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2013/01/24

耳嚢 巻之六 夢想にて石佛を得し事

 夢想にて石佛を得し事

 

 信州坂本宿に角兵衞といえる百姓ありしが、十一年程以前、村境の樫の木のもとに我(わが)像埋(うま)り居(ゐ)候間、取出し候樣、一人の出家覺しき者枕にたちて告(つげ)しを、夢幻となく聞(きき)て、あたりのものへ咄しければ、取しまらざる事故打捨置(うちすておき)しに、享和元年或(ある)夜の夢に同じく見えし故、村役人抔へかたりしに、かゝる事有べき樣なしとて打過(うちすぎ)ぬるを、又享和二年にも夢見しとて、何卒ほりたきといひしを、度々の事故、村役人もいづれ掘て見可然(しかるべし)と相談決し凡(およそ)四五尺も掘(ほり)しに、五寸計(ばかり)の石像掘出(ほりいだ)しぬ。右角兵衞至(いたつ)て正直ものにて、目論見事などいたす者にもあらず。支配の御代官蓑(みの)笠之介え訴へ、同人より御勘定奉行へも申立(まうしたて)、一旦江府(かうふ)へも取寄(とりよせ)になりしが、角兵衞は日蓮宗の由にありしが、右像は彌陀釋迦等其外多寶(たほう)勢至などの類にも無之(これなく)、出家の石像にて、圓光大師の像なりといふ人も有(あり)し。尤(もつとも)角兵衞へ石像は返し給(たまは)り、右に付(つき)人集(ひとあつめ)等不致(いたさず)、異説等申觸(まうしふれ)まじきと、御代官より申(まうし)渡させけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。三つ前の「感夢歌の事」と夢告霊異譚で直連関。

・「信州坂本宿」中山道六十九次の内、江戸から数えて十七番目の宿場。現在の群馬県安中市松井田町坂本。中山道の難所であった碓氷峠の東の入口に当り、本陣と脇本陣合わせて四軒、旅籠は最盛期には四十軒あった比較的大きな宿場であった(以上はウィキの「坂本宿」に拠った)。「信州」とあるが、上野国の誤りである。訳では訂した。

・「享和元年」西暦一八〇一年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、これで逆算すると「十一年程以前」は寛政五(一七九三)年になってしまう。ということは享和元年起算で「十一年」後は、文化九(一八一二)年となり、これは「卷之十」の下限である、死の前年文化十一(一八一四)年六月までに一致する。もしかすると、根岸は「卷之十」の完成に合わせて、過去の記録の数字を時計に合わせて補正したのかも知れないなどと考えた。無論、この記載を「享和元年」から「十一年程以前」と言っているとも取れぬことはない。その場合は、初回の夢告は寛政二(一七九〇)年の出来事となり、本巻の時系列には合致する。しかし、十一年のブランクは話柄としてはおかしい感じがする。この間、法然上人の御魂、どこぞで教化でもして御座って、忙しかったのかしらん? などと馬鹿なことを考えているうちに、私の大きな愚かさに気づいた。以下に注するように、ここに登場する蓑笠之介が代官であったのは元文四(一七三九)年から延享二(一七四五)年の間であった。しかし、そうすると、更に時間軸に大きなパラドックスが生じる。延享二(一七四五)年起算の十一年後は宝暦六(一七五六)年となり、享和二年とは四十六年も隔たってしまい、そもそもこの時、蓑笠之介は既に代官ではないどころか、後注でご覧の通り、勘定奉行支配下から職務不行届から罷免されて小普請入り、まさにこの年に隠居しているのである。どうも、この話柄、眉唾物という感じがする。

・「蓑笠之介」蓑正高(みのまさたか 貞享四(一六八七)年~明和八(一七七一)年)幕府代官。農政家。「耳嚢 巻之三」の「本庄宿鳥居谷三右衞門が事」で既出であるが、再注しておく。以下、「朝日日本歴史人物事典」の記載(数字・記号の一部を変更した)。『松平光長の家臣小沢庄兵衛の長男。江戸生まれ。享保一(一七一六)年猿楽師で宝生座配下の蓑(巳野)兼正の養子となり、同三年に家督を相続。農政・治水に通じ、田中丘隅の娘を妻とする。同一四年幕府に召し出され、大岡忠相の支配下に入り、相模国足柄上・下郡の内七十三カ村を支配、酒匂川の普請なども行う。元文四(一七三九)年代官となり扶持米一六〇俵。支配地はのちさらに加増され、計七万石となった。延享二(一七四五)年勘定奉行の支配下に移るが、寛延二(一七四九)年手代の不正のため罷免され、小普請入り。宝暦六(一七五六)年隠居。剃髪して相山と号した』。著作に「農家貫行」がある、と記す。

・「多寶」多宝如来。東方の宝浄世界の教主。「法華経」の「見宝塔品」に載る如来。法華の説法のある場所に宝塔を出現させて説法の真実を証明して讚嘆、半座を譲って釈迦を請じ入れたという。

・「圓光大師」法然の大師号の一つ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 夢想にて石仏を得た事

 

 上州坂本宿に角兵衛と申す百姓が御座った。

 十一年程以前、

「――村境の樫の木の根元に――我が像、埋まりおるにつき――取り出だいて、くるるよう――」

と、一人の出家と思しい者が枕上に立って告げたを、夢現(ゆめうつつ)とのう、聞いたによって、住まう辺りの者へも話してはみたが、

「益体(やくたい)もない出鱈目じゃ。」

と一笑に付されたゆえ、うち捨てて御座った。……

 ところが、享和元年のある夜の夢に、全く同じきものを見たゆえ、村役人などへも申し上げたところ、

「そのようなこと、これ、あろうはずも、なし!」

と一笑に附され、またしても無為にうち過ぎたと申す。

 ところがまた、翌享和二年、

「……全く同じ夢を見申したれば……何卒、そこを、掘りとう御座いまする……」

と再三申し出でたによって、度々のことなればと、村役人も、

「……まあ、しょうがない。いずれにしても、掘って見るに若くはあるまい。」

と、談議が決した。

 ところが……およそ四、五尺も掘ったところで……

……これ、五寸ばかりの

――小さな石像が

これ、掘り出されて御座った。

 この角兵衞と申す百姓、近在でも至って正直者として知られており、悪しき謀りごとなんどを致す者にもあらざれば、当時の支配の御代官蓑(みの)笠之介殿へ訴え出でて、同人より御勘定奉行へも申し立てが御座って、一旦、かの石仏、江戸表勘定方へも取り寄せとなって仔細が調べられた。

 その資料によれば――角兵衞の宗旨は日蓮宗の由で御座ったが、右像は弥陀・釈迦など、また、その他の多宝如来や勢至菩薩などの類いにてはこれなく、出家の僧を彫ったる石像にて、ある者は、

「これは円光大師法然の像である。」

と申す者も御座った。

 もつとも、結果としては、角兵衞へ石像はお返しとなり、

「――右石像に附き――くれぐれも、当像をもって夢告の像なんどと称し、人集めなんどは致さぬように。――また、夢告にて掘り出だいた、なんど申す、不届き千万なる異説や噂なんどをも、ゆめゆめ、申し触れまじいこと――」

と、御代官簑殿より申し渡させた、とのことで御座る。

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