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2013/01/31

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(3)


Heikegani


[平家蟹]

 「へいけがに」は甲の表面に凸凹があつて、それが恰も恨み怒つて居る人の顏の如くに見えるので名高いが、これも姿を隱すことが頗る巧い。普通の「かに」は走るときには四對の足を悉く用ゐるが、「へいけがに」では、四對ある足の中で前の二對だけが匍ふのに用ゐられ、後の二對は上向きに曲つて、常に空いた介殼を支へる役を務める。それ故この「かに」が海の底で靜止して居るときは、恰も死んだ「はまぐり」の介殼が一枚離れて落ちて居る如くに見えて、下に「かに」の隱れ居ることは一寸分らぬ。かやうに「へいけがに」は年中介殼を脊負つて歩き、自身の甲を露出することがないが、常に保護せられて居る體部が次第に弱くなるのは自然の規則であると見えて、他の「かに」類に比べると甲が稍薄くて、内部にある種種の器官の位置が表面から明に知れる。普通の「かに」では甲は厚くて、その表面は平滑であるが、「へいけがに」では筋肉の附著して居る處などが著しく凹んで、心臟のある處、胃のある處、鰓のある處、肝臟のある處が、皆判然と境せられ、その形が偶然人の怒つた顏に似て居るので、平家の人々の怨靈(をんりやう)であるなどとの傳説が仕組まれた。但し、この「かに」は決して平家一同の討死した壇の浦邊に限り産するものではなく、日本沿岸にはどこにも居るであらう。現に東京灣でも、網を引くと幾らも掛つて來る。また前の二對の足は匍行に用ゐられるから、普通の「かに」の足と同じ形狀であるが、後の二對は役目が違ふから形も餘程違つて短く小さく、且尖端の爪は介殼を保つことの出來るやうに半月形に曲つて居る。その上、根元の位置も甲の上面の方へ移つて、甲の後端に近い處から恰も牙が生えて居る如くに左右へ突出して居るので、顏の相が益々鬼らしく見える。この「かに」は生のときは泥のやうな色であるが、「かに」でも「えび」でも煮ると、他の色素は分解して赤色のものが殘るから、一度茹でたら、先年帝劇で平家蟹という外題の狂言に澤山出したやうな赤いものとなるであらう。

[やぶちゃん注:「へいけがに」丘先生の謂いから考えると、甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ Heikeopsis japonica 及び同属の仲間は勿論、ヘイケガニの近縁種で甲羅が同様の人面や鬼面様を呈する種(後述)をも含んだものと考えられる。以下、ウィキの「ヘイケガニ」を参照・引用(引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)する。ヘイケガニ Heikeopsis japonicaの体色は一様に褐色をしており、甲幅・甲長とも二〇ミリメートル程度。甲は上から押しつぶされたように平たい丸みを帯びた台形で、甲は筋肉がつながる位置に明白な溝があって、内臓及び体節の各区域をはっきりと仕切っている。甲羅を上方から見た時、吊りあがった目(鰓域前部)、団子鼻(心域)、固く結んだ口(甲後縁)といった人の怒った表情に確かに見える。第二・第三歩脚は甲と同じく扁平で、甲幅の二倍以上の長さがある。鋏脚は小さいが、♂の鋏脚は右が僅かに大きい。歩脚の後ろ二対は小さな鉤状で、先端に小さな鋏を持つ。本邦の北海道南部・相模湾から紀伊半島・瀬戸内海・有明海、朝鮮半島・中国北部・ベトナムまで東アジア沿岸域に広く分布し、水深一〇~三〇メートル程度の、貝殻が多い砂泥底に棲息する。短い歩脚で二枚貝の貝殻や、棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目カシパン亜目スカシカシパン科 Astriclypeus 属スカシカシパン Astriclypeus manni 等のカシパン類の生体及び死殼、海綿類などを背負って身を隠す習性を持つ。長い脚で水を掻いて泳ぐことも出来るが、この際には腹部を上に向けて背泳ぎをする。産卵期は夏から秋にかけてで、この時期には抱卵したメスが見られる。同様の形状を持つ近縁種としては、

サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata

甲幅は約二五ミリメートル。ヘイケガニに似るが大型で、和名通り、体がザラザラしている。また、♂の鋏脚上面に毛が生える。北海道から台湾までの東アジア沿岸域に分布し、水深二〇~一五〇メートル程度の砂泥底に棲息する。福島県いわき市周辺では、貝殻を被った姿を股旅姿に見立てて「サンドガサ」と呼ぶ。

キメンガニ Dorippe sinica

甲幅約三五ミリメートル。サメハダヘイケガニよりも更に大型で、甲羅には人面に似た凹凸に加え、毛や疣状突起があり、さらに「彫り」が深く、「目」の部分が大きく見開かれ、その外辺部に角のような棘もあって、鬼面に見えるとこから和名がついた。東北地方からオーストラリアまでの西太平洋とインド洋に広く分布し、水深七〇メートル程度まで棲息する。

カクヘイケガニ Ethusa quadrata

甲幅約一〇ミリメートルの小型種。「目」の外辺部に棘があり、甲の形は長方形に近い。相模湾から東シナ海南部にかけて分布し、水深三五~二〇〇メートル程度まで棲息する。

マルミヘイケガニ Ethusa sexdentata

甲幅約三五ミリメートル。「目」の外辺部の棘は短くて前向きである。和名は他種に比べて歩脚の断面が丸みを帯びることに由来する。犬吠埼・対馬以南から鹿児島県沿岸までと、アンダマン海にも分布している。水深四〇~三六〇メートル程度まで棲息する。

イズヘイケガニ Ethusa izuensis

甲幅一二ミリメートルの小型種。「目」の外辺部の棘は大きいが、それよりも四つに分岐した額角が前に出るのと、全身に短毛が生えるが特徴。相模湾から東シナ海南部まで分布し、水深三〇~一一五メートル程度まで棲息する。

などが挙げられる。以下、「甲羅の模様の人為選択説」の項。『ヘイケガニの甲羅の溝が怒った人間の顔に見えることは、明治時代から幾人かの科学者の興味を呼び起こしてきた。 一九五二年に進化生物学者ジュリアン・ハクスレー(Julian Huxley)はライフ誌でヘイケガニを取り上げ、この模様が偶然にしては人の顔に似すぎているため、人為選択による選択圧が作用したのではないかと述べている。この人為選択説では甲羅の模様の成因を、それが顔に似ている程、人々が食べることを敬遠し、カニが生き残るチャンスが増えたため、ますます人の顔に似て来たのだと説明する』。これは、『一九八〇年に天文学者カール・セーガンも、テレビ・シリーズ「コスモス」と同名の著書の中で、このヘイケガニの人為選択について取り上げている。彼は、平氏の亡霊が乗り移ったという伝説が、人間の怒った顔に似た模様が出ている甲羅を持つカニを漁獲するしないの選択に作用しているならば、その伝説が色濃い瀬戸内海、特に壇ノ浦に近いところほど、漁師がこのカニを捕まえるのを嫌がったかもしれず、そうすれば壇ノ浦からの距離が近いほどより人間の顔に近い模様になっているのではないかという仮説を提唱した』(提唱とあるが、これはハックスリーの仮説のまんまである)。『この説については甲殻類学者酒井恒が著書「蟹―その生態の神秘」の中で触れており、ヘイケガニやその近縁種は日本以外の北西太平洋にも分布し人の顔に見える特徴は変わらないこと、化石の段階で既に人間の顔をした模様が認められること、ヘイケガニは食用にならないため捕獲の対象とされないことなどの理由で否定している』とある。これについて、荒俣宏氏は「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」で詳述されており(そこではハックスレーはこの人為選択説を柳田国男を通して酒井に伺いをたてたとある)、ところが、それでもハックスレーはそれでも『自説を捨てきれなかったらしく』、一九五四年八月の「ライフ」『誌上にヘイケガニの繁栄にまつわる記事を寄せている』とある(ハックスレーは二度「ライフ」にこの人為選択説を載せたらしい)。これについて、酒井氏は著書「蟹―その生態の神秘」(一九八〇年講談社刊)の中で次のように述べているとして引用、「平家蟹」の項を擱筆されておられる。この引用が実にいい。カンマ・ピリオドを句読点を変更して引用し、本注の最後としたい。――『へいけがにの面相が動物形態学の上でどのような意味をもつものであるか、またへいけがにの海底における生活がどうであるか、人間生活との関係がいかなるものかを知らないで人間だけの想像力で判断していくと、自然に対してとんだ結論をおしつけることにならないともかぎらない。』――

「先年帝劇で平家蟹という外題の狂言に澤山出した」明治の末年、明治四五(一九一二)年に初演された岡本綺堂作の「平家蟹」。梗概は個人のHP「じゃわ's じゃんくしょん」の平家蟹」を参照されたい。]

耳嚢 巻之六 いぼをとる呪の事 (二話)

 いぼをとる呪の事

 

 雷の鳴る時、みご箒(はうき)にて、いぼの上を二三遍はき候得(さふらえ)ば、奇妙にいぼとれ候由。ためし見しに違はざるよし、人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。定番の民間伝承の呪(まじな)い療法シリーズ。雷の鳴る時という、限定性が面白い。恐らく、雷神と稲霊(いなだま)の霊力がみご箒のアース線を通じてそこに集中するのであろう。

・「みご箒」「みご」とは「稭」「稈心」などと表記し、「わらみご」、稲穂の芯のこと。藁の外側の葉や葉鞘をむき去った上部の茎。藁しべのことを言う。それを集めて作った箒のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣を取る呪いの事

 

 雷の鳴る時に、稈心箒(みごほうき)を用いて、疣(いぼ)の上を二、三遍、掃いて御座れば、奇妙に、疣は取れて御座る由。試して見たところが、間違いないと、人が語って御座った。

 

 

   又

 

 黑胡麻を、いぼの數程かぞへて、土中へ深く埋め置(おき)、右ごまくされ候得ば、いぼも失せ候なり。深く埋(うむ)るは、芽を不出(いださず)、くさらするためなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:疣取り呪(まじな)い二連発。典型的類感呪術ながら、必ず腐らせるという解説部分が呪いの圏外にいる冷静な観察者の妙に論理的な視点で面白いではないか。ここはもしかすると、根岸の附言なのかも知れない。

・「黑胡麻」双子葉植物綱ゴマノハグサ目ゴマ科ゴマ Sesamum indicum の種子。黒ゴマ・白ゴマ・金ゴマという区別は種皮の色の違いであり、それぞれに改良品種がある(参照したウィキゴマ」によれば、ヨーロッパでは白ゴマしか流通していない)。底本鈴木氏注には、『和漢三才図会に、胡麻の花をよくすりこむと、いぼがとれるとある。茄子の液がよいというのは一般的であろう』(底本の刊行は一九七〇年であるが、現在のネット上にもウィルス性イボをナスのヘタで擦過したり、茄子を腐らせた液を塗付することで治癒したとする記載が実際にある)。『中国では塩を塗って牛になめさせると、すす落ちるという説もあるが、和漢とも灸がよくきくといっている。しかし決定的な療法がない故か、まじないや、いぼ神信仰が栄えた』と注されておられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣を取る呪いの事 その二

 

 黒胡麻を、疣の數だけ数えて、土中へ深く埋め置き、その胡麻が腐って御座ったならば、同時期に疣も失せて御座る。深く埋めるのは、芽を出させずに、確実に腐らせるためである。

 

一言芳談 八十

  八十

 明禪法印云、往生は、大事なることのやすきなり。

〇大事なることのやすきなり、大事とおもひてますますはげむべし。やすしと心得て卑下(ひげ)することなかれ。

[やぶちゃん注:「大事なることのやすきなり」これは「大事なることの、やすきことなり」の謂い、則ち、格助詞「の」は連体修飾格ではなく、同格である。――並々ならぬ大切なことであって、同時に簡単で容易いことである――というのである
「やすしと心得て卑下することなかれ」この場合の「卑下する」は、自身を劣ったものとして賤しめるの意であり、往生は大事と心得てますます称名念仏に専心し、同時に如何にも容易なことと素直に思うことが大切――自身が無智蒙昧の凡夫なれば、とてものことに往生など出来ぬに違いないなんどといらぬ卑下などを成してはならぬ――というのである。]

2013/01/30

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 景政社・大佛

  景政社・大佛

 

 

 これより、權五郎景政の社(やしろ)をうちすぎ、甘繩(あまなは)の明神(めうじん)の森。この邊りに盛久(もりひさ)敷皮(しきがは)の跡塚(あとつか)あり。宿屋(やどや)村の先に大佛堂高德院。日朗法師の土の牢(ろう)、此邊(へん)なり。みこしが崎、大佛の濡佛(ぬれぼとけ)にて、數(す)丈の御丈(みたけ)、座像なれども、見あぐるばかりなり。六錢(ぜん)にて大佛の胎内(たいない)をおがましむ。大異山淸淨泉寺(だいゐざんしやうじやうせんじ)といふ。座像の御丈、三丈五尺、膝囘(ひざまは)り、横五間半あり。

〽狂 大(だい)ぶつは

 かまくら山の

ほし月夜

これ白膏(びやくごう)の

 ひかり

  なりけり

「なんと、京の大佛さまのお鼻の穴から、人が唐傘(からかさ)をさして出られるといふ事だが、看板のお鼻がその位(くらゐ)な物(もの)だから、さぞ、お金(きん)玉は、どのやうに大層(そう)な物であらう。貴男(あなた)が座像で、すはつてばかりござるからよいが、あれが、たつておあるきなさる段になつたら、あのお金玉が、邪魔になつて、おひろいなさりにくからうから、大きな紙帳(してう)の中へでも、お金玉をいれて、首にかけてゞも、おあるきなされずばなるまい。儂(わし)も、疝氣(せんき)で人並みより金玉がおほきいから、普段、袋にいれて首にかけてあるきますが、さてさてこんな邪魔な物はない。しかし、儂にはまた重宝なこともござります。この間も、講中(こうぢう)と一緒に勸化(くはんげ)にでた時、儂は首にかけてある金玉をたゝいて、『おんあぼきやあへいるしやな』といつてあるきました。」

[やぶちゃん注:「權五郎景政の社」現在の御霊神社。

「甘繩(あまなは)の明神」現在の甘繩神明神社。

「盛久敷皮の跡塚」盛久頸坐(くびざ)とも。現在、江ノ電由比ヶ浜駅の北、由比ヶ浜通り長谷東町バス停近くに同定されているが、庚申塔数基が残るのみ。「盛久」は平家家人主馬(しゅめ)盛久。詳しい伝承と考証は「新編鎌倉志卷之五」の「盛久頸座」の条と私の注を参照されたい。

「宿屋村」現在の光則寺辺の呼称らしいが、鎌倉地誌ではあまり聞いたことがない。得宗被官であった宿屋光則(やどや みつのり 生没年不詳)の旧自邸が光則寺である。『光則は日蓮との関わりが深く、日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。日蓮の書状には、宿屋入道の名前で度々登場している。日蓮が捕縛されると、日朗、日真、四条頼基の身柄を預かった。日朗らは光則の屋敷の裏山にある土牢に幽閉された。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として光則寺を建立した』(以上はウィキの「宿屋光則」より引用)。大仏高徳院を挟んで、「日朗法師の土の牢此邊」とあるが、日朗の土牢は光則寺のすぐ裏にあって、この辺りも、どうも一九は実地踏査を行っていない嫌いがある。

「みこしが崎」御輿嶽(みこしがたけ)。大仏東北方から大仏の後ろを西へ回り込んだ霊山ヶ崎までの山並みを呼称する。

「大異山高德院淸淨泉寺」と高徳院同一。

「白膏」「白毫」が正しい。眉間白毫相のことで、表記は「びやくがうさう(びゃくごうそう)」が正しい。仏の三十二相の一。仏の眉間にあって光明を放つ長く白い巻き毛。仏像では水晶などをはめ込んだり浮き彫りにしたりして表わす。私は思わず、一九が膏薬を額に張り付けているのに洒落のめしたのかとも思ったが、真相は不明。

「貴男(あなた)」は「彼方」(に坐(おは)すの意)かも知れないが、金玉の叙述から、かく当てた。

「おひろい」の「ひろい」は「拾ひ」で、この場合は、高貴な人が泥濘(ぬかるみ)でない場所を拾うようにして歩む、の意から生じた、徒歩で行くことの尊敬語である。

「紙帳」紙をはり合わせて作った蚊帳。防寒具にも用いたから、ここはそれを袋状にして首から掛けられるようにした支持具。

「疝氣」「疝積」とも言った近代以前の日本の病名。当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つ。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある。一方、津村淙庵(そうあん)の「譚海」(寛政七(一七九五)年)には大便をする際に出てくる白く細長い虫が「せんきの虫」であると述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人は、それをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、( )内の寄生虫の注は私のオリジナルである)。ここでは睾丸の腫脹が顕著であるから、睾丸炎が候補とはなるが、「普段、袋にいれて首にかけてあるきます」という表現が誇張でないと考えると、これは「大金玉」、象皮病で知られる人体寄生性のフィラリア症、バンクロフト糸状虫 Wuchereria bancrofti 感染後遺症としてを引き起こされた陰嚢水腫の可能性が頗る高いものと私は判断する。信じられない方は群馬県高崎市小八木町はっとり皮膚科医院HPの服部瑛氏の「錦小路家本『異本病草紙』について-その5 フィラリア症」をご覧になられたい。ページ下方に俵のように腫脹した患者の医学記録写真があるが、この手の画像に免疫のない方には、クリックをお勧めしない。

「勸化」一般的な謂いでは、僧が仏寺仏像を造営するため、信者に寄付を勧めて集める、勧進を言うが、ここでは単なる講中連中との寺社参りを言っている。

「おんあぼきやあへいるしやな」これは密教経典である「不空羂索神変真言経(菩提流志訳)」や「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言(不空訳)」に説かれる光明真言(正式名称は不空大灌頂光真言)という密教の真言に冒頭、「オン アボキャ ベイロシャノウ」の、音写である。漢訳「唵 阿謨伽 尾盧左曩」、意味は「オン」が聖音の「オーム」で、以下、「不空なる御方よ 毘盧遮那仏よ」の意(以上はウィキ光明真言に拠る)。最後の部分の「るしやな」は漢訳で分かる通り、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)=大日如来を指す。高徳院の鎌倉大仏は無量光仏=阿弥陀如来である。まあ、著名な與謝野晶子も「鎌倉やみほとけなれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな」と誤っているぐらいだから、この洒落も許容範囲の内。]

耳嚢 巻之六 妖は實に勝ざる事

 妖は實に勝ざる事

 

 ある僧、祈禱・呪(まじな)いなんどをなして、藝州の家中へも立入りけるが、信仰の者も多く、人々の手を出させ惡血(あくち)をとり候由にて、小刀を拳(こぶし)の上へ釣りて持(もち)、勿論拳へ小刀はつかざれど、手の甲より血ながれ出る事奇妙なりと、いづれも不思議がりしを、物頭(ものがしら)を勤(つとめ)ける、名は聞落(ききおと)せし由、大に憤り、妖僧の爲に武家の身としてたぶらかされ、其身より血の出るを不思議なりと稱する事歎しき事にて、藝州一家中に、右體の妖僧を屈伏させざる事、外聞ともに不宜(よろしからず)、我も右僧に對面せんとて面會いたし、我等も惡血有べき間、とりて給(たまは)り候へかしと手を出しけるに、彼(かの)僧いへるは、御身に惡血なし、とるに及ばざる由を答へければ、彼物頭申けるは、惡血あるなしは如何してわかり候や、惡血在者(あるもの)、血をとりて見せ給へと責(せめ)けるに、彼僧甚だこまりて、今日は不快の由斷りければ、彼物頭氣色を替、不快にたくし斷(ことわり)なれども、我等も望(のぞみ)かゝりし事なれば是非見申度(まうしたく)、其業(わざ)難成(なりがたき)上は全く人を欺く賣僧(まいす)の所業なりと、切(きつ)て捨てべき勢ひゆゑ、彼僧大いに恐れ、誤(あやまり)入る旨申ければ、然る上は當家江戸在所共、急度立入申間敷(きつとたちいりまうすまじく)、武士の手へ刄(やいば)を當(あて)ず血を取る抔と妖法をなす段、不屆の至りなりと大きに愧(はぢ)しめければ、彼僧も(一トちゞみに成り)鼠の如く迯(にげ)歸りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖しげな僧のマジックを気骨ある武士が喝破する変形ではあるが、武辺譚連関。しかし、この話、既出の「耳嚢 巻之二」「妖術勇気に不勝事」にコンセプトが完全に酷似している。しかし、これだけ似ていると、これを記しながら、根岸がその酷似に気づかなかったことは考え難く、やはり、「妖術勇気に不勝事」で注したように、根岸は都市伝説として再三蘇えってくるものをも、煩を厭わず(というより、プラグマティックに言えば、百話、ひいては既にターゲットとして意識し始めていたであろう千話の数を稼ぐためと言ってもよいであろう)洩れなく記そうとしたものとも思われる。しかし、こういう話柄が複数存在するということは、こうした下らないマジックを以って取り入った連中が実際に多くいたこと、それ以上に騙される連中たちが多かった事実を示すものでもあろう。因みに、この血は勿論、被験者の血ではなく、僧によって用意された血糊であると思われる(疵が少しでも残れば、これはいっかな腰抜け侍でも気色ばむ)。甲を凝視させていれば、上から(例えば袖に隠し持った)血糊を降り掛けても、恰も甲から噴き出したように錯覚する。いや、もしかすると、何らかの薬物二薬の化学反応を用いているのかも知れない。事前に透明な甲薬を秘かに手の甲の上に塗っておき、呪いの途中で透明な乙薬を秘かに降り掛けて発色させているのかも知れない。物頭は恐らく自分の目の位置まで拳を挙げ、僧の裾の内や、僧が手の甲に触れようとする瞬間を凝っと観察していたものと思われ、僧のトリックがどうやっても見破られる見方であったのであろう。そういうシチュエーションで訳してみた。

・「物頭」武頭(ぶがしら)とも。弓組・鉄砲組などを統率する長。

・「惡血在者(あるもの)」実は底本では、ここは『惡血在者(あらば)』(「在者(あらば)」は底本のルビ)となっている。しかし、これでは如何にも文意が通り難い。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に『悪血あるもの血を取て見せ給へ』とあるのを参考に読みを変えた。

・「(一トちゞみに成り)」底本には『(尊經閣本)』によって補正した旨の傍注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖術は誠心に勝てぬという事

 

 ある僧、祈禱・呪(まじな)いなどをなして、安芸国の御家中へも大手を振って立ち入って御座ったが、この妖しげな僧を信仰する者も、これ多く、何でも、人々に手を出ださせ、

「悪血(あくち)をとり申そうず。」

との由にて、小刀(さすが)を拳(こぶし)の上へ釣り下げて持ち――勿論、一切、拳へ小刀の刃先も刃も接することは、これ、無きにも拘わらず――見る見るうちに、

……じんわりと

……手の甲より

……一筋の血が流れ出でて参る――

「……いや! まっこと、奇妙なことじゃ!……」

と、誰もが不思議がっておったを、たまたま物頭(ものがしら)を勤めて御座った――姓名は聞きそびれたとの由――大いに憤り、

「――妖僧がために、武家の身でありながら、誑(たぶら)かされたばかりか――その御主君がための、一箇の大事なる肉身(にくみ)より――あろうことか、血の吹き出ずるを、これ、不思議なり、なんどと称すること、これ、甚だ歎かわしきことじゃ! 安芸国一家中にあって、右体(てい)の妖僧を屈伏させずにおると申すは――これ、武士の一分に於いても――また御当家の外聞に於いても、宜しからず!――我らも、その僧とやらに対面(たいめ)せん!」

と、即刻、呼びつけて面会致いた。

 しかして、

「――我らも悪血あるによって、お取り願おうではないか。」

と、

――グッ!

と、握った手を僧の眼前へ、

――ヌッツ!

と、己れの目の高さに突き出だいて、

――キッ!

