原 一〇句

 

高原の蝶噴き上げて草いきれ

 

高原の靑栗小粒日の大聲

 

火山灰高地玉蟲のきりきり舞

 

高原の枯樹を離れざる蟬よ

 

死火山麓泉の聲の子守唄

 

今生の夏うぐひすや火山灰地

 

ダム厚く暑し水沒者という語あり

 

ダムの上灼けて土工の墓二十

 

仰向きて泳ぐ人造湖の隅に

 

[やぶちゃん注:「蒜山高原」「蒜山」は通常は「ひるぜん」と読み、岡山県真庭市と鳥取県関金町との境にある高原地。西から上蒜山・中蒜山・下蒜山の蒜山三座と呼ばれる峰が並び、その南に蒜山高原が広がる。これらの吟は同年八月に津山へ帰郷した際に、湯原(ゆばら)温泉に遊んだ際のもので、蒜山高原は湯原温泉から一〇キロメートルほど北上した位置にある。また後半のダムは、温泉の直上の上流にある湯原ダムである。湯原ダムは岡山県真庭市にある一級河川旭川本川上流部に建設されたダムで、中国電力と岡山県の共同事業で建設された重力式コンクリートダム。洪水調節及び発電を目的とする多目的ダムとして、旭川総合開発事業と電力供給事業の一環として昭和二四(一九四九)年に立案、昭和二七(一九五二)年二月に着工、七十四億円の費用と延人員二六〇万人を動員、まさに三鬼が訪れた五ヶ月、昭和三〇(一九五五)年三月に竣工したばかりであった。ダムによって形成された人造湖は湯原湖と命名され、面積四五五ヘクタールは中国地方最大で、平成の大合併以前の旧湯原町・旧中和村・旧八束村に跨っている(以上の湯原ダムの記載ははウィキ湯原ダム」に拠った)。]

 

切に濡らすわれより若き父母の墓

 

大旱の赤三日月の女憂し

 

銀河の下犬に信賴されて行く

 

晩夏の音鐵筋の端みな曲り

 

  石山寺など 五句

 

廢兵の樂ぎざぎざの秋の巖へ

 

搖れていし岩間の曼珠沙華折らる

 

豐年や湖へ神輿の金すすむ

 

大いなる塵罐接收地區の秋

 

[やぶちゃん注:「塵罐」は恐らく、「ちりかん」と読み、駐留の米軍住宅か基地の中の大きな金属製の円筒型ゴミ入れと考えられる。]

 

  義仲寺

 

秋日さす割られ繼がれし「芭蕉墓」

 

  松山 二句

 

秋の夜の海かき囘し出帆す

 

船欄に夜露べつとり逃げる旅

 

城山が透く法師蟬の聲の網

 

風化とまらぬ岩や舟蟲一族に

 

秋の男二人に化石個々白し

 

貧農の軒とうもろこし石の硬さ

 

頭上げ下げ叫ぶ晩夏のぼろ鴉

 

出勤の足は地を飛びばつた跳ぶ

 

愛撫する月下の犬に硬き骨

 

河ほとり人住む小箱聲なき百舌鳥

 

手にくだく落葉稻扱く場を過ぎて

 

野良犬よ落葉にうたれとび上り

 

大乳房ゆらゆら刈田より子等へ

 

ざぼん黄色三味たどたどと母遊ぶ

 

月下匂う殘業終えし少女の列

 

工場出る爪むらさきの秋の暮

 

豐年の黑き裸を温泉(ゆ)に打たす

 

秋の夜の地下にうつむき皿洗う

 

鳶光る岩山の雲冷ゆる中

 

秋の河滿ちてつめたき花流る

耳嚢 巻之六 感夢歌の事

 感夢歌の事

 

 唐衣橘州(からころもきつしう)とて、狂歌よみて名高きおのこは、俗名小島源之助といひて、和歌をまなび詠じけるが、其子源藏は性質儒を好み、和學は一向に心にもかけざりしに、享和二年源之助は身まかりしが、享和の春、人の勸めにしたがひ、父の好(このみ)し事とて和歌を詠じみんと、家藏の和書取出し詠入(よみいり)候て、歌など讀しに、或夜の夢に父源之助來りて、汝が和歌をはじめ候心ならば、師を定て學べし、自己の流義にては歌に不成(ならざる)事と、永々と前書して、一首の歌を書きしるし與ふると見て、夢さめぬ。夢心に前書は覺へざりしが、歌はよく覺しと、源藏儀、予がしれる人に語りしとなり。

  海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波

源藏は儒にこりて、年頃歌抔といふはよみもせざれば、かくまでにも詠(よみ)得まじければ、空言(そらごと)にもあらじと、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関;特に感じさせない。夢告譚で、そこで得た書かれた文字としての和歌や言葉を記憶するという話柄は、「耳嚢」には存外、多い。そういう夢告譚の中でも特殊な話柄に、特異的に反応する根岸自身が興味深いと私は思う。

・「感夢歌」岩波版で長谷川氏は『ゆめにかんずる』歌と訓じておられるが、音で「かんむのうた」で私はよいと思う。

・「唐衣橘洲」(寛保三(一七四四)年~享和二(一八〇二)年)は大田南畝・朱楽菅江(あけらかんこう)とともに天明狂歌の社会現象を起こして狂歌三大家といわれた狂歌師の号。田安徳川家家臣で、本名は小島恭従(たかつぐ)、後に名を謙之(かねゆき)と改めている。通称は源之助。儒者内山椿軒のもとで、和学・漢学を修めた。明和六(一七六九)年に四谷の屋敷で初めて狂歌会を催した。これ以後、多くの狂歌連が生まれ、狂歌が一つの社会現象として幕末に至るまで混乱と退廃の社会を描出していった。橘洲を中心とした狂歌連は「四谷連」といった。号は、「伊勢物語」の古歌「唐衣着つつ馴れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」に由来する(以上はウィキの「唐衣橘洲」に拠る)。

・「其子源藏」 小島源蔵は昌平坂学問所の各種編纂物に名を残す、同学問所及第者に彼の名が見出せることが、北海学園学術情報リポジトリの石井耕氏の論文「御家人と昌平坂学問所・学問吟味」(二〇〇九年六月発行「北海学園大学学園論集」一四〇: 一五七-一七六)で分かる。以下、その記載によれば、寛政一二(一八〇〇)年、乙科及第、小普請組戸田中務支配、源之丞右衛門督。右筆。号は小島蕉園(源一)。親は小島源之助で別名、唐衣橘洲(著名な狂歌作者)、とあり、更に、森銑三の著作(一九七一年)に「小島蕉園」の稿があり、それによれば、寛政一二(一八〇〇)年三十歳、文化二(一八〇二)年七月(三十五歳)から文化四年十二月まで、甲州田中の代官(御目見以上)。文化六年五月小普請として、その後は町医者。文政六(一八二三)年五十三歳から四年の間、一橋領遠州波津の代官となったが、任地において文政九年正月十九日に没、享年五十六歳、と記されている由である。即ち、同論文の別な箇所に示されるように彼は御家人から旗本に昇進した人物であり、学問所内でも相当の努力家であったことが窺われる。根岸と同時代人である。

・「享和の春」橘洲は享和二年七月十八日に亡くなっているから、翌享和三(一八〇三)年の春であろう。源蔵は前年に甲州田中の代官に就任している。

・「海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波」読み易く書き直すと、

 海士人(あまびと)の見るめ汀(なぎさ)の捨小舟(すておぶね)寄邊(よるべ)定めよ和歌の浦波

で、「見るめ」は、「見る目」――師匠の眼の届くこと。ここは単に師がいないことだけではなく、狂歌宗匠たる自分が既に鬼籍に入って目を掛けてやる(指導する)ことが出来ないことを含ませていよう――と、海藻の「海松布(みるめ)」――古典ではお馴染みの緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル Codium fragile ――を掛け、「なぎさ」は、「渚」と、「みるめなぎ」から「見る目無し」の意を掛ける。

――漁師さえ振り返ることのない渚の捨て小舟(であるお前)は、和歌の浦(の和歌に慧眼を持った誰ぞ師匠の元に)その寄りどころを求めるがよい――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  感夢の歌の事

 

 唐衣橘州(からごろもきっしゅう)とて、狂歌師として世に名高い男は、俗名を小島源之助と申し、その初めにしっかりと和歌を学び詠じて御座った者なるが、その子源藏は、その性質(たち)、儒学を好み、歌学は一向に心懸けず御座ったところ、享和二年、父源之助は身罷った。

 その翌享和三年の春のこと、人の勧めに従い、父の好んだことなればとて、源蔵、和歌を詠まんと志し、家蔵の歌学書などを取り出だいては、古人の和歌を読み、実際に自身、三十一文字を詠むなど致いて御座った。

 そんなある夜の夢に――父源之助が来たって、

「……汝が、和歌を始めんと致す心掛けならば、これ、師を定めて学ばねばならぬ。自己流にては、そなたの場合、とてものこと、歌には成らざるゆえ、の……」

と、永々と前書きして、一首の狂歌を書き記して与えた――

――と見て、夢が醒めた。

「……夢心地なれば、前書きは、これ、全く覚えては御座らなんだが――その歌だけは、は、目覚めても、よう、覚えておりました。……」

と源蔵自身が、私の知れる者に語ったということである。

 その狂歌に、

 

  海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波

 

「……この源蔵は殊の外、儒学に凝りに凝って御座って、普段、和歌なんどというものは、、これ到底、一切読みも致さぬ者なればこそ……かくまで巧みにも、狂歌を詠み得るということ、これ、まず、出來まじいことなれば、以上の話は空言(そらごと)にても、これ、御座らぬと存ずる。……」

と、私の知人は語って御座った。

一言芳談 七十

   七十

 

 敬佛房云、後世者の法文(ほふもん)は、紙一枚にすぎぬなり。

 

〇紙一枚、出離は博學によらず。修行の肝要は一枚にしるすに不足なし。起請のごとし。

 

[やぶちゃん注:「法文」仏法の真理を説き明かした文章。

「紙一枚」湛澄が「起請のごとし」と述べているように、源信の「横川法語(よかわほうご)」(全四九一字から成り、妄念を厭わずに念仏することを勧めて凡夫の往生を強調したもの。「念仏法語」とも)や法然の「一枚起請文」(全三八七字から成り、念仏の要義を一枚の紙に平易な文章で書き記して釈迦・弥陀に偽りのないことを誓った文。「一枚消息」とも)を想起しているものと思われる。

 訳したい。

――敬仏房は言った、「念仏によって救われることを心から体得した者の純粋智とは、書き記すに、たった一枚の紙にて足るものである。」と。]

2013/01/20

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(2)

 樹木の幹の凹んだ處を探すと、「やにさしがめ」と名づける蟲が往々居るが、これは體の表面に脂のようなもので砂の粒を澤山に著けて居るため、足を縮めて靜止して居ると、砂の粒だけの如くに見えて、蟲の居ることは一寸知れない。また海岸の岩石に多數に附著して居る「いそぎんちやく」にも、體の表面に砂粒を著けて居るものが頗る多い。口を閉じ體を縮めて居ると、たゞ砂ばかりに見えるから、目の前に「いそぎんちやく」が澤山居ても大抵の人は知らずに通り過ぎる。嘗て房州館山灣の沖の島で、一米四方の處に、百疋以上も算へたことがあるが、かやうに多數に居る處でも、たゞ表面を見ただけでは少しもこれに氣が附かぬ。

[やぶちゃん注:「やにさしがめ」半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目トコジラミ下目サシガメ上科サシガメ科ヤニサシガメ Velinus nodipes。丘先生は「脂のようなもの」とおっしゃっておられるが(講談社学術文庫版は編者によって「あぶら」とルビを振るが、これは「やに」「ヤニ」と訓ずるべきところである)と、これは旧埼玉県立自然史博物館サイトアーカイブの野沢雅美氏の「体にヤニを装うカメムシ」によれば、正真正銘の松の「脂(やに)」であることが分かる。丘先生の時代には、体内合成されるものと考えられていたようである。以下、その部分を見ると、『これまでヤニサシガメの体を覆うヤニ物質は、脚にある結節状の膨らみから分泌されていると言われてき』たが、『飼育観察の結果、与えていたアカマツの枝や葉の切口から分泌されるマツヤニを前脚でこすりとり、その脚で体全体に順序よく、ヤニをこすりつける行動が観察された』(一九七二年)。『その後も飼育状態で、この事実を何度となく観察することができ』た、とある。その方法は

(1)前脚によるヤニこすりとり

(2)前脚による中脚へのこすりつけ

(3)中脚から後脚へのこすりつけ

(4)後脚による腹部および背面へのこすりつけ

によって行われ、『こうした一連の行動は、マツの枝や葉を換えるたびに大部分の個体に見られ、いずれの場合にも切口に集合し、前脚を使ってこすりとりが行われ』た。以上のヤニサシガメの習性は、一九七六年になって『静岡県磐田市で、クロマツのヤニをこすりとる野外での観察例が、初めて報告され』、『ヤニのこすりとりの習性は、まちがいのないことが確かめられた』とある。以下、原文の敬体のまま引用する。『では、体を覆うヤニは一体どのような意味があるのでしょうか。まず、越冬期における幼虫の集団越冬に関係することが考えられます。ヤニサシガメの幼虫は、樹幹の低位置で越冬する個体ほど集団化する傾向があり、ヤニでお互いの体を付着させながら、塊りになって越冬することです。集団越冬は、体温の低下が少なく、寒さから身を守るのには都合がよいのかもしれません。中には、土粒や葉片をつけている集団も観察されました』。『次に摂食行動に関係していることがあげられます。体のヤニに脚をとられて、動けなくなったハエの体液を吸収していたという報告もあります。飼育実験でも、体に餌となる昆虫をつけるとよく付着し、ついには刺殺するのが見られます』。『このほか、天敵に対する防御手段や体の乾燥防止などの効果が考えられますが、これといった決め手はありません。ヤニサシガメの体を調べると、野外の個体は飼育個体よりも光沢が強く、粘着性も強いことがわかります。活発に動き回るものほどつやもよくベトベトしています。光沢を失った個体は次第に衰弱し、ついには死んでしまいます』。『ヤニサシガメの体を覆うヤニは、こすりとり行動のほか、マツヤニの分泌部に口吻(こうふん)を刺し込んで吸収する事実もあることから、体内に取り込んだマツヤニを使って体から分泌しているのかも知れませんが、内部組織学的な調べが必要です』。『マツ林が枯れ、ゴルフ場などの造成によって、ヤニサシガメの棲む環境が急速に失われています。どこにでも見られた普通種ヤニサシガメは、しだいに希な昆虫になりつつあります』と最後を括っておられる。ヤニサシガメ……確かに、遠い昔に見たことがあるような気がする。

『「いそぎんちやく」にも、體の表面に砂粒を著けて居るものが頗る多い』代表的な種は花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目 Actiniaria のウメボシイソギンチャク科ヨロイイソギンチャク Anthopleura japonica である。体壁の直径は三~五センチメートル。干潮線の砂や小石の中、岩礁海岸の潮間帯の岩の割れ目などに吸着して棲息しているが、常に多数の小石や貝殻片を体表に附着させており(特に上部の疣状吸盤に顕著)、縮むと体壁は殆んど見えなくなる。和名はこの鎧(よろい)状の吸着物に由来する。体色は淡褐色から濃褐色で個体変異に富む。本州~九州に分布するが、本邦に多くの棲息すると考えられている Anthopleura 属中、本種はその中でも体壁の吸着疣の発達が最も著しい種である(以上は主に西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社)の記載を参照した)。因みにイソギンチャク目の“Actiniaria”は、ギリシア語“aktis”(光・放射線)に由来し、ヨロイイソギンチャクの属名“Anthopleura”はギリシア語“anthos”(花)+“pleura”(肋骨・側面)で、触手の花に、鎧状の表皮を、ごつごつした肋骨に譬えたものででもあろうか。

「房州館山灣の沖の島」千葉県館山市館山湾の南端に位置している島(現在の海上自衛隊館山航空基地の西)で、南房総国定公園の一つである沖ノ島。以前は 五〇〇メートル沖合にあった島嶼であったが、関東大震災による隆起などによって現在は陸繋島(トンボロ)となっている周囲約一キロメートルで島内はヤブニッケイやタブノキなどの温暖帯海岸林で覆われ、海岸性動植物が共存する。東岸は海藻の群落が目立ち、西岸は貝類の採集に向き、南岸は比較的水深が浅い。北岸は水深二メートル以深に世界最北の珊瑚棲息域を観察出来る(以上は館山市観光協会の「沖ノ島」の記載に拠った)。丘先生が観察された頃は陸繋島化の前である。因みに、私は漱石の「こゝろ」の注釈テクスト「(八十二)」で、この島をKと先生との房州行でのロケ地の同定地候補の一つと考えている。是非、私の注をお読み戴きたい。……丘先生は……あのKと先生とに……出逢っていたのかも知れない……]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 十日市 簑毛

    十日市 簑毛

 猪の江より一里半ゆきて十日市なり。この街道、富士・大山の道にて、夏は旅人もおほく、茶屋もあれども、常は坂東巡禮往來するばかりなり。

〽狂 ひやくせうの

    みのげかいどう

  なればとて

   雨のふるのは

  いとふたび人

旅人

「これはこれは。お前は、こんな山の中におくは、おしい者だ。なに、ご亭主はない。後家樣か、こいつ、いよいよ、おしいものだ。儂(わし)も女房なし、男の後家だから、なんと、ごけ・ごけとが、ごけあつて、ごけッこうなことをせうではないか。どうだ、どうだ。」

「イヤこの男は、ごけごけとしたことをいふ。上(かみ)さん、此男はよしなさい。こいつよりか、儂(わし)のほうがよつほど男振(ぶ)りがよからうから、儂の方(はう)にきめなさい。さあさあ、いやか、おふか、返事次第(しだい)じや。代(だい)をおくか、おかぬか、二つに一つの、女め、返答はなんとだゑゝ。」

 十日市より簑毛まで一里半。簑毛より大山廿一丁目へいづる。この間に四十八瀨川(せがは)あり。馬(むま)にのりてよし。この道難澁(なんじふ)なれども、山水の景色いたつてよき所也。これより大山へかゝる。簑毛にも御師(おし)の家(いへ)あり。

〽狂 さく花はいろはの

    四十八せ川風の手ならひ

         ふきちらすなり

「此間も山の中で狼(おほかみ)に出あつた時、狼のいふには、わかい女ならくつても見やうが、年寄りの爺婆(ぢゞばゞ)ばかりでみな人間のくさりかゝつたのだから、一口(ひとくち)もくへぬ、といつてこまつたから、年寄りは、もふ、くはれる氣遣(きづか)ひはないが、わかい者はにげるがよい。狼ばかりでない、儂どもゝ婆(ばゞあ)をくふより、わかい女をくふのがうまひから、どうもこたへられぬ。」

「あそこで薦被(こもかぶり)のたほれたのをくつたら、胸がわるくなつた。おなじ薦被でも酒の薦被ならよい。それも劍菱なら、なをよいけれど。」

「お茶あがりませ。今朝(けさ)の煮端(にばな)でござります。」

[やぶちゃん注:「十日市」現在の秦野市本町四つ角附近。底本脚注に『五日、十日に市が立った』とある。

「坂東巡禮」坂東三十三観音巡礼。順礼用の古地図を見ると、第五番飯泉(いいづみ)山勝福寺の飯泉観音(小田原市飯泉)と第六番飯上山長谷寺の飯山観音(厚木市飯山)との巡礼路の間に、「そが」「いの口」「十日市」「みのげ」「大山」「ひなた」の地名を確認出来る(参照した古地図は個人ブログ「マルセ的世界」のにあるもの)。

「ごけあつて」これは「後家」以外に、「こく」の意味を掛けているように思われる。「扱く」のしごくにコイツスのエロティクなものを、「放(こ)く」の卑俗な意の「する」、若しくは「転(こ)く・転(こ)ける」の「心がある人に傾く・惚れる」の意等が想起される。話者の品位の低さからはダイレクトな「しごく」辺りか(いやいや、品位が低いのは、そこまでかっぽじる私であった)。

「簑毛」秦野市蓑毛。表丹沢登山の起点として知られる。文句なしに懐かしい。私は二十三の時、同僚のワンダーフォーゲル部顧問の先輩教師に誘われて、ここから初めて本格の山登りを始めたのだった。……蓑毛からヤビツ峠へ、二の塔、三の塔、塔ヶ岳、そして丹沢山、翌日には蛭ヶ岳へ登ってユーシンを走って玄倉の最終バスに辛うじて間に合って、生徒と飛び乗ったのが忘れられない……二度と出来ない、強行軍だったが、忘れ難い、私の青春ででもあったように、思われるのである……。

「大山廿一丁目」蓑毛から少し行った位置をかく称し、そこから大山までの距離をも言っているものと思われる。「廿一丁」は約二三〇〇メートル弱であり、現在の地図上で蓑毛と大山山頂は直線距離で約二八〇〇メートルである。

「四十八瀨川」秦野市を流れる酒匂川水系の河川。秦野市北西部の鍋割山稜に源を発し、南流し、秦野市八沢(はっさわ)附近で中津川と合流、川音川となる。参照したウィキ四十八瀬川」によれば現在でも景色のよい地として知られ、小田急ロマンスカーのポスター撮影地となっている、とある。

「御師」「御祈り師」の略敬称。特定の社寺に属して、信者のために祈禱を行ったり、参詣のための宿泊や案内などの世話・先達をする下級の神職。

「煮端」煎じたての香味のよい茶。でばな。にえばな。]

西東三鬼句集「變身」 昭和二十九(一九五四)年 一一一句

昭和二十九(一九五四)年 一一一句

聲なり刈田の果に叫びおる

腰叩く刈田の農夫誰かの父

凶作の刈田電柱唸り立つ

木枯や晝の鷄鳴吹き倒され

默契の雄牛と我を霰打つ

滿天に不幸きらめく降誕祭

凶作の稻扱きの音入日枯れ

角砂糖前齒でかじる枯野の前

手を分つ石壁の角どこかに火事

生き馬のゆくに從い枯野うごく

霜柱兄の缺けたる地に光る

  誓子山莊 二句

寒嚴に師の咳一度二度ひびく

荒れし谷底光りて寒の水流る

海鼠嚙む汝や戀を失いて

傍觀す女手に鏡餠割るを

しん底寒し基地に光の柱立つ

坂上げて枯野の雲を縱に裂く

鴉飛び立てり羽ばたく枯野男

姿なく寒明けの地を馳け過ぎし

  太郎發病

寒星は天の空洞子の病氣

病む顏の前の硝子に雪張りつく

[やぶちゃん注:「太郎」は三鬼の長男(当時二五歳)。この一月に喀血した。後、昭和三十六(一九六一)年に彼は婚約しており(底本年譜に同年九月『二十三日、大森で長男太郎の婚約者』に初めて対面、『二十五日、角川源義に媒酌人を依頼』とあるから、予後はよかったものと思われる。知る人ぞ知るであるが、三鬼の女性遍歴は華やかで、この初婚の妻子の元からは昭和一七(一九四二)年十二月に出奔、同年の年譜には『再び妻子のもとに帰ることはなかった』とある。]

  大阪造船所 九句

濕地帶寒打サイレン尾を曳きずる

黑き男鐵船へ入る寒の暮

船組むや大寒の沖細明り

造船所壁無し言葉の白き息

白息を交互に吐きて鐵板打つ

未完成の船の奧にて白息吐く

造船所寒燈も酸素の火も裸

雛の蹴爪ほどの薔薇の芽ただ恃む

紙の櫻黑人悲歌は地に沈む

大きかな師の體臭と木の葉髮

蜂は脚ぶら下げ主婦は手動かし

春の驛喫泉の穗のいとけなし

[やぶちゃん注:「喫泉」とは水飲み場の立位で啜るタイプの水道栓を言うものと思われる。]

死の灰や砂噴き上げて春の泉

櫻冷え看護婦白衣脱ぎて病む

土團子病孤兒の冬永かりし

向日葵播き雲の上なる日を探す

上向く芽洗濯の足袋みな破れ

ゆるやかに確かに雲と麥伸びる

肉煮る香羊齒はこぶしの指ひらく

死の灰雲春も農婦は小走りに

顏天使前向き耕人うしろ向き

[やぶちゃん注:底本に、親本の原注として、『「顔天使」とは中世の画家が、天使に首以下は無用として、顔に翼生えた天使を描きしを言う。』と脚下に附す。]

日の出前蝌蚪に迅風(はやて)の音走る

馬と人泥田に插さり勞働祭

がつくりと菜殼火消えて雨降り出す

黄麥滿ち聲應へつつ牛と牛

笑つている蜂にさされても主婦は

眼をあけて蝮の眠る薔薇の下

誕生日靑無花果に朝日照る

犬逸り五月乙女の腕伸び切る

母の腰最も太し麥を刈る

童女かがみ尿ほとばしる麥の秋

照る岩に刈麥干して山下る

物いはず筍をむく背おそろし

  伊豆 五句

靑伊豆の鴉吹き上げ五月の風

海から無電うなずき歩む初夏の鳩

オートバイ照る燈臺へ岩坂跳ね

暮るる礁に羽根ひろげ待つ雄の鵜か

黑南風の岬に立ちて呼ぶ名なし

[やぶちゃん注:「黑南風」は「くろはえ」と読み、梅雨の初めに吹く南風のこと。]

胡瓜もぎ嚙みて何者かと語る

蛇の卵地上に並べ棒で打つ

いやな立雲樹の垂直を蟻走る

[やぶちゃん注:「立雲」は「たちぐも」で、入道雲の異称。]

蛙の大合唱くらやみの地を守る

赤羊羹皿に重たし梅雨三日月

金魚浮き時を吸いては泡を吐く

炎天や濡れて横切るどぶ鼠

西瓜切るや家の水氣と色あふれ

骨のみの工場を透きて盆踊

炎天勇まし砂利場に砂利滿てり

物が見え初めし赤子蠅飛び交う

颱風來つつあり大小の紙の鶴

よく遊べ月下出でゆく若衆猫

血ぶくれの蚊を打つ蚊帳の白世界

西日照る若き石崖颱風前

夏草にうめく鐡路の切れつぱじ

十五夜の怒濤へ若き踊りの手

つぎはぎの秋の國道乳房跳ね

滿月下ブリキの家を打ち鳴らす

暗き露へ頭中の女振り落す

剥製の雉子狂院の秋やすらか

秋風に岩もたれあい光りあう

みずすまし遊ばせ秋の水へこむ

のけぞる百舌鳥雲はことなくみゆれども

棒立ちの急所急所に百舌鳥ひびく

十月の雨粉炭の山に浸む

鷄頭の硬き地へ貧弱なる嚔

枝の蛇そのまた上の鰯雲

秋の蠅嚴につるめり沖昏む

秋草に寢れば鷄鳴「タチテユケ」

卵割りし一事確かに秋の朝

公(おおやけ)の秋日土中に蛙クク

鷄頭の幹も鷄頭地に沈む

愛語通り過ぐ秋山の握り飯

樹々黑く唇赤し秋の暮

かまきり立つ若く貧しき山遊び

葉鷄頭食い荒したる日傾く

眼そらさず枯かまきりと猫と人

鳴き殘る蟲や滿員電車發つ

金の蠅枯野へ飛びぬ硝子戸閉ず

耳嚢 巻之六 至誠神のごとしといへる事

 至誠神のごとしといへる事

 元文の頃、久留米の家士に深井甚右衞門とて、鑓術(さうじゆつ)の名人と人も稱しける。門弟多くありしが、同家中に、至て不器用にて殊外(ことのほか)鑓術熱心にて、三ケ年の暇(いとま)をねがひ深井に隨身(ずいじん)して日々出精しけるが、年限滿(みち)て故郷へ歸候暇乞(いとまごひ)に、右師範のもとへ來りて申けるは、是まで格別の丹精に預りしが、御存(ごぞんじ)の通り不器用にて、三年修業致候得(いたしさふらえ)ども、未(いまだ)表裏のかたさへ覺へ兼(かね)候、在所へ歸り候ても、鑓もたせ候身分故、自分一己(いつこ)のたしなみになり候程の修業仕度(つかまつりたく)、如何致可然哉(いたししかるべきや)と問(とひ)けるに、甚右衞門もあきれて答(こたへ)に當惑なしけるが、流石(さすが)甚右衞門故(ゆへ)答へけるは、歸國の上、何になりとも目當を致(いたし)、竹刀(しなひ)にて日夜朝暮、無懈怠(けだいなく)、突被申(つきまうされ)候より外の事はあるまじと、教諭して互(たがひ)に分れけるが、三年程過ぎて、無程(ほどなく)在番にて江戸へ出、師匠の許へ參りけるに、折節稽古日にて弟子も大勢集り居て、彼(かの)不器用人なりとみなみな嘲り笑ひしに、師匠對面の上、如何執行(しゆぎやう)いたされしやと尋(たづね)ければ、在所へ歸り候日より、教(をしへ)にまかせ、屋敷内に三尺廻りの杉の木を、日夜懈怠なく突(つき)候て、向ふまで穴を突明け候と申けるゆゑ、能くも執行し給ふと稱美にて、幸ひ今日稽古なれば試(こころみ)られ候へと申けるゆゑ、しからば迚、鑓を取たちむかひしに、鑓先(やりさき)するどにて、名にあふ弟子どもたち合(あひ)けるに、思ふ所へ鑓先とゞきて、つけどもはれども一向にたはまず、ことごとく勝鑓(かちやり)にて皆突(つき)ふせられ、いづれもがを折(をり)、師範も感心の上、各(おのおの)方はおぼえ不被申候得(まうされずさふらえ)ども、其術すでに神妙に到りける也、則(すなはち)印可(いんか)を可致(いたすべし)とて、傳授なしける。誠に中庸に、至誠神(しん)に入(いる)とは、此事ならんか。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。本巻最初の本格武辺物。

・「元文」西暦一七三六年~一七四〇年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、六十年以上遡る。

・「如何執行いたされしや」底本には「執行」の右に『(修行)』と傍注する。

・「たはまず」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『たわまず』で、これならば、「撓(たわ)む」で、①他から力を加えられて弓なりに曲がる。しなう。②飽きて疲れる。心が挫ける、の意となり、意味が通る。これを採用した。

・「印可」武道・芸道等で極意を得た者に与える許し。免許。

・「至誠神に入」本当の誠の心を以ってすれば、神の如く、総てを見切ることが可能となる、の謂い。正確には「至誠は神のごとし」で、「中庸」第二十四章に以下のように載る。

至誠之道、可以前知。國家將興、必有禎祥。國家將亡、必有妖孼。見乎蓍龜、動乎四體。禍福將至、善必先知之、不善必先知之。故至誠如神。

至誠の道、以つて前知すべし。國家、將に興らんとするときは、必ず禎祥有り。國家、將に亡びんとするときは、必ず妖孼(ようげつ)有り。蓍龜(しき)に見(あらは)れ、四體に動く。禍福、將に至らんとするときは、善も必ず先す之を知り、不善も必ず先す之を知る。故に至誠は神のごとし。

●「禎祥」福の兆し。

●「妖孼」禍いの兆し。

●「蓍見」の「蓍」筮(ぜい)によって占い、「龜」は亀卜すること。

●「四體」は動作威儀。

■やぶちゃん現代語訳

 至誠神の如しと言うに相応しき事

 元文の頃、久留米藩の家士に深井甚右衞門と申し、槍術(そうじゅつ)の名人と、人も稱した御仁が御座って、門弟も多くあられた。

 さても、同家中に、至って不器用ながらも、これ、殊の外、槍術に熱心なる者が御座って、国許へは三年の暇(いとま)を願い出、深井殿に隨身(ずいじん)して、日々精を出して修行精進致いたが、年限滿ちて故郷へと帰ることと相い成り、暇乞(いとまご)いとて、かの師範甚右衞門殿の元へ来たって申したことには、

「……これまで、師匠におかせられましては、拙者、格別の丹精を頂戴仕って御座いましたが……御存知の通り、拙者、如何にも不器用にて……三年、修業致しましたものの……未だ槍の表裏(おもてうら)の型さえ、これ、覚えかねて御座る次第……在所へ帰参致しましても、槍持ちを供に連れおる身分なればこそ……兎も角も……自分一己(いつこ)の嗜みとして、相応に、納得致すことの出来る、修業だけは、仕りたとう存じ……さても!……如何が致すが、宜しゅうございまするかッ……」

と問うたによって、甚右衞門殿も――かの者の不器用の極み、知れる者なれば――聊か、呆れて、一時、如何に答えんかと、内心、当惑致いて御座ったが――流石(さすが)に名人と謳われた甚右衞門なれば、

「――帰国の上は――如何なるものにてもよし、一つの目標を打ち立てて――竹槍にて、日夜、朝暮れ、一時たりとも怠らず――突いて突いて突きまくる――これより外の事は――あるまじい!――」

と教え諭して、その場は互いに師弟の礼を成して分れたと申す。……

 さても三年ほど過ぎて、かの不器用なる男、江戸勤番と相い成って江戸へ出、師匠の許へと再び挨拶に参ったが、その日は折節、深井道場の稽古日に当たって御座ったゆえ、古くからの弟子も大勢集まり居ったによって、

「ほぅれ! あの、かの不器用なる御仁の御再来じゃ!」

と、みなみな、これ見よがしに嘲り笑うておった。

 ところが、かの男と師匠、久々の対面の上、師匠より、

「……その後は、如何に修行なされたか?」

とお尋ねがあった。するとかの男は、

「――在所へ帰りましたその日より、お教え下さった通り、屋敷内に御座る、三尺廻りもあろいうという杉の木を、日夜怠りのう、竹槍にて――突いて突いて突きまくりまして――遂には――向う側まで、穴を突き空けて、これ、御座いました。――」

と申けるゆえ、それを聴いた深井殿、

「それは! してやったり! よくも修行なされた!」

と賞美され、

「――されば幸い、本日は稽古なれば、一つ、修行の成果を、これ、試みらるるがよい。」

と申されたゆえ、男は素直に、

「――しからば。」

と、道場に向かい、槍を取って立ち合いと相い成った。

 門弟ども、これ、内心、馬鹿にし、ともするとほくそ笑みの零れんとするを、辛うじて押し隠しながら、かの「不器用人」と立ち合って御座った。

……ところが……

……かの「不器用人」の……

――その繰り出す槍!

――その槍先!

――これ、見たこともなき!

――鋭さ!

……嘲って御座った門弟どもは、これ、ばったばったと突き倒され……

……遂には……

……門弟の内にても名にし負う者どもまでも、立ち合(お)うことと相い成った……

……が……

『――ここぞ! 勘所!――』

――と思う所へは!

――かの「不器用人」の槍先が!

――先に!

――スッツ! と!

――届く!

……深井道場の四天王と呼ばれた者どもまで、これ……突けども張れども……「不器用人」の槍先は一向にたわんでしなることものう、

――ズン!

――と突いて!

――動かず!

……しかも、何人もの門弟と対したにも拘わらず、「不器用人」、これ、一向に疲れた様子も、

――御座いない!

……結局、かの「不器用人」、悉く勝ち槍にて……皆々突き伏せられ、門弟、一人残らず閉口致いて、

「……ま、参ったッ!……」

と床に這い蹲って御座った。……

 これには師範も感心致いた上、

「――その方らには――とてものことに分からぬことながら――かの男の槍術――これ、既に神妙の域に至っておる!――直ちに、我ら、印可(いんか)を致さねばならぬ!」

と、即座に極意相伝の伝授が行われたと申す。……

 まっこと、かの「中庸」に言う『至誠、神(しん)に入る』とは、このことで御座ろうか。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記)の不詳地名注を近世史研究家「ひょっとこ太郎」氏の御教授により補正

「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の冒頭で不詳としていた「燈寵崎」「海馬嶋」「旗立山」に近世史研究家「ひょっとこ太郎」氏の御教授により、同定情報を追記させて戴いた。「ひょっとこ太郎」氏に心より謝意を表する。因みに、氏のHP、江戸の剣客無外流流祖辻月丹(つじげったん 慶安元(一六四八)年~享保一二(一七二七)年)を探る「無外流兵法譚」――必見である!

一言芳談 六十九

   六十九

 中蓮房云、本願に歸し、名號を信じてむ上は、念佛相應の教文(けうもん)なればとて、文(もん)にむかひていとまを入れ候ふ事は皆これ順魔(じゆんま)にてあるなり。

〇中蓮房云、此詞を惡し樣に見て、かりそめにも聖教(しやうげう)を讀むを惣じて順魔といふはひが事なり。いとまをいるゝといふにて知るべし。

〇本願に歸し、歸(き)は歸命歸依(きみやうきえ)なり。

〇念佛相應、此詞は要集にあり。

〇いとまを入れ候事、不審さばくりして、思案などする躰(てい)をいとまを入るゝとかけり。(「句解」)

〇順魔、逆魔(ぎやくま)とは外より來る惡緣、順魔とは持經本尊まで、執(しふ)すれば順魔にてあるなり。(「句解」)

[やぶちゃん注:「中蓮房」大橋氏はⅡで伝不詳とするのみであるが、「沙石集」の、「卷第四」の「四 上人ノ妻せよと人に勸たる事」の冒頭に(引用は岩波古典大系版を元としつつ、カタカナの平仮名化と正仮名遣補正をしてある)。

 和州松尾と云山寺に、中蓮房と云僧ありけり。中風(ちうぶ)の後、瀧田の大道(だいだう)の邊に、ちひさき庵を結(むすび)てすみけり。大道を山寺の僧共のとほるごとに、「御房は聖にて御坐(おはす)か」と問ふて、「聖なり」と云へば、「とくとく妻し給へ。我身は隨分に學生(がくしやう)にて、若うよりひじりて侍(はべり)しかば、弟子門徒も其數(そのかず)多かりしかども、かゝる中風者(ちうぶもの)、片輪人(かたはびと)になりて後に、さる者ありしとも、思ひあはざるまゝに、すぎわびて、ひたそらに乞匈非人(こつがいひにん)になりはてゝ、さすが命すてられずして、道の邊にして、命をつぎ侍也。妻子あらむには、これ程の心うき事はあらじとこそ(おぼゆ)れ。今すこしも年の若く御坐(おは)する時、人をも相語(あひかたらへ)給へ。年來になりてこそ、夫婦の情(なさ)けもふかけれ。かゝる病は必しも人の上と思給(おもひたまふ)まじきなり」とぞ、すゝめける。思がけなき勸進なれども、其身にあたりて申けるも、理なる方も侍るにや。

・「和州松尾と云山寺」現在の奈良県大和郡山市山田町にあるに真言宗醍醐派別格本山松尾寺か。

・「瀧田」竜田。底本注に、『底本の誤写。竜田は生駒郡三郷(さんごう)村の総称で古くから大和・河内の交通の要路であった』とある。

・「ひじりて」「聖る」という動詞形。

・「すぎわびて」身過ぎを立たせかねて、生計を立てることが出来ずなって。

・「ひたそら」「只管(ひたすら)」の音変化した語。

・「乞匈非人」乞食や貧乏人。「非人」には別に出家遁世した世捨て人の意もあるが、ここは本来の貧しい人の意。

・「相語(あひかたらひ)」情を交わす、契るの意。

 なお、この中蓮房の実感に満ちた言葉は即座に、かの親鸞最晩年の境遇を想起させる。親鸞はその最晩年を実弟の天台僧尋有(じんう)の住坊であった三条富小路善法房に寄せ、寡婦となっていた覚信尼(当時は既に別居していた恵信尼の間に出来た末娘)の一家に支えられて生涯を閉じている。しかし、これは名号への一心の信心があれば、そのほかのものはみな「順魔」なれば捨象してよいと喝破した本条の雄々しい中蓮房には相応しい注ではないかも知れない。少なくとも「一言芳談」の信望者は苦虫を潰して、この中蓮房は同名異人と無視するかもしれない。しかし、この言葉こそ、中蓮房が「隨分に學生にて、若うよりひじりて侍」り、その結果として「弟子門徒も其數多か」る時代に述べた言葉(その真偽を問うことは私の目的にはない。各人がなされればよいことである)であり、「沙石集」の感懐は脳卒中の発作を起こして重い後遺症で半身不随となり、「弟子門徒」はみるみるうちに彼を見捨てて去り、遂には路上に、たった独り乞食をする身となった最晩年の中蓮房の、かつて忌避嫌悪した「順魔」としての妻子や身過ぎのための最低限の衣食住や療養費さえもままならない慚愧の念の言葉として、私にはいよよリアルに響く言葉のようにも思える。「沙石集」では筆者のは、彼の言葉を「思がけなき勸進なれども、其身にあたりて申けるも、理なる方も侍るにや」と肯定的に捉えてさえいる。――いや、寧ろ、中蓮房は自ら壮大な芝居をしているのかも知れない……薦を着て誰人います花の春……かく語っておきながら、すっくと立った乞食非人の姿が桜吹雪の中に独り毅然して消えて行く……無名者の遁世僧(遁世僧とは無名者であって更に非僧非俗の「乞匈非人」であってこそ真に遁世僧である)とは……かく、ありたいではないか……

「いとまを入れ候ふ事は」大橋氏注によれば群書類従本では、『いとまを入る事は』とある、とある。

「順魔」「句解」注で示されているように、自己の内側から働きかけて来る悪縁を言う。妻子・財宝などの執着心を起こさせるもの。仏法に敵対する外部の抵抗勢力である逆魔(具体的には病気や厄災)の対語。

「此詞を惡し樣に見て、かりそめにも聖教を讀むを惣じて順魔といふはひが事なり。いとまをいるゝといふにて知るべし」湛澄は「いとまをいるゝ」を、いい加減な気持ちで、暇だから経文でも読むか、弥陀の誓願は不審だから一つそれが分かるようにな経文でも読むか、といった心持ちの意と採って、そうした不善な思いで経文仏典を読むといった安易なことはしてはいけない、と中蓮房は言っているのであって、おしなべて経文仏典を読むこと自体が順魔である、と解するのは大間違いである、と慌てて註しているのである。浄土僧湛澄は所詮、教団を維持拡大しなくてはならぬ『現実の僧』なればこそ、中蓮房の鮮明な喝破の清水に足を差し入れて濁してしまった。寧ろ、ここで注するなら私だったら、

聖教を讀む時はいとまをいれて讀むべからず、本願に歸し、名号を信ずる心もて讀むを第一とす。

とでもやっておくところだ。湛澄さんよ、中蓮房の謂いを補正するあんたは、ちょいと不遜じゃあねえか?(かく、ありがたい湛澄様をかく、罵倒する私も勿論、不遜だがね)。――私はこういう「さばくる」ような注を読むと、悪人正機に疑義を抱き、念仏殺人を誹謗した親鸞の弟子達、それを聴いた時の親鸞の孤独が分かる気がするのである。……

「さばくる」「捌くる・裁くる」は、取り扱う・取り計らう・処理する・捌く、の意であるが、ここは悪い意味で、経文に書かれた内容を浅知恵で変に捏ね繰り回して、の謂いであろう。]

2013/01/19

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 關本 曾賀野 猪の江

    關本 曾賀野 猪の江

 關本は富士街道なり。これより足柄嶽(あしがらだけ)の下の方(かた)へゆきて、富士の須走口(すばしりぐち)へいづる也。また大山の方へは、關本より一里ゆきて、曾我といふにいでゝ、また二里すぎて猪(い)の江(ゑ)といふにいたる。皆、山道、いたつて難所(なんじよ)の道なり。

〽狂 いちめんに

春(はる)は霞(かすみ)の幕(まく)

    のうち

これぞすまふの關本(せきもと)の山

たび人

「儂(わし)は商賣で、折節このやうに旅へも出かけますが、儂の商賣はかわつた商賣、物をひろつてあるくが渡世でござりますが、近頃は、人が利口になつて、めつたに物をおとしませぬから、儂の商賣も不景氣になりましたが、それでも、こうしてあるくと、あるいただけのことはあるもの、今日も錢一本そこでひろいましたが、立前(たちまひ)にはなりました。」

「それはよい御商賣。元手もいらず、おちてあるものをひろつて商賣になることなら、これからわたしもお前の仲間になりませうか。」

「とんだことを。素人方(しろうとがた)は、ぢきにもこの商賣できるやうにも思ひなさるが、なんとしてなんとして私等(など)も、始めのうちは、めつたにおちてあるものが、めつかりませなんだが、だんだんなれると、自然と巧者(こうしや)になつて、今ではひろい手も家にかゝへておいて、明日はどこそこに何がおちてある、明後日(あさつて)は、そんじよそこに何がおちてあるといふことを、前廣(まへびろ)からしれるやうになつたから、商賣になろうといふもの。しかし、この後月(あとげつ)おしいことをいたしました。後月の九日、江戸の囘向院(ゑかういん)へ金(かね)を百兩ひろうことを前廣からしれたゆへ、その日、囘向院へまいると、なるほど、一の富の百兩がおちたことはおちたけれど、ついほかへおちて、よその者にひろはれました。」

[やぶちゃん注:「關本」既出。現在の南足柄市大雄町にあった旧村名。現在の大雄山駅一帯。

「須走口」「須走」は静岡県駿東郡小山町の大字名。富士山麓の山林地帯に位置し、北は山梨県境、南は御殿場市に接する。中世は藍沢荘に属した。須走の地名は戦国期に見られ、洲走とも書く。中世末期に富士信仰が盛んとなり、道者の登山が行われるとともに、当村が甲斐に通ずる交通要地となっていた。但し、この登山ルートの須走口までは、関本からは直線でも三〇キロメートル以上はある。

「足柄嶽」神奈川と静岡県境にある足柄峠を中心とした山地名で、古くは金時山を含めた山々の総称。坂田金時(金太郎)の伝説の地。

「曾我」欄外の標題には「曾我野」とする。現在の、小田原市中心街より北東約七キロメートルの小田原市曽我一帯。曽我兄弟が育った地として知られる。

「猪の江」現在の足柄市上郡中井町井ノ口。東名高速道路秦野中井インター・チェンジの南方直近。小田原と大山の丁度中間点に当たる。

「立前(たちまひ)」仕事の報酬。稼ぎ。日当。

「前廣」以前。前々。多くは「に」を伴って副詞的に用いる。]

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(1)

     四 忍びの術


Isagomusi

[いさごむし]

 動物の中には、敵の眼を眩すために他物を以て身體を蔽ふものがある。庭園の樹木などに澤山に付く簑蟲(みのむし)はその一例で、樹の皮や枯葉の破片を寄せ集めて小さな筒を造り、その中に身を潜めて居るから、容易に生體が見えぬ。簑蟲は皆小さな蛾類の幼蟲で、常に木の葉を食する害蟲であるが、蠶などと同じく幼時には口から絲を出すことが出來るから、これを用いてさまざまな物を繫ぎ合せて筒を造るのである。また蛾とは全く別の昆蟲類でその幼蟲が他物を集めて筒を造るものがある。これは「いさご蟲」と名づけるもので、幼蟲が水の中に住み、絲を以て細かい砂粒などを繫ぎ合せ、その中に身體を入れ、頭と足だけを出して水中を匍匐し食物を探して歩く。枯葉の軸や樹の皮の筋などを集めて、恰も陸上の簑蟲と同じやうな筒を造るものは、溝の中にも普通に居るが、石粒を集めるものであると、筒の形が幾分か人形らしくなることもある。岩國の錦帶橋の邊で土産に賣つて居る「人形石」と稱するものは、この類の幼蟲の住んだ筒である。これらの幼蟲は生長すると水上に出て皮を脱ぎ、「とんぼ」に似た蟲となつて空中を飛ぶが、幼時にはかくの如く他物を以て身を蔽ひ、敵の眼を眩して居る有樣は陸上の簑蟲と少しも異ならぬ。

[やぶちゃん注:「簑蟲」鱗翅(チョウ)目ミノガ科 Psychidae 一般には、その中でもオオミノガ Eumeta japonicaの幼虫を指す。以下、ウィキの「ミノムシ」によれば、バラ科・カキノキ科などの果樹や、サツキ等の葉を、特に七月から八月の梅雨後の夏期に食害する害虫で、幼虫は摂食後の枯れ葉や枯れ枝に粘性の糸を絡め、袋状の巣を作って枝からぶら下がることで有名。わらで作った雨具「蓑(みの)」に形が似ているために「ミノムシ」と呼ばれるようになった。オオミノガは蓑の内部で終令幼虫(八令)のまま越冬するため、枯れ枝の間で蓑が目立つ。四月から六月にかけて蛹化し、六月から八月にかけて羽化する。蛾の形になるのは雄に限られる(雌は幼体成熟)。この時、雄は口が退化しており、花の蜜などを吸うことは出来ない。雄蛾の体長は三〇~四〇ミリメートル、幼体成熟する雌は無翅・無脚で、形は小さい頭に小さい胸、体の大半以上を腹部が占める形(雄同様に口が退化している)のまま、蓑の内部の蛹の殻の中に留まる(生殖器以外に雌雄の差を明確に区別出来る性的二形である)。雄は雌のフェロモンに引かれて夕方頃に飛行して、蓑の中の雌と交尾する。この時、雄は小さな腹部を可能な限り伸ばして蛹の殻と雌の体との間に挿し入れ、蛹の殻の最も奥に位置する雌の交尾孔を自分の交尾器で挟んで挿入器を挿入して交尾を果たし、その後、雄は死ぬ。雌は自分が潜んでいた蓑の中の蛹の殻の中に一〇〇〇個以上の卵を産卵、卵塊の表面を腹部の先に生えている淡褐色の微細な毛で栓をするように覆う。雌は普通は卵が孵化するまで蛹の殻の中に留まっており、孵化する頃に簑の下の穴から出て、地上に落下して死ぬ。幼虫は二十日前後で孵化し、蓑の下の穴から外に出て、そこから糸を垂らし、多くは風に乗って飛散、葉や小枝などに着地した一齢幼虫は直ちに小さい簑を造り、摂餌行動を開始、六月から十月にかけて七回の脱皮を繰り返し、成長するにつれて簑を拡大改変、小枝や葉片を付け足して大きくし、終令幼虫となる。秋に簑の前端を細く縊って、小枝などに環状になるように絹糸を吐いてこれに結わえ付け、越冬に入る。越冬後は通常、摂餌せずにそのまま蛹化する。但し、近年はオオミノガに特異的に寄生する外来種の双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ヒツジバエ上科ヤドリバエ科ヤドリバエ亜科オオミノガヤドリバエ Nealsomyia rufella の幼虫による寄生によって生息個体が激減しており、各自治体のレッドリストで絶滅危惧種に選定されるようになってきている。因みに、オオミノガヤドリバエはオオミノガの終令幼虫を見つけると、摂食中の葉に産卵、卵は葉と共にオオミノガに摂食されるが、口器で破壊されなかった卵はオオミノガの消化器に達して体内で孵化する。一個体に付き、平均十羽程度のオオミノガヤドリバエが羽化するという。なお、丘先生が言う同様な蓑を造るケースについては『同じように糸で体を包んで、移動する巣を作るガは他にもある。家屋内ではイガが小さいながらも同じような巣を作る』とあり、丘先生の謂いと同様に、『また、トビケラ類の幼虫は水生昆虫であるが、多くの種が同じような巣を作る』と付け加えられているのには少し吃驚した。以上、私は五十五歳になって初めて具体なミノムシのライフ・サイクルを正しく知った。「枕草子」の虫尽くしの段で解説するためにそれなりの知識はあったつもりではあったが、この子細は、正直、驚きであった。ウィキの筆者に感謝するとともに、何か、不思議に胸打たれるものがあったことを記しておきたい。

「いさご蟲」毛翅上目毛翅(トビケラ)目 Trichoptera に属するトビケラ類の幼虫を指す。属する種の殆どで翅が刺毛に覆われており、全世界で四十六科一二〇〇〇種以上が認められており、本邦にはその内、二十九科四〇〇種以上の生息が認められている。成虫は管状で長い糸状の触角を持ち、羽根を背中に伏せるようにして止まる姿は一部の蛾の類に似て見える。以下、参照したウィキの「トビケラ」より引用する(一部のコンマを読点に変更した)。『完全変態をする。幼虫はほとんどが水生で、細長いイモムシ状だが胸部の歩脚はよく発達する。頭胸部はやや硬いが、腹部は膨らんでいて柔らかい。また、腹部に気管鰓を持つものも多い。砂や植物片を自ら出す絹糸に絡めて円筒形その他の巣を作るものが多い。巣の中で蛹になる。羽化の際は、蛹自ら巣を切り開き、水面まで泳ぎ上がり、水面や水面上に突きだした石の上などで成虫になる。この様な羽化様式が多いが、クロツツトビケラなどでは、水中羽化も報告されている。『また、トビケラは種による差が認めにくいものがあるために同定は難しいものも多い。幼虫は巣の形で属レベルの同定が可能なものもある。成虫については、翅に明瞭な斑紋や色彩を持つ種もあるが、地味なものが大部分で、雌雄の生殖器の構造を見ることが必要になる』。『トビケラ類の幼虫はいさご虫(沙虫)と呼ばれ、水中生活で、多くが巣を作る事で有名である。巣は水中の小石や枯れ葉などを、幼虫の出す糸でかがって作られる』。巣の型には大きく分けて携帯型(移動可能なもの)のものと固定型の二種があるが、『もっとも一般的なのは、落葉や砂粒・礫などを綴り合わせて作られる鞘状や筒状の巣で、携帯巣(けいたいそう)、筒巣(とうそう)あるいはケーシング(casing)と呼ばれる。体がぴったり入る大きさで、前方から頭胸部を出して移動したり採餌したりするもので、言わば水中のミノムシ状態である。水中の植物質を餌とするものが多く、礫で巣を造るニンギョウトビケラなどが有名である』。『これに対して、シマトビケラやヒゲナガカワトビケラなど「造網性」と呼ばれる種類の作る巣は、渓流などの石に固定されており、その一部に糸による網が作られ、ここにひっかかった流下微粒子を食べる』。以下、シマトビケラ科やヒゲナガカワトビケラ科等では、『乱雑な巣を植物片や小礫で』、ヒゲナガトビケラ科では『砂粒や植物片などさまざまな材料を用い』、トビケラ科では『植物片をらせん状などに編』み、キタガミトビケラ科は『円錐形の巣の末端を石などに固定』した造巣をするとある。最後に「人間とのかかわり」の項には、まさに丘先生の指摘されておられる、『ちょっと特殊な利用例として、山口県岩国市の錦帯橋付近ではニンギョウトビケラの巣を土産物として販売している。この種は筒巣の両側にやや大きめの砂粒を付け、蛹化する際には前後端に砂粒をつけて蓋をする。この後端の石を頭に見立て七福神や大名行列を作る』とまで記されていて、何だか、丘先生の肉声が聞こえて来るようで、言いようもなく楽しくなってきたことを告白しておく。

「人形石」上記注に出るように、トビケラ目ニンギョウトビケラ科ニンギョウトビケラ Goera japonica の幼虫の棲管で、砂粒で作った巣の両翼には大きめの砂粒を三対附ける(成虫の体長は約一〇~一二ミリメートルで、触角は黄褐色で太く、体長とほぼ同長)。岩国石人形資料館が詳しい。天然の棲管の画像は同資料館のにある。]

西東三鬼句集「變身」 昭和二十八(一九五三)年 一一三句

昭和二十八(一九五三)年 一一三句

電線がつなぐ電柱枯るる中

沖遠し靑年が釣り河豚鳴けり

皮のまま林檎食ひ缺く沖に船

孤兒癒え近しどんぐり踏みつぶし

犬の戀のせて夜明けの土寒し

蝮の子頭くだかれ尾で怒る

海峽に髮逆立てて釣るは河豚

雪山呼ぶO(オー)の形の口赤く

月光に黑髮炎ゆる霜の草

落葉降る動かぬ雲より鐡道へ

共に寒き狂者非狂者手をつなぐ

月光と霜と荒野を電報來し

赤子泣き凍天切に降りいでぬ

黑き人々河原燒く火に手をかざす

大寒の電柱一本まつすぐ立つ

  仁森啓之に

金屬の脚が零下の地を進む

[やぶちゃん注:「仁森啓之」不詳。識者の御教授を乞う。]

年新し頭がちの雀眼をつむる

餠ふくらむ荒野近づく聲ありて

日雇の焚火ぼうぼう崖こがす

裸田を眞直ぐに農夫風と來る

寒の水地より噴き出で血のごとし

空靑しかじかむ拳胸を打つ

  老兄を見舞う 五句

癌の兄聲音しづかに受話器を來る

死病の兄眞向う囘轉椅子囘し

膝に菓子の粉こぼれ兄弟死が近し

昇降機に老いし兄弟顏近し

癌の兄と別れ直ぐ泣く群集裡

[やぶちゃん注:三鬼、本名斎藤敬直(けいちょく)は明治三九(一九〇六)年に父を胃癌で、大正七(一九一八)年には母をスペイン風邪で亡くし、その直後に日本郵船に勤務していた長兄武夫に引き取られた。長兄も胃癌、後に三鬼も胃癌で亡くなっている。]

木枯も使徒の寢息もうらやまし

つらら太りほういほういと泣き男

ピアノ烈し氷の月は樹の股に

極寒の寢るほかなくて寢鎭まる

脱走せり林檎すかりと皿に置き

あとかたもなし雪白の田の昨日(きのう)

暗き春桃色くねるみみずの子

老人の小走り春の三日月へ

泥濘のつめたさ春の城ゆがむ

花冷えの城の石崖手で叩く

あかつきの鶯のあと雀たのし

春は君も鐡材叩き唄うかな

考えては走り出す蟻夜の卓

たんぽぽ莖短し天心に靑い穴

春園のホースむくむく水通す

重き夜の中さくら咲き犬走る

硝子割れ病者に春の雲ぢかに

さくら冷え老工石切る火花

ふるえ止まぬ車内の造花春の暮

五月の地表より光る釘拾い上ぐ

息せるや菜の花明り片頰に

病舍へ捧げゆく新しき金魚と水

戀過ぎし猫よとかげを食ひ太れ

葱の花黑き迅風に雲ちぎれ

[やぶちゃん注:「迅風」は「はやて」と読む。]

黄麥の上に雲雀の唄死なず

光つつ五月の坂を登りくる

濡れて貧しき土に鐵骨ある五月

みどり子の頰突く五月の波止場にて

頭暑し沖なき海の動かぬ船

畦塗るを鴉感心して眺む

靑崖の生創洗い梅雨ひそか

燕の巣に雀住みつき暑苦し

蛙の唄湧き滿ちて星なまぐさし

咆えてもみよ住きては復る泥田の牛

[やぶちゃん注:「住きては」は「ゆきては」で、「復る」は「かえる」であろう。「もどる」はどうも音が悪い。]

びしょ濡れの梅雨川切つて蛇すすむ

鐵の手に紙箱萎(な)えて雨期永し

黄麥につつたち咽喉に水注ぐ

栗の花われを見拔きし犬ほゆる

父のごとき夏雲立てり津山なり

[やぶちゃん注:三鬼は明治三三(一九〇〇)年五月十五日に岡山県苫田郡津山町大字南新座に生れた。]

平らなる大暑と靑田農夫小さし

  湯原温泉

[やぶちゃん注:「湯原温泉」は「ゆばら」と読み、岡山県県北の真庭市湯原温泉豊栄(とよさか:旧湯原町。)にある温泉。砂湯で知られ、湯郷温泉・奥津温泉とともに美作三湯と呼ばれる。]

川湯柔か高くひぐらし低く河鹿

湯の岩を愛撫す天の川の下

  室賀氏母堂獨り住む

靑谷に母うつくしく鯉ふとる

[やぶちゃん注:「室賀氏」三鬼は昭和二三(一九四八)年に山口誓子を擁して『天狼』を創刊して編集長となるが、同年、同時に「激浪」を主宰し、その発行所を津山市上之町の室賀達亀方に置いている。この人物であろう。]

  老兄を見舞う 三句

徴の家跳びだし急行列車に乘る

梅雨富士の黑い三角兄死ぬか

梅雨烈し死病の兄を抱きもせず

梅雨去ると全き圓の茸立つ

揚羽となり裂けし大樹を離れたり

赤松の一本ごとの西日立つ

機關車の瘤灼け孤り野を走る

[やぶちゃん注:「孤り」は「ひとり」と読ませていよう。]

梅干舐む炎天遠く出でゆくと

炎天に聲なき叫び下駄割れて

猫に啼き歸るところあり天の川

合歡咲けりふるさと乙女下駄ちさし

荒園の力あつまり向日葵立つ

八方にスト雲までの草いきれ

基地臭し炎天の犬尾をはさみ

空手涼し三日月よりの風ひらひら

土ひややか空洞の松伐り倒され

秋滿つ寺蝶の行方に黑衣美女

吠える犬秋の濁流張り流れ

眼帶の内なる眼にも曼珠沙華

  葉山、千賀夫人に

羊齒裏葉にぎやか弓子夫人癒えよ

[やぶちゃん注:「千賀夫人」は恐らく「弓子夫人」と同一人物と思われるが、不詳。]

片蔭の家の奧なる眼に刺さる

雷落ちしや美しき舌の先

秋風に光る根株へ磯づたう

ちちろ聲しぼり鐵塔冷えてゆく

憂し長し鰯雲への滑走路

濁流や秋の西日に蝶染まり

崖となりつつ秋の石塊個々光る

石工若し散る石片が秋の花

露乾き農の禿頭ゆらゆら行く

金蠅とかまきり招きわが燈火

稻雀笑いさざめく朝日の樹

梢さしひらめく鵙や土工掘る

秋の蜂若き石工の汗舐めに

案山子ならず拳で顏の汗ぬぐう

雌が雄食ふかまきりの影と形

  長兄遂に死す 五句

通夜寒し居眠りて泣き覺めて食う

死顏や林檎硬くてうまくて泣く

兄葬る笙ひちりきや齒の根合はず

ごうごうと燒きつくす音兄も菊も

箸はさむ骨片の兄許し給え

耳嚢 巻之六 老農達者の事

 老農達者の事

 享和二戌年の秋、關東筋出水して、川々普請目論見(もくろみ)とて鈴木門三郎廻村せしに、武州八甫(はつぽう)村與次右衞門儀、年百歳の由、極老の者に候處至て健かにて、諸人足に先立(さきだち)、公儀より御憐愍にて莫大の御入用を以(もつて)、御普請被仰付(おほせつけられ)候處、右は百姓銘々(めいめい)の圍ひに候間、不被仰付(おほせつけられず)候とも精入可申(せいいれまうすべき)旨にて、御普請に出(いで)候人足共を叱り勵(はげま)し飽(あく)まで精を入(いれ)候儀、歸府の上、懸(かかり)より申上(まうしあげ)、御褒美錢拾貫文、伺(うかがひ)の上とらせ候由。

 此圖は、川方御用に出し輩の内(うち)御普請役など、戲れにかきたる由にて見(みえ)しが、老農の有樣、斯(かく)も有(あら)んと其儀を爰に寫しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。図入りだが……もっと他に図が欲しいものは、これ、あるように思うのだが……。

・「享和二戌年」西暦一八〇二年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから直近の出来事。

・「鈴木門三郎」底本の鈴木氏注は『鈴木正恒(後出)の子。寛政六年(二十二歳)小十人、七年御小性組』とするが、岩波版の長谷川氏注はその父鈴木正勝とする。正勝は『御勘定・評定所留役・御勘定組頭。寛政三年(一七九一)代官、七年美濃郡代、十一年勘定吟味役』で、直近の勘定吟味役は仕事柄、川方御用を兼ねたことは勘定吟味役経験のある根岸の事蹟からも明らかで、長谷川氏説を採る。但し、根岸はに勘定奉行から寛政一〇(一七九八)年には累進して南町奉行となっていた。

・「武州八甫村」現在の埼玉県久喜市鷲宮八甫(はっぽう)。利根川の右岸域にある。

■やぶちゃん現代語訳

 老いた農夫の達者なる者の事

 享和二年戌の秋、関東近縁方々出水(でみず)致いて、河川普請改修の見積もりのため、鈴木門三郎正勝殿が回村致いて御座った。

 その折り、武蔵国八甫(はっぽう)村の與次右衞門と申す百姓、これ、年百歳の由なるが、極めて長寿なる者にて御座ったれど、至って健かにて、村から連れ参った諸人足の先頭に立って、

「……御公儀よりの御憐憫にて、莫大なる御入用金を以って御普請を仰せ付け下さり給うたところ、恭悦至極に存じまする。……実は、我らを始めと致しまして、この連れ参りました者どもは、それぞれの百姓が内輪に養(やしの)うております者どもにて……普請賦役には仰せつけられずなった者どもなれど……我らを始めと致します、この者どもも、ともに、精入れて働き申しまするによって……どうか、宜しゅう、お願い申し上げ奉りまする。……」

との申し出にて、その後も、御普請に出でて御座った人足どもを叱咤激励、飽くまで普請に精出だいたによって、鈴木殿は帰府致すと直ぐに、係りの者より申し上げて、御褒美として銭十貫文、上様伺いの上、取らせた由。

〇附記。以下の図は、川方御用に出でた諸輩の内の、御普請役なんどの誰彼が、戯れに描いた由のものと見ゆるが、矍鑠(かくしゃく)たる老農の有様、かくもあったとのことなれば、ここに写しおいた。

100sai

北條九代記 芝田次郎自害 付 工藤行光郎等兄弟働

      ○芝田次郎自害  工藤行光郎等兄弟働

奥州の住人芝田次郎は聞ゆる武勇の兵なり。今度梶原景時が叛逆に與(くみ)して、要害を堅くし、壘を深くして、軍兵を招く由聞えければ、子細を尋問はれんが爲に、使節度々に及ぶといへども、病(かまひ)と稱して、召(めし)に應ぜす。是に依て宮城四郎を討手(うつて)の御使として、奥州に差遣(さしつかは)さる。八月二十一日、甘繩の宅(いへ)の首途(かどで)して御所に參(まゐり)しかば、鞍置馬(くらおきうま)を給はる。中野五郎能成、是を庭上に引きたてたり。兵庫頭廣元、上意の趣(おもむき)申し渡さる。宮城即ち謹(つつしん)で承はり、家子三人郎等十餘人を相倶して、御所より直(すぐ)に奥州にそむかひける。九月十四日、彼(かの)地に下著(げちやく)し、近邊の武士三十餘人を召集(めしある)め、先(まづ)使を以て云はせけるは、「將軍家内々御不審に思召(ぼしめ)すことあり、使節を以て度々召さるれども、所勞と稱して、召に慮ぜす。愈(いよいよ)子細あるべきやうに思召さるゝ故に、宮城に仰せて、具(つぶさ)に子細を尋ね問ひ申すべし、との上意に依て罷向(まかりむか)ひはべり。急ぎ是(これ)へ參られ、事の旨を宮城に申開かるべし。猶も擬議(ぎぎ)せらるゝに於ては、それへ向うて承らん」とぞ云遣(いひつかは)しける。芝田、使に對面して、返答致しけるやうは、「某(それがし)故殿の御時より一所懸命の地を賜り、今に領知致す所なり。何を恨み奉りてか當家に別義を存すべき。只讒人(ざんにん)の所爲として、芝田に野心ある由を聞召(きこしめ)され、度々使節を下さるゝと云へども、且(かつう)は所勞を以て參覲(さんきん)に能はず。強(しひ)て鎌倉に上りて、若(もし)は理非なく手ごめに亡(ほろぼ)し給はんには、白龍(はくりう)栖(すみか)を離れて、漁父(ぎよほ)の網に罹り、洪魚(こうぎよ)水を失(しつ)て、螻蟻(ろうぎ)の口に吸はるゝと申すものにて候。是へ引受け奉る事は子細なき旨言上し、その上にも御疑(うたがひ)是あらば、力及ばす館(たち)に火を懸け、自害仕らんと存する計(ばかり)にて候」とそ申返しける。宮城聞きて、「いやいや梶原景時が叛逆に同意して野心を起さるゝ條隱れなし。早く降人(かうにん)に成て出給へ。御前の事は如何にも申預(まうしあづか)り奉らん。然らずは只今向うて踏破(ふみやぶ)り候べし」と重ねて申遣しければ、「此上は力及ばず。これへ御向ひ候へ、一戦を遂げて腹切申すべし。侍程の者が命惜(をし)ければとて降人には出づまじく候」と誘ければ、宮城「さらば」とて、三十餘騎を先登(せんとう)とし、我が身は家子郎等を前後左右に進めて午尅(うまのこく)計(ばかり)に芝田が館に押掛けたり。芝田も兼て思設(おもひまうけ)しことなれば、一族郎從四十餘人門の扉を差固(さしかた)め、二階の窻(まど)を押開き、矢種(やたね)を惜まず散々に射る。寄手こめ矢前(やさき)に懸りて射伏せらるゝ者十七人、其外疵を蒙りて、村々(むらむら)に成て引退(ひきしりぞ)く。此所(ここ)に工藤小次郎行光が郎等に藤五、藤三郎、美源二(みげんじ)とて兄弟三人打連れて奥州の所領より鎌倉に登る所に、白川の關の邊(ほとり)にて、芝田追討の御使馳向ふと聞きて、直に加勢と成り、宮城が陣に来りつゝ、芝田が館の後(うしろ)に廻り、高き岡に上(あが)つて館の内を見透(みすか)し指詰引詰(さしつめひきつめ)思ふ儘に射たりければ、是に當りて城中に手負死人多く出來たり。芝田が家子桐山中太と云ふものは大力の剛(がう)の者にて、桶側胴(をけがはどう)の腹巻(はらまき)に冑(かぶと)の緒を締め、一丈計(ばかり)なる樫の木の棒に筋鐵(すぢかね)を入れ、所々に胞(いぼ)を植ゑさせ、只一騎打て出でつゝ寄手の村立(むらだち)たる所へ會釋もなく驅入て人馬(にんば)をいはず打伏(うちふ)せ薙伏(なぎふ)せける程に、寄手辟易して立足(たつあし)もなく見えける所に、宮城は強弓(つよゆみ)の精兵(せいしやう)なりければ、大の矢を番(つが)うて靜(しづか)に狙寄(ねらひよ)りてひようと發(はな)つ。勇誇(いさみほこ)りたる桐山が脇壺(わきつぼ)に羽(は)ぶくら責めて立ちければ、何かはたまるべき、あつと云ふ聲計して、乾(いぬゐ)にどうと倒れたり。寄手是に氣を直し、鬨聲(ときのこゑ)を揚(あげ)て、攻懸(せめかか)る。芝田は桐山を討(うた)せて力を落し、扉を閉ぢて引籠らんとする所を、藤五兄弟後(うしろ)より射ける矢に、城の大將芝田も手負ひしかば、殘る者共、今は是までなりとて、思ひ思ひに落ちて行く。芝田次郎は妻子を刺殺(さしころ)し、腹切(はらきつ)て伏したり。郎等小藤八館に火を懸け、雲煙(くもけぶり)と燒上(やきあ)げ、猛火(みやうくわ)の中に飛入りたり。午刻(うまのこく)に芝田滅びぬ。斯(かく)て近郷の仕置を執靜(とりしづ)め、十月十四日宮城四郎は鎌倉に歸參して、軍(いくさ)の樣躰(やうだい)言上せしめ、「此度殊に勳功の働(はたらき)は工藤小次郎行光が郎從藤五兄勢三人にあり」と申しければ「神妙(しんべう)なり」と感ぜしめ給ふ。同二十一日賴家卿濱の御所に出で給ひ、北條義時盃酒を獻ず。和田、小山以下の御家人多く以て伺候あり。工藤小次郎行光は陪膳にまゐりける。賴家卿仰せられけるは、「工藤が郎從去ぬる奥州芝田が軍に弓馬の働かひがひしく仕りけり」と言上するに就きてその名を尋ねらるゝ所に、日比武勇(ぶよう)の聞(きこえ)ありと人皆沙汰に及べり。「其者どもの面(おもて)を見給ふべし。急ぎ召出せ」との仰せなり。行光座を立て若宮大路の家に歸り、藤五、藤三朗美源二兄弟三人の郎等を喚びて紺の直垂(ひたゝれ)に烏帽子を著(ちやく)せしめ、一樣に出たゝせ、騎馬を刷(かいつくろ)うて倶して参る、路次(ろじ)聞觸(きゝふ)れて見る者堵(と)の如し。御所の庭上に敷皮を竝べて坐せしめたり。賴家卿御簾(みす)を卷上げさせて御覽ぜらる。色黑く頰骨あれ、眼(まなこ)逆(さかしら)にさけて筋ふとくたくましきは、三人ながら相劣らず、勇士の相を備へたり。この内一人召上げて御家人に爲さるべきよし仰出(おほせいだ)されけり。工藤行光申しけるは「平家追討の初より亡父景光戰場に赴き、萬死(ばんし)を出でて一生に逢ふ事總て十ヶ度、其間多くは彼等が爲に命を救はれて候。行光既に家業を繼ぎ候、御讎敵(しうてき)を對治せらるゝ折節も、將軍家に於ては天下の勇士(ようし)悉(ことごとく)是(これ)御家人たり。行光は僅(わづか)に賴む所この三人にて候」と申しければ、賴家卿仰せけるは、「行光が申す所理(ことわり)至極せり。言上の言葉辯舌あり」とて、直に御盃(ぎよはい)を下され、北條五郎、銚子をとる。行光、三盃を傾(かたぶ)けて、郎等を召倶して、御前を退出しける有樣、雄々(ゆゝ)しかりける事共なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年八月二十一日、十月十三日・二十一日の条に拠るが、原資料にはない戦闘シーンの描写が細かくリアルである。まず、八月二十一日の進発から見る。

〇原文

廿一日甲辰。宮城四郎爲御使節。下向奥州。是芝田次郎依有可被尋問事。度々雖遣召。稱病痾不參。仍爲被追討之也。午剋。宮城首途。出甘繩宅。參御所。相具家子三人。郎等十余人。候侍西南角。頃之。廣元朝臣出廊根妻戸。招御使。召仰事之由。其後退出之刻。給御馬。〔置鞍。〕中野五郎能成引立庭上。宮城給之退出。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日甲辰。宮城四郎、御使節として奥州へ下向す。是れ、芝田次郎、尋問せらるべき事有るに依つて、度々遣はし召すと雖も、病痾(びやうあ)を稱し參らず。仍つて之を追討せられんが爲なり。午の剋、宮城首途(かどで)して、甘繩の宅を出で、御所に參ず。家子三人・郎等十余人を相ひ具し、侍の西南の角(すみ)に候ず。頃之(しばらくあつて)、廣元朝臣、廊根(らうね)の妻戸(つまど)に出でて、御使を招き、事の由を召し仰(おほ)す。其の後、退出の刻、御馬〔鞍を置く。〕を給はる。中野五郎能成、庭上に引き立つ。宮城、之を給はりて退出す。

・「宮城四郎」宮城家業(いえなり)。奥州総奉行井澤家景の弟で、陸奥国宮城郡宮城郷(現在の仙台市宮城野区苦竹と推定されている)の住人。

・「廊根」渡り廊下の下の際(きわ)。

続いて、総てが終わった後の十月の二日分を纏めて見る。

〇原文

十三日丙申。宮城四郎自奥州。歸參。去月十四日遂合戰。及晩。攻落芝田舘訖。爰有可被感事。工藤小次郎行光郎從藤五郎。藤三郎兄弟。自奥州所領參向鎌倉之處。於白河關邊。御使聞可被追討芝田之由。自其所馳歸。合戰之日。廻彼舘後面。射箭不知其員。中之死者十餘人。賊主退散。偏在件兩人忠節之由申之。

廿一日甲辰。霽。羽林入御濱御所。遠州獻盃酒。義盛。朝政。義村以下御家人多以候其座。工藤小次郎行光候陪膳。此間羽林被仰云。行光郎從等。去比於奥州。顯弓馬隱德。就之。尋其號。兼有勇敢之聞云々。未覽其面。早可召進云々。仍行光起座。歸若宮大路宅。召藤五郎。藤三郎。美源二。已上三人郎等。餝衣裝刷騎物。具參之間。此事路次成市。觀者如堵。漸入幕府門。跪庭上。各着紺直垂。相並候敷皮。羽林巻上御簾覽之。彼等皆備勇士之相。一人可被召加御家人之由被仰。行光申云。被追罸平家以降。亡父景光赴戰場。入萬死出一生十ケ度。其間多以。爲彼等被救命也。行光又繼家業也。而被對治御讎敵日。於上者我朝勇士。悉以爲御家人。行光者僅所恃此三輩也云々。羽林被仰云。行光所申。其理已至極也。匪達弓馬。言語又詳也。早可傾三坏者。即直被下御盃。北條五郎取銚子被勸。賜之具彼郎等退出。入夜羽林還御。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日丙申。宮城四郎、奥州より歸參す。去ぬる月十四日、合戰を遂げ、晩に及びて、芝田の舘(たち)を攻め落し訖んぬ。爰に感ぜらるべき事有り。工藤小次郎行光が郎從、藤五郎・藤三郎兄弟、奥州の所領より鎌倉へ參向するの處、白河の關邊に於いて、御使、芝田を追討せらるべきの由を聞き、其の所より馳せ歸りて、合戰の日、彼の舘の後面に廻りて、箭(や)を射ること、其の員(かず)を知らず。之に中(あた)りて死する者、十餘人、賊主の退散は、偏へに件の兩人の忠節に在るの由、之を申す。

廿一日甲辰。霽る。羽林、濱の御所に入御。遠州、盃酒を獻ず。義盛・朝政・義村以下の御家人、多く以つて其の座に候ず。工藤小次郎行光、陪膳に候ず。此の間、羽林、仰せられて云はく、「行光が郎從等、去ぬる比、奥州に於いて、弓馬の隱德を顯はす。之に就き、其の號(な)を尋ぬるに、兼て勇敢の聞え有り。」と云々。

「未だ其の面を覽ぜず。早く召し進ずべし。」と云々。

仍つて行光、座を起ち、若宮大路が宅へ歸り、藤五郎・藤三郎・美源二(みげんじ)、已上三人の郎等を召し、衣裝を餝(かざ)り、騎物(のりもの)を刷(かいつくろ)ひて、具し參るの間、此の事、路次に市を成し、觀る者、堵(と)のごとし。漸く幕府の門に入り、庭上に跪(ひざまづ)く。各々紺の直垂(ひたたれ)を着て、相ひ並び敷皮に候ず。羽林、御簾を巻上げ、之を覽(み)る。彼等、皆、勇士の相を備ふ。一人、御家人に召し加へらるべきの由仰せらる。行光申して云はく、「平家を追罸せられてより以降(このかた)、亡父景光、戰場へ赴き、萬死に入りて一生を出づること十ケ度、其の間、多く以つて彼等の爲に命を救はるるなり。行光、又、家業を繼ぐなり。而るに御讎敵を對治せらるる日、上に於いては我が朝の勇士、悉く以て御家人たり。行光は僅かに恃(たの)む所、此の三輩なり。」と云々。

羽林仰せられて云はく、「行光が申す所、其の理(ことわり)、已に至極なり。弓馬に達するのみに匪(あら)ず。言語も又、詳らかなり。早く三坏(ぱい)を傾くべし。」てへれば、即ち直(ぢき)に御盃を下さる。北條五郎、銚子を取りて勸めらる。之を賜はり、彼の郎等を具して退出す。夜に入りて羽林、還御す。

・「芝田の舘」現在の宮城県柴田郡柴田町船岡館山に船岡城址がある。

「白龍栖を離れて、漁父の網に罹り、洪魚水を失て、螻蟻の口に吸はるゝ」底本頭書に『貴人も微行すれば賤者の辱めを受くる意、説苑に見ゆ。洪漁云々は荘子に取る』とある。神力あらたかな白龍が身をやつして、棲家を離れたところが賤しい漁夫の網にかかったり、大魚が生きるべき水を失って、ちっぽけで下らない螻蛄や蟻の口に吸い尽くされてしまうような理不尽な災難に遭う、という意。直接的には宮城を「漁父」「螻蟻」に揶揄している。]

一言芳談 六十八

   六十八

 或云、故寂願房、所勞の時、敬仙房談じ申して云、在家のもの、流鏑馬(やぶさめ)ならす時は、さまざまに儀式作法をならべて習へども、まさしく其日にあたりて、すぐに射んとて、はたと馬を出しつる上は、相構へて射あてんと思ふ外は他事なきなり。其定(ぢやう)に日ごろは、後世の事、とかくこのみ習ひぬれども、いますでに病床にのぞみたり。他念なく念佛して往生せんと思ひ取り給ふべしと候ひしなり。

〇流鏑馬、馬上にて的をいる事なり。矢鏑馬の字。神社いさめの儀式なり。竹のみじかきに板を付て、馬をはしらせて、のりながら矢をはなつが儀式にて有也。

〇ならす、下ならしなり。

[やぶちゃん注:「寂願房」大橋氏注に『伝不詳。明遍の弟子。高野山に任した』とある。

「敬仙房」大橋氏注に『法然上人の弟子。常陸国真壁に住し、のち明遍に師事して、高野山に住した。』とある。Ⅱ・Ⅲに拠るが、Ⅰは既出の「敬佛房」とする。それよりも臨終に近い寂願房に、かく語る敬仙房、その折りの、二人の交感にこそ、私は本条の眼目はあると見る。

「いさめ」これは「諫(いさ)め」「禁(いさ)め」ではなく、神の心を「慰(いさ)め」(慰める)若しくは「勇め」(元気づける・活性化させる)の意。

「ならす」は「鳴らす」で、音を発して飛ぶ鏑矢を用いるため、かく言った。]

2013/01/18

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 三 擬態~(4)/了

 擬態の最も面白い例は外國産の蝶類にある。蝶類の中には飛翔が速で、巧に敵から逃げるもの、色や形が他物に似て敵の注目を免れるもの、味が頗る惡いために鳥の方で避けて啄まぬものなどがあるが、味の惡い種類は特に鮮な色を呈し、ゆらゆらと遲く飛ぶ癖がある。しかるに南アメリカ産の蝶などを調べると、味の惡くない類であるのに自分等の仲間とは翅の形も色も著しく違つて、却つて味の惡い種類と見分けの附かぬ程に似て居るものが幾種も見出される。翅の形や色は如何に變化しても翅の脈は容易に變らぬから、かやうな蝶も翅の脈を檢査せられては素性を隱すわけには行かぬが、これなどは實に擬態の模範ともいふべきもので、見誤らせて敵の攻撃を免れることに成功して居るのである。

