金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 箱根山權現
箱根山權現
箱根權現は、彦火火出見尊(ひこほゝでのみこと)をまつる。左には瓊瓊杵尊(にゝぎのみこと)、右は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)也。別當(べつとう)は箱根山金剛王院東福寺(さうこんさんこんがうわういんとうふくじ)といふ。眞言宗。境内に曾我の祠、祐經(すけつね)をうちたりし微塵丸薄綠(みぢんまるうすみどり)の太刀(たち)、のちに賴朝公當山へ奉納ありて今にあり。そのほか靈寶(れいほう)物おほし。昔は殊の外の大寺(ぢ)なりしに、小田原陣(おだはらぢん)の時、兵火(ひやうくは)にかゝり、今はその十が一にもたらずといへり。
〽狂 ほうわうも
まふべきみよの
しづけさに
きりのはこねの
みやゐひさしき
〽狂 はこね山かすみは
はれてうぐひすも
よのふたあけて
いづる谷の戸
旅人
「大磯の虎(とら)は、曾我の十郎にこがれて、石になる。松浦佐用姫(まつらさよひめ)も夫(おつと)をしたひて石になる。儂(わし)がこのやうにひさしく旅をして、かへらずにゐたら、大方(おほかた)、儂の嬶衆(かゝしゆ)は、儂をこひしたつて、今頃は石になつてゐるもしれない。平生(へいぜい)尻(しり)がおもいから、尻から先へ石になりかゝつてゐるくらいだものを、もしも嬶衆が石になつたら、わしは大根(こん)になりたい。そして香物(かうのもの)になると、嬶衆を押において、普段(ふだん)かさなりあつているから、丁度(てうど)よい。」
「なるほど、貴樣(きさま)の嬶衆は、尻から石になつている。貴樣は前からもふ大根になつてゐるから、丁度よい。はて、貴樣のは練馬(ねりま)大根のやうであつたから。」
「昨夜(ゆふべ)は三嶌(みしま)で、明神前(めいじんまへ)の福島屋(ふくしまや)へとまつたが、なるほどあの宿(やど)は丁寧(ていねへ)で、上樣(かみさま)の氣がきいてゐるから、家(うち)中の女ども、のこらず愛想(あいそう)がよくッて、あのやうに客(きやく)を大事にする家(うち)はない。儂は身上(しんせう)をしまつて出かけたものだから、家(うち)はなし、いつその事、どこへもゆかずに、いつまでもあすこの家(うち)にゐたいものだが、たゞおいてくれるとよいが、相談(さうだん)して見やうか。これはよいことを思ひついた。知惠(ちゑ)もあればあるものだ。しめたしめた。」
[やぶちゃん注:箱根権現は箱根山に於ける山岳信仰と修験道の習合したもので、文殊菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩を本地仏とし、箱根権現社及び箱根山東福寺で祀られていた。古代より箱根駒が岳の主峰神山に対する山岳信仰があり、天平宝字元(七五七)年に朝廷の命を受けた万巻上人が箱根山に入山、相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の末に三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得、法躰は三世覚母の文殊菩薩の垂迹・俗躰は当来導師の弥勒菩薩の垂迹・女躰は施無畏者の観世音菩薩の垂迹であったされる(「諸神本懐集」に拠る)。後は台密の影響を強く受け、多くの修験者が箱根山に入山、関東の修験霊場として栄え、特に伊豆山権現と合わせて二所権現と呼ばれ、鎌倉時代には鶴岡八幡宮に次ぐ坂東武士の信仰を集めたが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈によって修験道に基づく箱根三所権現は廃され、東福寺も廃寺となって本神道部分のみが箱根神社に強制改組された(以上はウィキの「箱根権現」に拠る)。なお、この絵の右上部にあるのが、前段「東海道三嶌宿」に出る「賽の河原」と思われる。