と、眼を据えて、僧の挙措動作を凝っと睨んで御座った。

 すると、かの僧の言うことに、

「……い、いや……御身には、これ……悪血は御座らぬ……取るには、及びませぬて……」

と答えたによって、かの物頭、畳み掛けて、

「――悪血の有る無しは、これ、如何して分かって御座るものか!――我らにない、となれば――では――悪血有る者を、ここに呼ぶによって、その悪血を、取って見せ給え!」

と責めたてたところ、かの僧、甚だ困惑致し、

「……いや、そのぅ、今日は……拙僧、聊か気分が、すぐれざれば……」

とか何とか申し、断って御座ったゆえ、かの物頭、痛く気色ばんで、

「不快を口実の断りなれども、我らも、たっての望み――相応の覚悟を掛けてのことなればこそ――是非とも見申したく存ずる!……もしも……その業(わざ)、成しがたしと申す上は――これ、全く以って、人を欺く売僧(まいす)の所業じゃッ!!」

と、太刀の柄に手を添え、今にも斬って捨てんとの勢いで御座ったゆえ、かの僧、大いに恐れ、

「……お、お許し下されぃ!……へっ! どうか、ご勘弁のほど!……」

と這い廻る如、ひらに謝ったによって、物頭曰く、

「――然る上は、向後、当家江戸・在所ともに、急度(きっと)、立ち入らざること!――そもそも、武士が手へ、刃(やいば)を当てずに血を取るなんどと申す、いかがわしき法をなす段! これ、不届き至極! 淫猥なる僧形の悪人めが! とっとと、国境(くにざかい)を越えて消え失せるがよい! 二度とその腐った面を!――見せるでない!!」

と大いに辱め、罵倒致いたによって、蟇蛙の如、這い蹲って御座ったかの僧は、

――ギュウッ

さらにひと縮み致いて、今度は鼠の如、逃げるように退出致いた、とのことで御座る。

一言芳談 七十九

  七十九

 

 正信(しやうしん)上人云、念佛宗は、義なきを義とするなり。

 

〇義なきを義とす、念佛往生の別の仔細なしといふが淨土宗の義門なり。

 

[やぶちゃん注:「正信」湛空(安元二(一一七六)年~建長五(一二五三)年)は浄土僧。

右大臣徳大寺公能(きんよし)の子。初め比叡山に登り、第六十六代天台座主実全に師事して顕密二教を学んだ後、法然に帰依、その四国への流罪にも従ったとされる。師の死後は嵯峨の二尊院にあって、師の遺骨を迎えて宝塔を建立して更なる布教に勤め、その門下は嵯峨門徒と呼ばれた。正信房は号。

「義なきを義とする」これは唯円の「歎異抄」第十条の冒頭に、親鸞の直話として、

念佛には無義をもて義とす。不可稱、不可説、不可思議のゆえに、とおほせさふらひき。

と出る。この「義」について、例えば、大橋氏『理屈』と訳され、その他にも「歎異抄」では『義は宣ということ。善を善とし惡を惡として判斷するこ、つまり、はかろうこと』(相和二九(一九五四)年刊角川文庫・梅原真隆氏訳註「歎異抄」の注)、『思い計』ること・『人間の判断』(昭和四七(一九七二)年刊講談社文庫・梅原猛校注「歎異抄」の注)、『みづからの〈知〉のはたらきによって捉えた法義、教理』(青土社平成四(一九九二)年刊・佐藤正英「歎異抄 論注」とある。要は、この逆説自体が、こざかしい人智の「判断」という移ろい易い虚妄の現象を開示するメタな言説であると私は考えている。]

2013/01/29

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 腰越 星の井 初瀨觀音

      腰越 星の井 初瀨觀音

 

 江の嶋をいでゝ、腰越(こしごへ)の漁師町をうちすぎて、七里の濱つたひ、向かふに安房上總(あわかづさ)の山々を見わたし、景色よし。されども、砂道にて難儀なり。此間(あいだ)、牛にのりてよし。この中程に行合(ゆきあい)川といふあり。日蓮上人御難儀の時、鎌倉の使(つか)ひと遣使(けんし)よりの使ひと、行合(ゆきあひ)しところなりといふ。

〽狂 たいくつさあともどりする

 すなみちをのりたるうしの

      よだれだらだら

「なんと子僧、この中で、俺(おれ)が一番よい男だらう。この邊にも、俺がやうなよい男はあるまい。どうだ、どうだ。」

「お前、まづ錢(ぜに)をくれさつしやい。錢をくれたら、ほめてやりませう。ひよつと先へほめて、錢をくださらぬと損だから、錢から先へくれさつしやい。」

「こいつ、如才(じよさい)のない子憎めだ。こつちも、そのとほり、さきへ錢をやつて、ひよつとほめてくれないと、こつちの損だから、先錢(さきぜに)は御免だ。」

「そんなら、くれずとおりつしやい。もらつた所が、どふも、褒め樣(やう)のない顏だから、わしも、もらはぬ方が氣が樂でよふござるよ。」

 濱邊より鎌倉道(かまくらみち)いる所(ところ)に茶屋あり。こゝにて鎌倉の繪圖(ゑづ)をいだし、講釋してこれをあきなふ。横手原(よこてはら)、日蓮上人の袈裟掛松(けさかけまつ)あり。それより虛空藏堂(こくうぞうだどう)、星の井(ゐ)。村立場(たてば)、茶屋おほし。これより、初瀨(はせ)の觀音あり。海光山(かいくわうさん)といふ。坂東巡禮四番の札所なり。

〽狂 煮(にへ)かへりあせふく

      ばかり

 めしをたく

      かまくら

  みちの

   夏(なつ)の旅人(たびゝと)

旅人

「ヲヤ、この婆(ばあ)さまは、たれもきかうといひもせぬのに、この繪圖の講釋をして、その代(だい)を十二文とるのか。よしよし、こなたのいつたとほり、儂がよくおぼへたから、此方(こなた)へ儂が講釋してきかせやうから、その十二文こつちへかへしなさい。」

「そんなら、お前、よくおぼへさしやいな。てふど、つい、向かふにやすんでござるお方へ、お前、講釋をしてあげてくれなさい。その錢はこつちへとつて、それでてうど、よふござらう。」

「婆さま、こゝの家(うち)に娘はないか。あるなら、だして見せなさい。婆さまと娘では茶代の置き樣(やう)がちがいます。」

[やぶちゃん注:「日蓮上人御難儀」日蓮四大法難の一つである龍ノ口の法難。文永八(一二七二)年九月十三日、「立正安国論」を幕府に奏上した日蓮が捕らえられ、龍ノ口の刑場(後に竜口寺となる)で斬首されんとした事件。江ノ島上空に黒雲が湧き起り、妖しい光球が首切り役人の刀に落ちて、刑が滞ったとする。同時に幕命によって処刑が中止され、その双方の使者(本文の「鎌倉の使ひ」が幕府からの中止命令を携えた使者、私が「遣使(けんし)よりの使ひ」と漢字で当てたのが、斬首実行部隊が妖異によって執行が出来ない旨を幕府に伝えるための伝令)行き合ったところが行合川と伝えるが、実際には、当時の執権北条時宗夫人覚山尼が懐妊中(十二月に後の第九代執権貞時を出産)であったことから、悪僧とはいえ、祟りを恐れて一等減じ、佐渡配流となっていたものを、絶大な権勢を恣にしていた北条家執事平頼綱による独断専行の処刑が停止されたものとする説を私は採る(皮肉にも後に貞時によって頼綱は誅殺されている)。また、御家人の中には宿屋光則を始めとして日蓮のシンパサイザーも頗る多く、後にこうした伝説が容易に形成され得たものと私は考えている。私は話柄としては面白いが、こうした宗教人のスーパー・マジック的なパフォーマンス伝承の類いが、頗る附きで嫌いであることだけは言っておきたい(だから、今まで鎌倉地誌書の注でもこのことを語ることを私は敢えて避けてきたのである)。

「牛にのりてよし」牛が当時、こうした砂浜海岸での旅人の足として機能していたことは私には面白く感じられる。また、全くの偶然であろうが、養和二(一一八二)年(五月二十七日に寿永に改元)の「吾妻鏡」の四月五日の条に、頼朝が、このルートの、腰越側の金洗沢で牛追物を催していることが、どうにも頭に絡みついて離れないのである(私の電子テクスト「北條九代記 賴朝腰越に出づる 付榎嶋辨才天」などを参照されたい)。

「なんと子僧、この中で」鶴岡氏は『なんと子僧ッ子の中で』と判読されておられるが、「ッ(ツ)」には見えないし、それでは文意が通じない。

「ひょつと」副詞の「ひょっと」であるが、最初の牛引きの小僧の台詞のそれは、うっかりの意、後の乗客の謂いは、万一の謂いがしっくりくる。

「先錢」ここでは乗車賃ではなく、酒手(絵の少年だとお駄賃か)の謂いであろう。

「横手原」「新編鎌倉志卷之六」の「稻村〔附稻村が崎 横手原〕」に、

此海濱を横手原(よこてばら)と云ふ。【太平記】に、新田義貞、廿一日の夜半に、此處へ打ち蒞(のぞ)み、明け行く月に、敵の陣を見給へば、北は切通(きりとをし)〔極樂寺也。〕まで、山高く路嶮しきに、木戸を構へ、垣楯(かひだて)を搔いて、數萬の兵陣を雙(なら)べて並居たりけり。南は稻村崎まで、沙頭路狹(せば)きに、浪打涯(なみうちきは)まで逆木(さかもぎ)をしげく引懸て、澳(をき)四五町が程に、大船共を並べて矢倉(やぐら)をかき、横矢射(よこやい)させんと構へたり。誠(げ)にも此陣の寄手(よせて)、叶はで引ぬらんも理り也と見給へば、義貞馬より下(を)り給ひ、海上を遙々と伏し拜み、龍神に向て祈誓し給ひければ、其夜の月の入方に、前々更に干る事もなかりける稻村が崎、俄に二十餘町干上つて、平沙渺々たり。横矢射んと構へたる數千の兵船も、落ち行く潮にさそはれて、遙かの澳に漂へりと有は此所なり。故に横手原とは名くるなり。

とある。現在の稲村ガ崎二丁目、江ノ電稲村ヶ崎駅入口付近に相当する。

「日蓮上人の袈裟掛松」「新編鎌倉志卷之六」には、

日蓮袈裟掛松 日蓮の袈裟掛松(ねさかけまつ)は、音無瀧(をとなしのたき)の少し南なり。海道より北にある一株の松なり。枝葉たれたり。日蓮、龍口(たつのくち)にて難に遭し時、袈裟を此松に掛けられたりと云傳ふ。

とある、そこで私は以下のように注した。『掛けたのは袈裟を血で穢すのは畏れ多いとしたからとされる。現存せず、碑が立つのみであるが、現在、その碑は十一人塚を極楽寺方向へ百五十メートル程行った箇所に立っている。先に掲げた絵図[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之六」参照。]を見ると、不思議なことが判明する。絵図ではまさに現在の日蓮袈裟掛松跡に「音無瀧」と記されているのである。そして、絵図の「十一人塚」と「音無瀧」の位置関係から見ると、絵図の「日蓮袈裟掛松」が存在したのは現在の江ノ電稲村ヶ崎駅のすぐ西、何と現在「音無橋」と名が残る音無川の辺りに比定されるように見えるのだ。だから何だと言われそうだが、何だか私には不思議な感じがするのである』。

「虛空藏堂」極楽寺切通を抜けて下った坂の下、左側、次の星月夜の井の上方にある。星月山星井寺(せいげつさんせいせいじ)と号し、江戸期から成就院の持分であるが、この部分の描写、甚だ違和感がある。所謂、極楽寺及び同切通を含む部分が、記載からごっそり抜け落ちているからである。私は、一九はここを実際には踏破していない疑いが濃厚であるように思われる。

「星の井」星月夜の井。

「村立場」人足や駕籠掻きなどが休息する場所。

「茶屋おほし」鶴岡氏は『飴(あめ)屋おほし』と判読されておられるが、どうみても「あめや」とは読めない。「ちやや」である。立場なら、なおのこと、茶屋でこそ自然である。

「初瀨の觀音」長谷観音、長谷寺のこと。寺伝によれば、天平八(七三六)年に大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老五(七二一)年に徳道は楠の大木から二体の十一面観音を造り、その一体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう一体(末)を祈請の上で海に流したところ、その十五年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされており(以上はウィキの「長谷寺(鎌倉市)」に拠る)、大和の長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山である(但し、現在の鎌倉の長谷寺は慶長一二(一六〇七)年の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗している)。

「そんなら、お前、よくおぼへさしやいな。てふど、つい、」の部分は鶴岡氏のテクストから脱落している。画像左中央の講釈する老婦の絵図の直ぐ上にあり、失礼ながら、鶴岡氏が見落としたものと思われる。私の拙い判読の内、最後の「つい」は自信がない。識者の御教授を乞うものである。しかし、この部分が、「旅人」のではなく、この「婆さま」の台詞であってみれば、実にこのシーンの問答はすんなりと通るように思われるが、如何?]

西東三鬼 『變身』以後

これを以って僕のブログ・カテゴリ「西東三鬼」では、三鬼の知られた通年の、絶筆に至る主たる作品群を電子化し終えることとなる。


■『變身』以後
(角川書店より昭和五五(一九八〇)年四月に刊行された「西東三鬼読本」収載分)

[やぶちゃん注:ここは底本に、歴史的仮名遣に準拠した朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。]

昭和三十六(一九六一)年

蜂蜜に透く永片も今限り

耳嚙んで踊るや暑き死の太鼓(ボンゴ)

  山口誓子先生還曆祝句

黑松の鳴り立つ十一月三日

 奧の細道

  福島、しのぶの里

深綠蔭の嚴男來る女來る

  佐藤兄弟墓

燒石の忠義兄弟いまは涼し

[やぶちゃん注:福島県福島市医王寺にある源義経の忠臣であった佐藤継信・忠信兄弟の墓。]

  作並温泉

爺と婆深靑谷の岩の湯に

  多賀城址

哭きつつ消えし老人靑胡桃

夏草の今も細道俳句の徒

  塩竈、佐藤鬼房と行を別つ

男の別れ貝殼山の冷ゆる夏

[やぶちゃん注:佐藤鬼房(おにふさ 大正八(一九一九)年~平成一四(二〇〇二)年)は岩手県釜石市出身の俳人。本名、喜太郎。塩竈町立商業補習学校卒業後、『句と評論』に投句。渡辺白泉の選句を受ける。徴兵を経て、戦後は西東三鬼に師事。山口誓子主宰の『天狼』」同人を経て、昭和六〇(一九八五)年に宮城県塩竈市で『小熊座』を創刊、主宰した(以上はウィキの「佐藤鬼房」に拠る)。「貝殼山」は牡蠣殻の山で固有名詞ではあるまい。]

  松島

夏潮にほろびの小島舟蟲共

  瑞巖寺

一僧を見ず夏霧に女濡れ

  圓通院

蟬穴の暗き貫通ばらの寺

[やぶちゃん注:「圓通院」「えんつういん」と読む。宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の寺院。瑞巌寺の南側に隣接している。十九歳で早世した伊達政宗の孫光宗の菩提寺。光宗の霊廟三慧殿の厨子には、慶長遣欧使節を率いた支倉常長がヨーロッパから持ち帰ったバラと、フィレンツェを象徴する水仙が描かれており、この厨子のバラをヒントに先代住職天野明道が、「白華峰西洋の庭」(六千平方メートル余)に色とりどりのバラを植え込んで開放したため、通称、薔薇寺と呼称される。但し、現在はバラの数は少なくなり、境内いたるところに苔を配し、苔の寺として知られるようである(以上はウィキの「円通院」その他を参照した)。]

信じつつ落ちつつ全圓海の秋日

颱風一過髮の先まで三つに編む

[やぶちゃん注:底本では「颱風」の表記は「台風」。過去の作例から「颱風」を採った。]

露けき夜喜劇と悲劇二本立

父と兄癌もて呼ぶか彼岸花

蟲の音に體漂へり死の病

海に足浸る三日月に首吊らば

入院や葉脈あざやかなる落葉

昭和三十七(一九六二)年

 魔の病

入院車へ正坐犬猫秋の風

病院の中庭暗め秋の猫

  手術前夜

剃毛の音も命もかそけし秋

  手術後

赤き暗黑破れて秋の顏々あり

  術後二週間一滴の水も與えられず

這ひ出でて夜露舐めたや魔の病

切り捨てし胃の腑かはいや秋の暮

[やぶちゃん注:前書の「與えられず」の「え」はママ。]

  退院

煙立つ生きて歸りし落葉焚

[やぶちゃん注:ここまでの六句は沖積舎刊の「西東三鬼全句集」によれば、同年『天狼』一月号収載句で、手術から退院は先の句集『變身』の最後に注した、前年十月の出来事。吟詠も、即吟か、前年末にかけての作である。]

縱横の冬の蜜蜂足痿え立て

[やぶちゃん注:底本ではこの句の前に「*」を挟む。この句から「木枯に」までの七句は沖積舎刊の「西東三鬼全句集」によれば、『天狼』二月号収載句。]

降りつもる落葉肩まで頭上まで

病み枯れの手足に焚火付きたがる

犬猫と夜はめつむる落葉の家

枯るる中野鳩の聲の香生訓

ばら植ゑて手の泥まみれ病み上り

  「體内の惡しきものきり捨つべし」靜塔の手紙

木枯にからだ吹き飛ぶ惡切り捨て

神の杉傳ひて下る天の寒氣

ひよどりのやくざ健やか朝日の樹

死後も犬霜夜の穴に全身黑

餠のかびいよいよ烈し夫婦和し

[やぶちゃん注:「いよいよ」の後半は、底本では踊り字「〱」。]

添伏しの陽氣な死神冬日の濱

木枯のひびく體中他人の血

ついばむや胃なし男と寒雀

大寒の富士なり天に楔打ち

寒鴉口あけて呼ぶ火山島

音こぼしこぼし寒析地の涯へ

[やぶちゃん注:「こぼしこぼし」の後半は底本では踊り字「〱」。]

聲要らぬ春の雀等光の子

地震來て冬眠の森ゆり覺ます

ぐつたりと鯛燒ぬくし春の星

春の海近しと野川鳴り流る

海南風女髮に靑き松葉降らす

靑天に紅梅晩年の仰ぎ癖

人遠く春三日月と死が近し

陽炎によごれ氣安し雀らは

鷄犬に春のあかつき猫には死

木瓜の朱へ這ひつつ寄れば家人泣く

春の入日へ豆腐屋喇叭息長し

春を病み松の根つ子も見あきたり

[やぶちゃん注:最後の句は下に『絶筆(三月七日作)』と附す。]

耳嚢 巻之六 物の師其心底格別なる事

 物の師其心底格別なる事

 

 享保の末、元文寛保の頃なりし。鑓劍(さうけん)の師範せし吉田彌五右衞門龍翁齋といへるありしが、弟子もあまたありて師範も手廣くなしけるが、又其頃、是も素鑓(すやり)の師範せし浪人山本雪窓と云ふもの、同じく牛込にありて、年も七十餘にて門弟も少々はありしが、至(いたつ)て貧窮にて渡世なしけるを、彌五右衞門弟子石岡千八といへる剛氣もの、雪窓方へ至り、龍翁齋の門弟にて印可も申請候得(まうしうけさふらえ)ども、他流の立會も不致間(いたさざるあいだ)、兼て承り及び候間、立合呉(くれ)候樣いたし度(たし)と申ければ、雪窓も打笑ひて、兼て彌五右衞門は師範も廣くいたされ、流儀の樣子も粗承及(ほぼうけたまはりおよび)候處、面白き事にて上手の由承りをよび候、我等は老年に及び殊に藝も未熟故、なかなか各(おのおの)と立合候やう成(なる)事には無之(これなく)、未鍊比興(みれんひきやう)にも可被存(ぞんぜられべく)候得ども、浪人のすぎわい外に無之(これなき)故、執心の人には師範いたしすぎわひに致(いたし)候間、仕合等の儀御免の樣(やう)いたし度(たき)旨、和らかに述ければ、千八もせん方なく立歸り、彌五右衞門稽古場へ出(いで)、雪窓はさてさて役にたゝざる師匠にて、かくかくの事なりとあざけり語りけるを、彌五右衞門聞(きき)て大(おほい)に憤り、武藝は其身の爲に修行なして、なんぞ他の批判勝劣を爭ふべきや、其方(そのはう)は雪窓に勝(かち)候心得に有(ある)べけれど左にあらず、雪窓に慰さまれたるなり、是より雪窓方へ參り、先刻の不調法後悔いたし候由を申、幾重にも侘いたし可然(しかるべし)、其儀難成(なりがたく)候はゞ以來破門の趣(おもむき)、急度(きつと)申ける故、千八も實に後悔の樣子なれど、尚(なほ)すまざるや、三男なりける鑓次郎差添(さしそへ)て雪窓方へ千八を遣はし佗させけるに、かゝる勇剛の心あれば、さこそ藝も被勵候畢(はげまれさふらはん)、能き御弟子なり、いさゝか雪窓心にかけざると、よくよく彌五右衞門へも達し給(たまひ)候樣申けると也。雪窓は一生浪人にておわりけるが、悴(せがれ)は當時大家へ被抱(かかへられ)、鑓術(さうじゆつ)の師範致しけると、彌五右衞門三男鑓之助、當時吉田一帆齋とて鑓術の師をなしけるが、右一帆齋かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関;感じさせない。本格武辺物。

・「享保の末、元文寛保の頃」享保は二十一(一七三六)年に元文に改元しているから、享保十八(一七三三)年頃から延享元・寛保四(一七四四)年までの間となる。

・「吉田彌五右衞門龍翁齋」作家隆慶一郎氏の公式サイト「隆慶一郎わーるど」の資料にある、清水礫洲(れきしゅう 寛政一一(一七九九)年~安政六(一八五九)年)は江戸生まれの儒者であるが、槍術剣術などの武術に優れ、沼田逸平次について伊勢流武家故実を修めた。天保一二 (一八四一) 年より伊勢長島藩藩儒として仕えた。)の「ありやなしや」に、礫洲が指南を受けた槍術として、酒井要人なる人物を掲げ(引用はリンク先のものを恣意的に正字化した)、

酒井要人(此頃は牛が淵櫻井藏之介地面に住す。顯祖。名正徳。字俊藏。號赤城山人。又淡菴。上毛人。謙山先生第二子。嘉永三年五月歿。齡八十三。葬小石川小日向日輪寺。配安平氏生四男一女。長即先人。次曰正則。次曰正順。出冐大橋氏。李曰正春。本編跋文其所撰也。女適村田氏。文久中。幕府建武場。養子要人。與淸水正熾等同徴。爲槍術教授)これはもと濱松水野家(遠江濱松水野越前守)の浪人吉田彌五右衞門といへるの高弟にて、小野派一刀流劍術、高田派寶藏院流槍術を指南す。御旗本に數百人の門弟あり。先人の門人なれば、余も若年には二術ともにその人に學べり。後に小川町今川小路に轉宅せり。今の要人は養子なり。

とあり、この「吉田彌五右衞門龍翁齋」なる人物が浜松水野家の浪人であったこと、高田派宝蔵院流槍術の師範であったこと、その高弟が「御旗本に數百人の門弟あり」とあるのだから、その師が相当な遣い手であったことが偲ばれる。

・「未鍊比興」未練卑怯に同じい。「卑怯」は元来は「比興」と書くのが正しいともされる。

・「三男なりける鑓次郎」「彌五右衞門三男鑓之助」底本では、それぞれの通称部分の右に『(ママ)』表記あり。武士の名はしばしば改名されたし、必ずしも次男が次郎という訳でもないので、そのまま用いた。なお、この「吉田一帆齋」なる人物については、「広島県史 近世2」に、

一帆斎流

 天明~寛政期に吉田一帆斎という浪人が広島城下で剣・槍・長刀を教え、時の藩主、浅野重晟もその業前を見たという。

とある(個人ブログ「無双神伝英信流 渋川一流…道標」の広島の剣術流派 3から孫引き)。浅野重晟(しげあきら 寛保三(一七四三)年~文化一〇(一八一四)年)は安芸広島藩第七代藩主。事蹟的にも時間的にも齟齬はない。この自ら新流を起こした人物と同一人であろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 如何なるものにてもその師なる御仁のその心底は格別である事

 

 享保の末、元文・寛保の頃のことと申す。

 鑓剣(そうけん)の師範たる吉田弥五右衛門龍翁斎と申す御仁が御座った。弟子もあまたあって、師範として指導も手広く勤めて御座った。

 またその頃、これも素鑓(すやり)の師範を致いておった浪人山本雪窓と申す御仁が、同じく牛込にあった。雪窓殿は、これもう、齢(よわい)、七十余りにて、門弟も少しはあったものの、こちらは、至って貧窮にて、渡世して御座ったと申す。

 さて、ここに、弥五右衛門殿の弟子石岡千八と申す剛毅の者が御座ったが、或る日、雪窓方へ至り、

「――龍翁斎の門弟にて印可も申し請けておりまする者なれど、他流との立ち合い、これ、かつて致さざるゆえ、兼ねてより、雪窓殿が御名声、承り及んで御座るによって、お立ち合い下さるよう、お願いに参上致いた!」

と申したところ、雪窓、うち笑(わろ)うて言うことに、

「……兼ねて弥五右衛門殿は師範も手広く致され、その高田派宝蔵院流槍術流儀も、ほぼ承り及んで御座る。……それはもう、心惹かるるほどの上手の由、承って御座る。……我らは、これ、老年に及び、しかも、ことに鑓の芸なんども未熟なればこそ……なかなか、他流の御方々とも立ち合い致すようなる分際にてはこれなく……未練にして卑怯なる者ともお思いにならるるものかとは存ずるが……我らの素鑓の指南は、これ、貧乏浪人の生業(なりわい)以外のなにものにても御座なく、鑓術好きで、たってと言わるる御仁に形ばかりの師範を致すという程度の……まあ、食い扶持を得んがための生業として、ぼんくら鑓を振り回しておる輩(やから)に過ぎざる者なれば……試合の儀は、これ、何卒、ひらに御免下さるよう、お願い申し上ぐる……」

といったことを、実に和(なご)やかに述べて辞したによって、千八も、詮方なく、立ち歸って御座ったと申す。

 さて、千八儀、そのまま弥五右衛門方の稽古場へ出でて、

「――かの噂に聴いた雪窓なる御仁、これ、さてさて、役にたたぬ老い耄れお師匠(っしょう)さまにて、他流試合を申し込んだら、かくかくの体(てい)たらくじゃったわ! ハハハ!」

と同門の仲間に嘲り語って御座ったを、弥五右衞門が耳にし、大いに憤り、

「――武芸はその身のために修行をなすものじゃ! これ、他流他者を批判致し、その技の勝劣を爭うことが目指すにては、これ、ない!――その方は、今、雪窓に勝った――と心得ておるようなれど――さにあらず! その方は、雪窓に、その根本の誤りを、これ、体(てい)よく、宥(なだ)められたに過ぎぬ!――さても! これより雪窓方へ参り、『先刻の不調法後悔致し候』由を申し、幾重にも詫び致いて然るべし!――もし――その儀なり難しと申さば――以後、破門の儀、急度(きっと)申しつくるものなり!!」

と、激しく叱咤された。

 この師匠の言葉に突かれて、千八も心より後悔致いた様子にて、即座に雪窓方へと参らんとしたが、弥五右衞門はなお、それでも気が済まざるものが御座ったものか、自身の懐刀三男鑓次郎を千八にさし添えさせ、同道の上、雪窓方へ千八を遣わし。詫びを入れさせたと申す。

 しかし、迎えた雪窓は、

「……かかる勇猛剛毅なる心を持っておらるるとならば、さぞ、鑓の芸も大いに励んで、相応の技を体得なさっておらるることと拝察致いた。まっこと、貴殿はよき御弟子にて御座る。……聊かも、雪窓、気にはして御座らぬ由、よくよく、彌五右衛門殿へもお達し給はるるように。……」

と申されたとのことで御座った。

 この雪窓殿は、遂に生涯、浪人にて終わられたが、その悴(せがれ)と申すは、当時の大家へ抱えられ、鑓術の師範役となった。

――弥五右衛門三男鑓之助、号して当時、吉田一帆齋――

比類なき鑓術の師範にて御座った。

 以上は、その一帆斎殿御自身が語られた話で御座る。

一言芳談 七十九

  七十八

 

 敬仙房(きやうせんばう)云、一生はたゞ生をいとへ。

 

〇生をいとへ、生をむさぼれば又生死の生を受くるなり。

〇生死ははじめもしらず、おはりもなし。死がまへか、生がうしろか、しる人まれなるべし。春が花をさかすか、花が春をなすか、いづれも分別の外にて有(ある)なめれ。莊子もそのにねぶりて、われと蝶とをわかず。釋迦文佛(しやかもんぶつ)も往來娑婆八千まで覺えて、無量は説(とき)たなはず。死は生のもと、生は死の末にて有べきか。たゞ生をいとへとは、一字關にて候へ。根本無明を識得するが、生のいとひやうにてある也。たゞ淨家の念佛者ならば、何となく念佛したるが、生をいとふさまなるべし。(句解)

 

[やぶちゃん注:「敬仙房」既出。「六十八」の注参照。

「又生死の生を受くる」六道輪廻転生を謂う。

「釋迦文佛」「釈迦文」は梵語の「シャカムニ」漢訳「釈迦文尼」の略で、釈迦の尊称。

「往來娑婆八千」往来娑婆八千遍。釈尊は衆生教化のために、八千回も生死を繰り返した末に最後インドで悟りを開き、仏となったということが「梵網経(ぼんもうきょう)」の説で、蓮如によって本願寺派で三文四事の聖教の一つと見做す筆者不詳の「安心決定鈔」に、

佛體よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流轉しけるなり。かるがゆゑに「般舟讚」には、『おほきにすべからく慚愧すべし。釋迦如來はまことにこれ慈悲の父母なり』といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釋し、自にはぢ他にはづとも釋せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、彌陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釋尊は五百塵點劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。

と載る(以上は安心決定鈔 – WikiArcに拠るが、引用は正字化し、記号の一部を変えた)。

「一字關」特に唐朝以後の禅僧が用いる、参禅者を禅機へ導くための一喝。言葉で表現することの出来ない仏法の真理を一字で表現したもの。「喝」だけでなく、「露」「参」「看」「咄」「関」「力」「聻(にい)」などがある。

「淨家」浄土教信徒。]

2013/01/28

詩人の死ぬや悲し 萩原朔太郎

 詩人の死ぬや悲し

 ある日の芥川龍之介が、救ひのない絶望に沈みながら、死の暗黑と生の無意義について私に語つた。それは語るのでなく、むしろ訴へてゐるのであつた。
「でも君は、後世に殘るべき著作を書いてる。その上にも高い名聲がある。」
 ふと、彼を慰めるつもりで言つた私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟し、眞劍になつて怒らせてしまつた。あの小心で、羞かみやで、いつもストイツクに表情を隱す男が、その時顏色を變へて烈しく言つた。
「著作? 名聲? そんなものが何になる!」
 獨逸のある瘋癲病院で、妹に看護されながら暮して居た晩年の寂しいニイチエが、或る日ふと空を見ながら、狂氣の頭腦に追憶をたぐつて言つた。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。
 あの傲岸不遜のニイチエ。自ら稱して「人類史以來の天才」と傲語したニイチエが、これはまた何と悲しく、痛々しさの眼に沁みる言葉であらう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める爲に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうに、また空洞(うつろ)な悲しいものであつたらう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」
 ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。トラフアルガルの海戰で重傷を負つたネルソンが、軍醫や部下の幕僚たちに圍まれながら、死にのぞんで言つた言葉は有名である。「余は祖國に對する義務を果たした。」と。ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東郷大將やの人々が、おそらくはまた死の床で、靜かに過去を懷想しながら、自分の心に向つて言つたであらう。
「余は、余の爲すべきすべてを盡した。」と。そして莞爾として微笑しながら、心に滿足して死んで行つた。
 それ故に諺は言ふ。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善しと。だが我々の側の地球に於ては、それが逆に韻律され、アクセントの強い言葉等で、もつと惱み深く言ひ變へられる。
 ――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!