[やぶちゃん注:「味の惡い種類は特に鮮な色を呈し、ゆらゆらと遲く飛ぶ癖がある」アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科 Heliconiinae に属するドクチョウの仲間の多くはそれぞれが毒を保有しているが、これら六十~七十種もいるドクチョウは、全く違う種であるにも関わらず、互いに非常によく似た派手な警告色の羽模様を持っており、おしなべてゆっくりと飛翔する。これは例えば、一種類の蝶が鳥一羽に対し一頭の蝶が犠牲を出さなければならないのに対して、五種類の蝶が同じ様な模様を共有することによって、どれか一種類の蝶が一頭犠牲になることでひいては他の四種の蝶類四頭の生命が救われるという非常に効率の良いシステムとなっている。これは、本現象をドクチョウで発見したドイツ人博物学者ヨハン・フリードリヒ・テオドール・ミューラー(Johann Friedrich Theodor Müller 一八二一年~一八九七年)に因み、「ミューラー型擬態(Mullerian Mimicry)」と呼ばれる。但し、これらの蝶類は、実際に各種が実際に毒を持って自己防衛行っているのであるから、本来の「擬態」の定義からすれば、ミューラー型擬態は「擬態」とは言えない。むしろ、ミューラー型模倣とか、ミューラー型類擬態とするべきではないかと私は思う(以上は、白岩康二郎氏の百科ホームページ プテロン・ワールド」擬態について:ミューラー型を参考にさせて戴いた)。

「しかるに南アメリカ産の蝶などを調べると、味の惡くない類であるのに自分等の仲間とは翅の形も色も著しく違つて、却つて味の惡い種類と見分けの附かぬ程に似て居るものが幾種も見出される」これは自己防衛を目的として、無毒種が他の有毒種に擬態しているので、既出の典型的なベイツ型擬態である。]

 なほ次に圖を掲げたのは、皮が堅くて食へぬ蟲と、味が惡くて食へぬ蟲とこれらに似た他の昆蟲類の擬態である。下の段に竝べたのはいづれも甲蟲類で、極めて皮の厚い「こくざうむし」と、味の惡い「てんたうむし」、また上の段のは、これらに似た「かみきりむし」と「いなご」とであるが、その中でも、「いなご」の類は甲蟲とは全く別の組に屬するにも拘らず、恰も「こくざうむし」や「てんたうむし」の如くに見えるやうに、體の形狀が全く變化して居る。「いなご」の中には蟻の通りに見える種類があるが、これなどは身體が眞に蟻の如き形になつて、胸と腹との間に縊れが出來たのではなく、彩色によつて巧に蟻の姿を眞似て居るにすぎぬ。また南アメリカに産する蟻の一種で常に木の葉を嚙み切つて一枚づつ銜へて歩くもののあることは前に述べたが、この蟻に交つて歩く一種の「ありまき」類の昆蟲は、背から綠色の扁たい突起が縱に生じて、恰も蟻が緑葉を銜へて居る如くに見える。これなどは擬態の中でも最も巧妙なものの例で實に驚くの外はない。

Beitugitai 

[昆蟲の擬態]

[やぶちゃん注:「こくざうむし」鞘翅(コウチュウ)目多食亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ Sitophilus zeamais

「てんたうむし」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目 Cucujiformia 下目ヒラタムシ上科テントウムシ科 Coccinellidae に属する小型甲類の総称であるが、ウィキテントウムシ」によれば、テントウムシ類は全般に『幼虫・成虫とも強い物理刺激を受けると偽死(死んだふり)をし、さらに関節部から体液(黄色の液体)を分泌する。この液体には強い異臭と苦味があり、外敵を撃退する。体色の鮮やかさは異臭とまずさを警告する警戒色といえる。このため鳥などはテントウムシをあまり捕食しない』とある。

「かみきりむし」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae に属する甲虫の総称。

「いなご」直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae に属するバッタ類の総称。ここで示されたものは典型的な、しかも目レベルで遠く隔たった種間のベイツ型擬態である。

「蟻の一種で常に木の葉を嚙み切つて一枚ずづつ銜へて歩くもの」ハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科 Formicidaeフタフシアリ亜科ハキリアリ族 Attini に属するハキリアリ族。「三 餌を作るもの」で既注済み。

『この蟻に交つて歩く一種の「ありまき」類の昆蟲は、背から綠色の扁たい突起が縱に生じて、恰も蟻が緑葉を銜へて居る如くに見える』「ありまき」は有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属する「アブラムシ」類でアリマキ(蟻牧)とも呼ぶ。本種は私もNHKの映像で見たことがあるが、ネット上では種の同定は出来なかった。識者の御教授を乞う。なお、コロ氏のHP「多様性を求める旅」のハキリアリ」のページには、ハキリアリは刈り取った葉を巣に持ち帰って特殊なキノコをつくる肥料として農園(菌園)を営む。ハキリアリが育てている菌はアリタケと呼ばれ、ハキリアリの巣の中以外ではみつからない。ハキリアリはアリタケの胞子から栄養分としての糖分を貰っており、また、アリタケは他の菌などの外敵からハキリアリに守ってもらっているという相互共生(mutualism)が成り立っているとされた上で、『ハキリアリはアブラムシも巣の中に飼っている。これも相互共生という形で形成されている。アブラムシは植物の汁を吸って、糖分が含まれている汁を分泌する。これがハキリアリにとって餌になる。そしてハキリアリはアブラムシを天敵から守ると同時に、アブラムシの卵を巣の中で育てることもする。このため、ハキリアリは農園だけでなく牧場も経営するなどと表現する場合がある』と解説しておられる。]

耳嚢 巻之六 麁末にして免禍事

 麁末にして免禍事

 四つ谷邊輕き御家人、御切米玉落(おきりまいたまおち)とて、札差が許へ兩三人連れにて參り、酒食などして、うけとるべき金子二三十兩懷中なして淺草觀音へまふで、同所の奧山にて見物などし徘徊しけるを、すりと云(いふ)賊、付けるにや、人立(ひとだち)にて彼(かの)者懷中の鼻紙入を拔しゆゑ、心附(こころづき)て殘念成る事せしといひしを、連れの男、右の内には先の金子も入り可有之(これあるべし)與(と)、長嘆しけるを、彼男依然として袖をさぐりて金包を出し、彼金子は是に殘りしといひしとかや。始(はじめ)心を用ひて深く鼻紙入れへいれなば盜(ぬすみ)取られんを、麁末なる取計(とりはから)ひゆゑ禍をまぬがれしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、やはり前話・前々話の舞台である厩河岸・橋場・吉原と浅草観音は同一圏内と言える。
・「麁末にして免禍事」は「麁末(そまつ)にして禍(わざわひ)を免(まぬがれし)事」と読む。
・「御切米玉落」既出であるが再注しておくと、」幕府の大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』といって幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(二月・五月・十月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。「御切米玉落にて、札差が許へ兩三人連れにて參り」とあるのは、この切米の支給を受ける旗本・御家人には支給期日が来ると『御切米請取手形』という札(ふだ)が支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出、札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高(わたしだか)・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。これを待つ間に茶屋にて「酒食など」する習慣もあったものであろう。

・「奥山」浅草寺西側一帯の通称。大道芸や見せ物小屋が立ち並び、盛り場としての浅草発祥の地でもあった。

・「鼻紙入」革又は絹布などで製の財布。鼻紙は勿論、小遣銭・印判・懐中薬・耳かきなどの小物や携帯品を入れ、懐中にした。

・「與(と)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 疎漏なるがゆえに禍いを免れた事

 四ッ谷辺の軽い身分の御家人、御切米玉落(おきりまいたまおち)に当たって、札差の元へ三人連れで参り、酒食などを致いて、受け取るべき金子二、三十両を、これ、懐(ふところ)へ入れたまま、そのまま皆して浅草観音へと詣で、同所の奧山にて、大道芸やら見世物やらを見物なんど致いて物見遊山と洒落込んで御座った。

 すると、掏摸(すり)と申すところの賊――これ、切米玉落帰りの者ならんとでも――目星を付けておったものか、雑踏にてかの御家人、懐中した鼻紙入れを抜き取られた。

 暫くして、御家人、掏られたことに心づきて、

「……いい鼻紙入れで御座ったにて残念なことを致いた……」

と頻りにぼやいで御座るによって、連れの男、目を剥(む)くと、

「……そ、その内には……さっきの金子も、これ!……入れておったろうがあッ!……」

と、長嘆息して御座ったところ、かの御家人、ぼやいて御座った先程と、何ら変わらぬ様子のままに、袖の内をくるんと探って、裸のままの金包(かねづつみ)を、ごろんと摑み出だいて、

「……いやぁ……かの金子は、ほうれ、ここに全部残っておるよ……」

と申したとか。

 当初、深慮用心致いて、しっかりと鼻紙入れの中へこれらを入れて御座ったとしたら、まんまと盜み取られて御座ったろうに――まあ、実に疎漏な取り計らいを致いたがゆえ、禍いを免れた、という訳で御座る。

西東三鬼句集「變身」 昭和二十七(一九五二)年 一〇六句

昭和二十七(一九五二)年 一〇六句

荒壁を押し塗る男枯野の日

握りめし食う枯枝に帽子掛け

[やぶちゃん注:「食う」はママ。]

枯野の中獨樂宙とんで掌(て)に戻る

壁透る男聲合唱蔦死なず

寒夜明け赤い造花が又も在る

  北國六句

鐵道の大攣曲や横飛ぶ雪

吹雪く中北の呼ぶ聲汽車走る

墓の雪つかみ啖いて若者よ

鏡餠暗きところに割れて坐す

夜の馬俯向き眠る雪の廓(くるわ)

北海の星につながり氷柱太る

變な岩を霰が打つて薄日さす

寒の中コンクリートの中醫師走る

朝の氷が夕べの氷老太陽

女あたたか永柱の雫くぐり出で

硬き土みつめて寒の牛あるく

寢るに手をこまねく霜の聲の中

薄氷の裏を舐めては金魚沈む

寒明けぬ牲(にえ)の若者燒く煙

[やぶちゃん注:ルビ「にえ」はママ。歴史的仮名遣いなら「にへ」。本句集では表現が現代仮名遣い・口語化しているので、以下のママ注記は省略する。]

獨りゆけば寒し春星あざむきし

病者等に雀みのらし四月の木

爪とぐ猶幹ひえびえと櫻咲く

いつまで何を指さす病者春夕べ

雲黑し土くれつかみ鳴く雲雀

クローバに靑年ならぬ寢型殘す

靑みどろ稚き娼婦の試歩ここまで

犬つるみ放れず晝三日月止る

鉢卷が日本の帽子麥熟れたり

燕の子眠し食ひたし雷起る

若者の汗が肥料やキャベツ卷く

翼なき鋤牛頭を振り力出す

おたまじやくし乾からびし路先細る

見事なる蚤の跳躍わが家にあり

葱坊主はじけてつよし雲下がる

七面鳥ぶるんと怒るサイレン鳴る

地より口へ苺運び働きに出る

夏はじまる原色べたと病者の畫

死にし人の金魚逆立つ夜の樂

排泄が牛の休息泥田照る

田を植える大股開き雲の下

植えて去る田に黑雲がべつたりと

南瓜の花破りて雷の逃ぐる音

梅雨明り黑く重たき鴉來る

蟻という字を生きて群がるパンの屑

止らず唸る夜の蠅友として仰ぐ

蚊帳を出で脱兎のごとく出勤す

波うつ麥垣穗に病者伸びあがる

鐵板に息やわらかき靑蛙

夜の蠅の大き眼玉にわれ一人

  猫嫌いの不死男へ

關西逃れがたしや姙み猫とも寢る

やわらかき蟬生れきて岩つかむ

炎天の岩にまたがり待ちに待つ

鈍重な女の愛や蚊を連れて

暗く暑く大群集と花火待つ

群集のためよろよろと花火昇る

貧しき通夜アイスキャンデー嚙み舐めて

百合におう職場の汗は手もて拭く

蝙蝠仰ぐ善人の腕はばたきて

こがね蟲闇より來り蚊一帳つかむ

黑みつつ充實しつつ向日葵立つ

見おろしの樗(おうち)を透きて裸童女

  橋本多佳子邸

ばくと蚊を呑む蝦蟇お孃さんの留守

  誓子海屋 二句

土用波地ひびき干飯少しばかり

女の笑い夕荒れ波の襞々に

入道雲あまたを友に職場の汗

崖下に極暑の息を唸り吐く

麥飯に拳に金の西日射す

荒き雲夜中も立てり嘔吐の聲

靑崖をむしり食ふ山羊繩短し

朝燒を外後架の蟻さまよう

木の無花果食ふや天雷遠き間に

電工の登り切つたる鰯雲

秋風の屋根に生き身の猫一匹

ばかりの朝顏おのれ卷きさがる

旱り田の濛々たるに折れ沈む

土用波へ腹の底より牛の聲

家中を淨む西日の隅にゐる

夕雲をつかみ歩きて蜘蛛定まる

蚊帳出でて蚊の密集の声に入る

黑人にわれに富士山なき秋雨

東京に駄馬の蹄鐵音さわやか

旅毎日芙蓉が落ちし紅き音

雲いでし滿月暗き沖のぞく

十五夜の舟にすつくと男立つ

菓子を食う月照るいわし雲の下

職場へ行く枯向日葵を火となして

病室の床に光りて蟻働く

硝子の窓羽音たしかに梅雨の鳥

恐るる人脅ゆる土に月あまねし

業火降るな今は月光地を平(なら)す

幼き蜂むらがり瓦舐め飽かず

柿轉ぶコンクリートの中死ぬまで病む

秋雨のぬかるみ探し笑みつつ來る

姿なく深き水田の稻を刈る

稻扱機高鳴る方へ犬跳びゆく

蓮掘りが手もておのれの脚を拔く

豐隆の胸へ舞獅子口ひらく

冬の蜂病舍の硝子拔けがたし

女が伐る枯向日葵の莖の棒

朝日さす焚火を育て影を育て

河豚啖いて甲板(デッキ)と陸に立ち分かる

[やぶちゃん注:底本のルビは「デツキ」であるが、これは長く続いてきた出版物の促音ルビの同ポイント表記と見做し、促音化した。]

一言芳談 六十七

   六十七

 聖光上人云、八萬の法門は死の一字を説く。然らば則ち、死を忘れざれば、八萬の法門を自然(じねん)に心得たるものにてあるなり。

〇死の一字、釋尊ひろく經をとき給ひし事は、生もなく死もなき佛となさしめんためなり。天仙の長生も生あるゆゑにまた死あり。

 又八萬四千の法門は死後の沈淪をすくはんためなり。

〇八萬の法門、死の一字を説(とく)事、法花經に一大事因緣故出現過去佛よりはじめ、彌勤までを説て、一切説法をきはめたまへり。(句解)

[やぶちゃん注:「八萬の法門」一般には「八万四千の法門」と言い、「八万四千」は多数の意、仏の説いた無数の教法全体を指す。

「沈淪」「沈」も「淪」も沈むの意。迷妄のうちに深く沈んでしまうこと。

「一大事因緣放出現過去佛」「法華経方便品」にある、以下の文脈に出現する。

〇原文

佛告舍利弗。如是妙法。諸佛如來。時乃説之。如優曇鉢華。時一現耳。舍利弗。汝等當信。佛之所説。言不虛妄。舍利弗。諸佛隨宜説法。意趣難解。所以者何。我以無數方便。種種因緣。譬諭言辭。演説諸法。是法非思量分別。之所能解。唯有諸佛。乃能知之。所以者何。諸佛世尊。唯以一大事因緣故。出現於世。舍利弗。云何名諸佛世尊。唯以一大事因緣故。出現於世。諸佛世尊。欲令衆生。開佛知見。使得淸淨故。出現於世。欲示衆生。佛知見故。出現於世。欲令衆生。悟佛知見故。出現於世。欲令衆生。入佛知見道故。出現於世。舍利弗。是爲諸佛。唯以一大事因緣故。出現於世。

〇やぶちゃんの書き下し文(ありもしない敬語を用いてだらだらと長い従来の訓法に従っていない)

 佛、舍利弗(しゃりほつ)に告げ、

「是くのごとき妙法は、諸佛如來、時に乃ち之を説く。優曇鉢華(うどんばけ)の時に一たび現ずるがごときのみ。舍利弗、汝等、當に信ずべし、佛の所説は、言、虛妄ならず。舍利弗、諸佛の隨宜の説法は意趣解し難し。何(いか)んとする所以は、我れ、無數の方便・種々の因緣・譬喩・言辭を以つて諸法を演説す。是の法は思量・分別の能く解する所に非ず。唯だ諸佛のみ有りて、乃ち能く之を知る。何んとする所以は、諸佛世尊は、唯だ一大事の因緣を以つての故に、世に出現す。舍利弗、何(いか)なるをか云はば、諸佛世尊は唯だ一大事の因緣を以ての故に世に出現すと名づくる。諸佛世尊は、衆生をして、佛知見を開かしめ、淸淨たることを得せしめんと欲するが故に、世に出現す。衆生をして、佛知見を示さんと欲するが故に、世に出現す。衆生をして、佛知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現す。衆生をして、佛知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現す。舍利弗、是れを、諸佛は唯だ一大事因縁を以つての故に、世に出現すと爲(な)す。」と。

・「優曇鉢華」優曇華(うどんげ)のこと。「優曇」は梵語ウドゥンバラの音写である優曇鉢羅(うどんばら)の略で、その花の意。「霊瑞華」とも漢訳する。クワ科のイチジクの一種でとされ、三千年に一度だけ花を咲かすという。通常は仏の出世が稀なことや目出度いことの起こる前兆を示す喩えとして用いられる。

・「一大事因縁」ここに解く通り、仏がこの世に現れた最も大切な目的、則ち、あらゆる衆生を教導して、生きとし生けるもの総てを救うという唯一無二の目的を言う。]

2013/01/17

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 道了権現

    道了權現

 最乘寺道了權現(さいじやうじどうりやうごんげん)は、靈驗(れいげん)あらたにましまし、別しては、火難盜賊(くはなんとうぞく)の難をのぞき玉ふこと、これまで信心の輩(ともがら)、その利益(りやく)をかうむることすくなからず。このゆへ、東都(とうと)にも信心の講中(かうぢう)數多(あまた)ありて、つねに參詣のたゆることなく、山中(さんちう)の境内ひろく、見所(どころ)おほし。

〽狂 すご六のさいみやうじとて

御りやくは こひめに

まかす神ぞ

       たうとき

參詣(さんけい)

「儂(わし)は、近所にほれてゐる娘があるから、いろいろとくどいてもきかぬゆへ、そこで儂が思(おも)ひつきで、このお山には、天狗(てんぐ)樣が、たんとござるといふこと、儂もその天狗樣になつて、その娘をさらひたいと思ふから、この道了樣へおねがひ申し、『どうぞ、天狗さまになりますやうに』と信心して月參(つきまいり)をいたしますが、昨日(きのふ)その娘が、味噌漉(みそこし)をもつてくるところを見ましたから、儂はもふ天狗樣になりはせぬが、試(こゝろ)みにこゝで娘をさらつて見やうと思つて、その娘へとびつくと、娘は肝をつぶし、味噌漉をすてゝにげてゆきましたが、その味噌漉ばかりとつてかへりましたが、夏には油揚(あぶらあげ)が三枚ござりましたから、さてもありがたい、道了さまの御利生(りしやう)かと、まだ天狗にはなりませぬが、もふ鳶(とんび)にはなりましたから、今日(けふ)はそのお禮にまいりました。」

「それは御奇特(きどく)な。儂も願望(ぐはんまう)があつて、おりおり參詣いたします。私(わたし)の親父(おやぢ)は、とかく私のことを、吾(われ)は間拔(まぬけ)だの、馬鹿だのと申しますから、どうぞ、利口(りこう)になりたいと、願掛(ぐはんが)けして、信心いたしますから、その御蔭か、ちつとは利口になつたと見へまして、親父が私(わたし)に渾名(あだな)をつけて、この頃は私のことを、道了(どうれう)の甚(ぢん)六だと申ますからありがたい。」

[やぶちゃん注:「最乘寺道了權現」は前の「湯本 小田原」の項の「關本の最乘寺へ道了權現へ」の注を参照されればよいが、ウィキ嫌いのアカデミストのために、ここでは最乗寺の公式HPより、その歴史を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、改行及びルビや記号の一部を変更・省略した)。

   《引用開始》

大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に四千余りの門流をもつ寺である。御本尊は釈迦牟尼仏、脇侍仏として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏ん万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。開創以来六百年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林一三〇町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は三十余棟に及ぶ。

開基の由来

開山了庵慧明禅師は、相模国大住郡糟谷の庄(現在伊勢原市)に生まれ、藤原姓である。長じて地頭の職に在ったが、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉不聞禅師に就いて出家、能登總持寺の峨山禅師に参じ更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺(ようたくじ)通幻禅師の大法を相続した。その後永沢寺、近江總寧寺、越前龍泉寺、能登妙高庵寺、通幻禅師の後席すべてをうけて住持し、大本山總持寺に輪住する。五十才半ばにして相模国に帰り、曽我の里に竺圡庵(ちくどあん)を結んだ。そのある日、一羽の大鷲が禅師の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛ける奇瑞を現じた。その啓示によってこの山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号した。應永元年(一三九四年)三月十日のことである。

大雄山最乗寺の守護道了

大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者として世に知られる。尊者はさきに聖護院門跡覚増法親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約一年にしてこの大事業を完遂した。その力量は一人にして五百人に及び霊験は極めて多い。應永十八年三月二十七日、了庵禅師七十五才にしてご遷化。道了大薩埵は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている。

   《引用終了》

なお、現在の最乗寺の御「利益」は、特に健康祈願・病気平癒・商売繁盛・千客万来・家内安全・交通安全・厄除け・厄払と、何でもあり、である。

「〽狂 すご六のさいみやうじとて御りやくはこひめにまかす神ぞたうとき」この狂歌よく意味が解らない。識者の御教授を乞うものであるが、一つ気になるのは「さいみやうじ」でこれは「さいじやうじ」の誤りとは思われず、そうなるとこれは最明寺で、すると「すご六」が解けるようにも思われる。この最明寺は北条時頼の道号で、鎌倉の延命寺に伝わる以下の伝承で双六と関わるからである。以下、私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之七」から引用する。

〇延命寺 延命寺は、米町(こめまち)の西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。《裸地藏》堂に立像の地藏を安ず。俗に裸地藏と云ふ。又前出(まへだし)地藏とも云ふ。裸形(らぎやう)にて雙六局(すごろくばん)を蹈(ふま)せ、厨子(づし)に入、衣キヌを著(き)せてあり。參詣の人に裸にして見するなり。常(つね)の地藏にて、女根(によこん)を作り付たり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六を爭ひ、互ひに裸(はだか)にならんことを賭(かけもの)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(ばん)の上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總そうじて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶(たへ)てなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲(ため)の佛を、何ぞ猥褻の體(てい)に作るべけんや。

すると、下の句の「こひめにまかす」は「小姫に負かす」ではないか? 「小姫」とは高貴な人の小さい娘を親しみ敬っていう語であるが、延命寺の建立は正慶年間(一三三二年~一三三四年)とされ、時頼の没年は弘長三(一二六三)年、正室は離別、その継室で時宗の母とおぼしい葛西殿は文保元(一三一七)年に亡くなっているから、北条時頼夫人開基が正しいとすると、側室の讃岐局や辻殿と言う人物しか考えられない。建立年代からは時頼晩年の側室であったと考えられ(だからこそ若い妻との双六に野球拳並の破廉恥な掟を設けて楽しんだのだと自然に理解出来るのである。但し、時頼は満三十六歳で没しており、エロ爺ではない)、それこそ、その側室は「小姫」と呼ぶに相応しい若い娘であった可能性が極めて高いと思われる。「負かす」はサ行四段活用の、勝負で相手を負けさせるの意。裸になれと言う取り決めであれば、神は彼女を勝たせればよかったものを――流石に男の気持ちを汲んで、貴いものよ――ありがたくも小姫を負けさせて、乙女の裸(伝承上は地蔵菩薩の変化した身代わりであるが)が見られたわい!――といったエロティックな狂歌と私は推測する。大方の御批判を俟つ。それにしても何故、この狂歌がここに配されているのかは、私が大馬鹿なのか、判然としないのである。

「味噌漉」この参詣人のこの部分、「味噌漉しで水を掬(すく)う」(笊で水を掬うと同じ諺で、いくらやっても無駄な徒労無功の意)を利かして、この愚昧な男の馬鹿さ加減を揶揄しているものと思われる。同様に後の「夏に」参詣した折りに「は油揚が三枚」あったが、今はなくなっている。「さてもありがたい、道了さまの御利生」か、「まだ天狗にはなりませぬが、もふ」油揚げを攫う「鳶にはなりました」という部分も「鳶に油揚げをさらわれる」の諺、大切にしているものを横取りされて呆気にとられる、こともないこの愚な男、更には「三枚」はモーツァルトの歌劇ではないが、二人が争えば第三者が得をするで、「三枚目に攫われ」たことも知らぬ大馬鹿男というニュアンスがあるのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。

「道了さまの御利生かと」鶴岡節雄氏は「道了さまの御利生かして」と判読しておられるが、私はかく読んだ。大方の御批判を俟つ。

「道了の甚六」言わずもがな、惣領の甚六を聞き違えた救い難い大阿呆という設定である。

耳嚢 巻之六 不仁の仁害ある事

 不仁の仁害ある事

 ある武家の若侍、御厩河岸(おうまやがし)を渡りて本所の儒生へ通ひしに、或冬雪ふりてわたりも少(すこし)くいとさむさつよきに、船長(ふなをさ)揖取(かぢとり)て押(おし)わたりしを深く哀れに思ひて、酒にても求め飮(のみ)て寒氣を防げよと、懷の鳥目百文あたへ通りて、かくかくと彼(かの)儒生へ咄しければ、夫(それ)は不宜(よろしからざる)取計(とりはからひ)なり、大きにわざわいを引出(ひきいだ)さんと嗟嘆(さたん)なしければ、何とてさる事あらんと思ひながら、歸りにも彼わたりにかゝりしに、まへの船長、大に喧嘩して往來の者に痕付(きずつけ)られ、其あたりさわがしければ、立寄りて尋ねしに、彼船長わたりのものへ船渡(ふなわたし)の無心をいひしに、聊かもあたへざりし故、さきに心有(ある)人は百文をあたへしもあるに、わづかの錢をおしむと、惡口なして口論におよび疵付けられしと聞(きき)て、誠に老儒生の格言なりと、ふかく感じけるとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせないが、前話の舞台である橋場・吉原と、この厩河岸は距離が近い。老婆心ながら、訳で用いた「酒手(さかて)」とは、人夫や車夫などに対して決められた賃金の外に与える金銭、心附けのことを言う。まあ実際、酒を買う駄賃となったのであろうが。更に言えば、それで一杯やっちまって酔って仕事をし、武士に絡んだとなれば、この若侍の「施し」は二重に罪が重くなろうというものではある。そのようなシークエンスで訳した。

・「御厩河岸」御厩の渡し。「御厩河岸の渡し」とも称され、現在の厩橋(台東区蔵前と墨田区本所間に架橋)付近にあった。ここから下流方向の台東区側川岸に幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側のこの付近にそれに付随する厩があったのでこの名がついた。元禄三(一六九〇)年に渡しとして定められ、渡し船八艘・船頭十四名・番人が四名がいたという記録が残る。渡賃は一人二文で武士は無料であった(これが本話のネックである)。明治七(一八七四)年の厩橋架橋に伴って廃止された(以上はウィキ隅田川の渡しに拠った)。

■やぶちゃん現代語訳

 仁ならざる仁に害のある事

 ある武家の若侍、御厩河岸(おうまやがし)を渡って本所の儒者の元へ通って御座ったが、ある冬、雪が降って、かの渡し辺り、尋常でなく、たいそう寒さも強う御座ったれば、若侍、船長(ふなおさ)が艪(ろ)取って寒き隅田川を押し渡して呉れたを、これ、深(ふこ)う哀れに思って、

「酒などにても求め、呑みて寒気を防ぐがよい。――」

と、懐より鳥目百文を取り出だいて与え、本所へと抜け、かくかくのことを、かの儒学の師へと話いたところ、

「……それは宜しからざる取り計らいじゃ。――きっと大きな禍(わざわ)いを引き出すであろう。――」

と、しきりに嘆いて御座れば、

『……どうしてそのようなことがあろうものか。我らは仁を施したに。……』

と思いながら、講義の終わって帰りにも、かの渡りを抜けんと致いたところ、何やらん、渡しの辺りが騒々しい。

 行き交(こ)うた町人に訊ねたところ――どうも、先の銭を呉れてやった船長(ふなおさ)が、何でも、ひどい喧嘩をして往来のお武家さまに傷つけられたとのことゆえ、渡しの番小屋に立り寄って、詳しく訊ねてみたところが……

……かの船長、こともあろうに、渡したさるお武家に、船渡(ふなわた)し賃を無心致いたところ、このお武家は、聊かの酒手(さかで)をも与えず、取り合わずに御座ったれば、

「……ヒック……ちぇ! さっきはよぅ、心ある御仁がよぅ……ヒック……ちゃあんとょ、 百文をもょ……呉れたによぅ!……ヒック……僅かの銭を惜しむ……貧乏侍じゃ!」

と悪口なしたによって、それを耳敏う聴きつけたお武家と口論に及び、抜き打ちに切られて御座った由聞き、

『……まっこと! 老儒者の言葉は金言で御座った!』

と、深(ふこ)う感じ入ったとのことで御座る。

西東三鬼句集「變身」 昭和二十六(一九五一)年十月―十二月 一九句

■句集「変身」
(三省堂より昭和三七(一九六二)年二月二十八日発行)

昭和二十六(一九五一)年十月―十二月 一九句

夏涸れの河へ機關車湯を垂らす

病院の奧へ氷塊引きずり込む

男の顏なり炎天の遠き窓

働くや根のみの虹を地の上に

蚊の聲の糸引く聲が鐵壁へ

低き細き噴水見つつ狂者守る

  松山七句

秋の航一尾の魚も現れず

月明の船中透る母呼ぶ聲

萩眞白海渡りきて子規拜む

ふるさとの草田男向うへ急ぐ秋

岩山に風ぶつかれり齒でむく栗

夜光蟲の水尾へ若者乙女の唄

飛行音に硝子よごるる北の風

靑年は井戸で水飮む百舌鳥叫ぶ

枯野の日職場出できし顏にさす

枯野の緣に熱きうどんを吹き啜る

蜘珠の糸の黄金消えし冬の暮

草枯るる眞夜中何を叫ぶ犬ぞ

一言芳談 六十六

   六十六

 顯性房云、小児の母をたのむは、またく其故を知らず、たゞたのもしき心あるなり。名號を信敬(しんぎやう)せんこと、かくのごとし。

2013/01/16

ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 3 司令部壕にて

 

□3 司令部

 

〇(前画面のF・O・のまま。音楽が消えて。)「スクヴオルツォフ! 将軍の元へ報告!」

〇司令部の防空壕。

内部から入口。入口手前右手に兵、外の奥に同じく哨兵。左へ回り込む塹壕の丸太で組んだ壁が見え、その上の空は偽装網が蔽っている。相当にハイ・クラスの将官がいることを窺わせる。入口内右の兵が、左手で入り口の左を支えながら、外の哨兵に向かって先の伝令を繰り返す。

内部の兵「スクヴオルツォフ! 将軍の元へ報告!」

外の哨兵が、

外の哨兵「スクヴオルツォフ! 将軍の元へ報告!」

と復誦しながら、左手を壕入口方向に振る。

左手から何も持たないアリョーシャが小走りで、緊張しながら、走り込んでくる。次のシーンで入口の部分には階梯があり、司令部内は壕よりもさらに六〇センチメートル程掘り下げられたものであることが分かるが、アリョーシャは、この階梯のすぐの所で立ち止まり、口を半ば開いたやや茫然とした表情で一瞬立ち止まり、奥(手前のオフの将軍)の方を畏れ多いものを眺めるようにし、しかし、すぐに気が付いて、くっと背筋を伸ばして敬礼をする――が――同時に壕の天井にヘルメットが音を立ててぶつかり、思わずハッとして、亀のように首を縮める。(この時、位置関係から先の右手にいる兵士は椅子に座っていることが分かり、更にこの時電話機を耳当てていることから、彼は哨兵ではなく、本部付の通信兵であることが分かる)。以下、殆んどのシーンで画面は壕上部の天井の丸太を背景とする。

 

〇壕の中(A)。

カメラ位置は後退し、手前に右手に将軍(横顔が見える。頭部に鉢巻のように包帯を巻いており、軽い負傷をしているらしい)、その背後に一人、将軍の陰に入っているが、ヘルメットを被った一人、やや離れて、入口の方に一人、皆、上級兵らしき人物がいる。(以下、(A)では画面一番奥には終始無電聴取作業をしている通信士の背中がある。一番実際には司令部壕にはもっといる)。

アリョーシャ、委縮したように、下方を見つめ、敬礼の手が下がってしまう。画面上では確認出来ないが副官と思われる壕内の一人が、

副官「彼です、将軍。」

と将軍に紹介する。

その声に、アリョーシャは恥じらうように面をゆっくりと上げ、右手も再度、力なく挙げて敬礼をしながら、おどついた白目のよく光る眼を将軍に向けつつ、ややくぐもった、やはり力のない怯えた声で、

アリョーシャ「自分はスクヴオルツォフ、軍規に則り、報告に参りました!」

この間、中景にいて見えている上級兵は、如何にも未だ少年の面持ちのアリョーシャに、やや呆れたという表情で、将軍の方を一度振り返る。

ユーモラスで少年の面影を残すアリョーシャを描いて出色のシーンである。ここで同時に彼の身長が普通のロシア人青年より遙かに高いことが分かる。

将軍「よろしい。――英雄、こっちへ!」

将軍、右手に持っていたコップを手前中央にある机に置き(この時画面全体が一瞬、カップと一緒に少しティルト・ダウンしてすぐ、今度は有意にティルト・アップし、右手の副官の顔がインする)、アリョーシャに質す。

将軍「最初から始めてもらおう。そして――何が起こったのかを――我々に説明して呉れ。まず――君は観測所にいたのだね?」

如何にも意気消沈して、すっかり俯いてしまって、

アリョーシャ「はい。……」

将軍「そして――何があった?」

この間も、中景の上級兵は、アリョーシャの上から下までを、やや疑わしげな目つきで舐めている。

 

〇アリョーシャを見つめる将官らしき二人。

入口方向からのバスト・ショット。二人の立ち位置は将軍のすぐ背後(画面の右手)。奥(すなわち将軍のすぐ脇)の副官らしき人物はやや年上、手前はかなり若い。しかし、若い副官の右胸には勲章が光っている。この若い方は(A)の一番右手の人物である。

ここに、少し離れた砲撃音が入る。

 

〇壕の中(A)。

アリョーシャ、実に自信なげに、時々、下を俯きながら、ぽつりぽつり、答える、先生に叱られている小学生のように。

アリョーシャ「同志将軍閣下……正直申し上げます……自分はかなり……怖かった……」

中景の兵が、再び『あれれ?』といった表情。

アリョーシャ「……奴らは……どんどん、追い詰めてきて……」

将軍「……そんなに怖がっていた君が――二台もの戦車を撃破した、と?」

アリョーシャ、ぐっと口を噤んだまま、二度ほど少年のようにコックリする。

 

〇将軍。

バスト・ショット。背後の机を隔てた向こうの左にさっきの二人の将官、右手にやや年をとったヘルメットを装着した兵が一人。

将軍「諸君、聴いたか? それなら――私は誰もが臆病になって欲しいぐらいだ!」

途中で、将軍は左の背後を振り向き、右手のやや年をとった兵の方を見て、左人差し指で頻りにアリョーシャの方(アングルから言うとこちら側の観客の左手方向)を指しながら、また正面に返る。

将軍「ちょっと待てよ。……ふはッ! あれだけのこと、一体、誰が出来たんだ? 君ではない、他の誰かがやったことか?……」

 

〇壕の中(A)。

俯いていたアリョーシャは、ゆっくり顔を将軍の方へ起して、少年の、ここは如何にも自身に満ちた笑みを口元に浮かべつつ、

アリョーシャ「……いいえ……それは自分です。」

ここで中景の将兵も笑顔になり、将軍の後ろの二人も顔を見合わせて笑っている。口々に、アリョーシャを讃嘆する声が壕内に響く。

 

〇壕の中(B)。

カメラ位置は高め(壕の入り口辺りから)。左手にアリョーシャの右上半身、中央下方に座る将軍周囲に将官。将軍直ぐに立ち上がりながら、

将軍「いい子だ! 今から君の名を公報に今から記す。」

将軍は、「いい子だ!」の直後から厳粛な態度になって起立、若き英雄への礼を示す。

将軍、後ろに振り返りながら、

将軍「スクヴオルツォフの名の記入を――」

と言って腰かける。この時、将軍すぐ脇にいたヘルメットを被った中年の兵が、アリョーシャに向かって優しい顔で、『やったな! 若いの!』といった感じで無言でこっくりとする(この後も二度、ちらっとアリョーシャを見る。細かな部分であるが、とても自然でいい演出である。特に二度目のそれは何か『おや?』という不思議な表情であって、観客には見えないアリョーシャの表情の何か普通でない雰囲気(単に褒賞を喜んでいるのではない表情)を、この人物を通して観客に暗示させる絶妙の効果がある。アリョーシャがこの直後に何かを起こすことが、この人物のちょっとした演出によって美事に示されているのである)。

ここでアリョーシャは軽く握った右手を下唇の部分に当てる。

奥の副官が、

副官「はい。将軍!」

と言って、既に用意して持っていた記録簿を差し出す。周囲の将官がテーブルの方に寄る。

将軍「素晴らしい……これは、特筆ものだな……」

副官、左肩に下げたカバンから万年筆を取り出す。

同時に、アリョーシャは下顎に当てていた右手を下に降ろす。

 

〇アリョーシャ。

バスト・ショット。顎に軽く握った右手を当てて、少し唇を開き気味で、自分の右側方をぼうっと見ていたアリョーシャは、さっと右手を降ろしながら、画面右手前の将軍の位置の方にその真剣な眼を向ける。(カメラはやや煽り)。画面から右手が消えて。〈この部分は優れた編集である。実は前のシーンとこのシーンは同時間を一秒強ダブらせているのである。こうして採録すると不自然に見えるが、実際には全く違和感がない。これは映画の編集の秘訣であって、繋がった一連のシークエンスの中のショットと次のショットを同時間の別アングルで繋げると、観客にはそれが繋がっていない、切れたもののように見えるのである。そのために、前のシーンとのダブりが実は必要不可欠なのである。〉

アリョーシャ「同志将軍閣下! 公報へ記載して戴き勲章を授与される代わりに……どうか、自分を……一時帰郷させ、母に逢いにいかせては、貰えませんでしょうか?」

 

〇将軍。(アップ)

前のアリョーシャの台詞の途中から、振り返る将軍の肩から上のアップに切り替わる。

アリョーシャの台詞が終わって、凝っと黙って見つめる将軍。

ここに遠い爆鳴。

 

〇アリョーシャ。(アップ)

アリョーシャのマスク・アップ。

ふっくらとした唇を閉じて次第に眼を下へ落すアリョーシャ。本当に少年のよう!

 

〇将軍。(アップ)

黙っている。左の眼尻が少し動く。数度、瞬きをした後、アリョーシャとは対照的な口髭を生やした薄い唇の端微かな笑みを含みながら、

将軍「……君は……幾つだ?」

 

〇アリョーシャ(バスト・ショット)

アリョーシャ「十九です。」

言った後に開いた口から歯をのぞかせる。少年の仕草のような、この演出が素晴らしい!

アリョーシャ「……出征する時……母に別れを言う暇(いとま)がありませんでしたから。……それと……家の屋根を直す時間を私にお与え下さい。……」

アリョーシャは言いながら、如何に勝手な願いであることを自覚したのであろう、当初の勢いが急速に萎えてゆき、眼がまた俯き勝ちになる。

 

〇壕の中(B)。

アリョーシャ「……どうか! 同志将軍閣下!……」

将軍、立ちあがってアリョーシャに近づく。カメラ、アリョーシャの右肩上方へと寄ってゆく。

将軍「我々の誰もが、故郷へ帰りたい。……しかし、我々にはここで成さねばならぬ義務があるのだ。……これは戦争だ。……そして、我々は兵士なのだ。……」

 

〇アリョーシャと将軍。

将軍は左の背後を画面右に。奥の入り口付近で哨兵がこちらを向き、上の方を警備しているのが映る。

アリョーシャ「自分は将軍の仰るようなとんでもないことを平気で言っているのではありません。……今、ここで休暇を戴けたらと……一日あれば、屋根を直して、必ず! 戻って来ます!」

将軍、やや険しい顔をしながら、左を向きながら後方を向く。カメラは同時に一緒に下がる。

何か考えている将軍。

『……とんでもないことを言ってしまった! でも、本心なんだ!』といった沈んだ、しかしどこかきっぱりとした真剣さに満ちた目を伏し目がちにしている、アリョーシャ。

将軍、ぱっと頭(かぶり)を左に短く鋭く振って。

将軍「よし! 我々はスクヴオルツォフを帰郷させてやろうじゃないか?!――」

 

〇将官二人。

これは、左が壕の入り口に最も近い位置にいた、(A)で最初アリョーシャをねめ廻していた人物、右が微妙な伏線的視線を何度も投げかけた兵士。

将軍(オフで)「屋根を修理することは大事だな?――」

二人、満面の笑顔で笑う。

 

〇アリョーシャと将軍。

パッとアリョーシャの方へ振り返る将軍。

将軍「しかし! 必ず時間通りに戻ってこい!」

真っ直ぐに将軍を見つめるアリョーシャ。将軍はややアリョーシャの左前方に回り込む。(カメラにアリョーシャをしっかりと映し出させるため)。

アリョーシャ「はい! 自分は!……同志将軍閣下!……自分は! 一秒たりとも! 長居しません!」

両手のボディ・ランゲージも飛び出し、アリョーシャはあまりの至福のために、眼が吊り上がって、言葉も昂奮のあまりたどたどしい。ウラジミール・イワショフ、絶品の少年性の演技である!

 

〇机の前のアリョーシャと将軍。

回りに寄る将官。画面の明るさを保つために、正面に、入り口部分が遮るものなく、撮られる。テーブル奥(壕奥)からやや煽り。

将軍「……ああ、分かった! 分かった! まあ、座れ! お前さんは、可愛い、運のいい少年だ!……」

アリョーシャ、さっきまで将軍が座っていた位置に座って、ヘルメットを直す。

将軍はその右手に座り直すと同時に右手の若い将官がさっと野戦用地図帳を差し出す。

将軍、地図帳を繰りながら、

将軍「君の行く先は?」

アリョーシャ「ゲオルギエフスクのサスノフスカ村です! 丸一日あれば!」[やぶちゃん注:「ゲオルギエフスク」Георгиевск。ここ(グーグル・マップ・データ)。「サスノフスカ村」キリル文字転写なら「Сосновска」か? 現在のゲオルギエフスク市や周辺を調べたが、見当たらなかった。]

アリョーシャは少年の笑顔で、浮足立っている。上がった息がちゃんと録音されている。

将軍「今の状況では……君の望みも含めると……一日ではとても無理だ……」

かなり近くで機関銃の連射音が二回。

将軍「――郷里への行きに二日――ここへ戻って来るのに二日――そして屋根の修理に――二日与える!――」

茫然とするアリョーシャ。

将軍「分かったか?!」

ふらふらと立ち上がりながら将軍から眼を離さないアリョーシャ。もう、眼がイっちゃってる!

最後の部分で将官たちも笑い合う。

茫然自失のアリョーシャ、辛うじて、

アリョーシャ「……同志将軍閣下!……」

間があって。

ゆっくりと敬礼するアリョーシャ。満面の笑みを浮かべながら、子供のように、

アリョーシャ「もう?……行って? よろしいですか?」

将軍(アリョーシャの左手をポンポンと叩きながら)「ああ!――行くがいい!」

走り出すアリョーシャ。入口の手前で、

将軍「しかし時間通りに戻って来い!」

振り返ったアリョーシャ、

アリョーシャ「了解! 同志将軍閣下!」

と言い終わるのももどかしく、さっと敬礼し、振り返って壕口の上長押にヘルメットをぶつけて、また亀のように首をすくめ、大急ぎで走り出て行く。

 

〇それを見送る将軍。(肩から上のアップ)

何度か軽く首を縦に振りながら、ずっと彼の去った方を見ている。

左やや上方を見つめ、表情が何か少し淋しそうに少し固く、そして真剣になる。

主題音楽がかかって。F・O・。

 

■やぶちゃんの評釈

 「いい子だ! 今から君の名を公報に今から記す。」という台詞は、日本語字幕では「でかしたぞ 勲章を与えよう」とあるのだが、英語字幕を見ると、“good boy! I’m putting you up for a citation.”で、この“citation”は、殊勲を立てた軍人の名前を『戦時公報』の中に特記することを謂う。勿論、叙勲もあるであろう。アリョーシャは勲章はいりません、その代わり……と将軍に求めたが、戦車二台を撃破する「特筆に値する」一人戦功であったが故に、彼は休暇とともに間違いなく勲章を手に入れたはずではある。

 最後の将軍の意味深長な表情は絶妙である。当時、これを見た多くの観客(戦後十五年、ソヴィエトでの壮年の観客の多くは多かれ少なかれ戦争体験者であった)は、それぞれの心象の中で、この将軍の淋しげな表情を、それぞれの実体験に即して、感じたに違いない。――ある者は、彼を父として見るかも知れない。この将軍は年齢から推してアリョーシャとそれほど変わらない子があったかも知れない(ある意味で、将軍に対するアリョーシャ自身が、この将軍に戦争に行って帰らなかった父の面影を見ているようにも思われる)。しかし、彼の子は既に大祖国戦争で「名誉の」戦死をしていたのかも知れない。将軍の頭部の傷は、そうした心傷(トラウマ)を外化したものともとれる。――また、ある者は、秘かにイエスを思い浮かべたかもしれない。即ち、この将軍の傷は聖痕(スティグマ)でもある。多くの若き兵士たちを戦場に散らせてしまった慚愧の念を秘かに内に秘めた、「大いなる罪」を背負った荊冠のキリストである。――また、ある者は、この映画の展開上の、これから始まる六日間の休暇が、とんでもないことになる不吉な予感、伏線として将軍の表情の曇りを読み取るかも知れない。そうして、それらは総てが「真」なのである。総合芸術としての映画芸術とはそうしたものである。文学シナリオには、ここでの将軍の微妙な心象をしめすト書きは一切ない。これはもしかすると、将軍役のニコライ・クリュチコフ自身が演出した演技なのではあるまいか? クリュチコフはミハイル・ロンムの一九五六年の名作「女狙撃兵マリュートカ」のコミッサール政治局員役などに出演している、いぶし銀の名脇優である。いい俳優をチュフライは将軍に選んだ。

 以下、文学シナリオを見てみよう。まず、完成作ではカットされている(だからと言って実際に撮影されなかった訳では、無論、ないから、各自がこのシーンを心の中で映像化してみることは、本作を鑑賞する上で、非常に価値がある)前段のシークエンス部分を見る。

   《引用開始》

 戦闘は終わった。歩兵は塹壕の守りを固めている。兵士たちは煙草をくゆらせ、アルミニュームの水筒から水を飲みながら乾パンをかじっている。負傷兵が運ばれる。若者は兵士達の輪の中に立っている。彼等は若者の肩を叩き、褒め讃え、冗談を言っている。しかし、若者は疲れ果て、さして陽気な風ではなく、戦友たちを眺め回している。

 ――おい兄弟、お前は強いんだな!……どうしてやっつけたんだ。

 ――才能だ!……。

 誰かがおどける。

 ――対戦車銃手がいい。通信員ではもったいない。

 ――そうだ、今頃は、敵のタンクをどのくらいやっつけていたかしれない!

 ――どうしたのだ?

 ――陽気な兵士が驚く。

 ――少尉が電話器のために彼を殴ったんだ。

 前に若者と塹壕の中にいた老兵が、事情を説明する。

 ――だがお前がタンクをやっつけたことを話したらどうなんだ。

 ――私は話した……。

 ――彼は何と言ったんだ。

 若者はしかたなさそうな身振りをした。

 ――少尉は今困っている。

 ――陽気な兵士は同情して話す。

 ――お前が悲しむことはない。当然、ほうびを貰えるだろう。タンク二台だからな!

 ――驚くべきことだ! お前がタンクから逃げようと思ったなんて馬鹿げている。正義のための死! ……これを人々はお前に教えた。

 軍曹が話す。

 若者は何にも答えない。

 向うから声が聞えて来る。

 ――おい! みんな、スクヴオルツォフ・アレクセイを見なかったか。……

 ――彼はここにいる。

 伝令があえぎながらやって来て、若者に告げた。

 ――スクヴォルツォフ、将軍が呼んでいるぞ!

 ――ほうらきた。

 スクヴォルツォフの老戦友は声をあげる。

 ――お前に言ったろう。後退すべきだって。電話器をなくした。それが災いしたんだ。

   《引用終了》

 ここで一つ大きな違いが分かる。すなわち、映画の戦場シーンで打ち殺される老兵は、シナリオでは生きているということだ。更に、アリョーシャは実は、帰還後に通信士として、通信機(電話機)を放棄したことを上官(少尉)によって難詰され、殴られているという「事実」である。「前に若者と塹壕の中にいた老兵が、事情を説明」して、その「老戦友は声をあげ」、シークエンスの最後で、「お前に言ったろう。後退すべきだって。電話器をなくした。それが災いしたんだ」という台詞がそれを物語る。

 しかし、これはなくてよかった(映画では老兵は死んで、より、アリョーシャの対戦車戦の「真」性はいよよ、高まるからである。しかも実際にイメージしても、このシークエンスは明らかに不要である。しかし――事実としての展開としてはあることが「真」であるとも言えるのである。

 以下の文学シナリオを見る。

   《引用開始》

 将軍の司令部。遠くからでも、彼のよく響く声が聞こえる。

 ――おもちゃで遊んでいるのか。まるで幼稚園だ。何故、適時に砲火を開かなかったのか。何を待っていたのだ……。

 アレクセイは伝令と一緒にすぐ近くで、将軍を見ている。将軍はひっくりかえした箱に腰掛けている。参謀部の将校と部隊の指揮官が彼を取り囲んでいる。

 ――賢人諸君!

 将軍は彼等を叱責し続ける。

 ――側面を暴露した。歩兵は置き去りにされた。どうだね。

 ――将軍、私はすでに貴方に申し上げましたが、そこには機関銃手隊がいたのです。それは全滅したのです……。

 ――将軍、みんな疲れています……。

 ――それは知っている。しかし、それによって正当化はできない……。

 将軍はしばらく黙っていたが、また別の調子で話した。

 ――今夜、第六師団がわれわれと交替する……。ところで、スクヴォルツォフはどこかね。

 アレクセイは前に出て敬礼し、申告した。

 ――スクヴォルツォフ兵士、命令により参りました!

 将軍はじっと彼を見た。

 ――どんなことが君の周りで起ったか話してくれ。君は確か監視所にいたんだったね。

 ――そうです。

 ――どうだったんだね。

 アレクセイは、意を決して話した。

 ――私は偽りなく申し上げます。将軍、私はおじけづきました……。すでにすぐ近くまで彼等が来ていたのです……それで……。

 アレクセイは、すまなさそうに頭を垂れた。そして再び頭を持ち上げると、将軍を見ながら言った。

 ――私はおびえました。

 ――それで君は、おびえてタンク二台をやっつけたのかね。

 将軍はほほえんだ、

 まわりの将校達も笑った、

 アレクセイは周りを見まわし、笑っている将校の顔を眺め、自分も同じようにほほえんだ。

 ――恐しかったからかね。

 将軍は繰り返した。

 アレクセイはあわててうなづいた。将軍は満足そうであった。

 ――みんながこんな風におじけづいてくれれば有難いが……!

 彼は冗談を言った。

 周りで、再びどっと笑った。

 アレクセイは、どぎまぎする自分を押えつけようと努力した。

 ――そうではなかろう。

 突然、将軍が言った。

 ――恐らくそうだとすれば、タンクをやっつけなかったにちがいない。では、ほかの誰がタンクをやっつけたのかね。

 彼の目は明るく輝やいていた。

 ――私です……

 アレクセイは納得させるように答えた。

 ――将軍、私は壕にかけ込んだ時に見ました。敵がやってくるのです。私の方に真っすぐ。そしてどんどん来るのです。……私は対戦車銃をやっと見つけ、それをつかんで敵に射ち込みました。すると燃えあがりました。それは私のすぐ近くにいたのです。そして、それから二番目のに射ち込みました。それは少し遠いところにいました……。

 みんなはまた大声で笑った。

 ――若者よ。君が勲章を貰えるように申告しよう。

 将軍は言った。そして、老士官に向ってせかせるように言った。

 ――記録しなさい。

 突然、スクヴォルツォフは言った。

 ――将軍、勲章のかわりに母に会いに行ってはいけませんか。

 将校達はちょっと首を振って微笑した。

 将軍は注意深くアレクセイを見ていたが、同じように微笑し、彼に質問した。

 ――君は幾つかね。

 アレクセイは答えた。

 ――十九才です。将軍、私は前線に出動する時、母に別れを告げて来なかったのです。屋根が壊れたと手紙で言って来ました。将軍、どうか、一日休暇を下さい。

 将軍は考えていた。

 ――家に行くことは悪くない。だが、スクヴォルツォフ、我々を戦場に残してはいけない。今は戦争だ。君も、我々も、共に兵隊だからな。

 ――私は戦場から別れようとしているのではないのです。将軍、休暇を頂くだけですから。一日だけでよいのです。屋根を修理すればすぐに帰って来ます。……

 ――では、スクヴォルツォフに休暇を与えるように。……

 将軍は快活に言った。

 ――将軍! ……私は……

 アレクセイは、うれしさに息をはずませて言った。

 ――将軍、私は一所懸命に闘います。

 ――もう、よい。

 将軍は彼の言葉をさえぎり、嘆息し、うらやましそうに言った。

 ――スクヴォルツォフ、君は運がよい。君の故郷はどこかね。

 ――私の故郷は、ゲオルギエフスクのサスノフカ村です。一昼夜かかるでしょう。

 ――いいや、私の兄弟よ、今の時代では一昼夜はむりだ。往復で四昼夜与えよう。それからもう二昼夜。どうだ、満足かね。

   《引用終了》

最後の部分は極めて小説的なエンディングで、シナリオが専ら「文脈」のみを意識して、その結果生じてしまった「非現実性」「不連続性」を――映像は美事に「現実」と「自然な時間的と引き戻している! 私はこれ以上のつまらぬ謂いをここに語る必要を、認めないのである。]

西東三鬼句集「今日」 昭和二十六(一九五一)年七月まで 六〇句 / 「今日」了

昭和二十六(一九五一)年七月まで 六〇句

頭覺めよ崖にまざまざ冬木の根

歩くのみの冬蠅ナイフあれば甜め

[やぶちゃん注:底本には「甜め「甜」の右に編者のママ表記がある。ここは「なめ」だから「舐め」とあるべきところ。朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)では「舐め」とする。]

煉炭の臭き火税の紙焦す

屋上を煤かけめぐる醫師の冬

冬耕をめぐり幼な子跳ね光る

冬日見え鴉かたまり首伸ばす

硝子戸が鳴り出す林檎食はれ消え

父掘るや芋以上のもの現れず

聲太き牛の訴へ寒靑空

對岸の人と寒風もてつながる

寒の重さ戰の重さ肢曲げ寢る

  靜塔カトリツク使徒となる 四句

腦天に霰を溜めて耶蘇名ルカ

洗禮經し頭を垂れて炭火吹く

ルカの箸わが箸鍋の肉一片

同根の白菜食らひ友は使徒

わが天使なりやおののく寒雀

[やぶちゃん注:底本では「おののく」の「お」の右に編者のママ表記がある。]

鳶とわが相見うなづく寒の晝

遠く來し飛雪に額烙かれたり

寒中の金のたんぼぼ家人に見す

下界を吹くごとし火鉢を鷲摑み

戀猫の毛皮つめたし聖家族

寒入日背負ひて赤き崖削る

孤兒の獨樂立つ大寒の硬き地に

吹雪を行くこのため生れ來し如く

水飮みて激しき雪へ出で去れり

犬眠る深雪に骨をかくし來て

野を燒く火身の内側を燒き初む

たんぽぽ地に張りつき咲けり飛行音

血ぬれし手洗ふや朝の櫻幽か

夜の櫻滿ちて暗くて犬嚙み合ふ

春が來て電柱の體鳴りこもる

空中に電工が咳く朝の櫻

電工や雲雀の空に身を縛し

靑芽赤芽を煙硝臭き雨つつむ

菜種星をんなの眠り底知れず

ボートの腹眞赤に塗るは愉快ならむ

鐡路打つ工夫に菜種炎え上り

斑猫(はんめう)が光りゴム長靴乾く

   九州十三句

若き蛇跨ぎかへりみ旅はじまる

黒く默り旅のここにも泥田の牛

ラムネ瓶太し九州の崖赤し

  淸光園療養所 一句

肺癒えよ松の芯見て花粉吸ひて

[やぶちゃん注:「淸光園療養所」福岡県古賀市千鳥の千鳥ケ池周辺にあった国立清光園福岡県結核療養所。昭和三十七(一九六二)年に国立福岡東病院に統合され、現在は古賀市立千鳥小学校が建っている。]

沈みゆく炭田地帶雷わたる

風白き石灰臺地蠅飛び立つ

炭坑の蠅大々と地に交む

眞黑き汗帽燈の下塗りつぶす

塊炭をぶち割る女午後長し

神が火を放つ五月の硬山(ぼたやま)に

何か叫ぶ初夏硬山のてつぺんに

生きものの蜥蜴が光る硬山に

五月雨の泥炭池(でいたんいけ)に墜ちるなよ

若者の頭が走る麥熟れゆく

麥藁の若き火の音水立ち飮む

胸毛の渦ラムネのノ瓶に玉躍る

横向きの三日月ツツと花火揚がる

忙しき蜘蛛や金星先づ懸る

田の上の濁流犬が骨嚙じる

[やぶちゃん注:底本では「嚙じる」の「嚙」の右に編者のママ表記があるが、これで「かじる」と訓読出来るのでおかしくない。]

梅雨はげし百足蟲殺せし女と寢る

棒立ちの銀河ひげざらざさ唄ふ

後記

 この句集は戰前の「旗」戰後の「夜の桃」につづく私の第三句集である。

 内容の作品は昭和二十三年一月から二十六年七月までの「天狼」に主として發表したもので、私はその間神戸市山本通、兵庫縣別府、大阪府寢屋川市と轉々と居を移した。その度に職を變じた。

 既刊「夜の桃」の内容は、昭和十五年から二十年までの、強ひられた沈默の後であつたので、甚だ餞舌であつた。それに對して俳壇は拍手したのであつた。この句集の内容は、その同じ作者が、前著の態度を改めようとしつつ成したもので、それに對して俳壇は「三鬼は疲れてゐる」と評した。私自身はこの評に服しない。

 俳句作家にも What is life? How to live? の二つの態度がある。所謂進歩的態度は後者である事勿論であるが、私は前者に徹したいと思つてゐる。私には「生き方」のお手本を俳句をもつて指示する勇氣はない。前者に徹する事は後者に通じてゆくと思つてゐる。

 二十年來の同行者平畑靜塔氏に序文といふものを書いて貰つた。も一人の同行者三谷常にも賴みたかつたが、忙しそうだから止めた。私が今日、俳句に熱情を持ち續けてゐるのは、良き、古き仲間があるからである。

                  西東三鬼

[やぶちゃん注:底本では「も一人」の「も」及び「忙しそうだから」「そ」の右にママ注記がある。]

一言芳談 六十五

  六十五

 

 顕性房云、むかしは後世をおもふ者は、上﨟(じやうらう)は下﨟(げらう)になり、智者は愚者になり、徳人(とくにん)は貧人(ひんにん)に成(なり)、能あるものは無能にこそ成しが、今の人はこれにみなたがへり。我は高野にはじめも中比(なかごろ)もひさしくありしかども、梵字一もならはず。名利を捨るならひには、ある能をだにもこそ捨つれ、ならふ事はうたてしきことなり。我は三十餘年、さ樣のこと知らじとならひしなり。よく捨つれば、すてぬものゝ樣にてあるなり。名利を捨(すつる)といへばとて、同行(どうぎやう)をはぢず、紙衣(かみぎぬ)ひとつもとめて、きるほどの事を、いふにはあらず。これ程の名利は後世をたすくるなり。

 

〇上﨟は下﨟になり、出家の後、年をへて、位たかきを上﨟といひ、下座の僧を下﨟といふなり。

〇德人、財(たから)多き人なり。

〇名利を捨つるといへばとて、徒然草(つれづれぐさ)に云、そのうつはものむかしの人に及ばず、山林に入りても、餓(うゑ)をたすけ、嵐(あらし)をふせぐよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから世をむさぼるに似たる事も、たよりにふればなどかなからん。

 法然云、自身安穩(あんのん)にして、念佛往生をとげんがためには、なに事もみな念佛の助業(じよごふ)なり。

 要集云、凡夫行人、要須衣食。此雖少緣、能辨大事。裸餧不安、道法焉在。

 

[やぶちゃん注:本条は「徒然草」第九十八段の「一言芳談」の五つの引用の四番目に、

 一、 上﨟は下﨟になり、智者は愚者になり、德人(とくにん)は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。

と引用されている。

「さ樣の事知らじとならひしなり」そのようなことは決して知ろうとはすまい、と心に念じて修行して来たのである、の意。

「よく捨つれば、すてぬものゝ樣にてあるなり」非常に核心を衝く言葉である。

――『よく捨てる』ということが出来れば、『何も大事なものは捨てていない』ということと同じことになるのである――

そして……遂に顕性房は波状的に迫ってきた核心を、「論理的に」、そして

――決してそれはストイックで狂信的なものではないよ――

と優しく述べるのである。即ち「名利を捨といへばとて、同行をはぢず、紙衣ひとつもとめて、きるほどの事を、いふにはあらず。」……このパラドックスは凄い! この「あらず」は「同行をはぢず、紙衣ひとつもとめて、きるほどの事」を条件として捨象するのである!

――『名誉や利益を捨てる』と言っても――よいか? それはともに歩んでいる修行者に対して恥ずかしくない振舞いをすることに拘ったり、殊更に紙衣一枚だけを求めてそれしか纏わぬといった極限の生活をすることなどを、『云うのではない』――

と言うのだ! さらに、彼は我々に「これ程の名利は後世をたすくるなり」と言い添えて、我々自身に「選択」(これは「せんじゃく」ではない。現在的な意味での「せんたく」である!)

――こういった程度の「名利」であるなら――逆に寧ろ、「あなた」が極楽浄土へ赴く階梯を心安らかに進むことの、これ、助けとさえなるものである。――

即ち、ここで彼は実に、

――ともに歩んでいる修行者に対して恥ずかしくない振舞いをすることに拘ったりするな!――自分の思うように、己れにあった、己れのための、己れだけの「遁世」を選ぶことが肝要じゃ!

――殊更に紙衣一枚だけを求めてそれしか纏わぬといった「ステロタイプの極限の生活」をすることなどを考えるな!――己れにあった、己れのための、己れだけの「極限のライフ・スタイル」を選ぶが一番じゃ!

と言っているのである、と私は思うのである。但し、ここには前提がある。それが「六十」から「六十四」までのエピグラムの縛りである。

――「南無阿弥陀仏」の声への没入

――阿弥陀仏の大慈悲への完全なる投企

――阿弥陀仏への唯一無二の救済欣求の思い

――ありのままの素直な念仏への専心

――不断の死を急ぐ心構え

である。これらを摑んだ果てにある「遁世」は、自ずと各個人の自由自在なものとなる――と顕性房は断じている――と私は読む。

 これは恐らく大方の浄土教学の識者から批判を受けるものであろうことは覚悟している。しかし、彼の文脈は確かにそうだ、と私は殆んど信仰に近い確信を持っている。それは、次の「六十六」で明らかになるであろう。――だからこそ実は湛澄のこれらを完膚なきまでにばらばらに切り離してばら播いてしまった「標注一言芳談抄」は、「用心」の冒頭に置かれたこの条だけを際立たせる危険性を孕み、それはあたかも「末法燈明記」が、その具体でセンセーショナルな部分にのみスポットが当てられて邪教の書として大方の批判を浴びたのと同じような、「一言芳談」は仏教の否定に繋がる(ネット上の自称宗教家と思しい方々の幾つかの感想をご覧になれば分かる)というような「危険がアブナイ」認識を産み出すことともなったように私には思われる。

「徒然草に云、そのうつはものむかしの人に及ばず……」「徒然草」第五十八段。まず、以下に全文を引く。

 「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる營みのいさましからん。心は緣にひかれて移るものなれば、閑(しづ)かならでは、道は行じ難し。

 その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓(うゑ)を助け、嵐を防ぐよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たることも、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背(そむ)けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下(むげ)のことなり。さすがに、一度、道に入りて世を厭(いと)はん人、たとひ望(のぞみ)ありとも、勢(いきほひ)ある人の貪欲(どんよく)多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣(ころも)、一鉢(いつぱつ)のまうけ、藜(あかざ)の羹(あつもの)、いくばくか人の費(ついえ)をなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、惡には疎く、善には近づくことのみぞ多き。

 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提におもむかざらんは、萬(よろづ)の畜類に變るところあるまじくや。

・「げには」本当のところ、厳密な謂いをするならば。

・「何の興ありてか」なにが面白くて。「か」は反語であるから、「いさましからん」の結びは「~に精出すなどとことがやっていられようか、いや、やってらんねえ!」というのである。

・「たよりにふれば、などかなからん」場合によっては「世を貪るに似」て見える、というようなことも、どうして「ない」と言えよう、確かにそのようなことも「ある」であろう、の謂い。ここはそうした「見た目」は許容している。それはある意味で顕性房の、ここでの『数条の一連の謂い』を確かにつらまえたものであると私は思う。

・「さすがに」何と言っても。真の遁世の心構えの前提があれば、という限定である。

・「藜の羹」「藜」ナデシコ目ヒユ科Chenopodioideae亜科Chenopodieae 連アカザ属シロザの変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum 。一年草。空き地や路傍に生え、高さ約一・五メートル。茎は堅く、葉は菱形に近い卵形、縁は波状で若葉は紅色を呈し、食用。アカザ科の双子葉植物は草原・荒地・塩分の多い土地などに生育し、ホウレンソウなども本科に含まれる。「羹」は吸い物・汁で、「藜の羹」で粗末な食事の意。

・「いくばくか人の費をなさん」いったい、他人にどれほど、迷惑をかけると言うのか、いや、それは全く以って大したものではない、の意。顕性房の『数条の一連の限定』の範囲内では有意な問題性を生じない、さすれば「求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし」ということになるのである。

・「かたちに恥づる所もあれば、さはいへど」「さ」は遁世の戒を守っている状況の中から生ずる最低限の欲求を言う。――僧形を成しておれば、相応の慎みもあればこそ、何かこうしたいという思いがあっても、の意。

「要集云、凡夫行人、要須衣食。此雖少緣、能辨大事。裸餧不安、道法焉在。」以下にⅠの訓点を参考に書き下したものを示す。

 要集に云はく、「凡夫の行人、須らく衣食を要す。此れ少緣と雖も、能く大事を辨ず。裸餧(らね)にして安からずんば、道法焉(いづ)くにか在らん。」と。

これは源信の「往生要集」「第九」の冒頭の問答の「問」である。以下に問答部分の原文・書き下し文・現代語訳を示す(原文・書き下し文・現代語訳ともに一九七二年徳間書店刊花山勝友訳「源信 往生要集」を参考にしたが、正字正仮名に代えてある)。

第九助道資緣者

問。凡夫行人 要須衣食 此雖小緣 能辨大事 裸餧不安 道法焉在。

答。行者有二 謂在家出家 其在家人 家業自由 餐飯衣服 何妨念佛 如木 經瑠璃王行 其出家人亦有三類 若上根者 草座鹿皮 一菜一菓 如雪山大士是也 若中根者 常乞食糞掃衣 若下根者 檀越信施 但少有所得 即便知足 具如止觀第四 況復若佛弟子 專修正道 無所貪求者 自然具資緣 如大論云 譬如比丘貪求者 不得供養 無所貪求 則無所乏短 心亦如是 若分別取相 則不得實法 又大集月藏分中 欲界六天 日月星宿 天龍八部 各於佛前 發誓願言 若佛聲聞弟子 住法順法 三業相應 而修行者 我等皆共 護持養育 供給所須 令無所乏 若復世尊聲聞弟子 無所積聚 護持養育 又言 若復世尊聲聞弟子 住於積聚 乃至三業與法 不相應者 亦當棄捨 不復養育。

〇やぶちゃんの書き下し文

第九に助道の資縁とは。

問ふ。

凡夫の行人は、要(かなら)ず衣食(えじき)を須(もち)ふ。此れ、小緣なりと雖も、能く大事を辨ず。裸餧(らね)にして安からずんば道法焉(いづくん)ぞ在らん。

答ふ。

行者に二つ有り。謂はく、在家と出家となり。其の在家の人は家業(かごふ)自由にして、飡飯(さんぱん)・衣服(えぶく)あり。何ぞ念佛を妨げん。「木槵經(もうがんきやう)」の瑠璃王(るりわう)の行(ぎやう)のごとし。其の出家の人に、亦、三類有り。若し、上根の者は、草座・鹿皮(ろくひ)・一菜・一菓なり。雪山(せつせん)の大士のごとき、是れなり。若し、中根の者は、常に乞食(こつじき)・糞掃衣(ふんざうえ)なり。若し、下根の者は、檀越(だんをつ)の信施(しんせ)なり。但し、少しく少しく得る所得有れば、即便(すなは)ち足るを知る。具さには「止觀」の第四のごとし。況んや復た若し佛弟子にして、專ら正道(しやうだう)を修(しゆ)して、貪求(とんぐ)する所无(な)き者は、自然に資緣を具す。「大論」に云ふがごとし。『譬へば比丘の貪求する者は供養を得ず、貪求する所无きは、則ち乏短(ぼふたん)する所无きがごとし。心も亦、是(か)くのごとし。若し分別して相を取らば、則ち實法を得ず。』と。又、「大集」の月藏分の中に、欲界の六天、日・月・星宿、天・龍八部、各々佛前に於いて誓願を發(おこ)して言はく、『若し佛(ほとけ)の聲聞(しやうもん)の弟子の、法に住し、法に順じ、三業(さんごふ)相應して而(しか)も修行せん者を、我等皆共に護持し、養育し、所須(しよしゆ)を供給して、乏(かく)る所无からしめん。若し復た、世尊の、聲聞の弟子の積聚(しやくじゆ)する所无きをば護持し養育せん。』と。又、言はく、『若し復た、世尊の聲聞の弟子の、積聚に住し、乃至(ないし)三業と法と相應せざらん者は、亦、當に棄捨すべく、復た養育もせず。』と。

〇やぶちゃんの現代語訳

 第九に助道の資縁とは。

 問う。

 凡夫の修行者は、必ず衣食を必要とする。これは、小さなものではあるけれども、よく大事に備えるものである。裸で餓え凍え、不安なままであれば、どうして悟りの道を開くこことなど出来ようものか。

 答えよう。

 行者にも二種あるのだ。すなわち、在家と出家とである。そのうちの在家の人は家業を自由に営むことが出来、食物も衣服もあるゆえ、そのことが念仏の妨げをすることは、これ、ない。「木槵経(もくがんきょう)」に記された瑠璃王の成した念仏の行のようなものである。次に、出家には、さらに三種がある。上の位の能力を持す者は、草を敷いて座と成し、鹿の皮を纏い、一菜の菜(な)と一顆の果実を食す。雪山大士(せっせんだいし)のような御方がこれに当たる。中の位の能力を持す者は、常に他者に食を乞い、襤褸を集めた糞掃衣(ふんぞうえ) を着る。下の位の能力を持す者は、信者の施しを受ける。――尤も、ほんのわずかなものを貰っただけで満足することを知っている。詳しくは「摩訶止観」の第四巻にある通りである。

 まして、もし仏弟子として、専ら正道を修め、貪り求むる心がないとなれば、自然、衣装などの生活ので本当に必要なものというものは揃うのである。「大智度論」に、以下のように謂われておる通りである。『例えば、出家で貪り求むる者は供養が受けられず、貪り求むることのない者は、何一つ欠けることがないように、心もまた同じすなわち、もし、対象を差別区別して執着すると、仏法の真実の姿は得られぬ』と。

また、「大集経」の「月蔵分」の中にも、欲界の第六天の王たちである、日月星宿や天竜八部の守護神などが、それぞれ仏の前で誓願を起こして、「もし、仏の声聞(しょうもん)の弟子で、教えの通りに実践し、身・口・意の三業の行為がこれに叶って修行しておる者であれば、我らは皆、ともにその者を護り育て、その者に必要な物を布施し、不足のないようにするであろう。また、もし、仏の声聞の弟子で、貪り蓄えることのない者は、必ず護り育てるであろう。」と述べたことが載っている。また、次のようにも説かれてある。「もし、また、仏の声聞の弟子で、貪り蓄え、そして三業が教えと一致しない者は、また、これを見捨てて、養育することもせぬ。」と。

・「木槵経」一巻。訳者不詳。 修め易い行法を求めた毘舎離(びしゃり)王のために、仏が木槵子 (むくろじ) の実で作った数珠を以って三宝の名字を唱念することを勧めたことを記す経。

・「雪山大士」「三宝絵詞」に『昔の雪山童子は、今の釋迦如來なり。「涅槃経」に見えたり』とある。]

2013/01/15

2進法

僕はずっと「0」でありたかったのに――気がつけば――いつも「1」でしかなかった。

耳嚢 巻之六 采女塚の事

これは恐らく今までにない僕の「耳嚢」の注の有機的な増殖であった気がする――



 采女塚の事

 橋場(はしば)宗泉寺(そうせんじ)の邊に采女塚(うねめづか)といへるありと傳へぬれど、いまはをぼろに誰(たれ)しる人もなし。或(ある)老人の語りけるは、いにしヘ吉原町の遊女に采女といへるありしが、あたり近き寺の所化(しよけ)、右の采女をふと見初めてせつに思ひ慕ひしが、元より貧敷(まづし)き僧なれば、かゝる全盛の遊女に馴染逢(なじみあは)ん事もかたかりけるを、愁ひ忍(しのび)かねてや、彼(かの)くつわやの格子に來りて采女をしたひ自殺して失(うせ)ぬるを、いかなる者にやと懷中抔見しに、采女をこふるわけなどかき置けるを、采女きゝて、かく命を捨て戀(こふ)るとなん、いかにせん方もあるべきと、深く歎きてふし沈みしが、或夜うかれ出て、彼(かの)僧は橋場あたりに葬りしと聞(きき)て、其頃までは鏡ケ池なども廣く深くもありしや、一首の歌を、かたえなる松に殘して入水しておわりぬと、人の語りしが、其歌は

  なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば

□やぶちゃん注

○前項連関:天皇の発句から吉原妓女の辞世和歌で、雲上から急転直下、苦界へと続く詩歌譚として連関。

・「采女塚」底本の鈴木氏注に、『三村翁注に「宗泉寺は総泉寺なり、同所同寺末明星山寺の門前に、采女塚の碑蜀山人筆にて建ちてありしが、文字漫漶して読み難かりし、今はや癸亥の震災ありて、其碑も如何なりしやと、大正七年写したる全文を録す。―采女塚。寛文の頃、新吉原の里、雁かね屋の遊女、采女かもとに、ひそかにかよふ(剝落)かたくいましめて、近つけざりしかは、その客、思ひの切なるに堪す、采女か格子(下剝落)采女その志を哀み、ある夜家を忍ひ出て、浅茅か原のわたり、鏡か池に身(剝落)此里の美人なりしとそ、かたへの松に小袖をかけて短冊をつけたり、名をそれとしらすともしれさる沢のあとをかゝみか池にしつ(剝落)そのなきからを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わか兄牛門(剝落)それさへ失ぬれは、こたひ兄の志を継て、石ふみにゑり置ものならし。文化元年甲子六月駿州加島郡石川正寿建。金之竟合(鏡)水也相比(池)綵之無絲(采)嬉而不喜(女)士可以□(塚)言可以己(記)車之所指(南)毎田即是(畝)一人十日(大田)潭辺無水(覃)此外に歌二首、碑陰にも仮名文彫りたれど、よみ難かりし、傍に老松ありて、掛衣松碑建ちてありき。」「名をそれと」の歌の第五は「池にしづめば」である。漢文の部分は、孝女曹蛾の死をとぶらって建てた黄絹幼婦の碑文にならった謎語である。』と記しておられる。なお、引用部の『毎田即是(畝)』の『是』の右には(引用元か鈴木氏のものかは判然としないが)『(久カ)』という傍注が附されている。

 さても実は、この碑文は、加藤好夫氏の「浮世絵文献資料館」のここの資料によって全貌が知れる。即ち、万延元 (一八六〇)年序になる石塚豊芥子編「街談文々集要」の文化元(一八〇四)年の記事中の「倡妓采女墳」である。以下に恣意的に正字化して示す。

文化元甲子六月、淺茅ヶ原鏡ヶ池ニ、傾城采女碑建

  采女塚

寛文の比、新吉原雁がね屋の遊女采女がもとに、ひそかにかよふ客ありけるを、其家の長、かたくいましめて近づけざりしかば、その客思ひの切なるに堪ず、采女が格子窓のもとに來りて自害せり、采女その志を哀ミ、ある夜家をしのび出て、淺茅ヶ原のわたり鏡ヶ池に身を沈めぬ、時に年十七にして、此里の美人なりしとぞ、かたへの松に小袖をかけて短册を付けたり。

  名をそれとしらずともしれさる澤のあとをかゞみが池にしづめば

そのなきがらを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わが兄牛門の如水子、札に書しるして建置しが、それさへ失ぬれば、こたび兄の志を繼て、石ぶみにゑり置ものならし。

  文化元年甲子六月   駿河加島郡 石川正壽建

(以下、碑陰の文あり、略)

以上の記載と複数のネット上の情報から整理したい。まず、当該の采女塚の碑は現存していることが分かった。以下、三村氏の注その他について、幾つかの語注(●がそれ)を附しつつ、以下に解説をすると、

●現在の碑の在所は、台東区清川にある曹洞宗明星山出山寺(しゅっさんじ)で、三村氏の『明星山寺』が脱字であることが分かった。ここの辺りが元の采女塚であったと考えてよいと思われる(何故なら、以下に示す如く「鏡ヶ池」の跡地が直近にあるからである)。なお、本文の「宗泉寺」=総泉寺はウィキの「総泉寺」に現在、『東京都板橋区にある曹洞宗系の単立寺院。山号は妙亀山』で、『この寺は当初浅草橋場(現在の台東区橋場)にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(一五五五年~一五五八年)千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった。一九二三年(大正一二年)の関東大震災で罹災したため、昭和三年に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至る』とし、『大善寺は十五世紀末の開山にして「江戸名所図会」にも載るほどの有名な寺であり、現在境内に残る薬師三尊(清水薬師。伝・聖徳太子作)こそが、元の大善寺の本尊である』とあってどうも何だか妖しげな背景が複雑な移動の背後には感じられる気はする。現代語訳では正しい「総泉寺」で採った(因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は正しく「総泉寺」とする)。

●「漫漶」は「まんくわん(まんかん)」と読み、文字などが時を経て、擦れてはっきりしないこと。

●「癸亥の震災」は大正一二(一九二三)癸亥年九月一日の関東大震災を指す。

●「其碑も如何なりしや」この碑の受難は続き、その後、第二次世界大戦でも戦火を浴びて、現在は更に輪をかけて判読が難しくなっている模様である。

●「寛文の頃」西暦一六六一年~一六七三年。「耳嚢」の本文には時代特定がないから、これは重要である。

●「雁かね屋の遊女、采女」同じく加藤好夫氏の「浮世絵文献資料館」の「辞世集 その他」からの孫引きであるが、明治二十七(一八九四)年刊の関根只誠著「名人忌辰録」下巻の二頁に、

采女 遊女

新吉原京町雁金屋徳右衞門抱散茶。柴又村に生る。淺茅が腹鏡が池に身を投じて死す。寛文九酉年八月十六日なり。歳廿一。同所出山寺に葬る。

辭世 名をそれといはずともしれ猿澤のあとを鏡が池にうつして

と載る旨の記載がある(恣意的に正字化した)。私は都合、采女の辞世の六ヴァージョンが手元にはある。以下に並べて見よう。まず、一つは後掲する「江戸名所図会」(天保七(一八三六)年刊)所収の歌。

   名をそれとしらずともしれ猿澤のあとをかがみが池にしづめば

それと全く変らない底本の三村注の歌(鈴木氏の補正を加える)。

   名をそれとしらすともしれさる澤のあとをかゝみか池にしづめば

そして、本「耳嚢」所収の歌。

   なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば

さらに、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の歌。

   なをそれと問はずともしれさる澤の影をかゞみが池に沈めば

最後に、現存する碑の写真もある「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」によれば、投身の翌朝、草刈り人達が見つけたという短冊には、

   名をそれとしらずともしれさる澤のあとをかがみが池にしずめば

とあるから、少なくとも碑面に彫られた歌は、表記ともにこの最後に示したものが実歌と考えてよいであろう。加えて附すなら、岩波版長谷川氏注では「江戸砂子 二」に基づき、『吉原堺町』という吉原内の詳細町名が記されており、更にそこでは投身当時の年齢が十七歳となっており、碑文でもそうである。采女の享年は十七、満十六歳のこの入水は如何にも哀れを誘うが、実没年齢は「名人忌辰録」の方が本話の筋から見るならリアルな気はしないではない。なお、関根氏の記載にある散茶(さんちゃ)とは吉原の遊女の階層の一つである散茶女郎のことで、揚屋入りはせずにその家の二階で直接客を取った遊女を言う。ウィキの「散茶女郎」より引用しておくと、『太夫、格子の下であり、梅茶の上。昼のみ揚げ代、太夫三七匁(三・七両)、格子二六匁(二・六両)についで散茶は金一歩(〇・二五両)であった。「洞房語園」には、「格子は太夫の次、京都の天神に同じ、大格子の内を部屋にかまへ局女郎より一ときは勿体をつける局に対して、紛れぬやうに格子といふ名をつけたり。局女郎一日の揚銭二十匁(二両)なり、但し、寛文年中散茶といふものが出来て、揚銭も同じく百匁(一〇両)になる。局の構へやうは表に長押をつけ、内に三尺の小庭あり。局の広さは九尺に奥行二間、或は六尺なり」とあり、貞享の「江戸土産咄」には、「近頃より散茶といひて、太夫格子より下つ方なる女中あり、大尽なるは揚屋にて参会し、それより及ばざるは散茶の二階座敷にて楽しむ」とある。「傾城色三味線」は「散茶とはふらぬといふ心なり」と注する。「籠耳」によれば、ふるといふは茶を立てることというから、茶を散じるとはふらないことになる。「洞房語園」にはまた、「寛文五年、岡より来りし遊女は、未だはりもなく、客をふるなどいふことなし、されば意気張りもなく、ふらずといふ意にて散茶女郎といひけり」とある。散茶はこうして遊女の階級となった。宝暦ころから散茶は昼夜揚代三分(〇・七五両)となり、「昼三」とよばれるようになり、のちに、散茶の名は廃れ、昼三がこれに代わった』。本件よりも後のことになるが、明和五(一七六八)『年「古今吉原大全」には「散茶いはゆる今の昼三のことなり」とある。ただし、吉原細見には天明、寛政のころまで散茶の名が見える』とあって、最後に安永(一七七二年~一七八一年)の頃には『太夫、格子が絶えて、散茶が最上になった』とある。采女の揚銭の高さが見て取れる。

●「わが兄牛門の如水子」牛門は荻生徂徠のこと。徂徠は牛込御門近くの牛込若宮町に住んでいた頃、「牛門先生」と呼ばれており、この采女塚顕彰碑を建てた狂歌師大田南畝は個人的に先哲徂徠を深く尊敬していた。これによって、徂徠の弟子の如水なる人物(不詳)の手になる「采女塚」伝承を顕彰する標札が、この出山寺若しくはその近くに寛政八(一七九六)年頃までは確かに立っていたということが分かる。

●「浅茅ヶ原」は現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目の辺りを指す(「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」に拠る)。

●「鏡ケ池」この池については、底本の鈴木氏は謡曲「隅田川」の古伝承を以下のように示しておられる。『梅若丸の母はわが子の跡をしたって京からさまよい来たが、すでに梅君は身まかったと聞き、この池に身を投げて死んだという。母の名を妙亀尼といい、総泉寺にその墓という妙亀塚があり、また池の傍に袈裟懸松とも衣かけ松ともいう松があった。』と記される。一見、唐突な注に見えるが、これは「耳嚢」本文が、「其頃までは鏡ケ池なども廣く深くもありしや」と記している点に鈴木氏は敏感に反応されたためである。即ち、この部分の叙述は、

――その寛文の頃までは、この(かの「隅田川」で子の死を知って母が入水した)鏡ヶ池なども(今のように涸れた沼沢の名残りのようなものではなく、)ずっと広く深くもあったものであったか――(飛び込めば確実に死ぬるほどの深さであったらしい)

という謂いなのである。「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」によれば、「江戸名所図会」によると、鏡が池の面積は文政(一八一八〜一八二九)期でも約五百平方メートル、橋場一丁目の北部辺りにあった、と記している(この出山寺に親族の墓所をお持ちの目高拙痴无氏のブログ「瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り」の「1日遅れのブログ」の記事によると、『この出山寺の北側に隣り合わせにあったという鏡が池は埋め立てられ、見ることは出来ない』と記されておられ、池は既に消失してしまったことが分かる)。さても――孫引きばかりでは面目御座らぬ。「江戸名所図会」の総泉寺から采女塚までを引用しておきたいと思う(底本は市古・鈴木校注のちくま学芸文庫版を用いたが、恣意的に正字化し、ルビは一部を省略して正仮名化して示し、割注は〔 〕に、割注内の割注は《 》に変更、編者注は除去した)。

   《引用開始》

妙龜山總泉寺 曹洞派の禪林にして、江戸三箇寺の一員たり。開山は噩叟(がくそう)宗俊和尚と號す。當寺は千葉家の香花(かうげ)院なり〔永祿二年小田原北條家の『分限帳』 に、「武州石濱の會下寺」とあるは、當寺のことをいふなるべし〕。

 千葉氏の墓〔境内卵塔のうちにあり。長さ三尺ばかりの靑石に、梵字のみを鐫(ちりば)めて、號・法名等を註せず。當寺に大檀那千葉介守胤の靈牌と稱するものあり。「總泉寺殿長山昌轍(しようとん)大居士」とあり。寺僧云く、「守胤は、弘治三年丁巳十一月八日卒去す」と。されど、守胤卒去の時世すこぶるたがひあるに似たり。また『江戸惣鹿子(そうかのこ)』に、千葉介常胤の墓碑には、春淨院殿點心居士、同千葉介貞胤の墓碑には、即心自風流とあるよし記せども、いま所在をしらず。なは他日考ふべきのみ〕。

 宇津宮彌三郎入道の墓〔同卵塔のうちにあり。青石の碑二枚、その一は「正安元年十一月二十一日」、その一は「徳治二年丁未七日」とあり〕。

[やぶちゃん注:以下は底本では「少なからず。」までの全体が二字下げ。]

按ずるに、當寺にいひつたふるところの宇津宮彌三郎は、賴綱入道實信坊がことなるべし。またの號(な)を蓮生と唱ふ。源空上人の法を聽いて後、善惠上人に就いて出家す。正元元年己未十一月京師に寂し、遺言により、墳(はか)を師の石塔の傍らに設くるよし、西山上人の傳に見えたり。その地は、すなはち京師西山三鈷寺の東の坂なり。よつて考ふるに、當寺にあるところのものは、むかしその支族などこの邊にありて寫し建つるところの墓碑ならんか。されど正安・德治いづれも、正元に後(おく)るること四十有餘年なり。もつとも不審少なからず。

 そもそも當寺は、正法眼藏の妙理をしめし、實相無相の心印をひらく。向上の一路には、着相實有(じつう)の草を拂ひ、言下(ごんか)の一喝には、異學執解(しうげ)の塵を飛ばす。公案の床(ゆか)の前には、一千七百の則を重ねて、以心傳心を傳へ、坐禪の衾(ふすま)のもとには、朝三暮四の助けを得て、文字言句(もんじごんく)の話頭を離れたり。

 淺茅原(あさぢがはら) 總泉寺大門のあたりをいふ。

『囘國雜記』

  淺茅がはらといへるところにて、

  人めさへかれて淋しき夕まぐれ淺茅がはらの霜をわけつつ   道興准后(どうこうじゆごう)

妙龜塚 〔同所にあり。梅若丸の母公(ぼこう)妙龜尼の墳墓なりといひつたふ。小高きところに、草堂を建てて、妙龜大明神と稱せり〕。

 古墳一基〔妙龜堂の下にあり。靑き一片の石にして、長(たけ)二尺あまり、碑面蓮花の上、圓相のうちに、「法阿」といふ號(な)をちりばめ、下に「弘安十一年正月二十二日」と彫り付けてあり《この年四月、正應と改元あり》。『圓光大師行狀翼贊』卷第四十二に云く、嘉祿三年六月二十二日《この年十二月、安貞と改元あり》山門の衆徒奏聞を經て、大谷源空の墳墓を破却せんとす。その夜法蓮坊・覺阿坊、潛かに上人の柩を掘り出だし、蓮生坊《宇津宮彌三郎》・信生坊(しんしやうばう)《鹽屋入道》・法阿坊《千葉六郎太夫入道、この人は東氏の祖、從五位下》・道遍坊《澁谷七郎入道》・西佛坊(頓宮兵衞入道)の輩(ともがら)出家の身なりといへども、法衣(ほうえ)に兵杖(ひやうぢやう)を帶し、これを供奉し、廣隆寺の來迎坊圓空が許にうつすよしを記せり。按ずるに、この法阿は、千葉六郎太夫胤賴がことなるべし。胤賴は常胤が子にして、國府(こふの)六郎胤通の弟なり。この古墳、おそらくはこの法阿の墓碑ならんか〕。

 鏡が池 同所西南の方にあり。傳へいふ、妙龜尼、梅若丸の跡をしたひ京よりさまよひ來りしが、梅若丸身まかりしことを聞きて、この池に身を投げてむなしくなりぬとぞ〔元祿開板の『江戸鹿子(かのこ)』といへる草紙に、「むかしはこの池を泪(なみだ)の池と名づけし」とあり〕。傍らに鏡池庵と號(なづ)くる小菴あり。辨財天を安ず。これも妙龜尼をまつるところなりといへり。

 袈裟懸け松 〔池の傍らにあり。一名(いちみやう)を衣(きぬ)かけ松ともいへり。妙龜尼この松の枝に衣をかけ置きて、むなしくなりしといへり。舊樹枯れて、いまは若木を栽ゑたり〕。

 采女塚 〔同所にあり。寛文の頃、吉原町にうねめといへる遊女はべりしが、ゆゑありて夜にまぎれてここに來り、池中に身をなげてむなしく燈りぬ。夜明けてのち、あたりの人ここに來りけるに、かたはらの松に小袖をかけて、一首の歌をそへたり。

  名をそれとしらずともしれ猿澤のあとをかがみが他にしづめば

 かくありしにより采女なることをしりければ、人あはれみて塚をきづきけるといへり〕。

   《引用終了》

采女に纏わる伝承は古くから全国にある。ウィキの「采女」によれば、采女とは、『日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった』が、『采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていた。古くは『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗、形容温雅」と表現され、『百寮訓要集』には「采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」と記載され、また『和漢官職秘抄』には「ある記にいはく、あるいは美人の名を得、あるいは詩歌の誉れあり、琴瑟にたへたる女侍らば、その国々の受領奏聞して、とり参らすこともあり」との記述がある。また『万葉集』には、藤原鎌足が天智天皇から采女の安見児を与えられた事を大喜びした有名な歌「われはもや安見児得たり 皆人の得難にすとふ安見児得たり」が収められている他、「采女の袖吹きかへす明日香風 都を遠み いたずらに吹く」という志貴皇子の歌もあり、美しい采女を憧れの対象とした男性心理が伺える』として、「采女」というイメージが男の憧れの対象としてシンボライズされてきた経緯があり、それが最も新しい形で都市伝説化したものが、この吉原堺町の梅茶女郎「采女」であった――そんな何か琴線に触れるものを、遊女采女は我々に奏でてくれているように思えるのである。

●「文化元年甲子六月」西暦一八〇四年。まさに、この「耳嚢 卷之六」の執筆推定下限は文化元年七月である!

