耳嚢 巻之六 不仁の仁害ある事
不仁の仁害ある事
ある武家の若侍、御厩河岸(おうまやがし)を渡りて本所の儒生へ通ひしに、或冬雪ふりてわたりも少(すこし)くいとさむさつよきに、船長(ふなをさ)揖取(かぢとり)て押(おし)わたりしを深く哀れに思ひて、酒にても求め飮(のみ)て寒氣を防げよと、懷の鳥目百文あたへ通りて、かくかくと彼(かの)儒生へ咄しければ、夫(それ)は不宜(よろしからざる)取計(とりはからひ)なり、大きにわざわいを引出(ひきいだ)さんと嗟嘆(さたん)なしければ、何とてさる事あらんと思ひながら、歸りにも彼わたりにかゝりしに、まへの船長、大に喧嘩して往來の者に痕付(きずつけ)られ、其あたりさわがしければ、立寄りて尋ねしに、彼船長わたりのものへ船渡(ふなわたし)の無心をいひしに、聊かもあたへざりし故、さきに心有(ある)人は百文をあたへしもあるに、わづかの錢をおしむと、惡口なして口論におよび疵付けられしと聞(きき)て、誠に老儒生の格言なりと、ふかく感じけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、前話の舞台である橋場・吉原と、この厩河岸は距離が近い。老婆心ながら、訳で用いた「酒手(さかて)」とは、人夫や車夫などに対して決められた賃金の外に与える金銭、心附けのことを言う。まあ実際、酒を買う駄賃となったのであろうが。更に言えば、それで一杯やっちまって酔って仕事をし、武士に絡んだとなれば、この若侍の「施し」は二重に罪が重くなろうというものではある。そのようなシークエンスで訳した。
・「御厩河岸」御厩の渡し。「御厩河岸の渡し」とも称され、現在の厩橋(台東区蔵前と墨田区本所間に架橋)付近にあった。ここから下流方向の台東区側川岸に幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側のこの付近にそれに付随する厩があったのでこの名がついた。元禄三(一六九〇)年に渡しとして定められ、渡し船八艘・船頭十四名・番人が四名がいたという記録が残る。渡賃は一人二文で武士は無料であった(これが本話のネックである)。明治七(一八七四)年の厩橋架橋に伴って廃止された(以上はウィキの「隅田川の渡し」に拠った)。
■やぶちゃん現代語訳
仁ならざる仁に害のある事
ある武家の若侍、御厩河岸(おうまやがし)を渡って本所の儒者の元へ通って御座ったが、ある冬、雪が降って、かの渡し辺り、尋常でなく、たいそう寒さも強う御座ったれば、若侍、船長(ふなおさ)が艪(ろ)取って寒き隅田川を押し渡して呉れたを、これ、深(ふこ)う哀れに思って、
「酒などにても求め、呑みて寒気を防ぐがよい。――」
と、懐より鳥目百文を取り出だいて与え、本所へと抜け、かくかくのことを、かの儒学の師へと話いたところ、
「……それは宜しからざる取り計らいじゃ。――きっと大きな禍(わざわ)いを引き出すであろう。――」
と、しきりに嘆いて御座れば、
『……どうしてそのようなことがあろうものか。我らは仁を施したに。……』
と思いながら、講義の終わって帰りにも、かの渡りを抜けんと致いたところ、何やらん、渡しの辺りが騒々しい。
行き交(こ)うた町人に訊ねたところ――どうも、先の銭を呉れてやった船長(ふなおさ)が、何でも、ひどい喧嘩をして往来のお武家さまに傷つけられたとのことゆえ、渡しの番小屋に立り寄って、詳しく訊ねてみたところが……
……かの船長、こともあろうに、渡したさるお武家に、船渡(ふなわた)し賃を無心致いたところ、このお武家は、聊かの酒手(さかで)をも与えず、取り合わずに御座ったれば、
「……ヒック……ちぇ! さっきはよぅ、心ある御仁がよぅ……ヒック……ちゃあんとょ、 百文をもょ……呉れたによぅ!……ヒック……僅かの銭を惜しむ……貧乏侍じゃ!」
と悪口なしたによって、それを耳敏う聴きつけたお武家と口論に及び、抜き打ちに切られて御座った由聞き、
『……まっこと! 老儒者の言葉は金言で御座った!』
と、深(ふこ)う感じ入ったとのことで御座る。
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