『行動』第二巻十一號 昭和九(一九三四)年十一號。後に「宿命」に載せられたものの初出形。筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集」第二巻を底本とした。

耳嚢 巻之六 狐義死の事

 狐義死の事

 

 享和三年の春なりし、四ッ谷邊の由、鼠夥敷(おびただしく)出て渡世の品を喰損(くひそん)さしけるを、其あるじいとひて、石見銀山の砒藥(ひやく)を調ひて食に交へ置しに、鼠四五疋其邊に斃(たふれ)しを、よき事せしと塵塚へ取捨しに、翌日朝、狐の子右鼠をくらひけるや、其邊に是又斃ける由。しかるに或日彼(かの)ものゝ妻外へ至り、肌に負ける子、いつの間にやいづちへ行けんかいくれ見へず。妻は歎き悲しみけるを、其夫大(おほい)に憤り、定(さだめ)て狐の仕業なるべし、いかに畜類なれば迚、狐をとるべきとて藥に當りし鼠を捨(すて)しにあらず、子狐食を貪りて死せしに、我に仇して最愛の子をとりし事の無道なりと、其邊の稻荷社へ至りて、理を解委(ときくはし)く憤りけるが、翌朝彼者の庭先へ、過し頃の子狐の死骸、我子のなきがらとも捨置(すておき)、井戸の内に雌雄の狐入水してありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:享和三年西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな出来事で連関。但し、こちらは都市伝説の類い。

・「渡世の品を喰損さしける」この屋の主人は、次の「食に交へ置し」というところからも何らかの食料品を商う町人であったものと思われる。

・「石見銀山の砒藥」『石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素、硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは亜ヒ酸を主成分とし、殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた』(以上はウィキの「石見銀山」より引用)。笹ヶ谷鉱山『は、戦国時代から銀を産出していた石見銀山(同県大田市大森町)と共に戦略上から幕府直轄領(いわゆる天領)とされ、大森奉行所(のち代官所に格下げ)の支配下とされたので無関係ではないが、砒素の産地が何処であるか(正しくは前者)については混乱も見られる。元禄期には銀山の産出が減る一方で、その後も笹ヶ谷からの殺鼠剤販売が続き名前が一人歩きするようになった為、と考えられている』。『砒素化合物は一般に猛毒であり、毒物及び劇物取締法により厳しく取り締まられ、幼児・愛玩動物・家畜などが誤食すると危険なため現在では殺鼠剤としては使われていない。また笹ヶ谷鉱山は既に廃鉱とな』った(以上はウィキの「石見銀山ねずみ捕りより引用)。さらに岩波版長谷川氏注には、『馬喰町三丁目吉田屋小吉製のものを売り歩いた』とある。古川柳にも「馬喰町いたづらものの元祖なり」とあり(個人HP「モルセラの独り言」より)、合巻「夜嵐於絹花仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)」(明治一一(一八七八)年)の孟斎芳虎(もうさいよしとら:別名永島辰五郎。江戸時代末期の浮世絵師。)などの絵によると、『「石見銀山鼠取受合」の字を青地に白く染め出した、木綿巾で縦五尺ほどの幟(のぼり)を担いで』、『皿に盛られた薬入りの食物を食べている鼠を画模様に染めだした半纏を着て、鼠取薬の入った小箱を脇にかけ』、『大体貧乏そうな扮装で』、『いたずらものはいないかな、いないかな、いないかな」の大きな呼び声でやって来』た、と言う(以上は、中公文庫版一九九五年刊三谷一馬「江戸商売図絵」の「鼠取薬売り」の項より引用)。なお、吉田屋小吉なる人物は幕末に大量の唄本(流行歌)を発行した版元としても知られる。「改訂増補近世書林板元総覧』(一九九八年刊日本書誌学大系七十六所収)には次のようにある。

◎吉田屋小吉 吉田氏 江戸馬喰町三町目☆三四郎店

 商売往来千秋楽 文政二合

 一枚摺番付・関東市町定日案内

  尾張の源内くどき(上下八枚物)明治十七

  *瓦版多し。嘉永五年閏二月の月行事(地本草紙問屋名前帳)。

  *石見銀山鼠取り薬で有名。守貞漫稿に看板あり。

   満類吉、丸喜知とも書き、商標が丸に吉ノ字。

   同じ町に和泉屋栄吉がいて、小吉との合板多し。

   明治に栄吉は吉田氏を称している。

とある(以上は、板垣俊一氏の幕末江戸の唄本屋―吉田屋小吉が発行した唄本について―(『県立新潟女子短期大学研究紀要(38)』二〇〇一年三月発行)より孫引き。但し、(アラビア数字を漢数字に代えた)。

・「塵塚」ごみ捨て場。

・「かいくれ見えず」「かいくる」は「掻い繰る」(「かきくる」の音変化。「かいぐる」とも)で、両手を交互に動かして、手元に引き寄せる、手繰り寄せる、の謂いだが、意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『曾(かつ)て見えず』とあり、これなら自然である。こちらを訳では用いた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐が義を以って死んだ事

 

 享和三年の春のこと、四谷辺での出来事の由。

 鼠が夥しく出でて、売り物の食品を食い荒らされて御座ったゆえ、その家の主人、これ、甚だ厭うて、猛毒の石見銀山の砒素薬(ひそぐすり)を買い求め、食い物に混ぜて置いておいたところ、翌日には鼠が四、五匹、その辺りに倒れ、頓死して御座ったによって、

「しめしめ! 上手くいったわ!」

と、その鼠の骸(むくろ)を何とものう、塵塚(ちりづか)へそのまま取り捨てておいた。

 すると、また、その翌朝のこと、子狐が――かの毒に当たった鼠の死骸を食うたものか――その辺りに頓死して御座ったと申す。

 しかるに――それから数日を経、かの主人の妻、外出した折り、背負うて御座った子(こお)の姿が――これ、不思議なことに――何時(いつ)の間にやら――何処(いずく)へ行ったものやら――皆目分からぬうちに――全く、姿が見ずなって御座ったと申す。

 妻は嘆き悲しみ、それを知った主人も大いに憤って、

「……これは、もう、狐の仕業に相違ない! 如何に畜生とは申せ……我は、狐を駆除(か)らんとて、毒に当たって死んだ鼠を、塵塚に捨て置いたのでは、これ、ない!……子狐が、不注意にも、ひもじさのあまり、貪り食うて死んだに!……我を逆恨み致いて、最愛の我が子をかどわかしたこと! これ、非道の極みじゃ!……」

と、近くの稲荷の祠(やしろ)へと赴き、稲荷神に向かって道理を説いて、ひどく憤って御座ったと申す。

 すると――また、その翌朝のこと――かの町人の家の庭先へ――かの以前、塵塚に死んでおった子狐の骸(むくろ)と――町人の子(こお)の亡骸(なきがら)とが――並べて捨て置かれてあり――さらに――庭内の井戸の内には――雌雄の狐が――これ、入水して死んでおった、とのことで御座る。

一言芳談 七十七

  七十七

 明遍僧都云、無智にぞありたき。

〇無智にぞありたき、かしこだてがやめられぬものぞといふ心なり。一枚起請のごとく無智の身になるべし。その德多し。

2013/01/27

西東三鬼句集「變身」 昭和三十六(一九六一)年十月まで 一〇〇句 / 西東三鬼4句集 了

昭和三十六(一九六一)年十月まで 一〇〇句

 

かかる仕事冬濱の砂俵(ひょう)に詰め

 

[やぶちゃん注:「ひょう」は底本「ひよう」であるが、現代仮名遣統一の句集であるから、促音化した。]

 

冬日あり老盲漁夫の棒ぎれ杖

 

沖まで冬雙肩高き岩の鳶

 

應えなき冬濱の砂貧漁夫

 

老婆來て魚の血流す冬の灣

 

冬霧の鉛の濱に日本の子等

 

駄犬駄人冬日わかちて濱に臥す

 

冬濱に死を嗅ぎつけて掘る犬か

 

北風吹けば砂粒うごく失語の濱

 

  廣島より漬菜到來

 

廣島漬菜まつさおなるに戰慄す

 

死の階は夜が一段落葉降る

 

みつめられ汚る裸婦像暖房に

 

冬眠の畑土撫でて人も眠げ

 

霜ひびき犬の死神犬に來し

 

木の實添へ犬の埋葬木に化(な)れと

 

吹雪を行く呼吸の孔を二つ開け

 

霜燒けの薔薇の蕾は嚙みて呑む

 

元日の猫に幹ありよぢ登る

 

元日の地に書く文字鳩ついばむ

 

けもの裂き魚裂き寒の地を流す

 

姉呼んで馳ける弟麥の針芽

 

寒の空半分黄色働く唄

 

實に直線寒山のトンネルは

 

死の輕さ小鳥の骸手より穴へ

 

大寒の炎え雲仰ぎ龜乾く

 

折鶴千羽寒夜飛び去る少女の死

 

[やぶちゃん注:この少女は被爆した少女で、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなっている佐々木禎子さん(一九四三年~一九五五年十月二十五日)であろうか。以下、ウィキの「佐々木禎子」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略、読点を追加した)。

   《引用開始》

名前は父、母が元気に育つようにと願いをこめて、店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。[やぶちゃん注:彼女(長女)の両親は理髪店(りはつてん)を営んでいた。但し、父は出兵して不在であった。]

運動神経抜群で将来の夢は「中学校の体育の先生」になること。

一九四五年八月六日、二歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から一・七キロメートルの自宅で黒い雨により被爆した。同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。一九五四年八月の検査では異常なかった。また小学六年生の秋の運動会ではチームを一位に導き、その日付は一九五四年十月二十五日と記録されており、偶然にも自身の命日となるちょうど一年前であった。しかし、十一月頃より首のまわりにシコリができはじめ、一九五五年一月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、二月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明。長くても一年の命と診断され、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。

一九五五年八月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。八月の下旬に折った鶴は千羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人は「もう千羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。千羽折ったものの病気が回復することはなく、同年十月二十五日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。最後はお茶漬けを二口食べ「あー おいしかった」と言い残し亡くなった。

死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に二、三羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。

禎子が生前、折った折り鶴の数は一三〇〇羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、一五〇〇羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋は「二千以上のようです」と語っている(二〇一〇年二月二十二日朝日新聞)。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が十二羽有った。その後創られた、多くの創話により千羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。

   《引用終了》

因みに、本句との関係の有無は不詳であるが、オーストリアの児童文学作家カルル・ブルックナー(Karl Bruckner 一九〇六年~一九八六年)は一九六一年に佐々木禎子について描いた“Sadako will leben”(サダコは生きる)を出版している。この本は二十二の言語に翻訳され、一二二以上の国々で出版されている(日本語への翻訳は一九六四年に片岡啓治訳で「サダコは生きる―ある原爆少女の物語」として学研新書から出版された)。広島平和記念資料館平成十三(二〇〇一)年度第二回企画展「サダコと折り鶴」も併せて御覧になられたい。]

 

霰降り夜も降り顏を笑わしむ

 

鳶の輪の上に鳶の輪冬に捲く

 

腦弱き子等手をつなぎ冬の道

 

全しや寒の太陽猫の交尾

 

老いの屁と汗大寒のごみ車

 

月あゆみ氷柱の國に人は死す

 

寒の眉下大粒なみだ湧く泉

 

落ちしところが鷗の墓場寒き砂

 

死にてからび羽毛吹かるる冬鷗

 

岩海苔の笊を貴重に礁跳ぶ

 

うぐいすや引潮川の水速く

 

虻が來る女の蜜柑三角波

 

豆腐屋の笛に長鳴き犬の春

 

大干潟小粒の牡蠣を割り啜る

 

  新宿御苑 七句

 

[やぶちゃん注:底本編者注に、『原形の六句表示は誤り』とある。なお、同年譜によれば、これは二月十二日のことで、山一句会の吟行であった。]

 

美男美女に異常乾燥期の園

 

枯芝を燒きたくて燒くてのひらほど

 

少年を枝にとまらせ春待つ木

 

飛行機よ薔薇の木に薔薇の芽のうずき

 

サボテン愛す春曉のミサ修し來て

 

喇叭高鳴らせ温室の大サボテン

 

蘭の花幽かに搖れて人に見す

 

  埼玉縣吉見百穴 一〇句

 

卒業の大靴づかと靑荒地

 

貞操や春田土うれくつがえり

 

かげろうに消防車解體中も赤

 

芽吹く樹の前後抱きしめ女二人

 

老婆出て霞む百穴ただ見つむ

 

古代墳墓暗し古代のすみれ搖れ

 

百穴百の顏ありて復活祭

 

[やぶちゃん注:「復活祭」キリストの復活祭は移動祝日で、元来、太陰暦に従って決められた日であるから、太陽暦では年によって日付が変わる。グレゴリオ暦を用いる西方教会では、復活祭は三月二十二日から四月二十五日の間のいずれかの日曜日(ユリウス暦を用いる東方教会ではグレゴリオ暦の四月四日から五月八日の間のいずれかの日曜日)に祝われる。西方教会の日本福音ルーテル板橋教会HPの復活祭(イースター)一覧表に、この年一九六一年の復活祭はこの吟行(後注参照)の日、四月二日であった。]

 

聲のみの雲雀の天へ光る沼

 

みつまたの花嗅ぎ斷崖下の處女

 

春田深々刺して農夫を待てる鍬

 

[やぶちゃん注:底本の年譜によれば、同年四月二日、埼玉県吉見百穴へ『断崖』の吟行をし、帰途、新宿で数人と痛飲、とある。]

 

  南多摩百草園 一〇句

 

婆手打つげんげ田あれば河あれば

 

ひげの鯉に噴出烈し五月の水

 

溝川に砂鐵きらめき五月來ぬ

 

青梅びつしり女と女手をつなぎ

 

初蟬の唄絶えしまま羊齒の國

 

熊ん蜂狂ひ藤房明日は果つ

 

峽畑に寸の農婦となり耕す

 

風靑し古うぐひすの歎きぶし

 

つつじ赤く白くて鳶の戀高し

 

初蟬や松を愛して雷死にし

 

椎匂う強烈な闇誰かを抱く

 

臀丸く葱坊主よりよるべなし

 

子が育つ靑蔦ひたと葉を重ね

 

薔薇の家犬が先づ死に老女死す

 

薔薇の家かつら外(はず)れし老女の死

 

  奈良 八句

 

飛ぶものは白くて強し柳絮と蝶

 

青野に吹く鹿寄せ喇叭貸し給へ

 

突き上げて仔鹿乳呑む綠の森

 

乳房吸う仔鹿せせらぎ吸う母鹿

 

幼き聲々大仏殿にこもる五月

 

遠足隊わめき五月の森とび出す

 

藥師寺の尻切れとかげ水飮むよ

 

白砂眩し盲鑑眞は奧の奧に

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、この年五月に関西に旅して、二十五日に奈良着、当日、薬師寺・飛火野(とぶひの。奈良市街の東、春日大社に接する林野。「とびひの」とも。池や沢などもあり,奈良公園に属する。七一二年に急を告げる烽火(のろし)が置かれた地で、万葉などの古歌にも詠まれた歌枕)・春日大社を歩き、二十六日には東大寺・正倉院付近を歩いて神戸へ発っている。]

 

出水後の日へ赤き蟹雙眼立て

 

子供の笛とろとろ炎天死の眠

 

日本の笑顏海にびつしり低空飛行

 

岩あれば濡れて原色の男女あり

 

岩礁の裸女よ血の一滴を舐め

 

飴ふくみ火山の方へ泳ぎ出す

 

魚ひそみ乳房あらはれ岩の島

 

  市川流燈會 六句

 

[やぶちゃん注:これは千葉県市川市仏教連合会が毎年七月に催していた流燈会(灯籠流し)に寄せた句。底本年譜の七月二十九日の項に『市川に流灯会と花火を見に行く、夜「鶴」の句会に出る』とある。但し、その句会で作られた句かどうかは不明。]

 

流燈の夜も顏つけて印刻む

 

花火滅亡す七星ひややかに

 

遠雲の雷火に呼ばれ流燈達

 

流燈の列消しすすみ死の黑船

 

流燈の天愚かなる大花火

 

流燈の列へ拡聲器の濁み聲

 

  松山 七句

 

呼吸合う五月の闇の燈臺光

 

船尾より日出船首に五月の闇

 

萬綠の上の吊り籠(ゴンドラ)昇天せよ

 

城攻める濃綠の中鷄鳴けり

 

城古び五月の孔雀身がかゆし

 

天守閣の四望に四大黄麥原

 

麥刈りやハモニカへ幼女の肺活量

 

[やぶちゃん注:この句群は時間が巻き戻っている。先の関西行の一つで、例の奈良から神戸へ帰った五月二十六日夜、船で松山へ向かい、翌朝九時に松山着、その日の午後には『炎昼』の句会をこなし、二十八日砥部(とべ)窯場(砥部焼は愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器で別名、喧嘩器とも呼ばれる)を見学、二十九日に松本城・道後温泉に遊び、三十日には蛸壺漁などもしている。三十一日夜十一時に乗船して、翌六月一日朝九時に神戸帰着、その日のうちに、大阪で人に会い、午後、『天狼』発行所に立ち寄り、夜、十一時に葉山の自宅に帰った。当時、満六十一歳、もの凄い、パワーである。]

 

 

 

あとがき

 

 この句集は前句集「今日」以後の一〇七三句から成り、昭和二十六年秋から昭和三十六年秋まで、紛十年間の作品である。この間に十數年を過した關西から神奈川縣葉山に移住した。職業も齒科醫をやめ、いわゆる專門俳人になった。背水の陣である。それにもかかわらず、作品に精彩を缺くとせば、ただ自らの才能貧しきが故とせねばならない。

 この句集が突如刊行のはこびに至ったのは、昭和三十六年十月、私が胃癌の手術をうけ、餘病を發して危篤に陷った時、かけつけて來られた友人諸兄の協議によるのである。遺著にもなるべかりし句集を、命びろいして机上に置き得るのも運命というものであろう。

 この句集刊行の事に當られた友人諸兄に、心からなるお禮を申上げる。

  昭和三十六年歳晩

                                   著者

 

[やぶちゃん注:底本年譜によれば、同年八月上旬から胃の具合が悪くなり、九月に入ってレントゲンや検査を複数回受け、十九日に横浜市立大学附属病院で胃癌の疑い濃厚で切開手術の要ありと診断された(この間もその後も各種俳句大会や会議、恒例になっていた少年院訪問、さらに評論執筆など、実に精力的に動いている)。十月二日、横浜市立大学附属病院入院、病名、胃癌。九日、術式(午前九時開始、午後一時半終了)。十一月九日、退院(この間、十一月四日の『天狼』名古屋大会の挨拶を録音している)。十二月十六日の退院後の初めての外出先は久里浜少年院であった。二十日、東京の山一句会に出席、俳人協会設立に参加、とある。]

これで、西東三鬼が生前に出した四冊の句集は総て電子化した。

耳嚢 巻之六 幼兒實心人の情を得る事

 幼兒實心人の情を得る事

 

 享和三年の春、中川飛州(ひしふ)、支配所(どころ)廻村に出しに、野州芳賀都眞岡町邊通行の處、同所にて年頃十一二歳の小兒、願ひ有之(これある)由にて飛州駕籠の前に踞(うずくま)りし故、いかなる事にやと尋(たづね)しに、渠(かれ)は代々醫師に候處、四歳の節(せつ)親子離れ、祖母の養育にて生育せしが、何卒家の醫業致度候得共(いたしたくさふらえども)、在所にては修行も出來兼(かね)候間、江戸表へ出申度(まうしたき)由の願ひの由故、隨分江戸表へ召連れ行可遣(ゆきつかはすべき)なれど、幼年ものゝ儀、仔細もわからざる故、所のものへ尋(たづね)問ひしに、渠が親は篠崎玄徹と申(まうし)、小兒の申通(まうすとほり)、逸々(いちいち)無相違(さういなき)旨申(まうし)けるゆゑ、彼(かの)小兒の心より出し事とも思われず、祖母其外親類の申(まうし)勸めける事ならんとせちに糺(ただし)けれど、さる事にもあらざれど、猶(なほ)ためし見んと、江戸へ召(めし)連れ候には、坊主にいたさずしては難成(なりがたき)由を申聞(まうしきか)させけるに、坊主と聞(きき)て少しいなみし故、左もあらんと思ひしに、小兒心(をさなごころ)に坊主といえる、衣體(いたい)を着(ちやく)す出家の事なりと思ひいなみしよし。けさ衣(ごろも)を不用(もちゐざる)坊主は隨分いなみ候事なしと即座に髮を剃(そり)、飛州に附添ひ江戸へ召連れ、多喜安長方へ遺はしけるが、よほどかしこき性質(たち)の由、飛州物語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:少年綺譚連関。私好み。されば、訳の一部を映像的に敷衍して拡張してある。

・「実心」「じつしん」と読み、真心・実意・まことの心・偽りなき真実の心の意。

・「享和三年」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな話題である。

・「中川飛州」中川飛騨守忠英(ただてる 宝暦三(一七五三)年~文政一三(一八三〇)年)。明和四(一七六七)年に十五歳で家督(石高千石)を継ぐ。小普請支配組頭・目付を経て、寛政七(一七九五)年に長崎奉行となり、従五位下飛騨守となる。長崎奉行は寛政九(一七九七)年二月までこれを務めたが、長崎在勤中には手附出役の近藤重蔵らに命じて、唐通事(中国語通訳官)を動員、清の江南や福建などから来朝した商人たちより風俗などを聞き書きさせ、これを図説した名著「清俗紀聞」を編纂監修している。寛政九年、勘定奉行となり、関東郡代を兼帯した。本話柄の享和三年のまさに廻村の際、武蔵国栗橋宿(現在の埼玉県久喜市栗橋)に静御前の墓碑がないことを哀れんで、「静女之墳」の碑を建立している。文化三(一八〇六)年、関東郡代兼帯のまま大目付、文化四(一八〇七)年には蝦夷地に派遣され、文化八(一八一一)年には朝鮮通信使の応接を務めている。その後は文政三(一八二〇)年、留守居役(旗奉行を歴任)。旗奉行現職のまま、没。享和三年当時は満五十歳。因みに聴き手の根岸は南町奉行現職で六十六歳である。