●「金之竟合(鏡)水也相比(池)綵之無絲(采)嬉而不喜(女)士可以□(塚)言可以己(記)車之所指(南)毎田即是(畝)一人十日(大田)潭辺無水(覃)」これは要するに、以下の注で示す「黄絹幼婦」=「絶妙」のアナグラムと同様に、賦のように文意を持たせつつ、そこに碑文の標題「鏡池采女塚」――と執筆者である自分「記 南畝大田覃」を巧みに暗号化したものなのである。因みに「覃(ふかし)」とは大田南畝の本名である。

●「曹娥」(一三〇年~一四三年)は後漢の孝女とされる人物。舞の得意な一人の男が船上で酔って舞い、落ちて溺れ死んだ。彼の娘であった曹娥は七晩泣き明かした挙句、その川に身を投げ、後に父の遺体を背負ったままに川岸に打ち上げられたという。後にこの川は曹娥江と呼ばれて廟が建てられたが、曹操の家臣で曹植の四友の一人であった博覧強記の書家邯鄲淳(かんたんじゅん 一三二年~二二〇年)が、わずか十三歳で、この碑文をものし、評判となったということが「三国志演義」に載るという(「My三国志―百科事典」の「邯鄲淳」に拠る)。

●「黄絹幼婦」この言葉、実はこれ、中国では知られた一種のスラングでもある。即ち、「絶妙」の隠語で、「黄絹」は「色(ある)糸」で「絶」の字となり、「幼婦」は「少女」で「妙」となる。

・「所化」師の教えを受けている修行中の僧、弟子。また、広く寺に勤める役僧を言う。

・「くつわや」「轡屋」で女郎屋のこと。「轡」は馬具の名称で馬の口に嚙ませて手綱に結び、それで馬を捌いた。その形状は十文字で、そこから遊女を操り稼がせるとの意味から、遊女屋或いはその抱主である主人の異名となったものと考えられる。これについてはネット上に複数の語源説がある。例えば、京都柳町の遊女屋を開設した原三郎左衛門は、秀吉の馬の口取りをしていた者だったから、傾城屋を轡屋と呼んだという。庄司甚内らが吉原遊廓を作ったとき、廓の内に十文字の道を通したので、これを「くつわ」と称したという説であり、その他にも女郎屋の形状が縦横に道を作った十文字であったことに由来するという説は多いようだ。

・「なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば」岩波の長谷川氏注に、『天皇の寵が衰えてなら猿沢池に身を投げた采女を真似て鏡が池に身を投げるからは私の名は問わずとも知れよう』と訳されておられる。これはやはり、謡曲「采女」を基にした和歌で、ウィキの「采女」には、現在の続くところの、奈良市の春日大社の末社で猿沢池の北西に鎮座する采女神社の例祭で、毎年仲秋の名月の日(旧暦八月十五日)に行われる采女祭につき、『奈良市の猿沢池畔にある采女神社の毎年中秋の名月の時期に行われる例祭。奈良時代のさる天皇の寵愛を失った采女が猿沢池に投身自殺したとされ、その霊を慰める祭り』との解説がある。夭折の妓女「采女」の恐るべき博覧強記が、この和歌から滲み出ている。

■やぶちゃん現代語訳

 采女塚の事

 橋場の総泉寺の邊りに、采女塚(うねめづか)というものが御座ると伝えては御座れど、今はもう在所も定かではなく、誰(たれ)一人として知る者も御座らぬ。

 ある老人の語ったことには、昔、吉原町の遊女に――「采女」――と申す妓女が御座った。

 ところが、かの吉原に近きさる寺の修行僧、この「采女」をふと見初(みそ)めてしもうて、これもう、思い慕(しと)うて、どうにもならずなった。

 されど、もとより貧しき僧なれば、かかる当代一流の人気の遊女に馴染み逢はんなんどということは、これ、如何ともし難きことなるを……これ、あまりに恋い焦がれたる果てに、愁い、かくも、忍びかねて御座ったものか、かの「采女」のおる女郎屋の、格子のもとに来たって、「采女」を慕(しと)うたままに、これ――自殺して――果てた。

 さても、吉原の係りの者どもが如何なる者ならんと、この男の懐中なんどを探って見たところが、これ、「采女」を恋い慕(しと)う思いを、切々と書き置き致いたものが、出来(しゅったい)致いた。

 噂は千里を走るとも申そうず、じきに「采女」自身も、このことを小耳に挟み、

「……かくも命を捨て恋さっしゃったとは……かくの如くなってしもうた上は……一体、妾(わらわ)は……如何にせん方、これ、ありんすえッ?!……」

と、これ、如何にも深(ふこ)う、歎き伏し沈んでおったと申す。

 そんなある夜のこと、「采女」の君……こっそり……ふらふらと……吉原を出でて……禿(かむろ)なんどから伝え聞いてか、かの僧の、橋場辺りに葬られたことを聞きつけ――まだ、その頃までは、かの鏡ヶ池なんども、今とは様変って、広く深くも御座ったものか……

……一首の歌を

……傍らに御座った松の枝に殘し

……入水し

……果てた……

――とは人の語ったことで御座ったが――さても――その歌はといえば、

  なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば

西東三鬼句集「今日」 昭和二十五(一九五〇)年 一〇〇句

昭和二十五(一九五〇)年 一〇〇句

冬の山虹に踏まれて彫探し

種痘かゆし枯木に赤きもの干され

電柱も枯木の仲間低日射す

滅びざる土やぎらりと柿の種

  波郷へ

燒酎のつめたき醉や枯れゆく松

大いなる枯木を背に父吃る

寒き田へ馳くる地響牛と農夫

男の祈り夜明けの百舌鳥が錐をもむ

眞夜中の枯野つらぬく貨車一本

屋上に雙手はばたき醫師寒し

鯨食つて始まる孤兒と醫師の野球

飴赤しコンクリートの女醫私室

書を讀まず搗き立ての餠家にあれば

冬雲と電柱の他なきも罰

夜の雪ひとの愛人くちすすぐ

年新し狂院鐵の門ひらき

教師俳人かじかみライスカレーの膜

穴掘りの腦天が見え雪ちらつく

餠抱きし父の軒聲家に滿つ

寒明けの街や雄牛が聲押し出す

麥の芽が光る厚雲割れて直ぐ

雄鷄に寒の石ころ寒の土くれ

北陸一〇句

わが汽笛一寒燈を呼びて過ぐ

みどり兒も北ゆく冬の夜汽車にて

北國の地表のたうつ樹々の根よ

冬靑きからたちの雨學生濡れ

日本海の靑風桐の實を鳴らす

默々北の農婦よ鮭の頭買ふ

雪嶺やマラソン選手一人走る

冷灰の果雪嶺に雪降れり

雪國や女を買はず菓子買はず

いつまでも笑ふ枯野の遠くにて

寒の狂院兩眼黑く窓々に

人を燒く薪どさどさ地に落す

[やぶちゃん注:「どさどさ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

  修德學院 六句

[やぶちゃん注:戦前からあった非行や家庭環境・その他の理由によって生活指導を要する子どもたちに対して心身の健全な育成を図る児童自立支援施設(旧称は教護院)。もと修徳館と呼称したが、昭和九(一九三四)年に少年教護法の施行を機に大阪府立修徳学院と改称、現在に至る(柏原市大字高井田)。三鬼は四句目で「少年院」という語を用いているが、誤りである。少年院は法務省矯正局が管轄し、家庭裁判所の保護処分による入院しか行われないのに対し、児童自立支援施設は家庭裁判所の保護処分以外にも知事や児童相談所長といった児童福祉機関による児童福祉法上の措置として入所する場合がある。時代的背景があるとは言え、そこは批判的な読みをすることを望む。]

みかへりの塔涸川の底乾反(ひぞ)り

院兒の糧大根土を躍り出(で)し

菊咲かせどの孤兒も云ふコンニチハ

少年院の北風芋の山乾く

寒い教室盜兒自畫像黑一色

孤兒の園枯れたり汽車と顏過ぐる

春曉へ貧しき時計時きざむ

坂上に現じて春の馬高し

病者起ち冬が汚せる硝子拭く

病者の手窓より出でて春日受く

わらわらと日暮れの病者櫻滿つ

病廊にわれを呼び止め妊み猫

病廊を蜜柑馳けくる孤兒馳けくる

ボート同じ男女同じ春の河濁り

法隆寺出て苜蓿に苦の鼾

狂院の向日葵の種握りしめ

崖下に向日葵播きて何つぶやく

五月の地面犬はいよいよ犬臭く

コンクリート割れ目の草や雷の下

種痘のメス看護婦を刺し醫師を刺す

診療着干せば嘲る麥の風

うつくしき眼と會ふ次の雷待つ間

黄麥や渦卷く胸毛授けられ

梅雨の卵なまあたたかし手醜し

崖下へ歸る夕燒頭(づ)より脱ぎ

荒繩や梅雨の雄山羊の聲切に

飛行音かぶさり夜の蠅狂ふ

肺強き夜の蛙の歌充ち滿つ

向日葵を降り來て蟻の黑さ增す

星中に向日葵が炎ゆ老い難し

日本の神信ぜず南瓜交配す

梅雨荒れの地に石多し種を播く

梅雨の坂人なきときは水流る

飴をなめまなこ見ひらく梅雨の家

音立てて蠅打つ虹を壁の外に

梅雨晴れたり蜂身をもつて硝子打つ

朝すでに砂にのたうつ蚯蚓またぐ

汗すべる黑衣聖母の齒うがてば

炎天の犬捕り低く唄ひ出す

晝寢の國蠅取りリボンぶら下り

夜となる大暑や豚肉(ぶた)も食はざりし

がつくりと祈る向日葵星曇る

唄きれぎれ裸の雲を雷照らす

敗戰日の水飮む犬よわれも飮む

歩く蟻飛ぶ蟻われは食事待つ

貧なる父玉葱嚙んで氣を鎭む

無花果をむくや病者の相對し

秋來たれ病院出づる肥車

滿月のかぼちやの花の惡靈達

落ちざりし靑柿躍る颱風後

脱糞して屋根に働く颱風後

卵白し天を仰ぎて羽拔鷄

何處へ行かむ地べたの大蛾つまみ上げ

病孤兒の輪がぐるぐると天高し

木犀一枝暗き病廊通るなり

秋の夜の浸才消えては拍手消ゆ

石の上に踊るかまきり風もなし

赤蜻蛉來て死の近き肩つかむ

聖姉妹(マメール)より拔き取りし齒の乾きたり

わが惡しき犬なり女醫の股(もも)嚙めり

一言芳談 六十四

  六十四

 又、死をいそぐ心ばへは、後世の第一のたすけにてあるなり。

2013/01/14

北條九代記 念佛禁斷 付 伊勢稱念房奇特

      ○念佛禁斷  伊勢稱念房奇特

將軍賴家公天下の政事正(ただし)からず、萬の仰(おほせ)拙(つたな)くおはしましければ、上下疎み參らせ、恨(うらみ)を含む者甚(はなはだ)多し。其中に如何なる天魔の依托(えたく)したりけん、道者、僧侶の念佛するを嫌(きらひ)出で給ふ。同じき年五月に至(いたつ)て、念佛禁斷の由仰出され、誰には依(よら)ず、念佛する僧法師をば是非なく捕へて、袈裟を剥(はぎ)取り、火に燒きて、捨つべしとなり、比企彌四郎承りて、政所の橋の邊(あたり)に行(ゆき)向ひ、往来念佛の僧を捕へて、袈裟を剥取り、巷にして之を燒く事日毎にその限(かぎり)なし。是を見る者市の如し。皆口々に謗(そし)り參せ、弾指(つまはじき)して唇(くちびる)を飜す。又此人を搦(からめ)取りて、牢舍に籠(こめら)るゝ者數を知らず。民の憂(うれへ)世の煩(わづらひ)是只事とも思はれず。佛神三寳の冥慮(みやうりよ)、諸天龍神(りうしん)の照見(せうけん)旁(かたがた)以て測(はかり)難し。此所(ここ)に伊勢國の修行者、稱念坊と聞えしは道心堅固の念佛者なり。比企彌四郎之を捕へて、袈裟を剥取りつゝ、火に入て燒(やき)棄てんとす。稱念申しけるやうは「白俗(はくぞく)の束帶と緇徒(しと)の袈裟と其理(ことわり)同じうして、天竺震旦(てんじくしんたん)、日域まで上古今來(こんらい)もちひ傳へたり、何ぞ新(あらた)に之を禁斷し給ふや。凡(およそ)當時の御政務の有樣、佛法世法(せはふ)共に以て非道を行ひ給ふこと、甚(はなはだ)重疊(ぢうでう)し給へり。頗(すこぶる)長久の謀(はかりごと)にあらず、殆(ほとんど)滅亡の基(もとゐ)たり。抑(そもそも)この念佛は三世諸佛の大陀羅尼(だいだらに)十方薩埵(さつた)の勝解脱門(しようげだつもん)なり、出離生死(しゆつりしやうじ)の神方(しんはう)往生極樂の靈藥なり。釋尊一代の要法(えうぼふ)にして諸經所讃(しよさん)の佛號なり。普賢、文殊を初(はじめ)て大乘、實智(じつち)を根元として、三朝世々の祖師何(いづれ)か是を捨て給へる。諸天擁護(おうご)の眸(まなじり)を開き、善神守衛の手を施し給ふ。又この袈裟は是(これ)解脱幢(げだつどう)の標識(へうし)なり。上福田(ふくでん)の妙相なり、諸佛影向(やうがう)の道場梵釋歸敬(ぼんしやくききやう)の衣服とす。四王八龍(りう)、この德を仰ぎて、桑門僧侶彼(か)の功を貴む。今之を剥(はぎ)むくり、火にくべ燒捨てられんは、恐(おそら)くは悪逆の結構何事是に優(まさ)らん。印度の弗沙蜜多(ふしやみつた)、日域の守屋大連(もりやおほむらじ)、或は震旦三武(ぶ)の時も更に替るべからかずや。殊に稱念が袈裟衣(けさころも)は大道大信を以て顯せし所なれば、燒くとも、よも燒けじ。南無阿彌陀佛」と云ひければ、彌四郎、嘲笑(あざわら)ひ、「其法師に物な云はせそ。早く燒捨てて追遣れ」とぞ下知しける。下部共集りて、袈裟を取て火に打(うち)入れたりけるに、その火自(おのづから)濕(しめり)消えて、片端(かたはし)だにも燒かざりしかば、皆、奇特の思(おもひ)をなす。稱念、打笑ひ「それ見給へ、人々」とて本の如く著服(ちやくぶく)し、行方(ゆくがた)知らず失せにけり。是に依(よつ)て、かの禁斷不日(ふじつ)に破れて世の笑草(わらひぐさ)とぞ成りにける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年五月十二日の条。筆者の頼家指弾の筆鋒は一向に緩まない。

〇原文

正治二年五月大十二日丙寅。羽林令禁斷念佛名僧等給。是令惡黑衣給之故云々。仍今日召聚件僧等十四人。應恩喚云々。然間。比企弥四郎奉仰相具之。行向政所橋邊。剥取袈裟被燒之。見者如堵。皆莫不彈指。僧之中有伊勢稱念者。進于御使之前。申云。俗之束帶。僧之黒衣。各爲同色。所用來也。何可令禁之給哉。凡當時案御釐務之體。佛法世法。共以可謂滅亡之期。於稱念衣者。更不可燒云々。而至彼分衣。其火自消不燒。則取之如元著。逐電云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日丙寅。羽林、念佛名僧等、禁斷せしめ給ふ。是れ、黑衣を惡(にく)ましめ給ふが故と云々。

仍りて今日、件の僧等十四人を召し聚むるに、恩喚に應ずと云々。

然る間、比企弥四郎、仰せを奉(うけたま)はりて之を相ひ具し、政所の橋の邊へ行き向ひ、袈裟を剥ぎ取りて、之を燒かる。見る者、堵(と)のごとし。皆、彈指(だんし)せずといふこと莫し。僧の中に伊勢稱念といふ者有り。御使の前に進み、申して云はく、

「俗の束帶・僧の黒衣各々同色として用ゐ來る所なり。何ぞ之を禁じしめ給ふべきや。凡そ當時の御釐務(りむ)の體(てい)を案ずるに、佛法・世法(せはう)共に以つて滅亡の期(ご)と謂ひつべし。稱念が衣に於いては、更に燒くべからず。」

と云々。

而して彼(か)の分の衣に至り、其の火、自(おのづ)から消えて燒けず。則ち、之を取りて元のごとく著し、逐電すと云々。

・「黑衣を惡ましめ給ふ」「黑衣」は緇衣(しえ)。「こくえ」とも読む。頼家は当時十八歳で正治二年一月五日に従四位上に昇叙、左近衛中将如元(「羽林」はその唐名)となって禁色が許されていた。黒は古くは武官のみに着用が許されたが、出家した僧には慣習によって黒衣の着用が普通に許されていた。手の施しようがない頼家の愚昧さが「吾妻鏡」でも、庶民の指弾(無論、これは焼こうとする下役たちに向けられた批難である)で分かる。

・「比企弥四郎」比企時員。頼家近習。建仁三(一二〇三)年九月の父の比企能員の変で討死。

・「政所の橋」筋替橋。

・「堵」垣。垣根。

・「釐務」官職に伴う事務を治めること。「理務」「釐事」。ここは幕府の征夷大将軍としての実質上の国の政(まつりごと)の意。

・「解脱幢」解脱幢相。解脱を求める印。袈裟のことを言う。

・「上福田」先の「三寶」(仏法僧)供養することによって得られるところの、田が実りを生じるような福徳を生じるもとになるもの、という仏教の常套的な譬え。

・「諸佛影向」あらゆる神仏が仮の姿を以って現れること。

・「梵釋歸敬」「梵釋」は梵王と帝釈天で教徒や修行者を守護する諸天善神の神々。「歸敬」は帰依敬礼(きょうらい)で、仏を心から信じて尊敬すること。

・「四王八龍」「四王」は四人の守護神たる四天王(東方の持国天・南方の増長天・西方の広目天・北方の多聞天)のこと。「八龍」八大竜王。天竜八部衆に所属する竜族の八王。法華経の序品に登場し、仏法を守護する。難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑伽羅(しゃから)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばだった)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはつら)。

「印度の弗沙蜜多」世に仏教を弘めたアショーカ王の孫に当たる人物という。彼は自らの名を後世に残すには如何にすれば良いかを群臣に問い、群臣の一人の、善悪両極端の二つの道があると言い、一つは先王(アショーカ)の如く、仏教を擁護して八万四千の塔を造立するか、仏教を弾圧して堂塔を破壊し、僧尼を殺戮することであると進言、彼は、自分には先王ほどの器量はなく、善なる術をとることは出来ないとして仏教の弾圧を開始、堂塔を破壊、僧尼を殺戮したとされる(以上は真言宗泉涌寺派大本山法楽寺公式HPの部派仏教について -大衆部所伝の僧伽分派説-に拠った)。

「日域」本邦。

「守屋大連」物部守屋(?~用明天皇二(五八七)年)。敏達天皇の代に大連の職位にあって当時蔓延した疫病の原因を大臣蘇我馬子の仏教崇拝にあるとして塔・仏殿・仏像などを破却した。後、丁未(ていび)の乱で馬子によって一族郎党、滅ぼされた。

「震旦三武」三武一宗の法難のこと。中国で仏教を弾圧した事件の中で、規模も大きく、また後世への影響力も大きかった四度の廃仏事件を、四人の皇帝の廟号や諡号をとって、こう呼ぶ。「三武一宗の廃仏」とも。北魏の太武帝(在位は四二三年~四五二年)・北周の武帝(在位は五六〇年~五七八年)・唐の武宗(在位は八四〇年~八四六年)で、これを「三武」とする。因みに「一宗」は後周の世宗(在位は九五四年~九五九年)を指す(以上はウィキ三武一宗の法難から引いた)。]

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 三 擬態~(3)

 桑の木に附く「虎かみきり」も頗る蜂に似て居る。これは甲蟲で、名前の通り「かみきりむし」の一種であるが、他のものとは違ひ、體に黄色と黑との粗い横縞があるから、餘程蜂と紛らはしい。その上、頭・胸・胴などの大きさの割合や、その間の縊れ具合いなども、普通の「かみきりむし」とは異なり、却つて蜂の外形に近い。蜂に似て居る昆蟲は蛾の類、甲蟲の外にもなほ幾らもある。蠅と同じ仲間の昆蟲にも、飛んで居る姿が恰も蜂の通りに見えるものが少くない。それ故かやうな種類は、子供などは常に蜂類と混同して恐れて居る。

[やぶちゃん注:「虎かみきり」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae のトラカミキリ Xylotrechus chinensisFukutomi design office の島根県「福光村・昆虫記」のトラカミキリ/トラフカミキリ(虎天牛/虎斑天牛)によれば、『トラカミキリは、クワの害虫として知られ、トラフカミキリとも呼ばれています。体は黒色で、全体に黄褐色から赤褐色と、黒色の短毛で被われています。頭部と胸部前側が黄色く、上翅にハや八の字の黄色い紋があります。この黒と黄色の虎模様から名が付けられています』。『全体はハチによく似ていますが、上翅の模様には少し無理がある様です。しかし頭部側から見ると、黄色い複眼の感じ,胸部前側の黄色の斑,短めの触角など大型のスズメバチに見えます。上翅中央から斜めに延びる黄色い紋はもう少し似ていて良い気がしますが、前側を細く見せる模様でしょうか? そう考えるとセグロアシナガバチに少し似て見えます』(一部の読点を消去した)とあり、画像もある。……ああ、だめだ、こりゃ! 蜂にしか見えんて。……なお、同リンク先にリンクされている同HP内のハチ,アリ,毒のある仲間などに擬態している昆虫(標識的擬態)の画像類も本章の読解に極めて有益である。必見!]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 湯本 小田原

    湯本 小田原

 湯本の湯は、瘡毒(そうどく)、腫物(しゆもつ)によし。町の中に浴室あり。あまた内湯あるところもあり。此ところより街道の三枚橋(まいばし)へいづる五丁ばかりあり。關本(せきもと)の最乘寺(さいじやうじ)へ道了權現(どうりうごんげん)へゆくには、塔の澤より山越(ご)しにゆく道あれども、いたつて難儀の道にて、案内なくてはしれがたきゆへ、この邊三枚橋より小田原へいでゝ、關本へゆくなれば、この所へいでたるなり。

〽狂 いくとせか見せを

  はりこにあらねども

 せんりへひゞく

   とらやういらう

旅人

「わたしは、今朝からどふも蟲がかぶつてなりませぬから、此虎屋(とらや)の解毒(げどく)をのまふとぞんじてかいましたが、よくくかんがへて見ましたら、腹の中(うち)で蟲のかぶるのではない、腹の外でかぶりますから、そつと手をやつて見ましたら、道理(どうり)こそ、大きな虱(しらみ)が、めだつまで臍(へそ)の脇(わき)にかぶりついておりました。」

「儂(わし)はまた、さつきにから、尻で頭痛(づゝう)がしてなりませぬが、人のいふには、頭痛には、兩方の小鬢(こびん)先へ梅干(うめぼし)をはるがよいと申しましたけれど、尻で頭痛がするに、顏へはつてはきくまい。やはり、尻へはるがよからうとぞんじて、ぐつと尻をまくつて、梅干(むめぼし)を尻の割れ目の兩方へはつた所を子どもが見て、

『ヲヤヲヤ、このおぢさんは、尻に目がある。』

とわらひましたら、その傍(そば)にゐた女がいふには、

『なに、それがおかしいものか。大かたそのお人が、妾(わたし)の顏を見る尻目であらう。』

といひましたから、大笑ひさ。」

「旦那(だんな)、お駕寵(かご)をやすくのせませう。なに、その女中かへ。女中なら、のせるより、儂がのりたい。なんと、酒手(さかて)でのせてくださるまいか。さあさあ、いきづへが、もふこたへられなくなつてきた。はは。」

「ういろうばかりか。どうぞ、女のほれる藥はあるまいか。」

[やぶちゃん注:挿絵は小田原透頂香(ういろう)の全面タイアップ広告である。


「湯本」箱根湯本温泉は、箱根の玄関口にある箱根七湯中最古の温泉。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉、神経痛・関節痛・冷え性に効く。箱根で最も大きい温泉街で共同浴場も多い。

「瘡毒」梅毒。

「關本の最乘寺へ道了權現へ」「關本」は現在の南足柄市大雄町にあった旧村名。「最乘寺へ道了權現へ」とあって一見、別な場所に見えるが、曹洞宗大雄山最乗寺に道了尊は祀られている最乗寺は応永八(一四〇一)年峨山五哲の通幻寂霊門下了庵慧明によって開山、坂東通幻派の拠点となった。通幻門下は各地で公共事業を行って民心を摑んだが、最乗寺にも、この地で土木工事を行ったという了庵の法嗣妙覚道了(道了尊)が祀られており、道了権現とも称される。妙覚道了は室町前期の曹洞宗及び修験道の僧。了庵慧明が最乗寺を開創すると、慧明の弟子であった道了はその怪力により寺の創建に助力。師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って天狗となったと伝えられ、最乗寺の守護神として祀られた。江戸庶民の間でも信仰を集め、講が結成され、江戸両国などでの出開帳も行われた(以上はウィキの最乗寺」及び妙覚道了に拠る)。

「三枚橋」現在の箱根湯本駅から三百メートル程下流にある橋。名の由来は、かつては川幅が広く、二つの中洲があり、そこに三つの橋を架橋していたことに拠るとも、また、小田原方面から順に架橋された橋を地獄橋・極楽橋、そして本橋を三昧橋と呼んだとも言われ、橋を渡ると早雲寺があってこの寺に駈け込めば、如何なる罪人も罪を免れると言われて追手も地獄橋までは追ってもその後は追わなかったという。即ち、三昧橋とは、『その先は仏三昧に生きよ』という意味らしい(以上の由来譚は個人HP「悠々人の日本写真旅行」の旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(18) 小田原~箱根湯本にあるものを参照させて戴いた)。

「とらやういらう」薬種屋虎屋の外郎(ういろう)で、現在も小田原市の外郎家で製造販売されている大衆薬の一種。以下、ウィキの「ういろう薬品)」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる』。『十四世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。陳宗敬は明王朝を建国する朱元璋に敗れた陳友諒の一族とも言われ、日本の博多に亡命し日明貿易に携わり、輸入した薬に彼の名が定着したとされる。室町時代には宗敬の子・宗奇が室町幕府の庇護において京都に居住し、外郎家(京都外郎家)が代々ういろうの製造販売を行うようになった。戦国時代の一五〇四年(永正元年)には、本家四代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している』。『江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では喜多さんが菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りのせりふを物真似したものである。ういろうを売る店舗は城郭風の唐破風造りの建物で、一種の広告塔になったが、関東大震災の際に倒壊し、再建されている』。

「蟲がかぶる」「かぶる」は現在の「被(かぶ)る」ではなくて「齧(かじ)る」の意で、「虫が齧(かぶ)る」と漢字表記する。腹痛が起こること、また、産気づいて陣痛が起こる、の意。

「尻目」流し目。

「酒手」人足や車夫などに対し、決められた賃金の他に「心附け」として与える金銭。

「息杖」既出。「東海道三嶋宿」参照。この「息杖」に、酒手まで弾むと聴いて嬉しくなって、女中に跨った自分の妄想がさらに膨れ上がって、その女中の「息使い」が「こたへられなくなつてきた」というのに掛けたエロティクな洒落である。]

西東三鬼句集「今日」 昭和二十四(一九四九)年 八四句

昭和二十四(一九四九)年 八四句

照る沖へ馬にまたがり枯野進む

人が焚く火の色や野の隅々に

枯原を奔るや天使圖脇ばさみ

そのあたり明るく君が枯野來る

西赤し支離滅裂の枯蓮に

蜜柑地に落ちて腐りて友の戀

赤き肉煮て食ふ蜜柑山の上

姉の墓枯野明りに抱き起す

三輪車のみ枯原に日は雲に

柩車ならず枯野を行くはわが移轉

枯野行く貧しき移轉にも日洩れ

火の玉の日が落つ凍る田を殘し

枯野の木人の齒を拔くわが能事

かじかみて貧しき人の義齒作る

氷の月公病院の畑照らす

モナリザ常に硝子の中や冬つづく

掘り出され裸の根株雪が降る

煙突の煙あたらし亂舞の雪

過去そのまま氷柱直下に突刺さる

供華もなし故郷の霰額打つ

雪山に雪降り友の妻も老ゆ

垂れ髮に雪をちりばめ卒業す

崖下のかじかむ家に釘を打つ

枝噂らす枯木の家に倒れ寢る

いつまでも冬母子病棟の硝子鳴り

屋上に草も木もなし病者と蝶

日曜日わが來て惚るる大樹の根

遠く來てハンカチ大の芝火つくる

跳ねくだる坂の林檎や日向めざし

電柱が今建ち春の雲集ふ

春泥に影濡れ濡れて深夜の木

[やぶちゃん注:「濡れ濡れ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

仰ぎ飮むラムネが天露さくら散る

一齊に土掘る虹が消えてより

頭惡き日やげんげ田に牛暴れ

メーデーの明るき河に何か落つ

新樹に鴉手術室より血が流れ

首太くなりし夜明の栗の花

犬も唸る新樹みなぎる闇の夜は

ほくろ美し靑大將はためらはず

女醫の戀梅雨の太陽見えず落つ

塔に眼を定めて黑き燒野ゆく

胸いづる口笛牛の流し目に

やはらかき紅毛の子に蛇くねる

わが家より旅へ雜草の花つづく

黄麥や惡夢背骨にとどこほり

喬木にやはらかき藤梟けられし

手を碗に孤兒が水飲む新樹の下

身に貯へん全山の蟬の聲

西日中肩で押す貨車動き出す

濁流や重き手を上げ藪蚊打つ

鐡棒に逆立つ裸雲走り

夕燒けの牛の全身息はづむ

[やぶちゃん注:底本では「はづむ」の「づ」の右にママ注記。]

爪立ちに雄鷄叫ぶひでり雲

大旱の田に百姓の靑不動

炎天の坂や怒を力とし

緑蔭にゲートル卷きし大き晝寢

生創に蠅を集めて馬歸る

翼あるもの先んじて誘蛾燈

きりぎりす夜中の崖のさむけ立つ

わが家の蠅野に出でゆけり朝のパン

颱風の最後の夜雲蛙の唄

横すべる浮塵子(うんか)を前に死を前に

松の花粉吸ひて先生胡桃割る

鐡塊の疲れを白き蚊帳つつむ

耶蘇ならず靑田の海を踏み來るは

颱風の崖分けのぼる犬の體

山削る裸の唄に雷加はる

唄一節晩夏の蠅を家族とし

青葡萄つまむわが指と死者の指

眠おそろし急調の蟲の唄

海坂に日照るやここに孤絶の茸

仕事重し高木々々と百舌鳥移り

雲厚し自信を持ちて案山子立つ

汗のシヤツ夜も重たく體輕し

抱き寢る外の土中に芋太る

饅頭を夜霧が濡らす孤兒の通夜

初蝶や波郷に代り死にもせで

坂上の芋屋を過ぎて脱落す

大枯野壁なす前に齒をうがつ

女醫の手に拔かれし臟腑湯氣を立つ

死後も貧し人なき通夜の柿とがる

孤兒孤老手を打ち遊ぶ柿の種

耳嚢 巻之六 御製發句の事

 御製發句の事

 後水尾院は、近代帝王の歌仙とも申ける由。名は忘れたればもらしぬ、俳諧に名有(なある)もの御前にめされ、下ざまにて俳諧といえるはいかなる姿のものなるやと、御尋(おたづね)ありければ、かゝるものに侍るとて一句を御覧にいれければ、(つらつら御覧の上)、

  干瓜や汐の干潟の捨小舟

  うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉

右兩句を遊(あそば)されて、かく有べしやとみことのりありけるにぞ、彼(かの)諧老(かいらう)も恐入(おそれいり)て退(しりぞ)きしとなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。畏れ多くもかしこくも、連歌ならまだしも御製(ぎょせい)の発句とは、これ、珍しや!――しかし、眉唾物で、都市伝説の類いである。残念(以下、注を参照)。

・「後水尾院」後水尾天皇(慶長元(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)は第一〇八代天皇(在位は慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)。諱は政仁(ことひと)。家康の意向によって立太子された。元和六(一六二〇)年には徳川秀忠五女和子(まさこ)が女御として入内したが、寛永四(一六二七)年に紫衣事件(以下、ウィキ紫衣事件によれば、幕府が朝廷の紫衣授与を規制したにも拘わらず後水尾天皇が従来通り、幕府に諮らずに十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え、これを知った将軍家光が法度違反と見做して多くの勅許状の無効を宣言、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じ、朝廷が既与の紫衣着用勅許を無効にすることに強く反対、大徳寺住職沢庵宗彭や妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も挙って朝廷に同調、幕府に抗弁書を提出したのに対して、寛永六(一六二九)年、幕府が沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国へ流罪に処した事件。この事件により江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示、征夷大将軍とその幕府が天皇よりも上に立ったということを知らしめた大事件)徳川家光の乳母である春日局が朝廷に参内するなど、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに堪えかねて、同年十一月八日に二女の興子内親王(女帝である明正天皇)に譲位している。勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じており、学問を好み、「伊勢物語御抄」の著作がある(以上はウィキ後水尾天皇に拠る)。

・「俳諧に名有もの」時代背景から、貞門・談林の何れもが含まれるが、後掲するように、一句は確実に談林後期の松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五四)年)のものであり、貞徳は京都出身で九条稙通・細川幽斎に和歌・歌学を学んでおり、朝廷方とのパイプもあった。

・「(つらつら御覧の上)」底本では右に『(尊經閣本)』とあって、それによって( )部分を補った旨の補注がある。

・「干瓜や汐の干潟の捨小舟」岩波版の読みを参考にすると、

 干瓜(ほしうり)や汐(しほ)の干潟(ひがた)の捨小舟(すておぶね)

となる。岩波版長谷川氏注には『二つ割した干瓜を捨小舟に見立てた句。』とある。無論、汐の干潟は実景でなくては句にはならない。少なくともこの句は後水尾の句ではない。宝井其角「句兄弟 上」に載る句である。個人ブログ「八半亭」の、其角の『句兄弟・上』(その十一)に、

十番

   兄 (不詳)

 干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟

   弟 (其角)

 ほし瓜やうつふけて干す蜑小舟

とあって、句意として『)汐の干潟に捨て小舟があり、その捨て小舟に「捨て小舟」の異称のある白瓜の漬け物が干してある。』とある。また、『兄句の作者のところは空白で、其角の作とも思われるが』ある注釈書では、『判詞の「棹頭の秀作にして」の「棹頭」を「チョウズ」と読んで、松永貞徳の号の「長頭丸」の宛字に解して』そこでは、『貞徳の作と解』している旨の記載がある。

・「うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉」岩波版の読みを参考にすると、

 うじなくて味噌(みそ)こしに乘(の)る嫁菜(よめな)哉(かな)

となる。岩波版長谷川氏注には『氏なくて玉の輿に乗る嫁に対して、嫁菜は味噌こし(味噌を漉してかすを除くざる)に乗せられる。』とする。「女は氏無くて玉の輿に乗る」、女は生まれがよくなくても富貴の人に見初められて嫁になれば富や地位を得ることが出来るとという俚諺が元々あるのを踏まえた。こうした言語遊戯は貞門の特徴である。

■やぶちゃん現代語訳

  御製の発句の事

 後水尾院は、近代の帝の中にても、これ、歌仙と称せらるる帝にてあらせらるる由。

 さて――その名は忘れて御座れば、ここに記さずにおくしかないので御座るが――とある、俳諧の名ある者、後水尾院御前に召され、

「……下々の者の間にて、俳諧と称しておるもの、これ、如何なる姿のものなるや?」

との御下問があらせられたによって、

「……お畏れながら……かくなるものにて、御座いまする。……」

とて、お恥ずかし乍らと、自作の一句を御覧(ぎょらん)に入れ奉ったところ、暫くの間、黙られたまま、凝っとご覧になられた上、

  干瓜や汐の干潟の捨小舟

  うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉

という二句を御製(ぎょうせい)遊ばされて、

「……かくあれば、よろしいか?」

と、詔(みことのり)あらせられたによって、かの老俳諧師も全く以って恐れ入り奉って、そのまま退出致いた、とのことでおじゃる。

火野葦平 英雄

全く偶然であるが、「耳嚢 巻之六」でも「英雄の人神威ある事」及び同「又」で、加藤清正絡みのところに、本作を電子化、注で大いに清正公の勉強をした。根岸と火野に感謝する。


   英雄

 そのときの騷ぎにはほとほと閉口したけれども、見てゐると面白くもあつたので、わしはしばらくの不自由をがまんして、暫時(ざんじ)、綠川のほとりに滯在した。

(――と、かく語る者はいまは、球磨川(くまがは)にあつて、すでに甲羅七百年を經てゐるといふ古河童不禪坊(ふぜんばう)ある。背の甲羅には蓑のごとき毛が密生し、皿をつつむ頭髮は棕櫚(しゆろ)のごとくかたく長く赤く、嘴が異樣にふくらんで巨大なので、かれは仲間から廣大な尊敬をはらはれてゐる。しかしかれはその重々しい歴史の堆積にいたづらに尊大ぶることもなく、ただわけ知りもの知りの古老として、昔の思ひ出ばなしでときどき後輩を惱ます程度の活躍しかしなかつたので、恐れられてもきらはれてもゐなかつた。彼の圖體のものものしい威嚴にもかかはらず、格段にほそい眼にはきはめて人なつこい柔和な光をたたへてゐたので、まだ頭の皿の形もととのはぬ童子たちからもなつかれた。筑後川の頭目九千坊、阿蘇の奈羅延坊(ならえんばう)とともに、河童の三豪であるが、前二者のやうに權勢にたいする欲望も色氣もなく、かへつて年古るとともにその追憶と教訓とがあまりに豐富になりすぎて、もてあましたやうに、面倒くさいので早く死にたいのだなどと、まんざら冗談や強がりでなくいつたりもしてゐるのであつた。しかし死ぬやうな目に出あふとやつぱりいつか本能的にこれを避けるので、齡(よはひ)をかさねるばかり、苦笑するばかりで、いよい古びはてるわけである。いつも退屈さうにしてゐるが、どこの古老もさうであるやうに、昔話だけは胡瓜よりも好きである。そこで、今日も秋晴れの水底に孫のやうな河童たちをあつめて、昔ばなしを、……まるで巨大な頁を持つた書物をあてずつぱうにひらいて、どこからでも勝手に讀みはじめるやうな具合に、ひよつくり頭にうかんだところから、はじめてゐるのであつた。かれが、そのときといつてゐるのは、どうやらいまから三宮年ほど前のことらしい[やぶちゃん注:「そのとき」は底本では傍点「ヽ」。]。むぐりむぐりとふくらんだ嘴をうごかすたびに、靑豆のやうな鼻孔から水晶玉のやうな大小の泡がくるくる舞ひながら、つながつて、あかるく水底まで透してくる水面の陽光にむかつてのぼつてゆく。水藻のながれるのはあるが、魚の姿は見えない。)

 ……その騷ぎといつたら、ちつとやそつとのことではなかつた。はじめわしはわけがわからなかつたが、直接自分にひびいて來るやうな途方もない亂暴をされて、しまひには腹が立つて來た。わしの棲家(すみか)たる綠川はその騷ぎのために、棲むことができなくなつたのだ。なにしろ、川上から毒をながす。灼熱(しやくねつ)した石を淵といふ淵に投げこむ。なにか爆發する花火のやうなものを淀みに落しこむ。大砲や鐡砲を土手や橋や舟のうへからやたらに川の中に投げこむ。これではさすがのわしも水のなかには居られない。そこで中流の淵のうへにある瀧口にあがつて、高いところからこの阿呆たらしい騷動をながめてゐたのだ。ところが、そのうちにこの騷動の原因がやつとわかると、さすがのわしも啞然となつてしばらく口がふさがらなかつた。なんと、その途轍もない川狩りこそは、河童退治、つまりこのわしを征伐するための大騷動だつたのだ。そして何日もつづけられるその騷ぎをながめてゐるうちにわかつて來たことは、ざつとこんなことだつた。ときの熊本の殿樣加藤淸正が寵愛(ちようあい)してゐた一人の小姓があつた。女にしてもよいやうな、たいそう顏立ちの美しい少年で、淸正が眼のなかに入れても痛くないほど可愛がつてゐたといふ。なんとかいふ名前だつたが、それは忘れた。わしにはそんな人間界のことはよくわからんが、なんでも淸正の稚兒(ちご)とかいふことで、その小姓がゐなければ夜も日もあけぬ始末、その鼻毛を拔かれてゐる恰好はほとほと近親者の眼にあまつてゐたとのことだつた。その小姓が或る日この川を渡船でわたらうとして、落ちて溺れたのだ。さういへば金絲銀絲のぴかぴか光る元綠模樣の着物をつけた若い侍が土左衞門になつて、川下へながれゆくのを見たことがある。わしも昔は人間の尻子玉(しりこだま)に興味をもつて、ときどきはいたづらをして人間を川に引きこんだりしたこともあつたのだが、そのころはもうとんと倦(あ)いてしまつてゐたので、その土左衞門が干潮とともに海の方へ出てゆくのを見はしたが、格別氣にもとめなかつた。ところがその小姓の溺死は加藤淸正をいたく悲しませ、そして怒らせた。淸正は悲しんで、そして怒りだした。無茶苦茶に怒つたのだ。それは阿蘇山の爆發に似てゐた。淸正は小姓を川へ引きこんだのがてつきり河童のしわざときめた。忠義な家來のなかに、さういふ意見を述べる者があつたうへに、そのとき同じ渡船に乘りあはせてゐた者で、たしかに河童が引いてゆくのを見たといふ者が三人もあらはれたのだ。證人の一人は小姓の袴を水かきのある手がつかんでゐるのが見えたといひ、一人は子供の月代(さかやき)のやうな河童の頭の皿が、二度も小姓の落ちこんだ場所で浮きあがつたと述べた。きらに一人は獲物をとらへたときにいつも河童の覆する、キチックック、キチックックといふよろこびの聲をはつきり聞いたと述べた。かくなつてはもはや疑ふ餘地はないのである。これまでにもこの川で河童の害にあふ者が少くなかつたうへに、寵臣をさらはれた豪勇のきこえ高い城主は、おのが領内に棲みながら、領内の民に害をなすとは不屈至極と、徹底的な河童征伐を思ひたつたのだ。ところが、この綠川にはわしよりほかには河童は一匹もゐなかつた。もとはゐたらしかつたが、いつかどこかへ移住したとみえて、ついぞ仲間を見かけなかつた。そのわしは生まれてから二百年ほどの問は、人間をからかふのも面白かつたが、その後はすつかり興味を失つてゐたので、殿樣の怒つたやうに、ここ二百年ほどは領内の者に害を加へたことはさらになかつたのである。わしは綠川の一人暮しがほんに氣樂で、大半は眠つてばかりゐたし、起きてゐるときも欠伸(あくび)をするのが仕事で、人間などに見むきもしたことはない。綠川は川幅がせまく、曲り角の多い急流で、ところどころ瀨や淵や瀧や、ものすごい渦を卷いてゐる箇所があり、平穩な川とはいへなかつた。水底には岩石が山脈のやうにつらなつてゐるところが多く、よほど熟練した船頭でないと、安全に水路を乘りきることはできないのである。したがつて年に數囘の事故の絶えたことがなく、水死人も出たわけであるが、それがありがたくないことにみんな河童のせゐにされた。しかもその河童を確實に見たといふ者が何人も出て來るのだからしかたがない。ところが年功經たわしが人間から姿を見られるといふことは絶對にないわけで、人間たらがまことしやかに述べる河童の姿といふものは、このわしとは似ても似つかぬものだつた。といつて、人間どもが河童にあらぬ濡衣(ぬれぎぬ)をきせたところで、別段わしにとつてどうといふこともないわけだつたので、ふだんはわしもただ苦笑してゐるだけで、人間どもの勝手にまかせておいた。ところが、今度ばかりはさうのんきにはして居られなくなつたのだ。愛する小姓を殺された城主が河童退治を思ひたつと同時に、早速實行にとりかかつたからだ。加藤淸正とい大將の武勇傳はわしも聞いたことがある。朝鮮で虎を退治た話だの、地震のまんなかに飛びこんで行つた話だの、赤ん坊のときに重りにつけられてゐた石臼をずるずる引きずつて遊んだ話だの、みんな獰猛(だうまう)な話ばかりだつた。膝までとどく長い顎髭をたらし、賤(しづ)ヶ嶽では七本槍の筆頭として鳴らし、大身の槍をりゆうりゆうとしごく姿は人をふるへあがらせたといふ。そんな有名な大將が怒髮(どはつ)天をつくいきほひで、河童征伐を思ひたつたのだから、そのはげしさは言語に絶してゐた。まづ綠川の兩岸に甲胃(かつちう)に身をかためた數千の軍勢がくりだきれた。旗さしものをひるがへし、刀、槍、弓矢、織砲をたづさへた兵隊たちは、十數隊にわかれ、各段長の指揮のもとに、部署についた。陣太鼓がうち鳴らきれ、法螺貝(ほらがひ)のひびきがあたりに鳴りわたつた。總大將の加藤淸正は、緋おどしの鎧に、赤い陣羽織、烏帽子兜に馬割靴、自慢の槍を片手に綠川の中流にある八幡神社に出ばつて、みづから采配をふるった。本陣には蛇の目紋章入りの幕が張りめぐらされた。附近の町民や村民は徴發されて人夫となり、櫓を組み、兵粮をはこび、炊きだしをした。米麥、野菜、副食物、水、薪、牛、馬、その他の供出を命ぜられた。町や村の娘たちは、陣中の兵隊の伽(とぎ)をするために狩りだされた。酒樽がはこばれて、鏡が拔かれ、氣勢はさらにあがつた。夜になると、あかあかと篝火がたかれ、つらなつた兩岸のその明りは川の面に映じて、ときならぬ火の亂舞を現出した。攻撃がはじめられる。隊長の指揮にしたがつて、數十隊にわかれた鐡砲隊は、命令一下、河中にむかつて一差齊藤射撃をした。土手に据ゑられた大筒から、砲彈が水しぶきをあげて川に射らこまれた。向かふ鉢卷をした十數名の村民が土手の上から川のなかへ、屁つぴり腰で唾(つば)をはく。その唾が散つたならばその下に河童はゐないが、唾がかたまつたままくるくる舞ふと、その下にかならず河童がゐるといふのである。ときどき唾はくるくる水のいきほひで廻る。するとそれとばかりその下にむかつて大砲と、數十挺の鐡砲がうちこまれ、爆雷が投げこまれる。飛沫は散り、水柱が立ち、すさまじい轟音は川を中心にして附近の村々山々にとどろきわたつた。川上からは毒がながされて、川の水は紫色になつた。なんの毒であらうか。淸正は南蠻わたりの祕藥を多く藏してゐるときいたこともあるので、或ひは舶來の劇藥かも知れない。韮(にら)に似た臭氣がして、たちまちに川の面には魚たちが白い腹を横にして無數に浮きのがる。魚類はもとより、蝦、蛙、源五郎、鰻(うなぎ)、水すまし等水中に棲息するあらゆる動物は全滅した。ところが河童の死骸は一匹も出て來ないのである。多くの小舟が浮かべられて、熊手や鉤(かぎ)のやうなもので水底が搜索された。投網(とあみ)がうたれた。河童はかかつて來なかつた。川岸の數箇所で、石燒きがはじまつた。薪が山と積みあげられ、えんえんと焰が狂ひ、巨大な數千の石がそのなかで熱せられた。また家のやうに大きな釜で熱湯がわかされた。石も湯も綠川のなかに投げこまれた。河童は湯にあへば力落ちて死ぬるといふことが文獻にあらはれてゐるといふのである。ところがこの事業は生やさしいことではなかつた。眞赤に燒けた巨岩を川岸まで運ぶために、鐡の車が用意されたが、燒石を車にのせるために多くの兵隊や村民が火傷する始末だつた。ときにはうまく車にのらず、轉げ落ちた石の下敷になつて、何人もが壓死した。熱湯をあびてただれる者も少くなかつた。日夜椿事は相ついで、被害者の數は増すばかりである。ところでいかに細い川とはいへ、流れてゐる川を燒石と熱湯とで湯にしようといふことはまづ無謀といつてよかつた。上流をせきとめて川を干すことが考へられた。ところが、せきとめられた上流の水ははけ口がなくて、附近の町や村へ洪水をもたらした。田畠は水につかり、疊の浮く家ができた。水に追はれた領民たちは家財道具を積んで避難した。そのため本流の水は減つたけれども、河童の姿はあらはれなかつた。毒ながし、燒石、熱湯、砲撃、爆雷、集中射撃等はたゆまず續けられた。この川の魚をとることによつて生活してゐる多くの漁夫もゐたわけであるが、さういふ連中がもはやその職を失つたことはいふまでもない。のみならず彼等はそのときには川の練達者として案内人に徴發され、あちこちに唾をはき散らしては、水底にするどく眼を放つてゐたのである。夜に入ると天をこがす篝火のあかりとともに、喧騷はさらに絢爛(けんらん)さを増した。どんな盛大な祭だつて、これほど派手ではあるまい。八幡境内のはりめぐらした幔幕のなかにどつかと腰をすゑた大將加藤淸正は成果のあがらぬもどかしさに、いらいらと唇を嚙んでゐた。部下を叱咤激勵した。怒りに燃える狂氣のまなざしで、家來どもの無能を罵倒した。多くの猿の鳴き聲がきこえて來て、わしも眼をみはつた。どこからこれだけの猿があつめられたのか、うようよとつながれた千匹にちかい大猿小猿が、どんぐり眼を廻轉させ、齒をむきだして、けたたましく叫びかはしながら、川の南岸に群れてゐた。河童と猿と對決させるつもりであらうか。なるほど猿に負ける河童もあるにはある。どこもいろいろな物識りが居るとみえる。わしはこれらの一份仔什(いちぶしじゆう)を瀧口のうへに胡坐(あぐら)をかいて見物して居つた。そこは淸正の本陣のすぐ上なのに、わしの姿はたれにも見えない。ここは特等席だから、一切の騷動が手にとるやうにわかる。つまりはこの途轍もない動員と騷擾(さうぜう)はわしひとりのためにおこなはれて居るわけなのだ。わしははじめはくすぐつたかつたり、をかしかつたり、あきれたり、面白かつたりで、笑ひがとまらず、好奇心で眼をきよろつかせてばかりゐたのだが、何日も同じことが飽くこともなくくりかへされるのを見てゐるうちに、妙に胸につかへるものを感じて來た。自分でもわかるほど不機嫌になつて來た。そのときから綠川に住むことをやめようと思ひたたつたのだけれども、そのときわしが氣が鬱して來たのは、なにも住む場所を荒らされた腹立ちばかりではなかつた。それもあつたけれども、そんなことよりも、わしはいつか奇妙な薄氣味わるさを感ずるやうになつてゐたのだ、なんに? だれに? 相手のない騷ぎに熱中してゐる人間どもの馬鹿馬鹿しさ、その張本人加藤淸正、たかが小姓一人を失つただけで大勢の人々の迷惑、苦しみなど一切かへりみない暴君、傳説の虛妄(きよまう)にとりつかれてまことしやかなしぐさをくりかへす白々しさ、阿呆らしさ、さういふものをわしは輕蔑に値すると考へてゐた。何十日同じことをつづけたところで、一匹の河童もかかる筈はないのだ。これほど馬鹿げたことが世にあらうか。わしはこれをどんなにでも嘲笑することができる筈なのだ。ところが……妙なことに、わしはしだいに嘲笑するどころか、氣味のわるさで身體がすくむ思ひがして來た。これは明瞭に人間どもの敗北であるにもかかはらず、なにか、負けたのはわしの方ではないかといふ不思議な錯覺がわいて來たのだ。わしは不愉快さで首がちぢまつた。そんな馬鹿なことはない。現に自分はかうやつて、瀧口のうへから、愚かな人間どもの所行を傲然(がうぜん)とながめおろしてゐる。かれは傳説の虚妄にむかつて空虛な挑戰をしてゐるだけではないか。わしはふつと考へた。なるほど、自分も二百年ほど前にはときどき人間にいたづらをしたことがある。さすればやはり傳説をつくりだしたものは自分で、いまは堅氣になつたとはいへ、その傳説の亡靈は人間どもの歴史のなかには現實としてのこつてゐたのか。とすればあきらかに戰ひは自分に挑(いど)まれてゐるわけになる。がいづれにしても、人間どもの負けではないか。たしかに負けだ。自分は絶對に安全であるうへに、人間どもの騷動は莫大な費用と時日と犧牲とをかけたにもかかはらず、なんらの成果もあがらない。……さう思ふのに、わしはすこしも釋然とせず、逆に氣が鬱して來るばかりなのだ。嘲笑されてゐるのが自分の方のやうな、いやな錯倒がおころ。……わしはそのときの不思議な豫感がのちになつて、傳説の掟(おきて)をもくつがへすやうな結果もたらしたことを知つたのだが、……そのときはただ無性に憂鬱でしかたがなかつた。眉をあげた加藤淸正はやがて確信をもつて、綠川の河童はすでに剿滅(さうめつ)されたと宣言した。さうして奇妙な戰鬪はうち切られた。人々は弊歡喜して明君淸正の功業をたたへた。ここに新しい傳説が創造されて、綠川の河童は勇猛なる淸正公の威光におそれて逼塞(ひつそく)したといふことになつた。かくて人間どもの間で淸正の偉大な名はこんにちにいたるまでたたへられてゐるのである。さすれば勝つたのは淸正で負けたのはわしだといふことになるが、わしがあのとき不氣味さに戰慄したのは、さういふやうな淺墓な勝利と敗北の觀念にかかはるものではない。もつと具體的なつまらぬことなのだ。それはあの騷動の結果、綠川といふ川の姿がまつたく變つてしまつたといふことである。狹く角の多い急流だつた綠川は、いまは坦々とゆるやかな淸流になつた。ながされた毒は時間の經過とともに洗ひきよめられて、自然の理によつて魚類をはじめあらゆる生物が復活した。かれらはもはや不必要に急流にさへぎられることもなく、至極悠々と游弋(いうよく)してゐる。あのとき河中に投じられた無數の彈丸と爆雷と砲彈とは、山脈のやうに凹凸のはなはだしかつた川底の岩石を微塵にくだいて、川底はいまは扁平となつた。ながれをせきとめたり、曲げたり、ほとばしらせたりするものがなくなつて、水はしつかにながれるやうになつた。おまけにあのときは上流をせきとめて洪水をおこしたが、それはいつの問にかいつかの放水路になつて、大雨のときにも水量がそんなには增さず、奔流となることも洪水をおこす危險もなくなつた。つまり、平穩な川となつたわけで、……ここが大切なのだが、川での事故といふものがほとんどなくなつたのだ。狂暴な城主の情熱が自然を修正した結果、傳説がその證明をする契機を生じたのだ。さうしていまにいたるまで、淸正の名は不滅のものとなつて、傳説と歴史のうへに君臨してゐる。さすれば、いつたいわしは勝つたのだらうか? 負けたのだらうか?

 この話があつてから數日の後、球磨川の水底を脱出した數匹の河童があつた。不禪坊はみづからの借問に陶醉してゐて、とるに足らぬ孫のごとき小河童どもが、自分の膝下から出奔したことなどはまるで知らなかつた。聞いたとしても氣にもとめなかつたであらう。脱走した河童たちは綠川にやつて來た。さうして先輩が四百年の甲羅を經るまで住み古るしたといふ歴史の川に來て、大きな吐息をついた。しかしいまはいたづらに感傷にふけつてゐるときではなかつた。示しあはせた河童たちはただちに活躍を開始した。土手を通る犬をみつけて川のなかに引きこんだ。馬の尻尾をつかんで淵へ落しこみ溺らせた。子供の尻子玉を拔いた。月の夜の土手で人間を待つて角力を挑んだ。かれらは三百年の昔、加藤淸正のつくりだした傳説の轉覆と、過去の權威への抹殺とを志したのである。かれらはまだ幼く力が足らなかつたけれども、全力をそのことに傾注する決意をした。不禪坊の話をきいた後、先輩の話にはなはだしい不滿を感じた。さうして仲間をかたらつたが、たれも一笑に附して相手にならなかつた。同志は數名しかゐなかつた。かれらは綠川に來ると、たらまちありたけの力をふるつて、河童の存在を示すことにつとめた。ところが一匹が犬を川に引きこんだとき、村人はぼやつとした馬鹿たれ犬奴(め)と犬の方を笑つた。つれてゐたかつぽん下駄の少女は泣きはしたが、自分が不注意だつたのだと犬に詫びた。馬を淵で溺れさせたとき、馬車引きは自分の不運をなげき、やつぱり厄年だといひ、その淵の崖を修繕しなくてはまた同じ過(あやまち)があらうと村人に注意をした。子供の尻子玉を拔いたとき、この子は泳ぎの下手なくせに、こんな深いところで遊ぶからいけない、大方心臟痲痺でもおこしたのだらうと噂した。土手で角力をとつた男は氣ふれたのだと村人から笑はれた。努力は徒勞なつて、河童たちは完全に默殺された。それがすべて過去の權威のしからしむるところ――明君加藤淸正が綠川から永遠に河童を放逐したといふ頑強なる傳説の虛妄にしたがつてゐることを知つて、河童たちはいらだつた。さうしてあの河童退治の騷ぎのとき、のめのめとこの川を退散し大先輩へ突如としてはげしい輕侮の念がわいた。河童たちの焦躁は危險をともなつた。牛を瀨にみちびきいれんとした一匹はしたたかに角にはねあげられて、頭の皿を割つた。息絶え絶えになつて、快復まで永い時間を要した。一匹は按摩の杖にうちたたかれて橋の上から落ち、甲羅の數枚にひびが入つた。しかしながら、かれらの妄執はいつかな去るときがなく、目的を達するまでは綠川を去らうという考へは毛頭なかつた。川岸の八幡の境内に淸正を祭つた小廟があつて、繪馬堂に、當時の河童征伐の光景をあらはした一枚の繪馬があつた。古ぼけて繪具がところどころ剥げ落ちてはゐたが、全貌はあきらかだつた。砲彈と燒石と毒と爆雷とに、のたうち苦しんであへない最期をとげる數百匹の河童が描かれてゐる。阿鼻叫喚(あびけうくわん)の地獄といつてよく、その凄慘きは眼をおほひたいほどである。中央に甲冑に身をかためた加藤淸正が、一つは缺けた三つ穗の槍をしごき、巨大な眼玉を憎々しげに光らせて、つつ立つてゐる。河童たちは怒りと悲しみとに興奮して、繪馬のなかの淸正をさんざん搔きむしつた。眼をつぶし、鼻をもぎ、口を裂いた。手と足とを折つた。槍までへし曲げてしまつた。あとでこれを見つけ神主は鼠奴がつまらぬ惡さをすると、いまいましげに舌打ちした。そして、ペつと唾をはいたので、油斷してゐた一匹はそのとばちりを食ひ、そこから腐つて膿(うみ)が出るやうになつた。

[やぶちゃん注:「綠川」熊本県中部を流れる一級河川。宮崎県境の向坂山(標高一六八四メートル)及び小川岳(標高一五四二メートル)の西麓に発し、西流する(現在は上流に緑川ダムがある)。甲佐町で北西に流れを変え、嘉島町南部で熊本平野に出て、再び西流へ転じ、宇土半島の北側基部から有明海に注ぐ。現在でも水源から美里町辺りまでは谷が深く、滝が多く見られる。特に山都町には「矢部四十八滝」とも呼ばれるくらい滝が多い。谷が深いため架橋数が少なく、台地から谷を越えて架かる橋は内大臣橋と鮎の瀬大橋のみであり、橋から遠い集落に住む人たちは、谷を渡るにはかなり迂回しなければならない(ウィキの「緑川」に拠る)。

「球磨川」熊本県南部の人吉盆地を貫流して川辺川をはじめとする支流を併せながら八代平野に至り、有明海と宇土半島を隔てた八代海(不知火海)に注ぐ一級河川。熊本県内最大の川であり、最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つ。球磨郡水上村の石楠越(標高一三九一メートル)及び水上越(標高一四五八メートル)を源流とし、人吉盆地の田園地帯を西に流れる。人吉市を過ぎてからは九州山地の狭い谷間を縫って流れ、JR肥薩線と国道二一九号が併走する。球磨村の球泉洞の付近で流れを北向きに変え、八代平野に出て分流し三角州を形成、不知火海に注ぐ。球磨村の辺りは日本でも有数の急流で、数多くの瀬がある。もともとは七十六の瀬があったが、ダムができたため、現在は四十八の瀬となっている。その中で、「二俣の瀬」、「修理の瀬」、「網場(あば)の瀬」、「熊太郎の瀬」、「高曽(たかそ)の瀬」が球磨川五大瀬と呼ばれている。四方を深い山々に囲まれ外界から遮断されている人吉盆地は内陸型気候で昼夜の寒暖の差が激しく、そのために秋から春にかけて盆地全体がすっぽりと霧に覆われてしまうことが多い。年間百日以上も朝霧が発生し発生頻度は日本で一、二を争う(ウィキの「球磨川」に拠る)。

「筑後川の頭目九千坊」絵師熊猫堂氏のHP「魔獣絵師画廊跡地」の「九千坊河童」記載から引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代えさせて戴いた)。九千坊河童『は元は中国の生まれだと言われ、仁徳天皇の治世の頃に一族郎党を引き連れて海を大遠泳の末に熊本・八代の浜辺に辿り着き、其処から九州一帯に勢力を広げて行ったと伝説では語られている(それ故、熊本では八代の地を“河童渡来の地”と定め、記念の碑が建てられている)。「九千坊」の名は、彼の一族が九千匹も存在した事に因む命名である』。『海を大遠泳した末の繁栄振りからも彼等の膂力の強さが伺えようモノだが、日本に腰を据えてからの彼等の傍若無人振りもなかなかのモノだった。向かう所敵無し、常勝不敗の「九千坊」だったが、そんな彼も生涯に二度だけ大敗を喫した事が有る。一度目は、』関八州の全ての河童を統括していた女河童である祢々子(ねねこ)河童(リンク先は同じく絵師熊猫堂氏のページ)『の一族と、利根川の所有権を巡って争いになった時。この時の事は河童同士の事とて、記録には詳しく記されていないが、兎に角「祢々子河童」が「九千坊」を打ち負かした事だけは明らかになっている。そしてもうひとつの黒星が、猛将・加藤清正(かとうきよまさ)との争いだった』。『各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂には河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重なる清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治する福岡の筑後川であった』。『有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うなら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす」と「九千坊」に申し渡した。「九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守る事を誓ったと言う』。『「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう』と、本話創作の元となった伝承の一つを美事に解説して下さっている。

「阿蘇の奈羅延坊」不詳。

「加藤淸正」(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)は天正一四(一五八六)年からは秀吉の九州征伐に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国一九万五〇〇〇石を与えられ、熊本城を居城とした。本話では河童殲滅作戦の副次的産物のように描かれる治水は、清正の肥後に於ける事業の中では最も知られたものである。以下、ウィキの「加藤清正」より、引用すると(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『清正が肥後国を治めていたのは、天正一五年(一五八七年)から慶長一六年(一六一一年)の期間だが、朝鮮出兵等もあって実際に熊本に腰を据えていた期間は、実質延べ十五年程である。清正以前の肥後は有力大名が現われず国人が割拠する時代が続き、佐々成政でさえも収拾できず荒廃していた。そんな中、清正は得意とする治水等の土木技術による生産量の増強を推し進めた。これらは主に農閑期に進められ、男女を問わず徴用されたが、これは一種の公共工事であり、給金も支払われた為みな喜んで協力したという』。まず、白川・坪井川大改修が挙げられる。『以前は白川と坪井川は現在の熊本市役所付近で合流し、下通を貫いて今の白川に流れていた。現在の流路に変更したのは清正である。熊本城築城の際、熊本城築城の予定地の側に、現代で言うところの都市河川である坪井川と、阿蘇からの火山灰を含んだ白川が合流する様を見て、これは流路を分けて、城に近い坪井川を内堀に、遠い白川を外堀として、河川改修を行った。また当時の技術に於いて更に下流にある再合流地点に石塘を築き両河川を河口まで分流した。それは、それよりも下流の地域まで氾濫から未然に防ごうとする設計だった』。次に本話と関連がある熊本四大河川改修が挙げられ、『白川坪井川の付替、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰、菊池川に於ける各種改修等。これにより広大な穀倉地帯が生まれた』とし、また、『熊本平野・八代平野・玉名平野への干拓と堤防の整備。これにより海岸に近い地域にも広大な畑作地域が生まれ』、更に『白川水系の主に熊本平野への灌漑事業に於ける、非常に実験的な用水技術(馬場楠井手)等』、『当時としては先進的な測量・土木技術の賜物である。今日の農業用水確保はこの時代の遺構に頼る面が少なくない』ともあり、『なお、現在の堀川は加藤忠広が着工し、細川忠利の時代に完了した。白川と坪井川を結ぶ農業用水路である』と記す。他にも『田麦を特産品化して南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮している』とあって、本話はちょっと、清正公は怒り心頭に発するばかりでなく、清正を崇敬する熊本県人には不快を催させる作品ではあろう。

「馬割靴」恐らくは騎馬実戦用の乗馬靴らしいが不詳。「馬割」は通常は「うまわれ」と読み、大坂から米を運送する場合、一〇石の米の内の半分を馬荷によって運送し、他の五石を上荷船により運送したことを言うが、本熟語との関連は不明。

「八幡神社」同定不能。最も知られるものは熊本県熊本市中央区井川淵町にある熊本の総鎮守藤崎八旛宮であるが、位置が緑川よりも有意に北過ぎ、「綠川の中流にある」や後文の「川岸」という条件に合わない。識者の御教授を乞う。

「河童と猿と對決させる」これは熊本県甲佐(こうさ)町の猿王堂や金八水神に纏わる伝承に基づくものと思われる。昔、緑川が二つに分かれ、龍野の下と乙女の下を流れていた頃の民話で、乙女村に住む盗賊の首領金八の配下の河童軍団と阿蘇大宮司によって遣わされた甲佐岳の猿軍団との全面戦争(猿軍の勝ち)である。甲佐町の公式HPの「甲佐町の民話・猿王堂」で読める。

「剿滅」掃滅に同じい。]

一言芳談 六十三

  六十三

 顕性房云、心ぐるしき悕望(けまう)どもをなげすてゝ、たゞありのまゝなる心にて、ひらに名號をとなへんと思ひとることきはめてすくなし。黑白(こくびやく)を辨(わきまへ)ざるほどの者になりて、平(ひら)に念佛せんと、思へる意樂(いげう)を眞實におこせる人もなきなり。阿彌陀佛の本願他力の不思議をば、いかほどのちからと知りたるやらん。人ごとに分際(ぶんざい)を作りて、罪惡の身をかへりみて、佛力法力(ぶつりきほふりき)におもひつかざるなり。然る間、罪業も、いよいよとゞまらざるなり。これは返々(かへすがへす)もあしき心なり。

〇心ぐるしき悕望、名利(みやうり)をもとむるなり。

 惠心云、求名顧衆身心共疲。求功成善悕望彌多。不如孤獨無境界。不如稱名抛萬事。

〇ありのまゝ、誠に往生がしたくて、たゞ申なり。名利の心もなく、智惠だてもなきを平(ひら)にといふ。

〇他力の不思議、かの佛の慈悲は深きこと海のごとし。その本願の力なれば、いかなる惡人もたすけられずといふ事なし。しかるに、われは是程の罪人なれば、往生しがたからんといふは、指にて海をはかりて、淺しといはんがごとし。

〇他力法力、法力とは名號の力をいふなり。

 道氤(いん)法師云、佛力法力三賢十聖亦不能測。

[やぶちゃん注:この条、大きな異同が多い。まず、極めて大きな相違点が冒頭の、

 ひらに名號をとなへんと思ひとることきはめてすくなし

の出現する。この部分は、Ⅱでは(漢字はそのまま)、

 平に名号をとなへんと思へるごときは、はてすくなし

Ⅲでは、判読する限りでは(判読のママを示す)、

 互(たがひ)に名号をとなへんと思ふつるはきはめてすくなし

としか読めない。Ⅱの「ごときは」も「はてすくなし」は私には不自然な言辞に感じられる。暫くⅠに従うが、「思ふつる」に難はあるものの、Ⅲも捨て難い。多くの修行僧の中で、複数の修行僧が、名号をただありのままの心で唱えるということを選択し合うということが極めて少ない、という集団での修行効果の難しさを示唆しているようにも思われるからである。

 「黑白を辨ざるほどの者」の「者」はⅡ・Ⅲでは「物」とある。Ⅰに従う。

 次に、

 阿彌陀仏の本願他力の不思議をば

の部分はⅡ及びⅢでは、

 阿彌陀仏の本願他力の不思議の身をば

とする。「の身」は、そうした本願他力の不思議を備えられた霊的存在である阿弥陀から守られた我が身という意で、あった方が正確であるように思われるが、文脈上の変化は起こらないので、Ⅰに従う。

 次いで、

 いかほどと知りたるやらん

の部分はⅡ及びⅢでは、

 いか程のちからと知りたるやらん

とする。「の身」が省略されれば、「ちから」はなくてもよく、意味の通りもすっきりする。Ⅰに従う。

 また、

 罪惡の身をかへりみて

はⅢも同じであるが、Ⅱでは、

 罪惡の身をかへりみで

と、打消の接続助詞「で」である。その方が通りがよいとは思われるが、「罪惡の身をかへりみて、仏力法力におもひつ」く全体が打消の助動詞「ず」の連体形「ざる」によって打ち消されていると読むことが出来るので、Ⅰ・Ⅲに従う。

「悕望」「希望」と同義でも用いられるが、ここは悪い意味での、世間の評判や利益に対する欲望を指す。因みに、「正法念処経」では餓鬼道には三十六種の餓鬼がいるとするが、その中に「悌望」という餓鬼がいる。ウィキ餓鬼」によれば、『貪欲や嫉妬から善人をねたみ、彼らが苦労して手に入れた物を詐術的な手段で奪い取った者がなる。亡き父母のために供養されたものしか食せない。顔はしわだらけで黒く、手足はぼろぼろ、頭髪が顔を覆っている。苦しみながら前世を悔いて泣き、「施すことがなければ報いもない」と叫びながら走り回る』という。