「彦火火出見尊」お馴染みの山幸彦、山佐知毘古(やまさちびこ。神武天皇祖父とされる)のこと。稲穂の神、穀物の神として信仰される。
「瓊瓊杵尊」天照大神の孫で、天照から葦原中国の平定を命ぜられて天孫降臨した。彦火火出見尊の父で木花咲耶姫命の夫。豊饒神。
「木花咲耶姫命」富士山に鎮座して東日本一帯を守護するとされる火山神。
「曾我の社」現在の箱根神社内にある曽我神社。曽我十郎祐成之命及び曽我五朗時致之命を祭神とする。弟の曽我時致(幼名箱王丸)には、父の菩提を弔うために箱根権現社に稚児として預けられ、出家を嫌って遁走した過去がある。
「微塵丸薄綠の太刀」木曽義仲が奉納したものと伝えられ、建久四(一一九三)年五月十六日に兄弟はが父仇討ち心願成就祈願のために箱根権現に参拝した際、箱根権現別当であった行実僧正が兄十郎祐成に与えた源氏の宝刀とされる微塵丸及び薄緑丸二振りの太刀の名。五月二十八日の仇討ちの際に二人が佩いたとされ、現在も上記の曽我神社の宝物としてある。
「大磯の虎」虎御前(安元元(一一七五)年~?)は遊女。曾我祐成の妾(仇討ち当時は満十六、祐成は十九)。「曽我物語」では重要な役回りを持つヒロインであり、その創作にも深く関わった実在の人物と考えられている。十郎五郎の処刑後、兄弟の母を曾我の里に訪ねた後、箱根に登って箱根権現社の別当の手によって出家したと伝えられる。ここで、彼女が石になったとするのは、恐らく現在の足柄上郡中井町にある「忍石」の誤伝と思われる。これは仇討ちを前に祐成と虎御前の二人が腰掛けて別れを惜しんだと伝える石で、後にこれが「縁結びの石」と呼ばれて今に伝わっている。またこれには、以下に示される松浦佐用姫などの数多の望夫石伝承、鶴岡節雄氏の脚注にもあるように、『これと同名の女性を巡って「虎が石」などの伝説が各地に分布している』のとを、混同したものと考えてよい。
「松浦佐用姫」肥前国松浦(現在の佐賀県唐津市)の伝説の女性。彼女は、百済救援のための兵を率いて松浦潟に停泊した大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と契りを結び、出船する夫を鏡山の上から夫の船に向かって領巾(ひれ:肩から腕にかける長い細布で出来た女性の装身具。)を振って別れを惜しみ、悲しみのあまり、狭手彦の形見の鏡を抱いて川に沈んだとも、夫の船を追って、やっとの思いで辿り着いた加部(かべ)島で、泣き伏したままに石となったとも伝えられる。佐用姫の化した「望夫石」は、後に加部島の田島神社境内に遷され、現在も末社佐用姫神社として祀られている(以上は国立能楽堂のHP内の「松浦佐用姫」解説を参照した)。
「練馬大根」練馬大根の文献上の初見は天和三(一六八三)年の戸田茂睡編になる地誌「紫の一本」で『ねりま大根・岩附牛旁・笠井菜・千住ねぎ』とあり、『諸説あるが、江戸時代の元禄年間の頃、武蔵国北豊島郡練馬村、下練馬村(現:練馬区)で栽培が始まり、享保年間に定着したといわれている』(以上引用は参照したウィキの「練馬大根」に拠る)。文脈のまさに漬物(特に沢庵用)として重宝される。ここでは恐らく、下ネタとして通常の大根に比して首と下部が細い(但し、中央が膨らんでいるために大根(だいこ)引きには非常な力がいる)ことから、相手の男の男根の細さを揶揄してもいる、と私は読む。
「明神前の福島屋」三島明神前の旅籠であるが、あからさまなタイアップ広告部分であるが、面白い。
「かみさま」女将(おかみ)さん。言祝ぎで明神にも掛けていよう。]