・「野州芳賀都眞岡町」現在の栃木県真岡市。

・「坊主にいたさずしては難成」当時の医師は剃髪(坊主)している者が多かった。

・「坊主と聞て少しいなみし故、左もあらんと思ひしに、小兒心に坊主といえる、衣體を着す出家の事なりと思ひいなみしよし」少年は、坊主を出家して僧になることと考え、家名を継ぐことが出来ず、家名が途絶えると考えて難色を示したのであるが、忠英は子供心で坊主頭になるのが嫌なのだろうと一人合点したのである。

・「多喜安長」多喜元簡(もとやす 宝暦五(一七五五)年~年文化七(一八一〇)年)。寛政二(一七九〇)年侍医、同一一年には父元悳(もとのり)の致仕に伴い、その後を襲って医学館督事(幕府の医学校校長)となった。享和元(一八〇〇)年には医官の詮衡(=選考)について直言、上旨(将軍への進言)にまで及んだため屏居(=隠退・隠居)を命ぜられた。後、文化七(一八一〇)年に再び召し出されたが、その年の十二月に急死した。屏居中には著述に没頭、著書が頗る多い。「多喜安長方へ遺はしける」とは、当時、彼が督事であった医学館の学生として貰うように依頼したことを言う(以上は底本の鈴木棠三氏の注を参照した)。享和三年当時は医学館督事で満五十歳。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  幼な心の偽りなき誠が人の情けを得た事

 

 享和三年の春、中川飛騨守忠英(ただてる)殿が、御支配地を廻村なさておられた折りの話で御座る。

 

 上野国芳賀郡真岡町辺を通って御座ったところ、同所にて十一、二歳の少年が、

「――お願いが御座いまする!」

と、拙者の駕籠の前に蹲(うずくま)って御座ったゆえ、

「如何なることか?」

と尋ねたところ、

「……私の家は代々医師で御座いましたが、四歳の時、親と死に別れまして、祖母の養育にて育ちました。……しかし何としても、家業の医業を継ぎたく存じます。なれど、この田舎にあっては、医の修業も出来申さざれば、何とかして、江戸表へ出とう存じます!」

との願い出にて御座った。

「……それは……まあ、出来ることならば……江戸表へ召し連れて参ることは、これ、出来ぬ訳でも、ないが……」

と答えつつも、未だ頑是ない子どもこと、加えて仔細の事情も分からざれば、ところの者に訊ねてみたところ、

「……へえ、この者の親は篠崎玄徹と申す医者でござんした。子どもの申し上げましたことは、これ、一つ残らず、間違い御座いません。」

といった答えで御座ったが、

「いや……それにしても……この、もの謂い……坊主! うぬが本心から出たものとも、これ、思われぬ。……実はそなたのお祖母(ばあ)さまや、その外の親族なんどが、言い含めて勧めたことであろう? どうじゃ?」

と執拗(しゅうね)く問い糺いてみて御座ったれど……どうも、そういうことにても、これ、御座らぬ様子なれば、

「では……」

『さらに試してみると致そう。』

と存じ、

「……江戸へ召し連れて参るには――坊主に致さずんば――これ、叶え難いが……それでも、よいか?……」

と、その少年に申し聞かせたところが、「坊主」と聞いて、少し躊躇致いたゆえ、拙者、内心ほくそ笑んで、

『やはり、な。』

と思うて御座ったのじゃが、

「……坊主……とは……出家して僧侶となる……ということにて御座いまするか?」

と訊き返したゆえ、

「いやいや、そうではない。近頃の医者は法体(ほったい)と相場が決まっておる。」

と答えたところ。

「法体とは?」

と即座に訊き返すゆえ、

「法体とは、頭を丸めることじゃ。」

と答えたところ――少年は、ぱっと笑顔になって御座ったゆえ、よく訊き質いてみたところ、子供心にも、

「先ほど、お侍さまの仰せられた『坊主』、これ、坊主になるとは、かの袈裟などの衣帯を着(ちゃく)して出家となること、すなわち、家名を捨てて、出家遁世致さずんばならずということ、と存じたによって、少し躊躇致いて御座いました!」

と――あたかも拙者の心内(こころうち)の、ほくそ笑みを覗かれた如――否む体(てい)を示した理由まで、はっきりと申して御座った。

 そうして、その笑顔のままに、

「――袈裟衣を用いざる『坊主』なれば――全く以って否むものにては御座いませぬ!」

と言うが早いか、近くの百姓屋に飛び込んだかと思うと、借りて参ったらしい剃刀を以って、拙者の前にて、

――すっつすっつ

と即座に髪を剃ってしもうたので御座る。……

……されば拙者、もう、何も申さず、伴の者に命じて連れ添わせ、江戸表へ召し連れ帰って、医学館督事の多紀安長殿に頼んで、医学館の学生(がくしょう)にして貰いました。

 先日、安長殿に逢いましたが、安長殿も、

「かの少年は、これ、よほど賢き性質(たち)にて、随分、頑張って御座います。」

と申して御座った。……

 

 以上、飛騨守殿の直談にて御座る。

一言芳談 七十六

   七十六

 

 解脱上人云、一年三百六十日は、みな無常にしたがふべきなり。しかれば日夜十二時(とき)は、しかしながら終焉のきざみと思ふべし。

 

〇一年三百六十日、一年の日の内に、吉日といへども、人の死なぬ日といふはなし。禮讚に一切臨終時(じ)とあるを良忠上人の記に、時々尅々(じじこくこく)に臨終のおもひをなすと釋し給へり。

〇一年三百六十日は、無常のおしうつる也。人間百年よはひともいひ、七十古來まれなり共、杜子は作りける。一年といふより一日にいたり、十二時は無情の緩急をかきたり。

 

[やぶちゃん注:「一年三百六十日」本邦の旧暦は太陰太陽暦によるが、旧暦の一ヶ月の日数は月に固定されず、年毎に各月が三十日の大の月か、二十九日の小の月となり、その近似値として十二ヶ月×三十日で三百六十日とした謂いである。実際の太陰太陽暦における一年の日数は、平年で三百五十四日程度、補正のための閏月のある閏年の場合は三百八十四日程度で、年によって大きく異なる。

「禮讚に一切臨終時とある」善導「往生礼讃」の偈十二に、

あまねく師僧・父母および善知識、法界の衆生、三障を斷除して、同じく阿彌陀佛國に往生することを得んがために、歸命し懺悔したてまつる。

 心を至して懺悔す。

十方の佛に南無し懺悔したてまつる。願はくは一切のもろもろの罪根を滅したまへ。いま久近に修するところの善をもつて、囘して自他安樂の因となす。つねに願はくは一切臨終の時、勝縁・勝境ことごとく現前せん。願はくは彌陀大悲主、觀音・勢至・十方尊を覩たてまつらん。仰ぎ願はくは神光授手を蒙りて、佛の本願に乘じてかの國に生ぜん。

 懺悔し囘向し發願しをはりて、心を至して阿彌陀佛に歸命したてまつる。

とある。引用は「往生礼讃 (七祖) WikiArc」のものを正字化して引用した。

「良忠」(正治元(一一九九)年~弘安一〇(一二八七)年)は浄土僧。諱は然阿(ねんな)。謚号記主禅師(示寂七年後の永仁元 (一二九三) 年に伏見天皇より贈)。浄土宗第三祖とされる。「良忠上人の記」は不詳。識者の御教授を乞う。

「七十古來まれなり共、杜子は作りける」杜甫「曲江」より。七五八年、安禄山の乱が平定されたこの頃、杜甫は長安で左拾遺(さしゅうい)の官に就いていたが、敗戦の責任を問われた宰相房琯(ぼうかん)の弁護をして粛宗の怒りに触れ、曲江に通っては酒に憂さをはらしていた四十七歳の頃の作。

   曲江

 朝囘日日典春衣

 毎日江頭盡醉歸

 酒債尋常行處有

 人生七十古來稀

 穿花蛺蝶深深見

 點水蜻蜓款款飛

 傳語風光共流轉

 暫時相賞莫相違

  朝(てう)より回(かへ)りて 日日春衣(しゆんい)を典(てん)し

  毎日 江頭(かうとう)に酔(ゑ)ひを盡くして歸る

  酒債(しゆさい)は尋常 行く処に有り

  人生七十 古來稀なり

  花を穿(うが)つ蛺蝶(けふてふ)は深深(しんしん)として見え

  水に點ずる蜻蜓(せいてい)は款款(くわんくわん)として飛ぶ

  傳語(でんご)す 風光 共に流轉して

  暫時相ひ賞して 相ひ違(たが)ふこと莫(なか)れと

・「曲江」漢の武帝が長安城の東南隅に作った池。水流が之(し)の字形に曲折していたためかく名づけられた。当時は長安最大の行楽地であった(埋め立てられて現存しない)。

・「朝囘」朝廷から帰参する。

・「典」質に入れる。

・「酒債」酒代の借金。

・「蛺蝶」アゲハチョウ。又は蝶の仲間の総称。

・「蜻蜓」蜻蛉。トンボ。

・「款款」緩緩に同じい。ゆるやかなさま。

・「穿花」花の間を縫うように飛ぶ。一説に、蝶が蜜を吸うために花の中に入り込むことともいう。

・「點水」水面に尾をつける。トンボが産卵のために水面に尾をちょんちょんとつけるさま。

・「傳語」言伝(ことづ)てする。]

2013/01/26

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 荏之嶋辨才天

      荏之嶋辨才天

 

 金龜山荏之嶋辨才天(きんきさんゑのしまべんざいてん)は、上(かみ)の宮、下(しも)の宮、本宮(ほんぐう)、御旅所(おたびしよ)、いづれも結構華麗なり。別當岩本院、上(かみ)の坊、下の坊あり。また、窟(いわや)の辨天、洞(ほら)穴の中(うち)にたゝせ玉ふ。東國扶桑(ふそう)の景致(けいち)なり。名物、貝細工いろいろ、鮑(あはび)の粕漬(かすづけ)あり。春は江戸の休客(きうかく)、參詣おほく、いたつてにぎはしく群集(くんじゆ)なすは、まつたく御神(かみ)の利生(りせう)いちじるき故(ゆへ)なり。毎年四月上(かみ)の巳(み)の日、巳の刻に、窟本宮(いわやほんぐう)より山上の御旅所まで、音樂にて祭禮あり。

〽狂 むらさきのかすみに

    あけのたまがきや

  ごくさいしきのえの

    しまのけい

「なんと、昔の淸盛(きよもり)といふ人は、嚴島(いつくしま)の辨天さまにほれたといふことだが、俺等(おいら)もどうぞ、辨天さまを女房にはしいものだ。」

「とんだことをいふ。貴樣(きさま)と淸盛と一つになるものか。淸盛は佛(ほとけ)を妾(めかけ)にした人だから、その筈(はづ)の事だ。」

「イヤ、そういふな。俺(おれ)も佛を妾にしたことがあつた。」

「なに、貴樣の妾の佛といふは、何時(いつ)ぞや、貴樣の家(うち)に食客(いそうろう)にゐた比丘尼婆々(びくにばゞあ)のことであらう。世間には、いろいろがある。己(おら)が隣りの割鍋(われなべ)、その亭(てい)主が、綴蓋(とぢぶた)を女房にしてゐるは相應だが、その向かふの下駄(げた)屋の女房は燒味噌(やきみそ)。まだつりあはぬは、新道(しんみち)の提燈屋(てうちんや)の亭主は、釣鐘(つりがね)を女房にもつてゐる。」

「これこれ、割鍋屋の綴蓋もよし、下駄屋の燒味噌といふは、あの嬶(かゝあ)は燒き手(て)だといふことだから、それで燒味噌はきこへたが、提燈屋の女房を釣鐘といふは、どうしたわけだ。」

「イヤ、女房の渾名(あだな)を釣鐘といふは、御亭主のつくたびに、いつも、うんうんと、うなるそうだから、それで釣鐘といひます。」

[やぶちゃん注:江ノ島の詳細は新編鎌倉志巻之六の「江島」及び鎌倉攬勝考卷之十一附録の「江之島」の項を参照されたい。

「御旅所」神社の祭神が神輿・鳳輦また船などで神幸した際、仮に遷座する場所のこと。頓宮・御輿宿・御旅宮などともいう。これは現在では江の島の奥津宮(本宮)そのものを言う。鎌倉攬勝考卷之十一附録の「江之島」の項に、

本宮御旅所 毎年四月上旬初巳より、十月初亥日迄は、此山上の宮に遷座、仍て神體其餘寶器も、皆山上の假宮に移し奉る。

とあり、また同「例祭」の項には、

例祭 毎年四月初巳日、龍窟より辨財天を神輿に遷し奉り、別當岩本院を始とし、社僧神人行装を整へ、音樂を奏し、御旅所え遷座。此節は参詣の緇素、群をなせり。十月初亥日、又龍窟へ還幸、行装前後同じ。

引用文中の「緇素」の「緇」は黒、「素」は白で、僧と俗人の衣服から、僧俗の意である。以上から考えると、本宮と御旅所は別箇な建物ではなく、恐らくは祭礼時に本宮をハレの場として御旅所・仮宮と別に呼称したもののように思われる。

「扶桑」日本国の異称。

「景致」自然の有り様や趣き。風趣。

「窟本宮」引用で分かるように龍窟を指し、現在の第一窟に相当する。昔はここに現在の辺津宮(下の宮)にある弁財天が祀られていた。

「嚴島の辨天」宮島の大願寺蔵の厳島弁財天像。江の島と琵琶湖の竹生島とともに日本三弁財天と称される。空海作と伝えられる秘仏で、現在は年に一度、六月十七日にのみ開帳される。

「淸盛は佛を妾にした」晩年の清盛が寵愛した白拍子仏御前に掛けた洒落。

「比丘尼」江戸期、尼の姿をした下級売春婦をかく呼称した。

「己が隣りの割鍋、その亭主が、綴蓋を女房にしてゐる」話者の隣人は、鋳掛屋であった(後文で「割れ鍋屋」と出る。銅や鉄の鍋釜を鞴持参で修理した行商人)のに、「割れ鍋に綴じ蓋」の諺を掛けた洒落。「割れ鍋に綴じ蓋」とは、破損した鍋であっても、それに似合う蓋があることの謂いから、どんな(一般には不細工不器用な)人にもそれなりに相応しい配偶者があるという譬え、又は、主に男女というものは似通った者同士の組み合わせが上手くゆくという譬えとして用いられるが、所謂、褒め言葉としては通常、使われない。

「下駄屋の燒味噌」斜め向かいの亭主が下駄屋であったことを、「下駄と焼味噌」という諺に掛けた洒落。味噌を板や箆につけて焼いた焼き味噌と、履き心地と持ちをよくするために材を焼いた杉下駄は、その形だけしか似ていない、という意から、外形は似ているが実質は全く異なることの譬え。

「新道」恐らくは話者の住むのは裏長屋の路地で、そこよりやや広い道が、新道とか小路とか呼ばれ、道幅が九尺(約三メートル)以上あった。

「きこえたが」この「きこゆ」は相手の言うことを納得して認めることが出来る。物事の訳が理解出来るの謂い。分かったが。

「提燈屋の亭主は、釣鐘を女房にもつてゐる」は提燈屋の亭主に「提燈に釣鐘」、「割れ鍋に綴じ蓋」の逆で、形は似ていても重さに格段の違いがあるところから、物事の釣り合わないことの譬えの諺を掛けた洒落。なおこれは、一方が重い、すなわち「片重い」であるから、片思いの洒落としても用いる。……但し、最後の明らかになるように、これには、そうではなく……美事にエロティックな洒落が掛けられているのである。]

西東三鬼句集「變身」 昭和三十五(一九六〇)年 八九句

昭和三十五(一九六〇)年 八九句

 

海越えて白富士も來る瘤から芽

 

木になれぬ生身(なまみ)は歩く落葉一重

 

氣ままな鳶冬雲垂れて沖に垂れ

 

老斑の月より落葉一枚着く

 

丸い寒月泣かんばかりにドラム打つ

 

ひつそりと遠火事あくびする赤子

 

太陽や農夫葱さげ漁夫章魚さげ

 

凧揚げて膿の平を一歩踏む

 

巨犬起ち人の胸押す寒い漁港

 

廢船に天水すこしそれも寒し

 

晝月も寒月戀の猫跳べり

 

赤い女の絶壁寒い海その底

 

明日までは轉覆し置く寒暮のトロ

 

[やぶちゃん注:「トロ」はトロ箱であろう。鮮魚を入れて運ぶ箱で、トロはトロール網を語源とする。]

 

寒の入日へ金色(こんじき)の道海の上

 

細き靴脱ぎ砂こぼす寒の濱

 

富士白し童子童女の砂の城

 

寒雀仰ぐ日の聲雲の聲

 

寒雀おろおろ赤子火の泣聲

 

髮長き女よ燒野匂い立つ

 

大寒の手紙「癒えたし子産みたし」

 

鐵路まで伊吹の雪の自厚し

 

深雪搔く家と家とをつながんと

 

  黑谷忠居

 

一夜明け先づ京風の寒雀

 

[やぶちゃん注:「黑谷忠」は『天狼』同人。]

 

飢えの眠りの仔犬一塊梅咲けり

 

自由な鳶自由な春の濤つかみ

 

蛇出でて優しき小川這ひ渡る

 

もんぺの脚短く開き耕す母

 

耕しの母石ころを子に投げて

 

底は冥途の夜明けの沼に椿浮く

 

黑髮に戻る染め髮ひな祭

 

  秩父長瀞 九句

 

風出でて野遊びの髮よき亂れ

 

鶯にくつくつ笑う泉あり

 

常にくつくつ笑ふ泉あり

 

春水の眠りを覺ます石投げて

 

一粒づずつ砂利確かめて河原の蝶

 

萬年の瀞の渦卷蝶溺れ

 

電球に晝の黄光ちる櫻

 

老眼や埃のごとく櫻ちる

 

花冷えをゆく灰色のはぐれ婆

 

草餠や太古の巖を撫でて來て

 

炎えている他人(ひと)の心身夜の櫻

 

黄金指輪三月重い身の端に

 

どくだみの十字に目覺め誕生日

 

薔薇に付け還曆の鼻うごめかす

 

五月の海へ手垂れ足垂れ誕生日

 

  横濱ヨットレース 六句

 

ヨット出發女子大生のピストルに

 

潮垂らす後頭ヨットに弓反りに

 

大學生襤褸干す五月潮しぼり

 

大南風赤きヨットに集中す

 

女のヨット内灣に入り安定す

 

猫一族の音なき出入り黴の家

 

うつむく母あふむく赤子稻光

 

夏落葉亡ぶよ煙なき焰

 

熱砂に背を擦る犬天に四肢もだえ

 

暑き舌犬と垂らして言はず開かず

 

産みし子と肌密着し海に入る

 

老いざるは不具か礁に髮焦げて

 

炎天に一筋涼し猫の殺氣

 

晝寢覺凹凸おなじ顏洗ふ

 

近づく雷濤が若者さし上げる

 

海から誕生光る水着に肉つまり

 

夜の深さ風の果さに泳ぐ聲

 

暗い沖へ手あげ爪立ち盆踊

 

地を蹴つて摑む鐵棒歸燕あまた

 

東京タワーという昆蟲の灯の呼吸

 

洞窟に湛え忘却一の水澄めり

 

死火山麓かまきり顏をねぢむけて

 

  妻、高血壓

 

草食の妻秋風に肥汲むや

 

  手賀沼 一〇句

 

いわし雲人はどこでも土平(なら)す

 

麹干しつつ口にも運ぶ舊街道

 

陸稻刈るにも赤き帶紺がすり

 

臀丸き妻の脱穀ベルト張り

 

犬連れて沼田の稻架を裸にす

 

穭田の水の太陽げに圓し

 

[やぶちゃん注:「穭田」は「ひつじだ」と読む。秋の田の稲を刈った後のその切り株からまた新しい青い芽が出て茎が伸びている状態を「穭(ひつじ)・と呼び、一面にそれが出た田を「穭田(ひつじだ)」という。秋の季語。]

 

東西より道來て消えし沼の秋

 

千の鴨木がくれ沼に曇りつつ

 

蜂に凴かれ赤シャツ逃げる枯蘆原

 

[やぶちゃん注:「凴かれ」の「凴」は「凭」と同字であるが、凭れるの意の「凭」はまた、「憑」と同字でもあるため、ここは「つかれ」と訓じているものと思われる。]

 

雲はずれしずかに明治芝居の野菊咲く

 

鳶ちぎれ飛ぶ逆撫での野分山

 

渚來る胸の豐隆秋の暮

 

秋の暮大魚の骨を海が引く

 

  名古屋

 

大鐵塔の秋雨しつく首を打つ

 

  田縣神社

 

木の男根鬱々秋の小社(やしろ)に

 

[やぶちゃん注:「田縣神社」愛知県小牧市田県町にある田縣(たがた)神社。毎年三月に行なわれる豊年祭で知られる。以下、ウィキ田縣神社を主に参照して記載する。創建年代不詳のかなり古い土着信仰に基づく神社で、子宝と農業の信仰を結びつけた神社であり、延喜式神名帳にある「尾張国丹羽郡 田縣神社」、貞治三(一三六四)年の「尾張国内神名牒」にある『従三位上 田方天神』に比定されている。現在地は旧春日井郡なので後に遷座したことになる。祭神は五穀豊穣と子宝の御歳神(としがみ)と玉姫神で、社伝によれば、当地は大荒田命(「旧事本紀」にみえる神で尾張邇波県(にわのあがたの)君の祖。娘の玉姫が饒速日(にぎはやひの)命の十二代の孫建稲種(たけいなだねの)命の妻となり二男四女を生んだとする)の邸の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。玉姫は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られるようになったという。境内には、男根をかたどった石などが、多数祀られている。豊年祭は毎年三月十五日に行われる奇祭で、別名「扁之古祭(へのこまつり)」ともいう。男達が「大男茎形(おおおわせがた)」と呼ばれる男根をかたどった神輿を担いで練り歩き、小ぶりな男根をかたどったものを巫女たちが抱えて練り歩く。それに触れると、「子どもを授かる」と言われており、この祭事は、男根を「天」、女陰を「地」と見立てて、天からの恵みによって大地が潤い、五穀豊穣となる事と子宝に恵まれることを祈願する祭事である。春に行われる理由は、「新しい生命の誕生」をも意味するからである。なお、少し離れた場所にある犬山市の大縣神社の豊年祭(別名「於祖々祭(おそそまつり)」)が対になっており、こちらは女陰をかたどった山車などが練り歩く。お土産品として男根を象った飴やチョコレート、オブジェなどが売られている。]

 

  黑谷忠

 

亡妻(つま)戀いの涙時雨の禿げあたま

 

  神戸埠頭

 

病む美女に船みな消ゆる秋の暮

 

濃き汗を拭いて男の仮面剝げし

 

足跡燒く晩夏の濱に火を焚きて

 

沖へ歩け晩夏の濱の黑洋傘(こうもり)

 

吹く風に細き裸の狐花

耳囊 卷之六 窮兒も福分有事

 

 窮兒も福分有事

 

 石川左近將監(しやうげん)かたりけるは、十八九年以前大御番(おほごばん)を勤(つとめ)、在番とて上方へ登りしに、由比(ゆひ)の河原(かはら)に拾貮計(ばかり)の坊主、肌薄(はだうす)にて泣入居(なきいりをり)候を頻りに不便(ふびん)に思ひ、立寄りて樣子を尋問(たづねとひ)しに、八王子のものにて京都智積院(ちしやくゐん)へ學問に登るとて同志の出家に伴はれけるに、連れの出家は途中にて離れ、ひとりさまよひしに、わるものゝために衣類荷物等を奪れ、すべき樣なしと申けるを頻りに不便に思ひ、何卒其行方(ゆくかた)へ送り可遣(つかはすべき)處、八王子へ送るべき樣も無之(これなく)、上方へ伴ひ遣さんと尋ねければ、さもあらば誠にありがたしと答へける所へ、江戶新川(しんかは)の酒屋手代通り懸り、是も上方へ登り、江州に在所有之(これあり)、是より立寄候間、江州までは可召連れ(めしつれべし)といひし故、左近將監が供連(ともつれ)の内へ入れて、次の泊りに旅宿(はたご)の者を賴み古着など調へ着せ、右新川の手代に渡し、跡へ成(なり)先へなり大津まで至りしに、約束なれば、新川の手代は江州より分れ、大津にて人を賴み智積院へをくるべきや如何(いかが)せんと思ひしに、眞言宗の出家兩人、大津の馬宿(うまやど)へ差懸(さしかか)り、右小僧の樣子を左近將監が從者に聞(きき)て、さてさて仕合成(しあはせなる)者なり、同宗の僧侶すて置(おく)べきにあらず、我らより智積院へをくるべきと言ひし。幸(さいはひ)なる事と、いさいに右出家の樣子を聞しに、是も智積院へ學問修行に登るよし。右出家へ引渡しけるが、京都智積院よりも大阪在番先へ、右小僧屆(とどき)し趣(おもむき)申來(まうしきた)り、其後は音信(いんしん)もなかりしが、今は八王子在大畠村寶生寺といへる御朱印地の寺に住職して、左近將監方へは、其恩儀を思ひ絕へず尋問して、懇意に致候となり。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。私は何故か、この小話が好きである。映画に撮ってみたいぐらい、好きである。

 

・「石川左近將監」前の「英雄の人神威ある事」に既出の石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)彼は安永二(一七七三)年に大番、天明八(一七八八)年には大番組頭となって寛政三(一七九一)年に目付に就任するまで続けている。「左近將監」は、ここで注しておくと、左近衛府の判官(じょう)のことを指す。

 

・「十八九年以前大御番を勤」「大御番」は同じく「英雄の人神威ある事」の注を参照のこと。ここは大阪城警護である。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、ここから逆算すると「十八九年以前」は、天明五(一七八五)年か六年辺りを下限とするから、どんぴしゃり! 石川が大番組頭になる前の大番であった頃の出来事であることが分かる。【2014年7月15日追記】最近、フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!

