生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 二 形の僞り~(4) 了
海産動物にも他物を眞似て敵の眼を眩すものが隨分澤山にある。「かに」でも運動の遲い種類はなにかの方法で敵の攻撃を逃れようと務めるが、「木の葉がに」と名づける蟹では、甲の兩側から不規則な平たい突起が出て、恰も海藻の如くに見えるから、海藻の上に止まつて居るときは殆ど見分けが附かぬ。また「石ころがに」では甲が石塊の如き形で、その裏面には足や鋏が丁度嵌るやうになつて居るから、足を縮めて居ると全身が丸で小石の通りになる。魚類の中でも「たつのおとしご」や「やうじうを」などが褐色の藻の間に居ると、頗る紛らはしくて見出し難いものであるが、オーストラリヤ邊の海に産する「海藻魚」〔リーフィー・シー・ドラゴン〕のごときは、身體の各部から海藻のやうなびらびらしたものが生じ、これが水に搖られて居るから、海藻の間に靜止して居るときは、そこに魚が居らうとは到底誰にも氣が附かぬ。
[海藻魚]
[やぶちゃん注:「木の葉がに」十脚目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目クモガニ上科モガニ科コノハガニ
Huenia heraldica 若しくは、その近縁種(挿絵のものはその甲羅の形状から、Huenia heraldica に同定するには、やや躊躇を感じる)。水深三~一四〇メートルの珊瑚礁・岩礁・砂礫底などの藻類又は海草が生えている場所に棲息。甲長は約三センチメートル。体色は緑・褐・紅色と様々。額や甲に海藻を付着させている場合もあって(附着させている海藻は緑藻植物門アオサ藻綱イワヅタ目サボテングサ属
Halimeda のものであることが多い)、藻類や海草に擬態している。♂♀では甲の形が異なる(♂は二等辺三角形)。主に夜間に活動(以上は主にウィキの「コノハガニ」を参照した)。
「石ころがに」こういう現在和名の蟹はいない。ガザミなどと一緒に「渡り蟹」のポピュラーな名で知られるワタリガニ科イシガニ(石蟹)Charybdis japonica がいるが、これは本記載に一致しない(因みにこの属名“Charybdis”(カリュブディス)は渦潮を擬人化したというメッシーナ海峡に住む海の魔物でオデュッセウスの行く手を阻んだギリシア神話の怪物の名そのものである)。「甲が石塊の如き形で」、「その裏面には足や鋏が丁度嵌るやうになつて居」り、「足を縮めて居ると全身が丸で小石の通りになる」という記載からは、私には丘先生はカラッパ上科カラッパ科カラッパ属
Calappa を指しているように思われる。例えば、トラフカラッパ
Calappa lophos・ヤマトカラッパ
Calappa japonica・メガネカラッパ
Calappa philargius などで、他に種が大きく異なるが、形状からはオウギガニ科マンジュウガニ属 Atergatis の仲間、例えばスベスベマンジュウガニ Atergatis floridus 等も挙げ得るであろう。これを挙げるのは無論、形状が石に似ている点からだが、今一つ、カラッパ類が古くは和名で「マンジュウガニ」と呼ばれていた(この共通性は見た目の類似性を示している)ことからの連想も働いたからである。因みに私はカラッパ類の和名の語源である属名の“Calappa”を日本語だとずっと思っていたが、どうもカラッパというのは新ラテン語による造語で、情報元が未確認であるが、インドネシア語で「ヤシの実」を意味する“kelapa”(クラパ)が語源らしい(形状が似ていると言えば似ている)。が目から鱗ならぬ、椰子から蟹!