「佛力法力」「佛力」は仏の持つ計り知れない能力・威力を謂い、「法力」仏法の功徳の威力、大橋氏の脚注では、『仏・菩薩が威神力を衆生に加えたすけて利益を与えること』と区別されておられる。

「惠心云、求名顧衆身心共疲。求功成善悕望彌多。不如孤獨無境界。不如稱名抛萬事。」をⅠの訓点を参考に書き下しておく。

 惠心云はく、「名を求め、衆を顧みれば、身心共に疲る。功を求め、善を成せば、悕望、彌々(いよいよ)多し。如かず、孤獨にして、境界、無からんには。如かず、稱名して、萬事、抛(なげう)たんには。」と。

「道氤法師云、佛力法力三賢十聖亦不能測。」をⅠの訓点を参考に書き下しておく。

 道氤(だういん)法師の云はく、「佛力法力は三賢十聖も亦、測ること能はず。」と。

「道氤」(六六八年~七四〇年)は唐代の法相宗の僧。法相宗第二祖とされる慧沼(えしょう 六四八年~七一四年)の弟子で、陝西省生。青龍寺(せいりゅうじ・しょうりゅうじ)の道氤として知られるが、この寺は陝西省の古都西安市南郊の鉄炉廟村にあり、空海ゆかりの寺としても知られている寺院である。

「三賢十聖」既出。「三十八」の私の注を参照。]

2013/01/13

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 三 擬態~(2)

Sukasibaga

[すかしば]

 しかるに不思議なことには、味も惡くはなく、惡臭も放たず、毒もなく螫しもせぬ昆蟲で、しかも著しい色彩を有するものが幾種類かある。これらは、よく調べて見ると、必ず同じ地方に産して鳥類などに敬して遠ざけられて居る種類のいづれかに頗るよく似て居る。例へば蛾の類に「すかしば」〔スカシバガ〕と名づけるものがあるが、他の蛾類が通常灰色かまたは鼠色で一向目立たぬに反し、體には黄色と黑との横縞があつて頗る著しい。一體、蝶・蛾の類は鱗翅類というて、翅は一面細かい鱗粉で被はれて不透明であるのが規則であるに、この蛾は蛹の皮を脱ぐや否や翅を振つて鱗粉を落とし捨てるから、例外として全く透明である。その上他の蛾類は晝は隠れ夜になつて飛び廻るものであるが、この蛾は晝間日光の當つて居る處を好んで飛んで居る。かくの如く白晝身を現すことを少しも恐れぬが、その飛んで居る所を見るとまるで蜂の通りであるから、蜂と見誤られて敵の攻撃を免れることが出來る。外見が蜂に似て居れば、敵の攻撃を逃れる望みが多いから、「すかしば」の外にも一寸、蜂に似た昆蟲は幾らもあるが、かやうに敵に食はれぬために、他種類に似ることを擬態と名づける。

[やぶちゃん注:以下、ベイツ擬態の解説に入ってゆく。ベイツ擬態とは、無毒で比較的脆弱な生物が有毒種や獰猛な危険種などの真似をすることを言う(既に述べられた被摂餌種の天敵でない安全種に真似て眼を晦ましておいて捕食するところの――これは同じく既に述べられたように自分の自己天敵からの防衛にも用いられる――隠蔽型もこれに含まれる)これはイギリスの探検家ヘンリー・ベイツ(Henry W. Bates 一八二五年~一八九二年)が一八四九年頃から南米大陸を訪れて調査した際、有毒なドクチョウに似た無毒のシロチョウの仲間に気付いたのが始まりで、以来、 “Batesian Mimicry”(ベイツ型擬態)と呼ばれるようになった。

「すかしば」チョウ目Glossata 亜目Heteroneura下目スカシバガ上科 Sesioidea スカシバガ科 Sesiidae に属するスカシバガの仲間。私は真っ先にコシアカスカシバ Scasiba scribai が頭に浮かぶ。これは文句なしにキイロスズメバチ Vespa simillima xanthopteraに似ている。いや、大型個体は私はかの恐ろしきオオスズメバチ Vespa mandarinia に似てさえいると思っている(嘘だと思うなら、御用達の「みんなで作る日本産蛾類図鑑」のここをどうぞ。但し、私に輪をかけて昆虫系がおしなべて駄目な人はクリックするべからず)。日光沢や恐山の露天風呂では、こいつが一匹、周囲を飛び回っていて、「コシアカスカシバ」だよな、と分かっていながら(これが分かるようになったのは三十過ぎであるので、最早、オオスズメバチの恐怖のオペラント学習附けが消去出来ないのである)、大騒ぎをして走り廻ってしまったのを思い出す。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 堂ヶ島 塔ノ沢

    堂个嶋 塔の澤

 宮の下より五六丁ゆきて、堂が嶋の湯なり。こゝにも内湯・瀧湯あり。湯の味(あぢ)鹽(しほ)はゆくして、癪(しやく)・支(つかへ)・痺(しびれ)によし。堂が嶋より一里半、塔の澤なり。こゝはいたつて景色よきところにして、山を勝麗山(しやうれいさん)といひ、川を早川といふ。この湯は、まことはかくして養生湯(ようじやうゆ)なり。諸病(しよびやう)によし。湯宿(やど)も奇麗風流にて、入湯(にうどう)の人もおほく、軍書・講釋・落語(おとしばなし)・楊弓(ようきう)もありてにぎはしき所なり。これより十町ゆきて湯本なり。

〽狂 鳴(なり)ひゞく

 太鼓(たいこ)の堂(どう)が

嶋なれや

 どんと

入こむ

湯宿繁昌(ゆやどはんじやう)

旅人

「わしは、れいの生醉(なまよひ)になつて、つい友だちの三五郎といふものゝ嬶衆(かゝしゆ)へぢやらつきだして、やつと相談のできたところへ亭主がかへつて、

『こいつらはふとい奴らだ。』

と腹をたつて、儂(わし)に

『七兩二分だせ。』

といふ。わしも、しかたがないから、

『いかにも承知(せうち)だが、今はじめて、たった一度のことだから、もふちつとまけてくれろ。』

といつてもきかず、

『ぜひ、七兩二分でなければ了見(れうけん)せぬ。』

といふから、家(うち)へかへつて、しかたなく家の嬶衆へうちあけて、この事をはなし、

『きうに金の工面(くめん)をせねばらぬ。』

といふとき、わしの嬶(かゝあ)のいふには、

『三五郎さまなら、金をやるにはおよばぬ、あつちから七兩二分とつてござれ。』

といふゆへ、

『それはどうしたわけで。』

ときくと、嬶のいふには、

『去年(きよねん)、お前が箱根の湯治にいつた留守に、三五郎さまがござつて、妾(わし)にしなだれかゝり、とうとう二夜(ふたよ)さ、妾の寢床へとまりました。たつた一度で七兩二分なら、三五郎さまは二度だから、こっちへ七兩二分借(かり)をとつてこい。』

といふ。

『こいつはでかした。』

そんならそうと、その譯(わけ)を先(さき)へはなして、こつちへ七兩二分とりましたから、

『今度も、どうぞ、おれが留守に、そんな口(くち)をこしらへておけ。』

と女房(ばう)へいひつけておいて、それでまた、此湯治場へでかけました。」

[やぶちゃん注:「堂个嶋」堂ヶ島温泉は宮ノ下付近の国道一号から早川渓谷へと下った谷底にある、夢窓疎石が開いたとされる温泉。現在は「対星館」と「大和屋」の二軒で、それぞれ国道から私設の、前者がモノレール式ケーブルカー、後者がロープウェイを利用して下る。私はどちらも行ったことがあるが、特に前者は、私が幼稚園児の頃、父母が預かっていた従兄弟二人の五人で泊まった忘れられない宿だ。その頃、まだケーブルカーがない時代、急な坂道を転げそうになって降りて行ったのを覚えている。従兄弟を本当の兄貴たちだと思っていた、僕にはサン・スーシの、幸せな時代だった。……

「塔の澤」塔之沢温泉は箱根湯本温泉の奥にある温泉。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉、神経痛・関節痛・冷え性に効く。伊藤博文や「篤姫」でブレイクした天璋院(てんしょういん)ゆかりの温泉としても知られる。

「癪(しやく)・支(つかへ)」「支」は癪と同義でも用いるが、ここでは、「癪」は、所謂、腹部や胸部の非常に強いさしこみ、特に腹部を強い突発性の激痛を指しているのに対して、「支」は主に胸がつかえる感じと、部位と強度の相対差で使い分けているように思われる。

「楊弓」本来はヤナギで作られた遊戯用の小弓。転じて、楊弓を用いて的を当てる遊戯そのものを指す。弓の長さは二尺八寸(約八五センチメートル)、矢の長さは七寸から九寸二分とされる。中国の唐代に始まったとされ、後に日本にも伝わり、室町時代の公家社会では、「楊弓遊戯」として遊ばれたが、江戸時代に入ると神社や盛り場などで楊弓場(ようきゅうば)または矢場(やば)と呼ばれる楊弓の遊技場が設けられるようになり、楊弓場には「矢拾女」「矢場女(やばおんな)」と称する、矢を拾ったり客の応対をしたりする女性がおり、これが後にしばしば娼婦の役目を果たすようになった。また、的に的中させた時の景品も時代が下るにつれて高価になっていったことから、天保の改革では、売春と賭博の拠点として取り締まりの対象となった。幕末から明治初期にかけて全盛期を迎えた(以上はウィキ楊弓に拠った)。]

耳嚢 巻之六 英雄の人神威ある事



     又

 

 肥後の熊本には、加藤淸正の廟ありて、像も有之(これある)由。當領主細川家にても厚く尊崇ありて、供僧抔、嚴(げん)に附置(つけおき)、時々享膳(きやうぜん)香華(かうげ)備へける由。彼(かの)供僧なる出家、ある時膳をすへて亭坊(ていばう)へ下り候と思ひしに、淸正の像の覆ひにや、鼠の損(そん)さし候處ありしを、彼供僧言葉に不出(いださず)、心に思ひけるは、淸正は無双の勇剛にて異國までも其名轟(とどろき)し人なれば、鼠抔の害をなす事はあるまじき事と思ひながら、下山し暫く過(すぎ)て、膳具とり仕𢌞(しまは)んと彼山に上りけるに、拜膳の邊り血にそみ、膳の上に大きなる鼠を五寸釘にて差(さし)貫きありし故、彼供僧は氣絕するまでに驚きほうぼう下山しける故、外々の僧登りて彼處を淸め膳を下げけると、肥後のもの語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:題も同じ「英雄の人神威ある事」、主人公も加藤清正の霊の神霊譚。加藤清正は肥後国熊本藩初代藩主である。

 

・「當領主細川家」熊本藩加藤家第二代藩主忠広は寛永九(一六三二)年に改易され(駿河大納言事件(徳川忠長の蟄居部分)に連座したともされるが、この改易理由は不明瞭で異説が多い)て出羽国庄内丸岡に一代限り一万石の所領を与えられて体よく流され、加藤家は断絶、代わって同年、豊前国小倉藩より細川忠利が五十四万石で入封、以後、廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。参照したウィキ熊本藩」の記載によれば、『国人の一揆が多く難治の国と言われていた熊本入封に際しては、人気のあった加藤清正の治世を尊重し清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、加藤家家臣や肥後国人を多く召抱えたという』と記す。

 

・「亭坊」本来は住職だが、ここは単に僧坊の謂いである。内容から清正の廟は山上にあり、専属の供僧たちの詰所である僧坊はその山麓にある。

 

・「下り候」底本では、右に『(尊經閣本「下り可申」)』とある。これならば、「くだりまうすべし」と読む。

 

・「異國までも其名轟し人」清正は朝鮮の出兵の折り、朝鮮の民衆からも「鬼上官」(幽霊長官)と呼ばれて恐れられたという。

 

・「ほうぼう」底本のママ。但し、「ぼう」は底本では踊り字「〲」。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 英雄の人には神威のある事 その二

 

 肥後の熊本には、この加藤清正公の廟が御座って、公の像も、これある由。

 

 御当家領主細川家にても代々手厚く尊崇あって、供僧なども、しっかりと専属の者を申しつけて配し、時々に膳や香華を供えておらるる由。

 

 その清正公廟所でのこと。

 

 かの供僧なる出家、ある時、山頂の廟所の前に膳を据えて麓の僧坊へと下ろうと思うた、その折り――清正公の尊像の前をでも覆って御座った格子の隅ででも御座ったか――鼠の齧って壊(こぼ)ちたところがこれ御座ったを見つけたゆえ、この供僧、言葉に出ださずに飽く迄、何とのう、心内に思うたことには、

 

『……清正公は、これ、勇剛無双の御方にて、異国にまでもその名の轟き渡った人なれば……鼠なんどの害をなすなんどということは、これ、およそあるまじきこと、じゃが、の……』

 

なんど軽々なることを思いながらほくそ笑みつつ下山致いた。

 

 さても暫く過ぎて、膳具をとり下げて仕舞(しも)うたろうと、再び、かの山へと上ったところが――

 

……膳を配した辺り……

 

……これ一面、真っ赤に血に染まって御座って……

 

……膳の上には……

 

……これまた、猫のような大きなる鼠を……

 

……五寸釘にて刺し貫いて……

 

……載せてあった!……

 

「……かの供僧は、氣絶せんほどに吃驚仰天、踵(きびす)を返して走り出しますと、ほうほうの体(てい)にて下山致しました。……周りの者が訳を聴けども、膳も持っておらず、泡吹くばかりで、これ、一向に埒が開きませぬゆえ……とりあえずは膳を、と、その外の僧どもが代わりに急ぎ登って見れば、これもう、廟前は血だらけの修羅場と化して御座ったそうな。……その者どもがおっかなびっくり、綺麗に清めまして、贄の如く屠(ほう)られた大鼠の遺骸の、ぶつ刺された膳を、これ、うやうやしゅう僧坊まで下げて、御座ったとのことで御座います。……」

 

とは、私の知れる肥後の者の語ったことで御座る。

句集「今日」 昭和二十三(一九四八)年 一二〇句

■句集「今日」
(天狼俳句会より昭和二七(一九五二)年三月一日発行)

昭和二十三(一九四八)年 一二〇句

陳氏來て家去れといふクリスマス

クリスマス馬小屋ありて馬が住む

クリスマス藷一片を夜食とす

除夜眠れぬ佛人の猫露人の犬

猫が鷄殺すを除夜の月照らす

蠟涙の冷えゆく除夜の闇に寢る

切らざりし二十の爪と除夜眠る

朝の琴唄路に鼠が破裂して

うづたかき馬糞湯氣立つ朝の力

寒の夕燒雄鷄雌の上に乘る

老婆來て赤子を覗く寒の暮

木枯の眞下に赤子眼を見張る

百舌鳥に顏を切られて今日が始まるか

誰も見る焚火火柱直立つを

犬の蚤寒き砂丘に跳び出せり

北風に重たき雄牛一歩一歩

北風に牛角(ぎゆうかく)を低くして進む

靜臥せり木枯に追ひすがりつつ

木枯過ぎ日暮れの赤き木となれり

燈火なき寒の夜顏を動かさず

寒の闇ほめくや赤子泣く度に
朝若し馬の鼻息二本白し

寒の地に太き鷄鳴林立す

寒の晝雄鷄いどみ許すなし

電柱の上下寒し工夫登る

寒の夕燒架線工夫に翼なし

電工が獨り罵る寒の空

寒星の辷るたちまち汝あり

數限りなき藁塚の一と化す

醉ひてぐらぐら枯野の道を父歸る

汽車全く雪原に入り人默る

雪原を山まで就かのしのし行け

  波郷居

燒原の横飛ぶ雪の中に病む

マスク洩る愛の言葉の白き息

巨大なる蜂の巣割られ晦日午後

友搗きし異形の餅が腹中へ

女呉れし餠火の上に膨張す

膝そろへ伸びる餠食ふ女の前

餠食へば山の七星明瞭に

餠えお食ひ出でて深雪に脚を插す

暗闇に藁塚何を行ふや

春山を削りトロツコもて搬ぶ

雨の雲雀次ぎ次ぎわれを受渡す

祝福を雨の雲雀に返上す

雨の中雲雀ぶるぶる昇天す

梢には寒日輪根元伐られつつ

辨當を啖ひ居り寒木を伐り倒し

横たはる樹のそばにその枝を焚く

蓮池にて骨のごときを摑み出す

蓮池より入日の道へ這ひ上る

春の晝樹液したたり地を濡らす

麥の丘馬は輝き沒入す

暗闇に海あり櫻咲きつつあり

眞晝の湯子の陰毛の光るかな

靴の足濡れて大學生と父

靴の足濡れて大學生と父

不和の父母胸板厚き子の前に

體内に機銃彈あり卒業す

野遊びの皆伏し彼等兵たりき

靑年皆手をポケツトに櫻曇る

岩山に生れて岩の蝶黑し

粉黛を娯しむ蝌蚪の水の上

春に飽き眞黑き蝌蚪に飽き飽きす

[やぶちゃん注:「飽き飽き」の後の「飽き」は底本では踊り字「〱」。但し、初出である同年の『天狼』五月号の表記は上記の通りの正字表記である。]

天に鳴る春の烈風鷄よろめく

烈風の電柱に咲き春の里

冷血と思へばおぼろ野犬吠ゆる

蝌蚪曇るまなこ見ひらき見ひらけど

蝌蚪の上キューンキューンと戰鬪機

[やぶちゃん注:「キューンキューン」の後の「キューン」は底本では踊り字「〱」。]

一石を投じて蝌蚪をかへりみず

くらやみに蝌蚪の手足が生えつつあり

黑き蝶ひたすら昇る蝕の日へ

日蝕や鷄は内輪に足そろへ

日蝕下だましだまされ草の上に

鹽田や働く事は俯向く事

鹽田のかげろふ黑し蝶いそぐ

鹽田の足跡夜もそのままに

鹽田の黑砂光(て)らし音なき雷

蚊の細聲牛の太聲誕生日

麥熟れてあたたかき闇充滿す

蟹が眼を立てて集る雷の下

梅雨の窓狂女跳び下りたるままに

梅雨の山立ち見る度に囚徒めく

ペコペコの三味線梅雨の月のぼる

ワルツ止み瓢簞光る黴の家

黴の家泥醉漢が泣き出だす

黴の家去るや濡れたる靴をはき

惡靈とありこがね蟲すがらしめ

滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し

蟹と居て宙に切れたる虹仰ぐ

雲立てり水に死にゐて蟹赤し

かくさざる農夫が沖へ沖へあるく

海を出で鍬をかつぎて農夫去る

狂女死ぬを待たれ南瓜の花盛り

晩婚の友や氷菓をしたたらし

ごんごんと梅雨のトンネル闇屋の唄

枝豆の眞白き鹽に愁眉ひらく

枝豆やモーゼの戒に拘泥し

月の出の生々しさや涌き立つ蝗

こほろぎが女あるじの黑き侍童

  假寓

甘藷(いも)を掘る一家の端にわれも掘る

炎天やけがれてよりの影が濃し

靑年に長く短く星飛ぶ空

炎天の墓原獨り子が通る

モナリザに假死いつまでもこがね蟲

秋雨の水の底なり蟹あゆむ

  悼石橋辰之助二句

友の死の東の方へ歩き出す

涙出づ眼鏡のままに死にしかと

紅茸を怖れてわれを怖れずや

紅茸を打ちしステツキ街に振る

踏切に秋の氷塊ひびきて待つ

天井に大蛾張りつき假の家

耕せり大秋天を鏡とし

父と子の形同じく秋耕す

老農の鎌に切られて曼珠沙華

稻孕みつつあり夜間飛行の燈

赤蜻蛉分けて農夫の胸進む

豐年や松を輪切にして戻る

豐年や牛のごときは後肢(あとあし)跳ね

一言芳談 六十二

  六十二

 又云、仏たすけ玉へと思ふ心を、第一のよき心にてあることを、眞實に思ひしる事、人ごとになきなり。

〇たすけ給へ、此心の大切なる事は向阿上人の往生至要訣、歸命本願抄を見るべし。

[やぶちゃん注:湛澄はこれを同じ「安心」の部立に入れながら、二つに分けてしまい、しかも「六十二」を「六十一」の前にして続けて並べておきながら、「六十」はその九条も後に分離して配している。恐らく湛澄は読む者が、私が「六十」の注で述べたような、発話者をも巻き込んだ全命題への「偽」の感懐を持つこと――若しくは不全知の無効化捨象化へと赴くことを憂慮して、こんな分断と転倒をしたのだとしか、思われない。少なくとも、この三条はこの順で、ソリッドに提示されてこそ意味があると私は思う。そしてそれが「一言芳談」という魔書の持つ魅力なのであるようにも思うのである。因みに、この後も顕性房の条は「六十六」まで連続するのである。

恐らく「往生至要訣」向阿証賢述。延慶二(一三〇九)年成立。浄土宗第三祖良忠門下六流の内、一条流の流れをくむ著者証賢が、師である派祖礼阿然空の没後、浄土の法門についての異義・邪義を唱える者のあることを嘆いて相伝の正義を記したもの。]

北條九代記 壽福寺建立 付 栄西禅師の伝

      ○壽福寺建立  榮西禪師の傳

閏二月十二日尼御臺所の御願として一つの伽藍を建立し給ふ。昔、故下野國司源義朝の鎌倉龜谷(かめがやつ)の御館(みたち)は先祖八幡太郎義家奥州合戰の時此所に居住し給ひ、忠戰(ちうせん)の大功を遂(とげ)給ひしかば、義朝に至るまで世々相繼ぎて御館(みたち)となりしを、中比より荒廢して、松栢枝を交へ梟の聲凄(すさま)じく、荊棘(けいきよく)根(ね)を纏(まと)うて狐(きつね)の棲(すみか)騷(さはがし)かりけるを、右大將家世を治め給ひけるより岡崎軍四郎義實既に一宇の草堂を造りて義朝の菩提を弔(とぶら)ひけり。右大將家御母儀の忌日を以てこの草堂にして佛事を執行(とりおこな)はる。その後土屋次郎義淸が領地となる。誠に捨(すて)難き舊跡なりとて、民部丞行光大夫屬(さくわん)入道善信承り、件の地を巡檢して、即ちこの地を以て葉上房(はがみばう)の律師榮西(やうさい)に寄附せられ、淸浄結界(しやうじやうけつかい)の勝境(しようきやう)とぞ定められける。不日(ふじつ)に土木の功を遂げて、落慶供養ありけり。導師は即ち律師葉上房上人なり。本尊は是(これ)籠釋迦(かごしやか)と號す。籠の上を百重(ももへ)貼りて、金色(こんじき)の相好(さうがう)を磨(みが)く、烏瑟(うしつ)の光(ひかり)雲に輝き鵞王(がわう)の裝(よそほひ)地に映ず。脇士(けうじ)の文殊普賢は是(これ)定惠(ぢやうえ)、悲智(ひち)の二門を表(へう)し、衆生済度の方便を現(あらは)せり。抑(そもそも)葉上房律師榮西は備中國吉備津(きびつ)宮の人、其先は、薩摩守賀陽(かやの)貞政が曾孫なり。その母田氏(たうじ)懐胎八月(やつき)にして誕生す。年初(はじめ)て八歳にして倶舍頌(ぐしやのじゆ)を讀む。十一歳にして郡(ぐん)の安養寺の靜心(じやうしん)法印を師として台教(たいけう)を學(がく)し、十四歳にして落髪し、十八歳にして千命(せんみやう)阿闍梨に虛空藏求問持(こくうざうぐもんぢ)の法を受け、十九歳にして京師(けいし)に赴き、又伯州の大山に登り、基好法師に密教の奥蘊(おううん)を受け、仁安三年夏四月入宋(につそう)して、四明丹丘(めいたんきう)の靈場を拜し、天台山に登り、新章疏(しんしやうしよ)三十餘部六十卷を得て、歸朝の後に之を明雲座主(めいうんざす)に奉る。平大納言賴盛卿深く歸敬(ききやう)あり。平氏没落して、賴盛又卒せらる。文治三年榮西又入宋し是より西域に赴かんとするに、北狄(ほくてき)既に中國に背きて、通路塞(ふさが)り、跋渉叶難(ばつせふかなひがた)し。赤城(せきじやう)に至り向うて、虛菴敞(きあんしやう)禪師に萬年寺に謁す。師の曰く、「傳(つたへ)聞く、日本は密教今盛(さかん)なりと、我が禪法と趣き一なり」。榮西是に參じて、大道を明(あきら)む。敞禪師即ち僧伽梨衣(そうがりえ)を付して曰く、「昔、釋迦老子、既に圓寂に臨みて、正法眼藏涅槃妙心實相無相(しやうぼうげんぞうねはんめうしんじつさうむさう)の法を以て、摩訶迦葉(まかかせふ)に付屬し給ふ、二十八傳(てん)して達磨に至り、六傳して曹溪(さうけい)に至り、又六傳して臨濟に至り、是より八傳して黄龍(わうりう)に至る。予は其八代の法孫なり。今この租印(そいん)を汝に授(さづ)く。日本に歸りて正法を開き、衆生を開示すべし。又菩薩戒は是(これ)禪宗門中(もんじう)の一大事なり。汝克(よ)く之を受持せよ」とて、應器(おうき)、坐具、拄杖(しゆじやう)、白拂(はくはう)以下悉(ことごとく)授けらる。建久二年に歸朝して、盛に禪教(ぜんけう)を興す。榮西身の長(たけ)卑矮(ひわい)なり。人或は輕(かろし)め嘲ける。榮西その聲に應じて曰く「虞舜(ぐしゆん)は赤縣(せきけん)に王たり、晏嬰(あんえい)は齊國(せいこく)に相(しやう)たり。皆未だ長(たけ)高き事を聞かず」と同學の輩(ともがら)大に信伏す。されども實には其短を恥ぢて、求聞持(ぐもんぢ)の法を以て一百日行はる。初(はじめ)入壇の時堂前の柱に身の長(たけ)を刻(きざみ)置かれしが百日滿じて、柱に較べられけるに、四寸餘延びられける。奇特(きどく)の事と感じ合へり。建久三年に香椎(かしひ)神宮の邊(ほとり)に報恩寺を構へて、始(はじめ)て菩薩戒の布薩(ふさつ)を行ひ、同じき六年に筑紫の博多に聖福寺(しやうふじくじ)を草創あり。本朝に菩提樹のある事は榮西律師の渡されし所なり。凡到る所皆佛法盛(さかり)に弘(ひろま)る事佛神の冥慮(みやうりよ)に叶へるが故なりと諸宗の碩德(せきとく)許し給ふ。建仁二年の春、王城の東に方(あたつ)て、禪苑(ぜんゑん)を經營あり。即ち今の建仁寺、是なり。建保元年に僧正に任ぜられ紫衣を賜はつて、綱位(かうゐ)の重職に預る。今此相州鎌倉の龜谷に壽福寺を營まれ、伽藍の構(かまへ)、奇麗嚴淨なり。尼御臺所、京都にして十六羅漢の像を圖せしめ、金剛壽福寺に寄進あり。葉上房律師榮西、開眼供養行はれ、説法教化(けうげ)ありしかば、尼御臺所を初(はじめ)て聽聞の貴賤隨喜の涙、袂(たもと)をしぼる。寺院の繁昌、宗門の弘興(ぐこう)、この時に當て盛(さかん)なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年閏二月十二日・十三日を元にしつつ、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、栄西の経歴は「元亨釈書」巻二の「伝智」一之二「建仁寺栄西」に基づくとある。

「岡崎義実」(天永三(一一一二)年~正治二(一二〇〇)年)は頼朝挙兵以来の宿老として重用されたが、老年になって出家後は不遇であったようで、この壽福寺建立の直後の正治二年三月十四日に、政子を訪ね、家門の窮迫を訴え、政子は頼家に所領を義実へ与えるように取りなしている。彼は、この年の六月に八十九歳で長寿を全うした。

「土屋義淸」(?~建暦三(一二一三)年)岡崎義実の子であったが、叔父土屋宗遠の養子となっていた。当初は平家に仕えたが、後、頼朝に従って大学権助となった。和田の乱で和田義盛に組して流れ矢に当たり戦死する。

「右大將家御母儀の忌日を以てこの草堂にして佛事を執行はる」「右大將家御母」とは源義朝の正室で頼朝の母である熱田大宮司藤原季範の娘由良御前(ゆらごぜん ?~保元四(一一五九)年)。ウィキの「由良御前」によれば、『当時の熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士となるものが多く、女子には後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕える女房がいるため待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場にあったと思われる。由良御前自身も上西門院の女房であった可能性が示唆されている』。但し、この仏事由緒は「吾妻鏡」には載らない。しかも由良の祥月命日は三月一日である。本記載の原資料は私には不明。

「不日に」間もなく。

「葉上房の律師榮西」(永治元(一一四一)年(異説あり)~建保三(一二一五)年)は本邦の臨済宗開祖。「ようさい」とも。房号は「やうじやう(ようじょう)」と音読みするのが普通。京に建仁寺を創建して天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし禅宗の拡大に努めた。また、茶を宋より移入し「喫茶養生記」を著したことでも有名。

「籠釋迦」は、実際には粘土の原型の上に布を貼って作られたものである。

「相好」仏身に備わる三十二の「相」とさらに細かい美点である八十種の「好」の特徴の総称。

「烏瑟」烏瑟膩沙(うしつにしゃ)の略。肉髻(にくけい:仏の三十二相の一つで頭頂部に一段高く碗形に隆起している部分を言う。)のこと。

・「鵞王」やはり三十二相の一つである縵綱相。一切衆生を漏らさず救い取るために仏には鵞鳥の水かきのように手の指と指の間に膜があることを指す。特にその「王」という意で釈迦の別名でもある。

・「定惠(ぢやうえ)」「ぢやうゑ」が正しい。禅定と智慧。鳥の両翼や車輪に譬えられ、互いに助けあって仏道を成就させるもの。

・「悲智」慈悲と智慧。衆生に対する、仏菩薩の慈しみ憐れむ深奥な心と広大無辺の知性を謂う。

・「備中國吉備津」栄西は現在の岡山県北区吉備津にある吉備津神社の権禰宜賀陽(かやの)貞遠の子として誕生。但し、ウィキの「栄西」には誕生地は賀陽町(かようちょう:岡山県中央部に位置した旧町名。現在の岡山県加賀郡吉備中央町上竹)という説もある、とある(以下の栄西の事蹟の幾つかの注でもウィキを主に参考にした)。

・「田氏」不詳。田(でん)姓は坂上田村麻呂の子孫、田村氏が苗字を省略して田姓を称したものとされる。戦国時代より丹波国で見られ、現在も兵庫県丹波地方で見られる。参照した「ニコニコ大百科」には、『富山県高岡市には田(た)姓が見られる。地形姓か』とあり、懐かしい。私は中高生時代に高岡に住んでいたが、何人も「田(た)」さんがいた。

・「倶舍頌」インドの世親著になる仏教哲学の基本的問題を整理した「阿毘達磨倶舎論」(あびだつまくしゃろん)の頌(梵語やパーリ語の詩体の一つで、仏教では仏菩薩の功徳や思想などを述べた偈(げ)のことを言う)。本書は世親の六百余からなる「阿毘達磨倶舎論本頌」という本頌と、世親自らがそれに註釈を書き加えた「阿毘達磨倶舎釈論」からなり、一般に「倶舎論」という時は後者の「釈論」を指すが、ここではわざわざ「倶舍頌」として、八歳で注釈なしに「頌」を感得したというニュアンスを示す。

・「安養寺」現在の岡山県岡山市日近にある救世山安養寺。栄西自作栄西禅師木像(高さ一七センチメートルで、祖師堂にある高さ四〇センチメートルの木製頂相の静心像の胎内に納められており、栄西が師に懇望されて自らの姿を水面に映して彫ったという奇仏である)や栄西手植の菩提樹があるらしい(安養寺敏彦氏の「安養寺のページ」の「救世山安養寺」に拠る。この方、自分の姓と同じ安養寺について資料蒐集をされておられる)。

・「台教」天台宗学。

・「虛空藏求問持の法」智慧や知識・記憶を司るという虚空蔵像菩薩の修法で、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱える。これを修した行者はあらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(ウィキの「虚空蔵菩薩」に拠る)。

・「伯州」伯耆国。現在の鳥取県。

・「奥蘊」「蘊奥(うんおう・うんのう)」の方が一般的。学問技芸などの奥深いところ。奥義。極意。

・「仁安三年」西暦一一六八年。この前に、栄西は自分の坊号を冠した葉上流を興している。

・「入宋」ウィキには『形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平氏の庇護と期待を得て南宋に留学』した、とある。

・「四明」四明山。浙江省東部の寧波西方にある山。古くからの霊山で、名は「日月星辰に光を通じる山」の意。寺院が多く宋代初期に知礼がここで天台の教えを広めた。

・「丹丘」次の天台山を含む当時の天台州の広域地名。因みに古来、仙人が住む場所のことをも「丹丘」と言った。

・「天台山」中国浙江省東部の天台県の北方二キロメートルにある中国三大霊山の一つ。天台智顗(ちぎ)が五七五年からこの天台山に登って天台教学を確立した。ウィキには『当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった』とある。

・「新章疏三十餘部六十卷」天台教学の経典類。

・「明雲座主に奉る。平大納言賴盛卿深く歸敬(ききやう)あり」「娘への遺言」(HP主のHN等不明だが厖大な考察量に脱帽)の「雑学の世界」のこちらに(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)、『栄西が生まれた備中国を含む西国一帯は白河・鳥羽上皇の信任を得た平正盛・忠盛父子が代々国司を重任し、また、栄西の父・賀陽氏が神官をつとめる備中国一の有力神社の吉備津神社に平頼盛が大檀那として名を連ねていたとも伝えられている。』また、『平頼盛は忠盛と池禅尼の間に生まれ清盛の異腹の弟に当たるが、栄西が入宋を志して筑前の宗像神社の大宮司・宗像氏の下に身を寄せていた時は太宰大弐として現地に赴任して日宋貿易を仕切り、さらに、宗像社の領家職も務めていたから宗像氏とも強い絆を築いていた』。『その平頼盛が二十八歳の青年栄西の仏教界の現状を何とかしたいとの志を支援し、かつ、日宋間の人的交流の活発化も視野に入れて、仁安三年(一一六八)の栄西の初回の入宋に手厚い支援をした事は十分考えられる』。『さらに栄西が宋からの帰国に際して、天台の貴重な典籍「新章疏(しんしょうそ)」三十余部六十巻を天台座主(延暦寺のトップ)明雲に献上した事は、一度は延暦寺で学びながら失望して山を降りたとはいえ、栄西がこの実力者から目をかけられていたことを物語る』。『何しろ明雲といえば、天台座主として十年以上在位していたばかりか、平清盛の護持僧もつとめ、後白河院の寵臣・藤原成親(ふじわらのなりちか)を巡っては院との対立も恐れなかった権勢者でもある』。『清盛の護持僧たる平氏の威力を背景にした明雲が、栄西の入宋に関しては、単に将来性ある有望な弟子の為だけではなく、明雲自身にとっても貴重な天台の典籍入手の機会として、自ら資金援助をしただけでなく平頼盛に支援を強く働きかけたのではないかと私は推測する』。『つまり、平氏の時代、栄西は時の権勢者からの支援に恵まれていたのであった』とある。非常に鋭い考察である。

・「賴盛又卒せらる」頼朝を頼って生き永らえた頼盛の没年は文治二(一一八六)年。

・「文治三年榮西又入宋し是より西域に赴かんとするに、北狄既に中國に背きて、通路塞り、跋渉叶難し。赤城に至り向うて、虛菴敞(きあんしやう)禪師に萬年寺に謁す」「赤城」赤城峰で天台山の峰の一つ。ウィキには『仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事』とある。虚庵懐敞は、ものによって「きあんえじょう」とか「こあんえしょう」などの読みが振られている。

・「僧伽梨衣」僧の着る三衣(さんえ)の一つで僧の蔡正装衣。九条から二十五条の布片を縫い合わせた一枚の布からなる袈裟。大衣(だいえ)・僧伽梨(そうぎゃり)とも呼び、これを受けること自体が一種の法嗣の証明でもある。

・「圓寂」示寂。涅槃。死去。

・「正法眼藏涅槃妙心實相無相」一切のものを明らかにしつつ、且つ総てを包み込んでいるところの正しい仏法を示す「正法眼藏」、煩悩から脱して悟りきった心のいいようのない穏やかな寂けさを示す「涅槃妙心」、総てのものの真実の姿は相対的な差別のあり方を離れたものであるということを示す「實相無相」という三つの教え。

・「二十八傳して」二十八代に渡って相伝して。

・「租印」祖師から伝法されてきた証の僧伽梨衣。これで法嗣の印可となる。

・「菩薩戒」大乗の菩薩(修行者)が受持する戒。悪を止(とど)め、善を修め、人々のために尽くすという三つの面を持ち、梵網(ぼんもう)経に説く十重禁戒・十八軽戒(きょうかい)などがある。大乗戒。

・「應器」托鉢のための鉄鉢。

・「白拂」煩悩を打ち払うための柄の先に房を附けた法具。

・「建久二年」西暦一一九一年。

・「卑矮」ひどく小さいこと。

・「虞舜」中国の伝説上の聖天子有虞氏舜。「荀子」によれば帝舜は背が低かったとする。

・「赤縣」王城の地。中国では唐代に中央から近い県を赤といったことによる一般名詞を伝説上の舜の支配する国土に見立てて用いたものであろう。

・「晏嬰」春秋時代の斉の政治家。霊公・荘公光・景公の三代に仕えて憚ることなく諫言を行った名宰相として評価が高い。「史記 管晏列伝」には「六尺に満たず」とあって、周代の一尺は二二・五センチメートルであるから、身長一メートル四〇センチメートル足らずであった。

・「求聞持の法」先の「虛空藏求問持の法」。

・「四寸」約一二センチメートル。

・「香椎神宮」現在の福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮。

・「報恩寺」現存。臨済宗妙心寺派。栄西が中国から持ち帰った菩提樹を植え、また茶種を蒔いた日本最初の地とも伝える。

・「布薩」布教。

・「同じき六年に筑紫の博多に聖福寺を草創あり」建久六(一一九五)年、博多に聖福寺(福岡市博多区御供所町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、宋人が建立した博多の百堂の跡に建てた)を建立、日本最初の禅寺にして禅道場とした。ウィキには『同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る』とあり、この後、建久九(一一九八)年には「興禅護国論」を執筆、禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説いたが、この頃、京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向、幕府の庇護を得ようとした、とある。

・「諸宗の碩德許し給ふ」ウィキには『栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った』とある。

・「建仁二年」西暦一二〇二年。建仁寺建立は将軍頼家の影響力が大きかった。

・「建保元年に僧正に任ぜられ」西暦一二一二年。正確には権僧正。ウィキにはこの前、建永元(一二〇六)年には『重源の後を受けて東大寺勧進職に就任』しており、順調な栄進に対し、政治権力に追従する者という『栄西に執拗な批判が向けられたのは、従来の利権を利かせたい者による。よって栄西が幕府を動かし、大師号猟号運動を行ったことは、生前授号の前例が無いことを理由に退けられる。天台座主慈円は『愚管抄』で栄西を「増上慢の権化」と罵っているが、栄西の言動は、むしろ政争や貴族の増上慢に苦しむ庶民の救済と幸福を追求したからに相違ないことは、他の記録から明白である』と、全面的に栄西を擁護している。

・「綱位」僧綱(そうごう)の位。古くは僧正・僧都・律師。後に法印・法眼・法橋が加えられた。栄西は建暦二(一二一二)年に法印に叙任されている。

・「今此相州鎌倉の龜谷に壽福寺を營まれ」先に見た通り、寿福寺建立は正治二(一二〇〇)年であるから、記述順序に前後の錯誤があるように見えるが、要は本話の話の纏めに時間を巻き戻した、即ち、ここからがコーダということである。

・「宗門の弘興」禅宗(臨済禅)の教えを広め盛んにすること。]

 

2013/01/12

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 三 擬態~(1)

   三 擬 態

 以上述べた如く、動物には敵の眼を眩すために、色も形も他物に似たものが頗る多く、たゞ色だけが周圍の色に一致して居るものは、殆ど枚擧に遑ない程であるが、またその反對に周圍とは著しく色が違つてそのため、格段に眼立つて見える動物がないこともない。かやうなものは大抵昆蟲などの如き小形のもので、しかも味が惡いか、惡臭を放つか、毒があるか、針で螫すか、何か一角の護身の方法を具へて居る種類に限る。例へば蜂の如きはその一例で、家の軒に巣を造る普通の黄蜂でも、樹木の高い枝に大きな巣を拵へる熊蜂でも、身體には黄色と黑との入り交じつた著しい模樣があつて、遠方からでも直にその蜂であることが知れる。これは前に述べた種々の動物が、詐欺の手段によつて、相手の眼を眩すのと違つて、却つて敵の注意を引いて損である如くに思はれる。が、この場合には少し事情が違ふ。即ち蜂には鋭い針があつて、これに螫されると頗る痛いから、一度懲りた鳥は決して再びこれを捕へようとはせぬ。特に熊蜂の如き大きな蜂は螫すことも劇しくて、子供などは往々そのために死ぬことさへある。先年京都帝大の文科の先生達が山へ遠足に出掛け、途中に山蜂の巣を見附けて擲いた所が、數百疋の蜂が飛び出して攻め掛つたので皆々大に狼狽したとの記事が新開に出て居たが、豪い人々でも閉口する位であるから、大抵の動物がこれを敬して遠ざけるのは尤もである。そして敬して遠ざけられるためには、まづ以て他と容易く識別される必要があるが、著しい色彩を具へて居るのはそのためには頗る都合が宜しい。昆蟲などの如き小形の動物で、特に目立つやうな色のものは、多くはかやうな理屈で、生存上他と識別せられることを利益とする種類に限るやうである。

[やぶちゃん注:ここでは擬態の説明に入る前に、枕として実際の危険生物が持っている“Warning colouration”(「警戒色」の訳語で人口に膾炙しているが、よく考えると、「警戒」というのはおかしい。現在では生物学の訳語としては「警告色」が正しいとされている)についての解説が示される。次の段で、この話を事実を踏まえてベイツ擬態(後注する)が語り出されるのである。

「黄蜂」現在、通常「黄蜂」というと、昆虫綱膜翅(ハチ)細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae に属するスズメバチ類(オオスズメバチは特に「大黄蜂」と言う)を総称する語であるが、ここで丘先生は「家の軒に巣を造る普通の」とおっしゃっておられるところから、私はこれをスズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinae に属するアシナガバチ類やスズメバチ亜科スズメバチ属キイロスズメバチ Vespa simillima xanthopteraに同定したいと思うのである。同様に先生の言っておられる「熊蜂」についても、現在の北海道から九州にかけて広く分布するミツバチ科クマバチ族クマバチ属クマバチ(キムネクマバチ)Xylocopa appendiculata circumvolans ではなく、これこそがかの最強のスズメバチであるスズメバチ亜科スズメバチ属オオスズメバチ Vespa mandarinia に同定するのである。これはいずれも「身體には黄色と黑との入り交じつた著しい模樣があ」ると丘先生が記述している点で、クマバチ Xylocopa appendiculata circumvolans には胸部に細かい黄色の毛が密生するが、これを私は勿論、誰も「黄色と黑との入り交じつた著しい模樣」と表現しないからである。更に言えば、実はオオスズメバチ Vespa mandarinia は地方によって「くまんばち」と呼称する。実際に私は鹿児島や富山の在の人がオオスズメバチ Vespa mandarinia を指して「クマンバチ」と呼称している場面に出逢ったことがある。これについて、ウィキの「クマバチ」には、『"クマ"とは動物の熊のほか、大きいもの強いものを修飾する語として用いられる。このため、日本各地の方言においてクマンバチという地域が多数あるが、クマンバチという語の指す対象は一つではなく、クマバチ・オオスズメバチ・マルハナバチ・ウシアブほかを指す、多様な含みを持つ語である。 ""は熊と蜂の橋渡しをする音便化用法であり、方言としても一般的な形である』とあり、クマバチ Xylocopa appendiculata circumvolansは『大型であるためにしばしば危険なハチだと解されることがあり、スズメバチとの混同がさらなる誤解を招いている。スズメバチのことを一名として「クマンバチ(熊蜂)」と呼ぶことがあり、これが誤解の原因のひとつと考えられる。花粉を集めるクマバチが全身を軟らかい毛で覆われているのに対して、虫を狩るスズメバチ類はほとんど無毛か粗い毛が生えるのみであり、体色も大型スズメバチの黄色と黒の縞とは全く異なるため外見上で取り違えることはまずない』。『かつて、少年・少女向けのアニメ「みつばちマーヤの冒険」において、蜜蜂の国を攻撃するクマンバチの絵がクマバチになっていたものがあったり、「昆虫物語みなしごハッチ」の』第三十二話『で略奪を尽くす集団・熊王らがクマバチであった。この様に、本種が凶暴で攻撃的な種であるとの誤解が多分に広まってしまっており、修正はなかなか困難な様子である』(この誤りは児童向け作品として重篤で致命的な誤りである)。『蜂類の特徴的な「ブーン」という羽音は、我々にとって「刺す蜂」を想像する危険音として記憶しやすく、特にスズメバチの羽音とクマバチの羽音は良く似た低音であるため、同様に危険な蜂として扱われやすい。クマバチは危険音を他の蜂類と共有することで、哺乳類や鳥類に捕食されたり巣を狙われたりするリスクを減らしている、という説もある』と記す(但し、最後の仮説には要出典要請が掛かっている)。因みに、クマバチがミツバチやミツバチの巣を襲うことはあり得ない。『体が大きく、羽音の印象が強烈なために獰猛な種類として扱われることが多いが、性質はきわめて温厚である。ひたすら花を求めて飛び回り、人間にはほとんど関心を示さない。オスは比較的行動的であるが、針が無いため刺すことはない。毒針を持つのはメスのみであり、メスは巣があることを知らずに巣に近づいたり、個体を脅かしたりすると刺すことがあるが、たとえ刺されても重症に至ることは少ない(アナフィラキシーショックは別)』とある。クマバチ、実は私は彼らをクマンバチと今も呼ぶのであるが、小学校の低学年の時、とある老生物学者の先生からこのことを私は教えて貰い、おしなべて昆虫が苦手な私は、このクマバチだけは怖いとは全く思わないのである。私が児童作品として重篤にして致命的、と言った理由はここにあるのである。なお、生物学者の丘先生が、そのような生物学的には誤った「黄蜂」(別種であるアシナガバチとキイロスズメバチを混称している点)や「熊蜂」(オオスズメバチの標準和名として正しくないものを用いている点)に疑義を抱かれる向きもあろうが、これは学術論文ではなく、一般大衆の生物の初学者に向けた読本としては、大正期の一般読者が正確にそれらの昆虫をイメージ出来る語を選ぶに若くはないのである。そういう点で、この謂いは瑕疵がないとも言えるように思われるのである。

「山蜂」スズメバチ亜科 Vespinae に属するスズメバチ類の別名。

「京都帝大の文科の先生達」「豪い人々」丘先生の中にもあったのであろう、東京帝大との学閥の対立及び文科の学術性への根深い猜疑が感じられて、何ともはや皮肉な表現ではある。しかし、面白い。]

耳嚢 巻之六 英雄の人神威ある事

 英雄の人神威ある事

 石川左近將監(しやうげん)、大御番(おほごばん)にて大坂御城に在番たりし頃、毎夏蟲干(むしぼし)有之(これあり)、品々の武器兵具等取出し、其懸りの御武具奉行等取扱ひ、御藏より持運び候は、加番(かばん)大名の人足共の由。數多(あまた)の鐡砲の内、群にすぐれて重く持(もち)なやみ、彼(かの)人足にあたりしもの甚(はなはだ)持なやみ、多くの内かく重きはいかなる人か持(もち)たりし抔口ずさみけるが、是を改め見るに、南無妙法蓮華經とぞう眼(がん)にて彫入(ほりいれ)ありしかば、知れる者、是(これ)加藤淸正の持筒(もちづつ)を納(おさめ)たるなり、淸正の武器には、題目を多く書記(かきしる)せしと云けるにぞ、剛勇の淸正所持の上は左もあるべしと、皆々感稱せしを、彼かつぎ來りし初めの人夫、淸正は異國までも其名を響(ひびか)せし人ながら、人を可殺(ころすべき)鐡砲に題目も不都合なり、殊に此鐵砲故、大いに肩を痛めける、大馬鹿ものやと、品々淸正を惡口せしが、俄かに身心惱亂(なうらん)して倒れけるが、無程(ほどなく)起上(おきあが)り、雜人(ざふにん)の身分として我を惡口なしぬるこそ奇怪なれと、憤怒の勢ひ、初(はじめ)の人夫口上とは事替り、其凄(すさま)しさいわんかたなし。其あたりのもの、色々侘事(わびごと)してなだめぬれど曾て承知せず。無據(よんどころなく)其節の加番松平日向守なりし故、其小屋へ申達しければ、家老なるもの驚きて俄に上下抔を着(ちやく)し、彼場所へ駈(はせ)付け、扨々不屆至極なる人足かな、事にもよるべき、ゆゑある武器へ對しての雜言(ざふごん)、憤りの段尤恐入候得(もつともおそれいるさふらえ)ども、雜人の儀何分宥恕(いうじよ)を相願ふ旨、丁寧深切に述べければ、彼人足威儀を改め、ゆるしがたきものなれども、雜人の儀、其主人の斷(ことわり)も丁寧なればゆるしぬると云て倒れけるが、二三日は右人足は無性(むしやう)にて、人ごゝちなかりけると、左近將監かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。加藤清正の御霊(ごりょう)の憑依譚であるが、このシークエンスを実写化すると、私などは吹き出してしまいそうになるのは、それこそこの「雜人」の如き「神威」を恐れぬ不届き者であるからであろう。

・「石川左近將監」石川忠房。石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)は遠山景晋・中川忠英と共に文政年間の能吏として称えられた旗本。安永二(一七七三)年大番、天明八(一七八八)年大番組頭、寛政三(一七九一)年に目付に就任、寛政五(一七九三)年には通商を求めて来たロシア使節ラクスマンとの交渉役となり、幕府は彼に対して同じく目付の村上義礼とともに「宣諭使」という役職を与え、根室で滞在していたラクスマンを松前に呼び寄せて会談を行い、忠房は鎖国の国是の為、長崎以外では交易しないことを穏便に話して長崎入港の信牌(しんぱい:長崎への入港許可証。)を渡し、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫と磯吉の身柄を引き受けている。寛政七(一七九五)年作事奉行となり、同年十二月に従五位下左近将監に叙任された。その後も勘定奉行・道中奉行・蝦夷地御用掛・西丸留守居役・小普請支配・勘定奉行・本丸御留守居役を歴任した辣腕である(以上はウィキの「石川忠房」を参照したが、一部の漢字の誤りを正した)。「將監」はもと、近衛府の判官(じょう)の職名。【2014年7月15日追記】最近、フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!

・「大番」常備兵力として旗本を編制した警護部隊で、江戸城以外に二条城及び、この大坂城が勤務地としてあり、それぞれに二組(一組は番頭一名・組頭四名・番士五〇名、与力一〇名、同心二〇名の計八五名編成)が一年交代で在番した(以上はウィキの「大番」に拠る)。

・「加番大名」これは職名で、城番を加勢して城の警備に任じたものを言う。大坂加番と駿府加番があり、ともに老中支配。

・「松平日向守」松平直紹(なおつぐ 宝暦九(一七五九)年~文化一一(一八一四)年)、越後糸魚川藩第四代藩主。福井藩越前松平家分家六代。日光祭礼奉行・田安御門番・半蔵門番・大坂加番などを歴任した。石川の大番勤務は安永二(一七七三)年から寛政三(一七九一)年までであるから、当時の松平の年齢は恐らく二十代後半から三十二歳ほどか。

・「家老」裃附けて清正の霊の憑りついた雜人の前にひれ伏して許しを請うこの家老は、こうした対応を即座にとったところから見ると、信心深い相応な年の者であろう。映像はしかし、何とも滑稽ではある。

・「無性」分別のないこと、理性のないことの謂いであるが、気が抜けたように茫然自失としていたことを謂うのであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 英雄の人には神威のある事

 石川左近将監(しやうげん)忠房殿、大番(おおばん)役にて大坂御城(ごじょう)に在番されておられた頃のこと、毎夏、虫干しがこれ御座って、品々の武器・兵具等を取り出だいては、その係りに当たって御座る御武具奉行らが丁寧に取り扱っては虫干し致す。お蔵より持ち運び出だす役は、これ加番(かばん)大名の人足どもが当てらるる由。

 さても、そのある夏の虫干しの折り、運び出だいた數多(あまた)の鉄砲の内に、群を抜いて優れて持つに重そうな――いや、その担当した人足、実際に甚だ持ち悩むほどの重い鉄砲が一挺、これ、御座った。

「……沢山ある鉄砲のうち、かくも重きものは、これ、如何なる人が持っておったもので御座ろう?」

などと、人足らが口々に噂致いて御座ったが、中の一人が、その鉄砲を仔細に改めて見た。すると、

「……おい! この鉄砲には……ここに……ほれ、『南無妙法蓮華經』の文字(もんじ)が、象嵌(ぞうがん)にて彫り入れて御座る……。」

と言うた。

 それを聴いて御座ったさる知れる者が、

「……さては! これ、朝鮮出兵の虎退治で知られた、あの、加藤清正公の持筒(もちづつ)を納めたるものじゃ! 清正公の武器には、これ、題目を多く書き記してあると聴いておるが……この異様なる重さといい……剛勇の清正公所持の上は、さもあるべきものじゃ!」

と、皆々感心致いておったのじゃが、かの、先程、お蔵より担ぎ出だいた初めの当の人夫が、

「……清正という御人(おひと)は異国までもその名を轟かせた人ながら、人を殺すための道具たる鉄砲に、こともあろうに、『南無妙法蓮華經』の御題目と彫るというも、こりゃ、不都合極まりないわ! 殊に儂(わし)は、この糞重い、たった一挺の鉄砲のお蔭で、すっかり肩を痛めてしもうたわい! こんなもんも、こんなもん持つ奴も、こりゃ、大馬鹿もののコノコンチキや!……」

と、これ、あらん限りの清正公への悪口(あっこう)を、これ、致いて御座った。

――と!

この男、俄かに身心悩乱しさまにて昏倒致いたが、ほどなく、

――ムングリッ!

と、起き直ると、

「――グワァ、ツッ!――雑人(ぞうにん)ノ分際デ――我ラニ惡口ナスコトコソ――奇怪(きっかい)ナレ!――」

と、その憤怒の勢いたるや! これ、もとの人夫の話し振りや質とは、すっかり様変わって! その凄まじきこと、謂わんかたなき、もの凄さ!

 その辺りにあった者ども、色々と詫び事致いて、清正公の霊を宥(なだ)めんとしたものの、清正が霊、これ、いっかな、承知致さぬ!

 よんどころのう、その節の加番大名は松平日向守直紹(なおつぐ)殿であられたゆえ、その控えておられた部屋へ申し達したところが、そこでその話を聴いた松平家家老なる者、吃驚仰天致いて、俄かに上下裃(かみしも)などを着帯の上、かのお蔵前の現場へと駈せ参じ、

「……さてさて、不届き至極なる人足じゃ! 軽口は、よう、場と物を弁えねばならぬのじゃて!……

……ああ! さても、相応の御由来ある御手持ちの御武具へ対しまして、忌わしき雑言(そうごん)の数々、これ、御憤りの段、尤も至極にして、恐れ入って御座いまする!……なれども、無知蒙昧の雑人の儀なれば、何分、御宥恕(ごゆうじょ)を相い願い奉りまする!……」

といった調子で、かの威儀を以って立ちはだかった――松平家の若い雑人の前に――うやうやしく丁寧親切に謝罪と寛恕を求め述べる松平家の初老の家老……

……すると

かの清正の霊の憑りついた人足、威儀を改め、

「――許シ難キ者ナレドモ――雜人ノ儀ナレバ――マタ、ソノ主人タル貴殿ノ、詫ビノ言葉モ、コレ、丁寧ナレバコソ、ユルシテツカワス!……」

と言い放ったかと思うと、

――コテン!

と倒れた。……

「……その後、二、三日の間は、かの人足の者、ぶらぶら病のようになって、全く以って正気ではない様子にて御座ったとのことじゃ。……」

とは、左近將監忠房殿のお話で御座った。

一言芳談 六十一

  六十一

 

 又云、眞實に此身を仏にまかせたてまつる心をば、人ごとにおこさゞる也。後世のつとめに、暇(いとま)ををしむもものは一人もなきなり。

 

〇此身を仏にまかせたてまつる、歸命本願抄云、身を本願にまかせかねたる心のなまざかしきにこそ、けふまで往生もとゞこほりぬれ。いまよりにても、心おかずたのみをかけば、やがて本願に乘ずべし。云々。

 

[やぶちゃん注:「暇をおしむもものは一人もなきなり」この目的語は――「眞實に此身を仏にまかせたてまつる心を」専心に行うこと以外のことすべて――であるので注意。即ち、彌陀の大慈大悲心に無条件でその身を任す=念仏に専心することには「暇を惜しむ」くせに、それ以外の自己のこざかしい知性や皮相な思想、中身のない主義主張のために時間を潰すことを惜しむ人間は、独りもいない、というのである。

「歸命本願抄」浄土宗清浄華院第五世向阿証賢(こうあしょうけん 文永二(一二六五)年?~興国六/貞和元・康永四(一三四五)年?)の作とされる。元亨年間(一三二一年~一三二四年)成立。和文で浄土宗教義を説いたもの。引用部は以下の文脈に現われる。

されば、念佛せんもの生ぜしめんといふ御ねがひ、かなふべくは、その御ちかごとにむくひてをのづから佛になりたまはんずらん。御ねがひむなしくして、我ら念佛すとも、うまるまじくは、又この御ちかごとにむくひて、よも佛にはなり給はじなれば、法藏比丘の成佛が我らが往生せんずるしるしにてはあるべき也。これによりて善導大師は、若我成佛十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺、彼佛今現在世成佛、當知本誓重願不虚、衆生稱念必得往生と釋して、かの佛いま現に成佛し給ひぬ、まさにしるべし、うまるまじくは正覺とらじとたて給ひしちかごとのをもさにかへて、うまれしめんとおぼしめす御ねがひむなしからずして、われら稱念せばかならず往生すべしといふ事をとの給へり。されば衆生の往生すべきによりて佛は正覺をとり、佛の正覺なり給によりて、衆生は往生をすべき也。このゆへに念佛申さんものの往生せんずる事は、はやすでに本願成就して正覺なり給し時より、ゆるぎなくさだまりてしかば、我らをみちびき給ふべき佛の御方便は、もとより、したためまうけられたるを、ただ衆生のかたよりあやぶみて、身を本願にまかせかねたる心のなまざかしさにこそ、けふまで往生もとどこほりぬれ。いまよりにても心をかずたへみをかけば、やがて本願には乘ずべし。本願にだにも乘じなば、又いのちをはらん時かの國に生ぜん事、いささかもうたがひあるべからず。それにつきては、本願に乘じて往生すといふことわりをこそ、よくよく心えわくべけれ。

「心おかず」気に掛けることなく、即ち、疑問に思うことなく、の意。]

西東三鬼句集「夜の桃」Ⅱ(後) 了

赤き火事哄笑せしが今日黑し

馬がみな寒の沒日に向き進む

寒の家爪とぐ猫に聲を發す

大寒の松を父とし歩み寄る

大寒や轉びて諸手(もろて)つく悲しさ

われら滅びつつあり雪は天に滿つ

限りなく降る雪何をもたらすや

地に消ゆるまで一片の雪を見る

雪の上に雪降ることのやはらかく

天の雪地に移りたり星光る

左右の窓凍天二枚ありて病む

死にし人とこの寒潮を見下しき

大寒のトンネル老の眼をつむる

雜炊や猫に孤獨といふものなし

露人の歌みぞれは雪に變りつつ

夜の沼に雪亂れ降るかぎりなし

寒鮒を殺すも食ふも獨りかな

秒針の強さよ凍る沼の岸

靑沼に樹の影一本づつ凍る

凍る沼にわれも映れるかと覗く

凍る沼去るべき時を過ぎつつあり

凍る道凍れる沼を離れざり

沖遠しかがみて寒き貝を掘る

餓鬼となりしか大寒の松隆し

紅梅を去るや不幸に眞向ひて

竹林を童子と覗く春夕べ

寒明けの樹々の合掌聲もなし

動かぬ蝶前後左右に墓ありて

わが天に蝶昇りつめ消え去りし

花冷えの朝や岩鹽すりつぶす

櫻くもり鏡に寫す孤獨の舌

春菜を買ふべく鍵を鎖し出づ

春の馬よぎれば焦土また展く

春の夜の暗黑列車子がまたたく

斷層の夜明けを蝶が這ひのぼる

春山の路の牛糞友のごとし

うぐひすや子に靑年期ひらけつつ

子を思ひはじむ山中の春の沼

春草に伏し枯草をつけて立つ

黑蝶は何の天使ぞ誕生日

女遠しぐんぐん伸びる松の芯

蕗を煮る男に鴉三聲鳴く

ひげを剃り百足蟲を殺し外出す

夜が來る數かぎりなき葱坊主

五月闇汝歸りしには非ず

靑梅が闇にびつしり泣く嬰兒

少女二人五月の濡れし森に入る

月光の岩なり毛蟲めざめ居り

男立ち女かがめる蟻地獄

しやべる老婆靑野を電車疾走す

梅雨の馬いななく腦病院の裏

緑蔭より日向へ孤兒の眼が二點

蟻地獄暮れてしまへり立ち上る

地下を出て皆烈風の孤兒となる

一列の崖の孤兒から飛び出る尿

めつむりし孤兒に烈風砂を打つ

烈風の孤兒がナイフで壁に彫る

行列の頭は深く厦(いへ)に入る

行列の何か嚙みては嚥み下す

行列の嬰兒拳を立てて泣く

行列のみつむる土を風通る

行列に顏なし息をしつつ待つ

螢過ぎ海まつくらに荒れつのる

海道の夜明けを蟹が高走る

夏黑き船の何處かで爆笑す

炎天に鐵船叩くことを止めず

我と蚊帳吊るは海より來し靑年

眼中の蓮も搖れつつ夜歸る

亡びし樹にぞろぞろと羽蟻ぞろぞろと

混血の兒が樹を抱けば蟬とび立つ

星赤し翅うち交む油蟲

あひびきの少女とび出せり月夜の蟬

蚊帳の蚊を屠る女の拍手音

びびびびと死にゆく大蛾ジヤズ起る

天暑し孔雀が啼いてオペラめく

地からすぐ立てる夏の樹抱きつく少女

逃げても軍鷄に西日がべたべたと

大旱の赤牛となり聲となる

早天の鴉胸より飛び出しか

炎天の映る鏡に歸り來ず

何故か歸る雷が時々照らす道

靑蚊帳の男や寢ても躍る形(かたち)

爺婆の裸の胸にこぼれるパン

夏の闇火夫は火の色貨車通る

影のみがわが物炎天八方に

甲(かぶと)蟲縛され忘れられてあり

綠蔭に刈落されし髮のこる

稻妻に胸照らさるる時若し

旱星われを罵るすなはち妻

炎天を遠く遠く來て豚の前

炎天の少女の墓石手に熱く

墓の前強き蟻ゐて奔走す

墓の地に一滴の汗すぐ乾く

墓原に汗して老ひし獸めく

[やぶちゃん注:底本、「老ひし」の「ひ」の右に『ママ』注記。]

炎天に火を焚く墓と墓の間

墓に告ぐ汗していよよ瀆れむと

九十九里濱に白靴提げて立つ

熱砂來て沖も左右も限りなし

一荷づつ九十九里濱の汐を汲む

百姓の影大旱の田に倒る

牛の眼に大旱の土平らなり

旱天やうつうつ通る靑鴉

靑柿の下に悲しき事をいふ

月夜の蛾墓原を拔け來し我に

月夜の蛾男、女の中通る

炎天の人なき焚火ふりかへる

靑柿の夜の土から猫が去る

靑柿は落つる外なし燈火なし

しゆんぎくを播き水を飮みセロを彈く

燈を消せば我が體のみの秋の闇

秋濱に稚兒の泣聲なほ殘る

農婦來て秋のちまたに足強し

秋天にボールとどまる少女の上

稻妻に道眞向へば喜ぶ足

法師蟬遠ざかり行くわれも行く

ぼんやりと出で行く石榴割れし下

身を屈する禮いくたびも十五夜に

十五夜に手足ただしく眠らんと

夕燒へ群集だまり走り出す

百舌に顏切られて今日が始まるか

秋雨にうつむきし馬しづくする

靑年の大靴木の實地にめり込む

秋の森出で來て何かうしなへり

叫ぶ心百舌は梢に人は地に

こほろぎの溺れて行きし後知らず

蟷螂のひきづる影を見まじとす

[やぶちゃん注:底本、「ひきづる」の「づ」の右に『ママ』注記。]

ブログ430000アクセス記念 室生犀星 芥川龍之介の人と作

ブログ430000アクセス突破(昨日深夜)記念として、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に室生犀星「芥川龍之介の人と作」を正字正仮名で公開した。
これは恐らくは芥川龍之介が生前最後に読んだ、盟友による芥川龍之介論である。
既にとっくに自死を覚悟していた龍之介が、この信頼する友によって結果として総括されてしまったかのような自身の論を読んでどう感じたであろうか。
少なくとも犀星が永く、そのことを気に病んでいたことも事実ではあるのである。

2013/01/11

耳嚢 巻之六 心ざしある農家の事

 心ざしある農家の事

 

 濃州大垣家の家士、交替せるとて東海道を下りけるに、日坂懸川(につさかかけがは)の間にて、駕の跡棒(あとぼう)をかつぎける男、もちつけ不申(まうさざる)故乘(のり)にくゝ可有之(これあるべし)と、再三度申(まうし)けれど、かつてさる事なしといひて過(すぎ)にしが、其樣いやしからざる者故、仔細こそあらんと何となく尋ねしに、我らが住居は、あいの宿より少し在(ざい)へ入(いり)候までに付(つき)、御休あらば立寄(たちより)給へかしと云(いひ)けるに、いと不審なれども其樣こそあらんと、いづれに休まんも同じ事なればと、其おのこの申(まうす)にまかせて立(たち)寄りしに、棟(むね)高き宿(やど)にて門などもひらき門にて、長屋などもゆゝしく立(たて)つゞけ、召(めし)仕ふものと見へし者ども兩三人も出で、檀那歸り給ひしやと尊崇する有さま、いとあやしく不審なりしが、茶抔出していと丁寧に馳走せし故、いかなればかゝる身がらにて、いやしき道中の荷持などなし給ふやとせちに尋ければ、是には譯有(ある)事なれば不審なし給ふも理(ことわり)なり、我等が親共は此(この)所の人ながら、若き時は世の衰へや、貧しかりしが、一生艱難苦勞して此所家々にも增(まさ)れる程の百姓になりて、かく有德(うとく)に跡式をゆづり給ひて、七年以前見まかりぬ。今年七囘忌になりて、其跡を吊(とむら)ひ法事するに、かく暮しぬればいか樣(やう)の供養法事も可成(なるべけ)れど、我等つらつら考(かんがへ)見るに、百金を懸(かけ)て法事するとも、みな親の殘し置れたる財貨なれば、何とぞ此身より稼出(かせぎいだ)したる所をもつて追善なさんは、一つの孝心にも有べけれと思ひとりて、日々往還の稼(かせぎ)をなして、此身の骨を折し價(あた)ひをとりて追善せんと思ひ初(そめ)、かくは存ぜしなり、しかはあれど、夜中など荷持かせぎなどなして盜賊其外のわざはいを恐れ、當分は召仕(めしつかふ)男をつれて荷持稼(にもつかせぎ)に出ぬるとかたりしが、めづらしき小揚取(こあげとり)と笑ひけるが、面白き心ざしのものなりと、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせないが、舞台が同じ東海道中のロケーションで並んでいて全く違和感がない。

・「濃州大垣家」美濃国大垣藩(現在の岐阜県大垣市)。戸田家氏十万石(戸田家初代は戸田氏鉄で寛永一二(一六三五)年より)。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、当時は大垣中興の名主と謳われた第七代藩主戸田氏教(とだうじのり)の治世であろう。

・「日坂」東海道日坂宿。現在の静岡県掛川市日坂。東海道の三大難所の一つとされる小夜の中山(掛川市佐夜鹿(さよしか)の峠。最高点の標高は二五二メートル)の西麓。

・「懸川」東海道懸川宿。現在の静岡県掛川市の中心部。

・「あいの宿」「間の宿」で正しくは「あひの」である。宿場と宿場との中間に設けられた休憩のための宿で宿泊は禁じられていた。この日坂懸川宿間の中間点となると、現在の掛川市の原子・本所・伊達方・八坂辺りか。

・「小揚取」荷物の運搬に従事する人夫。ここは駕籠掻きのこと。

・「かくは存ぜしなり、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『かくはなせし也。』で、句読点も意味もその方が通りがよい。それで訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 志しのある農家主人の事

 

 美濃国大垣家の家士が、江戸藩邸での役務を仰せつかり、交替致すによって東海道を下って御座った。

 日坂(にっさか)と懸川(かけがわ)の間にて、乗った駕籠(かご)の後棒(あとぼう)を担いでいた男が、

「――未だ――持ち慣れて――御座いませぬゆえ――乗りにくいことが――これ――御座いましょう?――」

と再三、申したのであったが、

「いや、全く以ってそのようなことは御座らぬ。」

とただ答えておったのだが、その風体(ふうてい)や言葉遣い、これ、駕籠掻きにしてはあまりに賤しからざる者で御座ったゆえ、何か格別な仔細のあるに違いないと思い、途次の休憩の折りに何とのう、尋ねねみたところが、

「……我らが住居(すまい)は、この合(あい)の宿(しゅく)より少し在(ざい)の方へ入ったところに御座いますゆえ、御休みにとあらば、一つ、今からお立ち寄り下さいまし。」

と言うたによって、駕籠掻き風情が、武家の者を家に招くというも、如何にも不審では御座ったが、何かそこに、まさに仔細があろうというもの、何処(いずこ)にて休まんも、これ同じことなればと思い、その男の申すにまかせて、男の在所に立ち寄ったところが、……これ、なんと!