 

・「由比」静岡県の中部の旧庵原郡にあった東海道由比宿の宿場町。現在は静岡市清水区。『東海道の親不知』と呼ばれた断崖に位置する。付近には複数の河川があり、同定不能。

 

・「智積院」現在の京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町にある真言宗智山派総本山五百佛山(いおぶさん)智積院(ちしゃくいん)。寺号を根来寺(ねごろじ)という。ここ(グーグル・マップ・データ)。開基は玄宥(げんゆう)。

 

・「新川」東京都中央区新川の霊岸島付近。霊岸島とは元、日本橋川下流の新堀と亀島川に挟まれた島で古くは江戸の中島と呼ばれたが,改名は寛永元(一六二四)年に霊巌雄誉が霊巌寺を建立したことに由来する。しかし明暦の大火後に寺が深川に移転、その後は町屋が増加し、後に河村瑞賢が日本橋川に並行して中央に運河である新川を掘削、これが現称地名の「新川」となった。以後この付近は永代橋まで畿内からの廻船が入り込むことが可能であっために、江戸の港として栄え、下り物の問屋として霊岸島町には瀬戸物問屋が多く、また銀(しろがね)町や四日市町には酒問屋が多かった(以上は平凡社「世界大百科事典」の「霊岸島」に拠った)。

 

・「可召連れ」「れ」の送りはママ。

 

・「馬宿」一般名詞。駅馬・伝馬に用いる馬を用意しておく場所。

 

・「をくるべきと言ひし」の「べき」はママ。

 

・「大畠村寶生寺」底本の鈴木氏注に、『大幡が正。宝生寺は山号大幡山。八王子市西寺方町。真言宗智山派。中興開山頼紹僧正は小田原北条氏時代、八王子城主から信仰され、天正十八年落城のとき、城内で怨敵退散の護摩をたき、そのまま焼死をとげた。のち家康が寺領十石を寄進した』とある。開山は明鑁(めいばん)上人で応永三十二(一四二五)年と伝えられるが、没年が延文五(一三六〇)年と合わず、開山は儀海とする説もある。

 

・「御朱印地」幕府が寺社などに御朱印状を下付し、年貢諸役を免除した土地を指す。質入は厳禁され、国役金が課され、御朱印状は将軍代替わりごとに下付された。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 窮したる子にも神仏の御加護があるという事

 

 

 石川左近将監(さこんのしょうげん)忠房殿のお話。

 

……十八、九年以前のこと、大御番(おおごばん)を勤め、在番方として上方へ登って御座ったが、その途中、駿河の由比の河原(かわら)にて、十二歳ばかりの青坊主、如何にもな薄着のままに、泣きながら蹲って御座った。……

 

……その泣き声、これ、頻りに不憫を誘いましてのぅ……立ち寄って、仔細を尋ね問うてみましたところ……これ、八王子の者にて、京都智積院(ちしゃくいん)へ学問修行に登るとて、同志の出家に伴はれて発ったものの、連れの出家とは途中にて逸(はぐ)れ、独り彷徨(さまよ)うて御座ったところが、悪者がために衣類荷物、悉くを奪れ……

 

「……どうしたらよいか……分かりませぬ……」

 

と今にも消え入りそうな声で申しけるによって、頻りに不憫に思うて、

 

「……まあ、何とか御坊の、行く方(かた)へと送って遣わそうとは存ずるが……八王子へ送り帰すは、これ、なかなかのことじゃ……いっそ、上方へ伴(ともの)うて遣わそうと存ずるが、如何(いかが)?」

 

と、訊ねたところ、

 

「……そうして戴けるならば……これ、誠に、ありがたきことに御座いまするぅ!……」

 

と、切羽詰って縋(すが)って参った。……

 

 たまたま、そこへ江戸新川の酒屋の手代が通りかかりましての。聴けば、これ、

 

「……へえ、儂(あっし)は上方へと登りやす。……ただ、近江に在所がありやすんで、そこへちょいと立ち寄ろうかと思うておりやすんで……しかし、不憫な子(こお)や――分(あ)かりやした! 近江までは儂(あっし)が連れて参りやしょう!」

 

と肯(がえ)んじたゆえ、拙者の供連(ともづれ)の内へ、この手代と小坊主を入れての、道中と相い成って御座った。……

 

 次の宿場にて、旅籠(はたご)の者に頼み、古着なんどを買わせて着せ、かの新川の手代に引き渡し、その後(のち)も、拙者の後へなり先へなりして、大津まで参って御座った。

 

 約束なれば、新川の手代は、ここより近江の在所へと別れて御座った。

 

拙者は、さて……大津にて人に頼んで智積院へ送るがよいか……いや……にしても……悪しき者どもに襲われたるこの子(こお)の心持ちを思えば……これ……頼むべき人物も……相応に考えずばなるまい……さても……如何(いかが)せんとするが、よきか……』

 

 

と思案致いて御座った。……

 

 そう考え込んで御座った丁度その折り、大津の馬宿(うまやど)へさしかかって御座ったのじゃが、これまた、たまたま、真言宗の出家が二人、拙者の供連れと歩む少年僧が眼に入って、そっと我らが従者に仔細を訊ねて御座ったと申す。

 

 従者の話を聴いた二人の僧は、早速に拙者に言上致いて、

 

「いや! さてさて、この男児も幸せなる者で御座る! 同宗の僧侶なればこそ、捨て置く訳には、これ、参りませぬ。我ら方より、確かに智積院へお送り申し上げましょうぞ!」

 

と、先方より願い出て御座った。

 

「幸いなることじゃ!」

 

と、委細に、かの二人の出家に問うて素性を確かめたところが、実はこの二人も、かの智積院へ学問修行に登る途中の由に御座ったゆえ、これならばと心得、その出家たちへ少年僧を引き渡して、くれぐれも確かに届け呉るるように頼み、その場は別れて御座った。……

 

 その後、京都智積院からも拙者の勤むる大阪在番先へ、かの二人の僧に預けた小僧が辿り着いた旨の申し状が届いて御座った。……

 

 その後は……暫くは消息も御座らなんだが……修学よろしく、かの青坊主……今は八王子在の大畠村、かの知られた宝生寺(ほうしょうじ)という御朱印地の寺にて、住職と相い成って御座ってのぅ!……拙者が方へは、かの折りの恩儀を思うて、これ、絶えず訪ねて参りましてのぅ……大層、懇意に致して御座るのじゃ。……

 

と、忠房殿、如何にも嬉しそうに、目を細めて語られて御座った。

一言芳談 七十五

  七十五

 

 有云く、「後世をねがはゞ、世路(せいろ)をいとなむがごとし。けふすでに暮れぬ。渡世はげまざるにやすし。今年もやみやみと闌(た)けぬ、一期(いちご)いそがざるに過ぎぬ。よひにはふしてなげくべし、いたづらにくれぬることを。暁(あかつき)にはさめて思ふべし、ひめもすに行(ぎやう)ぜん事を。懈怠(けだい)の時には、生死無常を思へ。惡念思惟(あくねんしゆい)の時には聲をあげて念佛すべし。鬼神魔緣(きじんまえん)等におきては、慈悲をおこして利益をあたへ、降伏(がうぶく)の思ひをなす事なかれ。貧は菩提のたね、日々に佛道にすゝむ。富は輪廻のきづな、夜々(やや)に惡業をます。」

 

〇或云、行者用心集にこれを引きて惠心の釋と云ふ。

 

[やぶちゃん注:「世路(せいろ)」読みはⅠ・Ⅲに拠る。Ⅱは「せろ」と振る。何れで読んでも、世の中を渡って行く道、世渡り。また、渡って行く世の中、世途であり、『極楽往生を願うこと』は『人生を生きること』と同じである、というのである。

「やみやみと闌けぬ」本来は、盛りの時期・状態になる、たけなわになる、又は、盛りの時期・状態を過ぎるであり、ここが今年も何も出来ず無為に暮れてしまった、の意。Ⅱ・Ⅲは「やみやみと」が「やみやみ」。

「一期いそがざるに」人生は、主体的に急ごうと思っている訳でもないのに。

「ひめもす」「終日(ひねもす)」に同じい。

「魔緣」人の心を迷わせる悪魔。

「夜々」夜毎。日毎で、無明の闇を掛けるのであろう。

「行者用心集」室町時代の天台僧存海が天文一五(一五四七)年に記したもの。彼は釈存海と名乗っているから晩年は浄土宗に帰依したものと思われる。

「惠心」源信。]

2013/01/25

「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の「鹽嘗地藏」の「明道ノ石佛」注補正

「ひょっとこ太郎」氏より御指摘を頂き、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の「鹽嘗地藏」の「明道ノ石佛」の注を補正した。孤独な作業者としての僕としては、「ひょっとこ太郎」氏には、何遍、謝意を評しても足らない気がしている。ありがとう!

西東三鬼句集「變身」 昭和三十四(一九五九)年 九六句

昭和三十四(一九五九)年 九六句

 

  宇都宮大谷採石場 五句

 

落葉しつかな木々石山に根を下ろし

 

遺愛山掘り掘つてどん底霧沈む

 

面壁の石に血が冷えたがねの香

巨大なる影も石切る地下の秋燈

 

切石負い地上の秋へ一歩一歩

 

木の林檎匂ひ火山に煙立つ

 

冬耕の短き鍬が老婆の手

 

冬に生ればつた遲すぎる早すぎる

 

けもの臭き手袋呉れて行方知れず

 

  信濃 五句

 

黑天にあまる寒星信濃古し

 

個々に太陽ありて雪嶺全しや

 

地吹雪の果に池あり虹鱒あり

 

卵しごきて放つ虹鱒若者よ

 

月光のつらら折り持ち生き延びる

 

滿開の梅の空白まひる時

 

豐隆の胸の呼吸へ寒怒濤

 

霰うつ嚴に渇きて若い女

 

寒の濱婚期の焰焚火より

 

春の小鳥水浴び散らし弱い地震

 

  世田谷ぼろ市 五句

 

寒星下賣る風船に息吹き込む

 

寒夜市目なし達磨が行列す

 

寒夜市餠臼買ひて餠つきたし

 

ぼろ市に新しきもの夜の霜

 

ぼろ市さらば精神ぼろの古男

 

[やぶちゃん注:「世田谷ボロ市」は、天正六(一五七八)年に小田原城主北条氏政がこの地に楽市を開いたのが始まりとされ、世田谷を代表する伝統行事として四百年以上の歴史を有し、現在も続いている。当初は古着や古道具・農産物などを持ち寄ったことから「ボロ市」という名前がついたとされてるが、現在では骨董品・日用雑貨・古本や中古ゲームソフトを売る露天もあり、代官屋敷のあるボロ市通りを中心に、約七百店の露天が所狭しと並び、毎年多くの人々で賑う。(三瓶嶺良(さんぺいれいら)氏の「がんばれぼくらの世田谷線~東急世田谷線ファンサイト~」の「世田谷ボロ市」の記載に拠る)]

 

うぐひすや水を打擲する子等に

 

腰伸(の)して手を振る老婆徒長の麥

 

[やぶちゃん注:「徒長」は「とちょう」と読み、日光不足(より強い光を求めて上へ上へと伸長する結果瘦せる)・水分過多(水太りのようになって急速な細胞分裂が生じ、縦に無意味に伸び、結果、各細胞の細胞壁が薄い状態が持続してしまう)・栄養不足(細胞壁の堅固な生成に必要な窒素を補給出来ず細胞壁が薄いまま分裂してしまう。但し、栄養不足で徒長が必ず植物に起こるという訳ではなく、各植物の性質に拠るが、徒長せずに普通に育つものでも、極度に脆いというケースの方が多い)・栄養過多(稀なケースで、窒素が過剰だと勢いよく生長し、結果として徒長してしまうことがある)などが原因で起こる植物の状態を指す語。株全体がヒョロヒョロと縦に長く生長し、正常に育った個体と比べると病弱虚弱で、野菜の場合は収穫量が減り、園芸植物の場合は花の数が極端に減る。生物学的には総じて細胞壁が薄くなるため、葉を食害する虫にとっては大変食べやすく、アブラムシなどの汁を吸う虫にとっても大変吸いやすい状態となる。また、ウィルス等から身を守る細胞壁の薄化は免疫力の低下を齎し、結果として病気にも罹患し易くなる。多くの場合は水分過多も平行して併発しているので、水分さえ適量ならば栄養過多で徒長することはあまりない(以上はサイト「園芸百科事典 おもしろ野菜」の「徒長」に拠った)。]

 

火の山のとどろく霞船着きぬ

 

生ぱんと女心やはらか春風

 

[やぶちゃん注:「生ぱん」生パン。焼いていないパン、また、パン作り工程上で焼く直前のパン生地状態のもの、あるいはトーストしていない食パンの謂いであるが、最後のものであろう。]

 

西方に春日紅玉死にゆく人

 

晝のおぼろ泉を出でて水奔る

 

舐め癒やす傷やぼうぼう木の芽山

 

黑眼ひたと萌ゆる林を出で來たる

 

椿ぽとりと落ちし暗さにかがむ女

 

男等萌え女等現れ春の丘

 

種まく手自由に振つて老農夫

 

筍の聲か月下の藪さわぐ

 

夜が明ける太筍の黑あたま

 

  横濱 七句

 

巨大な棺五月プール乾燥し

 

光り飛ぶ矢新樹の谷に的ありて

 

沖に船氷菓舐め取る舌の先

 

眼鏡かけて刻む西曆椎の花

 

椎どつと花降らす下修道女

 

船の煙突に王冠三つ汗ばむ女

 

煙と排水ほそぼそ北歐船晝寢

 

新じゃがのえくぼ噴井に來て磨く

 

燕の巣いそがしデスマスクの埃

 

春畫に吹く煙草のけむり黴の家

 

岩沈むほかなし梅雨の女浪滿ち

 

犬も唸るあまり平らの梅雨の海

 

畑に光る露出玉葱生き延びよと

 

言葉要らぬ麥扱母子影重ね

 

麥ぽこり母に息子の臍探し

 

麥殼の柱竝み立て今も小作

 

踊の輪老婆眼さだめ口むすび

 

炎天の「考える人」火の熱さ

 

黑雲から風髮切蟲鳴かす猫

 

全き別離笛ひりひりと夏天の鳶

 

海溝の魚に手觸れて泡叫ぶ

 

蟹死にて仰向く海の底の墓

 

沖に群れ鳴る雷濱に花會

 

逃げ出す小鳥も銜える猫も晩夏一家

 

朝草の籠負い皺の手の長さ

 

蟲鳴いて萬の火花のしんの闇

 

蠅と遊ぶ石の唐獅子磯祭

 

棒に集る雲の綿菓子秋祭

 

波なき夜祭芝居は人を斬る

 

  一夜、草田男氏笑っていう、

  「一九〇〇年生まれの三鬼は一九世紀、

   一九〇一年生まれの我は二〇世紀」と

 

汗舐めて十九世紀の母乳の香

 

象みずから靑草かずき人を見る

 

ゴリラ留守の炎天太きゴムタイヤ

 

死火山の美貌あきらか蚊帳透きて

 

秋滿ちて脱皮一片大榎

 

露の草嚙む猫ひろき地の隅に

 

昔々の墓より墓へもぐらの路

 

白濁は泉より出で天高し

 

秋の蜂群がり土藏龜裂せり

 

女顏蜘蛛の巣破り秋の森

 

學僧も架くる陸稻も蒼白し

 

  草城先生遺宅 二句

 

實となりし草はら遺愛の猫瘦せて

 

死靈棲みひくひく秋の枝蛙

 

  須磨水族館  三句

 

美女病みて水族館の鱶に笑む

 

新しき今日の噴水指あたたか

 

乾き並ぶ鯨の巨根秋の風

 

  松山へ 三句

 

水漬くテープ月下地上の若者さらば

 

露の航ペンキ厚くて女多し

 

力士の臍眠りて探し秋の航

 

  予志と八句

 

松山平らか歩きつつ食ふ柿いちじく

 

秋日ふんだん伊豫の鷄聲たくさん

 

あたたかし金魚病むは予志の一大事

 

赤き靑き生姜菓子賣る秋の暮

 

城高し刻み引き裂き點うつ百舌鳥

 

切れぬ山脈柿色の柿地に觸れて

 

小屋ありて爺婆ひそむ秋の暮

 

みどり子が奥深き秋の鏡舐め

 

[やぶちゃん注:谷野予志(たにのよし 明治四〇(一九〇七)年~平成七(一九九五)年)俳人。本名は谷野芳輝。旧制松山高等学校を経て京都大学英文科を卒業、愛媛大学教授。昭和九(一九三四)年より作句を始め、水原秋櫻子の『馬酔木』と『京大俳句』に投句。昭和一四(一九三九)年「馬酔木」同人となるが、昭和二三(一九四八)年に山口誓子の『天狼』創刊とともに『馬酔木』を辞し創刊同人として参加した。昭和二四(一九四九)年『炎昼』創刊主宰。三鬼より七つ下の松山の『天狼』派(「インターネット俳句センター」の谷野予志に拠る。彼の句は同所の野予志の俳句 秀句とその鑑賞で読める。]

 

  藤井未萌居 二句

 

文鳥の純白の秋老母のもの

 

旅ここまで月光に乾くヒトデあり

 

[やぶちゃん注:「藤井未萌」桜楓社「新訂俳句シリーズ・人と作品13 西東三鬼」の「三、松山行」の二八二~二八三頁によれば、『天狼』派の俳人で伊予市の内科医。]

耳嚢 巻之六 女妖の事

 女妖の事

 

 萩原彌五兵衞御代官所下總國豐田郡川尻村名主新右衞門家來、百姓喜右衞門後家さきといふ者、享和三亥年、八拾三歳になり、新右衞門方にて召仕(めしつかひ)同樣いたし置(おき)けるに、同村吉右衞門迚(とて)五十六歳になりける者と、一兩年此方(このかた)心易(こころやすく)、夫婦になり度(たき)由さきより新右衞門の内に願ひけれども、年寄の事あるべき事にもあらずと、差押取合(さしおさへとりあは)ざりけるが、吉右衞門と申合(まうしあひ)、駈落(かけおち)もいたすべき風聞ありければ、新右衞門も止(やむ)事を得ず、さきが願ひにまかせ吉右衞門を入夫(にふふ)になしける由。鈴木門三郎廻村の節、新右衞門墓所に右さき居合(ゐあひ)候を見をよびしが、齒は落不申(おちまうさず)、鐡漿(かね)黑く附(つき)て、頭は白髮にて、立廻りは五十歳位にも見へしと、門三郎かたりぬ。所にては、吉右衞門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交(まじは)りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:享和年間の出来事で連関。ハッスルさきおばあちゃんのお話で、都市伝説というより、記述の仕方が、地下文書風で、最後の一文の興味本位の叙述を除き、事実譚として捉えてよい。

・「萩原彌五兵衞」「萩原」ではなく荻原が正しい(訳では訂した)。荻原友標(ともすえ 寛保元・元文六(一七四一)年~?)。底本の鈴木氏注に、『明和二年(二十五歳)家督』(明和二年は西暦一七六五年)、『六年御勘定、八年御代官に転ず。享和三年武鑑に、常陸下総の代官と出ている』とあるから、享和三(一八〇三)年とぴったり一致し、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、極めてホットな噂話でもあることが分かる。

・「さきといふ者、享和三亥年、八拾三歳」さきちゃんの生年は享保六(一七二一)年になる。

・「下總國豐田郡川尻村」現在の茨城県結城郡八千代町川尻。底本の鈴木氏注に、『豊田郡は旧名岡田郡。延喜式には豊田郡で出ている。その後郡名を失ったが、徳川幕府の初め、鬼怒川の東を豊田、西を岡田郡とした』とある。

・「吉右衞門迚五十六歳」さきちゃんより二十七歳も若いきっちゃんの生年は寛延元・延享五(一七四八)年となる。

・「鈴木門三郎」既出。勘定吟味役として主に治水のために廻村していたことが、本巻の先行する老農達者の事に出る。リンク先を参照されたい。

・「所にては、吉右衞門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。」この部分底本では尊経閣本で( )部分を補った形で、

所にては、吉右衞門も夫婦になりて、(夜の□りには)をくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。

であるが、如何にもな伏字といい、気に入らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

所にては、「吉右衛門も夫婦に成(なり)て、夜の契りにはをくれのみ取(とり)ていと迷惑す」と語り、「まのあたり交りをも見て驚ろきし」と語るものありしが、是(これ)は流言や、誠しからずとかたりぬ。

であり、後者を主に前者と混淆させて表記した。例えば、底本「語る」と「かたる」の違いは、後者が猥雑なる流言を「騙る」の謂いをも利かせてくるので、そちらを採っておいた。

・「をくれのみとりて」あっちの方では、常に八十三のさきちゃんにリードされて。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 女妖の事

 

 荻原弥五兵衛殿が勤めて御座った御代官所、下総国豊田郡川尻村名主、新右衛門が家來、故百姓喜右衛門の後家に、『さき女(じょ)』と申す者、享和三年の亥の年で八十三歳になり、新右衛門方にては亡き喜右衛門の縁者なればとて、召使い同様に養(やしの)う御座ったが、同村の吉右衞門とて五十六歳になったばかりの者と、この二年ほど心易うして御座ったが、突如、

「……吉衛門さまと、夫婦(めおと)になりとう存じます。……」

と、かの、さき女より主人新右衛門へ願い出て参った。

 されども、

「……何を血迷うておるのじゃ?!……棺桶に片足突っ込んだ八十三の年寄りのことなれば、……そ、そんなことは、あるびょうことも、はっ! あらざる仕儀じゃ!」

とて、許さず、

「年よりの世迷言(よまいごと)じゃ! 呆(ぼ)けたかのぅ、あの婆あも……」

と、全く以ってとり合わずに御座ったところが……

……さき女、何と!

「……御主人さま……そ、その……さき……で御座いますが……村にては……何でも……吉右衛門と申し合わせ……か、駈け落ちをも辞さぬらしい……と……専らの噂にて……へえ……」

という風聞を下男の者より小耳に挟んだゆえ、新右衛門も止むを得ず、さき女が願いにまかせ、吉右衛門を入り聟(むこ)に成して御座った由。

 例の勘定吟味役鈴木門三郎殿が廻村の節、新右衛門が先祖の墓所に参じた際、この、さき女が居合わせて御座ったを実見に及んだとのことで、

「……いや、もう、……歯なんどは、これ、一本たりとも欠いておらず、お歯黒もきりりと粋に黒うつけて……流石に、頭は白髪(はくはつ)にては御座ったれど……その立ち居振る舞いなんどは、これ、五十歳位にしか見えず御座った。……オッホン……その……それから附言致しますると……川尻村在所にては――吉右衛門自身が『夫婦(めおと)になって、その夜(よる)の契りの方にては、常に遅れのみとって、大層、迷惑致いておる』と申したとか――また、忌まわしくも――『目の当たり、二人の交わりをも見たが、その、さき女の、いや、凄いこと! これには!驚ろいた!』――なんどと語る者も御座いましたが、これはまず、……騙り流言の類いかと思われ、誠にては御座りませぬ。……」

と、門三郎殿の語って御座った。

一言芳談 七十四

   七十四

 

 乘願房云、さすがに年のよるしるしには、淨土もちかく、決定往生(けつじやうわうじやう)しつべき事は、おもひしられて候ふまり。所詮、眞實に往生を心ざし候はんには、念佛は行住坐臥(ぎやうぢゆうざが)を論ぜぬとなれば、たゞ一心に、ねても、さめても、たちゐ、おきふしにも、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と申して候ふは、決定往生のつととおぼえ候ふなり。學問も大切なる樣に候へども、さのみ往生の要(かなめ)なることも候はず。又學して一の不審を披(ひら)くといへども、するにしたがひて、あらぬ不審のみいできたるあひだ、一期(いちご)は不審さばくりにて、心しづかに念佛する事もなし。然而(しかうして)念佛のたよりにはならで、なかなか大なるさはりにて候ふなり。

 

〇決定往生のつと、家土産(いへづと)というは俗にみやげという事なり。旅裹(たびづと)というは旅にもつ食物なり。往生のつととは往生の資糧(しりやう)なり。

〇往生の要、往生の支度の樞要(すうえう)なり。

〇不審、いぶかしき事なり。

〇さばくり、取りあつかふ義なり。

 

[やぶちゃん注:「乘願房」宗源(そうげん 仁安三(一一六八)年~建長三(一二五一)年)は浄土宗の僧。権中納言藤原長方八男。当初は仁和寺で密教を学んだが、後に法然の弟子となり、京都醍醐の菩提樹下谷・清水の竹谷に棲み、念仏教化に努めた。竹谷上人とも言い、公家の帰依者も多かった。常に念仏し、建長三年七月三日に享年八十四歳で念仏往生した。

〇「つと」標註で十分であるが、「苞」「苞苴」と漢字表記し、「包む」と同語源の語。藁や葦・竹の皮などを束ねたり編み束ねて作った容器、又は、その中に食物を包んだものをいう。藁苞(わらづと)。食糧・魚や果実などの食品を包み入れて持ち運んだ。荒巻きなどともいう。旅行用の携帯食糧を入れる他にも、出先への贈り物を包んで携行したり、そこから帰る際の土産物を入れたりしたことから、土地の名産や土産物をも言う語ともなり、家への土産を「家苞(いえづど)」と称するようになった。]