「たつのおとしご」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属
Hippocampus。ヨウジウオ科のタツノオトシゴ属は一属のみでタツノオトシゴ亜科 Hippocampinae を構成し、世界で約五〇種類ほどが知られる。泳ぐ時は胸鰭と背鰭を小刻みにはためかせて泳ぐが、動きは魚にしては非常に鈍い。その代わりに体表の色や突起が周囲の環境に紛れこむ擬態となっており、海藻の茂みなどに入り込むと発見が難しい。食性は肉食性で、魚卵、小魚、甲殻類など小型の動物プランクトンやベントスを吸い込んで捕食する。動きは遅いが捕食は速く、餌生物に吻をゆっくりと接近させて瞬間的に吸い込んでしまう。また微細なプランクトンしか食べられないと思われがちだが意外に獰猛な捕食者で、細い口吻にぎりぎり通過するかどうかというサイズの甲殻類でも積極的に攻撃し、激しい吸引音をたてて摂食する(この点からは防禦型だけでなく採餌用の攻撃型擬態とも言えよう)。タツノオトシゴ属の♂の腹部には育児嚢という袋があり、ここで♀が産んだ卵を稚魚になるまで保護する。タツノオトシゴ属の体表は凹凸がある甲板だが、育児嚢の表面は滑らかな皮膚に覆われ、外見からも判別出来る。そのためこれがタツノオトシゴの雌雄を判別する手掛りともなる。繁殖期は春から秋にかけてで、♀は輸卵管を♂の育児嚢に差し込み、育児嚢の中に産卵、育児嚢内で受精する。日本近海産のタツノオトシゴ Hippocampus coronatusの場合、♀は五~九個を産卵しては一休みを繰り返し、約二時間で計四〇~五〇個を産卵する。大型種のオオウミウマHippocampus kelloggi では産出稚魚が六〇〇尾に達することもあるという。産卵するのはあくまで♀だが、育児嚢へ産卵されたオスは腹部が膨れ、ちょうど妊娠したような外見となる。このため「オスが妊娠する」という表現を使われることがある。種類や環境などにもよるが、卵が孵化するには一〇日から一ヶ月半程、普通は二~三週間ほどかかる。仔魚は孵化後もしばらくは育児嚢内で過ごし、稚魚になる。♂が「出産」する際は尾で海藻などに体を固定し、体を震わせながら(見た目はかなり苦しそうである)稚魚を産出する。稚魚は全長数ミリメートル程と小さいながらも既に親とほぼ同じ体型をしており、海藻に尾を巻き付けるなど親と同じ行動をとる。ヨウジウオ科ヨウジウオ亜科にもタツノイトコ
Acentronura gracilissima やリーフィー・シー・ドラゴン Phycodurus eques (次注参照)などの類似種が多いが、首が曲がっていないこと、尾鰭があること、尾をものに巻きつけないことなどの差異でそれぞれタツノオトシゴ属とは区別出来る(以上は主にウィキの「タツノオトシゴ」及びそのリンク先に拠った)。属名“Hippocampus”(ヒッポカンプス)はギリシア語の“hippos”(馬)+“kampos”(海の化け物)で、元来、ギリシア神話に登場する半馬半魚の海馬“hippokampos”の名ヒッポカンポスを指す。体の前半分は馬の姿であるが、鬣(たてがみ)が数本に割れて鰭状になり、前脚に水掻きがあり、胴体の後半分は魚の尾になっている。ノルウェーとイギリスの間の海に棲み、ポセイドンの乗る戦車を牽くことでも知られたが、この神獣名のラテン語を、実は全くそのままに(頭文字を大文字化して)学名に転用したものである。
「やうじうを」トゲウオ目ヨウジウオ科ヨウジウオ
Syngnathus schlegeli。本種もタツノオトシゴ及び類似種同様、♂が出産する。属名“Syngnathus”(シングナトゥス)はギリシア語の“syn”(合わさった)+“gnathos”(顎・口)で、本種の窄(すぼ)んだ口吻に由来する。
「海藻魚」私はこれを上記注に出たヨウジウオ科ヨウジウオ亜科
Phycodurus 属リーフィー・シー・ドラゴン
Phycodurus eques に同定する(挿絵の種も本種に同定出来ると思われる)。英名“Leafy sea
dragon”とは「葉の生い茂った海の龍」で「海藻魚」という丘先生の和名と一致する。また、細かいことであるが、丘先生は本種を、タツノオトシゴの仲間の、とは言っておられないところにも着目したい(リーフィー・シー・ドラゴンは近年では水族館でよく見かけ、知る人も多いが、前注で示した通り、「タツノオトシゴ属ではない」ということを認識されている方は少ないと思う)。流石は丘先生である。因みに……この属名……“Phycodurus”……これって……“psychedelic”……じゃね?]