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2013/01/28

耳嚢 巻之六 狐義死の事

 狐義死の事

 

 享和三年の春なりし、四ッ谷邊の由、鼠夥敷(おびただしく)出て渡世の品を喰損(くひそん)さしけるを、其あるじいとひて、石見銀山の砒藥(ひやく)を調ひて食に交へ置しに、鼠四五疋其邊に斃(たふれ)しを、よき事せしと塵塚へ取捨しに、翌日朝、狐の子右鼠をくらひけるや、其邊に是又斃ける由。しかるに或日彼(かの)ものゝ妻外へ至り、肌に負ける子、いつの間にやいづちへ行けんかいくれ見へず。妻は歎き悲しみけるを、其夫大(おほい)に憤り、定(さだめ)て狐の仕業なるべし、いかに畜類なれば迚、狐をとるべきとて藥に當りし鼠を捨(すて)しにあらず、子狐食を貪りて死せしに、我に仇して最愛の子をとりし事の無道なりと、其邊の稻荷社へ至りて、理を解委(ときくはし)く憤りけるが、翌朝彼者の庭先へ、過し頃の子狐の死骸、我子のなきがらとも捨置(すておき)、井戸の内に雌雄の狐入水してありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:享和三年西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな出来事で連関。但し、こちらは都市伝説の類い。

・「渡世の品を喰損さしける」この屋の主人は、次の「食に交へ置し」というところからも何らかの食料品を商う町人であったものと思われる。

・「石見銀山の砒藥」『石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素、硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは亜ヒ酸を主成分とし、殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた』(以上はウィキの「石見銀山」より引用)。笹ヶ谷鉱山『は、戦国時代から銀を産出していた石見銀山(同県大田市大森町)と共に戦略上から幕府直轄領(いわゆる天領)とされ、大森奉行所(のち代官所に格下げ)の支配下とされたので無関係ではないが、砒素の産地が何処であるか(正しくは前者)については混乱も見られる。元禄期には銀山の産出が減る一方で、その後も笹ヶ谷からの殺鼠剤販売が続き名前が一人歩きするようになった為、と考えられている』。『砒素化合物は一般に猛毒であり、毒物及び劇物取締法により厳しく取り締まられ、幼児・愛玩動物・家畜などが誤食すると危険なため現在では殺鼠剤としては使われていない。また笹ヶ谷鉱山は既に廃鉱とな』った(以上はウィキの「石見銀山ねずみ捕りより引用)。さらに岩波版長谷川氏注には、『馬喰町三丁目吉田屋小吉製のものを売り歩いた』とある。古川柳にも「馬喰町いたづらものの元祖なり」とあり(個人HP「モルセラの独り言」より)、合巻「夜嵐於絹花仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)」(明治一一(一八七八)年)の孟斎芳虎(もうさいよしとら:別名永島辰五郎。江戸時代末期の浮世絵師。)などの絵によると、『「石見銀山鼠取受合」の字を青地に白く染め出した、木綿巾で縦五尺ほどの幟(のぼり)を担いで』、『皿に盛られた薬入りの食物を食べている鼠を画模様に染めだした半纏を着て、鼠取薬の入った小箱を脇にかけ』、『大体貧乏そうな扮装で』、『いたずらものはいないかな、いないかな、いないかな」の大きな呼び声でやって来』た、と言う(以上は、中公文庫版一九九五年刊三谷一馬「江戸商売図絵」の「鼠取薬売り」の項より引用)。なお、吉田屋小吉なる人物は幕末に大量の唄本(流行歌)を発行した版元としても知られる。「改訂増補近世書林板元総覧』(一九九八年刊日本書誌学大系七十六所収)には次のようにある。

◎吉田屋小吉 吉田氏 江戸馬喰町三町目☆三四郎店

 商売往来千秋楽 文政二合

 一枚摺番付・関東市町定日案内

  尾張の源内くどき(上下八枚物)明治十七

  *瓦版多し。嘉永五年閏二月の月行事(地本草紙問屋名前帳)。

  *石見銀山鼠取り薬で有名。守貞漫稿に看板あり。

   満類吉、丸喜知とも書き、商標が丸に吉ノ字。

   同じ町に和泉屋栄吉がいて、小吉との合板多し。

   明治に栄吉は吉田氏を称している。

とある(以上は、板垣俊一氏の幕末江戸の唄本屋―吉田屋小吉が発行した唄本について―(『県立新潟女子短期大学研究紀要(38)』二〇〇一年三月発行)より孫引き。但し、(アラビア数字を漢数字に代えた)。

・「塵塚」ごみ捨て場。

・「かいくれ見えず」「かいくる」は「掻い繰る」(「かきくる」の音変化。「かいぐる」とも)で、両手を交互に動かして、手元に引き寄せる、手繰り寄せる、の謂いだが、意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『曾(かつ)て見えず』とあり、これなら自然である。こちらを訳では用いた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐が義を以って死んだ事

 

 享和三年の春のこと、四谷辺での出来事の由。

 鼠が夥しく出でて、売り物の食品を食い荒らされて御座ったゆえ、その家の主人、これ、甚だ厭うて、猛毒の石見銀山の砒素薬(ひそぐすり)を買い求め、食い物に混ぜて置いておいたところ、翌日には鼠が四、五匹、その辺りに倒れ、頓死して御座ったによって、

「しめしめ! 上手くいったわ!」

と、その鼠の骸(むくろ)を何とものう、塵塚(ちりづか)へそのまま取り捨てておいた。

 すると、また、その翌朝のこと、子狐が――かの毒に当たった鼠の死骸を食うたものか――その辺りに頓死して御座ったと申す。

 しかるに――それから数日を経、かの主人の妻、外出した折り、背負うて御座った子(こお)の姿が――これ、不思議なことに――何時(いつ)の間にやら――何処(いずく)へ行ったものやら――皆目分からぬうちに――全く、姿が見ずなって御座ったと申す。

 妻は嘆き悲しみ、それを知った主人も大いに憤って、

「……これは、もう、狐の仕業に相違ない! 如何に畜生とは申せ……我は、狐を駆除(か)らんとて、毒に当たって死んだ鼠を、塵塚に捨て置いたのでは、これ、ない!……子狐が、不注意にも、ひもじさのあまり、貪り食うて死んだに!……我を逆恨み致いて、最愛の我が子をかどわかしたこと! これ、非道の極みじゃ!……」

と、近くの稲荷の祠(やしろ)へと赴き、稲荷神に向かって道理を説いて、ひどく憤って御座ったと申す。

 すると――また、その翌朝のこと――かの町人の家の庭先へ――かの以前、塵塚に死んでおった子狐の骸(むくろ)と――町人の子(こお)の亡骸(なきがら)とが――並べて捨て置かれてあり――さらに――庭内の井戸の内には――雌雄の狐が――これ、入水して死んでおった、とのことで御座る。

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