北條九代記 柏原彌三郎逐電 付 田文の評定  / 【第二巻~了】

      ○柏原彌三郎逐電  田文の評定

近江國の住人柏原(かしはばらの)彌三郎は故右大將家の御時に西海に赴き、拔群の働(はたらき)あるを以て、平氏滅亡の後、勳功の賞として、江州柏原の莊を賜り、京都警衞の人數に加へられ、仙洞に候(こう)して、奉公を勤めけるところに、恣(ほしいまゝ)に振舞(ふるまひ)て、法令を破り、神社の木を伐り、佛寺の料を奪ひ、公卿殿上人に無禮緩怠(くわんたい)を致し、屢々帝命を背く事、重々の罪科あり。加之(しかのみならず)、己が領地に引込て、鹿狩川狩を事とし、百姓を凌礫する由、院宮、甚(はなはだ)惡(にく)み給ひ、頭辨(とうのべん)公定(きんさだ)朝臣、奉行として彌三郎追罸(ついばつ)の宣下あり。佐々木左衞門尉定綱、飛脚をもつて鎌倉に告げ申す。同十一月四日、將軍家より畏(かしこま)り申され、澁谷(しぶやの)次郎高重、土肥先(せん)次郎惟光を使節として手の郎等を引率して上洛す。斯る所に、關東の左右をも待たず、京都伺公(しこう)の官軍四百餘騎、江州に押よせ、柏原の莊に至り、彼(か)の館(たち)に向ひしに、三尾谷(みをのやの)十郎、夜に迷(まぎ)れて、先登(さきがけ)し、館の後(うしろ)の山間(やまあひ)より閧(とき)の聲を發せしかば、彌三郎恐(おそれ)惑ひ、妻子郎從諸共に館を逃(にげ)て逐電す。其行方(ゆくかた)を尋ぬれども更に聞えず、關東の兩使はその詮なく、押返して下向あり。官も亦、寄(よせ)かけたる甲斐なし。三尾谷が所行、更に軍事の法に非ず、柏原を取逃したり。さだめて關東の御気色、仙院の叡慮よろしかるべかと思はぬ人はなかりけり。されども別に仰せ出さるゝ旨もなければ、何となく靜まりぬ。將軍家には諸國の田文(たぶみ)を召出(めしいだ)され、源性に仰せて勘定せしめ、治承養和より以來(このかた)、新恩の領地毎人五百町に限り、其餘田を召放ちて無足(むそく)の近習に下さるべき由御沙汰あり、廣元朝臣、之を聞て、殆(ほとんど)珍事の御評定、世のそしり、人の憂(うれへ)何事か是に優らんと、宿老達は皆共に汗を握りて周章せり。大夫屬(さくわん)入道善信、しきりに諷諫(ふうかん)を奉る。賴家卿、理服(りふく)し給ひ、先(まづ)閣(さしお)かれける事は、せめて天下靜謐(せいひつ)の運命盡きざるところなり。これを聞(きゝ)ける大名小名、愈(いよいよ)賴家卿を疎(うとみ)參らせ、色には出さずといへども、心の底には怨(うらみ)をぞ含みける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年十一月一日・四日、十二月二十七日・二十八日などに基づく。第二巻の掉尾に至って遂に、暗君(と筆者が断ずる)頼家が、まさに「裸の大様」化してゆく様子が見てとれる部分である。

「柏原彌三郎」柏原為永。村上源氏の末裔で、源頼光の弟頼平の系統を引く。近江国柏原庄(現在の滋賀県米原市)を領し、清滝(現在の米原市清滝)に居館を構えていた。

「仙洞に候して」の部分の彼が従ったのは後白河法皇。但し、「彌三郎追罸の宣下」を下したのは後鳥羽上皇。

「緩怠」いい加減に考えて、怠けること。他に、無礼無作法なことをも指す。

「凌礫」「陵轢」とも書き、車輪がものを轢き潰すことから、侮って踏みにじることをいう。

「頭辨公定」三条公定(きんさだ 長寛元(一一六三)年~?)は公卿。西園寺実宗長男。但し、当時は従四位上修理左宮城使で、彼が右大弁で蔵人頭を兼ねたのは、この翌年の正治三年(一二〇一)に正四位下になってからであり、引用元の「吾妻鏡」の記述のタイム・ラグによる誤りが露呈している。

「三尾谷十郎」三尾谷広徳(みおやひろなり 生没年不詳)。源頼朝の直臣。三保谷郷(現在の埼玉県比企郡川島町)出身。「吾妻鏡」の正治二年十二月二十七日の条では、三尾谷十郎何某が『襲件居所後面山之間。賊徒逐電畢。今兩使雖伺其行方。依無所據。歸參云々』(三(件の居所の後面の山を襲ふの間、賊徒、逐電し畢んぬ。今、兩使、其の行方を伺ふと雖も、據所(よんどころ)無き依つて、歸參すと云々)とだけあって、殊更に三尾谷広徳の早掛けを非難する表現はない。

「田文」一国の荘園・公領における田畑の面積や領有関係などを詳しく記した田籍簿。

「五百町」約五ヘクタール。

「無足の近習」地頭職に任ぜられていない頼家直属の寵愛の何でもアリの近習連。以上の部分は「吾妻鏡」でもはっきりと頼家批判は顕在化している部分なので、以下に示す。

〇原文

廿八日庚戌。金吾仰政所。被召出諸國田文等。令源性算勘之。治承養和以後新恩之地。毎人。於過五百町者。召放其餘剩。可賜無足近仕等之由。日來内々及御沙汰。昨日可令施行之旨被仰下廣元朝臣。已珍事也。人之愁。世之謗。何事如之哉之趣。彼朝臣以下宿老殊周章。今日如善信頻盡諷詞之間。憖以被閣之。明春可有御沙汰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日庚戌。金吾、政所に仰せて、諸國の田文等を召出され、源性をして之を算勘せしむ。治承・養和以後の新恩の地、人毎(ごと)に、五百町を過ぐるに於いては、其の餘剩を召し放ち、無足の近仕等に賜ふべきの由、日來内々に御沙汰に及び、昨日、施行せしむべきの旨、廣元朝臣に仰せ下さる。已に珍事なり。人の愁ひ、世の謗(そし)り、何事か之にしかんやの趣き、彼(か)の朝臣以下の宿老、殊に周章す。今日、善信のごときが、頻に諷詞(ふうし)を盡すの間、憖(なまじ)ひに以つて之を閣(さしお)かれ、明春、御沙汰有るべしと云々。

最後の部分は、善信以下の宿老から、陰に陽に示された諫言に、仕方なく取り敢えずは、その施行の留保をなさったが、それでも来年の春には執行命令を必ず出すであろう、と仰せられた、という謂いである。]

2013/01/24

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 四谷 藤澤

これでやっと、次回、守備範囲の江の島に突入!



      四谷 藤澤

 

 四谷より半道ゆきて藤澤宿(しゆく)なり。このところ、遊行寺(ゆぎやうでら)の前の橋をわたりて、荏之嶋(えのしま)道なり。これより二里、片瀨村、日蓮上人の寺あり。荏之嶋入口(いりくち)の渡しをうちこし、鳥居前にいたる。兩側(かは)に茶屋、軒をならべ、にぎはヘり。嶋の入口、七八丁の間、潮のひたる時は徒(かち)ゆく。潮みちたる時は船渡しなり。

〽狂 けさやどをたつの

        くちまで

   きはめけん

    馬のかたせを

       おりるたび人

旅人

「さてさて、今日も天氣がすこしなまけてまいりました。これまでは奇妙なことには、私(わたし)が旅へでると天氣つゞいて、この前も五十日ばかり旅へ出て、毎日、日にてらされて、體(からだ)がいつそひあがつてかへりましたが、今度(こんど)はこんなにふつたりてつたりいたしますから、これでは生干(なまび)になつてかへるでござりませう。」

「さやうさやう、私はまた、どうも、ふられてなりませぬ。去年(きよねん)も旅へ出て、ふられたほどに、ふられたほどに、後(のち)にはいつそう體がふやけて、どこもふくれてかへりましたが、その時、内(うち)の山の神がおこつて申には、

『旅では憂(う)い目辛(つら)い目にあふものだから、人は旅へゆくと、やせてかへるに、お前はそんなにふとつてかへりなさつたは、旅でおもろいことがあつたのだ。妾(わたし)には、留守で苦勞をさせ、何がおもろかつた。』

と腹をたつから、

『これこれ、そうではない、このふとつたのは雨にぬれて、總身(そうみ)がふやけたのだ。おもしろいことがあつてふとつたではない。』

といふと、女房が、

『そんなら、そうかへ、お前は平生(へいぜい)ほそい所があつたが、何處(どこ)も彼處(かこ)も、ふとつたといひなされば、妾はなによりかそれがうれしい。』

と申して、機嫌(きげん)がなをつたから、大笑(わら)ひさ。」

[やぶちゃん注:「日蓮上人の寺」龍口寺。

「荏之嶋」漢字表記は以下の本書の記載のものを用いた。

「これまでは奇妙なことには、私が旅へでると天氣つゞいて、この前も五十日ばかり旅へ出て、毎日、日にてらされて」鶴岡氏の翻刻では「でると天氣つゞいて、この前も五十日ばかり旅へ」の部分がない。]

西東三鬼句集「變身」 昭和三十三(一九五八)年 八五句

昭和三十三(一九五八)年 八五句

 

個は全や落葉の道の大曲り

 

落葉して木りんりんと新しや

 

夜の別れ木枯炎ゆる梢あり

 

ネロの業火石燒芋の竈に燃ゆ

 

地に立つ木離れず鳥も切れ凧も

 

  南伊豆一二句

 

枯廣き拓地の聲は岩起す

 

岩山の淺き地表に豆の花

 

餠燒けば谷間の鴉來よ來よと

 

鼻風邪や南面巨巖ありがたく

 

死顏の寒季の富士は夜光る

 

刈田靑み伊豆の重たき鴉とぶ

 

山畑のすみれや背負う肥一桶

 

老いて割る嚴や金柑鈴生りに

 

蕗の薹岩間の土にひきしまる

 

呼ぶ聲や寒嚴の胎深きより

 

岩山の北風靑し目白捕り

 

犬妊み寒潮に浮く島七つ

 

素手で搔く岩海苔富士と共に白髮

 

夜の吹雪言葉ごとく耳に入る

 

寒析に合せて生ける肌たたく

 

[やぶちゃん注:「寒析」は「かんたく」と読む。「析」とは拍子木のこと。冬の季語。]

 

黑き月のせて三日月いつまで冬

 

これが最後の枯木の踊一つ星

 

落椿かかる地上に菓子のごとし

 

花咲く樹人の別れは背を向け合い

 

岩傳う干潟の獨語誰も聞くな

 

うぐひすや死顏めきて嚴に寢て

 

絶壁の氷柱夜となる底びかり

 

永柱くわえ泣きの涙の犬走る

 

寒のビール狐の落ちし顏で飮む

 

吹雪く野に立ち太き棒細き棒

 

首かしげおのれついばみ寒鴉

 

天の國いよいよ遠し寒雀

 

犬を呼ぶ女の口笛雪降り出す

 

宙凍てて鐵骨林に火の鋲とぶ

 

降る雪を高階に見て地上に濡る

 

蠅生れ天使の翼ひろげたり

 

道場の雄叫び春の鳩接吻

 

忘却の靑い銅像春のデモ

 

櫻冷え遠方へ砂利踏みゆく音

 

老斑の月よりの風新樹光る

 

體ぬくし大綠䕃の綠の馬

 

まかげして五月えを待つよ光る沖

 

[やぶちゃん注:「まかげ」は「目陰・目蔭」で、遠くを見る際、光線を遮るために手を額に翳(かざ)すことをいう。]

 

誕生日五月の顏は犬にのみ

 

荒れ濁る海へ草笛鳴りそろう

 

分ち飮む冷乳蝕の風起る

 

[やぶちゃん注:同年四月十九日に日本で大きく欠ける日食があった。]

 

いま淸き麻醉の女體朝の月

 

緑蔭の累卵に立ち鹽の塔

 

[やぶちゃん注:「累卵」は卵を積み重ねること。また、「累卵の危うき」で、積み上げた卵のように、非常に不安定で危険な状態の譬えともなる(「史記」范雎伝に拠る故事成句)。実景にこの故事を利かせるか。]

 

光る森馬には馬の汗ながれ

 

荒地すすみ朝燒雀みな前向き

 

遁走の蟬の行手に落ちゆく日

 

耳立てて泳ぐや沖の聲なき聲

 

強き母弱き父田を植えすすむ

 

假住みのここの藪蚊も縞あざやか

 

  大島・下賀茂 一二句

 

夜光蟲明日の火山へ船すすむ

 

知惠で臭い狐や夏の火山島

 

死者生者竜舌蘭に刻みし名

 

溶岩の谷間文字食う山羊の夏

 

靑バナナ逆立ち太る硝子の家

 

飛び込まず眼下巖嚙む夏潮へ

 

母音まるし海南風の溶岩(らば)岬

 

[やぶちゃん注:ルビの「らば」は日本語ではない。“lava”(ラヴァ)で英語で溶岩の意。元来はイタリア語の豪雨で突然発生した奔流の意の“lava”が語源。]

 

ラムネ瓶握りて太し見えぬ火山

 

聲涼しさぼてん村の呆け鴉

 

巖窟の泉水增えし一滴音

 

老いの手の線香花火山犬吠え

 

裸そのまま力士の泳ぎ秋祭

 

秋祭生きてこまごま光る種子(たね)

 

秋潮に神輿浮かべて富士に見す

 

天高しきちがいペンをもてあそぶ

 

石崖に嚙みつく蝮穴まどひ

 

梯子あり颱風の目の靑空へ

 

颱風の目の空氣中女氣(によき)を絶つ

 

新涼の咽喉透き通り水下る

 

つぶやく名良夜の蟲の光り過ぐ

 

眞つ向に名月照れり何はじまる

 

犬の戀の樂園苦園秋の風

 

  男鹿半島と八郎潟 一〇句

 

生ける雉子火山半島の路はばむ

 

舊火山純なるものは暖かし

 

水飮みて醉ふ秋晴の燈臺下

 

若き漁夫の口笛千鳥從へて

 

白魚を潟に啜りて歎かんや

 

遠い女シベリヤの鴨潟に浮き

 

どぶろくや金切聲の鵙去りて

 

手をこすり血を呼ぶ深田晩稻刈

 

夕霧に冷えてかたまり農一家

 

稻積んで暮れる細舟女ばかり

耳嚢 巻之六 夢想にて石佛を得し事

 夢想にて石佛を得し事

 

 信州坂本宿に角兵衞といえる百姓ありしが、十一年程以前、村境の樫の木のもとに我(わが)像埋(うま)り居(ゐ)候間、取出し候樣、一人の出家覺しき者枕にたちて告(つげ)しを、夢幻となく聞(きき)て、あたりのものへ咄しければ、取しまらざる事故打捨置(うちすておき)しに、享和元年或(ある)夜の夢に同じく見えし故、村役人抔へかたりしに、かゝる事有べき樣なしとて打過(うちすぎ)ぬるを、又享和二年にも夢見しとて、何卒ほりたきといひしを、度々の事故、村役人もいづれ掘て見可然(しかるべし)と相談決し凡(およそ)四五尺も掘(ほり)しに、五寸計(ばかり)の石像掘出(ほりいだ)しぬ。右角兵衞至(いたつ)て正直ものにて、目論見事などいたす者にもあらず。支配の御代官蓑(みの)笠之介え訴へ、同人より御勘定奉行へも申立(まうしたて)、一旦江府(かうふ)へも取寄(とりよせ)になりしが、角兵衞は日蓮宗の由にありしが、右像は彌陀釋迦等其外多寶(たほう)勢至などの類にも無之(これなく)、出家の石像にて、圓光大師の像なりといふ人も有(あり)し。尤(もつとも)角兵衞へ石像は返し給(たまは)り、右に付(つき)人集(ひとあつめ)等不致(いたさず)、異説等申觸(まうしふれ)まじきと、御代官より申(まうし)渡させけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。三つ前の「感夢歌の事」と夢告霊異譚で直連関。

・「信州坂本宿」中山道六十九次の内、江戸から数えて十七番目の宿場。現在の群馬県安中市松井田町坂本。中山道の難所であった碓氷峠の東の入口に当り、本陣と脇本陣合わせて四軒、旅籠は最盛期には四十軒あった比較的大きな宿場であった(以上はウィキの「坂本宿」に拠った)。「信州」とあるが、上野国の誤りである。訳では訂した。

・「享和元年」西暦一八〇一年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、これで逆算すると「十一年程以前」は寛政五(一七九三)年になってしまう。ということは享和元年起算で「十一年」後は、文化九(一八一二)年となり、これは「卷之十」の下限である、死の前年文化十一(一八一四)年六月までに一致する。もしかすると、根岸は「卷之十」の完成に合わせて、過去の記録の数字を時計に合わせて補正したのかも知れないなどと考えた。無論、この記載を「享和元年」から「十一年程以前」と言っているとも取れぬことはない。その場合は、初回の夢告は寛政二(一七九〇)年の出来事となり、本巻の時系列には合致する。しかし、十一年のブランクは話柄としてはおかしい感じがする。この間、法然上人の御魂、どこぞで教化でもして御座って、忙しかったのかしらん? などと馬鹿なことを考えているうちに、私の大きな愚かさに気づいた。以下に注するように、ここに登場する蓑笠之介が代官であったのは元文四(一七三九)年から延享二(一七四五)年の間であった。しかし、そうすると、更に時間軸に大きなパラドックスが生じる。延享二(一七四五)年起算の十一年後は宝暦六(一七五六)年となり、享和二年とは四十六年も隔たってしまい、そもそもこの時、蓑笠之介は既に代官ではないどころか、後注でご覧の通り、勘定奉行支配下から職務不行届から罷免されて小普請入り、まさにこの年に隠居しているのである。どうも、この話柄、眉唾物という感じがする。

・「蓑笠之介」蓑正高(みのまさたか 貞享四(一六八七)年~明和八(一七七一)年)幕府代官。農政家。「耳嚢 巻之三」の「本庄宿鳥居谷三右衞門が事」で既出であるが、再注しておく。以下、「朝日日本歴史人物事典」の記載(数字・記号の一部を変更した)。『松平光長の家臣小沢庄兵衛の長男。江戸生まれ。享保一(一七一六)年猿楽師で宝生座配下の蓑(巳野)兼正の養子となり、同三年に家督を相続。農政・治水に通じ、田中丘隅の娘を妻とする。同一四年幕府に召し出され、大岡忠相の支配下に入り、相模国足柄上・下郡の内七十三カ村を支配、酒匂川の普請なども行う。元文四(一七三九)年代官となり扶持米一六〇俵。支配地はのちさらに加増され、計七万石となった。延享二(一七四五)年勘定奉行の支配下に移るが、寛延二(一七四九)年手代の不正のため罷免され、小普請入り。宝暦六(一七五六)年隠居。剃髪して相山と号した』。著作に「農家貫行」がある、と記す。

・「多寶」多宝如来。東方の宝浄世界の教主。「法華経」の「見宝塔品」に載る如来。法華の説法のある場所に宝塔を出現させて説法の真実を証明して讚嘆、半座を譲って釈迦を請じ入れたという。

・「圓光大師」法然の大師号の一つ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 夢想にて石仏を得た事

 

 上州坂本宿に角兵衛と申す百姓が御座った。

 十一年程以前、

「――村境の樫の木の根元に――我が像、埋まりおるにつき――取り出だいて、くるるよう――」

と、一人の出家と思しい者が枕上に立って告げたを、夢現(ゆめうつつ)とのう、聞いたによって、住まう辺りの者へも話してはみたが、

「益体(やくたい)もない出鱈目じゃ。」

と一笑に付されたゆえ、うち捨てて御座った。……

 ところが、享和元年のある夜の夢に、全く同じきものを見たゆえ、村役人などへも申し上げたところ、

「そのようなこと、これ、あろうはずも、なし!」

と一笑に附され、またしても無為にうち過ぎたと申す。

 ところがまた、翌享和二年、

「……全く同じ夢を見申したれば……何卒、そこを、掘りとう御座いまする……」

と再三申し出でたによって、度々のことなればと、村役人も、

「……まあ、しょうがない。いずれにしても、掘って見るに若くはあるまい。」

と、談議が決した。

 ところが……およそ四、五尺も掘ったところで……

……これ、五寸ばかりの

――小さな石像が

これ、掘り出されて御座った。

 この角兵衞と申す百姓、近在でも至って正直者として知られており、悪しき謀りごとなんどを致す者にもあらざれば、当時の支配の御代官蓑(みの)笠之介殿へ訴え出でて、同人より御勘定奉行へも申し立てが御座って、一旦、かの石仏、江戸表勘定方へも取り寄せとなって仔細が調べられた。

 その資料によれば――角兵衞の宗旨は日蓮宗の由で御座ったが、右像は弥陀・釈迦など、また、その他の多宝如来や勢至菩薩などの類いにてはこれなく、出家の僧を彫ったる石像にて、ある者は、

「これは円光大師法然の像である。」

と申す者も御座った。

 もつとも、結果としては、角兵衞へ石像はお返しとなり、

「――右石像に附き――くれぐれも、当像をもって夢告の像なんどと称し、人集めなんどは致さぬように。――また、夢告にて掘り出だいた、なんど申す、不届き千万なる異説や噂なんどをも、ゆめゆめ、申し触れまじいこと――」

と、御代官簑殿より申し渡させた、とのことで御座る。

一言芳談 七十三

   七十三

 

 俊乘房云、後世をおもはんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一(ひとつ)も、もつまじき物とこそ心えて候へ。

 

〇糂汰瓶(じんだがめ)、糠味噌つぼなり。此事くはしくは沙石集にあり。

 

[やぶちゃん注:本条は「徒然草」第九十八段に、二項目として、後掲する「百」の解脱上人条の一部とカップリングして、

 一、 後世(ごせ)を思はん者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經・本尊に至いたるまで、よきものを持つまじきなり。

と引用されてある。また、松尾芭蕉に、「柞原集」に載る元禄四(一六九一)年四十八歳の時の膳所義仲寺での著名な清貧の詠、

    庵に掛けんとて句空が書かせける兼好の繪に

  秋の色糠味噌壺もなかりけり

はこれを元としており、句空は「草庵集」で、この『句は兼好の贊とて書きたまへるを、常は庵の壁に掛けて對面の心地し侍り。先年義仲寺にて翁の枕もとに臥したるある夜、うちふけて我を起さる。何事にか、と答へたれば、あれ聞きたまへ、きりぎりすの鳴き弱りたる、と。かかる事まで思ひ出だして、しきりに涙のこぼれ侍り。』としみじみと回顧して記している(「草庵集」以下は伊藤洋氏の「芭蕉DB」の当該句鑑賞を参照した)。

「此事くはしくは沙石集にあり」「沙石集 卷第四」の「道心執著を捨つ可き事」の冒頭にある。以下に引用する(底本は読み易い一九四三年筑土鈴寛校訂の岩波文庫版を用いた)。後に極少数の語注を附しておいた。

大原の僧正、顯眞座主、四十八日の間、往生要集の談議し給ふ事有けり。法然房の上人俊乘房の上人なんど、談議の衆にて、大原の上人達あまた座につらなり、如法の後世の學問の談議なりけり。四十八日功をへて、人々退散しけるに、法然房俊乘房兩上人斗ばかりはしちかく居て、法然房申されけるは、この程の談議の所詮いかが御心得候と俊乘房に申されければ、秦太(じんだ)瓶一なりとも、執心とまらん物はすつべきとこそ心得て候へとかたらる。僧正御簾のうちにきき給ひて、上人たち何事ヲ語り給ふぞと仰せられければ、俊乘房かくこそ申し候へと、法然房申されければ、御衣の袖に御涙を、はらはらとこぼして、このほどの談議に、これほどにめづらしき事承らずとて、隨喜し給ひけるよし、或人語り給ひき。

・「大原の僧正」顕真(天承元(一一三一)年~建久三(一一九二)年)天台僧。藤原顕能の子。母参議藤原為隆娘。比叡山で明雲らに天台教学や密教を学んだ後、承安三(一一七三)年、大原別所に隠棲した。浄土信仰へ傾き、文治二(一一八六)年に、勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて、大原問答を行ったとされる(本話。但し、参加者については異説もある)。翌文治三年には勝林院で不断念仏をはじめ、建久元(一一九〇)年、第六十一代天台座主に就任した(ウィキの「顕真」に拠った)。

・「所詮」本講義によって示された結論。]

2013/01/23

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 子安 伊勢原 田村 / ブログ記事5000超

本投稿を以って本ブログ「鬼火~日々の迷走」(2005年7月6日開設)は公開記事5000を超えた。



    子安 伊勢原 田村

 

 大山の麓、子安といふところより一里ゆきて伊勢原なり。このところより田村へ一里。田村川、舟渡(ふなわた)し。これより三里ゆきて東海道四谷(よつや)といふ合(あい)の宿へいづるなり。

〽狂 田むら川鈴鹿(すゞか)

  にあらではやき瀨(せ)は

 千の矢(や)をゐるごとき水せい

〽狂 いそげども日あしも

  はやくくれあいの

 しゆくときこへし

     よつやにぞ

          つく

駕籠(かご)

「旦那(だんな)さま、滅相(めつそう)に骨をおりました。どうぞ、酒手(さかて)をしつかりとおたのみ申します。」

「なんだ酒手だ。儂(わし)は攝州(せつしう)大物(だいもつ)の浦の船頭松右衞門といふものだが、船で妻子をやしなひながら、ついに酒手といふことを。」

「ヲヽ、しらぬ筈(はづ)しらぬ筈、この安駕籠(やすかご)にのりながら、わざとねたふり空鼾(そらいびき)、しらずばいつてきかせませう。駄賃のほかに一人前(ひとりまへ)廿四文くれるを酒手といふわいなふ。」

「おいおい、それでのみこんだ。そんなら、どうぞ、一人前八文づゝにまけてくれ。これをまけつといふわいのふ。」

「ハヽヽ、こりや旦那は盛衰記(せいすいき)ではなくて、狡(こす)い氣(き)だ、狡い氣だ。」

「それから、それから、これは御繁盛の旦那方から、儂にも酒手を一文くださりませ。おぬきなさるが御面倒なら、緡包(さしぐるみみなげてくださりませ。これはしたり、貴公(きかう)たんとおぬきなさるから、そんなに、たんとくださると思つたら、みんなあつちへぬいてとりて、緡ばかり下さるとは、なるほど、旦那は狡い氣だ、狡い氣だ。」

「儂はお山で屁(へ)がひりたかつたが、こゝでひつてはもつたいないとおもつたから、そつと紙をひろげて尻へあてがい、ひつてはつゝみ、ひつてはつゝみ、袂(たもと)にいれて、お山をおりたらすてよふと思つて、つい、そこまでもつてきたが、なんと駕籠の旦那、一包(ひとつゝみ)あげやう。慰みにかいで見なさらぬか。」

「イヤイヤ、儂もひり合はせをもつている。さつきからひつたのが、しやんとすわつてうごかずにゐるものだから、その臭(にほ)ひが、何處(どこ)へもいかずにいるを、ときどき、懷(ふところ)をあけて、臭ひをかぐのが、樂しみさ。」