……かの男の家、これ、棟高き屋敷にて、門なども両開きの豪華なる門で、おまけに両側には長屋などもどっしりしたものが、これまた、長ぁく立て続けたる立派な長屋門、召し仕(つこ)うておる者と見える者ども、三人ばかりも門外へと走り出で来たって、

「檀那さま、お歸りなされませ!」

と尊崇する有様――これまた逆に、大層、怪しく不審にても御座った。

 茶など出だいて、大層、丁寧なる馳走など致いて呉れたゆえ、

「……一体、如何なる訳が御座って、このような御身分ながら……かくも賤しき、道中の荷持ちなんどを、なさっておらるるのか?」

と切(せち)に尋ねた。すると主人(あるじ)は以下のように語り出して御座った。

「……はい、これにはちょっとした訳が御座いますれば。……御武家様が、御不審を抱かれたであろうことも、これ、尤もなることに御座いまする。……

……我らが親どもはこの在所の地の者にて御座いましたが、若き時はこの世で定められた衰退の応報ででも御座ったものか、大層、貧しゅう御座いました。ところが、一生、艱難辛苦の苦労に苦労を重ねた末、この在所の家々の中(うち)にても誰(たれ)にも負けぬほどの裕福なる百姓となりまして、かくも、ご覧になられたような富み栄えた状態で跡を我らにお譲りになって、七年以前、見罷りました。……

……さても今年は七回忌になりまして、その跡を弔い、法事致すことと相い成って御座います。……

……かくも暮しておりますれば、いかようにも、供養・法事も致さば致すことが出来まするが……我ら、そこでつらつら考えてみまするに……百金をかけて法事を成したとしても……これは皆……親の残しおいて下すった財貨によるもの。……なれば、

『――何としても、この肉身(にくみ)より稼ぎ出だいたるところを以って、追善なさんこと、これこそ、我らが出来る一つの孝心にてもあろうほどに!――』

と思い至り、日々、往還の稼ぎをなして、この一つ身の骨を折って稼いだ価いのみを以って、追善致そうと思ひ始めまして、かくなる仕儀を致いておるので御座いまする。……

……されども、夜中などに駕籠搔きなんど致しますと、これ、盜賊その外の災いを蒙ることもあるを恐れまして、当座の間は、昼の間だけ、召し仕(つこ)うておる男を連れ、駕籠掻きに出でてはおるので御座いまする。……

……いやはや、これは珍しき駕籠掻きにては御座いまするな……はははは……」

と笑って御座った。……

 

「……それにしても、まっこと、面白き志しの者にて御座る。」

と、その家士自身が私に語って御座った話である。

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 底倉 宮の下

    底倉 宮の下

 木賀より半道(はんみち)、底倉(そこぐら)の湯。このところは昔、地震にて石風呂(いしぶろ)もたへて、今はわづかに内湯(ゆ)二三ケ所あり。箱根名物の挽物細工(ひきものざいく)する家多し。これより宮(みや)の下(した)の湯へ二丁あり。大かた家つゞきなり。

〽狂 生醉のごろつき

あるくにぎはひは

これよりばちの

底(そこ)ぐらの

        湯場

「わしはこの底倉の湯よりかなんど、あねさん、お前のそこぐらの湯へはいつて見たいが、それとも水風呂桶(すいふろおけ)で、牛蒡(ごぼう)をあらうようではおことわりだ。」

「そんな冗談(ぜうだん)をいはずと、一風呂(ひとふろ)はいつて見なさい。それこそ身内がとけるやうで、それこそゆでたての蛸(たこ)のやうになりなさるであらう。わたしの胼胝(たこ)にあやかつて

 宮の下、内湯・瀧湯(たきゆ)あり。湯のわく水脈(すじ)より、筧(あけひ)より家(いゑ)の内へ瀧のごとくに湯をとり、これにうたるゝなり。頭痛・逆上(のぼせ)・肩引(けんひき)・足腰の痛みによし。

〽狂 功(こう)のふは神(しん)のごとしと

         ちはやぶる

   宮(みや)の下(した)なる湯場(ゆば)の

                 はんじやう

ごぜ

「わしどもは目が見へぬによて、男(をとこ)のよしあしはしれぬによつて、どんな男(をこと)でもかまはぬ。金(かね)でもくれる人でさへあればよいに。どふぞ、そんな男にかぎあたりたいものだ。」

「わしはまた目こそ見へね、器量がよいものだから、よい男がかゝるであらうとおもつてゐるが、まだそんな事もなし。この間も、人のいふには、そなたはたとへ目はなくても、その器量(きりやう)では、幸(しあは)せをしそうなものものだ、精だして貉(むじな)をくふと出世(しゆつせ)するものだといひなさるから、それから貉をとつてもらつてくひましたが、なぜまた貉をくふと出世しますかときいたら、その人のいふには、貉をくつて玉の輿(こし)だといいなさつたが、儂にはなんだかわからない。」

「富士屋に、江戸のうすき樣(さま)といふお座敷へ、たびたびまいりました。」

[やぶちゃん注:「底倉」現在の足柄下郡箱根町底倉。宮の下の三叉路から小涌谷へ二百メートルほど登った渓谷で、後の「二丁」かなり正確。早川の支流蛇骨(じやこつ)川に臨む。明神ヶ岳・明星ヶ岳の展望がよい。泉質は弱食塩泉。古来、宮ノ下・木賀とともに痔病に特効があることで知られる。太閤の石風呂は戦国末の小田原征伐のおりに豊臣秀吉が従軍将兵の傷を治したところと伝える(主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「半道」一里の半分。約二キロメートル。現在の地図上では、木賀と底倉は直線で五百メートルも離れていないが、恐らく当時は渓谷沿いに行ったものか。それでも「半道」はちょっと長過ぎる。

「挽物細工」所謂、箱根細工の一種。箱根細工は箱根や小田原地方で作られる木工製品を言い、大きく分けると、轆轤(ろくろ)を使ってお椀や丸盆などを作る、この「挽物細工」(轆轤細工)と、板と板を組み合わせて箱や引き出しを作る「指物(さしもの)細工」に分けらる。箱根地方では古くから特にこの挽物細工が中心で、戦国時代の記録にも、当時、畑宿では挽物細工が盛んに作られていたことが分かる。江戸時代になって東海道が整備されると、この箱根細工が旅人の土産物として人気を博した。江戸後期には箱根七湯に来る湯治客の湯治土産としても知られるようになった。これらの土産物は殆どが挽物細工であったが、江戸後半からは指物細工も見られるようになった。現在最も知られる寄木(よせぎ)細工や木象嵌(もくぞうがん)は、この江戸後半の時期から発生したものである(以上は箱根町役場公式HPの「工芸」に拠った)。

「そこくらの湯」会陰のことを隠語で言っているようである。「そこ」は指示語か。「くら」には古語で「谷」の意があるから、比喩としてはおかしくはないように思われる。

「水風呂桶で、牛蒡をあらうようでは」「水風呂」桶の下にかまどを取りつけ、浴槽の水を沸かして入る風呂。塩風呂・蒸し風呂などに対していう。「すえふろ」とも読む。茶の湯の道具である水風炉(すいふろ)に構造が似るところからとされる。「牛蒡」は男根。ここはその仲居の器量がよいのであろう(挿絵の右手このシーンの二人が描かれているが、なかなかの美人である)。その見た目の器量の割に、下の方は見かけ倒しで(温泉だと言って実は沸かし湯であるような見かけ倒しで)、交接してもあそこがぶかぶかで、「牛蒡をあらうよう」なのじゃ、というとんでもない猥雑な謂いであろう。

「わたしの胼胝にあやかつて」この「たこ」は、繰り返し圧迫を受けた皮膚の部分が角質化し厚くなった、あの「たこ」で、実際に仲居の腕か足に仕事だこが出来ているのであろうが、実はこれもセクシャルな謂いが含意されているように思われる。即ち、客が彼女の下の方をぶかぶかの「水風呂桶」じゃあるまいね、と揶揄したのを返して、あたいのあそこは蛸のように吸いつき締りも極上よ、と返しているのではないかと私は読む。こうした客あしらいはお手の物の、こうしたところの当時の仲居、なかなか負けてはいない。

「水脈(すじ)」の漢字は鶴岡節雄氏の当てられたものを用いた。

「功のふ」この「ふ」不詳。先に書いた秀吉の絡みで「功の武」(戦功のあった武者)か。それとも単に湯の効能の意か(例えば「符」で「しるし」の意)。識者の御教授を乞う。

「かぎあたりたいものだ」「嗅ぎ当り」で、眼が見えないために、かく表現している。

「貉をくつて玉の輿」不詳。何となくやはりエロティクな含意があるように思われてならない。識者の御教授を乞う。この瞽女(ごぜ:盲御前(めくらごぜん)という敬称に由来する女性の盲人の芸能者。鼓を打ったり三味線を弾いたりなどして、歌をうたい、門付けをした。民謡・俗謡のほかに説経系の語り物を弾き語りしたりもした。)の二人の会話は、それこそ「なんだかわからない」のである。挿絵はこの二人の瞽女を描くが、背後右に矢場の的が見え、左の家屋の向こうには「軍書講(釈)」の旗が見える。宮ノ下温泉の当時の繁昌振りが窺える。

「うすき樣」鶴岡氏は『うてき』とされるが、脚注で『「う」か「か」か判然としない。「うてき」は「腕扱」(うでこき)の促音か。武力、その他の技量の特にすぐれている人。』と注されている。確かに一見「う」「か」にしか見えないのだが、「うてき」も「かてき」も単語としてピンとくるものが存在しない。先行する連れの瞽女の会話を受けているのだろうか?(その場合、貉の隠喩が関わってきそうには見える)寧ろ、私は実際のお大尽の名を、広告よろしく実名出演させたのではないかと考えた。そこで、この二文字目の部分の画像を拡大してみたところ、下に下がる線が早稲田大学版でも国立国会図書館版でも中途で切れているのがはっきりと見える。これは左側に一回時計回りに回転して戻った「す」ではなかったか、その彫が浅かったために刷りで飛んでしまったのではないか、という推論に達した。即ち、「臼杵」「臼木」「薄木」「宇宿」「魚吹」「薄衣」「薄」といった人名(若しくは雅号)である。勿論、識者の御教授を乞うものである。]

西東三鬼句集「夜の桃」Ⅱ(前)

 Ⅱ

國飢ゑたりわれも立ち見る冬の虹

寒燈の一つ一つよ國敗れ

雪の町魚の大小血を垂るる

  昭和二十二年元旦一句

降る雪の薄ら明りに夜の旗

中年や獨語おどろく冬の坂

美しき寒夜の影を別ちけり

春雷の下に氷塊來て並ぶ

曇日の毛蟲が道を横ぎると

大佛殿いでて櫻にあたたまる

志賀直哉あゆみし道の蛸牛

薔薇を剪り刺(とげ)をののしる誕生日

梅雨ちかき奈良の佛の中に寢る

卓上にけしは實となる夜の顏

かくし子の父や蚊の聲來り去る

梅雨ふかしいづれ吾妹と呼び難く

梅雨の日のただよひありぬ油坂

塔中や額に靑き雨落つる

靑き奈良の佛に辿りつきにけり

梅の實の夜は月夜となりにけり

戀猫と語る女は憎むべし

人の影わらひ動けり梅雨の家

顏みつつ梅雨の鏡の中通る

おそるべき君等の乳房夏來(きた)る

茄子畑老いし從兄とうづくまり

汗し食ふパン有難し糞の如し

女の手に空蟬くだけゆきにけり

中年や遠くみのれる夜の桃

老年の口笛涼し靑三日月

顏近く蟬とび立てり亡母(はは)戀し

穀象の群を天より見るごとく

穀象を九天高く手の上に

數百と數ふ穀象くらがりへ

穀象に大小ありてああ急ぐ

穀象の逃ぐる板の間むずがゆし

穀象の一匹だにもふりむかず

穀象と生れしものを見つつ愛す

晝三日月蜥蜴もんどり打つて無し

夏荒れし菜圃女を待つとなく

中年やよろめき出づる晝寢覺

浮浪兒のみな遠き眼に夏の船

女立たせてゆまるや赤き旱(ヒデリ)星

朝の飢ラヂオの琴の絶えしより

飢ゑてみな親しや野分遠くより

夜の秋缺伸のあとのまた暗く

狂院をめぐりて暗き盆踊

秋天をゆきにし鳥の跡のこる

男・女長良夜の水をとび越えし

燒跡に秋耕の顏みなおなじ

秋風や一本の燒-けし樹の遠さ

秋の暮遠きところにピアノ彈く

秋の暮彼小さし我小さからむ

靑柿の堅さ女の手にすわる

みな大き袋を負へり雁渡る

秋耕のおのれの影を掘起す

  春日神社仲秋神事能 四句

老年や月下の森に面の舞

露暗き石の舞臺に老の舞

舞の面われに向くとき秋の夜

能の面秋の眞闇の方へ去る

雄鷄や落葉の下に何もなき

秋の巖稚き蜂を遊ばしむ

秋庭の闇見てあれば嚴浮かぶ

稻雀五重の塔を出發す

蝸牛秋より冬へ這ひすすむ

枯蓮のうごく時きてみなうごく

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

石榴の實露人の口に次ぎ次ぎ入る

耕すや小石つめたき火を發す

胡坐居て熟柿を啜る心の喪

柿むく手母のごとくに柿をむく

百舌の聲豆腐にひびくそれを切る

竹伐り置く唐招提寺門前に

落穗拾ふ顏を地に伏せ手を垂れて

倒れたる案山子の顏の上に天

月光の霧に電燈光(でんとうこう)卑し

滝の水寒やぐづをれくづをれて

冬滝を日のしりぞけば音變る

滝爪立ち寒きみなかみ覗くなり

機關車が身もだへ過ぐる寒き天

藁塚の茫々たりや伊賀に入る

冬菜畑伊賀の驛夫は鍬を振る

冬耕のどの黑牛もみな動く

冬濱に老婆ちぢまりゆきて消ゆ

沖へ向き口あけ泣く子冬の濱

冬濱に沖を見る子のいつか無し

海苔粗朶もて男を打てり遠景に

干甘藷(いも)に昨日(きそ)の日輪今日も出づ

冬の日は干甘藷のためあるごとし

干甘藷に昃り沖邊に日あたれり

干甘藷を取入れ燈下二人讀む

砂の庭干甘藷なくて月照らす

蜜柑山の雨や蜜柑が顏照らす

あからさまに蜜柑をちぎり且啖ふ

海峽の雨來て蜜柑しづく垂る

からかさを山の蜜柑がとんと打つ

樹の蜜柑愛撫す二重(ふたへ)顎のごと

まくなぎに幹の赤光うすれゆく

まくなぎの阿鼻叫喚を吹きさらう

[やぶちゃん注:底本「さらう」の「う」に『ママ』表記。]

まくなぎを無しと見て直ぐ有りと見る

まくなぎの中に夕星ひかり出づ

まくなぎの憂鬱をもて今日終る

木枯や馬の大きな眼に涙

木枯やがくりがくりと馬しざる

木枯は高ゆき瓦礫地に光る

燒けし樹に叫び木枯しがみつく

寒月に瓦礫の中の靑菜照る

寒月光電柱傳ひ地に流る

寐んとしてなほ寒月を離れ得ず

卵一つポケットの手にクリスマス

甘藷(いも)蒸して大いに啖ふクリスマス

黑人の掌(て)の桃色にクリスマス

寒卵累々たりや黑き市民

凍天へ脚ふみ上げて裸の鷄

破璃窓を鳥ゆがみゆく年の暮

年去れと鍵盤強く強く打つ

元日を白く寒しと晝寐たり

寒雀人の夜明けの輕からぬ

大寒の猫蹴つて出づ書を賣りに

枯れ果てし馬糞を踏んで書を賣りに

大寒の街に無數の拳ゆく

猫が人の聲して走る寒の闇

火事赤し一つの強き星の下

一言芳談 六十

  六十

 顕性房云、心の専不専(せんふせん)を不論(ろんぜず)して、南無あみだ仏ととなふる聲こそ詮要(せんえう)と真実(しんじつ)に思ふ人のなき也。

〇顕性房云、心のみだるゝ時も、それにとりあはず、念佛すれば、心もあらたまりて、本願にもかなふなり。

[やぶちゃん注:「専不専」永観の「往生十因」に、『又爲散亂人觀法難成。大聖悲憐勸稱名行。稱名易故相續自念晝夜不休。豈非無間乎。又不簡身淨不淨。不論心專不專。稱名不絶必得往生。運心日久引接何疑。又恆所作是定業故。依之但念佛者往生淨土其證非一。』とある。大橋氏はⅡの脚注で『浄土門では弥陀の名号を専心にとなえるの意。』とするが、これはどうも「専」の注であるようだ。とすれば「専不専」とは、「浄土門に於いて弥陀の名号を専心に唱えるているか、いないかということ」となるが、この三字熟語、現在、ネット検索を掛けても、そのような一般的な語として浄土門の法話等には全く使用されてはいない。しかし、この文脈は、それを問題にしない、ということに心眼がある。「雑念を全くうち払って専心に念仏することが肝要であるとか、雑念を少しでも持って念仏するということは、念仏の本義から言ってどうなのか、といった議論など全く意味がない。『南無阿弥陀仏』と唱えるところの、その『声』こそが――のみが、胆(きも)である。ところが、そうした単純明快で『肝心な急所』を《本当に分かっている人は誰一人としていないのだ》、と顕性房は言っている。これはしかし、「真実に思ふ人のなき也」という完膚なき断定によって、顕性房自身へも鏡返しされる。この断定は、そう言っている顕性房自身さえ――いや寧ろ、顕性房自身に実感される無念にして慚愧に堪えない言葉である時にのみ、「真」である。私は、この一条にこそ、当時の一種の末法思想を感じると言ってもよい。湛澄の標注は分かり易い代わりに、受験参考書の合格必勝法みたような糞の糞、ないほうがましな部類の標註である。我々は、まさにあくまで玄(くろ)い絶対の絶望に放たれた茫然自失たる思いで、この一条を読むべきであると私は思う。――まさに気休めや神頼みの類はもう聴き飽きた、という声が今、この今の現実世界にこそ、通奏低音のように響いているではないか!――]

2013/01/10

大ちゃんへ

僕を愛して呉れた釜利谷時代の教え子が昨年八月に亡くなったことを昨日知った……難病闘病の末の31歳だった……僕の弟のようだった大ちゃん……毎年、一年かけて練習した「僕の好きな」ジャズのピアノ曲をクリスマスに招待して呉れて僕に聴かせて呉れた大ちゃん……

大ちゃん、僕にまた、君のピアノを弾いておくれ……
今度は君の好きなモンクやパウエルが先生だから……
でもね……
僕が行ったら君のコンサートの前に、僕独りにだけ、聴かせてお呉れよ……指切り拳万、だ、よ…………

耳嚢 巻之六 山吹の茶關東にて賞翫又製する事

 山吹の茶關東にて賞翫又製する事

 元文の頃にもありけるか、所は忘れたり、ある社頭の別當せる僧、上方へ至り、宇治山吹と云へる茶を求めて下りける時、旅泊にても、茶を好みけるままに、彼茶をとり出して紙の上に置て水など調じける處へ、宿やの飯もり女子出て彼茶を見て、是は山吹にて候、茶を好み給ふと見へぬれば、我等調じまいらせむといひしに、彼僧いとふしんなして、賤しきうかれ女の、山吹と名指、又調ぜんと云も心得ずとていなみければ、我等はいとけなきより茶は能く煎じ覺へしとて、やがて煎じ出しけるを風味するに、甚だ其(その)氣味すぐれしかば、渠(かれ)が身の上を尋ねしに、暫し落涙に及びていと恥(はづ)る體(てい)なりしを、せつに尋ねしかば、渠は宇治の一二を爭ふ茶師(ちやし)の娘なりしが、與風(ふと)男に被誘(さそはれ)て親元を立出で、其後男も身まかりしかば、心あしき人の手に渡りて今はかゝる身過(みすぎ)をなんなしぬると、涙とゝもに語りければ僧も不便に思ひ、我等は是より江戸表に出(いづ)れど、又不遠(とほからず)して上方へも登り候間、其節可尋(たづぬべき)間、ふみ書きおかるべし、親元へ屆けて能きに取計(とりはから)はんと約し立分(たちわか)れしが、程なく又上京するとて彼旅籠屋(はたごや)に泊りて、右の女より文(ふみ)請取(うけとり)て宇治へ至り尋ねしに、彼茶師、棟高き富饒(ふねう)なる家故、其主を尋ねしに留守成(なる)由故、其妻に逢(あひ)て夫の歸りをまち、しかじかの事語りければ、夫婦は大きに驚き、行衞不知(しれざる)娘を尋倦(たづねあぐみ)けるに、かく爲知(しらせ)給ふ嬉しさよと、早速迎ひの人を仕立(したて)、彼(かの)僧よりの書狀をもらひ、身代金(みのしろきん)などあつく持せて其(その)手代など下しければ、恰も、渠が來(きた)る迄逗留なし給へとせちに賴みける故、無據(よんどころなく)逗留しけるが、無程(ほどなく)彼(かの)娘上京して兩親一族へ對面なし、死せし者の生出(いきいで)しやうに歡びけるが、何にてもお僧の願ひかなへ給へと、數(かずかず)のこがねなど出しけるを、彼僧かたく辭(じ)しいなみてうけざりしを、いろいろ歎きて漸く少しの路銀のみもらひけるが、餘りの嬉しさにや、家に傳へる山吹の製し方を、祕傳ながらといひて彼僧に傳授しけるを、僧は一世の事故、彼(かの)社頭の神主につたえしを又傳ふる者ありて、山吹の茶の製法は、あづまにも今多くしれるものあるとかや。

□やぶちゃん注

○前項連関:一種の起立譚で連関。

・「山吹の茶」宇治茶の銘柄の一つ。山吹色は淹れた茶の色であろう。

・「社頭の別當」とあるから、この僧の勤めていたのは神宮寺であることが分かる。

・「元文」西暦一七三六年~一七四〇年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、六十年以上遡る、かなり古い都市伝説である。

・「不遠(とほからず)して」は底本のルビ。

・「爲知(しらせ)」は底本のルビ。

・「僧は一世の事故」僧は別当職であったから、その別当職を次の僧に譲ることを言うか。示寂ととってもよいとは思う。何れにせよ、次代の別当僧は恐らく彼の弟子といった親しい者ではなかったのであろう(そうであったとしても例えば茶の嗜み方は「師」として認めていなかった)。だからこそ、恐らく同僚として親しかった神宮寺の神主にその茶の製法を伝授したものと思われる。

・「尋倦けるに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『尋侘(たずねわび)けるに』とある。本書の方がよい。

■やぶちゃん現代語訳

 宇治「山吹」の茶が関東でも賞翫され又製しもする事

 遙か元文の頃のことで御座ったか――確かな在所は忘れた――ある神宮寺の別当をして御座った僧が、所用にて上方へ参った折り、茶の名所である宇治にて「山吹」という茶を買い求め、江戸へ下向せんとした。

 とある旅籠屋(はたごや)にても、茶を好むが故に、買ったその「山吹」を早速にとり出だいて、茶を紙の上に置いて湯を頼んで持ち来たるを待って御座ったところへ、その宿の飯盛女(めしもりおんな)が湯を提げて出て参った。すると、僧が手元の茶の葉を見、

「……これは山吹の茶どすな。茶をお好みとお見受け致しますによって、一つ、妾(あて)がお淹れ致しまひょ。」

と申す。かの僧、大層、不審に思い、

「賤しき浮かれ女(め)の、何故(なにゆえ)に茶葉を見ただけで「山吹」という銘茶と名指し当てたばかりか――それを淹るる――その最も美味き淹れ方をも――知っておると申すは、これ、合点のいかぬことじゃ。」

と断ろうとしたところが、

「……妾(あて)は小さい時より……茶は……よう……煎じておりましたさかい、淹れ方もあんじょう、覚えております。」

と言うからに、さても淹れさせて見た。

 そうして、女の煎じ出だいたを翫味したところが……

――これ、まっこと!

優れた風味にて御座った。

 されば、僧、かの女にその身の上を尋ねたが、始めのうちは、しばし涙を流いたまま、大層恥じ入った様子にて黙って御座った。しかし、切に尋ねてみたところが、

「……妾(あて)は宇治で一、二を争う茶師(ちゃし)の娘で御座いましたが……ふと、ある男に誘われて親元を出奔致いたので御座いまする。……その後、じきにその男も身罷ってしもうたため……我が身も心悪しき人の手に渡って……今は……かくもお恥ずかしき身過ぎを致いておるで御座りまする。……」

と涙ながらに語ったによって、これを聴いた僧も如何にも哀れに思い、

「……拙僧はこれより江戸表へ帰るのじゃが……遠からずしてまた、これ、上方へも上る故、一つ、その節、そなたの両親を尋ね申そうほどに、その折りがため、手紙を書きおくがよいぞ。そなたの親元へそれを届けて、なるべく、そなたの良きように計って進ぜよう。」

と約して、その場は別れた。

 僧は江戸へ戻ったが、言葉通り、ほどのう、上京となったその途次、再び、かの旅籠屋に泊って、かの女より、命じおいた手紙を受け取ると、宇治へと向かった。

 宇治に辿り着いて、女より聴いて御座った家を尋ねてみたところが、言う通りの、これ、棟高き裕福なる家なれば、その主を訪ねたところ、主人は留守、ということなれば、僧はその妻なる者に逢って、大事なることのありせば、とて、夫なる主人の帰りを待ち、帰った夫と、かの妻に向かい、しかじかの顛末を語ったところが、夫婦は大層驚き、

「……行方知れずになった娘のことは、これ、訊ね倦(あぐ)んでおりましたが、かくお知らせ下すったことの嬉しさよ!」

と、早速、使いの者を仕立て、かの僧よりの書状を貰い受け――そこに認(したた)められた文字(もんじ)の娘のものなることを確かめた上――身代金(みのしろきん)なんども十二分に持たせて、家の手代なんどを、かの旅籠屋へと送り出だいた。

 主人は僧へも、

「どうか一つ、娘が帰って参りますまで、御逗留下さりませ。」

と切(せち)に頼んだ故――己(おの)が申したことの嘘か誠か、これ、半信半疑なる様も窺えたれば――僧もよんどころのう、この茶師が館に逗留致いて御座った。

 ほどのう、かの娘も無事、宇治へと帰り着いて、両親や一族へ対面した。

 特に両親は、死んだ者が生き返った如、大いに歓んで、

「かくなった上は何にても、お坊さまの願い、これ、叶えて差上げとう存じまする!」

と、数多(あまた)の謝金を差し出だいたが、かの僧は、これを固く辞し、受け取りを拒んで御座った。それでも、

「何としても、これ、御礼(おんれい)致さねば、人の道が立ち申しませぬ!」

なんどと、いろいろ嘆願致いたによって、仕方のう、宇治へと回った少しばかりの路銀をのみ受け取ったと申す。

 かくも、謙虚なる仕儀にも打たれ、茶師、余りの嬉しさによるものか、家に伝わるところの「山吹茶」の製する法を、

「――秘伝ながら。……」

と申しつつも、かの僧に伝授致いた。

 その僧、別当職の終りに当たって、かの神宮寺の親しくして御座った神主にその秘伝を伝え、その後(のち)また、それを伝える者が御座って、宇治「山吹」の茶の製法は、これ、坂東の地にて、広く知られておる、とか申すことで御座った。

西東三鬼句集「夜の桃」 Ⅰ (「旗」を主体とした先行発表作の採録パート)

■句集「夜の桃」

(三洋社より昭和二三(一九四八)年九月五日発行)

自序

 この句集の内容は次の通りである。

 Ⅰ 戰前の二句集、三省堂刊「旗」河出書房刊「現代俳句」第三卷から選出した五十句。

 Ⅱ 戰後の昭和二十年冬から、同二十二年秋までに發表したものから選出した二百五十句。

 Ⅱの作品からは、今日の私から見て、既に削除したいものもあるが、句集は自分の歴史だから、一應殘存させることにした。

 昭和二十三年夏

           西東三鬼

[やぶちゃん注:底本に編者注として、『本「自序」中のⅡに記された「二百五十句」は誤り。実際は「二百四十七句」。』とある。]

 Ⅰ

水枕ガバリと寒い海がある

長病みの足の方向海さぶき

右の眼に大河左の眼に騎兵

白馬を少女瀆れて下りにけむ

汽車と女ゆきて月蝕はじまりぬ

手品師の指いきいきと地下の街

ランチタイム禁苑の鶴天に浮き

熱ひそかなり空中に蠅つるむ

熱さらず遠き花火は遠く咲け

算術の少年しのび泣けり夏

綠蔭に三人の老婆わらへりき

夏曉の子供よ地に馬を措き

[やぶちゃん注:『旗』では、

 夏曉の子供よ土に馬を措き

で異なる。底本によれば、この句形は『旗』刊行以前の昭和一二(一九三七)年十月号『俳句研究』発表のものである。三鬼は敢えて原型に戻している。]

冷房の時計時計の時おなじ

葡萄あまししづかに友の死をいかる

別れ來て粟燒く顏をほてらする

[やぶちゃん注:『旗』では、

 別れきて粟燒く顏をほてらする

で表記が異なる。底本によれば、この句形は『旗』刊行以前の昭和一一(一九三六)年十二月号『俳句研究』発表のものである。三鬼は敢えて原型に戻している。]

道化出でただにあゆめり子が笑ふ

道化師や大いに笑ふ馬より落ち

大辻司郎象の藝當みて笑ふ

空港の靑き冬日に人あゆむ

操縱士犬と枯草馳けまろぶ

冬天を降り來て鐵の椅子に在り

[やぶちゃん注:『旗』では、

 冬天を降り來て鐵の椅子にあり

で表記が異なる。底本によれば、この句形は本句集と別に全く同時に昭和二三(一九四八)年九月に出版された『自註句集・三鬼百句』所収されたものである。但し、この『自註句集・三鬼百句』の原形は前年の昭和二二(一九四七)年五月に新俳句人連盟総会に出席するために神戸より上京する車中で認められたものであるから、推敲の上、新たに「あり」を漢字化したものであることが分かる。]

空港の硝子の部屋につめたき手

郵便車かへり空港さむくなる

ピアノ鳴りあなた聖なる冬木と日

[やぶちゃん注:底本によれば、同時期出版の『自註句集・三鬼百句』では、

 ピアノ鳴りあなた聖なる日と冬木

と下五の語句を反転させている。この「日と冬木」の句形の方が三鬼にとっては最終決定稿であったか。]

枯原に北風つのり子等去りぬ

[やぶちゃん注:『旗』では、

 枯原に北風つのり子等は去り

で下五が異なる。底本によれば、この句形は昭和一五(一九四〇)年六月に出版された河出書房『現代俳句』第三巻に所収された三鬼の選句集『空港』に載るものである。(『旗』の刊行はこれに先立つ同年三月)因みに、この昭和一五(一九四〇)年二月から翌一六年二月にかけて『京大俳句』の関係者を含む新興俳句運動の面々が京都警察部や特別高等警察によって検挙される、所謂、京大俳句事件が起こって、三鬼も八月三十一日に特高によって一時検挙され、その後の執筆が禁じられた。]

冬草に黑きステッキ插し憩ふ

冬日地に燻り犬共疾走す

突く女窓の寒潮縞をなし

園を打つ海の北風に鼻とがる

荒園のましろき犬にみつめらる

冬鷗黑き帽子の上に鳴く

冬の園女の指を血つたひたり

絶壁に寒き男女の顏ならぶ

誕生日あかつきの雷顏の上に

昇降機しづかに雷の夜を昇る

機の車輪冬海の天に廻り止む

紅き林檎高度千米の天に嚙む

冬天に大阪蠻人嘔くはかなし

枯原を追へるわが機の影を愛す

[やぶちゃん注:『旗』では、

 枯原を追へる我機の影を愛す

で表記が異なる。底本によれば、この句形は『自註句集・三鬼百句』所収のものとする。]

わが來し天とほく凍れり煙草吸ふ

高原の向日葵の影われらの影

童子童女われらを笑ふ靑き湖畔

湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ

仰ぐ顏くらし靑栗宙にある

暗き湖のわれらに岸は星祭

[やぶちゃん注:『旗』では、

 暗き湖のわれらに岸は星祭り

で表記が異なる。底本によれば、この句形は選句集『空港』に載るものの再録とする。]

夜の湖ああ白い手に燐寸の火

[やぶちゃん注:『旗』では、

 夜の湖あゝ白い手に燐寸の火

で踊り字が用いられている。]

湖を去る家鴨の卵手に歎き

[やぶちゃん注:『旗』では、

 湖を去る家鴨の卵手に嘆き

で漢字表記が異なる。底本によれば、この句形は『旗』刊行以前の昭和十四(一九三九)年十月号『俳句研究』発表のものである。三鬼は敢えて原型に戻している。私も個人的にこの「歎」の方を支持するものである。]

空港なりライタア處女の手にともる

戀ふ寒し身は雪嶺の天に浮き

寒夜明るし別れて少女馳け出だす

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 ⅩⅥ 戦争 作品15 / 自伝 句集「旗」 了

  作品15

占領地區の牡蠣を將軍に奉る

兵隊に花が匂へば遠き顏

占領地區の丘の起伏に眼を細め

自傳

 明治三十三年五月十五日、岡山縣津山市に生れた。私に流れた亡父の血が、今日、私に俳句を作らせてゐる。

 新興俳句運動の初期から、横の連鎖を計って來た。

 私の俳句に、直接、間接の指導を與えられた、先輩諸先生、僚友諸君に改めてお禮を申上げる。

[やぶちゃん注:「自傳」の促音「計って」と、「與え」は底本のママ。]

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 ⅩⅤ 戦争 作品14

  作品14

闇を馳け騎兵集團の馬の眼玉

風の闇馬の雙眼にある銃火

銃火去り盲馬地平に吹かれ佇つ

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 ⅩⅣ 戦争 作品13

  作品13

   ――敗敵――

絶叫する高度一萬の若い戰死

黄土層天が一滴の血を垂らす

兵を乘せ黄土の起伏死面なす

黄土の機銃彈一箇行きて還る

一人の盲兵を行かしむる黄土

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 ⅩⅢ 戦争 作品12

  作品12

靑き湖畔捕虜凸凹と地に眠る

捕虜の國の星座美し捕虜眠る

老少の捕虜そむき眠る靑き湖畔

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅻ 戦争 作品11

  作品11

禿山の砲口並びせり上る

禿山に彈道學と花黄なり

禿山に飢ゑ砲彈を愛撫する

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅺ 戦争 作品10

  作品10

塹壕に蠍の雌雄追ひ追はる

機銃音蠍の腹をなみうたしめ

機銃音蠍の雌雄重なれり

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅹ 戦争 作品9

  作品9

塹壕に尊き認識票光る

塹壕の壁を上りし靴跡なり

塹壕を這ふ昆蟲を手にのせる

風匂ひ深き塹壕を吹き曲る

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅸ 戦争 作品8

 

  作品8

 

 

 

泥濘に少尉倒れん倒れんとせしが

 

 

 

泥濘の死馬泥濘と噴きあがる

 

 

 

泥濘となり泥濘に撃ち進む

 

 

 

泥濘に生ける機銃を抱き撃つ

 

 

 

戰友よ泥濘の顏泣き笑ふ

 

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅷ 戦争 作品7

  作品7

   ――敵軍――

 

パラシウト天地ノ機銃フト默ル

 

少年ノ單座戰鬪機血ヲ垂ラス

 

少年兵抱キ去ラレ機銃機ニ殘ル

東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅶ 戦争 作品6

  作品6

垂直降下(ヘルダイヴ)南京蟲の街深く

 

垂直降下仰ぐ老年の鬚を垂れ

 

垂直降下哄笑天に尾を引けり

 

垂直降下一頭の馬街つらぬき

 

垂直降下靑樓の午後花朱き

 

垂直降下地下に蠢き老婆ども

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅵ 戦争 作品5

  作品5

 

逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ!

 

戰友ヲ葬リピストルヲ天ニ撃ツ

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅴ 戦争 作品4

  作品4

 

機關銃蘇州河ヲ切り刻ム

 

彈道下裸體工兵立チ櫓(コ)ゲル

 

一人ヅツ一人ヅツ敵前ノ橋タワム

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅳ 戦争 作品3

  作品3

   ――ニュース映畫――

 

悉く地べたに膝を抱けり捕虜

ぼうぼうたる地べたの捕虜を數へゐる

 

捕虜共の飯食へる顏顏撮(と)られ

 

捕虜共の手足體操して撮られ

 

捕虜共に號令かける捕虜撮られ

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅲ 戦争 作品2

  作品2

 

砲音に鳥獸魚介冷え曇る

 

血が冷ゆる夜の土から茸生え

 

丘にむらむら現る軍馬月歪み

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅱ 戦争 作品1

戦争

 

  作品1

 

機關銃熱キ蛇腹ヲ震ハスル

 

機關銃地ニ雷管ヲ食ヒ散ラス

 

機關銃低キ月盤コダマスル

 

機關銃靑空翔ケリ黑光ル

 

機關銃翔ケリ短キ兵ヲ射ツ

 

機關銃天ニ群ガリ相對ス

 

機關銃一分間六百晴レ極ミ

 

機關銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク

 

機關銃腹ニ糞便カタグナル

 

機關銃裂ケシ樹幹ニ肩アマル

 

機關銃彈道交叉シテ匂フ

 

機關銃黄土ノ闇ヲ這ヒ迫ル

 

機關銃闇ノ黄砂ヲ噴キ散ラス

 

機關銃闇ノ彈道香ヲ放ツ

 

機關銃機關銃ヲ射チ闇默ル

西東三鬼句集「旗」 昭和14(1939)年 Ⅰ

昭和十四(一九三九)年

 

  天路

空港に憲兵あゆむ寒き別離

 

機の車輪冬海の天に廻り止む

 

光る富士機の脇腹にあたらしき

 

冬天に大阪藝人嘔くはかなし

 

枯原を追へるわが機の影を愛す

 

寒き別離安全帶(ライフバンド)を固く締め

 

滑走輪冬山の天になほ廻る

 

械の窓に富士の古雪吹き煙る

 

紅き林檎高度千米の天に嚙む

 

寒潮に雪降らす雲の上を飛ぶ

 

冬天に彼と我が翼を搖る挨拶

 

冬靑き天より降り影を得たり

 

わが來し天とほく凍れり煙草吸ふ

 

  金錢

 

金錢の街の照り降り背に重し

 

金錢に怒れる汗を土に垂る

 

金錢の一片と裸婦ころがれる

 

  數日

 

高原の向日葵の影われらの影

 

童子童女われらを笑ふ靑き湖畔

 

湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ

 

仰ぐ顏暗し靑葉宙にある

 

暗き湖のわれらに樺は星祭り

 

夜の湖あゝ白い手に燐寸の火

 

湖を去る家鴨の卵手に嘆き

 

  雷と花

 

厭離早や秋の舖道に影を落す

 

顏丸き寡婦の曇天旗に滿つ

 

雷と花歸りし兵にわが訊かず

 

腹へりぬ深夜の喇叭霧の奧に

 

月夜少女小公園の木の股に

一言芳談 五十九

   五十九

 

松蔭(まつかげ)の顯性房云、渡(わたり)に出(いで)たる舟に行(ゆき)あひたるは、先(まづ)つかみつきて、のるほかに別(べち)の手なし。今生(こんじやう)の愛河(あいが)をわたらんとおもふに、彌陀の名號の聞(きき)得つる上には、仰信(かうしん)して稱名するほかには別(べち)の樣(やう)なき也。なまざかしき智惠に損ぜらるゝ事を、眞實(しんじつ)におもひしること人ごとになきなり。

 

〇先づつつかみつきて、蓮宗寶鑑云、逢舟濟沈論難。詎可遅疑。十困云、人値急難得一方便、應早速離。何暇論談。行者亦爾。旦暮難知。不雜餘言、勵聲念佛、當自有證。無常すみやかにして、地獄とほからず。はやく念佛に取りつくべし。

〇なまさかしき、あたら本願にあひながら、機をもつたなし、心もよわし、行もゆるしなどいひて、はかばかしく念佛申すことはなし。是はなま物知りの智慧にそこなはるゝなり。

 

[やぶちゃん注:「松蔭の顯性房」大橋氏脚注に、『湛澄は「善意上人弟子。長門に住す」 とする。しかし『浄土伝燈総系譜』に、明遍の弟子四人をあげ、その中、浄念に「松蔭住」とあるから、顕性は明逼の弟子ではあるまいか。』と解説されておられる。「松蔭」は地名で、現在の京都市上京区松蔭町か。Ⅲでは「せういん」とルビを振る。現在の松蔭町は「まつかげちょう」と読む。

「先(まづ)」副詞のように訓じているが、これはまず、舟の舳先の意味で、それに副詞の意を掛けているようである。

「愛河」愛欲などの執着が人を溺れさせるのを河に譬えた語。

「仰信(かうしん)」山崎弁栄(やまざきべんねい 安政六(一八五九)年~大正九(一九二〇)年):浄土僧。光明主義運動の提唱者。十二歳の時、空中に弥陀三尊を想見、二十一歳で出家して東京に遊学、筑波山で念仏行の修行をして三昧発得を体験した。その後一切経を読破し、明治二七(一八九四)年にインド仏跡参拝を行い、帰国後は独自の伝道活動を展開した。)の「人生の帰趣」に、『仰信とは天然素朴の人にも本来仏性あり、未だ顕動させざるも、伏能として存す。ミオヤの真理を聞いて一心一向に仰いで信じ、信頼する時は必ず救済に預ると平に思ひ込んで毫も疑ひを挾まざるが如きは仰信と云ふ』とある(山口県柳井市の長命寺のHP内の人生の帰趣 0416から孫引き)。

「蓮宗寶鑑云、逢舟濟沈論難。詎可遅疑。十困云、人値急難得一方便、應早速離。何暇論談。行者亦爾。旦暮難知。不雜餘言、勵聲念佛、當自有證。」をⅠの訓点を参考に読み下しておく。

「蓮宗寶鑑」に云はく、『舟、沈論の難を済ふに逢ふに、詎(なん)ぞ遅疑す可き。』と。「十困」に云はく、『人、急難に値つて一(いつ)の方便を得ば、應に早速に離るべし。何の暇(いとま)に論談せん。行者も亦、爾(しか)り。旦暮(あけくれ)、知り難し。余言を雑へず、聲を勵(れい)して念佛せば、當に自(おのづ)から證有るべし。』と。

「蓮宗寶鑑」は元の浄土教結社白蓮宗廬山東林寺の普度が著した「廬山蓮宗宝鑑」。十巻。白蓮宗の創始者は南宋孝宗期の天台宗系の慈昭子元だが、当初から国家からも既成教団からも異端視されていた。それは、半僧半俗で妻帯の教団幹部により、男女を分けない集会を開いたからだとされる。教義は、唐代三夷教のひとつ明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる(マニ教は中国には六九四年に伝来して「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」とも表記された。則天武后は官寺として首都長安城にマニ教寺院の大雲寺を建立している)。普度は「廬山蓮宗宝鑑」を以って大都に上京、白蓮教義の宣布に努めて布教の公認を勝ち得たが、白蓮宗はじきに禁止の憂き目に遭った。白蓮教は元代には呪術的な信仰とともに弥勒信仰が混入して変質、革命思想が強くなり、何度も禁教令を受けている(以上はウィキ白蓮教に拠った)。

「人ごとになきなり」この「ごと」は接尾語で「~もみな」の意。従って「誰一人としていないのである」の謂いである。]

芥川龍之介新発見句 尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま

芥川龍之介の新発見句「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」を「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に追加した。

2013/01/09

北條九代記 梶原叛逆同意の輩追捕

    〇梶原叛逆同意の輩追捕

同二十四日梶原父子が所領及び美作國の守護職を沒收(もつしゆ)し、駿州の住人芦原、工藤、飯田、吉高(きつかう)等(ら)に勸賞(けんじやう)行はる。京都の内に梶原が餘黨是ある由(よし)安達源三親長(ちかなが)に仰せて上洛せしめらる。爰に安房判官代隆重は、景時が朋友として斷金(だんきん)の睦(むつ)び堅(かたか)りしかば、兼てよち一の宮の城(じやう)に加(くはゝ)り、今度景時に相倶して、駿河に至り、合戰の刻(きざみ)に疵(きず)を蒙(かうぶ)り、引退(しりぞ)きて、松の梢に身を隱し忍びて、其夜を明しけるが、軍兵等(ら)分散して後に近き邊(あたり)の村に出でて食を求め侍けるを、糟屋(かすやの)藤太有季(ありすゑ)が郎從是(これ)を見咎めて生捕(いけど)りたり。武田兵衞尉有義も景時に同意して、密(ひそか)に上洛せんとす。伊澤五郎信光聞付(きゝつ)けて、甲州より馳(はせ)向ひければ、一家悉(ことごとく)逐電して行方(ゆくかた)なし。景時が一味同意の狀を取落し、帳臺(ちやうだい)にありけるを、拾取(ひろいと)りて賴家卿に奉る。梶原叛逆の事、愈々疑ふ所なしとて、一族餘類嚴(きびし)く尋ね搜されけり。翌月二月二十日安達(あだちの)源三京都より歸參して、播磨國の住人追捕使(ついふし)芝原太郎長保を召具(めしぐ)して來れり。安達言上しけるは、「京都の所司佐々木左衞門尉廣綱と相共に景時が五條坊門の家を追却(つゐきやく)し、郎從等(ら)を搦捕(からめと)り、その白狀に依(よつ)て、江州富山莊(とみやまのしやう)に馳向(はせむか)ひ、長保を生捕まゐり候」と申す。小山左衞門尉朝政に仰せて、推問せらる。長保申けるは、「某(それがし)播州(ばんしう)の追補使たり。景時は又守護職たるに依て、暫く奉公を致すしかども、叛逆の事に於ては露計(ばかり)も存知せず」と申しければ、先づ朝政にぞ預けられける。

[やぶちゃん注:ここは時計が少し巻き戻っており、「吾妻鏡」巻十六の正治元(一二〇〇)年正月二十四日・二十五日・二十六日・二十八日に拠る。特に大きな相違点は認められない。

「帳台」寝殿造りの母屋内に設けられる調度の一つ。浜床(はまゆか)という正方形の台の上に畳を敷き、四隅に柱を立てて帳(とばり)を垂らしたもの。貴人の寝所又は座所とした。

「安房判官代隆重」佐々木高重(?~承久三(一二二一)年)。彼は後に許され、阿波国守護代職も失っていない(本文は「安房」であるが、これは我々の今言う「阿波」と思われる。これは誤りというよりも、表記の両有性があったことに由来するものと思われ、実際に千葉の「安房」は古くは「阿波」とも表記されている)。後、承久の乱で阿波国内の兵六百人を率いて上京、佐々木経高の率いていた淡路の官軍と合流した。しかし、圧倒的な鎌倉軍をの前に、上皇方は敗走、佐々木経高・高重父子は討死している。

「武田兵衞尉有義」(?~正治二(一二〇〇)年?)甲斐源氏の棟梁・武田信義の子。元は平重盛の家臣であったが、治承四(一一八〇)年、父に従って一族と共に反平家の兵を挙げ、源頼朝軍に合流してからは源範頼の下で西国を転戦する。弓馬の道に優れたが、文治四(一一八八)年の鶴岡八幡宮での大般若経供養の式の場で頼朝の御剣役を命ぜられ、これを渋ったため、頼朝にかつて彼が重盛の御剣役を務めていたことを面罵一喝され、満座の中で大いにその面目を失ってからは凋落、書かれているように本事件によって逐電、失踪した。参照したウィキ武田有義によれば、『この過程においては、有義を征夷大将軍に擁立するという趣旨の景時の密書がその居館から発見されたとの申し立てが、弟の伊沢信光によって行われた。この事件以降『吾妻鏡』においては有義の名は現れず、「伊沢」「武田」両姓が併記されていた信光の姓が「武田」に統一され、武田氏棟梁の地位は信光に移ることになったと考えられている』とある。

「伊澤五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐武田氏第五代当主。第四代当主武田信義五男。前注で示した通り、実は武田有義の弟である。

「芝原太郎長保」彼は後に無実として許されている。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 芦の湯 木賀

    芦の湯 木賀

 權現坂に道標(みちしるべ)の石あり。これより芦(あし)の湯へ一里。道に薺(なづな)の池、元西河原(もとさいのかはら)、多田滿仲(ただのまんぢう)石塔、曾我兄弟・虎御前の石塔あり。芦の湯は癩病、黴病(しつ)、五痔(ぢ)、そのほか一切(いつさい)の腫物(はれもの)によし。兩側一丁ばかりに湯宿(ゆやど)ありて奇麗なり。これより一里ゆきて木賀(きが)の湯なり。此間に明礬(めうばん)を製(せい)する所あり。木賀のうちに、岩湯(いわゆ)、上(うえ)の湯、平(ひら)の湯、大瀧(だき)の四ケ所あり。疝氣(せんき)、中氣(ちうき)によし。地獄といふは、芦の湯より八丁ばかりにあり。硫黄(いわふ)にて、つねに煙(けふり)たつところを地獄といふ。

〽狂 みな人の心のおにの

 つのおれんかゝるぢごくの

   おそろしさには

たび人

「この山にも地獄があるが、わしが前方(まへかた)、越中の立山へ參詣した時、立山の地獄では、しんだものにあふといふにちがひなく、わしがひさしくなじんだ女郎で、しんだのがあつたが、その女郎の幽靈に、立山であったから、『これはめづらしい。そなた今はどこにどうしてゐる』ときいたら、その女のいふには、『妾(わし)は今、畜生道(ちくせうどう)へおちてゐますが、妾(わし)が今の亭主は、顏は人間、體は馬(むま)でござりますが、人が世話(せわ)して、妾(わし)は今そこへかたづきました。世間の譬(たとへ)にも、馬にはのってみよ、人にはそふて見よといふ事がござりますが、わしはどうぞ馬にそふて見たいものだと思ひました。念がとどひて、とうとう馬の女房になつております。地獄の賽の河原町におりますから、御前(おまへ)も、はやふしんで、たづねてきてくださりませ』とぬかしたから、大笑ひだ。」

「そんなら、その幽靈馬の女房になつてゐるなら、大方(かた)、その幽靈のでる時には、『どうどうどう』と、その馬が太鼓をたゝくであらう。」

[やぶちゃん注:「芦の湯」現在の芦之湯温泉。国道一号線最高所付近にあり、箱根七湯の中では最も標高が高い。開湯は鎌倉時代。単純硫黄泉で神経痛・関節痛・動脈硬化に効く。コロイド硫黄のアルカリ性の湯質で硫黄系濁り湯としては珍しい泉質である。古くは江戸時代から文人墨客がこの地を訪れている(以上はウィキ「箱根温泉」の記載に拠る)。

「薺の池」箱根町元箱根にあるお玉が池。中野晴生氏のHP内の「お玉が池」によれば、『元禄十五(一七○二)年二月十日の夜のこと。関所の裏山を越えようとしたひとりの娘が捕まった。娘の名はお玉。南伊豆の百姓、太郎兵衛の娘で、その年の正月から、江戸に奉公に出ていた。お玉は主人に叱られたのか、我が家恋しさのあまり、奉公先を抜け出して故郷を目指す。もちろん関所手形など持つはずもない。思い余ったお玉は、関所破りという重罪を犯してしまった』。『お玉は哀れにも、捕まってから三ヶ月余りで獄門に処されてしまう。そのお玉の首を洗ったのが、お玉ヶ池だった。この池はそれまで「ナズナが池」と呼ばれていたが、お玉を憐れんだ村人によって「お玉ヶ池」と呼ばれることになったという』。『狂歌で有名な大田南畝は、紀行文『改元紀行』に、駕籠かきから「お玉ヶ坂」について、罪ある女が処刑された場所だと聞かされたと書き残して』おり、『池の名前の由来については、ほかにもお杉とお玉という上方の旅芸人の姉妹が、関所破りをして役人に追われ、お玉がこの池に飛び込んで死んだので、こう呼ばれるようになったとも伝えられる』と解説しておられる。

「元西河原」「元」と附くところを見ると、「東海道三嶋宿」の段で注したその当時の「賽の河原」のより昔の古形の場所であった考えられる。「金草鞋 第二編 東海道の巻」によれば、池の旗端に地蔵が立っていたらしい。

「多田滿仲」源満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)賜姓源氏源経基嫡男。多田源氏祖。法号は満慶。安和の変(九六九年)の発端となった陰謀(源連らが皇太子守平親王廃位を狙っているという)を密告して朝廷にその名を強く印象づけた。清和源氏が摂関家に臣従する契機はここに始まるとみてよい。越前・常陸などで地方官も務めたが、実際には京での生活を主とした。実際には安和の変は満仲が仕組んだ可能性もあり、更に花山天皇出家事件によって摂関家との関係を強め、武門としての地位を確立していった。箱根の精進池池畔には俗に満仲の墓と伝える三・六メートルにもなる巨大な宝篋印塔があるが、実際には永仁四年(一二九六年)の銘があり満仲とは無関係である(そう呼称されている理由は不明)。

「黴病」梅毒。黴毒と書いて「ばいどく」とも訓ずる。

「五痔」作家檜山良昭録」に曰く、『作家の原稿に誤字脱字あれば、尻には五痔脱痔あり』。『五痔とは切れ痔、イボ痔、トサカ痔、蓮痔、脱痔の五種。蓮痔とは痔瘻(じろう)のこと。あたかも蓮の茎穴のような形なので、古くはそう呼んだ』とある。因みにいぼ痔は内痔核又は外痔核、トサカ痔は鶏の鶏冠(とさか)が合わさったように見える脱肛、蓮(はす)痔は穴痔と同義。

「木賀の湯」、宮ノ下温泉に近く、箱根七湯の中で箱根湯本に次いで二番目に古く、開湯は平安時代末期から鎌倉時代初期、一説に治承・寿永の乱の折りから、源頼朝の家人木賀善治吉成が合戦の折りに負傷して箱根の山中に分け入ったところ、白狐が現れ、吉成を温泉に導いたという。その後その湯で傷を癒した吉成は合戦に戻り、合戦後、その地の地頭職に就いた吉成により木賀温泉となった。吉成を導いた白狐は吉成の妻となり、死後は白狐稲荷として奉られたともいう。江戸時代には温泉奉行が置かれて徳川家への献上湯。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉、切り傷・神経痛・関節痛・冷え性に効く(以上はウィキ「箱根温泉」の記載に拠る)。現在の宮ノ下の三叉路から箱根裏街道を六百メートルほど行った位置にある。

「明礬」カリウム・アンモニウム・ナトリウムなどの一価イオンの硫酸塩と、アルミニウム・クロム・鉄などの三価イオンの硫酸塩とが化合した複塩の総称。硫酸カリウムと硫酸アルミニウムとが化合したカリ明礬が古くから知られ、これを指すことが多い。媒染剤・皮なめし・製紙や浄水場の沈殿剤など用途が広い(「大辞泉」に拠る)。

「前方」以前。

「その幽靈のでる時には、『どうどうどう』と、その馬が太鼓をたゝくであらう」歌舞伎下座音楽の一つで、幽霊や妖怪などの出現に用いる大太鼓を長ばちで打つ仕儀の「どろどろ」という名詞に、馬牛を御する(特に制止する)時に掛ける掛け声の感動詞「どうどう」を掛けた。]

西東三鬼句集「旗」 昭和12(1937)年

昭和十二(一九三七)年

 

  空港

 

空港の靑き冬日に人あゆむ

 

滑走路黄なり冬海につきあたり

 

操縱士犬と枯草馳けまろぶ

 

冬天を降(お)り來て鐵の椅子にあり

 

空港の硝子の部屋につめたき手

 

郵便車かへり空港さぶくなる

 

  大森山王

 

ピアノ鳴りあなた聖なる冬木と日

 

雪よごれ獨逸學園の旗吹かれ

 

枯原に北風つのり子等は去り

 

冬草に黑きステッキ插し憩ふ

 

冬日地に燻り犬共疾走す

 

  海濱ホテル

 

哭く女窓の寒潮縞をなし

 

園を打つ海の北風に鼻とがる

 

荒園のましろき犬に見つめらる

 

冬鷗黑き帽子の上に鳴く

 

冬の園女の指を血つたひたり

 

絶壁に寒き男女の顏ならぶ

 

  留日學生王(ワン)氏

 

王(ワン)氏の窓旗日の街がどんよりと

 

編隊機點心の茶に漣立て

 

王氏歌ふ招魂祭の花火鳴れば

 

鯉幟王氏の窓に泳ぎ連れ

 

厖大なる王氏の晝寢端午の日

 

五月の夜王氏の女友鼻低き

 

  旦暮

 

祭典のよあけ雪嶺に眼を放つ

 

祭典のゆふべ烈風園を打つ

 

祭典の夜半にめざめて口渇く

 

  誕生日

 

誕生日あかつきの雷顏の上に

 

誕生日街の鏡のわが眉目

 

誕生日美しき女見ずて暮れぬ

 

  雷

 

昇降機しづかに雷の夜を昇る

 

屋上の高き女體に雷光る

 

雷とほく女ちかし硬き屋上に

 

  黑

 

兵隊がゆくまつ黑い汽車に乘り

 

僧を乘せしづかに黑い艦が出る

 

黑雲を雷が裂く夜のをんな達

 

 夏

 

巨き百合なり冷房の中心に

 

冷房の時計時計の時おなじ

 

冷房にて銀貨と換ふる靑林檎

耳嚢 巻之六 大日坂大日起立の事

 大日坂大日起立の事

 

 いにしへは八幡坂と唱へける由。右は同所久世家抱屋舖(かかへやしき)の地尻(ぢじり)に櫻木町の八幡あるゆゑにや。□□の頃、久世家にて右抱屋敷起發(きほつ)の頃、右屋敷脇にあやしげなる庵室(あんじつ)ありて尼壹人住居せしが、其頃は至(いたつ)て物淋しき土地故、博徒の輩あつまりて其邊にて博奕をなし、茶或は酒肴(しゆかう)等の煮たきを右尼に賴みけるが、日々世話になり候(さふらふ)禮を何か報(むくひ)んと、彼博徒等申合(まうしあひ)けるが、其内一人、尼が信仰する本尊は大日なる由、此大日に利益ある由申觸(まうしふら)し流行出(はやりだし)候はゞ、一廉(ひとかど)の助(たすけ)と成(なら)んと、所々より集りし博徒等申觸(まうしふれ)ける故、流行出し、一旦殊の外繁昌せし故、右大日を今の所へ堂を立(たて)、當時は別當もありて地名も大日を以(もつて)、唱ふるなりと、彼(かの)所の古老の物語なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。起立譚で冒頭と連関。また、「意念奇談の事」の現場、小日向水道端とも非常に近い。但し、話柄自体は、全くの都市伝説の域を出ない怪しげなものである。

・「大日坂」現在の文京区小日向二丁目にある坂。江戸時代は小日向の名所であった。

・「大日」底本鈴木氏注に『三村翁注に「大日坂大日堂、小日向水道町に在り、覚王山長谷寺といひ、天台宗寛永寺末なり、開山を新編江戸志には、渋谷禅尼とし、寺の縁起には浩善尼とせる由、毎月八の日縁日にて賑へり」とある。長善寺が正しい。江戸名所図会には法善尼とあり、この人は紀州頼宜に仕えた。大日坂は同寺と知願寺の間で、水道端へ下る坂道に面する』とある。岩波版長谷川氏注には、『坂の東側の覚王山長善寺妙足院に大日如来をまつった大日堂があった』とする。この妙足院は天台宗の寺院として小日向二丁目に現存する。HP「天台宗東京教区」の「妙足院」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を追加変更、改行を省略した)、『国立国会図書館所蔵の当院の大日如来略縁起に依れば、往昔慈覚大師が入唐帰国のおり、 この大日如来像(像高三寸五分)を将来されたと伝えられています。 元亀元年 (注:正しくは二年。)織田信長の叡山焼打ちの際、尊像自ら厨子より飛び出し琵琶湖を越え、江州蒲生郡の森に難を逃れ、夜な夜な光を放っていたところを、藤氏某その光を尋ねて、この尊像を我家に安置して一心に供養され、我に一子を授け給えと祈願した処、願いがかない、一女を授けられました。 この女子は成長するに従い、 才色優れて前大納言源頼宣に召され、宮仕えする身となりました。 かかる折いかなる罪業のなす故か、緑の黒髪が突然絡み合って全く梳(くしけず)ることもできない姿にもだえ悲しみ、父より譲り受けた尊像に対し一途に祈るさなか、 この本尊夢の中に告げ申すには、 汝過去の悪行によりこの怪しき病を得たり、この業転じ難し、早く尼となりて解脱すべしと。夢覚めた女子は随喜の涙にむせび即座に剃髪し、法名を浩禅尼と称し、 当院開基の尼上人となりました。 なお、 尼上人の法名は墓石には浩善尼となっています。 開祖は生前中に当院の本寺、 上野の護国院の開祖風山生順の弟子、空山玄順に跡を譲り、玄順は堂宇を整え、山号寺号を定め漸く寺らしくしたとのことです。当院は当初より祈願寺として信仰を集め、信者も多く毎月八の日のご縁日に、近くの商店の揃った水道町通り』 『へ多くの露店が列り大層賑わいました。現在では露天は出ませんが、ご縁日の八の日には多くの信者の方が参詣しています』とある。「江戸名所図会」巻之四によれば、

 大日堂 同西の方、大日坂にあり。天台宗にして覺玉山妙足院と號す。相傳ふ、本尊大日如來は、慈覺大師唐より携へ來るところの靈像なり。往古は叡山のうちに安置ありしを、元龜年間織田信長總門を襲はるる頃、堂宇ことごとく兵火(ひやうくわ)に罹りて灰燼となる。されどこの本尊は火焰を遁れ出で、近江國兵主(ひやうず)明神の社頭、深林のうちに移りたまひ、その後夜々瑞光を放ちたまふ。よつて藤原氏某(それがし)感得してその家に移しまゐらせ、旦暮(あけくれ)供養すること怠りなし。しかるにこの人嗣子なきを憂へとし、この尊に祈求(きぐふ)してつひに一女子(によし)を儲(まう)く。長ずるに及んで紀伊亞相賴宣卿に仕へ奉り、後落飾して法善尼と號す。この尼靈夢を感ずるの後、當寺を開き、ここに安置し奉りしといへり。

とあり、挿絵でも大日坂とその繁盛の様子が描かれている。徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)は徳川家康十男で、紀州徳川家の祖。

・「久世家」岩波版長谷川氏注に、『大日堂西に久世家下屋敷あり』とある。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、少なくとも執筆当時の当主は下総関宿藩第五代藩主久世広誉(くぜ ひろやす 寛延四(一七五一)年~文政四(一八二一)年)。

・「抱屋舖」武家・寺社・町人などが百姓地を買得して所持するものを抱地と呼び、そこを囲って家屋を建てたものを抱屋敷と言った。武家でも江戸近郊に抱屋敷を所持する者は多かった。一種の別邸。

・「地尻」ある土地の、奥又は端の方。裏の地続き。

・「櫻木町の八幡」現在の小日向神社(八幡神社)。氷川神社と八幡神社の合祀神社で明治になって小日向神社と改称したが、その八幡神社は以前、「田中八幡宮」と呼称し、文京区音羽九丁目にあった。江戸切絵図を見ると、久世家下屋敷があるとする辺りに「櫻木町」とある。

・「□□」この年号(恐らく)は伝本は総て伏字のようである。

・「其邊にて博奕をなし」野天か、蓆掛けの掘立小屋のような賭場であろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大日坂の大日堂起立の事

 

 大日坂は、古くは八幡坂と称していた由。

 これは同所、久世家別邸の裏の地続きに、知られた桜木町の八幡宮がある故の呼称であろうか。

 さても、この堂の起こりには面白き奇談が御座る。

 □□の頃、久世家にて、かの別邸をお建てになられた頃のこと、その御屋敷の脇に、如何にも粗末なる庵室(あんじつ)が御座って、尼御前(ごぜ)が一人、住もうて御座ったが、その頃は、あの辺り、いたって人気なき土地柄であったが故、博徒の輩(やから)が、これ、集まっては、その辺りにて賭博をなし、その口淋しさに、茶や酒、肴なんどの煮炊きを、この尼に頼んでおったと申す。

 ある日のこと、その賭場で、賭けものをしておった博徒の一人が、

「……毎日のように何かと世話になって御座る、あの尼御前じゃが……何ぞ、儂(わし)らで、その、礼の一つもして報わんと、これ、ゲンも悪うなる、というもんじゃあねえか?」

てなことをほざいた故、かの博徒どもも、膝を乗り出して、申し合いを始めて御座った。

 さて、何がよかろうか、と悪知恵を突き合わす内、ある一人が、

「……あの尼御前が信心しておる本尊、これ、如何にもしょぼくさい大日如来の像と聴いたんよ。……そこで、よ……『この大日如来に、あらたかなる霊験のこれある』っち、皆(みんあ)してよ、あっちゃこっちゃで触れ廻ってよ、そんでもってよ、そのけったいな小仏がよ、これ、世間で大流行りし出したとしたとしたら、よ……こりゃあよ、尼御前の経済の、相応の助けとは、なるんでないかい?」

と、とんでもない不遜なることをぶち上げて御座った。

「そりゃ、名案じゃ!」

てな訳で、そこら中から集(つど)った江戸の手練れの博徒ども、一人残らず、そこたら中で、嘘の霊験を盛んに噂し、触れ回った。

 すると、美事、あっという間に思惑が大当たり、みるみるうちに流行り出して、一旦は門前市を成すが如く、殊の外、繁昌致いた。

 されば後には、かの大日如来を今の所へ堂を立てて鎮座させ、その当初は専業の別当までも常住して御座ったとも申す。

 されば、地名や坂も、これ、「大日」を以って称するようになった由、かの在所の古老の物語で御座る。

一言芳談 五十八

   五十八

 

 有云、心戒上人(しんがいしやうにん)、つねに蹲居(そんこ)し玉ふ。或人其故を問(とひ)ければ三界(さんがい)六道(だう)には、心やすくしりさしすへて、ゐるべき所なきゆへ也、云々。

 

〇心戒上人の事、禪林の十因に見えたり。(句解)

〇蹲踞、ついゐる事なり。とくとしりをすゑぬなり。

 うづくまる、つくばふともよめり。居は踞の字歟。火急の事ありて、耳をふたぎしこゝろ也。(句解)

 

[やぶちゃん注:「心戒上人」平宗親(たいらのむねちか 生没年不詳)の法名。鎌倉初期の聖。源有仁の流れを引き、平宗盛の養子となって阿波守となったが、文治元(一一八五)年の平氏滅亡とともに遁世、心戒房と称し、重源の伝を辿って宋に渡り、帰国後は居所も定めず、諸国を流浪し、一説に陸奥で行方を断ったという。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の最後には、その行動と言談は聖の典型として「一言芳談」に載る、とある。彼については鴨長明の「発心集」巻七の十二に以下のように載る。

 

十二 心戒上人、跡を留めざる事

 近く、心戒坊とて、居所もさだめず雲風に跡をまかせたる聖あり。俗姓は、花園殿の御末(すへ)とかや。八嶋のおとどの子にして、宗親とて、阿波守になされたりし人なるべし。昔年(そのかみ)はいかなる心かありけん、平家ほろびて、世の中・目の前に跡かたなく、あだなりしに、もとより世をそむける佛性坊と云ふ聖に逢ひともなひて、高野に籠り居て、年久しく行はれけり。其の後、大佛の聖、唐(もろこし)へ渡りけるを、たよりにつきて渡る。彼の國に年比ありて、行ひける有樣も世の常の事にあらず。偏へに身命(しんみやう)を惜しまず。或る時は、樹下坐禪とて、同行(どうぎやう)三人具して深山に入りて、草引き結ぶほどの用意だになくて、偏へに雨露に身をまかせつつ、四、五十日と行ひければ、今二人はえ堪へずして、捨てて出でにけりとぞ。其の後、此の國へ還りて、都邊は事にふれて住みにくしとて、常には、えひすか・あくろ・津輕・壺碑(つぼのいしぶみ)なんど云ふ方にのみ住まれけるとかや。妹あまたおはしけるに、天王寺に理圓坊とて住み給ふは、昔、建禮門院に八條殿と聞こえし人なるべし。彼の聖のありさま、山林にまどひ來て、跡を求めず。さとばかり、ほのぼの聞こゆれど、近比は、對面などせらるる便りもなければ、『いかでかおはすらん。』、知らず。ひたすら昔語りに過ぎ給ひけるに、此の二、三年が先に思ひよらぬ程に、世にゆゆしげなる人の入り來るあり。童部(わらんべ)あまた、後にたてて、「物くるひ。」と笑ひののしる。其の樣を見れば、人にもあらず、瘦せくろみたる法師、紙ぎぬの汚なげにはらはらと破れたる上に、麻の衣のここかしこ結び集めたるを僅かに肩にかけつつ、片(かた)かた破れ失せたる檜笠(ひがさ)を着たり。「あないみじ、こは何者の樣(さま)ぞ。」と思ふ程に、年來(としごろ)おぼつかなく心にかかる心戒坊なりけり。これを見るに、目もくれて、あはれにかなしき事限りなし。まづ、さてまぢかく見ん事もかはゆき樣なれども、古き物どもぬぎ捨てなんどして後なむ、閑かに年來のいぶせさも語られける。「今は年もたかくなり給ひたり。行ふべき程はつとめて過ぎ給ひぬ。いづこにもしづまりて、念佛など申されよ。」とねんごろにいさめて、山崎に庵一つ結びて、小法師(こぼふし)一人つけて、其の用意など彼の妹の沙汰し、おくられければ、主從ながら月日を過しける程に、或る時、河内の弘川(こうせん)に住む聖とかや、尋ねて來けり。これも對面(たいめ)して、終夜、物語せられけるを、此の小法師、物を隔てて聞けば、「かくてもなほ、後世は必ず修すべしとも覺えず。事にふれて障りあり。ただ、もとありしやうに、いづくともなくまどひありき、聊かも心をけがさじと思ふ。」など語りければ、あやしと思ひけれど、忽ちにあるべき事とも思はで過ぐる程に、其の四、五日ありて、いづくともなく失せにけり。此の小法師、心ある者にて、いと悲しく覺えて、泣く泣く尋ね行きけれど、いづくをはかりともなし。「ありし夜の物語の中に、丹波の方へとやらん、聲先(こゑさき)ばかりわづかに聞きしものを。」と思ひ出でて、志しのあまり、尋ね行きける程に、穴太(あなう)と云ふ所にて尋ね合ひにけり。聖、おぼえず、あきれたるけしきにて、「いかにして來たるぞ。」と云ひければ、「日來(ひごろ)もさるべきにてこそ仕うまつりつらめ。いかなる御有樣にても、御伴申し候はん。」なんど、志し深くきこゆ。志しはいといとありがたくあはれなり。しかあれど、いかにも叶ふまじき由もてはなれて、まさしく違(たが)ひぬべき樣なりければ、力無くてかへりける。後、更にその行末もしらずなむ侍りし。いと尊く、今の世にもかかるためしも侍れば、これを聞きて、我が心のおろかなる事をも勵まし、及びがたくとも、こひねがふべきなり。(以下、長明の心戒の生き様に対する論評が展開されるが省略する。)

 

・「八嶋のおとどの子」平宗盛。

・「大佛の聖」重源。東大寺大仏復興勧進再建で知られる。

・「えひすか・あくろ」不詳。ここは「夷が悪路」で地名ではなく、東北地方一帯を総称しているのかも知れない。

・「壺碑」現在の宮城県多賀城市市川にある多賀城近辺。坂上田村麻呂が大石表面に矢尻で文字を書いたとされる石碑があるとされた歌枕。

・「河内の弘川」大阪府南河内郡にある真言宗醍醐寺派竜池山弘川寺。西行終焉の地として知られる。

・「聲先ばかりわづかに聞きし」ちょっとだけ小耳に挟んだ。

・「穴太」近江比叡山山麓にあった穴太ノ里(あのうのさと)。現在の滋賀県大津市坂本穴太(あのう)。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊に当たり、安土桃山時代に活躍した石工集団穴太衆の出身地として知られる。穴太衆は古代古墳築造などを行っていた石工の末裔とも言われる。特に描かれていないが、小法師が捜し当てた心戒は、そうした石を切り出した岩窟で静かに念仏を唱えていたような気がするのである。

 次に「徒然草」第四十九段を引く。

 

 老來りて、始めて道を行(ぎやう)ぜんと待つことなかれ。古き塚は、多くは少年の人なり。はからざるに病ひを受けて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、初めて過ぎぬる方の誤れる事は知らるれ。誤りといふに、他の事にあらず、速やかにすべきことを(ゆる)くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時、悔ゆとも、かひあらんや。人はただ、無常の身に迫りぬることを、心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、佛の道を勤むる心もまめやかならざらん。

 『昔ありける聖(ひじり)は、人來りて自他の要事(えうじ)を言ふ時、答へて曰はく、「今、火急の事ありて、既に朝夕(あしたゆふべ)に逼れり。」とて、耳をふたぎて念佛して、遂に往生を遂げけり』。と、「禪林の十因」に侍り。心戒といひける聖は、餘りに、この世のかりそめなる事を思ひて、靜かについゐけることだになくて、常はうづくまりてのみぞありける。

 

これは御覧の通り、これは明らかに「一言芳談」からの孫引きである。標註にも出る「往生十因」は注済であるが、平安後期の三論宗の東大寺僧侶、永観(ようかん 長元六(一〇三三)年~天永二(一一一一)年)の撰。一巻。念仏が決定往生の行であることを十種の理由(因)をあげて証明し、一心に阿弥陀仏を称念すれば、必ず往生を得ると明かした書で、法然の専修念仏の先駆として注目される書である。

 

「蹲居」蹲踞。所謂、尻を下につけることなく、うずくまること、しゃがむことを言う。

「三界六道」「三界」は一切の衆生が生成消滅する全宇宙で、欲界(淫欲と食欲の二様の欲望に捉われた有情の住む空間。六欲天から人間界を含んで無間地獄までの世界を総称する)・色界(しきかい:欲界の二つの欲望は超越しているが、未だ色(物質的属性)に捉われた有情が住む空間。ここ禅定の階梯により大きく四禅天に分けられ、更にそれが十八天に分れる)・無色界(欲望も物質的様態も超越し、ただ精神の存在となったものが禅定の状態で住している空間)。「六道」は善悪の業によって輪廻するより個別な地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界。但しここでは「三界六道」で、この世、現世、現実世界の限定的意味で意で用いている。]

2013/01/08

一言芳談 五十七

  五十七

 

 有云(あるひといはく)、解脱上人、食事の氣味(きみ)覺(おぼゆ)るをいたみて、調へたる物に水を入れたまひき。

 

[やぶちゃん注:「解脱上人」貞慶。既出。「十二」注参照。

「氣味覺る」美味い不味いという「味」が分かる。

「いたむ」苦痛に感じる。苦に病む。]

西東三鬼句集「旗」 昭和11(1936)年

昭和十一(一九三六)年

 

  魚と降誕祭

 

聖き夜の鐘なかぞらに魚玻璃に

 

東方の聖き星凍て魚ひかる

 

聖き魚はなびらさむき卓に生く

 

圓光も燭(ひ)もみじろがね魚ねむる

 

聖き書(ふみ)外(と)よりも黑く魚と在り

 

  三章

 

小腦をひやし小さき魚をみる

 

水枕ガバリと寒い海がある

 

不眠症魚は遠い海にゐる

 

  病氣と軍艦

 

長病みの足の方向海さぶき

 

吹雪昏れ白き實彈射撃昏れ

 

水兵と砲彈の夜を熱たかし

 

砲音をかぞふ永片舌に溶き

 

アダリンが良き軍艦を白うせり

 

  びつことなりぬ

 

春夕べあまたのびつこ跳ねゆけり

 

  恢復期

 

松林の卓おむれつとわがひとり

 

黑馬に映るけしきの海が鳴る

 

園丁の望遠鏡の帆前船

 

微熱ありきのふの猫と沖をみる

 

肺おもたしばうばうとしてただに海

 

  八章

 

右の眼に大河左の眼に騎兵

 

白馬を少女瀆れて下りにけむ

 

汽車と女ゆきて月蝕はじまりぬ

 

爪半月なき手を小公園に垂れ

 

手品師の指いきいきと地下の街

 

女學院燈ともり古き鴉達

 

猶太教寺院(シナゴク)の夕さり閑雅なる微熱

 

ランチタイム禁苑の鶴天に浮き

 

  フロリダ

 

運轉手地に群れタンゴ高上階に

 

ジャズの階下(した)帽子置場の少女なり

 

三階ヘ靑きワルツをさかのぼる

 

  花蝶

 

肩とがり月夜の蝶と花園に

 

花園の夜空に黑き鳥翔ける

 

花園にアダリンの息吐ける朝

 

喪章買ふ松の花散るひるさがり

 

松の花葬場の屋根濡れそぼち

 

松の花柩車の金の暮れのこる

 

黑蝶のめぐる銅像夕せまり

 

銅像の裏には靑き童(こ)がゐたり

 

銅像は地平に赤き雷をみる

 

  季節と少年

 

靑き朝少年とほき城をみる

 

梅を嚙む少年の耳透きとほる

 

手の螢にほひ少年ねむる晝

 

夏瘦せて少年魚をのみゑがく

 

靑蚊帳に少年と魚の繪と靑き

 

  六章

 

熱ひそかなり空中に蠅つるむ

 

熱さらず遠き花火は遠く咲け

 

算術の少年しのび泣けり夏

 

綠蔭に三人の老婆わらへりき

 

ハルポマルクス神の糞より生れたり

 

夏曉の子供よ地に馬を描き

 

  鳳作の死

 

友はけさ死せり野良犬草を嚙む

 

笑はざりしひと日の終り葡萄食ふ

 

葡萄あまししづかに友の死をいかる

 

  栗

 

別れきて栗燒く顏をほてらする

 

別れきて別れもたのし栗を食ふ

 

栗の皮プチプチつぶす別れ來ぬ

 

  サアカス

 

道化出でただにあゆめり子が笑ふ

 

道化師や大いに笑ふ馬より落ち

 

大辻司郎象の藝當みて笑ふ

 

  暗き日

 

暗き日の議事堂とわが白く立ち

 

議事堂へ風吹き煙草火がつかぬ

 

議事堂の繪のこの煙草高くなりぬ

 

  冬

 

水平線あるのみ靑い北風に

 

冬海へ體温計を振り又振り

 

ダグラス機冬天に消え微熱あり

顏つめたしにんにくの香の唾を吐き

 

黑き旗體温表に描きあそぶ

2013/01/07

ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 2 前線(アリョーシャのカタストロフⅠ)

 

僕は……やはり何よりも、この「誓いの休暇」を語ることが――語ることだけが……僕のやりたいことだったのだと……分かった……気がする。

 

□2 前線(アリョーシャのカタストロフⅠ)

 

〇(前シークエンス終了部から)エカテリーナの目と鼻と鼻唇溝のみまでクロース・アップ!(途中、ピントが外れて、また合う! 皮膚の皺まで見える究極のアップ!)カタストロフのテーマに戦車音が加わる!

エカテリーナの両眼の間に砲塔の上部が鼻の左右にキャタピラの覆いが一致して、向かってくる戦車がオーバー・ラップ!(以下の( )部分でもオーバー・ラップは続く)

〇前線 前身してくるナチス・ドイツの戦車!

(ほぼ戦車全体が被るが、砲の尖端は当初は切れており、畝を越えた瞬間、砲の尖端がほぼ画面右に最接近でイン! ここでカメラは左にゆっくりとパン。)オーバー・ラップ終了。

〇前線の遠景。前の戦車の右手後方の丘陵。

前の戦車の右手前のキャタピラの遮蔽部が切れたところでカメラ静止。カタストロフのテーマ終わる。

戦車がほぼ等間隔で四台並んでこちらへ前進して来る。上空には右手から黒々とした硝煙が左に向かって流れている。(以下、ずっと戦車の駆動音が被る。)

 

〇荒地の中景。

戦車砲着弾!

このシーンでは各種の硝煙はさっきとは逆に左から右へ流れる。

オフで再度、着弾音!

 

〇丘を越えて来る四台の戦車。

先程よりも少し近く、前景も異なり、手前に非常に低い枯れた木。左右の中景に人工的な木製の柵が配されてある。前のオフの着弾音と合わせて、左から二台目の戦車が戦車砲を発砲!(初回の砲撃シーンであるが、この一台は四台の中では最後方にあり、火薬量も少なかったのか、やや不発気味で惜しい。) 次いで左端の一台が激しく発砲! 次いで右から二台目が激しく発砲!(この時には全車両が等速で前進しているため、右端の一台は画面の右端に戦車後部が少し写っているだけ。)

カメラ、ティルト・ダウン。

実は枯木の手前下は塹壕。

カメラは塹壕の石→〈ここで砲弾の甲高い落下音が被り始め……〉二つのヘルメット(手前と、そのすぐ向こう側)→塹壕に蹲る二人の兵士の姿を捉えて止まる〈……ここで近くにオフで着弾! 同時に二人、ぶるっと体を震わせる〉。

手前の兵士はヘルメットの下の右顔面(目は見えない)下方が見えるが、髯を生やしており、相応に年を感じさせる。一緒に接するように奥の蹲っている兵士は左肩とヘルメット、その間から僅かに左耳介の一部とその後部が見えるのみ。画面左の二人の背後に木製の蓋のような物の一部が見える。

二人、ゆっくりとこちら側を振り向く。手前の兵士は自分の右後方(画面の左手前方向)に見開いた茫然とした眼を向けて顔前面をこちらへ、奥の若い兵士は、眼を瞬かせながら如何にも恐怖に襲われているという感じで、口を半ば開き、綺麗な白い上下の歯をのぞかせている。切り替わる直前、怖れるように口を窄める。

これが主人公がアリョーシャである。本編開始(冒頭のモスフィルム・タイトルの13秒を除くタイム。以下、同じ。)3分31秒で彼の顔が画面に出る。

 

〇荒地(A)。二発、右手直近に着弾! 画面右から廻って手前にある枯木の向こうに向かって塹壕がある。たて中央やや左手に、そして最直近に立て続けに二発、着弾!

 

〇塹壕の中の二人のバスト・ショット。

年長兵「もう、これまでだ!」

二人の背後にあるのが、木枠で出来た無線機であり、年長兵がその受話器を右手に持っているのが判明する。

アリョーシャ「報告は? どうするんです?」

年長兵、受話器を本体に戻す。アリョーシャ、畏怖を満身に感じながらも、年長兵の投げやりな言葉に、口を尖らし、不服気な少年の眼を投げかける。

年長兵「お前はあの世から報告したいのか?! 逃げるんだよ!」

アリョーシャ、無視して、受話器を左手で取り上げ、

アリョーシャ「アリョール(鷹)! アリョール! 戦車群発見! 戦車群発見!」

アリョーシャ「アリョール! アリョール! 聞こえますか!」

繋がらない。苛立ったアリョーシャ、受話器を何か詰まっているかのように「フーッ!」と吹く。

年長兵、頭上を見上げる(塹壕の中で向こう画面だけでなく彼からも見えない)。戦車の接近音を確かめている風情だがすぐに、『お前の真面目に付き合ってたら、死んじまうよ』といった風に、右手の人差し指と中指を振って、アリョーシャをおいて、塹壕の左方向へ、アウト。

無線機が置いてあった正面側面から転がり落ちる(直前に左手で無線機と受話器のコードを左手に巻き付ける、不可解な動作をしているのが見えてしまうが、これは監督から無線機を落とすように年長兵俳優が指示されていたことによるものと思われる)。右手でそれを摑んで元の位置に引き上げながら……。

アリョーシャ「アリョール(鷹)! こちら、ザーブリック(フィンチ)!」

 

〇塹壕から這い出た年長兵。左から右へ戦車装備(と思われる)機関銃の銃撃が着弾、打たれて左手の別な塹壕へずり落ちる(死ぬ)。

アリョーシャ(オフで)「こちら、ザーブリック! アリョール!」

 

〇先の塹壕。

しゃがんで右手で受話器を持って話しているアリョーシャ。

塹壕からやや上半身を出している。カメラは右手の塹壕直近の上から。右下方から中央上部へ生えた枯木が手前に配されていて、その手前にアリョーシャの小銃が銃口を右手前に向けて置かれている。砲弾の甲高い落下音! 奥の遠景に硝煙があり、そこに着弾!

アリョーシャ「こちらザーブリック! 応えてくれ!」

アリョーシャ、左手で機器を操作している。息を呑んで、恐怖を押さえながら。前のめりに、吐き出すように。しかし、ここで、アリョーシャの感じが明るくぱっと変わる。(カメラ、やや寄り、少しだけ俯瞰気味になる)以下、台詞の間には有意な間があり、無線機が通じて《アリョール》と通話がなされているのが分かる。――[本シークエンス最後の戦車部隊砲撃シーンの伏線]

アリョーシャ「そうです! こちら! ザーブリック! 自分は敵戦車隊を発見しました! 都合、四台!」

(ここまでの画像では最接近したものを含めると五台だが、あの戦車は彼の位置を背後に通過したものと思われ、これは後方からの、敵戦車部隊への臼砲の砲撃範囲から最早、外れるのかも知れない。少なくともこの塹壕から見えるのは確かに四台である。)

「奴等は自分の方へ真っ直ぐ向かっています!」

「歩兵はいません!」

「はい! 確かです!」

「了解! 即時、撤退します!」

 

〇進撃してくる戦車!

画面左手から。砲撃!(ここから以下、カット・バック)

 

〇先の塹壕。

中景に右奥から左手近くに順に三発が着弾! しゃがんだアリョーシャ、急いでヘルメットを押さえながら前に上半身を伏せる。見えるのはアリョーシャのヘルメットと肩の一部のみ。

 

〇進撃してくる戦車!

画面中央。砲塔右手の逆十字のナチスのマークがはっきりと見える。砲撃!

(この砲撃は、音だけで画面の戦車は実は発砲していない。ところが、画面の右手に太陽のような明るい大きな発光が一瞬あり、この戦車の向こうにある戦車(車体は全く見えない)の砲撃光のように見えるように撮られている。いい加減に撮って単調になりがちなこうした戦闘シーンに、これは美事な1ショットであると思う。)

 

〇荒地(A)。着弾!

右奥から左手前に三発、右手ギリギリで一発が炸裂する。

 

〇進撃してくる戦車!

画面中央より少し右寄り。砲撃!(カット・バックはここまで)

 

〇先の塹壕。

中景部分が黒煙で見えなくなる程、激しく着弾! さらに数発遠景に着弾! 左から右の風が硝煙を消し去る。

アリョーシャのヘルメットと肩。元と同じ。

動かない。

戦車の機動音が高まる!

アリョーシャのヘルメットが、むくっと動き上がって!

 

〇塹壕手前地面位置から塹壕方向。

アリョーシャの顔が土石を払って――大映の「大魔神」のように――地から湧き出る!

正面やや上を見上げるアリョーシャ! 戦車の駆動音とキャタピラ音が高まる!

(但し、アリョーシャのヘルメットは深く被った形になっていて、両眼は翳になって観客には見えない。これが上手い!)

その瞬間!

アリョーシャ! 急に身を引く!

 

〇同塹壕手前地面位置から反対前方(前ショットの180度反転位置という設定)。

奥から戦車が急前進して来る! 駆動音! 激しいキャタピラの回転! その音!

やや右手が高くなったガレ場で、戦車も左に傾いだ状態で、戦車は右側が画面左手で切れて地面には砂塵が舞っている! 右手のキャタピラがカメラマンの狙いであることが分かる。カメラは殆ど戦車に轢かれそうになるまで回り続ける。

 

〇塹壕の背後の荒地。

匍匐で慌てて後退する伏せたアリョーシャ!

彼は右手に小銃、左手で無線機及び無線機に付属するものと思われる大きな延長用リード線のリールを後生大事にという感じでベルトで引きづっている。彼がはっきりと通信兵であることがここで判明する。

画面の右手前と左奥の枯れた木の突き出た幹がいい。遠景に森。空は晴れて左手に遠い雲が棚引く。

ここに次の、迫りくる戦車が短くオーバー・ラップ!

 

〇迫りくる戦車!

かなりの傾斜地をこちら側に乗り越してくる戦車。さっきとは逆に、戦車の左端が画面の右で切れる。今度のカメラマンの狙いは右側のキャタピラである。

 

〇塹壕の背後の荒地。

立ちあがるアリョーシャ! 素早く背を向けると、背後の荒野に向かって走り出す!

以下、逃走のテーマがかかる。

(これは、本作の主題旋律を微妙にずらしたもので、ヴァイオリンの不吉なうねりから始まり、ピアノの低音の和音が連打され、ドラやシンバルやトランペットが各所に散らされて、アリョーシャの危機シーンを効果的に演出する。)

画面手前から戦車がイン!

(掘った穴にカメラを置いて、その上を実物の戦車が走行したものと思われる。)

 

〇荒野。

走る抜けるアリョーシャ!(フル・ショット。右手から左手へ)

右手に小銃、左手に無線機とコード・リール。

アリョーシャが左にアウトして、1秒半で右から戦車が、イン!

 

〇逃げるアリョーシャ!(右から)

上胸部と頭部。汚れ切った顔は苦痛と恐怖に歪んでいる。走りながら途中で背後を振り返ると!……(ここからカット・バック)

 

〇アリョーシャ一人を追いかける戦車!(正面)

非人間的な無機質の機械の塊としての戦車(不思議に搭乗者の存在や、そうした遊びに類する残忍な搭乗しているドイツ兵のイメージは一切感じさせない。どこか後のSFの人間を冷徹に掃討するマシンのイメージがある)。彼をぴったりと実に機械的に追ってくる。

ここでは戦車の駆動音は潜まり、キャタピラ音が主になる。

 

〇逃げるアリョーシャと背後に迫る戦車!

トラック荷台からの俯瞰ショットで。汗を拭いながら、必死に走るアリョーシャ、その背後の、ヘルメットの辺りに、戦車の砲塔を除いた下部が覗く。

 

〇逃げるアリョーシャ!(右から)

 

〇追う戦車!(正面)

 

〇逃げるアリョーシャ!(右から)(カット・バック終)

ここに、次の高所からの広角の俯瞰ショットがオーバー・ラップ!

 

◎低い下草の草原。随所に着弾痕がある。

5メートル以上はあろうと思われる高さからの俯瞰ショットで、画面の右上部から左下向へ逃げて来るアリョーシャは、何とか戦車をやりすごそうと、急に中央やや左辺りで右下中央方向逃走経路を変えるが(ここで前のシーンのオーバー・ラップが終わる)、丁度その時には、それを予期したように(勿論、演出上)、奥から斜めに入った戦車は直ぐに中央下方向の直進にドライヴを変えている。殺人機械に捕捉され、絶体絶命という約束事が、美事に成立している。

中央下でアウトしたアリョーシャを、右奥から戦車が容赦なく追跡する。

ここに素晴らしい驚天動地のショットが登場する!

戦車はカメラの置かれた櫓(若しくはクレーン)のぎりぎり直下を走行、それをカメラは等速で定位置から下を回って撮るのだが、ここでフィルムは切れず、カメラはそのまま、なんと! 天地を逆転させて(!)走る戦車をなめながら追う!

すると、カメラはひっくり返って、即ち、160度以上を下に回り込んで、背後の景色を撮り続けるのである!

そこで画像には約4秒後に逆転状態でアリョーシャが入り、6秒で右下に三角形の抜ける空のホリゾントとなり(!)、その左上を丘陵が区切り、その左上に森があって、そしてここから左上へ向かって広大な草原が広がる(!)。

その中を、ほぼ中央に点景の走るアリョーシャが、それを排気煙を吹き出しながら追う戦車がそのまま(逆さまになったまま!)追跡する!

戦車はまっしぐらにアリョーシャに迫る!

アリョーシャ、が画面の右下、実際の正立位置の右へ方向を変えると同時に、戦車も右に急カーブを切って執拗に追う!

逆さまであるために、この後のアリョーシャの逃げる方向は画面の左角に方向となる。

ここで次の逃げるアリョーシャのアップがオーバー・ラップする。

 

〇逃げるアリョーシャ!(右から)

 

〇撤退して放置された友軍の陣地跡へ右から走り込んでゆくアリョーシャ。

中景。手前にタコツボ、各所に柵や残された兵站物資の箱などが散らばる。

カメラがアリョーシャを追って進み、手前に地面突き出た柵条(杭)が二本過ぎると、ここで初めて、友軍兵士の遺体が写る。手前の杭の所に、まず一人。ここでその向こうを走るアリョーシャは遂に、今まで持っていた通信機器とリールを投げ捨てる。

カメラがアリョーシャを追うと、今度はまた手前の壊れた野砲のそばに一人。

ここで中景のアリョーシャは振り返り、力尽き、恐怖の絶頂のという挙措で、両手で面を覆う仕草をするが、その直後に、その足元にあったタコツボに落ち込む。この時、小銃も彼は手放す。万事休すか!!(壊れた野砲の後部が構図の右を画している)

 

〇タコツボに落下するアリョーシャ(ハイ・アングル)。

落ちるアリョーシャの上方にはヘルメット姿の兵士の死体。その手だけが落下し終わったアリョーシャの向こうに見える。また、そこにはかなり大型の薬莢のようなものが散乱している。

 

〇鉄条網を少しばかり附けたお粗末な木製バリケードを正面に据えた道。

その向こうから! アリョーシャ一人を追ってきた、あの戦車が! 坂を登って進んで来る!(ここからカット・バック)

 

〇タコツボの中。(ハイ・アングル)

アリョーシャ「フウゥゥ……!」

と少年のような悲しい叫びをあげて顔を覆い、地面に這い蹲るアリョーシャ!