[やぶちゃん注:「田村」現在の平塚市田村。相模川河口から六キロメートル程上流の右岸に位置する。

「田村川」古くはこの辺りで相模川を田村川と呼び、ここに田村の渡しがあった(左岸が高座郡で右岸が旧大住郡)。江戸時代は大山石尊への参詣人の往復で賑わった。「平塚の史跡と文化財めぐり」より引用された平塚市都市整備部水政課金丸亜紀雄氏のHP「平塚の川と橋」の相模川」のページによれば、江戸時代には、渡船四隻が置かれており、渡し賃は一〇文であったとあり、現在でも『東側の堤から西を眺めると、裾野の長く広い富士山をはじめ、大山、丹沢山、足柄山、箱根山、伊豆の山々がある時は濃くあるときは淡く、日本画の名品に接する趣がある。新編相模国風土記も「渡頭よりの眺め最も佳景なり」と載せている』とある。

「東海道四谷」田村の渡しを通って現在の辻堂駅の北にある四谷。

「合の宿」間の宿。宿場と宿場との中間に設けられた休憩のための宿で、本来、宿泊は禁じられていた。

「なんだ酒手だ。儂は攝州大物の浦の船頭松右衞門といふものだが、船で妻子をやしなひながら、ついに酒手といふことを。」「攝州大物の浦」は現在の兵庫県尼崎市の一地区。古くは猪名(いな)川の河口港として栄え、元暦二(一一八五)年二月に源義経が平家追討のため船出した地として知られる(現在は内陸化)が、ここは、「平家物語」の「逆櫓」の舞台のモデルでもあり、「逆櫓」の「酒手」を懸け、梶原景時が兵船に逆櫓を装備して進退を自由にすることを発案したのに対して、予め後退に具えるは戦意を殺ぐとし、景時が、進むばかりの能しかなく、退くを知らぬは猪武者、と言い放って義経と対立した有名な逆櫓論争を踏まえて憤激しているのである。

「まけつ」値切る、の意の「まける」は現在は全国区の言葉であるが、元来は西の地方が発祥であったか。但し、ここはまけさせたものの、酒手を出せと言うのに従ったことを、「負け」に掛けて言ったものか。「けつ」は「尻(けつ)」で最後の「屁」と響き合わせているのかも知れぬ。

「狡い氣」「狡い」は、人を欺いて自分に有利に立ち回るさまで、悪賢い、狡猾である、ずるいの意。また、吝嗇(けち)だ、という意もある。先に出た「酒手」から「逆櫓」で、その縁語の「源平盛衰記」を引き合いに出し、「せいすいき」を「こすいき」に掛けた洒落である。

「緡」緡縄。銭の穴に差し通す細い縄。又それに差した銭束。因みに、この台詞を言っている人物は、誰だろう? 駕籠掻きの相棒か? 絵はそれを解き明かしては呉れない。時にこの絵、右手にいるのは露天商のようであるが、彼は一体、何を売っているのだろう? それに、この駕籠の前を行く屈強な男が背負っている長尺の板は何か? 社寺仏閣か霊地などに立てるための、何かの講中の標札か? それぞれに識者の御教授を乞うものである。【2013年2月6日追記】以上の内、男の背負っているものは判明した。これは大山講中の奉納用の木太刀である。たまたま再読していた林美一「江戸の二十四時間」(河出文庫一九九六年)の中に、『相州大山の山開きは六月の二十八日である。この日には関八州から信者たちが「大願成就」と墨書した大きな納太刀(木太刀である)をかついで出掛けてゆく。中には借金のがれに山へ逃げる不心得な信心者もいるらしいが、同注はさぞ賑』ったことであろう、とあったからである。従って、この道中絵も六月二十八日である可能性が高いということになる。思わぬところで目から鱗であった。]

北條九代記 太輔房源性異僧に遇ふ算術奇特 付 安倍晴明が奇特

      ○太輔房源性異僧に遇ふ算術奇特  安倍晴明が奇特

將軍賴家卿、御行跡(こうせき)雅意(がい)に任せ、政道の事は露計(ばかり)も御心に入れられず。只朝夕は近習の五六輩を友とし、色に※じ、酒に長じ、或は逍遙漁獵(ぎよれう)に日を送り、或は伎術(ぎじゅつ)薄藝に夜を明し給ひければ、上(かみ)の好む所、下これに效(なら)ひ、技能藝術の道を履(ふ)む者、四方より集(あつま)り、鎌倉中に留つて、世を謟(へつら)ひ人に媚び、恩賜を望み、輕薄を致す。此所(こゝ)に大輔房(たいふばう)源性とて、本(もと)は京師の間に住宅し、仙洞に伺候して、進士(しんじ)左衞門尉源整子(まさこ)と號す。儒流の文を學し、翰墨の字を練り、高野大師五筆の祕奥を傳へたり。垂露偃波(すいろえんは)の點(てん)、囘鸞翩鵲(くわいらんへんじやく)の畫(くわく)、蝌斗(くわと)、龍書(れうしよ)、慶雲(けいうん)、鳳書(ほうしよ)皆以て骨法を得たりと傍若無人に自稱を吐散(はきちら)し、「蔡邕(さいいう)は飛(とん)で白からず、羲之(ぎし)は白くして飛(とば)ず」なんど云ひわたり、後に入道して、太輔房源性と名付け、關東に下りて將軍家に召出だされ、近侍出頭殆(ほとんど)時めきけり。然のみならず蹴鞠は殊に賴家卿好ませ給ふ。源性又この藝を得て、毎度御詰にぞ參りける、利口才學の致す所にや。算術の藝は當時無雙(ふさう)なり。況や田頭里坪(でんとうりひやう)の積(つもり)、高低長短の漢、段歩畦境(たんほけいきやう)、其(その)眼力(がんりよく)の及ぶ所(ところ)分寸をも違へずと世の人是(これ)をもてはやす。漢の洛下閎(らくかくわう)、唐の一行、本朝曆算に妙を得たる安倍晴明と云ふとも、是より外には出づべからずと、慢相(まんさう)尤(もつとも)顯(あきらか)なり。此比奥州伊達郡(だてのこほり)に境目(さかいめ)の相論あり。其實檢の爲源性をぞ遣されける。幾程經ずして鎌倉に下向し、將軍家の御前に出でたりければ、奥州の事共尋仰せらる。源性物語申しけるは「今度奥州下向の次(ついで)に松島を見ばやと存じて、彼處(かしこ)に赴き候處に、一人の老僧あつて草菴の内にあり、日暮(ひく)れ、里遠(とほか)りければ、案内して一夜の宿を借りけるに、主の僧心ありて、粟飯(あはいひ)を炊(かし)き、柏の葉に盛りて、旅の疲(つかれ)を助(たすけ)たり。夜もすがら種々の法門を談ずるに、皆その奥義を現す。翌朝(よくてう)この僧云ふやう、我は天下第一の算師なり。樹頭(じゆとう)の棗(なつめ)を數へ、洞中(とうちう)の木を計る、是等はいと安(やすか)りなん。たとひ龍猛大士(りうみやうだいし)の行ひ給ひし隱形(おんぎやう)の算と云ふとも理(り)を盡し置き渡たさんに難らずと語る。源性是を聞くに慢心起りて思ふ樣、かゝる荒涼の言葉は誠に蠡測井蛙(いしよくせいあ)の心なり、流石、遠(とほ)田舍に住(すみ)慣れて、土民百姓の耳を欺く曲(くせ)なるべし。源性が算術をもとくべき人は世には覺えぬものを、と侮りける。其心根や色に出けん、彼の僧重て云ふやう、只今常座を改めず、速(すみやか)に驗(しるし)を見すべしとて、算木(さんぎ)を取りて、源牲が座の圍(めぐり)に置き渡すに、源性忽(たちまち)に心耄(ほ)れ、神(たましひ)暗みて、朦霧(もうむ)の中にあるが如く、四方甚(はなはだ)暗く、草菴の内總て變じて大海となる。圓座は化して盤石(ばんじやく)となり、飄風(へうふう)吹(ふき)起り、怒浪(どらう)、聲(こえ)急なり。忙然として、是非に惑ふ。既に死せりや、死せざるや、生死(しやうじ)の間(あいだ)辨(わきまへ)難し。時尅(じこく)を移して主の僧の聲として、慢心今は後悔ありやと、源性大に恐服(おそれふく)して、頗る後悔の由云ひければ、言葉の下に心神(しんじん)潔く夢の覺(さめ)たるが如くにして、白日、窓に輝けり。餘(あまり)の奇特(きどく)を感歎し、傳受の望(のぞみ)を致せしに、末世の下根に於ては授(さづけ)難き神術なり、今は疾々(とくとく)出でて歸れと勸めける程に、三拜して別れたり」と申す。賴家卿聞(きき)給ひ、「その僧を伴(ともなひ)來らざるこそ越度(をつど)なれ。何條狐に妖(ばか)されたるらん」と、さして奇特の御感もなし。古(いにしへ)安倍晴明は天文の博士(はかせ)として、算術に妙を得たり。或時、禁中に參りける、庚申の夜なりければ、若殿上人多く參り集り給ひ、寢(ね)ぬ夜の御慰(なぐさみ)樣々なり。晴明を召して「何ぞ面白からん事仕出して見せよ」と仰(おほせ)あり。「さらば今夜の興を催し、人々を笑はせ奉らん。構(かまへ)て悔み給ふまじきや」と申ければ、「算術にて人を笑せん事、いか樣にすともあるべき業(わざ)ならず。仕(つかまつり)損じたらんには賭物(かけもの)を出(いだ)せ」と仰あり、「畏(かしこま)り候」とて算木を取出しつゝ、座の前にさらさらと置き渡したりければ、何となく目に見ゆる者もあらで、座中の人々可笑(をかしく)なりて頻(しきり)に笑ひ出で給ふ。止めんとすれども叶はず。坐(そゞろ)に笑(わらは)れて頤(おとがひ)を解き腹を捧(さゝ)げ、後には物をもえ云はず、腹筋(はらすぢ)の切る計になりつゝ轉(ころび)を打ちても、可笑さは愈(いや)優(まさ)りなり。人々涙を流し手を合せて頷(うなづ)き給ふ。「さては笑(わらひ)飽きたまへり。急ぎ止(とゞ)め奉らん」とて算木を疊み侍りしかば、可笑さ打(うち)醒めて何の事もなかりけり。人々奇特を感じ給へりとかや。算法(さんぱう)の不思議はかゝる事共少からず、彼の源性が僅(わづか)に物の積(つもり)を辨へ、田歩の廣狹(くわうけう)を知るを以て、慢心自稱を吐散らす、小智薄術を戒めて、かゝる奇特を現しけん。松島の僧と云ふは狐魅(こみ)の所行か、天狗の所爲(しよゐ)か、重(かさね)て尋ねらるれども、僧の行方(ゆくがた)は知る人なし。

[やぶちゃん注:「※」=「氵」+(「搖」-「扌」)。「淫」の異体字。「いんじ」と読んでいるか(ルビはない)。本話は「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年十二月三日に拠り、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、後半の安倍晴明のエピソードは寛文二(一六六二)年板行の浅井了意「安倍晴明物語」の巻三「庚申の夜殿上の人々をわらはせし事」に拠るとする。

「奇特」本文にあるように、仏教用語としては「きどく」と濁る。神仏の持っている、超人間的な力・霊験をいう。

「謟(へつら)ひ」この「謟」には「へつらふ」という意はない。「疑(うたが)ふ」又は「違(たが)ふ」であり、「へつらふ」ならば「諂」である。ここは文意からも「世間にへつらって」ではおかしい(増淵氏は「世間にへつらって人々に媚び」と訳しておられるが、意味が通らない。この「人」は頼家であろう)。筆者は「世に謟(たが)ひ」と書いたものと私は判断している。

「雅意に任せ」「我意に任す」と同義で、自分の考え通りにする、我儘に振る舞う、の意。

「伎術薄藝」歌舞・音曲の芸能。

「大輔房源性」「進士左衞門尉源整子(まさこ)と號す」「諸將連署して梶原長時を訴ふ」の注に引用した「吾妻鏡」に既出。そこでは「えんしやう(えんしょう)」と読んでいる。頼家側近で、比類なき算術者にして蹴鞠の名手という、ここに記された以上の事蹟は私は不詳。但し、「進士左衞門尉源整子と號す」という部分は、「吾妻鏡」の従来の読みでは「源進士左衞門尉整が子」であり、本書に基づいたと思われる後年の曲亭馬琴の「苅萱後傳玉櫛笥(かるかやごでんたまくしげ)」(文化四(一八〇七)年板行)の上之巻に載る「源性(げんせう)が算術繁光が射法巧拙によつておのおの賞罰を蒙る事」では『進士(しんし)左衞門尉源(みなもとの)整子(まさたね)』とある。なお、「進士」は中国の科挙を真似た律令制の官吏登用試験の科目の名称で、それに合格した文章生(もんじょうしょう)のことをいう。

「仙洞」後鳥羽上皇では、院政の開始が建久九(一一九八)年で短すぎるので、後白河法皇であろう。

「高野大師」書道の名人としても知られた弘法大師。

「五筆」両手・両足及び口に筆を銜えて文字を書く術。弘法大師が行ったとされる。

「垂露偃波の點」「垂露」は、上から下に引く直線の収筆を少し逆に戻して終るもの、「偃波」は形がさざなみに似ているところからいい、古くは詔(みことのり)を記した詔書に用いた。その独特の止めを言うか。

「囘鸞翩鵲の畫」「囘鸞」も「翩鵲」も筆法の一つという。

「蝌斗」「蝌蚪」に同じい。中国古代の字体の一つで、古体篆字のこと。箆(へら)に漆をつけて竹簡に書かれたが、その文字の線は初めが太く先細りとなり、オタマジャクシの形に似るところから、かく呼んだ。

「龍書」書体の一種。伏羲が龍を見てそれを基に文字を作ったとされることに由来するもので、管見したものでは、総ての画(かく)がリアルな龍で出来ている絵文字であった。

「慶雲」「鳳書」いずれも書体の一種という。

「骨法」芸道などの急所となる心得。コツ。

「蔡邕」(さいよう 一三二年又は一三三年~一九二年)は後漢末期の政治家・儒者・書家。飛白体の創始者とされる。飛白体とは、刷毛筆を用いた、かすれが多く装飾的な書法。「飛」は筆勢の飛動を、「白」は点画のかすれを意味する。

「羲之」東晋の政治家で「書聖」と称された王羲之(三〇三年~三六一年)。行書の「蘭亭序」が最も知られるが、参照したウィキ王羲之によれば、王羲之は楷書・行書・草書・章草・飛白の五体を能くし、梁の武帝の撰になる「古今書人優劣評」には、「王羲之の書の筆勢は、一際、威勢がよく、竜が天門を跳ねるがごとく、虎が鳳闕に臥すがごとし」と形容されているとある。

「田頭里坪の積」本来、「田頭」は荘園に於いて荘田を耕作した農民を、「里坪」は「りつぼ」とも読んで、古代からの条里制における土地区画をいう。ここは、荘田の田畑の面積を見積もることを言っている。

「高低長短の漢、段歩畦境、其眼力の及ぶ所分寸をも違へず」「漢」は不詳。勘案の「勘」の誤りか。増淵氏は『思案』と訳しておられる。「段歩」は「反歩」とも書き、普通は「たんぶ」と読む。田畑の面積を「反(たん)」を単位として数えるのに用いる語。ここは、その鋭い眼力の及ぶところの検地の――当該田地の高低や、ちょっとした距離の長短の勘案、田圃とその畦や境界等々――その目測に於いては、これ、一分一寸たりとも決して誤ったことがない、の謂いであろう。

「洛下閎」漢の武帝の時代(前一四〇年~前八七年)の方士で天文学者。太初暦(武帝の太初元(紀元前一〇四)年の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法の一種)の暦纂者で、初めて渾天儀を製作したとされる人物。

「此比奥州伊達郡に境目の相論あり。其實檢の爲源性をぞ遣されける……」以下、「吾妻鏡」を引く。

〇原文

三日乙酉。陰。有大輔房源性〔源進士左衞門尉整が子。〕者。無双算術者也。加之。見田頭里坪。於眼精之所覃。不違段歩云々。又伺高野大師跡。顯五筆之藝。而陸奥國伊達郡有境相論。爲其實檢。去八月下向。夜前歸著。今日參御所。是被賞右筆幷蹴鞠兩藝。日來所奉昵近。仍無左右被召御前。被尋仰奥州事等。源性申云。今度以下向之次。斗藪松嶋。於此所有獨住僧。一宿其庵之間。談法門奥旨。翌朝。僧云。吾爲天下第一算師也。雖隱形算。寧劣龍猛菩薩之術哉云々。而更不可勝源性之由。吐詞之處。彼僧云。不改當座。速可令見勝利云々。源性承諾之。仍取算。置源性座之廻。于時如霞霧之掩而四方太暗。方丈之内忽變大海。所著之圓座爲磐石。松風頻吹。波浪聲急。心惘然難辨存亡也。移剋之後。以亭主僧之聲云。自讚已有後悔哉云々。源性答後悔之由。彼僧重云。然者永可停算術慢心。源性答。早可停止。其後蒙霧漸散。白日已明。欽仰之餘。雖成傳受之望。於末世之機根。稱難授之由。不免之云々。仰云。不伴參其僧。甚越度也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

三日乙酉。陰る。大輔房源性(げんしやう)〔源進士左衛門尉整が子。〕といふ者有り。算術の無双の者なり。加之(しかのみならず)、田頭(でんと)の里坪(りひやう)を見て、眼精の覃(およ)ぶ所に於いては、段歩(だんぶ)を違へずと云々。

又、高野大師の跡を伺ひ、五筆の藝を顯はす。而るに陸奥國伊達郡に境相論有り。其の實檢の爲に、去る八月、下向す。前夜歸著し、今日御所へ參る。是れ、右筆幷びに蹴鞠の兩藝を賞せられ、日來(ひごろ)、昵近(ぢつきん)奉る所なり。仍つて左右(さう)無く御前に召され、奥州の事等を尋ね仰せらる。源性、申して云はく、

「今度、下向の次(ついで)を以つて、松嶋に斗藪(とさう)す。此の所に獨住の僧有り。其の庵に一宿するの間、法門の奥旨を談ず。翌朝、僧云はく、

『吾、天下第一の算師たるなり。隱形(おんぎやう)の算と雖も、寧んぞ龍猛(りうみやう)菩薩の術に劣らんや。』

と云々。

而れども、

『更に源性に勝るべからず。』

の由、詞を吐くの處、彼の僧云はく、

『當座を改めず、速かに勝利を見せしむべし。』

と云々。

源性、之を承諾す。仍つて算を取りて、源性が座の廻りに置く。時に霞霧の掩(おほ)ふがごとくして、四方、太(はなはだ)暗く、方丈の内、忽ち大海に變じ、著する所の圓座、磐石と爲る。松風、頻りに吹き、波浪の聲、急にして、心、惘然(ぼうぜん)とし、存亡を辨(わきま)へ難きなり。剋(とき)を移すの後、亭の主の僧の聲を以つて云はく、

『自讚、已に後悔有るや。』

と云々。

源性、後悔の由を答ふ。彼の僧重ねて云はく、

『然らば、永く算術の慢心を停めるべし。』

と。源性、答ふらく、

『早く停止(ちやうじ)すべし。』

と。其の後、蒙霧、漸く散じ、白日、已に明かし。欽仰の餘りに、傳受の望みを成すと雖も、

『末世の機根に於いて、授け難し。』

の由を稱し、之を免さず。」と云々。

仰せて云はく、

「其の僧を伴ひ參らざるは、甚だ越度(をちど)なり。」

と云々。

・「伊達郡」現在の福島県北部の伊達市・桑折町・国見町・川俣町・福島市の一部に相当する。律令制で道国郡制が整備されたとき、当初は現在の福島市とほぼ同じ地域と伊達郡・伊達市の地域を合わせて信夫郡(しのぶぐん)であった(古代には「信夫」は「忍」とも表記された)が、それが十世紀前半に信夫郡から伊達郡が分割された(これは当時、律令制の租庸調の課税を整備する必要性から各郡の人口をほぼ均一にするために、朝廷が郡の分割や住民の強制移動を全国的に行ったことによるもので、朝廷から見ると開拓地であった陸奥国にあってはこうした再編成が盛んに行われた)。この分割によって旧信夫郡の内、小倉郷・安岐(安芸)郷・岑越(みねこし)郷・曰理(わたり)郷が新信夫郡となり、伊達郷と靜戸(しずりべ)郷と鍬山郷の三郷が新たに伊達郡となった(以上はウィキの「伊達郡」に拠る)。

・「實檢」実地検地。

・「斗藪」梵語ドゥータの漢訳語で、衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にし、修行することを言う。

・「隱形の算」自分の姿を隠して見えなくする呪術。

・「龍猛菩薩」龍樹。二世紀中頃から三世紀中頃のインド大乗仏教中観(ちゅうがん)派の祖。南インドのバラモンの出身で、一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の注釈書を多数著して宣揚した。

・「算」「北條九代記」に出る算木。易で、卦(け)を表す四角の棒。長さ約九センチメートルで、六本一組。各々の四面の内、二面は爻(こう)の陽を表し、他の二面は陰を表す。

・「末世の機根に於いて、授け難し」「機根」は仏の教えを受けて発動する能力や資質をいう。本文でははっきりと教えを受けられるレベルが最低の「下根」と評している(但し、これは最低でも受けられるレベルではある)――世は最早、乱れに乱れ(暗に暗愚の君たる頼家を揶揄している)、救い難き末世となっており、そのような世の下級の機根しか持たぬそなたには授け難い――という謂いである。]

耳嚢 巻之六 夜發佳名の事

 夜發佳名の事

 

 いまだ元文の頃は、賤(いやし)き者にも風流なる事ありしやと、秋山翁かたりしは、柳原へ出候夜發(やほつ)、大晦日の夜、三百六拾人の客をとりし女有(あり)て、其抱主(かかへぬし)承りて、今夜に限り、ひと年の日數なさけ商ひし事珍しとて、ひと年おかんと名乘候へかしと云し由。其頃毎夜夥敷(おびただしき)見物なりし由。秋山も小兒の頃故、おわれて見に行しが、美惡は覺へずと、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:元文年間の出来事で連関。

・「夜發」既出。「やほつ」「やほち」と読み、夜間に路傍で客を引いた最下級の売春婦のこと。底本鈴木氏注に、『三村注「守貞漫稿に云、夜鷹は土妓也、古の夜発と云者是歟、或書云、本所夜鷹の始りは、元禄十一年九月六日、数寄屋橋より出火し、風雨にて千住迄焼亡す、其焼跡へ小屋掛し折節、本所より夜々女来りて小屋に泊る、世のよき時節故、若い者徒然の慰みに、互に争ひ買ひけるより始る云々、本所より出る夜たかに名を一年と云あり、ひとゝせと訓ず、此土妓の詠歌に、身の秋はいかにわびしくよひよひは顔さらしなの運の月かげ、何人の果なるを詳にせず、由ある女の零落なるべし」』とある。岩波版長谷川氏注によって、これは「守貞漫稿」の二十二(活字本の二十)であることが分かり、長谷川氏は更に、講釈師馬場文耕の「当世武野(ぶや)俗談」(宝暦七(一七五七)年板行)に『同様の夜鷹の話あり、「一とせのおしゆん」という』ともある。

・「佳名」「嘉名」とも書く。いい名・縁起のよい名、又は、いい評判・名声、の意で、ここでは洒落た源氏名という謂いの他に、売れっ子の意も含んでいる。

・「ひと年の日數」本邦の旧暦は太陰太陽暦によるが、旧暦の一ヶ月の日数は月に固定されず、年毎に各月が三十日の大の月か、二十九日の小の月となり、その近似値として十二ヶ月×三十日で三百六十日とした謂いである。実際の太陰太陽暦における一年の日数は、平年で三百五十四日程度、補正のための閏月のある閏年の場合は三百八十四日程度で、年によって大きく異なる。
・「秋山」「卷之四」の痔の神と人の信仰可笑事に登場した根岸の知音で、脇坂家に仕え、「脚気辨惑論」などの医書を表わしている江戸の著名な医師秋山宜修(かくしゅう 生没年未詳、号玄瑞)であろう。

・「おわれて」ママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 夜發の佳名の事

 

 「……未だ元文の頃には、賤しき身分の者にも……これ、相応に風流なる仕儀が御座ったことじゃ……」

と、秋山玄瑞翁の語ったことには――

 

……柳原へ夜な夜な出でて御座った一人の夜発(やほち)のうちに、ある年の大晦日の夜(よ)、丁度、三百六十人の客をとった女が御座っての、その抱え主がそのことを聴き、

「……今夜(こよい)と限って、一年(ひととせ)の日数(ひかず)、情(なさ)けを商(あきの)うたことは、これ、珍らしきことじゃ。……」

とて、

「……向後は、そなた、『ひと年(とせ)おかん』と名のりなさるがよい。……」

と云うたそうな。……

 いや、その頃は、毎夜の如、一目、その「ひと年おかん」の顔を拝まんと、まあ、夥しき見物人で御座った。……

 我らも、未だも小児の頃で御座ったゆえ、乳母に負われて見に参りましたが……さて……流石に、幼な子の折りの、遠き昔のことなれば……「ひと年おかん」のその美醜は、これ、覺へては御座らぬが、の……」

 

と語って御座ったよ。

西東三鬼句集「變身」 昭和三十二(一九五七)年 九七句

昭和三十二(一九五七)年 九七句

 

新年を見る薔薇色の富士にのみ

 

一波に消ゆる書初め砂濱に

 

初漁を待つや枕木に油さし

 

初日一さす畦老農の二本杖

 

刈株の鎌跡ななめ正月休み

 

熱湯を噴く巖天に初鴉

 

ばら色のままに富士凍て草城忌

 

[やぶちゃん注:「草城忌」一月二十九日。日野草城の一周忌。]

 

小鳥の巣ほどけ吹かれて寒深む

 

雪片をうけて童女の舌ひつこむ

 

北極星ひかり生きもの餠の黴

 

薔薇の芽のきびの如し寒日ざし

 

寒の雨東京に馬見ずなりぬ

 

鳴るポンプ病者養う寒の水

 

石橋に厚さ増しつつ雪輕し

 

凍り田に歸り忽ち鷺凍る

 

影過ぎてまたざらざらと寒の壁

 

老いの足小刻み麥と光踏み

 

耳に手を添え耕し同志遠い話

 

野良犬とわれに紅皿寒の濱

 

春山の氷柱みずから落ちし音

 

生ける枝杖とし春の尾根傳い

 

紅梅のみなぎる枝に死せる富士

 

斷層に蝶富士消えて我消えて

 

寒き江に顏を浮べて魚泳ぐ

 

弟子の忌や紙の櫻に小提灯

 

[やぶちゃん注:時系列から見て、前年二月十六日に自殺した中村丘の一周忌である。]

 

春晝の巖やしたたり絞りだし

 

うぐひすや巖の眠りの眞晝時

 

すみれ搖れ大鋸の急がぬ音

 

紋章の蝶消え春の巖のこる

 

日の遠さ撓めしばられて梨芽吹く

 

春濱に食えるもの尋(と)め老婆の眼

 

富士滿面櫻滿開きようも不漁か

 

ぼろの旗なして若布に東風荒し

 

網つくろう胡坐どつかと春の濱

 

荒れる海「わしらに花見はない」と漁夫

 

荒海や巖をあゆみて蝶倒る

 

斷崖下海足裏おどり母の海女

 

流木を火となし母の海女を待つ

 

太陽へ海女の太腕蚫さゝげ

 

浮くたびに磯笛はげし海中暗し

 

海女浮けよ焚火に石が爆ぜ跳べり

 

笑う漁夫怒る海蛇ともに裸

 

靑嵐滅びの砂岩砂こぼす

 

喫泉飮む疲れて黑き鳥となり

 

ふつふつと生きて夜中の梅雨運河

 

落梅は地にあり漁師海にあり

 

黴の家單音ひかり佛の具

 

荒梅雨の沖の汽笛や誰かの忌

 

梅雨赤日落つるを海が荒れて待つ

 

モナリザは夜も眠らず黴の花

 

かぼちや咲き眼立て爪立て蟹よろこぶ

 

やわらかき子等梅雨の間の岩礁に

 

花火見んとて土を踏み階を踏み

 

  青森一〇句

 

舌重き若者林檎いまだ小粒

 

鐡球の硬さ靑空靑林檎

 

長柄大鎌夏草を薙ぐ惡を刈る

 

落林檎澁し阿呆もアダムの裔

 

横長き夕燒太宰の山黑し

 

   乘らざりし連絡船

 

なお北へ船の半身夕燒けて

 

靑高原わが變身の裸馬逃げよ

 

炎天涼し山小屋に積む冬の薪

 

寡默の國童子童女に草いちご

 

港灣や靑森の蟬のけぞり鳴く

 

つつ立ちてゆがみゆく顏土用波

 

富士見ると船蟲集う秋の巖

 

笛吹き立ち太鼓打ち坐し秋の富士

 

漁夫の手に綿菓子の棒秋祭

 

濡れ紙で金魚すくうと泣きもせず

 

パシと鳴るグローブ晩夏の工場裏

 

  長良川 一〇句

 

   夜と晝

 

鵜舟曳く身を折り曲げて雇われて

 

火の粉吐き突つ立つ鵜匠はたらく鵜

 

早舟の火の粉鵜川の皮焦がす

 

はばたく鵜古代の川の鮎あたらし

 

潛り出て鮎を得ざりし鵜の顏よ

 

晝の鵜や鵜匠頭(うしようのかみ)の指ついばみ

 

いわし雲細身の鵜舟ひる眠る

 

籠の鵜が飢えし河原の鳶をみる

 

鵜の糞の黄色鮮烈秋の風

 

晝の今淸しなまぐさかりし鵜川

 

枯れ星や人形芝居幕を引く

 

食えぬ茸光り獸の道せまし

 

ぅつむきて黑こほろぎの道一筋

 

立ちて逃ぐる力欲しくて芋食うよ

 

冬の蠅耳にささやく最後の語

 

こほろぎが暗闇の使者跳ねてくる

 

  岐阜二句

 

秋の鳶城の森出て宙に遊ぶ

 

板垣銅像手上げて錆びて秋の森

 

冬怒る海へ靑年石投げ込む

 

曲る梃子霜もろともに巖もたげ

 

枯葉のため小鳥のために石の椅子

 

子の指先彌次郎兵衞立つ大枯野

 

安定所の冬石段のかかる磨滅

 

寒月下の戀雙頭の犬となりぬ

 

河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり

 

月枯れて漁夫の墓みな腕組める

一言芳談 七十二

   七十二

 又云く、或時心佛房に示して云、世間の鍛冶(かぢ)・番匠(ばんじやう)等が其道を傳ふる事は、かならずしもことごとく教へねども、其中に宗(むね)とあることをしつれば、其道を傳へたりといふぞかし。其定(ぢやう)に此二三年そひたるしるしには、世をのがれたる身にて、無常を忘れずしてだにあらば、本意なるべし。

〇そひたる、敬佛房、心佛房につきそひ給へるなり。

[やぶちゃん注:「心佛房」伝不詳。敬仏房の弟子。標註の謂いに頭を傾げる方もあろうかとも思われるが、高校の古文の授業を思い出して戴きたい。「つきそふ」は「かしづく」と同じく、人の世話をするの意で、それ自体に上下関係や敬意の関係はない。それに為手(して)尊敬の補助動詞「給ふ」のみが附されるのであるから、ここには「つきそふ」の動作主である敬仏房のみに敬語が用いられている。おかしくないのである。
「宗」中心となるもの、また、重要なもの。
「しつれば」の「し」な「爲」。
「無常を忘れず」Ⅱの大橋注に(引用中の古文引用部を正字化した)、
   《引用開始》
賞山の『父子相迎上末諺註』に「あはれ、佛の御はからひにても、一期こゝろに無常わすれず。くちに念佛をやまぬ身にしあらば、いかばかり世のありさまもどかしう、すみたる心のうちならん。これなむ、又なくあらまほしき心なり』を注して、この敬仏房の法語を引いて、「聖光上人の持言に云、安心起行の要は念死念佛に有、いづる息、いる息を待ず。たすけ給へあみだほとけ、南無阿彌陀佛と云々。有本に無常をわすれずと有」という。
   《引用終了》
とある。「父子相迎上末諺註」は、元亨年間(一三二一年~一三二四年)に成立した和文で浄土宗の教義を説く向阿証賢の「三部仮名鈔」(「帰命本願鈔」・「西要鈔」・「父子相迎」)の中の「父子相迎」の註釈書と思われ、筆者の賞山とは恐らく江戸時代の隆堯なる僧で、古書店の目録を見ると同人の「父子相迎諺註」(貞享三(一六八六)年跋・寛政三(一七九一)年板行)というのがある。これであろう。]

2013/01/22

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 旗立山 同定

「ひょっとこ太郎」氏より更なる情報を頂戴し、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の冒頭で未確定であった「旗立山」を同定した。
誰も振り返って立ち止まっては呉れないと思っていたのに――タルコフスキイが言うように――必ず振り返って――そして微笑んで呉れる人がいるんだなぁ……

西東三鬼句集「變身」 昭和三十一(一九五六)年 一一四句

昭和三十一(一九五六)年 一一四句

 

霧ひらく赤襟卷のわが行けば

 

枯樹鳴る石をたたみし道の上

 

老の仕事大根たばね木に掛けて

 

聖誕祭わが體出でし水光る

 

相寄りし枯野自轉車また左右へ

 

地下の街誰かの老婆熟柿賣る

 

相寄りし枯野自轉車また左右へ

 

寒夜の蜘蛛仮死をほどきて失せにけり

 

眼がさめてたぐる霜野の鷄鳴を

 

地下の街誰かの老婆熟柿賣る

 

機關車單車おのが白息踏み越えて

 

聖誕祭男が流す眞赤な血

 

 靜塔へ

 

蟹の脚嚙み割る狂人守ルカは

 

  悼日野草城先生 六句

 

寒き花白蠟草城先生の足へ

 

死者生者共にかじかみ合掌す

 

觸れざりき故草城先生の廣額(ぬか)

 

師の柩車寒の砂塵に見失ふ

 

深く寒し草城先生燒かるる爐

 

寒の鳥樹にぶつかれり泣く涙

 

[やぶちゃん注:「ミヤコホテル論争」で知られた日野草城(明治三四(一九〇一)年~昭和三一(一九五六)年)は昭和二一(一九四六)年に肺結核を発症、以後十数年、病床にあった。心臓衰弱のためにこの年の一月二十九日に亡くなった。底本注に初出の『断崖』では前書は『悼舊師』とある(「旧」を正字化した)。]

 

初日さす蓮田無用の莖滿てり

 

走れずよ谷の飯場の春著の子

 

夜の吹雪オーデコロンの雫貰う

 

山の若者五人が搗きし餠伸びる

 

初釜のたぎちはげしや美女の前

 

寒きびし琴柱うごかす一つずつ

 

寒夜肉聲琴三味線の老姉妹

 

獅子頭背にがつくりと重荷なす

 

霰を撥ね石の柱のごとく待つ

 

雪晴れの船に乘るため散髮す

 

膝にあてへし折る枯枝女學生

 

卒業や尻こそばゆきバスに乘り

 

寒明けの水光り落つ駄金魚に

 

昭和穴居の煙出しより春の煙

 

襁褓はためき春の山脈大うねり

 

老殘の藁塚いそぐ陽炎よ

 

下萌えの崖を仰げば子のちんぽこ

 

紅梅の蕾を噴きて枯木ならず

 

薪能薪の火の粉上に昇る

 

火を焚くが仕丁の勤め薪能

 

  中村丘の死

 

自息黑息骸の彼へひた急ぐ

 

髮黑々と若者の死の假面

 

死にたれば一段高し蠟涙ツツ

 

立ちて凍つ弟子の燒かるる穴の前

 

手の甲の雪舐む弟子を死なしめて

 

弟子葬り歸りし生身(なまみ)鹽に打たる

 

亡者釆よ櫻の下の晝外燈

 

若者死に失せ春の石段折れ曲る

 

[やぶちゃん注:底本の編者注に、初出『断崖』の原題は『丘に捧ぐ』とする。中村丘は三鬼と同じ津山市出身で、三鬼門流の『断崖』に属していた若き俳人であったが、この年の二月十六日に自殺(短銃によるものとされる)した。享年二十一歳であったが、実はその背景には三鬼の愛人との三角関係があった。私も所持する沢木欣一・鈴木六林男共著「西東三鬼」(桜楓社昭和五四(一九七九)年刊)に詳しいが、「齋藤百鬼の俳句閑日」の三鬼と若き俳人の自死に上手く纏められているので参照されたい。]

 

汝も吠え責む春山霧の中の犬

 

うぐひすの夕べざくりと山の創

 

冷乳飮む下目使いに靑麥原

 

春のミサ雨着に生まの身を包み

 

道しるべ前うしろ指し山櫻

 

黑冷えの蓮掘りのため菜種炎ゆ

 

木の椿地の椿ひとのもの赤し

 

靑天へ口あけ餌待ち雀の子

 

一指彈松の花粉を滿月へ

 

遠くにも種播く拳閉ぢ開く

 

尺八の指撥ね春の三日月撥ね

 

牛の尾のおのれ鞭打ち耕せる

 

芽吹きつつ石より硬し樫大樹

 

代田出て泥の手袋草で脱ぐ

 

麥秋や若者の髮炎なす

 

今つぶすいちごや白き過去未來

 

吸殼を突きさし拾う聖五月

 

  中村丘の墓

 

若者の木の墓ますぐ綠斜面

 

田掻馬棚田にそびえ人かがむ

 

田を出でて早乙女光る鯖買える

 

五月の風種牛腹をしぼり咆え

 

梅雨の崖屑屋の秤光り來る

 

下向きの月上向きの蛙の田

 

毛蟲燒く梯子の上の五十歳

 

茣蓙負ひて田搔きの腰をいつ伸ばす

 

若くして梅雨のプールに伸び進む

 

黴の家振子がうごき人うごく

 

旅の梅雨クレーン濡れつつ動きつつ

 

田を植うる無言や毒の雨しとしと

 

  太郎病氣再發

 

鮮血噴く子の口邊の鬚ぬぐふ

 

[やぶちゃん注:底本年譜の同年六月の項に、『長男太郎、再喀血。入院手術のため上京。角川書店に就職のため』、勤務していた大阪女子医科大学(現在の関西医科大学)付属香里(こり)病院を辞職した旨の記載があり、八月十三日に神奈川県葉山町堀の内に転居した。]

 

眼を細め波郷狹庭の蠅叩く

 

犬にも死四方に四色の雲の峰

 

雷火野に立ち蟻共に羽根生える

 

[やぶちゃん注:「雷火野に」「らいか/のに」と読むか。]

 

失職の手足に羽蟻ねばりつく

 

艦に米旗西日の潮に下駄流れ

 

老いは黄色野太き胡瓜ぶらさがり

 

蚊帳の蚊も靑がみなりもわが家族

 

岩に爪たてて空蟬泥まみれ

 

靑萱につぶれず夫婦川渉る

 

炎天にもつこかつぎの彼が弟子

 

鰯雲小舟けなげの頭をもたげ

 

垂れし手に灼け石摑み貨車を押す

 

秋富士消え中まで石の獅子坐る

 

秋濱に描きし大魚へ潮さし來

 

  子の手術

 

太郎に血賣りし君達秋の雨

 

乳われを見んと麻醉のまぶたもたぐ

 

  津山、蒜山(ひるせん) 六句

 

龜の甲乾きてならぶ晩夏の城

 

今が永遠顏振り振つて晩夏の熊

 

赤かぼちや開拓小屋に人けなし

 

つめたき石背負ひ開拓者の名を背負う

 

痩せ陸稻へ死火山脈の吹きおろし

 

雨の粒冷泉うちて玉走る

 

老いし母怒濤を前に籾平(なら)す

 

冬海の巖も人型うるさしや

 

落葉して裸やすらか城の樹々

 

風よよと落穗拾いの横鬢に

 

赤黒き掛とうがらしそれも欲し

 

黄林に玉のごとしや握り飯

 

枯山の筑波を囘り呼ぶ名一つ

 

金の朝日流寓の寒き崖に洩る

 

北への旅夜明けの鵙に導かれ

 

城の濠涸れつつ草の紅炎えつつ

 

石の冬靑天に鵙さけび消え

 

汽車降りて落穗拾ひに並ばんかと

 

藷殼の黑塚群れてわれを待つ

 

冬耕の馬を日暮の鵙囃す

 

一切を見ず冬耕の腰曲げて

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 大山石尊

    大山石尊

 

 雨降山大山寺(うごうさんおほやまでら)は、大住郡(おほすみごほり)にありて、良辨僧正(りやうべんそうぜう)の開基、眞言宗(しんごうしう)、別當は八大院、坊舍十八院。御師(おし)は百五十餘(よ)あり。麓(ふもと)の子安村(こやすむら)より前不動まで廿八丁。坂道の兩側は商人(あきんど)・旅籠(はたごや)たてつゞき、名物の挽物(ひきもの)をうる家おほし。本社は石尊(せきそん)大權現(ごんげん)、奧の不動より險難の坂道廿八丁、そのほか難所(なんじよ)おほし。

〽狂 參(さん)けいの貴賤(きせん)は次第(しだい)ふ動尊(どうそん)

    平等利(べうどうり)やくをたるゝ大山

さんけい

「私(わたし)は先年(せんねん)、このお山へ參詣したとき、擂粉木(すりこぎ)を一本もつてきて、不動さまへおさめましたら、そのとき、宿(やど)屋へとまつた晩の夢に、天狗樣があらはれ玉ひて、

『これこれ、その方(ほう)は、なにとて人並みに太刀はおさめず、擂粉木をおさめしぞ』

とのたまふにより、私のいふには、

『私の太刀といふは、その擂粉木なり。侍の魂(たましい)といふは太刀刀(たちかたな)、町人の私の魂は擂粉木。常は宙(ちう)にふらふらとぶらついて邪魔(ぢやま)なものでござりますが、まさかの時は、きつと役にたつ擂粉木、私の爲には大事の擂粉木、太刀刀もおなじことでござりますから、それで擂粉木をおさめました』

といふと、天狗さまが、

『なるほど、それでわかつた。いかさま、擂粉木は男の魂、しかれば擂鉢(すりはち)は女の魂。そこで擂粉木を太刀の代はりにおさめたはよいが、この方(はう)にも擂粉木は澤山あつてこまる。めいめい持前(もちまへ)の擂粉木一本づゝ前にぶらさげている上に、顏にまた、擂粉木が一本あるから、もふ、擂粉木はいらぬ、これから參詣するなら、擂粉木より擂鉢をおさめてくれろ』

とおつしやつたから、こいつ合點(がてん)がゆかぬ。擂鉢は女だとおつしやつたから、擂鉢をおさめてくれとは、もしや、儂(わし)が嬶(かゝあ)をおさめろといふから、こいつ氣味のわるいことゝ、それからさつぱり參詣しませぬが、去年(きよねん)、儂の嬶(かゝあ)はしんだから、それで今年(ことし)は參詣にさんじました。」

[やぶちゃん注:「大山石尊」現在の伊勢原市の大山(丹沢山地の東端伊勢原市域の西北端に位置する。標高一二五二メートル)、別名、雨降山(あふりやま)にある大山阿夫利(あふり)神社。「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。相模国の式内社十三社の内の一社で、現在は本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。但し、これらの神は明治の神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神であった石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからかく呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には奥社に大天狗が、前社には小天狗がそれぞれ祀られていた。これが全国八大天狗に数えられた大山伯耆坊で、元来は伯耆大山の天狗であった者が、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったため、その後任として移って来たと伝承されている。富士講中で特に信仰されたと伝えられる。社伝によれば崇神天皇の御代の創建とあり、「延喜式神名帳」では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。天平勝宝七(七五五)年、良弁(後注)によって神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏などの武家の厚い崇敬を受けた。江戸期には当社に参詣する大山講が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣したが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈によって石尊大権現の名称や大山寺は一時廃され、旧来の阿夫利神社に改称された(その後の事蹟は次注参照。以上は主にウィキ大山阿夫利神社に拠ったが、大山公式サイト「お歴史」の記載で補正をしてある)。

「大山寺」前注と重なる部分もあるが、本文読解にとって有益と思われるので、煩を厭わず、注する。大山寺は現在の大山阿夫利神社のある大山山麓(当初の本堂不動堂は中腹)にある真言宗大覚寺派の寺院。大山不動の通称で知られる。山号は雨降山(あぶりさん)。本尊不動明王。高幡山金剛寺・成田山新勝寺とともに、しばしば「関東の三大不動」に数えられ、江戸期には落語の「大山詣」「百人坊主」などで知られるように、江戸近郊の崇敬地、観光地として賑わった。「続群書類従」所載の「大山寺縁起」では、先に記したように天平勝宝七(七五五)年、東大寺初代別当良弁が聖武天皇の勅願寺として開創したといい、寺伝では空海を三世住持と伝承する。元慶二(八七八)年に地震に伴う火災で焼失、同八(八八四)年に復興したとする。「吾妻鏡」によれば建久三(一一九二)年八月九日には、源頼朝が政子の安産祈願のために当寺を含む相模国の寺社に神馬を奉納している。その後、一時衰退するが、文永年間(一二六四年~一二七五年)に願行房憲静(けんじょう)により中興、中世には修験系の信仰の場として栄えた。近世初頭、徳川家康が大山寺の改革を断行、慶長一三(一六〇八)年に五十七石、同一五(一六一〇)年には更に百石を寄進するなどして保護を与える一方、修験者や妻帯僧を下山させて清僧(妻帯していない僧)のみを山上に住持させた。第三代将軍家光も伽藍の修復代を寄進するなどの援助を与え、家光の代参として春日局が二度に亙って参詣している。江戸中期の十八世紀後半以降は、豊作や商売繁盛などの現世利益を祈念する人々による「大山詣で」が盛んになり、関東各地に「大山講」が組織され、大山参詣へ向かう「大山道」が整備された。前述の家康の改革で下山した修験者らは「御師」として参詣者の先導役を務め、山麓の伊勢原や秦野には参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えた。しかし、前注で示したように、明治初期の神仏分離令による廃仏毀釈で大山の廃仏と神社化が図られ、大山中腹にあった不動堂は破却、現在の大山阿夫利神社下社となった。その後、明治九(一八七六)年に現在地(元の来迎院の跡地)に不動堂の再建が着手され、明治一八(一八八五)年に明王院という寺名で再興、大正四(一九一五)年には明王院は観音寺と合併して、本来の大山寺の旧寺号が復活した(以上はウィキ大山寺伊勢原市)」に拠った)。

「大住郡」相模国に存在した郡(現在の伊勢原市全域及び平塚市・秦野市・厚木市の一部)。古えの郡衙は平塚市四之宮付近にあったと考えられている。

「子安村」現在の伊勢原市子易(こやす)。現在の伊勢原駅から大山方向へ約五キロメートル入った山村。

「麓の子安村より前不動まで廿八丁」約三・五キロメートル。これは、現在の参詣道経由の実測ともほぼ一致する。

「奧の不動より險難の坂道廿八丁」これは恐らく、大山石尊(現在の大山阿夫利神社)を越えて、大山山頂までの距離と考えられる。]

耳嚢 巻之六 守財輪廻の事

 守財輪廻の事

 

 元文の頃の由、羽州(うしう)山形に、予が知音(ちいん)秋山某(なにがし)逗留せし頃聞(きき)し迚(とて)咄しける。天童町といふ所に、炭薪を商ふ富家有しが、平生心やすくゆき通ふなるもの、金三十兩時がりに借(か)る事ありしが、ある夜右富家の翁かりける方え來りて、金子請取べき旨申けるゆゑ、明日返し可申持置(まうすべくもちおき)候と申答へけるに、只今致し呉(くれ)侯樣(やう)にと申儘(まうすまま)、直に右金子を渡しけるに、右老人いづちへ行けん見へざるゆゑ、夜中老人三里もある處をかへり候も心もとなしと、あとを追ひ、無難に帰り給ふやと尋ければ、彼(かの)老人は昨夜頓死いたし、翌日葬禮いとなむとて、殊の外取込(とりこむ)の由答へける故、大に驚ろき、不思議成(なる)事も有(ある)なり、只今借用の金子請取(うけとり)に被參(まゐられ)、渡しぬれど、夜中獨り被歸(かえられ)候を氣遣ひ、跡より見屆(みとどけ)に參りしと申ければ、亭主甚(はなはだ)憤り、返濟なくば其通(そのとほり)の儀、聊(いささか)なる金子に付、老父へ疵を付候申方(まうしかた)、恥辱を與へしとて摑み合けるを、葬禮に差懸(さしかか)りよからぬ事と、有合(ありあひ)候者取支(とりさ)へ押鎭(おししづめ)けるが、死人を收(をさむ)るとて夜具などふるひ取(とり)片付けしに、封じたる金子、寢床より出るに付(つき)見改(みあらため)しに、上書は則(すなはち)かの自筆故、あきれて互に和睦せしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:夢告譚から心霊譚ではあるが、寧ろ、冒頭から四つめの「意念奇談」との親和性を強く感じさせる心霊譚である。但し、「意念奇談」は明確な離魂であるが、こちらの老人は訪れと死んだ時期が微妙ではある。

・「守財の輪廻」この「輪廻」は執着心の強いことを謂う。

・「元文」西暦一七三六年~一七四〇年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、六十年以上遡る、かなり古い都市伝説である。

・「時がり」は「時借り」で、一時的に金などを借りること。当座の借り。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 守財への執心の事

 

 元文の頃のことの由。

 出羽国山形に私の親友で御座る秋山某(ぼう)が、逗留致いた折りに聞いたとのことで、話し呉れたもので御座る。

 天童町というところに、炭薪(すみたきぎ)を商(あきの)うておる、裕福なる商家が御座った。

 その家(や)と平生、親しく付き合(お)うて御座ったある者、金三十両を当座の間、かの家主(いえぬし)より借り受けたことがあった。

 ある夜のこと、かの富家(ふけ)の老主人、ふらっと、その三十両を借りておった男の方へと来たって、

「……かの金子……返し呉りょう……」

と申すゆえ、

「……へえ、明日(みょうにち)お返しに参らんと存じ、用意致いては御座いましたが……」

と申し開き致いたところが、老主人の答うるに、

「……只今……直ぐに渡し呉るるよう……お頼(たの)、申す……」

と丁寧な答えながら、何やらん、急(せ)かすような気味も、これあればこそ、直ちに、かの用意致いて御座った金子を渡いた。

――と

……はっと気が付くと、老人の姿は、目の前から掻き消えて御座った。

「……今、金子を渡した、とばかり……一体、どこへ行かれたものか……」

と後架なんども覗いても見えぬゆえ、

「……それにしても……この夜中、老人が三里もある道のり、これ、帰らるるは心もとなきことじゃ……」

と、一本道の山道、後を追った。

 結局、追い付くことのう、老人が家へと辿り着いてしもうたによって、不審に思いつつも、

「ご亭主は、ご無事でお帰りか?」

と門口を訪ねたところは、主人惣領が出て参り、

「……我らが父、昨夜頓死致し……今日、葬礼を営むことと相い成って御座る……家内(いえうち)もご覧の通り、殊の外、取り込んで御座るによって……」

と応じたゆえ、大いに驚ろき、

「……いや……不思議なることも、これ、あることじゃ!……実は……つい今さっき、ご亭主自ら……我らが借用致いて御座った金子を受け取りに参られ、請わるるがままにお渡し致いたが、この夜中に独りお帰りにならるる危うさを気遣い、無事、お帰りになったかどうか心配なれば、後を追って見届に参った次第……」

と申したところ、若亭主、甚だ以って憤り、

「……おのれ!……返済せずに、そのまま踏み倒さんという魂胆かッ!……たかが三十両ぽっちの金子につき、我らが老父の執着と騙(かた)るとはッ!……父の面子(めんつ)に疵をつけ呉りょうた! その憎(にっ)くき申し様! よくも! 我らが家に、おぞましき恥辱を掛けよったなッ!」

と叫ぶや、取っ組み合いの喧嘩を始めた。

 されば、すぐに、

「葬礼に差し障り、以ての外の狼藉じゃ!」

と、その場に居合わせて御座った者どもが二人を分けて取り押さえ、それぞれに諭しを入れて鎮めさせ、と