その、彼の左半身の下に大型の銃器が写り込む。

(この辺りから音楽の音量が下がる)

 

〇バリケード直前に迫る戦車!

 

〇タコツボの中。

対戦車銃を手元に見つけたアリョーシャ。絶体絶命の瞬間の、起死回生が閃く!

 

〇バリケードを破壊して迫る戦車! 左にグッと下る!

 

〇タコツボの中。

戦車銃を右に向けて必死一発を構えるまでのアリョーシャ!

 

〇起伏を越えんとする戦車!

 

〇タコツボの中。

対戦車銃を見つける! 構えんとするアリョーシャ!

 

〇起伏を越え来る戦車!

 

〇タコツボの中。

アリョーシャ、対戦車銃の銃床を右肩に! 狙いを定め! 撃つ!(音楽消える)

――ドン!(ここでは有意にリアルな反動がある)

撃った直後、左腕で顔を覆うアリョーシャ!

 

〇後退する戦車!

――ウウンー!

という戦車のカタストロフ音とともに! 戦車、後退! 起伏を下がりきったところで、車体の下より黒煙が上がる。

 

〇タコツボ。

対戦車銃を構えていながら、その実、向こうに伏せていた顔をゆっくりと上げるアリョーシャ。

眼を何度も瞬かせて唖然とし、唇を少年のように尖らせて、『ありゃ?』という表情のアリョーシャ。

 

〇起伏の向こうで。黒煙を朦々と吹き上げる戦車。

最後は黒煙が画面の1/3近くを覆う。

 

〇タコツボ。

対戦車銃を持って、如何にも少年のように――にっこりと笑うアリョーシャ!

そこに画面左手から、彼の右手に激しい機関砲の銃撃! 背後にも同じく、連射で着弾!

顔を伏せるアリョーシャ! 飛び散る土埃!

阿呆のように口を開いて右手を見るアリョーシャ!

対戦車銃から手を放してタコツボの底に下がって、一度、伏せるアリョーシャ!

しかし!

再び、対戦車銃を右手で素早く! 引き寄せる!

 

〇別な近づく戦車の中景。

砲塔が右に回転し、アリョーシャのいるタコツボをロック・インしそうになる!

左側の近景の二本の杭が印象的。

 

〇タコツボ。

画面左に対戦車砲の銃口。右で狙うアリョーシャ!

背後に曇った中景の柵条。(ここはパースペクティヴが実に素晴らしい!)

狙うアリョーシャ!

右にゆっくり銃身を振り、少し、銃を煽って――撃つ!

(ここは発射時の反動が全くないのは、ちょっと不満)

 

〇近づく戦車の中景。(前と同構図)

砲塔を右に無駄に回しながら、黒煙を吹き始める戦車!

 

〇タコツボ。(前と同構図)

アリョーシャ「ウラー(やったゼ)! どんなもんだい!」

 

〇前線。中景。

友軍の臼砲全射が始まった!

左手にやられた戦車が一台。迫撃数弾! 旋回してとっと戻ろうとする戦車が3台(左右の2台は旋回、真ん中の一台はバックで)見える。

(台数が合わない気がするが、アリョーシャの奮闘に免じて許す!)

 

〇同。(少しヨリ)

友軍の迫撃弾の着弾!

 

〇タコツボ。

対戦車砲の向こうで、一人でとんでもないことをやり遂げたアリョーシャの、少年の笑顔!

背後を振り返る、アリョーシャ!

 

〇後退する戦車群(二台)。

手前に激しい迫撃砲弾の複数の弾着!

 

〇後退する戦車群(二台)。左に廃戦車。(前よりもずっとヨリの画像)

カタストロフの終わりの主題音楽がかかる。

 

〇黒煙を上げるアリョーシャの撃った戦車。

手前左に二本の木製の杭、他、同様のものが中景から右に四本。いい画の「切り」である。

 

〇タコツボから起き上がるアリョーシャ。

右手に銃口をオフにした対戦車銃。

タコツボの縁に腰掛けるアリョーシャ。

右手の肘を右膝について、右手でヘルメットを支えて。疲労困憊のアリョーシャ。

――少年の悲哀。

――迫撃砲の音。

――背後に黒煙。

――ブラック・アウト……

 

■やぶちゃんの評釈

 戦闘シーンの採録は困難を極めたが、これで、私は何とか再現出来たと私は思っている。私は実はこれで十分だという気がしているのだが、まずは、以下、文学シナリオを見てよう。前のプロローグをダブらせる。

   《引用開始》

 強風が彼女の着物の裾を吹き上げ、頭からネッカチーフを吹き飛ばす。黒雲が空に渦巻いている。

 婦人は遠くを見つめている。風は、さか立ち、ひん曲った大地を吹きまわる。バラ線に唸りを上げ、黒々とした塵埃を原野に吹き上げる、

 ここは戦場の最先端である。前哨の小さい壕のなかに兵士の制服を着た獅子鼻の若者が入っている。彼は興奮して前方を見つめている。そこからは、だんだんと大きくなるモーターの唸りが不気味に聞こえてくる。

 若者と並んで初老の兵士がいる。彼は受話器に叫んでいる。

 ――オリョール! オリョール!……オリョール! 答えてください! タンクです! ……タンクです!……

 誰も答えない。彼は受話器をゆさぶる。震える手でコードを確かめ、また荒々しく叫ぶ。

  ――オリョール! オリョール!……

 返事がない。兵士たちは互いに目を見合わせる。二人の目の中には、恐怖と、いら立ちと、〈何をなすべきか〉という無言の問い掛けが読み取れる。

 前方のモーターのうなりはますます物すごく、キャタピラがぎしぎしと軋む……。

 ――後退しよう。

 初老の兵士がかすれた声で言う。

 ――命令がない……。

 ――五台のタンクと小銃で戦争するとでもいうのか。表面の塗料をひっかく位のものだ……。

 ――しかし、連絡すべきだ。

 老兵は腹立たしげに若者に叫んだ。

 ――あの世からか?! 連絡するがいい。馬鹿げたことだ!

 しかし、彼は答えずに老兵の手から受話器をもぎ取った。

 ――オリョール! オリョール!……私はザヤブリック! ザヤブリック!

 彼は荒々しく子供っぽい声で叫んだ。

 タンクの群れは、前進しながら砲火開いた。特徴あるシュルシュルという音を引いて、弾丸が頭上をかすめる。後方の塹壕からは返答がない。

 ――オリョール! オリョール!

 若い兵士は、敵意の目でタンクを見ながら、受話器に叫びつける。

 老兵はあきらめて、這いながら急いで後退して行く。

 若者だけが残る。彼は突然、孤独を感ずる。

  ――オリョール! オリョール!………

 彼はくりかえす。

 ――わたしはザヤブリック! 私はザヤブリック!……

 タンクは近づいて来る。若者の声には恐れと悔しさの響きがある。

 ――オリョール!……オリョール!……もしもし、私はザヤブリック!

 彼は絶望し動揺しながら近づいてくるタンクを見つめる。

 すると、突然応答がある。

  ――オリョール!!

 若者は、躍り上らんばかりに叫んだ。

 ――はい、私はザヤブリック……はい! 発見しました……五つの……

 ――歩兵か。

 ――そうじゃないのです。歩兵ではありません。……監視所へまっすぐ来ます。後退すベきですか。

 ――了解!

 彼は、受話器を急いで置いた。しかし、次々と作裂する砲弾のために大地にヘばりついたまま動けない。砲兵の猛攻撃が突然襲いかかった。爆発は連続し、そしてまた、突然砲撃は止んだ。静寂に戻ると前進するタンクの唸りが聞えてくる。

 若者は頭をもたげる。すると、すぐ近くに一台のタンクがおり、自分に向って真っすぐに進んでくるのが見える。

 若者は恐怖にとらわれる。目を閉じ、頭を埋めて大地にうつ伏せる。

 タンクのモーターはうなり声をあげ、わめき散らし、キャタピラはぎしぎしと軋り続ける。世界がこの唸りと軋りに満ち溢れているようである。

 若者は耐え切れずに、飛び起きて駆け出す。

 タンクの敵は彼を発見し、機銃掃射を浴びせる。

 若者は大地に倒れる。彼の身体の上を弾丸が飛び過ぎる。射撃は中断し、タンクは彼を目指して動き出す。若者は、再び、跳び起きてタンクから逃げる。電話器と巻枠が邪魔になる。射撃が始まる……。また彼は倒れ、また起き上がり、そして駆け出す。

 それは、愚かしく、奇妙である。広い原野を巨大な殺人機械が一人の無防備の若者を追い回す。

 若者は疲れている。彼は悔しさと恐怖で涙を流している。彼は戦車の脇に逃れようとするが、タンクはぐるぐると回りながら彼に向ってくる。彼とタンクの距離は、じりじりとせばまってくる。逃ける力もなくなる。タンクは今は射撃すらしない。若者をただ追い回し、踏み潰そうとする。

 若者は電話器と巻枠を捨てる。最後の力を振り絞って逃げ出す。目の前に砲撃に破壊された塹壕がある。そこには対戦車隊がいたのだが、今は全滅している……。無力の若者は壕の中にころがり込む……。タンクは彼を目指して進む。すぐ近くまで来ている。キャタピラは若者の残した電話器と巻枠を踏み潰した。そして、そのキャタピラが、今まさに彼を踏み潰そうとしている。逃げ道はない。逃げる力もない。

 若者は絶望的に辺りを見まわす。彼はもう一度壕から逃げ出そうとする。その時、ふと地面にころがった対戦車銃が目にとまる。彼は、それをつかんで、タンクに向け、至近距離から射撃する。タンクは、何かにぶつかったように身ぶるいして止まると、モーターが爆発し、火炎に包まれた。

 若者は、炎上するタンクを驚いて見ている。何が起ったのか、彼には理解できないようである。

  タンクは燃えている。すると突然、機銃掃射が起こる。若い兵士の前の地面の土砂が小さく噴き上がる。隣接していたタンクが彼に砲火を開いたのである。

 若者は大地にうつ伏せる。射撃が終わるのを待つと、このタンクを目指して続けざまに数発打ち込む。タンクは同じ場所で回転していたが、やがて動かなくなる。

 ――ああ!……嫌いだ!!

 子供っぽく叫ぶと、若者はほかのタンクにも弾丸を浴びせる。タンクの群は大急ぎで後退し始める。タンクの周りに砲弾が炸裂し始める。壕の後方から〈ウラー〉の声が聞こえて来る。

   《引用終了》

 文学シナリオとは、ほぼ忠実ながら、大きな相違点は、アリョーシャを追う戦車が、終始、決して機銃掃射をしない点である。これは非常に大きな意味を私は持っていると思う。それは、機銃掃射で簡単に殺せるものを――わざわざ、「走る一個の青年」を、只管、追い続ける「万能無敵の戦車」という主題である。ここに示されたのは、一個の人間と、「戦争」という「無慈悲の機械という技術によって生み出され現象」「むごたらしいサディズム」としての「科学的」と称する――「技術の装置」――との厳然たる対置ではなかったか? それは、人間が創り上げた最大にして最悪の、悪夢としての「何らかの装置」としての「科学技術」の持つものへの警鐘でもある。それは「人を殺す」ところの「小銃」であり、「戦車」であり、「対戦車銃」であり、「臼砲」(迫撃砲)であり、そして「原爆」でもあり、「原子力発電所」でもあるような――「万能無敵の技術」への――哀しい謂い、ではなかったろうか?……

 「アリョール」。これは初めて見た小学生の頃、『主人公はアリョーシャだから、きっと通称かなあ』なんて勝手に思っていたのを思い出すのだが、これはロシア語で“орeл”(オリョール:鷲。)・“Зяблик”(ザーブリック:アトリ。スズメ目アトリ科アトリ Fringilla montifringilla。)、英語字幕でも“Eagle”と“Finch”――所謂、戦場の各部隊の無線のコードネームである(「コンバット」でお馴染みの「チェックメイト・キング」みたようなもの。あれはチェス用語を用いていた)。また、後のソヴィエトの宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワのコードネームは有名な彼女の台詞の「私はカモメ」の“чайка”「チャイカ」(カモメ)で、空を飛んで言葉を伝える暗号は、きっと鳥の名が多いのだろうな、なんて勝手に思ったり(「北の国から」の純風に)。

 ◎の驚天動地のカメラ逆転シーンの全体は、前後のオーバー・ラップを含め約20秒である。なお、車の轍が四対近く認められる。特に画面を急カーブで湾曲した中央のものと、その上に薄らと見える曲らないそれは、轍の間隔が広く、カーブでの形状も戦車のそれと思われる。なお、このシーン、恐らく定置させたクレーンか櫓を組んでの撮影であったものと思われ、同一の場所で何度かのテスト撮影が行われたと考えてよく、これらは何度か行ったこのシーンでの戦車若しくはテスト用車両の轍のようにも思われるが、ここは戦場なのだから寧ろ、ヴァージンの草原で綺麗過ぎるのは、またおかしい。特に違和感はないし、この轍が思い切ったカメラ・ワークと相俟って、この異常なシーンの構図に奇体なアクセントを加える面白い効果をさえ産み出していると言える。

 最後に登場する兵器を見ておきたい。

 まず、戦車であるが、無論、これは実際のナチス・ドイツの無敵の戦車と呼ばれたタイガー戦車ではない。こうした部分は相応にフリークな方がおり、私が云々するよりも、そちらを全面的に参照したい。「STUDIO JIPANG」氏の「映画の中の戦車 ソ連・ロシア編」の中にズバリ、「誓いの休暇」のページがあるのである。それとウィキの「T-34」によれば、これは第二次世界大戦から冷戦時代にかけてソビエト連邦を中心に使用されたソ連製中戦車T-34/85(一九四四年から生産が始まった、T-34の二番目の改良型で85 mm 砲を搭載した大きな砲塔を備える)を改造してタイガー戦車(第二次世界大戦でドイツ国防軍と武装親衛隊が使用したVI号戦車)に似せたものである。リンク先の説明にある語を少し解説しておくと、「履帯」とはキャタピラのこと。砲塔の右前部に附けられた予備キャタピラーはT-55のものか、とある。T-55とはソ連製戦後第一世代の主力戦車(史上最も生産台数が多い戦車とされ、ほぼ同じ形状のT-54も含めると、その数は一〇万輌を超えるとも言う。冷戦時代に国外に供与・輸出された数も多く、現在でも多くの国で使用されている。この戦車は一九五八年に登場したとあり、これは本作の公開の前年である。なお、T-54T-55は外見は良く似ているが、砲塔上の換気扇カバー(ベンチレータードーム)の有無で簡単に識別出来ると、参照したウィキの「T-55」にある)。それにしてもキャタピラが改造元のものでないのでは、と見破るのは並大抵ではない。さらに「STUDIO JIPANG」氏は、この改造最大の欠点を「防盾」がないこととされているが、防盾とは主砲の操作員を敵の攻撃から防御するための装甲板で主砲の前面基部にある装置を言う。ウィキの「ティーガーII」によれば、タイガー戦車は狙撃され易いここに、ザウコフと呼ばれる独特の円錐型防盾を装備していて、高い防御力を誇った、とある。なお、「STUDIO JIPANG」氏は前半の進撃して砲撃をして来るシーンの戦車を指して、『改造の具合が上[やぶちゃん注:後半でアリョーシャを追跡する車両]のと比べると、いくらか異なります。簡易版でしょうか?』と述べているが、氏は本映画の戦車について書かれた別ページ(同人誌掲載分。戦車の正確なイラスト附)で、『映画には全部で5両登場しますが、うち4両は模型(1/3ぐらい?)かもしれません。つまり実物大は1両のみ』ともある。そう言えば、遠景のものは何だか、動きに重量感がないな。

 アリョーシャの持っているボルトアクションの小銃は第二次世界大戦中のソ連軍主力小銃であったモシン・ナガンM1891/30か。

 アリョーシャが使用する戦車銃であるが、これは形状から見ても、一九四一年にソ連軍が採用したボルトアクション単発の対戦車ライフル、デグチャレフ(デクチャリョーフ)PTRD1941(正式名はデクチャリョーフ一九四一年型対戦車火器)であろう。ウィキの「デグチャレフPTRD1941」によれば、『ナチス・ドイツ軍の侵攻に合わせ急遽量産に入った』対戦車兵器で、『全長2.020m、重量15.75kgと長大だが、同時に採用されたシモノフPTRS1941よりは軽量である。また、ガス圧作動で連射できるPTRSと異なりシンプルな構造であったため、生産性や信頼性で遥かに勝り、PTRSに先駆けて大量に配備された。ボルトアクションの単発銃ではあるが排莢が自動化(ロングリコイル方式)されており構造的には半自動の対戦車砲に近く、速射性は半自動のシモノフ対戦車ライフルに大きく劣る物ではなかった。ショルダーストックにリコイルスプリングが入っており、射撃後反動によってストックを除く銃全体が65mm後退する。その際、ストックに溶接されたカーブを描いた鉄板にボルトハンドルが乗り上げ、ボルトの閉鎖が解除される。閉鎖解除されたボルトは、まだ残っている銃身内の圧力により突き戻され、薬莢はチャンバーから抜かれて下に空いた排出口から排出される。オイルを塗った綺麗な薬莢を使えば、ボルトは完全にオープンされる。上に空いた装填口より弾を入れ、ボルトを閉鎖すれば発射準備が整う』(下線やぶちゃん)。『初速1012m/sで発射される14.5mm弾は有効射程の100mからIII号戦車、IV号戦車の30mm側面装甲を貫通し、また防弾ガラス製の覗き窓も簡単に破壊して乗員を死傷させた。このため、ドイツ戦車は開口部を減らし、覗き窓を溶接で埋め、さらにシュルツェンという装甲スカートで対抗した。さらにはティーガー、パンターなどより重装甲の新型戦車が登場するとこの銃による射撃で撃破するのは極めて困難になった』。『しかし当時のソ連ではHEAT弾の開発が遅れたため引き続き大量に使用され、キューポラや操縦手用のペリスコープ、砲身、起動輪、車外に身を露出した乗員などを狙撃して戦闘力を減じる用途に使われた。この銃を鹵獲したドイツ軍は、14.5mmPz.B783r)の分類コード名を与え使用した』とある(「鹵獲」は「ろかく」 と読み、敵の軍用品・兵器などを奪い取ることを言う)。なお、文中の対戦車ライフル「シモノフPTRS1941」はガス圧作動によるセミオートマチック五連発で、サイズは全長2m、重量約21kgと重く、戦場では弾薬係と射撃手の二名による行動が基本とされたとウィキの「シモノフPTRS1941」にあり、画像を見ても本作に登場するもとは形状が全く異なる。以上の記載から見ると、本映画でのデクチャリョーフPTRD1941は、かなり強過ぎの感は拭えない。特に二台目の狙撃は相当な距離を感じさせ、一発必殺で仕留めた点は素人見にも出来過ぎという気はする。しかしそれはそれ、展開の御約束であれば(誰かのアニメだって主人公は死なないし、悪は何時だって滅んでる。あれだってみんなステロタイプの御約束だろが)、私はそれを論って本作を評する意志は微塵もない。実はあなた方のよく御存じの、お好きな方も多い、私の大嫌いな御仁が、この一発目の狙撃の際について発言したという記事を見つけたので、ここにうやうやしく記しておきたい故にこの注を書いたとも言えるのである。彼は、あのシーンを見て『こんな弱い戦車はない』と宣うたと言う。それでいて、この御仁は『戦車以外は好きな映画』として、本作を『好きな映画の一つ』に挙げておられるそうな。この方、知る人ぞ知る軍事兵器オタクの反戦家だ(反戦主義者という謂い方を私は認めない。反戦とは思想や主義ではない。深い感懐から生ずる思いである。それから――私は兵器オタクの反戦家というのは――私も含めてだ――実は存在しないと確信しているのである。これはまた語り出すときりがないのでここでやめにするが)。……成程ね、唾を吐きながら褒めるという、あんたらしい。……手塚先生の追悼文に、鬼の首を取ったように先生のアニメーションの罪過のみをうち並べて平然としていた、あの男らしい。如何にも「不愉快な褒め言葉」だ。――もうお分かりであろう、宮崎駿である。]

西東三鬼全四句集 始動 「旗」 昭和10(1935)年

ブログ・カテゴリ「西東三鬼」を創始し、以下の通り、まず「西東三鬼全四句集」を始動する。

 

西東三鬼全四句集(「旗」・「夜の桃」・「今日」・「變身」)

[やぶちゃん注:これは西東三鬼の生前の公刊分の句集を総て網羅するプロジェクトである。底本は平成四(一九九二)年沖積舎刊の「西東三鬼全句集」を底本として、それぞれの句集に掲載された自序及び句を掲げる(当該底本は原形配列であるが、当該句の異同句をも網羅している)。但し、私のポリシーに則り、恣意的に(私は西東三鬼の各句集原本は一冊も所持していないため)漢字を正字化した(この理由については俳句の場合、特に私には確信犯的意識がある。戦後の句集は新字採用のものもあるであろうが、それについては、私のぶちゃん版鈴木しづ子句集の冒頭注で、私の拘りの考え方を示してある。疑義のある方は必ずお読み頂きたい)。なお、本文中の元号の西暦表記は、一部若しくは総ての親本(句集)にはないものとも思われるが附した。

――私は私なりに西東三鬼という猥雑にして典雅なる思想の存在の「忠實な下僕である」と自認している。私のかくなる仕儀を、今、憎む人々に、今、愛する人々に、この句集を捧げる――藪野直史【始動:二〇一三年一月七日】]

 

句集「旗」

(三省堂より昭和一五(一九四〇)年三月二十五日発行)

 

自序

 

 或る人達は「新興俳句」の存在を悦ばないのだが、私はそれの初期以來、いつも忠實な下僕である。

 前半は昭和十年以後の作品から採錄し、後半の「戰爭」は昭和十二年以後の作品である。

 私の俳句を憎んだ人々に、愛した人々にこの句集を捧げる。

 

 

 

昭和十(一九三五)年

 

  アヴェ・マリヤ

 

聖燭祭工人ヨセフ我が愛す

 

燭寒し屍にすがる聖母の圖

 

聖燭祭妊まぬ夫人をとめさび

 

咳(しはぶき)て神父女人のごと優し

 

聖燭祭娶らぬ教師老いにける

 

  あきかぜ

 

あきかぜの草よりひくく白き塔

 

貝殼のみちなり黑き寡婦にあふ

 

ほそい靴貝殼をふむ音あゆむ

 

風とゆく白犬寡婦をはなれざり

 

砂白く寡婦のパラソル小さけれ

一言芳談 五十六

   五十六

 

 敬蓮社(きやうれんじや)云、日來(ひごろ)後世の心あるものも、學問などしつれば、大旨(おほむね)は無道心になる事にてあるなり。

 

[やぶちゃん注:「敬蓮社」正治元(一一九九)年~弘安四(一二八一)年又は弘安八(一二八五)年)敬蓮社入西。入阿。長州の人。初め、成覚房について一念義を学び、十二歳の時、健保二(一二一四)年に真如堂で聖覚上人の説法を聞き、俄然、一念義を捨てて鎮西に走り、聖光上人(弁長)の門弟となった。三十六歳の頃には鎌倉に入って教化に勤めている。弁長滅後は彼の伝記も録している。「蓮社」というのは浄土門で用いる法号の一種で、中国廬山の東晋の名僧慧遠(えおん 三三四年~四一六年)が在家信者らとともに結成した念仏結社白蓮社に因んだもの。]

耳嚢 巻之六 石山殿狂歌の事

 石山殿狂歌の事

 

 石山大納言殿へ立入(たちいり)せし番匠(ばんしやう)の年老(おい)けるが、身まかりしと聞(きき)たまひて、姥(うば)は殘りし由を狂じよめる由、

 ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。狂歌滑稽譚シリーズ。

・「石山大納言」石山師香 (いしやまもろか 寛文九(一六六九)年~享保一九(一七三四)年)は公卿。藤原氏持明院支流葉川(園)基起(もとおき)次男。元禄一六(一七〇三)年従三位となって葉川(後に壬生(みぶ))家から分かれて石山家を興す。享保一九(一七三四)年従二位権中納言。狩野永納(かのうえいのう)に学んで戯画に優れ、書・和歌・彫金でも知られた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。岩波版長谷川氏は他に、師香の養子(姉小路実武次男)であるやはり画才のあった石山基名(もとな 享保五(一七二〇)年~寛政四(一七九二)年)の名を挙げておられる。彼は没時、正二位権大納言であった。

・「番匠」「ばんじょう」とも読む。大工職のこと。

・「ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく」底本には「なにと」の右に『(尊經閣本「何の」)』と傍注、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 ぢゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々(ばば)はかはいやなにとせんたく

とある(「ゝ」はママ)。「父」は「爺」で通用し、そもそも和歌では濁音は表記しないのが通例であるから問題はない。長谷川氏は『桃太郎の話の発端を利用。ぢゝは病いと山へを掛け、草かりは草刈と仮の代を掛ける。なにとせんたくはなにとせん(どうしようか)と洗濯を掛ける』と注されておられる。天寿を全うする年齢であったのであろう、弔問の挨拶句というより、往生と残った老媼への労りを込めた洒落た戯れ歌である。私の敷衍自在訳を以下に示す。

――じいさん、病(「やま」)いで「山」へ草「刈り」、ああ、行かしゃった、行かしゃった、「仮り」の宿りのこの世の中を、ああ、「鎌」振り捨てて、逝しゃった、ああ、逝かしゃった、それはそれ、天寿全う、芝刈り鎌(「かま」)、いや、じゃから「かま」わん、目出度とぅおじゃる……なれど――残れるばあさんは、いや、可愛(「かわ」)いや、可愛いや、「川」へ洗濯、ああ、行かしゃった、行かしゃった、一体今頃、どうしておじゃるか、おじゃるかいのぅ、麿でもちょいとは、心配じゃ、ああ、心配じゃわいのぅ――

私は、こう弔問歌、好きで、おじゃる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 石山殿の狂歌の事

 

 石山大納言殿の御屋敷へ、永く出入りさせて貰(もろ)うて御座った年老いた大工、これ、身罷ったと聞き、また、配偶(つれあい)の老婦は未だ健在なる由も聞き及び遊ばされ、狂じて――基い!――興じて、お詠みなされた由の狂歌、

 

 ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく

2013/01/06

復讐 火野葦平

これは、滑稽の甲羅を纏いながら、その実、不思議に胸を衝かれる現代版の異類婚姻譚である。私は打ち終えて、思わず指に生臭い臭気を感じた――



   復讐

 

           一

 

 十五夜は過ぎたが、まだ滿月といつてもよいほどの大きくて明るい月が山道(さんだう)を照らしてゐた。峠を越すと、竹林(ちくりん)や杉林や、芒原(すすきはら)ごしにキラキラ光つてゐる犬鳴川(いぬなきがは)の流れが眼下に隱見した。森の奧でフクロフが鳴いてゐる。この赤座山(あかざやま)はさう高くも深くもなく、まはりは村落でとりかこまれてゐるのだが、山中には人家はないので、夜がふけるとやはり不氣味であつた。

 このさびしい山道を、獵銃を肩にかついだ宗八は千鳥足で、自宅のある竹塚村へ急いでゐた。相當に醉つぱらつてゐる模樣で、まつすぐに歩くことができない。ジグザグによろめきながら、ときには斷崖の端まで行つて落らさうになる。しかし、上戸(じやうご)本性とはよくいつたもので、無意識ながらどんな危險も冒險も割合に平氣でくぐり拔けた。もつとも宗八が醉つぱらつてゐるのは今夜にかぎつたことではないから、醉つてゐるときの方が存外本性といつてよいのかも知れない。獵師仲間では腕利(き)きとして長い間幅をきかせて來たが、なにぶん傲慢(ごうまん)で貪慾(どんよく)で、亂暴者ときてゐるから、あまり評判はよくない。人にも好かれない。アルコール中毒になつてからは、一層亂行がはなはだしくなつた。喧嘩すれば六尺を越える膂力(きようりよく)絶倫のうへに、百発百中と自慢する鐡砲を持つてゐるのだから、誰も相手になる者がない。宗八を嫌ひながらも近郊の村人たちは、日本一獵師の宗さんなどとおだてあげて敬遠した。このため、宗八も大得意でいばり放題にのさばることはできたけれども、この宗八にも恐いものが二つあつた。女房と貧乏である。

 宗八の方がぞつこん惚れ、拜みたふすやうにして夫婦になつたチヨノは、はじめは宗八の獵の腕前をみとめて辛抱してゐたが、たうとう飮んだくれの怠け者に愛想をつかして逃げてしまつた。戀女房だつたので、チヨノだけはきげんを取るやうにしてゐたのに、どんなに哀願しても止(とど)まつてはくれなかつた。

「こげな娘まであるとに、おれを棄(す)てるのか」

 宗八は必死になつて、生まれた女の子をカスガヒにしようとたくらんだけれども、チヨノは子の愛にも引かされなかつた。

「貴樣、そげなこというて、別に男がでけたのとちがふか。間男しておれを見すてるのぢやないか」

 嫉妬にかられてそんなことまで口走つた。が、結局、女房を引きとめることばできなかつた。チヨノがゐなくなつてから、宗八はいよいよ荒れるやうになつた。しかし、不思議なもので、母親がゐなくても娘ヤヨイはすくすくと生長し、今では村でも評判の美しい娘に育ちあがつてゐる。宗八も、ヤヨイも、いつかチヨノがまた歸つて來るのではないかと心持ちしてゐるうちに、十年ほどが經つてしまつた。チョノの消息はまつたくわからなかつた。

 女房の次に怖(こは)いものは貧乏だつた。しかし、こちらの方は女房が宗八をすてたやうには、簡單に宗八をすてなかつた。それどころか、いよいよ執拗にまつはりついて離れない。おまけに、あまり深くもない山を長い間狩りつくしたため、猪(ゐのしし)も、狐も、狸も、兎も、雉子(きじ)も、鳩もほとんどゐなくなつてしまつて、近ごろでは一日山をうろついても小鳥一羽とれない日もあるやうになつた。といつて、獵銃と別れる決心は宗八にはなかなかつかない。いよいよ酒を浴びる度合(どあひ)が深くなるばかりである。

 今日も宗八は燒酎をしこたま飮んだ。酒店といふ酒店はもうどこも借り倒してゐるので、惡い強い酒で早く醉ふしか法がなくなつてゐたが、今夜は龍野村で、鎭守の祭禮に來てゐた香具師(やし)の仲間と飮み、例によつて大喧嘩をやらかしたのであつた。香具師の親分から、獵師などはやめて、手品使ひになつた方が酒が餘計飮めるぞとからかはれたからである。

「痩せても枯れても、竹塚の宗八は北九州では聞えた獵師ぢや。いんや、腕は日本一、たれがしがない香具師の仲間なんかに入るもんか。いまに、虎か、ライオンか、お前さんらがびつくりするものを射とめて見せらァ。そのときに、宗八さんを拜むがええ」

 そんな啖呵(たんか)を切り、二三人張りたふしておいて、歸路についたのであつた。

 

         二

 

 坂道をくだると、犬鳴川(いんなきがは)の岸に出た。せせらぎの音が醉耳(すゐじ)を打つ。醉つてゐても美しいものには氣をとられるので、キラキラ光る流れの水面を見ながら、宗八はよろめき歩いた。はるかの遠くに竹塚村の灯(ひ)がひとつ見えて來た。この時刻にもう起きてゐる家はないから、その燈は宗八の家で、父のかへりをヤヨイがまだ起きて待つてゐるのに相違なかつた。娘を愛する心は世間の父親なみなので、宗八もその灯を目ざしてさらに歩度を早めた。

「あいつには、ええ婿をとつてやらにやならん。酒飮みでない、仕事をようする、腕のええ、氣立のええ、男ぶりのええ婿を見つけてやらにやならん」

 その親心もまづ世間なみであつた。

 さうして、芒(すすき)が密生して銀色に光りながら、秋風にゆらめいてゐる土堤のかげまで來たとき、宗八は、

「おやッ?」

 と呟(つぶや)いて、立ちどまつた。

 妙なものを見たのである。自分とは五間とは離れてゐない、川の中の大きな岩のうへに誰かがしやがんでゐる。とつさには子供かと思つた。子供が裸になつて泳いでゐるのかと思つた。身體が月光につやつやしく光つてゐる。しかし、その月光がその生き物の頭のうへを、靑くキラッとガラスのやうに光らせるのを見たとき、

「河童ぢや」

 宗八はまた思はず呟いた。大あわてで土堤のかげに陰れた。芒の穗の間からそつと顏をのぞかせてもう一度よく見た。河童にちがひなかつた。頭上で光つたのは頭の皿だつた。宗八の眼にしだいに妖(あや)しい殘忍のいろがみなぎりはじめた。醉つてゐるときの方が本性に近くなる宗八の心に、急速に、狡猾(かうかつ)な計算がわきあがり、最近とんと感じたことのなかつた雀躍(こをどり)に値するよろこびと希望とが、この貧乏に飽いた哀れな獵師の全精神をゆるがしはじめてゐた。

 宗八はそつと獵銃をかまへると、岩上の河童にむかつて照準をあはせた。距離が近く、月が明るいうへに、河童はすこしも動かないので、熟練した獵師にとつてこんな容易な標的はなかつた。

 河童にとつては一代の不覺であつたといはなければならない。これが普通の狀態であつたならば、足音高く千鳥足でやつて來る人間に氣づかないはずはなかつたのに、このとき、河童はどんな物音も耳に入らないやうな心理狀態におちいつてゐたのであつた。それは河童が悲しみにとざされてゐたためである。

 この犬鳴川には河童はあまりたくさんはゐなかつたが、その中でも與助坊とキノといふ夫婦河童はもつとも淵の深い水の淸い場所に棲んでゐて、河童仲間からはうらやまれる仲であつた。ところがどうしたものか子供が生まれず、生活をまぎらせてくれるものがないので、ときどき夫婦喧嘩をする。どんなに惚れあつてゐても、毎日顏をつきあはせて同じ家に住んで居れば、話題はなくなるし、退屈になる。それにしだいに缺點も見えて來るから、ついいはなくともよいことをどららかがいひだして、口論になる。言葉の勢では、なにもお前一人が女ぢやないさ、といふやうなことを亭主がいひだすと、女房の方も、フン、あんた一人が男かね、と鸚鵡(あうむ)返しする。口返答が重なるうちに、これまで考へたこともなかつたやうな突飛(とつぴ)な憎まれ口もとびだす始末になるのだつた。

 今夜も、夫婦がそんな仲よし喧嘩をしたのであつた。原因はただ晩めしの胡瓜の刻(きざ)みかたが惡かつたといふたわいもないことだつた。いひ募(つの)つてゐるうちに、

「そんな胡瓜の切りかたしか出束ん奴に、女房の資格があるか」

 と、與助坊がどなつたのである。

「そんなら、もつと胡瓜の料理の上手なお嫁さんをもらひなさい」

「もらふとも。實はこれまで隱しとつたが、おれには女があるんだ。その女は胡瓜の刻みかたのうまいことは勿論、胡瓜を十二とほりに料理できる。胡瓜けぢやない。茄子でもカボチャでも、魚でも、顎(あご)が落らるやうにおいしく作るよ」

「そんなら、あたしは出て行くわ」

「うん、出て行け」

 どちらも言葉のはずみだつた。與助坊に女などはゐない。どうしてそんな言葉が自分の口をついて出たのか、彼自身が不思議なやうだつた。キノも騎虎(きこ)の勢(いきほひ)プイと淵の家とびだすと、犬鳴川の流れを泳いで、中流の岩のところに來てうづくまつた。

 月光が美しかつた。川のいたるところにある淺瀨に流れがせせらぎ、川面はキラキラと銀色の饗宴である。そのなかを魚がナイフのやうに光つて飛ぶ。兩岸の芒もゆらめきながらこれに風情を添へてゐる。しかし、かういふ月と川と山の美しさも、今夜ばかりはキノを慰めることはできなかつた。嫉妬は女の身についた裝飾であるから、キノも夫の一言に心をかきみだされてゐた。夫を信じきつてゐたので、その裏切られかたがはげしくこたへた。キノとて言葉の行きがかりと思はぬでもなかつたが、やはり疑心暗鬼はどんなに追つぱらつても去らず、悲しみで消えてしまひたいやうであつた。夫のいつた女は誰かと考へてみて思ひあたらない。犬鳴川ではなくて、遠賀川(をんががは)の女河童かと考へる。それとも小倉の紫川(むらさきがは)か。田川の彦山川(ひこさんがは)か。最近、四五囘、北九州の河童会議があるといつて、出かけて行つたから、そのときに女ができたのか。考へだすと切りがなくなり、キノは錯亂しさうになつて來るのだつた。

 たまたま、かういふときであつたので、危險な人物がほんの五六間しか離れてゐないところに近づいたことを、キノはまつたく氣づかなかつたのである。

 宗八はねらひをさだめると、引鐡(ひきがね)引いた。するどい一發の銃聲が川面をつたつて全山に谺(こだま)した。叫び聲をあげる間もなく、岩上からころがり落ちた河童を見て、宗八はニタッと會心の笑みをもらした。大いそぎでジャブジャブと川の中に入り、河童の屍駭を荒繩で引つくくつた。それを鐡砲にぶらさげて肩にかつぐと、岸にあがり、もと來た山道を、龍野村の方向に一散に走りだした。

「畜生奴、ざまァみやがれ」

 宗八は走りながら、大聾で笑つた。誰にむかつて投げた言葉かわからなかつた。爆發するやうな衝動が心内をゆすぶりたて、宗八は異樣な興奮狀態にあつた。宗八の笑ひ聾が深夜の森に不氣味に谺し、フクロフの聲もしばらくやんだ。

 峠に來て宗八はふりかへつた。竹塚村はふたたび遠くなつたが、はるかに灯のついてゐる自分の家は見えた。

「ヤヨイ、きれいな着物を買うてかへつてやるぞ。お前の欲しがつとつたカンザシも、朱塗の下駄も買うてかへつてやるぞ」

 宗八の眼に涙が光つてゐた。河童をひつかついだ宗八はどんどん龍野村への道を走りくだつた。祭の太鼓がしだいに近づいて來た。

 

           三

 

 それから數日の後、龍野村鎭守の秋祭はこれまでになかつた大勢の客を、北九州各地から殺到させてゐた。河童の見世物のためである。河童といふものを傳説としてききつたへてゐたり、近郊でも河童が子供を川へ引きこんで尻子玉(しりこだま)を拔いたり、胡瓜や茄子畑を荒したりすることは知つてゐても、實際は河童を見た者は少かつたので、正眞正銘ほんものの河童の見世物があるとなると、見物がおしよせるのも無理はなかつた。評判は評判を呼んで、龍野村はごつたがへす賑はひだつた。

「さァ、いらはい、いらはい。またと見られぬ天下の奇觀、頭には皿、背には甲羅、兩手兩足にはミヅカキのあるほんもののカッパ、どこやらの誰やらさんのインチキな作り物とは事變り、切れば血も出るカッパの肉體、しかも妙齡花も恥ぢらふ女カッパ、これ見落して後世に悔いをのこすなかれ。さァ、さァ、錢は見てのおかへり。早いが勝ち、いらはい、いらはい」

 口上にいつはりはなかつた。集つて來た見物人は金網の中にアルコール浸けにされてゐる河童を見て、眼を丸くした。しかし、愉快な觀物ではなかつた。獵銃で射殺された屍骸であるから、むざんであるうへに、河童は異樣な臭氣を放つてゐた。それはなんとも形容のしようもないもので、魚と苔と糞尿とをごつちやにしたやうな、強烈で嘔吐をさそふにほひであつた。アルコールもこの惡臭を消すことができなかつた。誰も顏をしかめ、鼻をつまんで見物した。中には氣分がわるくなり、氣の弱い者はかへつてから寢つく始末だつた。

 香具師(やし)は大ホクホクである。獵師の宗八と一度は喧嘩したけれども、河童を射とめて賣りに來たので、早速仲なほりした。宗八は啖呵を切つて、虎かライオンかしとめてみせるといばつたが、虎やライオンよりも河童の方がずつと見世物としては興行價値がある。虎やライオンはこの節どこの動物園にもゐて珍しくない。香具師の親分は氣前よく、宗八へいひなりの代金を拂つた。長年の貧乏暮しのため、大金といふ觀念がずれてゐた宗八は、法外の値をふつかけたつもりであつたが、興行師の方からみれば、ほくそ笑みたいほどの少額だつたので、商談は二つ返事で成立した。はたして思惑どほり、客は連日大入滿員、宗八へ拂つた金などは一日で囘收できた。

 或る日、香具師の親分は、宗八親娘(おやこ)を招待した。竹塚まで自動車を迎へにやつた。宗八も久しぶりにさつぱりした風體をしてゐたが、娘ヤヨイのあでやかさは人目をひいた。どうしてあんな飮んだくれの亂暴者にあんなきれいな子ができたのか、ほんたうに宗八の種かなどといふ者さへあつたほどである。

「お言葉に甘えて、娘づれで參りましたばい」

 宗八はもう醉つぱらつてゐた。

「宗八さんにお禮をいはにやならんです。ごらんのとほり、毎日、押すな押すなでしてなァ」

「そりやア結構、わたしもうれしいです」

「ほう、こりやァ立派な娘さんがあんなさるなァ」

「ヘヘヘヘ、この子ひとりがわたしの賴りでしてなァ。ええ婿をもろうてやらうと考へとるです。酒を飮まん、よう働く、腕のええ、氣立のええ、男ぶりのええ婿をな」

 ヤヨイは大きな父のかげになつて、パッと赤らんだ。その恥ぢらふ姿がいちだんと美しかつた。

 群衆に押されながら河童の網のところに來た。臭氣に鼻をつまみながら、ヤヨイは顏を曇らせた。話にきいただけではさほどにも思はなかつたのに、眼前に見ればそのむごたらしさは言語に絶してゐた。あふむけにされてゐる河童の胸に二つの乳房があるのを見て、ヤヨイは胸が引きしめられるやうであつた。自分の乳が痛くなつて來て、兩手でそつとおさへた。河童といへども生ある者だから、戀といふこともあるであらう。この女河童には戀人か夫かがなかつただらうか。もう血のたぎる年ごろになつてゐたヤヨイは、そんなことを考へると、この女河童が哀れでならなかつた。眼を掩ひたいやうだつた。この河童を射ち殺した父が急に恐しくなり、これを見世物にする香具師が憎らしくなつた。父も香具師も人間ではないやうな氣さへした。自分が着てゐる新しいきれいな着物も、朱塗りの下駄も、カンザシも、この河童を賣つた金で買つた物かと考へると、ヤヨイはぞつとして來て、氣が遠くなる思ひだつた。

 群衆の中からかういふヤヨイをじつと見てゐる一人の若者があつた。三十そこそこかと思はれる端正な顏立ちで、綠色の着物を着てゐた。女河童の屍骸を見るこの青年の眼も、異樣な苦痛にみたされてゐたが、なにかうなづくと、すこしづつ見物を押しわけて、ヤヨイに近づいて來た。

「お孃さん、あなたはすすんで、これをごらんになりに來なさつたのですか」

 耳に息のかかる近きで、聲をかけた。ヤヨイはふりむいて、相手の端麗さにちよつとどぎまぎしたが、

「いいえ、父に誘はれて參りましたの」

「どう思ひになりますか」

「來なければよかつたと後悔して居りますわ」

「僕もです。僕も父に無理矢理つれて來られたのですが、見るにたへなくなりました」

「この女の河童が可哀さうで、涙が出さうです」

「コラコラ、ヤヨイ、見知らん男と話なんかすんな。こつちに來い」

 宗八は娘の手をつかむと、ぐんぐん引きずつて、表に出た。

 後に舜つた若い男はヤヨイの姿が見えなくなつてしまふと、金網の中の女河童に視線をうつした。いひやうもない苦澁の表情がふたたび彼の顏を掩つた。この靑年は與助坊が化けて來た者であつたから、その心中は張りさける思ひであつたにちがひない。與助坊はキノの屍體をにらむやうにし、兩手を組んで、口中でなにか呪文(じゆもん)となへた。それから人ごみをかきわげてせかせかと表に出て行つた。

 見世物に異變がおこつた。その日が暮れてしまはないうちに、金網の中の河童の屍骸はすつかりドロドロの靑苔(あをこけ)の汁になつて溶けてしまつたのである。いふまでもなくそれは與助坊のほどこした術のためで、嚴重な細目の金網のため、妻を奪還(だつくわん)することができないと知つたときの、夫としての最後の愛情であつた。

 

           四

 

 宗八は毎日酒びたりであつた。思ひがけず入つた金のため、誰にはばかるところもなく酒が飮めるので、お大盡になつたやうな氣持である。獵にも行かなかつた。そして、毎日、娘を使つては村の酒屋に酒買ひにやつた。

「一升二升は面倒くきい。五升樽か、一斗樽かを買うて來い」

 ヤヨイは父にさからはなかつた。酒をとめる氣持もなかつた。むしろ、早く河童を賣つた金が盡きてしまふことを願ひ、できるだけ高い酒を買ふことにした。肴(さかな)にもほとんど無駄使ひとも思はれるほどの金をかけた。これまでの借金も拂つてまはつた。宗八はそれには反對で、これまでの借りはタナ上げぢやなどと娘を責めたが、借りを拂はなければ通れない道がたくさんあるからといつて、父を納得させた。

 まだ月は落ちてはゐなかつた。父に追ひたてられるやうにして酒買ひに夜の道に出ると、細い月が中天にかかつてゐた。ヤヨイはいつもの地味なふだん着を着てゐた。父から買つてもらつた新しい着物や下駄やカンザシは二度と身體につける氣特にはならなかつた。父の手前すてることもできないので、簞笥の奧深くつつこんでしまつた。ヤヨイは綺羅(きら)をもつてかざらなくとも天成の質があつて、ツギハギだらけのふだん着の方がかへつて淸楚な美しさをうちだしてゐた。

 酒屋では連日連夜の宗八のふるまひにあきれてゐる。しかし、現金買ひなので惡い顏はしない。ただ使ひに來るヤヨイを氣の毒がるのだつた。

「可哀さうに、飮んだくれのオヤヂを持つと、娘は苦勞するなう。ヤヨイさんも、早(は)よ、ええ婿どんを持つこつちやなァ」

 さういはれると、ヤヨイはただ赤らんで、はにかむばかりだつた。

「ヤヨイさん、おつ母さんの行方はまだわからんとかい?」

「はい、とんと見當もつきません」

「チヨノさんでも居んなさりやァ、あんた一人がそんなに苦勞せんでもよからうになァ」

 ヤヨイとて母を思ふ心は深い。幼な顏に母の記憶ははつきり殘つてゐる。しかし、それはいつも父を罵倒してゐるたけだけしい顏で、あんまりやさしい顏とはいへなかつた。しかし、いまなら母もそんなに父と喧嘩はしないかも知れない。父は金を持つてゐるからである。このとき、ヤヨイの頭に一つの名案が浮んだ。新聞廣告をしてみたらといふことであつた。

 酒屋は一升びんをさしだして、

「これはな、『千代の松』というて、博多の箱崎でできる上等の酒ぢや。アル中のオヤヂにはもつたいないくらゐたい」

「小父さん、今夜は五升下さい」

 酒屋は眼を丸くして、

「なんやて? 五升?」

「はい、五升。今晩は五升か一斗か買うて來いとお父つあんが申しました。一斗はいらんけ、五升下さい」

 掛けではないので、酒屋はいひなりに五升樽を出して來た。

「ヤヨイさん、あんた、これ、自分で持つて歸るのけ?」

「大丈夫です」

 ヤヨイは金を拂ひ、ウントシヨと掛け聲をかけて瀨戸物の五升樽を肩にのせた。重かつた。別れをつげて村道を引きかへした。大したことはあるまいと思つたのに、酒樽はしだいに肩に食ひこんで來て、ヤヨイはへこたれた。いく度もおろし、片を變へたが、弱い女の力ではすこし無理だつた。肩がズキズキうづいて來た。

 それでもがんばりながら、竹林に芒原がつづいてゐるさびしい道を急いでゐると、

「もしもし、お孃さん」

 と、背後から聲をかける者があつた。

 ふりかへると、うすい月光のなかに、一人の若者が立つてゐた。ヤヨイは胸がドキンとした。それは龍野村の見世物小屋で逢つて以來、その面影が忘れがたくなつてゐた、あの綠色の着物を着た美しい靑年であつた。

「こつちにお出しなさい。僕がかはつて持つてあげませう」

 若者はヤヨイの肩から五升樽をうけとつた。まるで風船のやうな輕さで、青年の肩に乘つた。はつとしたヤヨイはうれしさで親切な男の顏を見ながら、兩手で自分の肩をたたいたりもんだりした。若者は少しも重さを感じてゐない樣子なので、凛(り)々しい風貌と相まつて、ヤヨイに力ずよい賴もしさを感じさせた。かうなればもはや、ヤヨイの心に戀が芽生えたものといつてよい。祭のとき以來忘れられなくなり、いつかどこかでもう一度お目にかかりたいと、せつない氣持でゐたのだから、もう若者の虜(とりこ)となつてゐるといつてよかつた。妻を殺された與助坊は復讐のために、まづ宗八の娘を誘惑してやらうとたくらんだのだが、その條件は思つたより簡單にととのつたわけである。大した手練手管(てれんてくだ)を必要としなくなつた。いつでもヤヨイは若者の意のままになるにちがひない。

「先日は失禮しました」

「あたしこそ」

 二人は途々(みちみち)、龍野鎭守の見世物の話をした。どちらも女河童を哀れむ心は一致してゐたので、おたがひの心もうちとけ、いつかしっくりととけあつて行くやうにみえた。

 宗八の家が近づいて來た。灯のついてゐる奧の間で、なにか出鱈目な節で歌をどなつてゐる聲がきこえた。

 入口まで來て、若者は酒樽をおろした。

 「ありがたうございました。助かりましたわ。肩が痛かつたでせう?」

 「なんの、一斗樽でも平氣ですよ。それでは、ここで、……また、いつか、……」

 ヤヨイが心のこりさうにしてゐるのもかまはず、靑年はスタスタと山道の方へ歩き去つた。犬鳴川(いんなきがは)の芒土堤(すすきどて)のところで、その姿がふつと消えるやうに見えなくなつた。赤座山にのみこまれたやうにも見えた。與助坊の方はすでにヤヨイが自分に心ひかれてゐることをはつきりとたしかめ得たので、誘惑の第一歩は成功したと思ひ、わざと名も名乘らず別れたのであつた。女たらしの小さな手練手管である。氣をもたせておけば、思ひを募らせる結果になるから、次に逢ふときに手間が省(はぶ)ける。一擧に事をはからうとするのは上乘の策ではない。與助坊の計算のとほりだつた。ヤヨイはもうたまらない氣持になり、この次に逢つたときには、身も心もあの方におまかせしようと、切迫した思ひに全身を焦がしてゐた。

「お父つあん、ただ今」

「おそかつたなう。なにしとつたんぢや?」

「この五升樽重たうて。一升びんを下げてかへるやうなわけにはいかんわ」

「酒屋の奴、小僧にでも持たせてやりやがりやええとに。……さうか、それは大儀ぢやつた。……そらさうと、ヤヨイ、お前、表で誰かと話しとりやせんぢやつたか」

「いいえ」

「をかしいなァ。たしかに、話し聲がきこえたやうに思うたが。男の聲のやうぢやつた」

「ハツハツハツハツ、そんなことがあるもんか。お父つあんが酒に醉うて、風の音をききそこなうたとよ。月が下がつてから、風がだいぶんはげしゆう出て來たけ」

 ヤヨイは必死に笑ひにまぎらせた。生まれてはじめて、ヤヨイに祕密ができたのである。

 

           五

 

 龍野村の見世物小屋で溶解した女河童のことは、しばらく近郊の話題をにぎはせた。儲けるだけは儲けてゐたのに、もつと大儲けしたかつた香具師の親分は地團太ふんで口惜しがつた。全國を持ちまはれば莫大な産をきづくことは歷然としてゐた。しかし、溶けてしまつたのだからどうにもならない。亭主の河童が來て術をほどこしたことなどは想像もつかないから、河童といふものは死ねば溶けてしまふものなのだらうと考へるほかはなかつた。九大農學部の學者先生に問ひあはせたところ、河童にはさういふ習性があると、古來いひ傳へられてゐるといふ返事があつたので、やむなくあきらめた。

 ところが、困つたのはその處置だ。村役場や鎭守の神主からは早くどこかへ持ち去つてくれと嚴重に抗議された。たとへやうもない腐臭が村全體にひろがつて、頭痛や神經衰弱が日ごとにふえる始末、まるで毒ガスをばらまいたのと異ならない。靈を弔つたらこのにほひが消えるかと、坊さんを雇つて供養をいとなんでみたが、さらにその效(ききめ)がない。にほひ消しのどんな藥品を使つても、香水を五升ほど流しこんでみても、異臭はさらに強くなるばかりだつた。

 警察が出張して來て、強請立退を命じた。香具師は仕方なく荷馬車をやとひ、靑苔汁のたまつた箱を密封して、これに積んだ。龍野村を出て、草代(くさしろ)村に入つたばかりのとき、突然馬がけたたましくいなないて、がむしやらに疾走しはじめた。馬が異臭に神經ををかきれて發狂したらしかつた。馬車は曲り角に來て轉覆し、破壞された箱から河童の液汁が畑のなかにとび散つた。朝から曇り勝ちだつた空から、このとき豪雨が降りはじめて、靑苔汁は雨水とともに急速にひろがつて行つた。このため、河童の汁のしみた三町歩(ぶ)ほどの土地の農作物は全部腐つてしまつたのである。

 新聞は連日のやうに、この事件を報告した。遂に草代村の農民は香具師の親分を相手どつて、損害賠償の訴訟をおこした。この珍妙な事件には裁判所も手こずつて、長くかかつた。しかし、なんといつても香具師方が不利で、彼は儲けの全部はいふまでもなく、さらに莫大な追徴金を吐きださなければならなかつた。

 この裁判の記事の出てゐる同じ新聞の片隅に、數囘、次のやうな尋ね人の廣告が載つた。

「妻チヨノニ告グ。錢タクサンデキタ。モウ心配カケヌ。スグ歸レ、宗八」

 しかし、何日經つてもこれに對してなんの反應もなかつた。チヨノが逃げたのは貧乏のためだけではなかつたのだから、錢がどんなにできたといつたところで、チヨノの心をうごかすことはできないのかも知れなかつた。

 或るとき、白粉を首から背中まで塗りたくつた小肥りの年増女が宗八をおとづれて來た。その女は新聞廣告を見たので來たといひ、チヨノさんはもうこの世にゐないと告げた。女は海千山千をくぐつて來た色道の大家らしく、宗八を誘惑して、いつの間にか、ズルズルと家に居ついてしまつた。

 そのころ、ヤヨイも家をあけることが多くなつてゐた。いふまでもなく若者とのあひびきのためである。宗八は酒を醉ひくらひ、怪しい女にひつかかつてゐて、大事な一人娘が河童の誘惑におちいつてゐることに長く氣づかなかつた。入りこんで來たおリンは、ヤヨイのゐないことがもつけの幸なので、うすうすヤヨイの行動を氣づいてはゐたが、宗八にはなんにもいはなかつた。

 たまに、ふつと、

「ありや、ヤヨイの姿が見えんぢやないか」

 といつて、家の中を見まはすことがある。そんなとき、

「酒買ひに行きましたよ」

 さういへば、それでうなづいて納得した。

 河童の代金といつてもタカが知れてゐる。貧乏に馴れた宗八にとつては大金であったが、放埓がすこしつづくと、もう先が見えて來るやうな金額にすぎなかつた。このため、「錢タクサンデキタ」といふ一句に釣られて入りこんで來た莫連女(ばくれんをんな)も、まもなく宗八に見切りをつける氣になつたらしく、殘りの現金を全部さらつて逃走する機會をねらつてゐた。いくら色でたぶらかしてあるとはいへ、惡謀を氣づかれれば六尺の強力漢であるうへに、鐡砲の名人だから命がない。毒婦も命がけだつた。

 

           六

 犬鳴川(いんなきがは)

のせせらぎに光る月の亂舞は、十五夜のころほどではないが、いぶし銀のやうに小粒になつて、かへつて典雅な美しさを見せてゐる。その瀨をのぼりくだりする鮎(あゆ)や鯉が波しぶきを立てて水面にをどつた。ときには長い光を見せてウナギがわたつた。杉林や空士境が風にそよぎ、フクロフの聲がものがなしい。蟲も鳴いてゐる。

「さびしいことはないですか」

「いいえ」

 川のながれの中にある岩のうへにゐるのだから、普通だつたらさびしくないはずはないのだが、ヤヨイは若者と二人ゐるだけで、さびしさなどは感じなかつた。ただよろこびにふるへ、無我夢中といつてよかつた。

  この岩のうへで、キノが宗八のため射殺されたのであつた。それを知つたならばいくら戀の虜になつてゐても、ヤヨイは氣味わるさでゐたたまれなかつたにちがひない。まだ血がこびりついてゐるかも知れないのである。しかし、與助坊にしてみれば、自分の妻を殺した男の娘ををかすには、妻の死の祭壇のうへが最適の場所であつたらうし、それに或る殘忍さをも感じてゐたことは否(いな)めない。そして、所期どほり、目的をはたした。

 しかし、奇妙なことに、與助坊はこのごろは最初とはまるでちがつた心境になつてゐた。はじめはただ憎い仇の娘ををかすといふ復讐の念だけだつたのに、いく度か逢ふうちに、與助坊もヤヨイに心をひかれるやうになつたのである。美しい顏形と同樣に、いささかも人を疑ふところのない美しい心情、ただ愛のために獻身する一途な情熱――與助坊もしだいに復讐と慕情、憎しみと愛との矛盾に苦しむやうになつたのであつた。ただ復讐のためだと息ごんでゐても、内心はヤヨイを愛してゐるとすれば、この妻の祭壇のうへが恐しい場所になつて來る。亡妻への氣のとがめに、ヤヨイをしつかりと抱いてゐながら、與助坊は全身がをののく瞬間があつた。

 或る夜、また、こつそり家を拔けだして來たヤヨイが、カゴのなかに一杯、胡瓜をつめこんでゐた。

「あたしの家の畑にできたものですの。あたしが丹精こめて作りました。あなたが好きかどうか存じませんが、すこし持つて參りました。召しあがつて下さいますか」

 與助坊はヒヤッとした。河童は胡瓜が第一の好物である。まさかヤヨイから正體を看破されたわけではあるまいが、ひどく皮肉な感じがして、すぐには返事ができなかつた。

 戀人が默つてゐるので、

「おきらひですの?」

「いいや、す、好きです」

「それはよかつたわ。あたし、母が早くゐなくなりましたため、料理を小さいときからやりましたので、すこしは上手になりました。胡瓜の刻(きざ)みかたなど得意ですの。父から機械のやうだというてほめられたこともあります。胡瓜の料理でも十二とほりくらゐは作ることができます。もし與助さんがお望みでしたら、いまからでもこしらへてさしあげますわ」

 與助坊はぞつとした。胡瓜問答がもとでキノは淵底の家をとびだし、この岩のうへに來て殺される羽目になつたのだつた。あのとき口から出まかせに、おれには女がある、その女は胡瓜の刻みかたが上手で、十二とほりに料理することができる、などといつた。まつたくの出鱈目であつたのに、いま、ヤヨイがそれと同じことをいつてゐる。與助坊は恐しくなつた。死ん女房の靈がヤヨイに乘りうつつて、それをいはせてゐるのではないかと思つた。亡妻の仇をうつため、復讐の手段として敵の娘ををかしたのに、ヤヨイに心をひかれるやうになつたとすれば、キノを裏切つたことになる。その復讐を亡妻がしてゐるのではないか。さう考へはじめると、與助坊は膝頭がふるへ、背の甲羅がガチガチ鳴る。うすい月光に浮き出てゐるヤヨイの顏を恐しげに見まもらずには居られなかつた。

「與助さん、どうかなさつたの?」

 戀人の變化におどろいて、ヤヨイは怪訝(けげん)さうにたづねた。

 與助坊は急にあわてる語調になつて、

「ヤヨイさん、ここはいけない。もう一つ向かふの岩のうへに行かう」

「いいえ、ここが居心地がええわ。まるで、自分の家(うち)みたい。あなたにはじめて身をまかせた岩、あたし、ここを離れないわ」

「そんなセンチメンタなことをいつてはいけない。ここは山道に近いから、人間に見つかる。宗八さんにでも感づかれたら大變だ。あの先の岩なら、崖のかげになつてゐるから、誰にも見つかりはしない。さ、ヤヨイさん、あつちに行かう」

 しかし、このときはもう遲かつたのである。あまり戀人にさからへず、ヤヨイがしぶし立ちあがらうとしたとき、一發のするどい銃聲がして、與助坊は岩からころがり落ちた。はげしい谺が全山にひびきわたつた。

 芒土堤らかけだした宗八がジャブジャブと川をわたり、岩に近づいて來た。河童を引つくくらうとして、腰の荒繩とりだした。しかし、そのときには、もう河童の姿はどこにもなかつた。與助坊は瞬間に溶けてしまふと、犬鳴川の急流とともに流れてしまつたのである。その部分だけ、月光に靑い燐光を燃やしながら、下流の方へまたたく間に見えなくなつて行つた。

 

           七

 

 宗八の目算はすつかり外れてしまつた。怪しい女にたぶらかされてゐた間は馬鹿みたいになつてゐたが、有金をのこらず持ち去られてから、遲まきながら眼がさめた。そこへ、村人が娘ヤヨイと若い男とが、夜な夜な、犬鳴川の岩のうへであひびきしてゐると教へてくれたので、逆上したやうになつて家を出たのであつた。手には獵銃が待たれてゐた。

「大事な娘を、どこの馬の骨ともわからん奴に、とられてたまるか」

 宗八は知らなかつたが、ヤヨイと靑年との評判は早くから近郊一圓に立つてゐたらしかつた。しかし村民たちも野暮人ではなく、若い男女の濡れ場を邪魔する者もなかつた。これまでヤヨイの氣立のよさや美しさを知る者は多く、誰でもよい嫁と思ふのだが、オヤヂの宗八のことを考へると怖氣(おぢけ)づいて、緣談など持ちこむのを控へてゐたのだつた。養子に行かなくてはならないので、村の靑年もうかつに手出しをしなかつたのである。そのヤヨイに男ができたのだから、たちまち噂はひろがつて行つた。

「宗八にも、變な女子ぢやが女房できたし、ヤヨイさんにもええ婿ができたんぢやけ、親子二夫婦、まァ、めでたいこッちや」

 などとも話しあつてゐた。

 その宗八の方の女は毒婦で、甘い汁を吸へるだけ吸つて逃げてしまつた。かういふことの常習犯かも知れず、やりかたが巧妙で、手がかりといふものがまつたくなかつた。

 村人に教へられて、犬鳴川の岩のところへこつそりと忍んで來た宗八は仰天した。それは嘗て自分が女河童をしとめたところだつたが、そつと芒土堤らうかがつてみると、娘ヤヨイといつしょにゐるのは一匹の河童なのであつた。

 どういふ不覺からであつたかわからないが、與助坊はそのとき河童の姿に還元してゐた。恐らく、亡妻の復讐をおそれて慄然とした刹那、術が破れたものであらう。これを見た貪慾(どんよく)な宗八の顏にふたたび狡猾な計算がわいた。

 自分の娘が河童にたぶらかされてゐたことに對する怒りよりも、この河童を射ちころして、ふたたび大儲けしようととつさにたくらんだのである。そして、河童を射ちとめることはできたけれども、跡形もなく溶解して流れてしまつた。

「アッハッハッハッ……」

 宗八が茫然となつてゐると、發狂したヤヨイは岩上に立ちはだかつて、腹をよぢつて笑ひころげた。その聲は全山に不氣味に谺して、それまで鳴いてゐたフクロフを沈默させ、淺瀨にをどつてゐた鮎や鯉も、淵の底ふかくに沈ませた。細い月は逃げるやうにして、山の端に落ちて行つた。

 このことがあつてから、赤座山をとりまく近郊の村落は騷然となつて來た。一體、犬鳴川の河童たちは數も少かつたがおとなしい質で、人間へ害を加へたことはなかつた。他の川の河童たちのなかには子供を川に引きこんで溺らせたり、尻子玉を拔いたりする者もあつたが、犬鳴川の眷族(けんぞく)は水中の食物だけで滿足し、人間との接觸はなるべく避けてゐた。しかし、このときからその考へが根本的に變つたのである。

 彼らは愛してゐた仲間の與助坊とキノとが二人ながら、人間に殺されるとさすがに激怒した。元來がおとなしく忍耐づよかつただけに、怒りだすとはげしかつた。彼らは隊を組んで、宗八の家を襲撃した。おどろいた宗八はむやみやたらに獵銃をぶつぱなして防戰した。河童の何匹かが戰死したので、いつそう怒りが爆發した。夜毎、宗八は河童の軍勢に惱まされた。犬鳴川では、子供たらが次々に引きこまれはじめた。

 さすがに宗八も辟易(へきえき)して、村の人たちへ救ひを求めた。日ごろは毛蟲のやうにきらはれてゐた宗八であるが、河童の被害が全村におよんで來たので、竹塚村では村會をひらいて、河童對策を協議した。智慧のある者が河童退治の祕法――川に毒を流す。大きらひなツバを吐きちらす。河童の大敵である猿を動員する。鬼門(きもん)である佛飯(ぶつぱん)を投げこむ。その他の手段を用ゐることを獻議し、滿場一致で採擇された。これは早速實行に移きれたので、河童たちは閉口した。しかし、鬪志はさかんで河童たちはどんな人間の攻撃にも屈せず、さらに新しい方法を編みだして逆襲した。遠賀川(をんががは)、彦山川(ひこさんがは)、紫川(むらさきがは)などの河童たちにも應援を賴んだ。河童聯合軍があばれだしたので、人間たちも、龍野村、草代(くさしろ)村、直方(なうがた)、飯塚(いひづか)、田川(たがは)、小倉(こくら)と聯盟を結び、これに對抗した。北九州は河童と人間との一大修羅場と化したのである。この戰ひは現在もなほつづいてゐる。

 犬鳴川がやはり本元(ほんもと)だけあつて、河童の害は一番大きい。子供は勿論のこと、大人でも、角力とりでも、牛でも、馬でも、引きこまれる。河童は身體は小さいけれども、頭の皿に十分に水が滿たされてゐれば、四五匹がかりで機關車でも引きずりこむくらゐに張力だから、その被害は甚大であつた。

 或る日、たうとう、獵師宗八も引きこまれた。もともと騷ぎの原因が宗八にあつたのだから、いくら狡猾な宗八でも家にじつと引きこもつては居られない。多少の責任觀念は持つてゐる。それで、日夜をわかたず、犬鳴川のほとりをうろついて、獵銃をぶつぱなして歩いた。宗八の慾念のなかに、もう一度、河童を捕へて見世物に供し、一旗あげようといふ計算があつたことはいふまでもない。河童たちも獵銃は苦手だから、容易に近づけなかつた。

 すでに黄昏(たそがれ)が山の端から川ぶちまで彩りはじめた時刻だつた。泥醉した宗八は獵銃に彈をこめ、すごい眼つきで、川面をにらみながら、

「河童の餓鬼(がき)ども、出てうせろ。みなごろしにしてやるぞ」

 とどなつてゐた。

 そのとき、宗八は後から肩をたたかれた。

「宗八つあんぢやないな?」

「おッ」

 と、宗八は飛びあがつた。チヨノであつた。

「新聞虞告を見たもんぢやけ、歸つて來たら、あんたが河童射ちに出かけたちゆうもんぢやから、探しに來たとたい。逢ひたかつたばい」

「おれも逢ひたかつた」

 夫婦は抱きあつて泣いた。このため、獵銃が地面(ぢべた)におかれた。一匹の河童がすばやくそれを持ち去つた。怖(こは)いのは鐡砲だけだつたのだから、もうチヨノに化けた河童も用ずみだつた。さらに四五匹いつしよになつて、ズルズルと宗八を犬鳴川の深みへ引きずりこんでしまつた。仰天した宗八は喚(わめ)いてあばれたけれども、機關來車よりは輕いので、抵抗しても無駄だつた。

 水面はなんの變哲もないいつもの流れかたをしてゐたが、深い川の底で、數發の銃聲がきこえた。水中なので谺はおこらず、わづかに水面にいくつかの水泡(すいはう)が浮いたにすぎなかつた。川底で、銃殺がおこなはれたのかも知れない。

 犬鳴川畔をいくら通つても引きこまれない人間が一人だけあつた。ヤヨイである。狂人となつたヤヨイはまるで故郷でも求めるやうに、日ごと、夜ごと、川のほとりに姿をあらはした。與助坊の種を宿したのか、ヤヨイの腹はこころもち、ふくれて見えた。彼女の腕にはいつでも數本の胡瓜が抱かれてゐる。ヤヨイは嘗て與助と樂しい夢を結んだ岩のうへに立つて、なんとも知れない悲しい聲で歌をうたつた。と思ふと、急にけたたましく笑ひだす。河童たちは遠くからこれを眺めながら、われわれ河童は、けつして二度と、胡瓜の料理法について問答してはならぬと、おたがひの顏をながめてはいましめあふのが常であつた。

[やぶちゃん注:「犬鳴川」遠賀川の支流。福岡地区との分水嶺である西山(標高六四五メートル)を水源とし、宮若市中心部で八木山川と合流、直方市にて遠賀川へ合流する。現在は「いぬなきがわ」と読むが、平凡社「日本歴史地名大系」よれば、古くは本文でも後にルビが振られるように「いんなき」とも呼称した。

「赤座山」「竹塚村」「龍野村」国土地理院の地図で犬鳴川流域周辺を調べたが、不詳。後に出る「草代村」も同じ。

「遠賀川」犬鳴川は支流水系。福岡県の筑豊地区から北九州市・中間市・遠賀郡を流れる。

「小倉の紫川」福岡県北九州市小倉南区および北九州市小倉北区を流れる。

「田川の彦山川」田川郡添田町の英彦山(ひこさん:福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町とに跨る。標高一二〇〇メートル。)を源流とし、犬鳴川と同じく直方市で遠賀川に合流する。全長三十六キロメートルで遠賀川に合流する河川では最も長い河川である。

「箱崎」現在の福岡県福岡市東区箱崎。東区の行政上の中心地で、古い町並みが残り、筑前国一の宮で旧官幣大社の筥崎宮(はこざきぐう)などの神社や史跡が多く残る。

「莫連女」すれっからし者(女についていう語)。莫連者。莫連。ばくれんあま。]

一言芳談 五十五

   五十五

 

 行仙房云、たゞ佛道をねがふといふは、別にやうやうしき事なし。ひまある身となりて、道をさきとして餘事(よのこと)に心かけぬを第一の道とす。

 

〇やうやうしき事なし、やみやみしき、心やましき事也。

 やうやうしき事なし、事々しき事なし。(句解)

〇ひまある身、これが所詮なり。身にひまなければ、靜ならず。心靜かならねば、道心も修行もすゝまぬなり。

〇餘の事、世の事共かけり。(句解)

 

[やぶちゃん注:Ⅱ本文頁最終行に「一言芳談卷之上終」とある。本条は「徒然草」第九十八段に、「一言芳談」からの五つの引用の最後にこれを配している。

 一、 仏道を願ふといふは、別(べち)の事なし。暇ある身になりて、世のことを心にかけぬを、第一の道とす。

「道をさきとして」という行仙房の言説(ディスクール)の核心的目的性を除去した兼好は実に巧妙にして機略的である。]

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 二 形の僞り~(4) 了


Konohagani


[木の葉がに]

 

 海産動物にも他物を眞似て敵の眼を眩すものが隨分澤山にある。「かに」でも運動の遲い種類はなにかの方法で敵の攻撃を逃れようと務めるが、「木の葉がに」と名づける蟹では、甲の兩側から不規則な平たい突起が出て、恰も海藻の如くに見えるから、海藻の上に止まつて居るときは殆ど見分けが附かぬ。また「石ころがに」では甲が石塊の如き形で、その裏面には足や鋏が丁度嵌るやうになつて居るから、足を縮めて居ると全身が丸で小石の通りになる。魚類の中でも「たつのおとしご」や「やうじうを」などが褐色の藻の間に居ると、頗る紛らはしくて見出し難いものであるが、オーストラリヤ邊の海に産する「海藻魚」〔リーフィー・シー・ドラゴン〕のごときは、身體の各部から海藻のやうなびらびらしたものが生じ、これが水に搖られて居るから、海藻の間に靜止して居るときは、そこに魚が居らうとは到底誰にも氣が附かぬ。

Rifisead

[海藻魚]

 

[やぶちゃん注:「木の葉がに」十脚目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目クモガニ上科モガニ科コノハガニ Huenia heraldica 若しくは、その近縁種(挿絵のものはその甲羅の形状から、Huenia heraldica に同定するには、やや躊躇を感じる)。水深三~一四〇メートルの珊瑚礁・岩礁・砂礫底などの藻類又は海草が生えている場所に棲息。甲長は約三センチメートル。体色は緑・褐・紅色と様々。額や甲に海藻を付着させている場合もあって(附着させている海藻は緑藻植物門アオサ藻綱イワヅタ目サボテングサ属 Halimeda のものであることが多い)、藻類や海草に擬態している。♂♀では甲の形が異なる(♂は二等辺三角形)。主に夜間に活動(以上は主にウィキの「コノハガニ」を参照した)。

「石ころがに」こういう現在和名の蟹はいない。ガザミなどと一緒に「渡り蟹」のポピュラーな名で知られるワタリガニ科イシガニ(石蟹)Charybdis japonica がいるが、これは本記載に一致しない(因みにこの属名“Charybdis”(カリュブディス)は渦潮を擬人化したというメッシーナ海峡に住む海の魔物でオデュッセウスの行く手を阻んだギリシア神話の怪物の名そのものである)。「甲が石塊の如き形で」、「その裏面には足や鋏が丁度嵌るやうになつて居」り、「足を縮めて居ると全身が丸で小石の通りになる」という記載からは、私には丘先生はカラッパ上科カラッパ科カラッパ属 Calappa を指しているように思われる。例えば、トラフカラッパ Calappa lophos・ヤマトカラッパ Calappa japonica・メガネカラッパ Calappa philargius などで、他に種が大きく異なるが、形状からはオウギガニ科マンジュウガニ属 Atergatis の仲間、例えばスベスベマンジュウガニ Atergatis floridus 等も挙げ得るであろう。これを挙げるのは無論、形状が石に似ている点からだが、今一つ、カラッパ類が古くは和名で「マンジュウガニ」と呼ばれていた(この共通性は見た目の類似性を示している)ことからの連想も働いたからである。因みに私はカラッパ類の和名の語源である属名の“Calappa”を日本語だとずっと思っていたが、どうもカラッパというのは新ラテン語による造語で、情報元が未確認であるが、インドネシア語で「ヤシの実」を意味する“kelapa”(クラパ)が語源らしい(形状が似ていると言えば似ている)。が目から鱗ならぬ、椰子から蟹!

「たつのおとしご」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus。ヨウジウオ科のタツノオトシゴ属は一属のみでタツノオトシゴ亜科 Hippocampinae を構成し、世界で約五〇種類ほどが知られる。泳ぐ時は胸鰭と背鰭を小刻みにはためかせて泳ぐが、動きは魚にしては非常に鈍い。その代わりに体表の色や突起が周囲の環境に紛れこむ擬態となっており、海藻の茂みなどに入り込むと発見が難しい。食性は肉食性で、魚卵、小魚、甲殻類など小型の動物プランクトンやベントスを吸い込んで捕食する。動きは遅いが捕食は速く、餌生物に吻をゆっくりと接近させて瞬間的に吸い込んでしまう。また微細なプランクトンしか食べられないと思われがちだが意外に獰猛な捕食者で、細い口吻にぎりぎり通過するかどうかというサイズの甲殻類でも積極的に攻撃し、激しい吸引音をたてて摂食する(この点からは防禦型だけでなく採餌用の攻撃型擬態とも言えよう)。タツノオトシゴ属の♂の腹部には育児嚢という袋があり、ここで♀が産んだ卵を稚魚になるまで保護する。タツノオトシゴ属の体表は凹凸がある甲板だが、育児嚢の表面は滑らかな皮膚に覆われ、外見からも判別出来る。そのためこれがタツノオトシゴの雌雄を判別する手掛りともなる。繁殖期は春から秋にかけてで、♀は輸卵管を♂の育児嚢に差し込み、育児嚢の中に産卵、育児嚢内で受精する。日本近海産のタツノオトシゴ Hippocampus coronatusの場合、♀は五~九個を産卵しては一休みを繰り返し、約二時間で計四〇~五〇個を産卵する。大型種のオオウミウマHippocampus kelloggi では産出稚魚が六〇〇尾に達することもあるという。産卵するのはあくまで♀だが、育児嚢へ産卵されたオスは腹部が膨れ、ちょうど妊娠したような外見となる。このため「オスが妊娠する」という表現を使われることがある。種類や環境などにもよるが、卵が孵化するには一〇日から一ヶ月半程、普通は二~三週間ほどかかる。仔魚は孵化後もしばらくは育児嚢内で過ごし、稚魚になる。♂が「出産」する際は尾で海藻などに体を固定し、体を震わせながら(見た目はかなり苦しそうである)稚魚を産出する。稚魚は全長数ミリメートル程と小さいながらも既に親とほぼ同じ体型をしており、海藻に尾を巻き付けるなど親と同じ行動をとる。ヨウジウオ科ヨウジウオ亜科にもタツノイトコ Acentronura gracilissima やリーフィー・シー・ドラゴン Phycodurus eques (次注参照)などの類似種が多いが、首が曲がっていないこと、尾鰭があること、尾をものに巻きつけないことなどの差異でそれぞれタツノオトシゴ属とは区別出来る(以上は主にウィキの「タツノオトシゴ」及びそのリンク先に拠った)。属名“Hippocampus”(ヒッポカンプス)はギリシア語の“hippos”(馬)+“kampos”(海の化け物)で、元来、ギリシア神話に登場する半馬半魚の海馬“hippokampos”の名ヒッポカンポスを指す。体の前半分は馬の姿であるが、鬣(たてがみ)が数本に割れて鰭状になり、前脚に水掻きがあり、胴体の後半分は魚の尾になっている。ノルウェーとイギリスの間の海に棲み、ポセイドンの乗る戦車を牽くことでも知られたが、この神獣名のラテン語を、実は全くそのままに(頭文字を大文字化して)学名に転用したものである。

「やうじうを」トゲウオ目ヨウジウオ科ヨウジウオ Syngnathus schlegeli。本種もタツノオトシゴ及び類似種同様、♂が出産する。属名“Syngnathus”(シングナトゥス)はギリシア語の“syn”(合わさった)+“gnathos”(顎・口)で、本種の窄(すぼ)んだ口吻に由来する。

「海藻魚」私はこれを上記注に出たヨウジウオ科ヨウジウオ亜科 Phycodurus 属リーフィー・シー・ドラゴン Phycodurus eques に同定する(挿絵の種も本種に同定出来ると思われる)。英名“Leafy sea dragon”とは「葉の生い茂った海の龍」で「海藻魚」という丘先生の和名と一致する。また、細かいことであるが、丘先生は本種を、タツノオトシゴの仲間の、とは言っておられないところにも着目したい(リーフィー・シー・ドラゴンは近年では水族館でよく見かけ、知る人も多いが、前注で示した通り、「タツノオトシゴ属ではない」ということを認識されている方は少ないと思う)。流石は丘先生である。因みに……この属名……“Phycodurus”……これって……“psychedelic”……じゃね?]

北條九代記 和田義盛侍所の別當に還補す

      ○和田義盛侍所の別當に還補す

同月五日に和田左衞門尉義盛二度(ふたたび)侍所の別當に還補せらる。故賴朝卿天下一統に歸して關東の最初、治承四年に三老一別當を定めらる。義盛この職に補(ふ)せられしを、建久三年に梶原景時之を羨み、只一日その職を假(か)りはべらんと望みしかば、その折節義盛服暇(ふくか)の次(ついで)を以て白地(あからさま)に之に補せられたり。景時様々奸謀を廻(めぐら)し終(つひ)にこの職を返さず。和田憤(いきどほり)思ひけれども、城狐(じやうこ)の權(けん)盛(さかり)なりければ、抂(まげ)て多年を送りけり。既に景時靑雲の勢(いきほひ)盡きて運命たちまちに駿州狐崎(きつねざき)の路頭に極りければ、義盛こゝに於て本職に還補せらる。景時は所司(しよし)の役職たり。夫(それ)名と噐(うつはもの)とは借(かさ)ずとこそいふに、假初(かりそめ)に景時是を奪ひて、數年の間この職に居し縱(ほしいまゝ)に權威を振ふ。世の疎むところ、人の憎(にくむ)ところ、天道暗からず。その亡ぶる事正に遲しと彼(か)の方(かた)の人は思ひ合へり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の正治二(一二〇〇)年二月の以下記事に基づく。

〇原文

五日辛酉。陰。和田左衞門尉還補侍所別當。義盛。治承四年關東最初補此職之處。至建久三年。景時一日可假其號之由。懇望之間。義盛以服暇之次。白地被補之。而景時廻姧謀。于今居此職也。景時元者爲所司云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日辛酉。陰る。和田左衞門尉、侍所別當に還補す。義盛、治承四年、關東で最初に此の職に補するの處、建久三年に至り、景時、一日(いちじつ)其の號(な)を假(か)るべきの由、懇望の間、義盛、服暇(ぶくか)の次(つい)でを以つて、白地(あからさま)に之を補せらる。而るに景時、姧謀(かんぼう)を廻らし、今に此の職に居るなり。景時、元は所司たりと云々。

・「服暇」近親者が死んだ際に一定期間喪に服して休暇を取り、家にひきこもること。忌服(きぶく)。

・「白地に」一時的に。ほんの少しの間。

・「姧謀」「奸謀」に同じい。

・「所司」(侍所の)副官。

 

「三老」江戸時代の家老職に相当するものか。畠山重忠・和田義盛・北条時政の三名とされる。

「一別當」侍所の別当(長官)。和田はこの職への拘りが強く、確かに切に着任を望んでいのではあるが、もし、「三老」に選ばれていたとすれば、彼が更にこれを兼任というのはどうか? 侍所別当は幕府の生命線を握る最たる重職でもある。私は、この景時を別当とする人事は寧ろ、自然な頼朝自身の自律的な意志(加えて、近々の三浦や和田の勢力を抑止したい北条時政の意向)によるものであったのではなかったかと疑っている。和田の我儘を取り敢えず、満足させて、景時に工作させて、事実上、移譲させた。だからこそ頼朝はその後に義盛を還補させなかったし、頼家も何も言わなかった、と考えた方が理解し易い。

「還補」「補」は本書では一貫して「ふ」と読み、「ほ」とはルビを振らないからこれも「かんふ」若しくは「かんぷ」と読んでいるものと思われる。

・「城狐」城狐社鼠。「晋書」謝鯤伝に基づく故事成句。城にすむ狐と社(やしろ)にすむ鼠を除くためには、城や社を壊さなければならず、手を下し難いところから、主君の側に仕えている邪まなる家来、佞臣。また、それが除き難いことの譬えとしても使われる。]

耳嚢 巻之六 孝行八百屋の事

  孝行八百屋の事

 

 飯田町とか聞しが、其(その)所は詳(つまびらか)ならねど、彼(かの)八百屋はもと相應にもくらしけるや、身持放埓にて甚(はなはだ)人がらあしく、父母も見限りて舊離(きうり)せしが、火消やしきの役場中間(やくばちゆうげん)になりて彌(いよいよ)身持よろしからず。火災の節は、裸身へ役看板(やくかんばん)をひつかけ、階子(はしご)或は水籠(みづかご)などもちて駈歩行(かけあるき)ぬ。父は相果(あひはて)、母は店請人(たなうけにん)の方へ被引取(ひきとられ)けるが、さながら恩愛捨(すて)がたきや、彼(かの)もの役場などへ出る時は、母は表へたち出で、彼が樣子を見送りけるとや。然るに、右のもの與風(ふと)小川町邊の長屋窓下にたちしに、心學の講釋有(あり)しを聞て、父母には物事そむかず、何にても父母の好(このむ)所をなし悦(よろこば)しむる事、孝の第一にてと、其(その)枝葉をならべ講ずるを聞(きき)て、頻りに面白(おもしろく)思ひ、兩三日聞て、我(われ)孝心をおこすべきと、緡(さし)草履(ざうり)を拵へ、商ひし代錢を母のもとへ持參(もちまゐ)り、何にても好(このみ)候ものを調へ給候樣申(たべさうらふやうまうす)。其言葉ざま以前に替りし故、母もよろこびて心よくとり合せける故、大部(おほべ)やへ立歸りても母の悦(よろこび)しを思ひて、日々に錢を持(も)て母のかたへ至り衣食を助けゝるが、或時部屋頭へ願ひて鳥目(てうもく)壹貫文をかり請(うけ)、いさいの譯(わけ)を咄し、母のもとへ至り、何にても望(のぞみ)あらばかなへたしといひしが、年老(おい)て何もねがひなし、彼(かの)もの身持(みもち)よろしからず、母も寄宿の事故、父の石碑も不建(たてず)、供養法事も心にまかせず參詣さへ疎(おろそ)かなれば、寺參り致度(いたしたし)との願(ねがひ)故、則(すなはち)母をともなひ菩提寺へ至り、壹貫文の内五百文を寺へ納(をさめ)、心計(ばか)りの供養を賴(たのみ)、父の石碑もなきを歎きける。歸りには母をともなひ淺草觀音其外見せ物ある處へ至り、終日慰さめて歸りしが、さるにても父の石碑も建立致度(いたしかし)とて、明暮(あけくれ)手業(てわざ)など精出し、朝夕ひまあれば母をとぶらひける故、さすがに部(へ)や内にて無賴不道の役場中間ながら、孝心を感じ世話いたしける故、部屋頭を始め少々宛(づつ)の合力(かふりよく)等なしければ、右の金錢を以(もつて)、石碑を立(たて)、店請人へも厚く母の介抱の禮を伸べ謝禮致し、怠りなく孝心を盡しけるゆゑ、店請人家主抔も聞き及び、其外知音(ちいん)の者どもゝ、かく心底を改むるうへは何方(いづかた)へも店(みせ)をもたせ、相應の稼(かせぎ)いたし可然(しかるべし)と、とり寄(より)世話をなして八百屋を始めさせけるが、渠(かれ)が孝心を稱して店もはやりて、今孝行八百屋と專ら沙汰ある由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせないが、前話に続いて、巷間のいい話で巻頭を言祝ぐ。私は、この話、何だかとっても好きなんである。

・「飯田町」概ね現在の千代田区飯田橋付近一帯の旧町名。

・「舊離」久離。既出。不身持ちのために別居又は失踪した子弟に対し、親や目上の親族が連帯責任を免れるために親族関係を断絶すること。「欠け落ち久離」とも。ここでは法的には異なった概念である勘当(親子関係の公的断絶処理)と同義で用いられている。

・「役場中間」既出。ここでの「役場」は特殊な用法で、火事場の意である。火消し役が役する火事場の謂いであろう。専ら消防作業に従事した中間のこと。

・「役看板」既出。一般には武家の中間や小者(こもの)などがお仕着せにした短い衣類で、背に主家の紋所などを染め出したものを言うが、ここは火消しの火事場袢纏、半被(はっぴ)。

・「店請人」居住していた借家の保証人。

・「與風(ふと)」は底本のルビ。

・「小川町」現在の千代田区神田小川町付近。駿河台南側で武家屋敷が多く、根岸の屋敷は駿河台で小川町の直近にある。

・「心學の講釋有し」「心學」石門心学(せきもんしんがく)。江戸中期の思想家石田梅岩(いしだばいがん 貞享二(一六八五)年~延享元(一七四四)年:丹波国桑田郡東懸村(現在の京都府亀岡市)生まれの百姓の次男で呉服屋の丁稚奉公などを務めていたが、享保一二(一七二七)年に出逢った在家仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、四十五歳で借家の自宅に無料講座を開き、後に「石門心学」と呼ばれるようになる思想を説いた。)を開祖とする倫理学の一派。当初は都市部を中心に広まり、次第に農村部や武士階級にも普及するようになった。江戸時代後期に大流行して全国的に広まったが明治期に入って急速に衰退した。主に参照したウィキの「石門心学」「石田梅岩」によれば、『「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序を』形成するところの「性理の学」であり、『その思想は、神道・儒教・仏教の三教合一説を基盤としている。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものである。その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる』とある。また、岩波版長谷川氏注には、『当時江戸には中沢道二が来ており、小川町近藤家邸中に住み、講席を設けていた時期がある。その講釈を聞いたのであろう』と推定しておられる。中沢道二(なかざわどうに 享保一〇(一七二五)年~享和三(一八〇三)年)は石門心学の門人の一人で、名は義道。京都西陣で織職の家の出身で、亀屋久兵衛と称した。一度家業を継いだ後、四十歳頃より梅岩の直弟子手島堵庵(てしまとあん)に師事、後に江戸に下って安永八(一七七九)年に日本橋塩町に心学講舎「参前舎」(心学講舎とは一般民衆への道話の講釈と心学者たちの会輔(修業)を目的として創られた学舎で、最盛期には全国に百八十ヶ所以上を数えた)を設け、石門心学の普及に努めた。道二の石門心学は庶民だけでなく、江戸幕府の老中松平定信を始め、大名などにも広がり、江戸の人足寄場における教諭方も務めた(ウィキの「中沢道二」に拠る)。本「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月で、冒頭、根岸が「其所は詳ならねど」と不確かな語り口をしているところからも、話柄自体は、確かに二十年ほど前の話という感じではある。

・「緡」銭緡(ぜにさし)。穴空き銭を纏めておくための、藁や麻の紐。岩波版長谷川氏注に、火消人夫が副業といていた旨、記載がある。底本の鈴木氏は「緡草履」で一語として捉え、『緡は当字で差縄。布や麻をより合せた縄。その縄で編んだ草履』とする。原材料は同じであるから、長谷川氏の方が自然な気がする。

・「一貫文」鐚銭であろうが、多く見積もっても現在の十数万円というところか。半分を供養に用いているから六万円程では墓石は無理という感じはする。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  「孝行八百屋」の事

 

 この通称、

――「孝行八百屋」――

と申すは、飯田町とかにあると聞いて御座るが……その謂われは詳しくは存ぜねど……何でも、かの八百屋主人(あるじ)は、これ、元は相応に暮して御座った町人の息子ではあったが、若き日に身持悪しく放埓にして、甚だ人柄も粗暴なればこそ、父母も見限りて、勘当久離(きゅうり)と相い成ったと申す。……

 その後は火消屋敷の役場中間(やくばちゅうげん)となって、これまた、いよいよ身を持ち崩した。……

 火災の折りには、裸形へ一張羅の役看板(やくかんばん)を引っ掛けたなり、梯子やら水桶なんどを持って、狂ったように駈け抜ける体たらく。……

 かくするうちに、父は相い果て、一人息子以外には身寄りもなき母者(ははじゃ)は、これ店請人(たなうけにん)の方へと引き取られておったれど、流石に――恩愛は、これ、捨てがたきものと申すか――かの息子が火事場なんどへ出るという時は、かの母者は、身を寄せて御座った町屋の表へ立ち出でて、かの息子が立ち回るさまを心配し、こっそりとその姿を認めては、蔭にて見送って御座ったとか申す。……

 然るに、ある日のこと、右の者、非番の折りから、ふと、小川町辺りの長屋の窓下(そうか)に、何するともの、佇んで御座った。

 すると、近くの家内(いえうち)にて心学の講釈が催されてあった、その洩れ出で来る話が、何心のう、耳に入った。

「……父母には何事も背かず、如何なる場合にあっても、父母の好む所の所行を成し、父母を悦ばしむること、これ、孝の第一なり……」

と、その仔細を一つ一つを挙げては、分かり易い例を並べて講ずるを聞き、何故か、頻りに、

『……これは……何やらん……よう分かる……面白きものじゃ……』

と思うて、立て続けに三日の間、立ち聞き致いて、

「……我ら、一つ、孝心を起すべき――時じゃ!――」

と、一念発起致いて、火事場中間の大部屋へととって返すと、普段は見向きもせなんだ緡(さし)作りやら、草履(ぞうり)作りに精を出だし始めた。……

 一切の遊びを断って、せっせと綯(な)っては売り、売っては綯うして、瞬く間に小金を貯め込み、その商いの代銭をごっそり母者が元へと持ち参って、

「……おっ母あ……そのぅ……何でも、おっ母あの、お好みなさるものを、これで、買(こ)うて、お食べ下されい。……」

と申した。

 その言葉遣いや神妙なる立ち居振る舞い、これ、以前とは天地ほども変わって御座ったゆえ、母も悦んで、久々に気持ちよぅ、心開いて、息子と言葉を交わすことが出来たと申す。……

 その日、かの息子、大部屋へたち歸ってからも、母の悦んだ姿を思い浮かべては……何やらん、清(すが)しい思いに打たれたとも申す。……

 それより、日々に、貯えた銭を以って母者が元へと参っては、母者の衣食を何くれとのう、助けて御座った。――しかし、緡縄(さしなわ)やら草履にては――これ――貯まる金も知れたものじゃ。……

 そんなある日のこと、かの男、部屋頭(へやがしら)へと願い出て、

「……鳥目(ちょうもく)……一貫文を……借り請けとう、存ずる。……」

と申したによって、頭も気色ばんで委細の訳を質した。

 男がかくも哀れなる己が母の話を致いたところが、頭は黙って、男に一貫文の緡を渡いた、と申す。……

男は母のもとへと至り、

「今日(きょうび)は、おっ母あ! ほんに、何でも、望みのものあらば、叶えましょうぞ!……」

と、満面の笑みを以って言うた、と申す。

ところが母者は、

「……もう、年老いて、の、なにも願いは、なし……されば……そう……そなたが身持ちのよろしゅうのうなって、このかた……妾(わらわ)も、かく、人の家の世話になって御座いましたゆえ……御父上の墓石(ぼせき)も建てず、供養も法事も心にまかせず……実は、御骨を預けおいた菩提寺の参詣さえ、疎そかにしておりますれば……一つ、寺参りにお連れでないかえ……」

との願(ねご)うたと申す。

 されば、直ちに母を伴い、菩提寺へと参り、一貫文の内、五百文を寺へと納め、心ばかりの供養を頼み、

「……父の墓石もなき……慚愧の念に堪えませねど……宜しゅうに菩提を弔(とむろ)うて下さりませ……」

と、かの息子、母者とともに、住持の前にて涙を流しては歎いた、とのことで御座った。……

 その日の帰りには母を連れ、浅草觀音やその外、華やかな見せ物のある所を巡っては、終日(ひねもす)、母者を慰さめて大部屋へと帰ったと申す。……

「……何としても、父の墓石をも建立致したい!……」

と、またしても、それより一念を起こし、寝る間もなき程に、明け暮れとのう、かの緡や草履の手業(てわざ)その他に精を出だし、朝夕には、暇(いとま)ある毎に必ず、母を訪ぬるゆえ、流石に、それを傍(そば)で見知って御座った部屋内の――かの無頼非道のむくつけき役場中間どもなれど――やはり人の子――かの男の孝心を、誰もが感じ入って――火事場の出の代わりを申し出るやら――出来た緡や草履をこっそりと男の分に投げ入れてやるやら――何くれとのう、男の世話なんどを致いて御座ったとも申す。……

 かくも、部屋頭を始めとして皆々の者が、少しずつ、かの男に合力(こうりょく)を成したれば、何とか、相応の金も貯まって御座った。……

 かくて男は、その金銭を以つて亡き父の墓石を立て、店請人へも厚く、母者の保護と介助の礼を述べて謝礼も致し、万事、怠りのう、孝心を尽くして御座ったと申す。……

 その礼を受けた母者の店請人や家主なんども、この類い稀なる男の孝心を聞き及び、その噂がまた、その外の彼らが知音(ちいん)の者どもへも、あっという間に広がって、

「――かく、心底を改めた上は何方(いづかた)なりとも店(みせ)を持たせ、相応の商売を致して然るべき男じゃ!」

と、心ある御仁たちが寄り集(つど)って相談の上、世話を致いて、八百屋を始めさせたと申す。……

かの孝心が知られて店も流行り、今に、

――孝行八百屋――

と称せられ、専らの評判にて繁昌致いておる由、さる御仁から聴いた話で御座る。

一言芳談 五十四

   五十四

 

 又云、天地はものゝ要(えう)にたゝずといへども、諸(もろもろ)の事をふくめり。道人(だうにん)もかくのごとし。たゞ何事も要にたゝぬ身に成(なり)たらん、大要(たいえう)の事なり。

 

〇天地は、天地はものいはずして、四時おこなはれ、満物なるなり。

〇何事も要にたゝぬ、用に立てば、名利の心おこりて、いそがはし。用に立たねば、心しづかに、身にいとまありて、佛道を修するによし。

 

[やぶちゃん注:無用の用。]

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 箱根山權現

 箱根山權現

 

 箱根權現は、彦火火出見尊(ひこほゝでのみこと)をまつる。左には瓊瓊杵尊(にゝぎのみこと)、右は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)也。別當(べつとう)は箱根山金剛王院東福寺(さうこんさんこんがうわういんとうふくじ)といふ。眞言宗。境内に曾我の祠、祐經(すけつね)をうちたりし微塵丸薄綠(みぢんまるうすみどり)の太刀(たち)、のちに賴朝公當山へ奉納ありて今にあり。そのほか靈寶(れいほう)物おほし。昔は殊の外の大寺(ぢ)なりしに、小田原陣(おだはらぢん)の時、兵火(ひやうくは)にかゝり、今はその十が一にもたらずといへり。

狂 ほうわうも

まふべきみよの

   しづけさに

きりのはこねの

 みやゐひさしき

〽狂 はこね山かすみは

はれてうぐひすも

 よのふたあけて

  いづる谷の戸

旅人

「大磯の虎(とら)は、曾我の十郎にこがれて、石になる。松浦佐用姫(まつらさよひめ)も夫(おつと)をしたひて石になる。儂(わし)がこのやうにひさしく旅をして、かへらずにゐたら、大方(おほかた)、儂の嬶衆(かゝしゆ)は、儂をこひしたつて、今頃は石になつてゐるもしれない。平生(へいぜい)尻(しり)がおもいから、尻から先へ石になりかゝつてゐるくらいだものを、もしも嬶衆が石になつたら、わしは大根(こん)になりたい。そして香物(かうのもの)になると、嬶衆を押において、普段(ふだん)かさなりあつているから、丁度(てうど)よい。」

「なるほど、貴樣(きさま)の嬶衆は、尻から石になつている。貴樣は前からもふ大根になつてゐるから、丁度よい。はて、貴樣のは練馬(ねりま)大根のやうであつたから。」

「昨夜(ゆふべ)は三嶌(みしま)で、明神前(めいじんまへ)の福島屋(ふくしまや)へとまつたが、なるほどあの宿(やど)は丁寧(ていねへ)で、上樣(かみさま)の氣がきいてゐるから、家(うち)中の女ども、のこらず愛想(あいそう)がよくッて、あのやうに客(きやく)を大事にする家(うち)はない。儂は身上(しんせう)をしまつて出かけたものだから、家(うち)はなし、いつその事、どこへもゆかずに、いつまでもあすこの家(うち)にゐたいものだが、たゞおいてくれるとよいが、相談(さうだん)して見やうか。これはよいことを思ひついた。知惠(ちゑ)もあればあるものだ。しめたしめた。」

[やぶちゃん注:箱根権現は箱根山に於ける山岳信仰と修験道の習合したもので、文殊菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩を本地仏とし、箱根権現社及び箱根山東福寺で祀られていた。古代より箱根駒が岳の主峰神山に対する山岳信仰があり、天平宝字元(七五七)年に朝廷の命を受けた万巻上人が箱根山に入山、相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の末に三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得、法躰は三世覚母の文殊菩薩の垂迹・俗躰は当来導師の弥勒菩薩の垂迹・女躰は施無畏者の観世音菩薩の垂迹であったされる(「諸神本懐集」に拠る)。後は台密の影響を強く受け、多くの修験者が箱根山に入山、関東の修験霊場として栄え、特に伊豆山権現と合わせて二所権現と呼ばれ、鎌倉時代には鶴岡八幡宮に次ぐ坂東武士の信仰を集めたが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈によって修験道に基づく箱根三所権現は廃され、東福寺も廃寺となって本神道部分のみが箱根神社に強制改組された(以上はウィキの「箱根権現」に拠る)。なお、この絵の右上部にあるのが、前段「東海道三嶌宿」に出る「賽の河原」と思われる。

「彦火火出見尊」お馴染みの山幸彦、山佐知毘古(やまさちびこ。神武天皇祖父とされる)のこと。稲穂の神、穀物の神として信仰される。

「瓊瓊杵尊」天照大神の孫で、天照から葦原中国の平定を命ぜられて天孫降臨した。彦火火出見尊の父で木花咲耶姫命の夫。豊饒神。

「木花咲耶姫命」富士山に鎮座して東日本一帯を守護するとされる火山神。

「曾我の社」現在の箱根神社内にある曽我神社。曽我十郎祐成之命及び曽我五朗時致之命を祭神とする。弟の曽我時致(幼名箱王丸)には、父の菩提を弔うために箱根権現社に稚児として預けられ、出家を嫌って遁走した過去がある。

「微塵丸薄綠の太刀」木曽義仲が奉納したものと伝えられ、建久四(一一九三)年五月十六日に兄弟はが父仇討ち心願成就祈願のために箱根権現に参拝した際、箱根権現別当であった行実僧正が兄十郎祐成に与えた源氏の宝刀とされる微塵丸及び薄緑丸二振りの太刀の名。五月二十八日の仇討ちの際に二人が佩いたとされ、現在も上記の曽我神社の宝物としてある。

「大磯の虎」虎御前(安元元(一一七五)年~?)は遊女。曾我祐成の妾(仇討ち当時は満十六、祐成は十九)。「曽我物語」では重要な役回りを持つヒロインであり、その創作にも深く関わった実在の人物と考えられている。十郎五郎の処刑後、兄弟の母を曾我の里に訪ねた後、箱根に登って箱根権現社の別当の手によって出家したと伝えられる。ここで、彼女が石になったとするのは、恐らく現在の足柄上郡中井町にある「忍石」の誤伝と思われる。これは仇討ちを前に祐成と虎御前の二人が腰掛けて別れを惜しんだと伝える石で、後にこれが「縁結びの石」と呼ばれて今に伝わっている。またこれには、以下に示される松浦佐用姫などの数多の望夫石伝承、鶴岡節雄氏の脚注にもあるように、『これと同名の女性を巡って「虎が石」などの伝説が各地に分布している』のとを、混同したものと考えてよい。

「松浦佐用姫」肥前国松浦(現在の佐賀県唐津市)の伝説の女性。彼女は、百済救援のための兵を率いて松浦潟に停泊した大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と契りを結び、出船する夫を鏡山の上から夫の船に向かって領巾(ひれ:肩から腕にかける長い細布で出来た女性の装身具。)を振って別れを惜しみ、悲しみのあまり、狭手彦の形見の鏡を抱いて川に沈んだとも、夫の船を追って、やっとの思いで辿り着いた加部(かべ)島で、泣き伏したままに石となったとも伝えられる。佐用姫の化した「望夫石」は、後に加部島の田島神社境内に遷され、現在も末社佐用姫神社として祀られている(以上は国立能楽堂のHP内の「松浦佐用姫」解説を参照した)。

「練馬大根」練馬大根の文献上の初見は天和三(一六八三)年の戸田茂睡編になる地誌「紫の一本」で『ねりま大根・岩附牛旁・笠井菜・千住ねぎ』とあり、『諸説あるが、江戸時代の元禄年間の頃、武蔵国北豊島郡練馬村、下練馬村(現:練馬区)で栽培が始まり、享保年間に定着したといわれている』(以上引用は参照したウィキの「練馬大根」に拠る)。文脈のまさに漬物(特に沢庵用)として重宝される。ここでは恐らく、下ネタとして通常の大根に比して首と下部が細い(但し、中央が膨らんでいるために大根(だいこ)引きには非常な力がいる)ことから、相手の男の男根の細さを揶揄してもいる、と私は読む。

「明神前の福島屋」三島明神前の旅籠であるが、あからさまなタイアップ広告部分であるが、面白い。

「かみさま」女将(おかみ)さん。言祝ぎで明神にも掛けていよう。]

2013/01/05

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 東海道三嶋宿

    東海道三嶋宿(じゆく)

 

 

金草鞋二十三編目、伊豆の國記行の卷(まき)は、東海道三嶋の驛にておはる。その次、この編は、三嶋よりはじまりて、箱根の七湯めぐり、富士街道蓑毛道(みのげみち)より大山にいたるゆへ、三嶋・箱根を、はじめにあらはす。二編目、東海道の卷に、箱根・三嶋の驛くわしくしるしあれば、こゝには略す。

 箱根の宿(しゆく)をうちすぎ、賽の河原の先、權現坂より芦の湯へゆく道あり。序でなれば、その坂の取り付きより左の方(かた)、湖(みづうみ)の端をまはりて、權現の御宮にまいる。

〽狂 しのをつくいきづへほどの

 ゆふだちにはこねの山を

     おほふくもすけ

旅人

「井守(いもり)を黑燒にして、女にふりかけると、その女がほれてくるといふ事だから、儂(わし)はこの前、此箱根の山で井守を見つけたから、それをとつてかへつて、黑燒にして、女にふりかけて見ましたが、さつぱり、効目(きゝめ)が見へませぬから、これはどうした物だと、よくよくかんがへて見ましたら、井守ではなくて、此箱根の名物、山椒魚(さんせふうを)でございました。

「儂はまた、井守の黑燒も何も、もちいませぬが、とかく女がほれて、こまりきります。それで今度(こんど)も、餘所(よそ)の娘(むすめ)にほれられて、『どふぞ、つれてにげてくれゐ』と、なきついてたのみますから、仕方(しかた)なしにつれ立て旅へ出かけましたが、わかい女をつれて道中するのは、心つかひな物でござります。」

イヤ御前(おまへ)、女と二人連れだといひなさるが、見れば御前一人、その女はどういたしました。」

イヤそれは昨日(きのふ)まで一緒にあるきましたが、昨日、大勢、追手(おつて)の奴等(やつら)がきて、私(わたし)をば、さんざんにぶちのめし、娘をとりかへされ、『これからは、うぬ一人(ひとり)勝手次第に何處(どこ)へなりともゆきおれ』とつきだされましたから、それで今日(けふ)は私一人で、勝手次第に何處へなりと、ゆくつもりでござります。」

[やぶちゃん注:「二編目」「金草鞋 第二編」は品川から始まり、大津に終わる東海道の巻。

「賽の河原」現在の神奈川県足柄下郡箱根町元箱根芦ノ湖の湖畔、箱根神社の大鳥居の近くにある。江戸時代は地蔵信仰の霊地として東海道を旅する人々の信仰を集め、かなりの規模であったらしいが、明治の廃仏毀釈で衰退、現在は少数の石塔・石仏が整然と並んでいるだけである。

「いきづへ」息杖。駕籠かきや荷上げ人などが体のバランスをとったり、一休みする際に荷物を支えたりするために用いた長い杖。

「井守を黑燒にして、女にふりかけると、その女がほれてくる」古代中国で、男性が守宮(ヤモリ)に朱(丹砂。水銀と硫黄の化合物。)を食べさせて飼い、その血を採って既婚の婦人に塗っておくと、その婦人が不貞を働いた場合、その印(しるし)が消えるとされた。これが本邦に、形状の似るイモリに取り違えて伝えられ、あろうことか更に逆ベクトルの催淫効果へと変質したものである。この辺りのことは、私の電子テクストである南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」及び寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)及び「守宮」(ヤモリ)及び「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分等を参照されたい。

「山椒魚」両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ科ハコネサンショウウオ Onychodactylus japonicus。日本固有種で、本邦に生息するサンショウウオ中で唯一、肺を持たず皮膚呼吸のみを行っている種である。黒焼きが精力剤として知られ、他にも子供の疳の虫(男児には♂を女児には♀を服用)や肺病に効能があるとされた。酒の肴として天麩羅や踊り食いもある。主題の下ネタ繋がりと御当地グルメである。]

箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 金草鞋 十返舎一九 附やぶちゃん注 始動

ブログにて以下を始動する。『鎌倉日記(德川光圀歴覽記)』に続けて、真面目な紀行地誌を続けてもよいのだが、一つ、楽しい旅もあってよかろう。――では僕が弥次、君が喜多だ……


箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 金草鞋 十返舎一九 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本書は十返舎一九(じっぺんしゃいっく 明和二(一七六五)年~天保二(一八三一)年)作、喜多川月麿画、文化一〇(一八一三)年に板行を開始した二十四編からなる絵草紙の、天保四(一八三三)年板行の第二十三編である(一九の没年を確認されたい。本絵草紙板行は彼の死後二年後である)。内容は滑稽文や狂歌を織り交ぜながら、日本各地の名所を紹介する彼得意の道中記形式をとるが、特に一九が実地に踏査、その道中で世話になった店(たな)等を積極的に本文中に紹介するという近代的タイアップ広告が行われている点でも着目される。

 底本は早稲田大学古典籍総合データベースの当該PDF画像及び国立国会図書館デジタルライブラリー画像を用いたが、本文は殆どが仮名書きであるため、名詞や・固有名詞に漢字を宛てた鶴岡節雄氏の校注になる千秋社昭和五七(一九八二)年刊の「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」を参考にしつつ、読み易く漢字平仮名交じりに書き換えたが、私のポリシーから漢字化する部分は正字とした(但し、絵図などに記された漢字で略字が用いられているもの、例えば「芦ノ湯」等は、そのままとした)。一部の片仮名表記は漢字又は平仮名表記に変え、踊り字「〱」「〲」は正字化、文中で「〇」に「狂」の記号で示された狂歌記号は私オリジナルの『狂〽』の記号に代えた。一部に簡単な注を附した。なお、底本の読み(ルビや本文平仮名表記)は読みが振れると私が判断した部分にのみ施した。

 上記早稲田の画像は国立国会図書館のものより遙かに使い勝手がよい(HTML版もある)。リンク先の画像をクリックして「19」の下のPDF版をダウンロードし、仮名本文と喜多川月麿の絵を楽しみながら読むのは、これ、如何にも楽しい。

 最後に。十返舎一九の辞世は、

  此世をばどりやおいとまにせん香とともにつひには灰左樣なら

と伝える。また残念ながら、例の火葬の際に一九が予め帷子の下に仕込んでおいた花火が上がって会葬者が魂消たというエピソードは、初代林屋正蔵による作話であるらしい。

なお老婆心ながら、洒落には下ネタが結構多いので自己責任でお読みあれかし。藪野直史【2013年1月5日電子化始動】]

 

箱根山七温泉

      金草鞋(かねのわらじ)

江之島鎌倉廻

 

故(ふるき)をもって新くするは戲作者の本分なり。年々歳々花相似たりといへども、sy洒落おなじからず。所かはれば品川より踏出(ふみだ)す旅もそれそれの得手勝手、行(ゆき)たい所へ足にまかする金(かね)のわらじも、去年(きよねん)豆州(づじう)の遊(ゆう)れきより引(ひき)續き、今年(こんねん)すぐに箱根の七湯(なゝとう)めぐり、それより大山街道を經て、江の嶌(しま)鎌倉の記行、名所古蹟を精(くわし)くし、例(れい)の方言(むだ)修行も旅雀(たびすゞめ)の出傍題(でほうだい)、壳尻(からしり)のから無體(むたい)にこぢつけたるは、駄賃馬(だちんうま)の口強(くちつよ)けれど、馬士(まご)にも衣裳の色摺(いろずり)、外題(げだい)にまづ新板(しんはん)とちやらかすのみ。

 癸巳    十返舍一九誌 (花押)

  孟春發版

 

[やぶちゃん注:この部分は漢字仮名交じり文である。十返舎一九の書名の「一」と「九」の間を右上から左下に抜けて洒落た熊手の絵が懸っている。

「去年」この前編である「金草鞋 第二十二編 伊豆紀行」は天保三(一八三二)年の板行。

「箱根の七湯」一般には「はこねしちたう(しちとう)」と呼ぶ(向後、歴史的仮名遣の誤りは指示しない)。箱根の温泉の内、湯本・塔ノ沢・宮ノ下・堂ヶ島・芦ノ湯・底倉・姥子(うばこ)または姥子に代えて木賀の七つの温泉をいう。本編では木賀を採っている。

「方言(むだ)」放言。

「出傍題(でほうだい)」口から出任せの「放言の」謂いたい放題。

「壳尻(からしり)のから無體(むたい)」「壳尻」は「軽尻」「空尻」で、本来は宿駅で旅人を乗せるのに使われた駄馬を指し、人を乗せる場合は手荷物を五貫目(約一八・八キログラム)迄、人を乗せない場合は荷馬用の本馬(ほんま)の積載限界の半分に当たる二〇貫目まで荷物を積むことが出来た馬を指し、「からしりむま(うま)」と読んだ。そこから転じて、単に積み荷を担わぬ空(から)の馬を指す。鶴岡氏の注によれば、ここは下の「からむたい」の語を引き出すための枕詞的用法で、享和二(一八〇二)年板行の「浮世道中膝栗毛序」にもある、とされる。この場合の「から無體」とは――本作の中身なんどは、まあるで、これ、ありんせん、すっ空かんのかあら空で御座んすよ――一九先生、ぶっとんだ自己韜晦をしているのである。

「ちやらかす」でまかせを言う。また、冗談を言ってからかう。ちゃかす。

「癸巳」天保四(一八三三)年。くどい様だが、十返舎一九の没年は天保二(一八三一)年、実はこの序を書いている一九はとうにこの世の人ではない。如何にも一九らしく美事に我々を「ちやらか」してくれるのである。]

耳嚢 巻之六 遁世の夫婦笑談の事

 遁世の夫婦笑談の事

 

 ある富家(ふうか)の町人、五十にちかきが、悴(せがれ)へ跡をゆづりて其身隱宅へ引(ひき)移り法體(ほつたい)せしに、妻なるもの、是もともに法心して比丘尼となりくらせしが、妻は三十四五歳にもなりしか、予がしれる醫者のもとへ呼(よび)に人こしけるゆゑまかりし處、比丘尼出産して、産籠にかゝりて麻苧(まを)など襟へかけ、かたへにうぶ子のなく聲など、いと似氣(にげ)なき體(てい)にて可笑しかりしと、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:この「予が知れる醫者」とは、前話の「婦人の療治、産の取扱功者と人の沙汰せし山田齊叔といへる醫師」と妙に合致する印象がある。兎も角も産科医ニュース・ソースで関連する。まあしかし何だか冒頭、やっとほっとする笑話ではある。法体(ほったい)の夫を描写していたら、もっと面白かったろうに、とは欲張りな話か。

・「産籠」これについては、底本の鈴木氏注が詳細を極める。本語について解説した諸本を他に見ないので、例外的に以下に全文を引用したい。

   《引用開始》

川柳の句に「産籠で子供の遊ぶ軽いこと」というのがあり、『川柳大辞典』に、怪我の心配など無しと釈し、「産籠の大間違ひは姑なり」の句に、余所の子と聞違ひしか、と釈し、産籠とは、産児を入れて置く籠のことで、子守を置かぬ家はみなこれを用いたと説明し、他の辞典にも同説が見られるが、疑問である。句の「軽いこと」とは、産が軽いことで、赤子が怪我をせぬ意味ではない。また「産籠の大間違」とは、産婦が逆上などして大事にいたることを意味していよう。姑の仕打から産婦がかっとして赤子を圧殺するとか、俗に血が上がる病症になったというので、産籠は出産のための道具で、育児用でないことがわかる。ところが『柳多留』初篇に「産籠の内で亭主をはゞに呼び」とある句は、産婦がこの中に入ることを示して居り、古典文学大系の頭注には、出産をする時はいる籠と注してある。これを安産後にさっそく嬰児用に転用したことになる。昔は坐産が多かったから、横長の寝床のような形を想像するのは誤りで、だから籠で事足りたのであろうが、実物を見たことはない。坐産の時力縄を天井から下げて摑み、分娩後は布団を積み重ねてよりかかり、肥立つに従って低くして行くという方法もとられた。

   《引用終了》

私の一読、子守駕籠をイメージしていたので、この坐産用の妊婦が入る籠状の用具という注は驚きであった(岩波版長谷川氏注も同様に注する)。

――しかし、これだけはっきりと鈴木氏が出産用具として述べているのに、氏自身がそうした坐具を見たことがないというのは、如何にも不審である。

――出産儀礼を研究されておられる民俗学研究者の方の御教授を乞うものである。

――如何なる形状で、どのように用いたのか?

――残っていないというのは血の穢れ故か?

――しかし、だとすれば産後転用というのも解せないではないか?

――きっと、何処かに、違った名前で残っているはず、と信じたいのである。

   ……〈インターミッション〉

――本注を書いてから、一晩、考えた。

――実はこれは、

×「産籠(さんかご)」

と読むのではなく

〇「産籠(ウブコモリ・ウミコモリ)」「産籠(ウブコ・ウミコ)」「産籠(サンコ)」

と読むのではなかろうか?

――即ち、

〇「産屋(ウブヤ)」「産小屋(ウブゴヤ)」

の変化したものとしてである。

昭和二六(一九四九)年東京堂出版刊柳田國男監修「民俗學辭典」(これ、国学院大学に入学した四月に所持必須と言われて半強制的に買わされた辞書であるが、実に三十八年後に初めて私の手によってまともに引かれたという気がする。定価二八〇〇円……貧乏学生だった当時の私にはほぼ五日分の食費に相当した。……底本通り、旧字(!)のままに引用する)の「産屋」の項に、古くは『産婦が産の忌』のために一定期間『別火生活をする所』として建てられた小屋を指し、『轉じて産の忌の期間をウブヤ・オビヤ・オブヤなどと呼ぶところがある』と記し、『佐渡ではコヤタッタというと家の納戸にお産をしに入ることをさす』とし、『現在では一つの家でウブヤという建物を持っている例は少ないが、神職の家などにはまだ見ることとができる。共同の小屋に別居するか、あるいは各家の納戸、ニハの隅などをウブヤ宛てている例なら所々に見られ』、『これらの大部分は、婦人の月事の間を籠る所も同じであったようだが、例へば八丈島にはコウミヤ、三宅島には子持カドと稱する産屋が、月事の小屋とは別に設けられていた』とある。本話の主人公夫婦は遁世僧と比丘尼という変わったカップルである。正式なものであったどうかは別として(浄土真宗ならば当時でも合法的に可能である)、恐らくは得度の真似事のようなことは金に任せてしていると考えてよい。そうした「現世のあらゆる煩悩」特に「欲を離れて」「後世を念ずる」「自らを不断に潔斎しせんとする」夫が、「日々愛しみ抱いているところの」妻の月々の血の穢れたる生理や「二人の子」の出産のために、遁世の庵の一角にそうした「不浄禁忌」を目的とした装置を附置していたとしても、「全くおかしくない」。――いやいや! 可笑しくないよ!――この庵全体は閉じられた系であり、そこは彼ら夫婦にとっては全く無矛盾な世界であったのであるからして――これはゲーデルの不完全性定理に則って――彼らには「真」として認識されていたのである。

やはり、識者の御教授を俟つ。現代語訳では敢えて「うぶこ」と訓じて差別化しておいた。

・「麻苧」「あさを(あさお)」とも。麻や苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシBoehmeria nivea var. nipononivea。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古来から植物繊維を採取するために栽培された。苧麻(ちょま)。)の繊維で作った糸。このカラムシの繊維で織った布に晒し加工をした奈良晒(さらし)は、武家の裃(かみしも)を始め、帷子などに用いられ、古くは鎌倉時代に南都寺院の僧尼の衣や袈裟用に法華寺の尼衆や西大寺周辺の女性たちが織りだしたと伝えられている。ここでは何やらん、そうした古義めいた尼の装束を言っているように思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 遁世の夫婦の笑話の事

 

 とある裕福なる町人にて、五十にも近き者、これ、倅(せがれ)へ跡を譲ると決め、その身は隠居所へと引き移っては、遁世の覚悟もしっかりと、法体(ほったい)まで致いて御座ったと申す。

 その妻なる者、これも夫とともに法心を起こして薙染の真似事を致いては比丘尼(びくに)の姿となって、法体の夫と並んでともに暮らすことと相い成って御座ったと申す。

 ところが――この妻、三十四、五歳にもなって御座ったか――ある日のこと、私の知れる医者の元へ、人を使(つこ)うて往診を呼びに来たった故、罷り越したところが……

――この比丘尼、出産の直後にて……

――尼削ぎのままに……

――産籠(うぶこ)の中へとちんまりと坐って……

――それがまた、苧麻……(ちょま)で出来た尼めいた襟(えり)なんどをも掛け……

――そうしてまた、その傍らには……

――フンギャア! フンギャア!

――と、まあ、これ、元気なる子(こお)の、産声(うぶごえ)…………

 

「……いや……なんとも、まあ……如何にも場違いなる体(てい)にて……可笑しゅう御座った……」

と、その医師の話にて御座ったよ。

一言芳談 五十三

   五十三

 

 行仙房(ぎやうせんばう)云、身意(しんい)に作罪(つくるつみ)をば口業(くごふ)にてこそ懺悔(さんげ)すべきに、いたづらごとにひまをいるゝことよ。

 

〇いたづらごと、徒言と書くべし。益のなき物がたりの事なり。

 龍舒居士云、口誦佛名、如吐珠玉。口宣教化、如放光明。口談無益、如嚼木屑。口好戲謔、如掉刀劍。口道穢語、如流蛆蟲。

 

[やぶちゃん注:「行仙房」Ⅱの大橋注によれば、平清盛の異母弟で平家滅亡後も生き延びた平頼盛の孫とする。『醍醐寺勝憲から小野流を、仁和寺仁隆から広沢流の法流を受けた』(真言宗二大流派の一つ小野流は醍醐寺を中心として庶民的伝播をターゲットに師資口伝を重視、同広沢流は仁和寺を中心として貴族的相承をなして経軌を尊重した)が、『のち聖光上人および禅勝上人の弟子となり、密教より念仏に転じた』とある。「聖光上人」は鎮西流の祖。聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう 応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)、禅勝上人も同じく法然の高弟。

「龍舒居士云……」以下、Ⅰの訓点を参考に書き下しておく。

 龍舒居士云はく、「口に佛名を誦ふるは、珠玉を吐くがごとく、口に教化(きやうげ)を宣(の)ぶるは、光明を放つがごとし。口に無益を談ずるは、木屑(きくづ)を嚼(は)むがごとく、口に戲謔(ぎぎやく)を好むは、刀劍を掉(ふる)ふがごとし。口に穢語(ゑご)を道(い)ふは、蛆蟲(うじむし)を流すがごとし。」と。

「龍舒居士」は南宋の僧王日休(?~一一七三年)のこと。呼称は出身が龍舒(現在の安徽省舒城(じょじょう)であったことに由来する。 儒学に通じたが、後に浄土教に帰依、「浄土文(じょうどもん)」十二巻を編纂した(教学伝道研究センター編「浄土真宗聖典(注釈版)第二版」本願寺出版社に拠る)。]

2013/01/04

HP一括版 鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に同一括版「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注」を公開した。本年最初の大型テキスト公開となった。

龍氏詩篇 室生犀星

 

    龍氏詩篇

 

   一、御使よりも先に

 

  或日晩方よりも早く

  御使は下りてこられ

  庭の石の上に立たれたのであらう、

  何事か重要な話をしに來られたのであらう。

  天使(みつかひ)はあるひは灰ばんだ雀のやうに

  早々に歸られたかも知れぬ。

  御使が御使の必要がないごとく

  早々に歸られたかも知れぬ。

  何故か?

  我が友は御使よりも先きに

  杖を振つて速やかに步いて行つたからだ。 

 

   二、旅びとに寄せてうたへる

 

    あはれあはれ旅びとは

    いつかはこころ安らはん

    垣ほを見れば「山吹や

    笠にさすべき枝のなり」

         (芥川龍之介氏遺作)

 

  旅びとはあはれあはれ

  人聲もなき

  山ざとに「白桃や

  莟うるめる枝の反り」 

 

   三、會へないのか?

 

 暫らく君にも會はない、

 全集が來るごとに會ふやうな氣がするが、

 全集が來なくなつたらどうなるだらう、

 人間の輕薄さは何時でも君を忘れさせ、

 何時でも君を思ひ出させて來る、

 煤けむりの罩めた田端のあたりに、

 垣根にそうて君は時たま步きに出てゐるのか?

 それだのに既う會へないのか? 

 

 

「芥川龍之介全集月報」第七号(昭和3(1928)年12月「芥川龍之介全集」第7回配本付録より。底本は2012年講談社発行の室生犀星「深夜の人・結婚者の手記」所収のものを用いたが、恣意的に正字化して示した。「罩めた」は通常訓ならば「こめた」であるが、私は「たちこめた」と読みたい。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 佐竹屋敷~法性寺/引用書目録 全完結!

   佐竹屋敷

 名越海道ノ北、五本骨ノ扇ノ如クナル山ノウネアリ。其下ヲ云也。

 

   安 養 院

 祇薗山ト號ス祇薗ノ社アリ。本尊阿彌陀、淨土宗智恩院ノ末寺ナリ。開山願行也。二位尼ノ草創ニテ、長谷ノ前、水無瀨川ノ邊ニ有シヲ、高時滅亡ノ時、此地ニ移スト云傳フ。然ドモ舊記ナケレバ慥ニハ知ガタシ。願行ハ笹目ガ谷長樂寺開山隆觀ガ弟子也トイフ。按ズルニ向者(サキ)ニ淨光明寺ノ僧語テ云、願行ハ禪僧正義專一代居住シ、他ニ出ルコトナシト。又覺園寺ノ開山心意和尚ハ願行ノ嗣法也ト。覺園寺ハ律宗ニテ、泉涌寺ノ末也。然ラバ泉涌寺ノ僧ト云説、是ナルベシヤ。但願行ニ同名二人アリテ、此寺ノ開山ハ別ナルニヤ、未ダ審ナラズ。

[やぶちゃん注:「智恩院」は「知恩院」の誤り。この記載の疑義は、安養院がここに移転する前に善導寺(移転前に廃寺)という寺があったこと、この善導寺の開山が浄土宗名越派の祖であった良弁尊観(浄土宗三祖良忠の弟子)で下総・常陸・下野から東北地方全域へと教線を広げていったその本拠地が善導寺であったこと、その後に移って来た安養院はもと律宗であったものが途中で浄土宗に改宗された寺であること等による。しかし、今回、更に調べてみて不思議なことが分かった。それは、「鎌倉市史 社寺編」の「安養院」には、

延享四(一七四七)年

六月に行われた『諸宗寺院本末改により京都知恩院末となる』という記載がある点である。この「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は、

延宝二(一六七四)年

五月の記録である。これは「鎌倉市史」の言う延享四年より七十三年も前に、既に知恩院末寺となっていたことを示している。これはどういうことか? 非公式には以前から既に知恩院末格となっていたものが、そこでの改組に伴い正式に認定されたということか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

   花 谷〔附蛇谷〕

 内ニ谷々多シ。大倉へ出ル切通シニアリ。此谷ノ内ニ蛇谷ト云アリ。昔若キ男アリ。老女ト相具セリ。老女廿歳計ナル娘ヲ持タリ。年來住渡リテ老女ノ思ヘルハ、我齡傾キヌ。若キ男ニ相馴シコト、誠ニヲコガマシ。不若(若(し)かじ)我娘ヲ我男ニ合セ、吾ハ別ニ家ヲ作ラセテ居ンニハトテ、彼男ニカクト語ケレバ、男是ヲ受ゴハズ。猶親カリケレドモ、老女少モウハノ空ナルコトニアラズ。望ム如クニシ玉へト、度々云ケレバ、男モ否(イナ)ミ難クテ、我居所ノ側ニ、小キ居ヲ構テ老女ヲ居キ、男ハ娘ト相具シテケリ。一年ニ年住渡テ彼母、煩クテ閨ヨリ出ザリケレバ、男ノ留守ニ娘母ノ許へ行テ、此程ハ御心重ク見へサセ玉フ。藥ナド奉ンヤト問ケレバ、母痛ク忍テ事ナキ由ヲ云ケリ。娘ノ云ク、何事ヲカ我ニ隱サセ玉フゾトテ、泣恨ケレバ、母點シガタクテ曰ク、我男ニソコヲ合置テ、カタ住ナスコト專心ヨリシテ爲(ナス)事ナレバ、人ヲ恨ムべキニ非ズ。然ヲ何トナク寢ザメノサビシサ、又ハ二人住居ルヲ餘所ナガラ見ナセシガ、若ソレニヤ有ケン、我指二ツ蛇ニ化(ナ)レリ。我身ナガラモ愧ク、妬シサニヤ成ケント思ヒ、煩フ計ナリ。是見ヨトテ出スヲ見レバ、兩ノ大指ハ蛇ニ成、目口鮮(アザヤカ)ニ有テケリ。娘恐ロシク二目トモ見ルコトナク、トカク我ガ在故ニヤト思ヒ、其儘走出テ或ル寺へ行、尼ニナリニケリ。男歸テ此事ヲ聞キ、爲方ナクヤ思ヒケン、其マ、男モ樣ヲ化ケリ。母モ若キ二人ノ者共ダニ出家ス。我トテモ爭カ有ントテ、樣ヲ化(カヘ)、諸國修行シケバ、輪囘ヲヤ離レケン、本ノ如クエ指ハナリケルトカヤ。是ヨリシテ蛇谷ト云リ。長明ガ發心集ニ詳ナリ。今此所ヲ尋ルニ、イヅクトモ知レガタシ。今按ズルニ舊記ニカク引タレドモ、發心集ニハ何レノ國ト慥ニ聞侍リシカド、忘ニケリト云リ。沙石集ニ、鎌倉ニ或ル人ノ女、若宮ノ僧坊ノ兒ヲ戀テ、思ヒ死ニ死ヌ。骨ヲ善光寺へ送ラントテ箱ニ入置ケリ。其後兒病付テ物狂ハシクナリケレバ、一間ナル所ニ押コメテヲクニ、人ト物語スル聲シケリ。人物ノヒマヨリ見レバ、大キナル蛇ト向ヒ居ル。サテ終ニ兒モ死ニケリ。若宮ノ西ノ山ニ葬ムルニ、棺ノ中ニ大キナル蛇アリテ、兒ニマトハリタリ。サテ女ノ骨モ小蛇ニ化(ナリ)タリト云リ。此故事故ニ谷ノ名歟。

[やぶちゃん注:本話「母妬女手指成虵事(母、女(むすめ)を妬み、手の指、虵(くちなは)に成る事)」は「新編鎌倉志卷七」の「蛇谷」で、「発心集」の正規本文も示して詳細な考証も附してあるので、是非、お読み頂きたい。また、最後に引く「沙石集」の「七 妄執に依つて女蛇と成る事」も「鎌倉攬勝考卷之一」の「蛇谷」で全文と語注を附してある。合わせてご覧頂きたい。従ってここでは表記上の問題箇所の指摘にのみ留める。

「不若我娘ヲ我男ニ合セ、吾ハ別ニ家ヲ作ラセテ居ンニハトテ」ここは、「我が娘を我が男に合はせ、吾は別に家を作らせて居(す)まんには若かじ、とて」と返らなければおかしい。

「煩クテ」「わづらはしくて」と訓じているか。若しくは「煩ヒテ」の誤記かも知れない。患って。

「母點シガタクテ」は「母默シガタクテ」の誤り。「もだし」と読む。]

 

   妙 法 寺

 楞嚴山ト號ス。本ハ不受不施ニテ松光山啓運寺ト云リ。日蓮始テ法華經ノ首題ヲ讀誦セシ所ナリ。本尊釋迦、開山日卯、中興日受ナリ。住持之云、誰ノ建立トモ知レズ。近來鎌倉久兵衞ト云市人ガ再興セリ。

[やぶちゃん注:「日卯」は「日印」の誤り。]

 

   安 國 寺

 妙寶山ト號ス。前記ニ寶久山ト云ハ誤ナリ。比企谷ノ末寺ナリ。本尊釋迦。此堂ハ廿年計以前ニ家臣小野角右衞門言胤再興ス。日蓮安房ノ小湊ヨリ始テ來リ、此堂ノ後ナル岩窟ニ居テ、安國論ヲ編ケルトナリ。内ニ日蓮ノ石塔アリ。前ニ影堂アリ。

   名 越 入

 材木座ト名越切通トノ間ヲ云。東鑑三建久三年七月廿四日、幕下名越殿に渡御ストアリ。

 

   長 勝 寺

 石井山ト號ス。名越坂へ通ル東北ノ谷ナリ。法華宗本國寺ノ末也。本尊釋迦、開山日卯、嘉暦元年ノ草創。其後日靜ハ尊氏ノ叔父ナル故、彌繁昌タリシガ、日靜本國寺へ入院ノ時、寺家多ク隨ヒ移リテヨリ以來、次第ニ零落シタリト也。寺領四貫三百文、豐臣秀吉幷三御當家四代ノ徹朱印アリ。秀吉禁制札モアリ。本堂ハ小田原北條家ノ時ニ、遠山因幡守宗爲再興ス。因幡守夫婦ノ木像アリト、寺僧隆玄院物語シ侍リヌ。

[やぶちゃん注:「日卯」は「日印」の誤り。]

 

   日蓮乞水

 名越切通ノ坂、鎌倉ノ方へ一町半計前ナル道ノ側ニ、少キ井ノ樣ナル所アリ。里翁ニ間へバ、果シテ是ヲ乞水ト云。是ハ日蓮安房ノ國ヨリ鎌倉ニ移ル時、此坂ノ中ニテ水ヲ求レバ、俄ニ涌出ケルトナリ。今ハ跡バカリアリ。

 

   名 越 坂

 三浦へ通フ道ナリ。杜戸ノ明神へ行ク陸道ハ此坂ヲ行也。此峠鎌倉ト三浦トノ境也。甚峻峻ニシテ道狹ク、左右ヨリヲヽヒタルガ如シ。峠ヨリ西ヲ名越ト云。東ヲ久野谷ト云。

 

   名越三昧場

 名越切通ヨリ北山ノ巓キ、少廣所三石塔一ツアリ。男石塔、女石塔アリト云事、前記ニアレドモ、今ハイヅクエアリトモ見へズ。

 

   御猿場山王

 小山三松少シ有所ヲ云。昔此ニ山王ノ社アリ。里老ガ云。日蓮鎌倉ニ始テ出ル時、諸人憎テ一飯ヲモ送ラズ。然ル時此山ヨリ猿ドモ、群ガリ來リテ、畑ニ集リ、喰物ヲ營ミテ日蓮へ送リケル故ニ云ト也。

 

   法 性 寺

 猿畠山ト號ス。寺ヨリ遙カ上ニ塔アリ。其上ノ岩穴ニ日蓮ノ影アリ。今ハ塔ノ内へ入置。塔ヨリ北ニ六老僧ノ籠アリ。塔ノ前ニ日朗ノ墓所アリ。其上ニシルシノ木トテ大ナル松アリ。弘安九年ニ日蓮此寺ヲ建立ス。猿ドモ我ヲ養シコト、山王ノ御利生トテ建立スト云リ。

 

 

 

 凡此等ノ事、郷導ノ教ニ任セ、見聞ニシタガヒテ草々シタ書トメヌ。鎌倉記・名所物語・順禮ナド云ル書ヲ指シテ舊記前書トハ云ナリ。件ノ書ニ戴ル事ノ詳ニシテ語ラザルヲバ贅スルニ及バズ。其泄シ殘シテ違ヒヌル事ヲ更ニ考へ正シ、且又モトヨリ聞ケルコトドモ思ヒ出ルマヽニ、アト前トナク雜へシルシヌ。鎌倉ノ地圖、三崎・杜戸・江島・金澤・鶴岳社・建長寺・圓覺寺・稱名寺・道寸古城等ノ諸圖、及ビ諸寺ノ鐘銘等ハ、別紙ニアリ。合テ見ルべシ。

  延寶二年〔甲寅〕五月 日

 

 引用書目錄

[やぶちゃん注:以下は底本では四段組。]

萬葉集        類衆和名抄

詞林采葉〔仙覺作〕  東鑑

太平記        徒然草

野槌         長明海道記

發心集        沙石集〔無位作〕

[やぶちゃん注:「無位」は「無住」の誤り。]

續古今和歌集     新拾遺倭謌集

未木集〔藤長淸作〕  類聚名所和歌〔昌瑑〕

[やぶちゃん注:「昌瑑」は連歌師里村「昌琢」の誤り。]

鶴岡記        鎌倉五山記

鎌倉物語〔中川喜雲〕 鎌倉順禮〔澤庵作〕

[やぶちゃん注:「中川喜雲」は正確には「中河喜雲」が正しい。]

鎌倉記〔松村〕    鎌倉集書〔手塚太郎左衞門〕

[やぶちゃん注:「鎌倉記〔松村〕」「鎌倉集書〔手塚太郎左衞門〕」ともに私は不詳。識者の御教授を乞う。]

鎌倉覺書〔四通〕   關東兵亂記

[やぶちゃん注:「鎌倉覺書〔四通〕」不詳。識者の御教授を乞う。]

寺社領員數記     大友興廢記

王代一覽       日本事跡考

[やぶちゃん注:「日本事跡考」寛永二〇(一六四三)年に儒学者林春斎が記した「日本国事跡考」のことと思われる。]

神社考        壒嚢鈔〔行譽〕

節用集        闇齋遠道紀行

道春丙辰紀行     東海道名所記〔淺井松雲作〕

 延寶三年〔乙卯〕正月 日

                吉元常

                   同校

                井友水

[やぶちゃん注:最後の記名は底本では詰まった二名の二行書きの中央下に「同校」がある。因みに、「新編鎌倉志序」の三種ある内の最後の「新編鎌倉志」参補である力石忠一のものの冒頭には、

延寶甲寅の夏、我

水戸相公、常陽より至る時、路(みち)、鎌倉に過ぐる。名勝を歷攬して、吉常をして見聞する所を記せしむ。丙辰の秋、特に河井友水をして鎌倉に如(ゆ)かしめ、古祠舊寺、以て里巷・荒村・蒭蕘(すうげう)の言に迨(いた)るまで、質(ただ)し問ひて之を載す。

とあることから、実際の本日記の筆録は、光圀の指示を受けた吉元常になることが分かる。

 

以上を以って「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」総てのテクスト化を終了した。]

一言芳談 五十二

   五十二

 又云、或人たづね申云、一向に後世のためと思ひてし候はん學問いかゞ候べき。仰云、始は後世のためと思へども、後には皆(みな)名利(みやうり)になるなり。
 折々(をりをり)被仰(おほせられて)云、某(それがし)が身には、此(この)御山(みやま)に居初(ゐそ)めたりけるが、惡事にて候ける。遁世しなん後は、ほたの上に、味噌燒きなどうちをきて、はさみくふ風情にて有なんずるとこそ思ひしに、かへりてやの物になりて、ゆゝしげなるありさまにて候事、本意(ほんい)相違の事也。これは内心をばしらず、か樣(やう)にて閉籠(とぢこもり)たる體(てい)に候(さふらふ)事を、人の心にくゝおもへる故なりとて、にがみたまひしなり。

〇此御山、高野山なり。明遍僧都は蓮華谷(れんげだに)にこもり給ひしなり。
〇ほたの上に、ほたは榾の字、(句解)木の切れ端。
〇ゆゝしげなる、忌々敷と書く也。いまいましき也。處によりて心かはる也。
〇にがみたまひし、にがにがしきかほなり。

[やぶちゃん注:既出であるが、法然門下の浄土僧明遍(康治元(一一四二)年~貞応三(一二二四)年)は藤原信西の子として生まれた。号は空阿弥陀仏。平治元(一一五九)年、十七歳の時に平治の乱に逢い、父は斬首、彼も越後国に配流となった。後に赦免されて東大寺で三論宗を学んだが、五十歳を過ぎてから遁世して高野山に入山、蓮花三昧院を開創した。法然門下となり専修念仏に帰依した時期については不明。著作として「往生論五念門略作法」などがあるが現在は残されていないことから(以上は主にウィキの「明遍」に拠った)、この「一言芳談」の多くの直談は非常に貴重な彼の肉声と言うべきである。]
「高野山蓮華谷」Ⅱで大橋氏は、『(和歌山縣伊都郡高野町高野山明遍通り)。明遍は、はじめ蓮華谷で修懺堂を営み隠棲したが、やがてその貴族的出身と学識と道心とが評判となり、たちまち高野聖の偶像になった。のち明遍の住房蓮華三昧院は御庵室または主君寺と呼ばれ、慶長年間(一五九六-一六一四)まで、春秋二季に御堂講を営んでいたという。』と、本条と照らし合わせる時、目から鱗の脚注をなさっておられる。これこそが創造的注釈の鑑である。
「ほた」Ⅱは「ほだ」と濁るが、Ⅰ及びⅢを採った。焚き火。
「かへりてやの物」意味が採り難い。Ⅰでは非常に分かり易く「道心者(だうしんじや)」とある。大橋氏によると、続群書類従本では『「道の物」とある』とされ、この『「やの物」なる邦語、一般には見当たらない。「非人」が遁世者、求道者を意味するのと同じように、「谷者(やのもの)」すなわち階級外の身分最下の物を指した語に由来するか。』と考証されておられる。私は寧ろ「野の者」(「野」には品位が落ちる・賤しいの意が普通にある)のように感じられるが――私自身、昨年四月より「野人」となったによって、親しい言葉ではある――如何?]

一言芳談 五十一

   五十一

 

 明遍僧都云、紙ぎぬに衣紋(えもん)つくろふ程の者は、不覺人(ふかくじん)にて有(ある)なり。

 

〇紙ぎぬに、紙衣のえりつまをそろへてきんとするは、なほ身を愛しかざる心あるなり。

 

[やぶちゃん注:「紙ぎぬ」紙子紙(かみこがみ:厚手の和紙に柿渋を引き、日に乾かしてよく揉み和らげ、夜露に晒して臭みを抜いたもの)で作った紙子。古くは律宗の僧が用い始め、後には一般に使用された。軽く、保温性に優れ、大橋氏の注から察するに、当時の僧は特に冬場の防寒用の法衣としたらしい。

「衣紋」衣服を形良く、着崩れしないように着ること。特に襟を胸元で合わせる仕草。]

耳囊 卷之六 意念奇談の事 或いは「こゝろ」フリーク必読!

 

 

 意念奇談の事

 

 

 小日向水道端(こひなたすいだうばた)に、婦人の療治、產の取扱功者(とりあつかいこうしや)と人の沙汰せし山田齊叔といへる醫師、兩三代右の所に住(すみ)けるが、享和二年正月、齊叔長病(ながわずらひ)にて起居も難成(なりがたき)程にて、同月十六日、少々快(こころよき)間、近隣の寺へまふで閻王(えんわう)を拜すべしと云(いひ)しを、妻や子なる者、かゝる大病にて駕(かご)にても詣で給ふ事かたかるべしなど諭しけるが、其日の夕方みまかりける由。しかるに、程近き所に住ける御賄方(おんまかなひかた)を勤(つとめ)、兼(かね)て齊叔と懇意なる者、子共をつれ閻魔へ詣でけるが、途中にて齊叔に行き逢しゆゑ、久々病氣の樣子尋ねて立わかれ、日數過(すぎ)て齊叔死去を聞(きき)て尋訪(たづねと)ひしに、其妻子に、正月六日閣魔へ參詣の事を尋しに、中々參詣などなるべき事にあらねど、しかじかの事ありしと、語りけると也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:ポルター・ガイストから死の直前の幽体離脱と、いずれも享和二年の都市伝説で連関する。実は「耳嚢」では珍しい本格怪談連発でもある。――ただ、生霊の実体となってまで閻魔に参っておりながら、――その実、その日に亡くなったというのなら、これ、婦人科・産科医として名を馳せたという先代齊叔なる医師のやっていたことも、案外、怪しげな裏でもあったものか? と勘繰りたくはなりませぬか?――いや――そんなことはどうでも私には、いいんだ。――ここはロケーションがいいのだよ……

 

・「小日向水道端」文京区の旧小日向水道端一丁目及び小日向水道端二丁目(現在の水道及び小日向)。底本の鈴木氏注に『明治期に水道管を地中に埋没するまでは、地上を流れていた。目白崖下の大洗堰で揚水された常水が水戸邸に向かって東南へ流れていた。その水道の右岸に沿った地域で、反対側は寺院が多かった』とある。近代の水道埋設後の地図であるが、「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」内の明治一六(一八八三)年参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」(現所蔵番号:YG/1/GC67/To 002275675)で、

 

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-15.html

 

地図の西にある「金剛寺」から南へ下る道の中央を点線が走り、それが坂下の「砲兵工廠」(旧水戸藩邸・現在の後楽園)の南端で実線下して橋脚が掛かっているのが見える。これが「水道」の名残である。齊叔の家は恐らくは、この「金剛寺」は前旧水道両側直近で、水道に沿った地図の東外六〇〇メートル上流程、現在の有楽町線江戸川橋駅辺りまでが同定地となると考えられる。……なお――この地図の――中央やや南の「小石川中富坂町」をご覧頂きたい。……この丘陵の住宅地こそ――後の「こゝろ」の、あの若き日の「先生」のいた家があった場所である。……既に心 先生の遺書(五十五)~(百十) 附やぶちゃんの摑みの「八十七」で詳細な考証をしたが、具体に言えばこの「小石川中富坂町」の「中」の字の位置に――あの下宿家は「在った」と考えている……

 

・「同月十六日」正月十六日は初閻魔、閻魔王の賽日(さいにち:地獄で閻魔大王が亡者を責め苛むことをやめる日)とされるようになり、縁日となった。この日は小正月の翌日で、七月十六日の盆と並ぶ奉公人も仕事を休んで実家に帰れる藪入りとなった。

 

・「近隣の寺へまふで閻王を拜すべし」岩波版長谷川氏注には、この近くの閻魔を祀る寺として『日輪寺(曹洞宗)・還(げん)国寺(浄土宗)』を挙げおられる。この内、日輪寺は同じ水道端(文京区小日向一丁目)でまさに現在の水道端図書館の道(水道)を隔てた真向いにある。また還国寺も小日向二丁目で、本話柄からはどちらも数百メートル圏内に収まってしまい、寧ろ齊叔の家に直近に過ぎる気がする(但し、本文は確かに「近隣」と言っており、特に現在でも後者の閻魔像はかなり有名である)。が、私はどうしても、東京都文京区小石川二丁目にある、浄土宗源覚寺(グーグル・マップ・データ)を同定候補として掲げたいのである。先の地図で、「小石川中富坂町」の「小」の字の東に「善雄寺」というのがあるが、その北位置に「源覚寺」の文字が見えよう。ここである。ここなら一キロメートル圏内で、齊叔の妻子が、敢えて「駕にても」(前の二寺なら私は無理して息子が背負ってでも行けそうな気がするのである)と述べた、感じが出る。ここの閻魔像は片目が濁った独特のもので、「こんにゃく閻魔」として江戸でも知られた閻魔を祀る寺である。……はい……おっしゃる通り……私がこれを候補にせずんばあらずなのは……「こゝろ」の「先生遺書」の、かの先生がKと御嬢さんの二人連れに出逢ってしまう、あの章の冒頭に登場するからで御座る……。

 

「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を拔けて細い坂路を上つて宅へ歸りました。Kの室は空虚(がらんど)うでしたけれども、火鉢には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。(以下略)

 

・「御賄方」江戸城内の台所への食材や食器の手配を管理する賄頭(まかないがしら)の属官。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 意念の幽魂の実体と化した奇談の事 

 

 小日向水道端に、婦人の療治や出産の取り扱いの名人と専らの噂なる、山田齊叔(せいしゅく)と申す医師――もう三代に亙ってかの場所に住んでおる由なるが――享和二年正月のこと、先代の齊叔、長が患いにて、起居きもなり難きほどとなって御座ったれど、その月の十六日のこと、譫言(うわごと)めいて、

 

「……少々快ければ……近隣の寺へ詣でて……閻魔さまを……拝まんとぞ……思う……」

 

なんどと申す故、妻や子なる者、

 

「……かかる大病にては、駕籠にても、これ、詣でなさることは難しゅう御座る……」

 

なんどと諭し賺(すか)して御座ったが――とうとう、その日の夕刻――身罷ったる由。

 

 ところが……

 

 程近き所に住んで御座った――この者、御賄方(おんまかないがた)を勤め、かねてより、この故(こ)齊叔とは懇意にして御座った――者が、子供を連れ、初閻魔へ詣でたところが、途中にて齊叔に行き逢うて、久々に逢(お)うたによって、挨拶がてら、齊叔の病気の具合なんども訊ね、そのまま立わかれて御座った――と。

 

 日數も過ぎて、齊叔死去の報を聞き、弔問致いて御座った折り、かの者、故齊叔が妻子に、

 

「……実は、その、亡くなられた正月六日のことじゃが……我ら、閣魔参詣の砌り、確かに齊叔殿に行き逢(お)うて、お話まで致いたのじゃが……」

 

と訊ねたところが、妻子は、

 

「……なかなか参詣など出来ようさまにはありませなんだし、一日、臥所(ふしど)にあったまま、息を引き取りまして御座った……が……なれど……たしか……そういえば……その日、未だ少し意識のある時分、『……少々快ければ……近隣の寺へ詣でて……閻魔さまを……拝まんとぞ……思う……』……と……譫言のように呟いておりましたが……」

 

と、語ったとのことで御座る。

 

2013/01/03

北條九代記 勝木七郎生捕らる付畠山重忠廉讓 (これ、僕は結構、面白いと思うんだけどな……厳密には「吾妻鏡」の元がね……)

      ○勝木七郎生捕らる付畠山重忠廉讓

同二年二月賴家卿御所侍(さぶらひ)に出給ひ、波多野三郎盛通に仰せて、「勝木(かつきの)七郎則宗(のりむね)を生捕りて參らすべし。是は近仕の侍なりといへども、景時に同意の由、確(たしか)に申すに依てなり」盛道即ち後(うしろ)に廻りて、勝木を懷きて、押伏(おしふ)せんとす。則宗は相撲(すまふ)の達者なり。筋力人に越えたりければ、右の手を振(ふり)放ち、腰刀(こしがたな)を拔きて、盛通を刺さんとす。畠山重忠折節傍(そば)にありて、居ながら腕(かひな)を差延(さしの)べて、則宗が拳(こぶし)を刀と共に握加(にぎりくは)へ、その腕を折敷(をりし)きければ、左右なく捕られたり。和田義盛に預けて子細を問(とは)せらる。勝木則宗申しけるは、「梶原景時鎭西を管領(くわんりやう)すべきの由宣旨を請ひ申す、急ぎ京都に上洛すべしと九州の一族共(ども)に觸(ふれ)遣す。某(それがし)契約の趣(おもむき)ある故に、狀を認(したゝ)めて九國の輩に送り候。この外には何の知りたる事も候はず」と申す。先(まづ)義盛に仰せて戒(いましめ)置かれ、波多野三郎盛通が則宗を生捕りたる勸賞(けんじやう)の沙汰あり。廣元、行光是を奉行す。眞壁糺内(まかべのきうない)と云ふ者、盛通に宿意やありけん進み出でて、「勝木を生捕しは盛通が高名にあらず、畠山重忠の手柄なり」とぞ妨げ申しける。賴家卿聞(きこし)召され、「然らば眞壁と畠山を石の壼に召して決判すべし」とて兩人をぞ召されける。重忠申されけるやう、「その事更に存知せず。盛通の手柄なりと承り及ぶ所なり」とて御前を罷(まかり)立ちて、侍所に歸り來り、眞壁に向ひて申されけるは、「斯様(かやう)の讒(さかしら)は、人に付け世に付けて、尤も益なき事なり。凡(およそ)弓箭(きうせん)に携はる習(ならひ)は僞(いつはり)なく私(わたくし)を忘るを以て本意とす、若(もし)夫(それ)勳功の賞に募(つの)らんと思はば、直(ぢき)に則宗を生捕たる由を申さるべし。何ぞ重忠を指し申されんや。彼の盛通は譜代の勇士なり。敢て重忠が力を借り申されんや」と有りければ、眞壁深く信伏(しんぶく)し、面目なくぞ覺えたる。重忠の廉譲(れんじやう)誠に武士(ものゝふ)の道を守る。是を仁義の侍とは名付けたりと聞く人感じ思ひけり。小山(をやまの)左衞門尉が舎弟五郎宗政は、年來當家の武勇、獨(ひとり)宗政にあるの由自讃荒涼の振舞を致しながら、此度景時が権威に恐れて、諸將連署の判形を加へざる事は、武名を落して恥を忘れたり。向後定(さだめ)て手柄の腕立(うでだて)は一言(ごん)を吐出すとも聞入る人もあるべからず。重忠の心ざしには遙(はるか)に替り侍ると各(おのおの)互(たがひ)に沙汰しけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年二月二日及び六日に基づく。なお、直接話法を自然にするために、訓読を一般の読みとは変えてある。

〇原文

二日戊午。陰。南風烈。申剋甚雨。雷鳴二聲。今日出御々所侍。仰波多野三郎盛通。被生虜勝木七郎則宗。依爲景時餘黨也。是多年奉昵近羽林之侍也。相撲達者。筋力越人之壯士也。盛通進出則宗之後懷之。則宗振拔右手。拔腰刀。欲突盛通之處。畠山次郎重忠折節在傍。雖不動坐。捧左手。取加則宗之擧於刀腕不放之。其腕早折畢。仍魂惘然而輙被虜也。即給則宗於義盛。義盛於御厩侍問子細。則宗申云。景時可管領鎭西之由。有可賜 宣旨事。早可來會于京都之旨。可觸遣九州之一族云々。契約之趣不等閑之間。送狀於九國輩畢。但不知其實之由申之。義盛披露此趣之處。暫可預置之由。所被仰也。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日戊午。陰る。南風烈し。申の剋、甚だ雨ふる。 雷鳴二聲。今日、御所の侍に出御。波多野三郎盛通に仰せて、勝木七郎則宗を生け虜(と)らる。景時の餘黨たるに依つてなり。是て、多年、羽林に昵近(じつきん)し奉るの侍なり。相撲の達者、筋力、人に越ゆるの壯士なり。盛通、進み出で則宗の後から之を懷(いだ)く。則宗、右手を振り拔き、腰刀を拔き、盛通を突かんと欲するの處、畠山次郎重忠、折節、傍らに在り、坐を動かずと雖も、左手を捧げ、則宗が擧刀(にぎりがたな)を腕(かひな)に取り加(そ)へ之を放たず、其の腕早くも折り畢んぬ。仍つて、魂、惘然(ばうぜん)として輙(たやす)く虜(いけど)らるなり。即ち、則宗を義盛に給ふ。義盛、御厩侍(おんうまやざむらひ)に於いて子細を問ふ。則宗、申して云はく、

「景時、鎭西を管領すべきの由、宣旨を賜はるべき事有り。早く京都に來會すべきの旨、九州の一族に觸れ遣はすべし。」と云々。

「契約の趣き、等閑(なほざり)ならざるの間、九國の輩に狀を送り畢んぬ。但し、其の實を知らず。」

との由、之を申す。義盛、此の趣きを披露するの處、

「暫く預け置くべし。」

との由、仰せらるる所なり。

・「勝木七郎則宗」彼はここで許され出身地であった筑前国御牧(みまき)郡(現在の遠賀郡)に帰国、後に鳥羽院の西面の侍となったが、承久の乱で京方に加わったために所領を没収、一族は離散した(角川書店「日本地名大辞典」に拠る)。

・「則宗、右手を振り拔き、腰刀を拔き、盛通を突かんと欲するの處、畠山次郎重忠、折節、傍らに在り、坐を動かずと雖も、左手を捧げ、則宗が擧刀を腕に取り加へ之を放たず、其の腕早くも折り畢んぬ」則宗は盛通が背後から抱えている状態から、自身の右手を上方へ力任せに引き抜くと矢庭に、帯刀した小刀(さすが)を抜刀、(恐らくは自身の左手から)押さえつけている背後の盛通を刺そうとしたその時、畠山次郎重忠が丁度、則宗の右隣に着座していたが、彼は座ったそのままですっと左手を伸ばすと、則宗の刀を握った手をその左腕で巻き込んで離さず、しかも、間髪を入れず、則宗の右腕をへし折った、のである。臨場感のある描写と、「坂東武士の鑑」と讃えられた重忠の沈着と、かの鵯越えの逆落としで馬を背負った無双の腕力が味わえる名場面である。筆者の、ここを採用した思いが私には、よく分かる。

 

次は、なかなか絶妙に面白い各人の発言である。

〇原文

二月大六日壬戌。晴陰。雪飛風烈。今日。則宗罪名幷盛通賞事。有其沙汰。廣元朝臣。善信。宣衡。行光等奉行之。爰有眞壁紀内云者。於盛通成阿黨之思。生虜則宗事。更非盛通高名。重忠虜之由憤申之。仍於石御壺。被召决重忠与眞壁之處。重忠申云。不知其事。盛通一人所爲之由。承及許也云々。其後。重忠歸來于侍。對眞壁云。如此讒言。尤無益事也。携弓箭之習。以無横心爲本意。然而客爲懸意於勳功之賞。成阿黨於盛通者。直生虜則宗之由。可被申之歟。何差申重忠哉。且盛通爲譜第勇士。敢不可借重忠之力。已申黷譜第武名之條。不當至極也云々。内舎人頗赧面。不及出詞。聞之者感嘆重忠。其後。小山左衞門尉。和田左衞門尉。畠山次郎已下輩群集侍所。雜談移剋。澁谷次郎云。景時引近邊橋。暫可相支之處。無左右逐電。於途中逢誅戮。違兼日自稱云々。重忠云。縡起楚忽。不可有鑿樋引橋之計難治歟云々。安藤右馬大夫右宗〔生虜高雄文學者也。〕聞之云。畠山殿者。只大名許也。引橋搆城郭事。不被存知歟。壞懸近隣小屋於橋上。放火燒落。不可有子細云々。亦小山左衞門尉云。弟五郎宗政者。年來當家武勇。獨在宗政之由自讃。而怖今度景時之威權。不加判形於訴状。墜其名條。可耻之。向後莫發言云々。宗政雖爲荒言惡口之者。不能返答云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日壬戌。晴れ、陰る。雪、飛び、風、烈し。今日、則宗が罪名幷びに盛通が賞の事、其の沙汰有り。廣元朝臣・善信・宣衡・行光等、之を奉行す。爰に眞壁紀内(まかべのきない)と云ふ者有り。盛通に於いて阿黨の思ひを成し、

「則宗を生け虜る事、更に盛通の高名に非ず。重忠、虜る。」

の由、之を憤り申す。仍つて石の御壺に於いて、重忠と眞壁を召し、决せらるるの處、重忠、申して云はく、

「其の事を知らず。盛通一人の所爲の由、承り及ぶ許(ばか)りなり。」

と云々。

其の後、重忠、侍に歸り來たり、眞壁に對して云はく、

「此くのごとき讒言、尤も無益の事なり。弓箭(きうせん)の習ひに携り、横心(わうしん)無きを以つて本意と爲す。然れども、客、意(こころ)を勳功の賞に懸けんが爲、阿黨を盛通に成せば、直(ぢき)に則宗を生け虜るの由、之を申さるべきか。何ぞ重忠を差し申さんや。且つは盛通、譜第(ふだい)の勇士たり。敢へて重忠の力を借るべからず。已に譜第の武名を申し黷(けが)すの條、不當の至極なり。」

と云々。

内舎人(うどねり)、頗る面(おもて)を赧(あか)らめ、詞を出すに及ばず。之を聞く者、重忠を感嘆す。其の後、小山左衞門尉・和田左衞門尉・畠山次郎已下の輩、侍所に群集(ぐんじゆ)し、雜談、剋を移す。澁谷次郎云はく、

「景時、近邊の橋を引き、暫く相ひ支(ささ)ふべきの處、左右(さう)無く逐電し、途中に於いて誅戮(ちうりく)に逢ふ。兼日の自稱に違へり。」と云々。

重忠云はく、

「縡(こと)、楚忽(そこつ)に起こり、樋(ひ)を鑿(うが)ち、橋を引くの計(けい)、有るべからず。難治か。」と云々。

安藤右馬大夫右宗(みぎむね)〔高雄の文學を生け虜る者なり。〕、之を聞きて云はく、

「畠山殿は、只だ大名許りなり。橋を引き、城郭を搆ふる事は、存知せられざるか。近隣の小屋を橋の上に壞(こぼ)ち懸け、火を放ち燒き落すこと、子細有るべからず。」

と云々。

亦、小山左衞門尉云はく、

「弟五郎宗政は、年來(としころ)、當家の武勇、獨り宗政に在るの由、自讃す。而るに今度(このたび)景時の威權を怖れ、判形(はんぎやう)を訴状に加へず、其の名を墜(おと)すの條、之を耻づべし。向後、發言すること莫かれ。」

と云々。

宗政、荒言惡口の者たりと雖も、返答に能はずと云々。

・「眞壁紀内」真壁秀幹。「内」は後に出る官職「内舎人(うどねり)」の略。

・「阿黨の思ひ」個人的な怨恨や復讐の感情。

・「横心」邪まなる心。不当な意図。

・「然れども、客、意を勳功の賞に懸けんが爲、阿黨を盛通に成せば、直に則宗を生け虜るの由、之を申さるべきか。何ぞ重忠を差し申さんや。且つは盛通、譜第の勇士たり。敢へて重忠の力を借るべからず。已に譜第の武名を申し黷(けが)すの條、不當の至極なり。」いい台詞である。以下に訳す。

・「然しながら、貴殿は(真壁を指す)――勲功の褒賞ばかりが頭にあり――いや! 違う! 盛通をただ恨んでいるがためだけじゃ……そのために、かような下らぬ謂いを成したので御座ろうが。しかし、ここは、やはり、彼、盛通一人が直(じか)に則宗を生け捕った、と申すが正しきことで御座ろう! どうして、この重忠をわざわざ申し出だす必要が、これ、御座ろうか! しかも盛通は先祖代々の勇士である! 敢えて、この老体の重忠なんどの力を借りる必要、これ、御座ろうや! かくも彼の、先祖代々の、その武名の誉れを、これ、ちゃちゃを入れて穢すの条、甚だ以って不当の極みである!

・「景時、近邊の橋を引き、暫く相ひ支ふべきの處、左右無く逐電し、途中に於いて誅戮に逢ふ。兼日の自稱に違へり。」……そもそもが景時、自身の館にて、近々の橋を皆、悉く引き落として立て籠り、暫くの間、持ち堪えるという戦術をとるがよいに、そうしたことを全くせず、京へ向けて遁走し、途中に於いてかくもむざむざと殺戮さるるに逢う。これは、いつものあの男の、石橋を叩いて渡るに若かずと自身が申しておった、かの用心深さとは大分、違(ちご)うておりますのう。――

・「縡、楚忽に起こり、樋を鑿ち、橋を引くの計、有るべからず。難治か。」……いや、ことは急に勃発したによって、樋を掘って水を引いたり、橋を引いて進路を断つといった計略を致す暇(いとま)も、これ、無かったに違いない。」なかなかにそうしたことは、これ、急に成すは、難しいことではないか?――

・「安藤右馬大夫右宗」信濃国出身。謂いからは、地方での実戦経験が豊富なようである。

・「畠山殿は、只だ大名許りなり。橋を引き、城郭を搆ふる事は、存知せられざるか。近隣の小屋を橋の上に壞ち懸け、火を放ち燒き落すこと、子細有るべからず。」……失礼ながら、(平家に永く仕えておられた)畠山殿は、その筋の大々名でおられる故、野戦の実戦に於いて周辺の橋を引き崩し、城砦の防備を構えるといった仕儀については、これ、御存知でないようで御座る、の。近隣の住民の家屋を壊し、橋の上に崩し掛け、火を放って一緒に焼き落とせば、これ、実に造作ないことにて、御座るて。――]

父からの年賀状

Titi2013

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 地蔵坂/小袋坂/聖天坂

 

   地 藏 坂

 

 建長寺ヲ出、南行シテ路傍ニ伽羅陀山ノ地藏堂アル所ヲ云。

 

[やぶちゃん注:これは当時既に廃寺となっていた伽羅陀山心平寺の地蔵堂である。「鎌倉廃寺事典」によれば、建長寺は元処刑場であったが、そこに元あった禅宗寺院が心平寺えあったとする。『建長寺創建の際、当心平寺の地蔵堂だけが残っていたのを、小袋坂上に移建したという』とする。新編鎌倉志三」の建長寺の図の右下に「伽羅陀山地藏」と記す一堂が描かれてある。『この堂は小袋坂新道開通前まであって、いまは横浜三溪園に移されている。その本尊地蔵菩薩坐像は建長寺仏殿内に安置してある』とある。] 

 

   小袋坂〔或ハ作巨福呂〕

 

 建長寺ノ南、地藏坂ヨリ南ノ切通ヲ云。延應二年〔月付落ル〕十九日、山ノ内ヲ切通シ、往還ノ通路ヲ作ル。賴經將軍ノ治世、泰時ノ執權ノ時ナリト云。山ノ内トハ小袋坂ヨリ北ノ出崎マデノ總名ナリ。

 

[やぶちゃん注:新編鎌倉志三」の「山内」の条に『里人は、東は建長寺、西は圓覺寺の西野の道端、川邊に榎木あるを境として、それより東を山内と云ひ、西を市場村・巨福路谷(こふくろがや)と云』とある。この時期には既に現在の狭義の「山ノ内」と同領域にこの地名が限定されていたことが分かる。]

 

   聖 天 坂

 

 小袋坂ノ出崎ノ西南ノ高キ所ニ、昔聖天ノ宮アリシ故ニ、今モ其所ヲカク云トナン。遂ニ雪ノ下へ出テ旅寓へ歸リヌ。明日ハ早武江へ行ントスルニ、名越口見殘シツレバ、老臣等ヲ遣シテ是ヲ見セシム。

 

[やぶちゃん注:見残して去ってしまう部分を、ちゃんと家臣に命じて見聞させているところ、流石、黄門さま、面目躍如たる感がある。]

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 二 形の僞り~(3)


Arigumo
[「蟻 ぐ も」

   右側の葉の上部に

   居るのは「蟻」に

   似た「くも」。

   下部に居るのは眞

   の「蟻」]

 

「 くも」の類にも巧に他物を眞似て餌を捕へるものが幾つもある。庭園の樹の葉の上には往往頗る蟻に似た「くも」が走り歩いて居るが、これは「蟻ぐも」と名づけて常に蟻を捕へて食ふ種類である。一體ならば蟻には足が六本あり「くも」には足が八本あつて、身體の形狀も大いに違ふ筈であるが、「蟻ぐも」では胴の形も色も全く蟻の通りであるのみならず、一番前の足は蟻の觸角のやうに前へ差出して恰も物を探る如くに動かし、殘りの六本の足で匍ひ廻るから、擧動が如何にも蟻らしく見える。これはアフリカの土人が砂漠で「だてう」を捕へんとするに當つて、まづ「だてう」の皮を被り、その擧動を眞似て驚かさぬやうに「だてう」に近づき、急に矢を放つてこれを殺すのと同じ趣向で、頗る巧妙な詐欺である。また草原には往々綠色で細長い「くも」が居るが、これは四本の足を前へ、四本の足を後へ、一直線に揃へて延すと、全身が細長い緑色の棒の如くになつて、篠などの若芽と殆ど區別が出來ぬ。かやうに「くも」類には種種他物を眞似るものがあるが、その中でも一番振つて居るのは、恐らく鳥の糞に似た種類であらう。これに就いては熱帶地方を旅行した博物學者の面白い報告が幾らもある。ある一人は終日大形の蝶を捕へようと搜し廻つた末、樹の葉の上に鳥の糞に一疋止まつて居るのを見附け、大喜びで拔足差足これに近づいたところが、蝶は一向逃げる樣子もないので、靜に指でこれを捕へた。しかるに蝶の胴は半分に切れて、一方は鳥の糞に附著したまゝで離れなかつたから、不思議に思つて指で觸れて見た所が、今まで鳥の糞であると思つたものは、實は一疋の「くも」であつて、背を下にし、腹側を上に向け、足を縮めて居たのである。新に落ちた鳥の糞は、中央の部は厚くて純白と黑色との交つた斑紋があり、周邊の部は少しく流れて薄い半透明の層が出來るが、この「くも」は絲をもって木の葉の表面に適宜の大きさの薄い層を造り、その中央に背を下にして滑らぬやうに足の鉤で身を支へながら、終日靜止して蝶の來り近づくのを待つて居る。かやうな計略があらうとは夢にも知らぬから、蝶はいつもの通り鳥の糞と思つて「くも」の上に止まり、忽ち捕へられ血を吸はれるのである。

[やぶちゃん注:「一體ならば」は「一体」を副詞的に用いた表現で、概して、の意。

「蟻ぐも」節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目ハエトリグモ科アリグモ属 Myrmarachne のクモの総称。この擬態についてはその後、隠蔽的擬態(ベイツ型擬態)説へと修正が加えられている。以下、ウィキアリグモによれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、確かに『アリに非常によく似た姿と大きさをしている。全身ほぼ黒で、若干の模様が腹部にある場合がある』。『頭胸部はハエトリグモ類としては細長く、頭部は丸く盛り上がり、胸部との間にわずかにくびれがある。腹部は円筒形で、後方に狭まるが、前方は丸く、少し後方が多少くびれる。歩脚はハエトリグモとしては細く、長さもそこそこ。第一脚はいつも持ち上げて構える』。『頭部と胸部が分かれて見えること、腹部にも節があるように見えることから、その姿は非常にアリに似ていて、生きて歩いている場合にはよく見なければ区別できない。また、場合によっては腹部に矢筈状の斑紋があるが、これも腹部の節を強調するように見え、違和感がない』とある。『あまりにアリに似ていることから、擬態しているものと考えられる。擬態の目的として、「アリを捕食するため」の攻撃的擬態という説と「アリに似せることで外敵から身を守るため」という隠蔽的擬態(ベイツ型擬態)であるとの説があった』が、本書の記載のように『当初は「アリを捕食するため」という説が主流であった。つまり、アリの姿をしていると、アリが仲間と間違えて寄ってくるので、これを捕食するのだというのである。これはかなり広く普及していた考えのようで、日本のごく初期のクモ類の文献の一つである湯原清次の「蜘蛛の研究」(一九三一)にも、このことが記されており、さらに、「あるものは巣穴に入り込んで幼虫や蛹を担ぎ出す」というとも聞いている旨が記されている』。『しかし、その後次第にこの見解は揺らぐこととなる。一九七〇年代頃の関連書籍では、上記のような観察について、その確実な実例がほとんどないこと、また、実際に観察すると、アリの群れのそばでアリグモを見ることは多いものの、アリグモがアリを捕食することは観察されず、むしろ避けるような行動が見られることなどが述べられている。一九九〇年代には、攻撃的なアリ(アリはハチの仲間であり、基本的には肉食の強い昆虫であり、外敵に対し噛み付いたり、蟻酸を掛けたりする攻撃をする)に似せて外敵を避けるための擬態であるといわれるようになった。さらにはアリグモがアリを捕食した観察結果は皆無であるとの記述も見られるが、これはまたあらためて確認の必要があるであろう』。実際に『アリを捕食するクモとして、同じハエトリグモ科のアオオビハエトリがいる』が、『こちらも第一肢を持ち上げ、触角のように見え』、捕食のための擬態をしているようにも見えるからである。この属名“Myrmarachne”(ミルマラクネ)自体が、ギリシア語のアリを意味する“myrmos”+クモの意の“arachne”なのである。

「だてう」鳥綱ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ Struthio camelus。属名“Struthio”(ストルティオ)はラテン語でダチョウの意、種小名“camelus”(カメルス)はラクダの意で、ラクダのようなダチョウという鳥――そもそも駱「駝鳥」――激しく目から鱗!

『綠色で細長い「くも」』ヒメグモ科オナガグモ Ariamnes cylindrogaster を指している。ウィキオナガグモ」によれば、『丸っこくふくらんだ腹部に細長い脚、というのが普通のヒメグモ科の中で、一見かけ離れた姿のクモである。腹部は後方へ細長く伸び、ほとんど一本の棒のようになっているが、これはヤリグモなどのような腹部後方背面の突出部が極端に伸びたことによる』。習性も変わっており、『網らしい網は張らず、枝先の間に数本の糸を引いただけ、というものである。これが他種のクモをもっぱら襲っていることが知られるようになったのは』、実は二〇世紀も末のことである。体長は♀で三〇ミリメートル『近いものもあり、これはオニグモやコガネグモに近く、長さだけなら日本では大型の部類にはいる。ただし幅は狭いので、そういう印象はない。体色には二型があり、緑色のものと褐色のものがあるが、どちらの場合も全身がほぼ同じ色で斑紋は見られない』。♂は体長二五ミリメートル『までと一回り小さいが、それ以外にはさほど違いが見られない』。『頭胸部は幅に見合った長さなので、小さく見える。形の上ではやや円筒形に近い。歩脚は、第一脚と第四脚が同じくらい長く、後者は腹部の後端近くに届』き、『腹部は頭胸部とほぼ同じ幅で、後ろに長く伸び、先端は次第に細まる。この腹部はくねるように変形させることが出来る』。『木立の枝先の間に数本の糸を引いただけの網を張り、それに止まっているのが見かけられる。静止しているときは前二脚を前方に真っ直ぐ伸ばし、後ろ二脚を腹部に添え、腹部を後方に真っ直ぐに伸ばしており、この状態では全身がほぼ一直線の細い棒状である。刺激を受けると歩脚を曲げて移動し始め、その際には腹部は背面側、実際には下側にやや弓なりに曲げる形となることが多い』。『獲物とするのは他種のクモである。クモが糸を伝ってやってくると、後肢で粘球のある糸を投げかけるようにして絡め取り、噛みついて殺すことが観察されている』。以下、擬態について、『このクモは静止時には細長い針状の形であり、全くクモに見えない。その形については、松葉に擬態していると言われることがある。これは確かにそう見えるが、空中に松葉の姿でいる必然性はないであろう。もちろん、松葉がクモの網にかかっていても不思議はないが。ただし、特に松林に多いわけではなく、松葉でなければならない必然性はない』(この辺りの叙述、拘りがあって私好みである)。『しかし、とにかくクモに見えないのは確かで、その意味では擬態は完全と言ってよいレベルである。面白い形のクモであるから、観察会などで紹介する機会が多いが、近づいて指先で示しても一般の人間は気づかないことが多く、クモだと言ってもまず納得してくれない。実際にふれて動き出して初めてわかってもらえるのが常である』とその空遁の術を美事に解説されておられる(ウィキにしては珍しく筆者の風貌が見えてくる筆致である)。属名“Ariamnes”はアリアドネーの糸の“Ariadne”由来か? 種小名“cylindrogaster”は“cylindrus”(シリンダ―・円筒)+“gaster”(腹)である。

「鳥の糞に似た」「くも」コガネグモ科トリノフンダマシ(鳥の糞騙し)属 Cyrtarachne。これも擬態については攻撃型擬態は現在否定されているので、ウィキトリノフンダマシ類から引用したい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。因みに以下に見るように本邦にも同類は棲息する。『熱帯系のクモの仲間であり、日本ではトリノフンダマシ属が約五種、近縁のサカグチトリノフンダマシ属が三種類知られている。いずれも興味深い姿をしている』。『最も普通に見られるのは、トリノフンダマシである。本州中部以南に分布し、それほど珍しい種ではないが、一般には目にすることはほとんどない。 雌は体長が一センチメートル程度、腹部はハート形で、白っぽい。ハートのくぼんだ部分の下側に頭胸部がつながる。頭胸部と歩脚は薄い褐色で、足を折り曲げて、頭胸部に添えると、背面からは腹部に隠れて見えにくくなる。昼間に観察すれば、低木や草の葉の裏面に、足を縮めた姿でじっとしているのが見つかる』。『腹部はほぼ白色で、両肩に当たる部分が軽く盛り上がる。その部分に白と灰色のまだらがある。腹部の表面は非常につやがあり、一見するとまるで濡れて光っているかのように見える。特に白と灰色のまだらの部分は、尿酸が流れたようになった鳥の糞にも見える。これが鳥の糞騙しの名の由来である』。『他の種では、オオトリノフンダマシとシロオビトリノフンダマシが鳥の糞に似ている。オオトリノフンダマシはトリノフンダマシによく似ており、腹部がやや黄色みを帯びることと、腹部の形等が異なる。シロオビトリノフンダマシは横に長い楕円形の腹部で、中央に白い帯、その後部に黄褐色の部分がある。いずれもつやがあって、濡れた糞に見える』。『それ以外の種は、糞には見えない。クロトリノフンダマシは真っ黒で、糞から出た種子に見えると言う人もいる。腹部後方が赤くなる個体があり、かつてはソメワケトリノフンダマシと呼ばれた。アカイロトリノフンダマシは、真っ赤な腹部に白い水玉模様が並び、腹部の横両端に黒い斑点が一つずつ出る』。『近縁のものに、サカグチトリノフンダマシ属があり、国内に三種が知られている。サカグチトリノフンダマシは、丸い腹部が黄色で、白い水玉模様がある。ツシマトリノフンダマシは赤に黒の水玉模様である』。以下、「外見の意味」から。『鳥の糞に似た外見は、一齢のチョウの幼虫等に多く見られるのと同じく隠蔽型擬態であると考えられる。鳥の糞を好んで食べるクモの捕食者はいないからである』。『これに対し、攻撃型擬態とする説もあった。チョウやハエなどには、糞の汁を吸うために鳥の糞に近寄ってくるものがある。鳥の糞に似た外見を持つことによって、そのような習性を持つ昆虫をおびきよせて捕まえている、と考えられたのである』。『後で述べるように、トリノフンダマシは夜行性で、夜に網を張ることが判明したので、攻撃型擬態との判断は、現在では考えられて』おらず、この説には元々『疑問が多かった。まず、トリノフンダマシは葉の裏面に止まっていることが多い。これでは糞に擬態した意味がない。また、コガネグモ科は普通は網を張って餌をとる仲間であるので、そのような匍匐性のクモのような餌の取り方をするのも妙である(そのような例がない訳ではないが)』という点であった(後にトリノフンダマシ類が実は夜行性で夜になると網を張ることが分かったのは一九五〇年代のことであった。丘先生は知る由もなかった訳である)一方でベイツ型擬態説が大きく浮上してきた。『特にオオトリノフンダマシの腹部には、カマキリの頭部の複眼、触角の基部、顎に似た模様がある。生態的な意義は証明されていないが、クモを捕らえる小型のハチをカマキリが捕食する事は事実で』、『アカイロトリノフンダマシやサカグチトリノフンダマシについては、テントウムシ類に擬態している可能性がある。テントウムシ類には、悪臭のある液を出すものがある上、派手な色は警戒色である可能性があるから、それに擬態するものがあって不思議はない』。一方で、実際に鳥の糞の姿で攻撃的擬態しているとされるクモが本邦にも棲息する。本州・四国・九州・南西諸島などに分布するも希少種であるカニグモ科ツケオグモ属カトウツケオグモPhrynarachne katoi『で、体はでこぼこで刺が生え、腹部もでこぼこだらけだが、つやがある。体色は黒っぽいオリーブ色で、あちこちに白い部分がある。草の葉の上面にとまっていると、鳥の糞に見えなくもない』とある。因みにトリノフンダマシの属名“Cyrtarachne”は、ギリシア語の“kyrtos”(曲った)+蜘蛛に変身させられた女神アラクネー“Arákhnē”の合成か。]

一言芳談 五十

   五十

 

 敬佛房云、後世の事は、たゞしづかに案ずるにあるなり。

 むかしの坂東(ばんどう)の人、京に長居しつれば、臆病になる也。これ後世者の才覺也。身しづかに心すむなどいふ事は、いさゝかなれども、名利をはなれてのうへの事也。然(しかる)を幽玄(いうげん)なる棲(すみか)にうそぶきたるばかりをもて、心のすむと執(しふ)するが故に、獨住(どくぢゆう)の人おほくは、僻事(ひがごと)にしなす也。

 

〇臆病になるなり、關東の者は大膽にて、命をかろく持つなり。京はしづかなるところにて、常住の思(おもひ)になりて、命が惜しくなるなり。その如く初心の人、庵室(あんじつ)にこもりては心のすむやうなれども、常住の念もわすれぬ内は、心のすむといふものにはあらず。

〇幽玄、しづかなる境。(句解)

 

[やぶちゃん注:これを一段落目を「用心」、二段落目を「三資 居服食」に分解しているⅠ、この湛澄の仕儀は、はっきり言ってとんでもなく無理な編集と言わざるを得ない。

「坂東」足柄峠と碓氷峠の坂から東の意。関東の古称。ここには台頭してきた武士階級、特に坂東の荒くれ武者のポジティヴなイメージが強く働いているように感じられる。

「棲」Ⅱ・Ⅲは「樓(ろう)」とするが、採らない。

「うそぶきたる」この場合、私は本来の「嘯(うそぶ)く」の意である詩歌を小声で吟じるの意で採り、幽邃(ゆうすい)な地に隠棲をやらかし、風流を気取って詩歌を嘯いているだけの体たらくの中で、の謂いと採る。大橋氏は恐らく「うそぶく」を、偉そうに大きなことを言う、豪語するの意で採られたものか、この前後を『それなのに幽玄な住居に住み、修行めいたおおげさなまねをするだけで、こころがおちつくと思い込んでいるために』と訳しておられるが、私にはこの訳は支持出来ない。

「僻事にしなす也」「僻事」は古くは「ひがこと」とも呼んだ。道理や事実に合わないこと、まちがっていることであるから、誤った理解をしているのだ、心得違いをしているのである、の意。

「常住の念もわすれぬ内は、心のすむといふものにはあらず。」言わずもがなであるが、この標註の中の「常住」は所謂、永遠不変なこと、変化しないで常に存在することという常住涅槃の謂いではない。文脈は――「常住の思」いに執着するようになって知らず知らずのうちに「命が惜しくなる」のである――その「念」を忘れないうちは「心」が真に澄むということはないのである――と言うのだから、この「常住」は逆に、文字通りの「いつもそこに住んでいること」「普段」「日常」の謂いである。]

耳囊 卷之六 奇石鳴動の事

 

 奇石鳴動の事 

 

 享和二年夏、或人きたりて語りけるは、此頃田村家の庭に石あり其あたりは人も立よらざる事と云々。其所謂(いはれ)を尋しに、往昔(わうせき)元錄の頃、淺野内匠頭營中狼籍の罪にて、田村家へ御預けとなり、右庭上にて切腹の跡へ、大石を置(おき)て印とせし由。其頃本家仙臺より、諸侯を庭上に切腹、其禮失へりと、暫(しばらく)勘發(かんほつ)ありし由。當年いかなる譯故、右石鳴動せしや、其意は不分(わからず)と。奇談故、爰にしるしぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に感じさせない。「大石」は洒落かい?

 

・「享和二年」西暦一八〇二年。本「卷之六」の執筆下限は文化元(一八〇四)年七月までであるから、凡そ二年前の新しい都市伝説である。

 

・「田村家」この当時は陸奥一関藩第六代藩主田村宗顕(むねあき 天明四(一七八四)年~文政一〇(一八二七)年)が当主。江戸藩邸は芝愛宕町(現在の港区新橋四丁目)にあった。同藩初代藩主田村建顕(たつあき 明暦二年(一六五六)年~宝永五(一七〇八)年)が奏者番であった元禄一四(一七〇一)年三月十三日に播磨赤穂藩主の浅野長矩が刃傷事件を起こした(巳の下刻・現在の午前十一時四十分頃)、が、この際、その日のうちに(不浄門平川口門を出たのは午後三時五十分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、より江戸城を出ると芝愛宕下(老中の土屋政直の命で長矩の身柄を芝のこの屋敷で預かり、大目付庄田安利の指示によって邸内の庭で翌三月十四日夕刻に切腹を務めさせた。この扱いをめぐって長矩の本家広島藩主浅野綱長及び建顕の本家仙台藩主伊達綱村(建顕は元禄八(一六九五)年に宮床伊達氏の当主伊達村房(後の伊達吉村)を養子に迎えるが、幕府に届け出る前に彼は当時の仙台藩主伊達綱村の養子に変更された)から抗議を受けている(因みに、この抗議や浅野びいきによって八月二十一日、大目付庄田安利は吉良上野介義央(よしひさ)に近い旗本達とともに勤務不行届として罷免され小普請入、その後も役職復帰出来ずに宝永二(一七〇五)年、失意のうちに享年五十六で死去している。以上はウィキのそれぞれの人物の記載を参照した)。本記載時は、既に事件から実に一〇一年が経過している。

 

・「勘發」「かんぼつ」とも読む。過失を責めること。譴責。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 奇石鳴動の事 

 

 享和二年夏、ある人が来たって語ったことには、この頃、田村宗顕(むねあき)殿御屋敷の庭にある石の辺りにては、誰(たれ)一人、立ち寄らざるとのこと、巷で頻りに噂となって御座る由。

 

 その謂われを尋ねたところが、去(いん)ぬる元禄の頃、淺野内匠頭殿、殿中狼籍の罪にて、田村家へ御預けとなり、その御庭にて切腹、その跡へ、大石を置き、かの印(しるし)と致いて御座った由。

 

 また、その頃、本家の仙台伊達綱村殿より、

 

「大名を庭上にてみすみす切腹させ畢(おわ)んぬること、これ、甚だ礼を失せり。」

 

と、暫くは強う、その仕儀への譴責の御座ったとも申す。

 

 さても、百年を過ぎたる当年、いかなる訳かは存ぜねど、かの印の石の、俄かに鳴動したるは、これ、その真意、不分明なり、との由で御座る。

 

 奇談なれば、ここに記しおくことと致す。

 

2013/01/02

彼と我 室生犀星

 

昨日を以って室生犀星の著作権が消滅した。



 
 
彼と我   室生犀星

 

我は何者かと我が有てるものを交換せり。

その者は長き髮を垂れ

暗夜とともに沒し行けり。

常に星のごとく明滅す。

我は彼より手渡されしものを擁き

雨戶の外の暗夜をうかがふ

雨戶のそとに大なる者立てり。

我は彼とともに或物を交換す。

死のごとく苦しきものを交換す。 

 



『創作時代』昭和3(1923)年3月発表。底本は2012年講談社発行の室生犀星「深夜の人・結婚者の手記」所収のものを用いたが、恣意的に正字化して示した。
この


死のごとく苦しき」「或物を交換」した「彼」とは――

 

「長き髮を垂れ/暗夜とともに沒し」た者、「雨戸の」「外の暗夜」に屹立する「大なる者」とは――

 

そして――「常に星のごとく明滅す」る「彼」とは――


言うまでもなく――芥川龍之介――である。

北條九代記 梶原平三景時滅亡

      ○梶原平三景時滅亡

同十二月九日梶原軍三景時潜(ひそか)に鎌倉に歸りし所に、日比連々(れんれん)御沙汰あり。和田義盛、三浦義村に奉行仰(おほせ)付けられ. 景時は鎌倉を追出されければ、力及ばず、相州一の宮に赴きけり。年來(としごろ)住(すみ)慣れし家をば破却して、永福寺の僧坊に寄附せらる。年こゝに改りて、正治二年正月二十日梶原景時京都を心ざし、子息、郎從三十餘人駿河國清見關(きよみがせき)に至る。近隣の甲乙人等的矢(まとや)射ける歸るさに、景時はしたなく行合(ゆきあひ)ける所に笠を傾(かたぶ)け、忍びて乘打(のりうち)しけり。芦原(あしはらの)小次郎、工藤八郎、三澤小次郎、飯田五郎頻(しきり)に追(おひ)掛けて、矢を射掛けたり。景時狐崎(きつねざき)にして返合(かへしあは)せ「何者なれば、梶原景時に向うて矢を發(はな)つぞ。緩怠(くわんたい)無禮の奴原(やつばら)、一々に頭(かうべ)を刎(は)ぬべし」といひければ、芦原申しけるは、「梶原にてもあれ、械原(かいはら)にてもあれ、この侍の中を割りて乘打し、而も忍びたる體裁(ていたらく)いかさま用ありと覺えたり。一人ものがすまじ」とて、互(たがひ)に刄(やいば)を交へて、相戰ふ所に、飯田四郎討たれたり。その聞に芦原小太郎強く進んで、梶原六郎景國、同八郎景則が首を取る。吉高(きつかうの)小次郎、澁河(しぶかはの)次郎、船越三郎、矢部小次郎等聞(きゝ)付けて、一族郎從殘らず引率して駆(はせ)付けれども、梶原方は爰を最後と轡(くつばみ)をならべ、鏃(やじり)を揃へて散々に防ぎ戰ふに、射伏せられ、切倒(きりたふ)さるま者多かりければ、芦原、工藤等(ら)開(ひらき)靡きて、辟易す。されども當國の御家人等(ら)聞(きゝ)傳へ聞(きゝ)傳へて競ひ集(あつま)りしかば、七郎景宗、九郎景連も工藤八郎に討(うち)取られ家子(いへのこ)郎等或は打(うち)取られ、或は深手負ひければ、景時、嫡子源太景季、二男平次(へいじ)景高三人連れて、後(うしろ)の山に引入て自害して、首級は郎等共木葉の下に埋(うづみ)置きしを、隈もなく捜出(さがしいだ)し、主從三十三人が首を路頭に梟(か)けて、札(ふだ)を立て、合戰の記録を鎌倉に注進す。その外餘黨多く、或は生捕(いけどり)或は討(うち)取る。洛中にも同意の者多く、景時九州に下り、平氏の餘類を語(かたら)ひ、天下を覆さんと計りし事その隱(かくれ)是(これ)なし。されども運命の極る所、一旦に亡(ほろび)果てたり。世にある時は飛龍(ひりやう)の雲を起して、大虛に蟠屈(ばんくつ)するが如く、諸人その咳唾(がいだ)を拾うて、※1睞(めんらい)の恩を望みしかども、權勢盡きて、威光消えぬれば、窮鳥の翅(つばさ)を※2(そが)れて、羅網(らまう)に榮纏(えいてん)せらるゝに似たり。甲乙彼(かの)積惡を憎みて、宿意の恨(うらみ)を報ぜんとす。此所(ここ)に至つて門族滅亡し、尸(かばね)を路徑(ろけい)に曝す事は自業(じがふ)の招く恥とはいひながら無慙(むざん)なりし事共なり。

[やぶちゃん注:「※1」=「耳」+「丐」、「※2」=「金」+「殺」。「吾妻鏡」巻十六の正治元(一一九九)年十二月九日・十八日、正治二年一月二十日・二十一日などに基づく。変の勃発から三日間を続けて見よう。

《景時上洛の噂/梶原一族、狐ヶ崎にて地元武士団と衝突》

〇原文

廿日丁未。晴。辰剋。原宗三郎進飛脚。申云。梶原平三郎景時。此間於當國一宮搆城郭。備防戰之儀。人以成恠之處。去夜丑剋。相伴子息等。倫遜出此所。是企謀反。有上洛聞云々。仍北條殿。兵庫頭。大夫属入道等參御所。有沙汰。爲追罸之。被遣三浦兵衞尉。比企兵衞尉。糟谷藤太兵衞尉。工藤小次郎已下軍兵也。亥剋。景時父子到駿河國淸見關。而其近隣甲乙人等爲射的群集。及退散之期。景時相逢途中。彼輩恠之。射懸箭。仍廬原小次郎。工藤八郎。三澤小次郎。飯田五郎追之。景時返合于狐崎。相戰之處。飯田四郎等二人被討取畢。又吉香小次郎。澁河次郎。船越三郎。矢部小次郎。馳加于廬原。吉香相逢于梶原三郎兵衞尉景茂。〔年卅四〕互令名謁攻戰。共以討死。其後。六郎景國。七郎景宗。八郎景則。九郎景連等並轡調鏃之間。挑戰難决勝負。然而漸當國御家人等竸集。遂誅彼兄弟四人。又景時幷嫡子源太左衞門尉景季。〔年卅九〕同弟平次左衞門尉景高。〔年卅六〕引後山相戰。而景時。景高。景則等雖貽死骸。不獲其首云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿日丁未。晴る。辰の剋、原宗三郎、飛脚を進じて、申して云はく、「梶原平三郎景時、此の間、當國一宮に於いて城郭を搆へ、防戰の儀に備ふ。人、以つて恠(あや)しみ成すの處、去ぬる夜、丑の剋、子息等を相ひ伴ひ、倫(ひそ)かに此の所を遜(のが)れ出づ。是れ、謀反を企て、上洛の聞え有り。」と云々。

仍つて北條殿・兵庫頭・大夫属入道等、御所へ參り、沙汰有り。之を追罸せんが爲に、三浦兵衞尉、比企兵衞尉、糟谷藤太兵衞尉、工藤小次郎已下の軍兵を遣はさるるなり。亥の剋、景時父子、駿河國淸見關(きよみがせき)に到る。而るに其の近隣の甲乙人等、射的が爲、群集(ぐんじゆ)す。退散の期(ご)に及び、景時、途中に相ひ逢ふ。彼の輩、之を恠しみ、箭(や)を射懸く。仍つて廬原小次郎・工藤八郎・三澤小次郎・飯田五郎、之を追ふ。景時、狐崎(きつねがさき)に返し合はせて、相ひ戰ふの處、飯田四郎等、二人討ち取られ畢んぬ。又、吉香(きつかう)小次郎・澁河次郎・船越三郎・矢部小次郎、廬原に馳せ加はり、吉香、梶原三郎兵衞尉景茂〔年卅四。〕に相ひ逢ふ。互ひに名謁(なの)らしめて攻戰す。共に以つて討死す。其の後、六郎景國・七郎景宗・八郎景則・九郎景連等、轡(くつばみ)を並べ鏃(やじり)を調(そろ)ふるの間、挑み戰ひ、勝負を决し難し。然れども、漸く當國の御家人等、竸(きそ)ひ集まり、遂に彼の兄弟四人を誅す。又、景時幷びに嫡子源太左衞門尉景季〔年卅九〕・同弟平次左衞門尉景高〔年卅六〕、後ろの山に引き相ひ戰ふ。而るに景時・景高・景則等。死骸を貽(のこ)すと雖も、其の首を獲(え)ずと云々。

・「原宗三郎」原宗房。以下、順に示す。「北條殿」北条時政。「兵庫頭」大江広元。「大夫属入道」三善善信。「三浦兵衞尉」三浦義村。「比企右衞門尉」比企能員。「糟谷藤太兵衞尉」糟谷有季。「工藤小二郎」工藤行光。

・「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津清見寺町。

・「飯田五郎」飯田家義。

・「狐崎」静岡県静岡市清水区に静岡鉄道「狐ケ崎駅」がある(グーグル・マップ・データ)。JR清水駅の西南西約三キロメートル(海岸線ではない)。

・「吉香小次郎」吉川友兼。

・「飯田四郎」別本では飯田次郎とする。 

《景時以下、梶原係累家臣三十三名梟首》

〇原文

廿一日戊申。巳剋。於山中搜出景時幷子息二人之首。凡伴類三十三人。懸頸於路頭云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日戊申。巳の剋、山中に於いて景時并びに子息二人の首を搜し出だす。凡そ伴の類三十三人、頸を路頭に懸くと云々。

 

《三浦義澄》

〇原文

廿三日庚戌。相摸介平朝臣義澄卒。〔年七十四〕三浦大介義明男。

酉剋。駿河國住人幷發遣軍士等參着。各献合戰記録。廣元朝臣於御前讀申之。其記云。

 正治二年正月廿日於駿河國。追罸景時父子同家子郎等事

一 廬原小次郎最前追責之。討取梶原六郎。同八郎

一 飯田五郎〔手ニ〕   討取二人。〔景茂郎等〕

一 吉香小次郎      討取三郎兵衞尉景茂。〔手討〕

一 澁河次郎〔手ニ〕   討取梶原平三家子四人。

一 矢部平次〔手ニ〕   討取源太左衞門尉。平二左衞門尉。狩野兵衞尉。已上三人。

一 矢部小次郎      討取平三。

一 三澤小次郎      討取平三武者。

一 船越三郎       討取家子一人。

一 大内小次郎      討取郎等一人。

一 工藤八〔手ニ〕工藤六  討取梶原九郎。

    正月廿一日

人々云。景時兼日。駿河國内吉香小次郎。第一勇士也。密若欲上洛之時。於過彼男家前者。不可有怖畏之由發言云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿三日庚戌。相摸介平朝臣義澄卒す〔年七十四〕。三浦大介義明が男。

酉の剋、駿河國住人幷びに發遣の軍士等、參着す。各々合戰の記録を献ず。廣元朝臣、御前に於いて之を讀み申す。其の記に云はく、

 正治二年正月廿日、駿河國に於いて、景時父子、同家子(いへのこ)郎等を追罸する事。

一 廬原小次郎、最前に之を追ひ責め、梶原六郎・同八郎を討ち取る。

一 飯田五郎が〔手に〕、二人〔景茂が郎等。〕を討ち取る。

一 吉香小次郎、三郎兵衞尉景茂を討ち取る〔手討〕。

一 澁河次郎が〔手に〕、梶原平三が家子四人を討ち取る。

一 矢部平次が〔手に〕、源太左衞門尉・平二左衞門尉・狩野(かのう)兵衞尉、已上、三人を討ち取る。

一 矢部小次郎、平三を討ち取る。

一 三澤小次郎、平三が武者を討ち取る。

一 船越三郎、家子一人を討ち取る。

一 大内小次郎、郎等一人を討ち取る。

一 工藤八が〔手に〕工藤六、梶原九郎を討ち取る。

    正月廿一日

人々云はく、「景時兼日、駿河國内吉香小次郎は、第一の勇士なり。密かに若し、上洛を欲するの時、彼の男の家の前を過ぐるにおいては、怖畏(ふい)有るべからず。」の由、發言すと云々。

・「相摸介平朝臣義澄」三浦義澄。この日に病没した。梶原景時の変では景時の鎌倉追放を支持した。享年七十四歳。

・「梶原六郎・同八郎」景時息の梶原景国と梶原景則。

・「手討」白兵戦での刀剣によるもの。当時は馬上での弓矢による討ち取りが圧倒的に多かったことを意味している。

・「源太左衛門尉」景時長男梶原景季。

・「平次左衛門尉」景時次男梶原景高。

・「狩野兵衞尉」狩野太郎兵衛重宗か。稲毛重成の兄で梶原景時娘を妻とした稲毛重忠の子という。

・「工藤八が〔手に〕工藤六」というのは、工藤八郎の手によって〔それに工藤六郎が助太刀して〕、の意であろう。

・「梶原九郎」景時息の景連。


「械原」この「械」には、罪人の手足に嵌めて自由を奪う木製の刑具の意がある。挑発的な謂いであったか。

 景時の謀叛の企てが最後に記されているが、これは例えば「吾妻鏡」のその後の記事、同年正月二十八日の条で武田信光(伊沢信光)から、景時は朝廷から九州諸国の総司令に任命されたと称して上洛、甲斐源氏の棟梁武田有義を将軍に奉じて反乱を目論んだというまことしやかな報告が載るが、信じ難い。土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持っていた景時は、幕府に見限られた以上、公家附の武士として朝廷に仕えようとしたものと見られる。寧ろ、狐ヶ崎での突発的なトラブルの挑発方の方が怪しい。ウィキの「梶原景時の変」には、『景時一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付けた女官の阿波局は時政の娘で、実朝の乳母であった。この事件では御家人達の影に隠れた形となっているが、景時追放はその後続く北条氏による有力御家人排除の嚆矢とされる』とある。

「大虛」大空。

「咳唾を拾う」「咳唾」は咳払い。「咳唾(がいだ)珠(たま)を成す」の故事(本来は、何気なく口をついて出るちょっとした言葉でさえ珠玉の名言となるの意から、詩文の才能が極めて豊かであることを言う)に引っ掛け、景時の一言一句に御世辞を言うこと。

「※1睞(めんらい)」「※1」=「耳」+「丐」。不詳。「眄」なら、流し目で見る、「睞」は横目で見る、であるから、ちょとでも目を懸けて貰う、の謂いか。

「※2(そが)れて」「※2」=「金」+「殺」。「殺(そ)ぐ」と同意であろう。

「羅網に榮纏せらるゝ」カスミ網に絡め獲られる。]

 

 

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 建長寺

   建 長 寺

 五山ノ第一ナリ。相摸守平時賴、建長五年ニ建立ス。開山大覺禪師、諱ハ道隆、蘭溪ト號ス。嗣法無明。詳ニ元享釋書ニ見へタリ。寺領九十五百九百文ナリ。表門ニ天下禪林ノ額、崇禎元年十一月日、竹西書ストアリ。門前ノ池ハ金龍水ト云名水也。山門ノ額巨福山、筆者シレズ。鐘アリ。至テ妙巧、鐘ノ銘、別幅戴之(之を戴す)。此寺昔ハ塔頭四十九ヶ寺アリシガ、今ハ廿一ヶ寺アリトナリ。昔ノ跡トテ今モ猶實ニ五山トオボシキハ圓覺・建長ノ二寺ノミ。境内廣ク、山澗林岡樹木欝々タル勝地ナリ[やぶちゃん字注:「澗」の「日」は底本では「月」。]。本堂ノ本尊、應行ノ作ノ地藏也。腹中ニサイタ地藏アリト云。應行ハ運慶ノ弟子也。此ニ谷アリ。地獄谷ト云。賴朝ノ時、犯罪ノ者ヲ成敗セシ所也。或時サイタト云者、科ニ因テ刑ニ逢ケルニ、敷皮ニナヲリケル時、人敢テ切ルべキ心地モナク、時ヲウツシケレバ、各罪ユルサレケリト心得テ退散シケリ。後ニ見レバ、多年尊信シケル地藏ノ首ニ、太刀ノ切目アリ。是ヨリ地藏ヲ地獄谷ニ安置シテ、サイタ地藏ト云ナリ。大友興廢記ニ、千躰ノ小地藏アリ。サユウト云者ノ作ナリト云。今ハ見へズ。但サイタ地藏ノコトカ。又開山堂ノ後ロヲ開山山ト云。地藏アリトナン。巳ニシテ方丈ニ到ル。龍源庵溪堂長老、諱ハ玄廉ト云僧迎接ス。方丈ノ後ニ靈松觀音石アリ、庭除多景也。千手觀音ノ木像〔常ニハ山門ニアリ。今修理ノ爲ニ暫ク此ニヲクト云。〕、時賴・開山ノ木像アリ。

[やぶちゃん注:「庭除」「除」も庭の意。庭園。中庭。]

 寺寶

  三幅對〔中尊釋迦  思恭筆  左右猿猴  牧溪筆〕

  羅漢            八幅

  〔但一幅ニ二人充畫ク、是ヲ唐畫ト云傳フ。狩野探幽永眞等ハ、兆典主ナランカト云フ。〕

 開山堂ニ詣ル。圓鑑ト云額アリ。開山大覺ノ筆ナリト云傳フ。開山自作ノ木像其側ニアリ。柱杖ヲ渡海ノ柱杖ト云。入唐ノ時携タル故ト也。外堂ニ迦葉・達磨ノ木像アリ。開山ノ舍利、院中ニアリト云。開山堂ノ前ニ舍利樹ト云木アリ、枝葉扶疎タリ、側ノ堂三上テ寺寶ヲ見ル。

[やぶちゃん注:底本では、この「達磨……」の右に編者による『(以下錯簡ニ付キ異本ヲ以テ補ウ)』という傍注がある。確かに、次の行で再び「寺寶」とある。また、この注によって本「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は少なくとも二冊以上の異本があることが分かる。]

  寺寶

Enkanmituuni_2円鏡

〔此形ナル鑑ナリ。クモリテ分明ナヲズ。中ハサビノ如ク、高ク起上リタルアトアリ。〕

[やぶちゃん注:以下に「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項の「圓鑑(えんかん)」の図を示しておく。

Emlan

 

 此鏡ノ記、前人ノ説詳也。其略ニ云。開山隨身之鏡也。入寂ノ時隨侍ノ僧ニ授ク。其後平時宗禪師ヲ慕ヒ、愁歎斜ナラズ。或夜夢ニ禪師時宗ニ向テ曰ク、シカジカノ僧ニ授ケ置シ鏡ニ、我容ヲ殘ス也。我ヲシタハヾ、此鏡ヲ見ヨトノ玉フ。夜明テ時宗此鏡ヲ尋トリテミガケバ、觀音ノ像ト見へタル紋アリ。時宗感ジテ圓覺寺ノ山ノ内ニ觀音三十三躰ヲ安置シ、寶雲閣ト名ケ、其本尊ノ首ニ納シガ、圓覺寺火災ノ時、建長寺ノ守嚴和尚坐禪シテ在ケルニ、空中ニ聲有テ守嚴ト呼。守嚴驚テ圓覺寺ニ行、門前ノ白鷺池ニ觀音ノ首アリ。取上見レバ中ニ此鏡アリ。即ソレヨリ建長寺へ納ト也。佛光・一山・月江・虎關ナドノ讚銘序ノ諸作多シ。

  大覺自作小觀音       一軀

  開山法語          二幅

  十六羅漢左右兩頭蓮    十八幅究

  觀音像〔顏輝筆〕    三十二幅

  朱衣達磨〔啓書記筆〕    一幅

  開山自畫自贊〔開山筆〕   一幅

   贊曰 拙而無比 與它佛祖結深※1 老不知羞 要爲人天開正眼

      是非海中濶歩 輥百千遭 劍戟林裏横身 好一片膽

     引得朗然居士

    於※2峯上能定乾坤

     負累蘭溪老

    向巨福山乘舴艋

    相同運出  自家珍

    一一且非  從外産

    辛未季春住持建長禪寺宋蘭溪 道隆

    奉爲朗然居士書干觀閣

     今案ズルニ辛未ハ文永八年ナリト。

[やぶちゃん注:「※1」=「窟」-「屈」+「免」、「※2」={(上)「雨」+(下)「隻」}。

「奉爲朗然居士書干觀閣」の「干」は「于」の、原本の誤りか底本の誤植と思われる。

「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項の「朗然居士の畫像」条に連続した文として示されてある賛を、ここと同じ位置で、句読点を排して配してみる。

    拙而無比 與它佛祖結深寃 老不知羞 要爲人天開正眼

    是非海中闊歩 輥百千遭 劍戟林裏横身 好一片膽

   引得朗然居士

  於※2拳上能定乾坤

   負累蘭溪老人

  向巨福山倒乘舴艋

  相同運出  自家珍

  一一且非  從外産

  辛未季春住持建長禪寺宋蘭溪 道隆

  奉爲朗然居士書于觀瀾閣

「寃」は影印では(うかんむり)が(あなかんむり)であるが、基礎底本とした地誌大系本を採っている。「※2」は影印では「雨」が「兩」のように見受けられる字体。大きな相違点は「※2」の次の字で、ここでは「峯」であるのが、「新編鎌倉志卷之三」では「拳」となっている点。この「朗然居士」とは現在、蘭渓を招聘した時の執権北条時宗と推定されている。以下に影印の訓点を参考に書き下したものを同じような配置で示しておく。

    拙にして比無し 它(ほか)の佛祖と深寃を結ぶ 老いて羞を知らず 人天の爲に正眼を開かんことを要す

    是れ非海の中に闊歩して 輥(こん)百千遭 劍戟林裏に身を横たふ 好一片の膽

   朗然居士を引き得て

  ※2拳上に於いて能く乾坤を定む

   蘭溪老人に負累して

  巨福山に向ひて倒るに舴艋(さくまう)に乘る

  自家の珍を運出するに相ひ同じく

  一一且つ外より産するに非ず

  辛未季春住持建長禪寺宋の蘭溪 道隆

  朗然居士が奉らんが爲に觀瀾閣に書す。

「它」は「他」の意か。「輥」はぐるぐる回ることを言う。「舴艋」は小さな舟のこと。「※2拳上」は不詳、ただ本文の「※2峯上」の方が当たりな感じがする。雲を突いて出る峰などの謂いか。識者の御教授を乞うものである。]

  白衣觀音畫         一幅〔思泰筆〕

  金剛經           一部〔大覺筆〕

  紺紙金泥法華經       一部〔八軸〕

   日蓮筆、袖並ノ繪モ日蓮筆ナリト云。

  開山九條袈裟        四

  同衣            一

  坐具            一

  珠數            一

  掛羅            一連

[やぶちゃん注:「掛羅」は「くわら(から)」と読む。「掛絡」「掛落」とも書き、本来は禅僧が普段首に掛けて用いる小さな略式の袈裟を言うが、これは数詞を「連」としており(袈裟なら「頂」のはず)、推測であるが、掛羅袈裟に付けてある装飾用の象牙などの輪のことを言っているのではあるまいか。なお、次の「佛舍利」も参照のこと。]

  佛舍利           二〔一ツハ水晶、玳瑁ニテ六角〕

[やぶちゃん注:「玳瑁」の前に「一ツハ」を補いたい。「新編鎌倉志卷之三」の「寺寶」の中には、

開山九條の袈裟 貮頂 環クワンは水晶。

開山七條の袈裟 貮頂 環は玳瑁、六角なり。

という条々がある。この袈裟の数を見ると、合わせて「四」で、実は先の光圀の記載はいい加減であることが分かる。更に高い確率で、それら「袈裟」の水晶と玳瑁(タイマイ)製の袈裟の装飾具だけを外したものを光圀は見せられて、仏舎利と騙されたと考えられる(禅門なら平気でやりそうだし、実際、それは確信犯であるのかも知れぬ。円覚寺や建長寺などで私の実見した仏舎利と称するものは、その殆んどがどれも水晶であった)。]

  十六山善神         一幅〔唐繪、筆シレズ。〕

  〔寺僧云、唐畫八十幅ホドアレドモ、朽弊シタル所アル故ニ出サズ。此外ニ書畫甚多シ。詳ニ見ルニイトマアラズ。〕

 本堂ニ乙護童子ノ木像アリ。江嶋ヨリ飛來ルト云傳フ。溪堂長老ガ云、本ヨリ伽藍ノ守護神ニテ、寺ニアルべキコトナリトゾ。開山堂ノ總門高山ノ額ハ、納置テ出サズ。佛光ノ筆ナリ。西來庵ノ額、竹西筆ナリト云。興國禪寺ノ額、子曇西澗筆ナリ。傳燈庵ノ開山ナリト云。裏門ノ額ニ海東法窟崇禎元年十一月日竹西書トアリ。朝鮮人ナリ。建長寺ノ内、囘春庵存首座、長壽寺ノ天溪ナド云僧出テ案内セシ次デニ物語シテ云ク、此寺ノ後ニ池アリ。大覺池ト云。大龜常ニ居ルト云。

[やぶちゃん注:「開山堂ノ總門高山ノ額」の「高山」は「嵩山」の誤り。

「次デニ」は底本に右に『(序)』と補注するが、「次」は鎌倉時代以来、「ついで」と一般的訓ずるものである。]

一言芳談 四十九

   四十九

 

 敬佛房或時仰らるゝ、年來(としごろ)死をおそれざる理(ことわり)をこのみ、ならひつる力にて、此(この)所勞(しよらう)もすこしよき樣になれば、死なでやあらんずらむと、きものつぶる、也。さればこそ、御房達のかご負(おひ)一もよくしてもたんとしあひ給たるをば、制したてまつれ。たゞ今はなに事なき樣なれども、つゐには生死の餘執と成べき也。しかればあひかまへて、つねに此身をいとひにくみて、死をもねがふ意樂(いげう)をこのむべき也。

 

〇所勞、病氣の事なり。

〇かご負、修行者の背にかくる笈(おひ)なり。

〇此身をいとひにくみて、臨終要訣にも、須是不得怕死とあり。遺教經云、此是應捨罪惡之物、假名爲身。沒在老病生死大海。何有知者得除滅之、如殺怨賊、而不歡喜。

 

[やぶちゃん注:「意樂」「意巧」とも書く(「げう(ぎょう)」という読みは「楽」・「巧」の呉音で、梵語“āśya”の漢訳語「阿世耶」の意)。何かをしようと心に欲すること、心を用いて様々に工夫すること。心構え。

「〇此身をいとひにくみて……」の註をⅠの訓点を参考にして以下に書き下す。

「臨終要訣」にも、『須らく是れ、死を怕(おそ)るることを得ざるべし。』とあり。「遺教經(ゆいけうぎやう)」に云く、『此れは是れ、應(まさ)に捨つべき罪惡の物、假りに名づけて身(しん)と爲す。老病生死(しやうじ)の大海に沒在せり。何ぞ知者有つて、之を除滅し得て、怨賊を殺すが如くして、歡喜せざらん。』と。

この「臨終要訣」は善導の書、「遺教經」は中国の漢訳大乗仏典の一つでクマーラジーバ(鳩摩羅什 くまらじゅう)の訳になる、正しくは「仏垂般涅槃略説教戒経」と呼ぶもの。釈迦が涅槃に際して弟子たちに与えた最後の言葉を集めたものとされる。戒を守って五欲を謹んで定(じょう)を修し悟りの智慧を得ることを説く。特に禅門で重視される。]

耳囊 卷之六 市中へ出し奇獸の事

 

 市中へ出し奇獸の事

 

 

 寬政十一年六月十八日の夜子の刻過(すぎ)、馬喰町壹丁目庄左衞門店(だな)安兵衞といへる鄙商(ひなあきない)の方へ、異獸出(いで)て燈火の油をなむるをとらへし由にて南役所へ𢌞りの者申付(まうしつけ)、持出(もちいで)るを見しに、近きころ下總國八幡村といへる社頭へ此(この)獸出しを捕へ、御鳥見(おんとりみ)より公城(こうじやう)へも奉りしと聞(きき)しが、同物なり。下說(げせつ)に雷獸の由唱へけるが、識人(しれるひと)いへるは不詳と云々。圖左にあり。 

 

(長凡一尺程似栗鼠面長腮下黃也)

Raijyuu

□やぶちゃん注

 

○前項連関:奇獣の出現場所が前話の浜町から北西四百メートル程の直近で連関。UMA物。

 

ただ、この奇獣、絵図もあるものの、私には同定が出来ない。リスに似る体長三〇センチメートル、下顎の下の部分が黄色とあるが、近年、害獣としてしばしば話題になる食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン Paguma larvata ならば、額から鼻にかけて白い線があり、頬も白いから当たらない。そもそもハクンビシンはリスには似て居ない(但し、頭部にの白線が汚れて目立たなくなると、何となくこの絵図と似るようにも思われる)。齧歯(ネズミ)目リス科モモンガ亜科モモンガ Pteromys momonga では大き過ぎ、モモンガ亜科ムササビ Petaurista leucogenys がそれらしく感じられはするが、モモンガもムササビも下顎の部分は黄色くはない(これも汚れと解すことは可能)。ただ、モモンガやムササビは古くからムササビと一緒くたにされて知られていた動物であり、動物類の専門家である鳥見や博物学的識者が見ても分からなかったというのは、如何にも、おかしい。さて、これは一体、何だろう? 動物学者やUMAフリークの方の御教授を俟つ(因みに、UMAという略語は実際の英語の未確認飛行物体「UFOUnidentified Flying Object)」をもじって、英語で「未確認不可思議動物」の意味になる“Unidentified Mysterious Animal”の頭文字をとった和製英語で本邦以外では通用しない。ウィキ未確認動物」によれば、昭和五一(一九七六)年に動物研究家で作家の實吉達郎(さねよしたつお)に依頼された当時の雑誌『SFマガジン』編集長森優(後の超常現象研究家南山宏の本名)が、UFOを参考に考案したもので、初出は實吉達郎の「UMA―謎の未確認動物」(同年スポーツニッポン新聞社出版局刊)である、とある(但し、森本人はこれを和製英語として用いなかったとある)。なお、「ユーマ」とこれを読むこと自体が実は和製英語的であると思う。日本人はこの手の略号を簡単に単語のように発音するのを好むが、欧米人はそうしたことは容易にはしないらしい。私はかつてUFOの研究を「真面目に」していたが、その時にも、また、同僚の複数のアメリカ在住経験のある英語教師に訊いてみても、ネイティヴは決して“UFO”を「ユーフォー」とは発音しないのである(そのように聴こえることがあっても実際には「ユーエフオー」と発音している)。だから今も昔も私は「ユーフォー」とは言わないことにしている。なお英語で「未確認動物」は“Cryptid”(クリプティッド)と呼ばれ、これを研究する学問は“Cryptozoology”と呼ばれる、ともある。“Cryptid”は一般に「幻獣」と訳され、これはラテン語の「洞穴」の意“crypta”から、隠れた、覆われたの意となったものに、「~の化け物」と言う英語の接尾語“-ide”が附いて変化したものであろう。~~~♪こいつぁ春から♪~~~UMA脱線♪~~~で御座った)。

 

・「寬政十一年」西暦一七九九年。

 

・「馬喰町」東京都中央区北部、現在の日本橋馬喰町一~二丁目。町名は家康が関ヶ原の戦いの折りにこの地に厩をつくり、博労(馬工労)を多く住まわせたことによるとする説が有力。

 

・「南役所」底本は『兩役所』であるが、月番制によって交互に業務を行っていた南北の役所に同時に訴え出るというのはおかしいので、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「南」を採った。問題があれば(両奉行所へ回る必然性や事実があったのであれば)御教授を願いたい。

 

・「下總國八幡村」現在の市川市八幡であるが、ここは古くから足を踏み入れると二度と出てこられなくなるという神隠しの伝承の禁足地として知られる。「八幡の藪知らず」(「不知八幡森(しらずやわたのもり)」「不知森(しらずもり)」「不知藪(しらずやぶ)」とも呼ぶ)で有名な場所である。

 

・「社頭」これは社名を示していないことから、私は高い確率で前掲の「八幡の藪知らず」に江戸時代から設けられていた社殿を指すのではないかと思う。ウィキの「八幡の藪知らず」によれば、この『伝承は江戸時代に記された書籍にすでに見ることができるが、江戸時代以前から伝承が存在したか否かは定かではない』としつつも、『少なくとも江戸時代から当地で語り継がれており、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。街道に面して小さな社殿が設けられており、その横には「八幡不知森(やわたしらずのもり)」と記された』安政四(一八五七)年に茨城県稲敷郡江戸崎出身で、関東に百余りの石橋を自費で架橋した江戸商人として知られる『伊勢屋宇兵衛建立の石碑がある。この社殿は凹状となった藪囲いの外側にあり、社殿の敷地に立ち入って参拝をしたのち無事に出て来ることができる』とある。そして、『なぜこの地が禁足地になったかの理由についても、唯一の明確な根拠があるわけではない。しかし諸説いずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事は』現在もタブーである、とする(但し、現在の藪の広さは奥行き・幅ともに十八メートル程しかなく、江戸時代の広さもそれほど変わらなかったとある)。この伝承の由来に関する有名な説としては(ここからは暁印書館平成九(一九九八)年刊荒川法勝編「千葉県妖怪奇異史談」の記載も併用した)、日本武東征尊陣屋説・将門の父で鎮守府将軍であった平下総守良将墓所跡説(将門の乱とその二十九年後の康保三(九六六)年に発生した大地震や大津波によって破壊され、小石祠を建てたが朝敵将門を憚って埋葬者は秘されたとする)・平将門墓所説(彼の事蹟や怨霊説から考えると、寧ろこれは偽説と言うべきであろう)・平将門家臣墓所説(当地まで平将門の首を求めてやって来た六人の近臣がここで土偶と化した。後に雷で破壊されたが祟りを残したとする。この説が最も知られる)・平貞盛陣屋禁足地説(これは逆に将門討伐軍の平貞盛の陣屋の不吉な方位であったことによるとする)・水戸黄門(徳川光圀)がここに立ち入って迷ってようよう出たのちに日本武尊の東征の陣屋跡であることが分かったことから禁足地としたという説(後に錦絵に描かれ広まったが、それ以前からここは禁足地であった可能性が高い)・藪の中央部の窪地から有毒なガスが出でいるという説(中央部が窪んでいることにも関連しているが科学的な根拠は乏しい)・藪に底なし沼がある(あった)という説・近くにある葛飾八幡宮旧跡地説(本話の「社頭」というのをこの神社ととることも可能ではある)・同八幡宮の動物供養の池跡説(この地には死んだ動物を供養するための八幡宮の池があり、周囲の人々から「むやみに池に入ってはいけない」と言われていたものが、この行事が廃れたために「入ってはならない」という話だけ今に残ったのではないかという仮説)・近隣の行徳村の飛び地(入会地)説(そのために地元である八幡の住民は当地に入れない)などがある、とある。特に動物供養説と本話は強く連関する気がする(その動物霊たちの「藪知らずの守護獣としてである)。何れにしても、本奇獣と「八幡の藪知らず」は、如何にも結び附きそうではないか。

 

・「鳥見」職名。若年寄支配で鳥見組頭の指揮を受けて、特に狩猟用鳥類の棲息状態等、将軍遊猟地の巡検に当たった。

 

・「公城」岩波版長谷川氏注に『江戸城』とあるが、あまり聴き慣れない語である。一応、音で読んでおいた。

 

・「下說」は底本では『下諺』であるが、聴き慣れない語である。「下諺」を「ゲゲン」と読んで「下々の言い伝え」の意ととれなくもないが、ここは「說」に書写の誤りと考えて、下々の者が唱える噂の意の「下諺」説を採る。

 

・「雷獸」落雷とともに現れるとされる妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、一説に「平家物語」で源三位頼政が退治した鵺(ぬえ)は雷獣とも言われる。参照したウィキの「雷獣」その他によれば、その形状は体長約六〇センチメートル前後の仔犬、またはタヌキに似て、尾は約二一~二四センチメートル、鋭い爪を有するとあるが、その他にも、後脚が四本・尻尾は二股(馬琴「玄同放言」)とか、全体はモグラかムジナで鼻先はイノシシに似て腹はイタチに似ている(国学者山岡浚明「類聚名物考」。そこには江戸鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者がそうした形状の雷獣を鉄網の籠で飼っていたとある)とか、鋭い牙と水かきのある四足獣である(享和元(一八〇一)年七月二十一日に奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣で図がある)とか、と記されて実に多様な形状を示す。中でも強烈なのは、採話数の少ない西日本のそれで、享和元(一八〇一)年に芸州五日市村(現在の広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニかクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のものによって覆われており、その先端が大きな鋏状となったもので、体長も巨大で約九五センチメートル、体重約三〇キログラムとある(これは弘化年中(一八四四年~一八四七年)に書かれた「奇怪集」に同享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの同一の情報と見なされている。同じ類として同享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあって、それもやはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つものであり、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」(面、蟹額のごとく、旋毛有り、四足有り、鳥のごとき翼、鱗生え、鉄のごとき釣爪有り)いうおどろおどろしい解説文まで添えられている、とある。これは伴嵩蹊の「閑田次筆」にも絵入りで所載する)。また因州(現在の鳥取県)に寛政三(一七九一)年五月の明け方に城下に落下してきたという獣は、体長約二・四メートルの巨体で、鋭い牙と爪を持つタツノオトシゴのような体型であった由、「雷龍」と名づけられた絵が残る。リンク先にそれらの画像があるので参照されたい。近代になっても出現し、明治四二(一九〇九)年に富山県東礪波郡蓑谷村(現在の南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五〇間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという。昭和二(一九二七)年には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれた、とある。以上から、ウィキの筆者はその正体として、『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシンと共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある』とし、『江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する』と記す。また『落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれ』、『イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』 と記す。私の同定も満更ではないか。

 

・「識人(しれるひと)」の読みは私の推定。「しきじん」と音読みしているのかも知れない。「しれびと」では「痴人」の訓の方が知れているので、いやな感じがするし、「しりびと」ではただの知人の意の方が一般的。識者。

 

・「(長凡一尺程似栗鼠面長腮下黄也)」という( )内キャプションは、底本では右に岩波のカリフォルニア大学バークレー校版『(尊經閣本)』からの引用である注記がある。一応、訓読しておく。なお本図は、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文最後に割注で『図略之(図之を略す)』と始めて、このキャプションと同文を載せる。

 

  長さ凡そ一尺程、栗鼠に似、面長、腮の下、黄なり。

 

■やぶちゃん現代語訳(図は訳では省略した)

 

 江戸市中へ出来(しゅったい)致いた奇獣の事

 

 寛政十一年六月十八日の夜(よ)、子(ね)の刻過ぎのこと、馬喰町(ばくろうちょう)一丁目庄左衞門店(だな)の安兵衞と申す田舎廻りの行商を生業(なりわい)と致いておる者の方へ、妖しき獣が出来(しゅったい)、燈火の油を嘗めておるを捕えたる由、南町奉行所係りの者、訴え申し付け、その異獣、持ち込みたるを見たところが、これ、実に、最近のこと、下総国八幡村と申すところに御座る祠(やしろ)の前へ、この獣が出でたを捕え、御鳥見役(おんとりみやく)方より江戸城内へも、その奇体なるものを奉ったと聞き及んで御座ったが、どうも、これ、全く同じき生き物で御座った。下世話の話によれば――何でも「雷獣」なんどと風聞しておるようでは御座れど――まあ、その筋の識者の見ても、これ、全く以って不詳なる生物なるとか。図は左に示して御座る。

 

〇長さは凡そ一尺程度、栗鼠に似て、面長で、腮の下が黄色を示す。

 

2013/01/01

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 円覚寺

   圓 覺 寺

 五山ノ第二也。相模守時宗、弘安五年十月十四日建立。開山圓滿常照國師佛光禪師、諱ハ祖元、字ハ子元、無準ノ嗣法ナリ。亨釋書ニ詳ナリ。本尊ハ釋迦・梵天・帝釋ノ木像、倶ニ京ノ殿ノ作ナリト云。大門ノ額ニ瑞鹿山〔龜山院勅筆〕。法堂ノ額、大光明寶殿〔後光嚴院勅筆〕。百四十貫文ノ御朱印アリ。今ハ塔頭十九ヶ寺アリ。明鏡堂は本尊觀音、佛殿ノ脇ニアリ。毎月十八日ニ衆中寄合懺法アリ。

[やぶちゃん注:「亨釋書」「元亨釋書」の脱字。]

 寺寶

  常照國師自畫白讚

  時宗自筆佛法問答ノ狀幷佛光自筆ノ返札

  勅謚佛光禪師ノ掛物〔伏見院宸翰〕 一幅

  圓覺興聖禪寺ノ額         一幅

    山門ノ額ナリト云。筆者シレズ。

  平貞時ヨリ圓覺寺へノ壁書。其文ニ

     圓覺寺制府條々

   一 僧衆事

    不可過弐百人

   一 粥飯事

    臨時打給一向可停止之

   一 寺中點心事

    不可過一種

   一 寺參時※從輩儲事

    可停止之、

[やぶちゃん字注:「※」=「广」+(中に)「邑」。]

   一 小僧喝食入寺事

    自今以後一向可停止之、但旦那免許非禁制之限、

   一 僧徒出門女人入寺事

    固可守先日法、若違犯者可追放之、

   一 行老人工帶刀事

    固可禁制之、若有犯者永可追出之、

  右所定如件、

   乾元二年二月十二日  沙彌判ト有

[やぶちゃん注:提示の順序が逆。乾元二(一三〇三)年のこちらの寺院禁制の定め書きである制符状の方が次の同文書(クレジット永仁二(一二九四)年)よりも新しい。これは、「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号三七の乾元二年二月十二日附「崇演〔北條貞時〕圓覺寺制符條書」である。「※從」はそこでは「扈從」となっている。題の「制府」はママ。寺内の僧衆の総員は二百人を超えてはならない・臨時の粥飯を支給してはならない(禅宗では斎(とき)という午前中一回の食事以外には原則上食事は認められないが、非時と称して昼や夜が認められていたが、ここはそれ以外の間食を禁じているのであろう)・寺内での点心(禅家で非時の昼食を指すが、これは一汁一菜のことと思われ、正式な食事である斎を含む総てか)は一種類を過ぎてはいけない・檀家が檀那寺に参る際には僧の供の者どもに対して饗応してはならない・檀那が許可した以外の小僧や喝食を寺に入れてはならない(稚児はしばしば同性愛の相手となった)・僧の出奔や女の入寺の禁止と違約した者の永久追放(破戒僧は恐らくは打擲されて死んだ場合もあろう)・行者や人工(寺内で作業する職人のことか)の帯刀禁止と違約した者の長期に亙る強制退去の内容である。これは次の禁制の円覚寺再通達版であるところをみると、これらを違反する僧衆が(高い確率で結局はこの後も)後を絶たなかったことを意味している。「沙彌」は貞時のこと。本文に異同はない。]

   禁制條々

  一 僧衆不帶免丁事

  一 禪律僧侶夜行佗宿事

   若有急用之時者爲長老之計可差副人也、

  一 比丘尼幷女人入僧寺事

   但許二季彼岸中日、二月十五日、四月八日、

   七月孟蘭盆兩日、此外於禪興寺者毎月廿二日、

   於圓覺寺者毎月初四日可入也、

  一 四月八日花堂結構事

  一 成臘牌結構事

  一 僧侶横行諸方採花事

  一 僧衆去所不分明出門事

  一 延壽堂僧衆出行事

  一 僧侶着日本衣事

  一 僧徒入尼寺事

  一 四節往來他寺作礼事

  一 僧衆遠行之時送迎事

   右條々於違犯之輩者不論老少、可令出寺也、若於有子細者可指申其名之狀如件、

    永仁二年正月日

                  貞時ノ判ナリト云。

[やぶちゃん注:これは、「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号二四の永仁二年正月附「北條貞時禪院制符條書」で、題と内容から見ると、これは鎌倉御府内(と考えられる)の禅宗寺院への共通禁制の定め書きと考えられる。寺内の僧衆は必ず「免丁」――「めんちん」と読み、当該寺院の修行僧であることの安居(あんご)許可証――を所持すること・僧の夜間外出及び外泊の禁止(急用の場合は住持が許可することがあってよいが、その際には必ず人を同伴させることという例外条項あり)・比丘尼及び女性の入寺禁止と除外日の規定(春秋の彼岸の中日〔父母・祖霊の供養〕/二月十五日〔釈迦入滅の涅槃会〕/四月八日〔釈迦誕生の灌仏会〕/七月盂蘭盆両日〔父母・祖霊の供養〕/禅興寺のみ開基北条時頼の命日である毎月二十二日の法会/円覚寺のみ開基北条時宗の命日である毎月四日の法会)・灌仏会に於いてそれを執り行う花堂の供養は質素父母・祖霊の供養・その他の仏事に於ける授戒時の礼式や蠟燭や位牌も質素を心掛けること・僧侶が濫りに寺外に出歩き花を摘むことの禁止・僧衆の無断(行先を告げない)外出の禁止・延壽堂(病気の療養を行っている僧が居住した)の僧の外出禁止・禅僧の正式な宋様式でない日本服の着用禁止・男性の僧徒の天セラへの入寺禁止・四節(叢林に於ける結夏・解夏・冬至・年朝の日を指し、その日に行われる上堂説法のこと)に他の寺に行って礼(飛び入り参加か)をすることの禁止・僧衆の遠出の際の送迎餞別禁止と、それら総てについて違反するものは老若を問わず、寺から永久追放、万一、その違反に仔細がある場合はその内容を申告させよ、という実にこまごまとした禁制が示されていてまっこと面白い。資料二四には最後に貞時の花押があるとする。本文に異同はない(漢字表記は市史所収のもので確認した。「礼」はママ。「違犯」は「市史」では(しんにょう)の中が異なるが、底本通りとした)。]

 宿龍懸物         一幅〔天山道義トアリ。〕

 桂昌           一幅〔同筆〕

 普現           一幅〔同筆横ニ並ビテアリ。〕

[やぶちゃん注:「普現」は「普賢」の誤り。]

 敕會法華御八講役付書   一卷

  相摸入道ノ時ノ事也。レイサン和尚南山ナド云僧此寺ニ在シナリ。

 靑蓮院墨蹟        一幅

  至德元年十二月十一日トアリ。

 最勝輪ノ額        一枚〔後光嚴院宸筆〕

 黄梅院額         一枚

 〔後小松院寅筆二枚、倶ニ夢想堂ノ額ナリ。夢想ハ佛光ヨリ四十九年モ後ナリ。佛光ノ孫弟子ナリ。佛光ハ大覺俗衣ノ甥ナリ。〕

 大幅ノ唐畫ノ觀音     一幅

 浴室本尊跋陀婆羅菩薩畫  一幅

  筆者宗淵トアリ。

 五百羅漢畫        五十幅

  唐畫カ、兆典主カト云。

[やぶちゃん注:「兆典主」は「兆殿主」の誤り。]

 佛光硯          一面

 佛牙舍利幷記

  舍利ヲ琉璃ノ皿ニ入、匕(サジ)ヲ添テスクフテ見セシム。長一寸餘、五アリ。

 一山自筆状        一通

Itizan       是ハ山ノ書判也。則一山ノ文字ナリトゾ。

 臨濟像          一幅〔無準贊〕

 佛鑑像          同 〔璵東凌贊〕

 十六善神         同

 南院國師眞跡       同

 普明國師眞跡       同

 葦航和尚眞跡       同

 中山和尚眞跡       同

 貞時眞跡         四幅

 高時眞跡         一幅

 建長圓覺中納言奉書    一幅

 西園寺殿書        二幅

 六波羅越後守狀      一幅

 尊氏判形         二幅

 瑞泉寺判形        二幅

 同 眞跡         一幅

 法衣寄進状        同〔持氏眞跡〕

 鹿苑院眞跡        同

 此外書畫倶ニ多シ。枚擧スべカラズ。

塔頭ノ内續燈庵ノ寺寶

 尊氏自筆ノ法華經     八卷

 〔跋ニ奉爲三品觀公大禪定門修五種妙行觀應三年九月五日書寫了。正三位源尊氏判トアリ。續燈庵ハ佛滿禪師ト云僧開山ナリ。淨妙寺へモ住持シタル僧ナリ。〕

本堂ノ乘北へ行コト數町計ニシテ、開山ノ影堂アリ。萬年山續庵ト云。西御門ノ大平寺ト云尼寺ヲ引テ法堂ニ立ルト也。開山ノ木像ノ肩・背ニ鳩ト龍トヲ刻ム。妙作也。野鳥來テ肩ニナレ、百龍袈裟ニ現ズト云傳フ。詳ニハ神社考ノ鶴岡部ニ見へクリ。開山堂ノ上ニ坐禪窟アリト云。路險ニシテ上リ難シ。開山堂ノ東側ニ小池アルヲ宿龍地ト云。佛光日光へ渡シ時、一ツノ龍舟ヲ守護ス。後ニ鎌倉マデ送リ、上ノ池ニ宿セシ故ニ名付ト云。山ノ上ニ鹿岩アリ。此寺創立ノ時、鹿ノ奇瑞アルニ因テ瑞鹿山ト名ク。鹿岩アルモ此故ナリトゾ。本堂ノ北側ニ妙香池ト云池アリ。池ノ北ノ岩ヲ虎頭岩ト云。此寺ノ鐘極テ奇巧ナリ。高林ノ中ニ懸タリ。鐘銘幷ニ足利ノ寒松ガ福鹿懷古ノ詩文別紙ニ戴之(之を戴す)。

 表門ノ左右ニアル池ヲ白鷺池ト云。佛光來朝ノ時、八幡白鷺ト化シテ鎌倉ノ導引ヲシテ此池ニ止レリ。因テ此所ニ寺ヲ立テ、池ヲ白鷺池ト云。圓覺寺ヲ出テ南行シテ、第六天ノ森ヲ見ル。建長寺ノ西北、海道ヨリ西ニ有森ナリ。

[やぶちゃん注:「萬年山續庵」は「萬年山續統庵」の脱字。

「佛光日光へ渡シ時」は「佛光日本へ渡シ時」の誤り。

「足利」底本に右に『(足利学校)』と注する。]

耳嚢 巻之六 十千散起立の事

本日より。根岸鎭衞「耳嚢 巻之六」を始動する。




 十千散起立の事

 

 東都濱町に、小兒科の醫をなして數代世に聞(きこゆ)る印牧(いんまき)玄順といへるあり。其先(そのせん)は戰國にて御(おんてき)敵たる者の子孫にて、其主人沒落後、浪遊して抱(かかへ)る人なければ、或る醫師のもとに立寄(たちより)てたつきせしが、彼(かの)醫師、家傳に萬病散とかいへるを賣藥せしが、其奇效(きかう)いちじるしく、戰場にても多く需之(これをもとむる)故、右醫師に隨身(ずいじん)して其法を傳へけるが、其後印牧別になりて、師家の祕藥故(ゆゑ)同銘を遠慮して、十(じ)ウと千あわすれば萬なるといふ心にて、十千散と名附(なづけ)し由。今も彼(かの)家より出之(これをいだす)。予が子孫も右藥を用ひ、奇效ありしなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前の「卷之五」掉尾は歯痛歯肉炎の民間薬で、医薬直連関。話の後半部、根岸にしてはかなりはっきりとした宣伝を狙っている感がある。巻頭で目立つ位置にあり、根岸の記録魔を聴きつけた印牧本人が伝家の秘薬を売り込んだという感じが、これ、なくもない。兎も角、根岸は医師の知人が妙に多い人物である。

・「東都濱町」両国橋下流の隅田川西岸の、現在の東京都中央区日本橋浜町の吸収された旧日本橋久松町の一部を除く一帯。

・「萬病散」底本の鈴木氏注に、『万病円に類する散薬か。万病円は解毒薬。』とある。江戸時代にあった、万病に効果があるという丸薬。宝暦五(一七五五)年刊「口合恵宝袋」に載る落語「万病円」などでも知られる。しかし、戦場で需要が高かったということは内服薬ではなく、金瘡などへの塗り薬のように思われるが、如何?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  十千散起立(きりゅう)の事

 

 江戸浜町に、小児科の医師を生業(なりわい)となし、数代に亙って世評も高き、印牧(いんまき)玄順と申すものが御座る。

 印牧家と申すは、これ、その先(せん)、戦国の世にあっては徳川様の御敵(おんてき)たる者の子孫では御座ったが、先祖主人の没落の後、浪人となって抱えて呉れる御仁もなければ、とある醫師の元に雇われ、何とか糊口を凌いで御座ったと申す。彼の主人医師なる者は、これ、家伝の「万病散(まんびょうさん)」とか申すものをも売薬致いて御座ったが、その薬の神妙なる効能、これ、著しきものにてあれば、戦国も末の戦さ場にても数多(あまた)需要の御座った由。されば、かの主人医師につき従(したご)うて、また、その製法をも伝授されて御座ったれど、その後、印牧祖、この医師とは別れて独り立ち致いて御座ったと申す。されど、例の薬は元の師の家伝の秘薬なればこそ、同じ銘(めい)にて伝授の同薬を用うるは、これ、畏れ多いと遠慮致いて――「十」と「千」――これ合わすれば――元の秘薬の「万」となる――といふ謂いにて、「十千散(じっせんさん)」と名づけた由。

 今も、かの印牧家より、これ、売って御座る。いや、私の子や孫もこの薬を普段よりよう用いており、まっこと、何にでも良う効くものにて御座る。

一言芳談 四十八

   四十八

 

 又云、如形(かたのごとく)も、非人をたて、心やすく念佛せんと思はんものは、出世(しゆつせ)の法財(ほふさい)なを可閣之(これをさしをくべし)。況(いはんや)世間の資緣(しえん)はあひかまへてかまへて、事すくなき樣にふるまひなすべき也。はだへをかくし、命をつぐ事も、非人の身に相應して、出離の心ざしもけがさぬやうに、たくむべき也。

 

〇非人、たゞ世すて人のことなり。

〇法財、ならひし佛法の事なり。

 出世財寶は持經本尊等の事なり。(句解)

〇資緣、衣食住は佛道修行をたすくる外緣(げえん)なり。

〇はだへをかくし、方丈記に云、藤の衣、麻のふすま、うるにしたがひてはだへをかくし、野邊のつばな、嶺(みね)の木の實、命をつぐばかりなり。

 かみのふすま寒食等の風情なり。(句解)

 

[やぶちゃん注:「可閣之」(之を閣(さしを)くべし)とは、持つことをやめるのがよい、の意。ただ「持たぬがよい」と訳してもよいとは思うが、何らの法体も経も持仏なしに専修念仏の遁世者となるというのは、そもそもがそれは、芭蕉が、

  薦(こも)を着て誰人(たれひと)います花の春

と詠んだように単なる乞食にしか見えぬのである。但し、実はこれこそが無論、ここで敬仏房が最も理想的遁世僧としてイメージしている姿ではあるのであるが(私は以前に同僚が話して呉れたネパールで出逢った素っ裸の修行者の姿を思い出す)、それはまさに事実上不可能に近いのであるから、私は敬仏房が、既にそうしたものを豊かに持ってしまっているところの念仏の遁世僧らに向かって、その鮮やかな放下を諭しているという点で、「今持っているもの、布施としてこれから受くるものは、これより、これ、限界まで捨て去り、必要条件ぎりぎりのところまで享けぬようにするがよい」の謂いで採りたいのである。

「あひかまへてかまへて」よくよく心に用心して。語勢を高める接頭語「相」に、副詞「かまへて」の畳語というのは相当な強調形である。

「外緣」仏道修行に於ける内面の直接的原因を外から助ける間接的な原因。ただ「縁」と言った場合、通常は外縁を指すことが多い。

「方丈記に云、藤の衣、麻のふすま、うるにしたがひてはだへをかくし、野邊のつばな、嶺(みね)の木の實、命をつぐばかりなり。」「方丈記」の終わりに近い部分にある(底本は一九八九年刊の岩波文庫版市古貞次校注本を正字化して用いたが、一部、納得出来ない部分を昭和四三(一九六八)年角川文庫版簗瀬一雄訳注本で変更した)。

 夫(それ)人の友とあるものは富めるをたふとみ、懇ろなるを先(さき)とす。必ずしも情あると、すなほなるとをば不愛(あいせず)。只(ただ)絲竹(しちく)、花月を友とせんにはしかじ。人の奴(やつこ)たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あつきを先とす。更にはぐゝみあはれむと、やすくしづなるとをば願はず。只わが身を奴婢(ぬひ)とするにはしかず。いかゞ奴婢とするとならば、若(も)しなすべき事あれば、すなはちおのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人を從へ、人をかへりみるよりやすし。若し歩(あり)くべき事あれば、みづから歩む。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と心をなやますにはしかず。今一身をわかちて、二つの用をなす。手の奴(やつこ)、足の乘物、よくわが心にかなへり。身心(しんじん)の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。物うしとても心を動かすことなし。いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、これ養性(やうじやう)なるべし。なんぞいたづらに休みをらん。人を惱ます、罪業(ざいごふ)なり。いかゞ他の力をかるべき。衣食のたぐひ、又同じ。藤(ふぢ)の衣、麻(あさ)の衾(ふすま)、得るにしたがひて肌(はだへ)を隱し、野邊のおはぎ、峰の木(こ)の實(み)、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を恥づる悔(くい)もなし。糧(かて)乏(とも)しければ、おろそかなる報(むくい)をあまくす。惣(すべ)てかやうの樂しみ、富める人に對していふにはあらず。只わが身ひとつにとりて、昔(むかし)今とをなぞらふるばかりなり。

「奴」召使。「賞罰」「罰」は添え字で、専ら賞与のことを指す。「一言芳談標註」の引用部は、

藤の衣、麻のふすま、うるにしたがひてはだへをかくし、野邊のつばな、嶺の木の實、命をつぐばかりなり。

で、

藤の衣、麻の衾、得るにしたがひて肌を隱し、野邊のおはぎ、峰の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。

とやや異なる。「一言芳談」の引用元は所謂、広本の流布本であり、市古氏の底本としたものは広本古本系最古の写本である大福寺蔵本であることによるものと思われる。尤も、「つばな」というのは首を傾げるもので、これはイネ科の多年草である「茅(ちがや)」であり、茎を漢方で茅根(ぼうこん)と称して利尿・止血薬とはするものの食用ではない。「おはぎ」は「嫁菜(よめな)」のことで、これは立派な食用野草である。]

Here's looking at you, kid!

“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!

“I wish I didn't love you so much.”――こんなにも貴方を愛さなければよかった。

新たな年をリックとイルザが言祝ぎます――

『女たちから人生を教えて貰いたいとは思ったが――女たちによって人生を決定されたくはなかった――』(ドリュ・ラ・ロシェル)

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