耳嚢 巻之六 大日坂大日起立の事
大日坂大日起立の事
いにしへは八幡坂と唱へける由。右は同所久世家抱屋舖(かかへやしき)の地尻(ぢじり)に櫻木町の八幡あるゆゑにや。□□の頃、久世家にて右抱屋敷起發(きほつ)の頃、右屋敷脇にあやしげなる庵室(あんじつ)ありて尼壹人住居せしが、其頃は至(いたつ)て物淋しき土地故、博徒の輩あつまりて其邊にて博奕をなし、茶或は酒肴(しゆかう)等の煮たきを右尼に賴みけるが、日々世話になり候(さふらふ)禮を何か報(むくひ)んと、彼博徒等申合(まうしあひ)けるが、其内一人、尼が信仰する本尊は大日なる由、此大日に利益ある由申觸(まうしふら)し流行出(はやりだし)候はゞ、一廉(ひとかど)の助(たすけ)と成(なら)んと、所々より集りし博徒等申觸(まうしふれ)ける故、流行出し、一旦殊の外繁昌せし故、右大日を今の所へ堂を立(たて)、當時は別當もありて地名も大日を以(もつて)、唱ふるなりと、彼(かの)所の古老の物語なり。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。起立譚で冒頭と連関。また、「意念奇談の事」の現場、小日向水道端とも非常に近い。但し、話柄自体は、全くの都市伝説の域を出ない怪しげなものである。
・「大日坂」現在の文京区小日向二丁目にある坂。江戸時代は小日向の名所であった。
・「大日」底本鈴木氏注に『三村翁注に「大日坂大日堂、小日向水道町に在り、覚王山長谷寺といひ、天台宗寛永寺末なり、開山を新編江戸志には、渋谷禅尼とし、寺の縁起には浩善尼とせる由、毎月八の日縁日にて賑へり」とある。長善寺が正しい。江戸名所図会には法善尼とあり、この人は紀州頼宜に仕えた。大日坂は同寺と知願寺の間で、水道端へ下る坂道に面する』とある。岩波版長谷川氏注には、『坂の東側の覚王山長善寺妙足院に大日如来をまつった大日堂があった』とする。この妙足院は天台宗の寺院として小日向二丁目に現存する。HP「天台宗東京教区」の「妙足院」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を追加変更、改行を省略した)、『国立国会図書館所蔵の当院の大日如来略縁起に依れば、往昔慈覚大師が入唐帰国のおり、
この大日如来像(像高三寸五分)を将来されたと伝えられています。 元亀元年 (注:正しくは二年。)織田信長の叡山焼打ちの際、尊像自ら厨子より飛び出し琵琶湖を越え、江州蒲生郡の森に難を逃れ、夜な夜な光を放っていたところを、藤氏某その光を尋ねて、この尊像を我家に安置して一心に供養され、我に一子を授け給えと祈願した処、願いがかない、一女を授けられました。
この女子は成長するに従い、 才色優れて前大納言源頼宣に召され、宮仕えする身となりました。 かかる折いかなる罪業のなす故か、緑の黒髪が突然絡み合って全く梳(くしけず)ることもできない姿にもだえ悲しみ、父より譲り受けた尊像に対し一途に祈るさなか、
この本尊夢の中に告げ申すには、 汝過去の悪行によりこの怪しき病を得たり、この業転じ難し、早く尼となりて解脱すべしと。夢覚めた女子は随喜の涙にむせび即座に剃髪し、法名を浩禅尼と称し、
当院開基の尼上人となりました。 なお、 尼上人の法名は墓石には浩善尼となっています。 開祖は生前中に当院の本寺、 上野の護国院の開祖風山生順の弟子、空山玄順に跡を譲り、玄順は堂宇を整え、山号寺号を定め漸く寺らしくしたとのことです。当院は当初より祈願寺として信仰を集め、信者も多く毎月八の日のご縁日に、近くの商店の揃った水道町通り』
『へ多くの露店が列り大層賑わいました。現在では露天は出ませんが、ご縁日の八の日には多くの信者の方が参詣しています』とある。「江戸名所図会」巻之四によれば、
大日堂 同西の方、大日坂にあり。天台宗にして覺玉山妙足院と號す。相傳ふ、本尊大日如來は、慈覺大師唐より携へ來るところの靈像なり。往古は叡山のうちに安置ありしを、元龜年間織田信長總門を襲はるる頃、堂宇ことごとく兵火(ひやうくわ)に罹りて灰燼となる。されどこの本尊は火焰を遁れ出で、近江國兵主(ひやうず)明神の社頭、深林のうちに移りたまひ、その後夜々瑞光を放ちたまふ。よつて藤原氏某(それがし)感得してその家に移しまゐらせ、旦暮(あけくれ)供養すること怠りなし。しかるにこの人嗣子なきを憂へとし、この尊に祈求(きぐふ)してつひに一女子(によし)を儲(まう)く。長ずるに及んで紀伊亞相賴宣卿に仕へ奉り、後落飾して法善尼と號す。この尼靈夢を感ずるの後、當寺を開き、ここに安置し奉りしといへり。
とあり、挿絵でも大日坂とその繁盛の様子が描かれている。徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)は徳川家康十男で、紀州徳川家の祖。
・「久世家」岩波版長谷川氏注に、『大日堂西に久世家下屋敷あり』とある。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、少なくとも執筆当時の当主は下総関宿藩第五代藩主久世広誉(くぜ
ひろやす 寛延四(一七五一)年~文政四(一八二一)年)。
・「抱屋舖」武家・寺社・町人などが百姓地を買得して所持するものを抱地と呼び、そこを囲って家屋を建てたものを抱屋敷と言った。武家でも江戸近郊に抱屋敷を所持する者は多かった。一種の別邸。
・「地尻」ある土地の、奥又は端の方。裏の地続き。
・「櫻木町の八幡」現在の小日向神社(八幡神社)。氷川神社と八幡神社の合祀神社で明治になって小日向神社と改称したが、その八幡神社は以前、「田中八幡宮」と呼称し、文京区音羽九丁目にあった。江戸切絵図を見ると、久世家下屋敷があるとする辺りに「櫻木町」とある。
・「□□」この年号(恐らく)は伝本は総て伏字のようである。
・「其邊にて博奕をなし」野天か、蓆掛けの掘立小屋のような賭場であろう。
■やぶちゃん現代語訳
大日坂の大日堂起立の事
大日坂は、古くは八幡坂と称していた由。
これは同所、久世家別邸の裏の地続きに、知られた桜木町の八幡宮がある故の呼称であろうか。
さても、この堂の起こりには面白き奇談が御座る。
□□の頃、久世家にて、かの別邸をお建てになられた頃のこと、その御屋敷の脇に、如何にも粗末なる庵室(あんじつ)が御座って、尼御前(ごぜ)が一人、住もうて御座ったが、その頃は、あの辺り、いたって人気なき土地柄であったが故、博徒の輩(やから)が、これ、集まっては、その辺りにて賭博をなし、その口淋しさに、茶や酒、肴なんどの煮炊きを、この尼に頼んでおったと申す。
ある日のこと、その賭場で、賭けものをしておった博徒の一人が、
「……毎日のように何かと世話になって御座る、あの尼御前じゃが……何ぞ、儂(わし)らで、その、礼の一つもして報わんと、これ、ゲンも悪うなる、というもんじゃあねえか?」
てなことをほざいた故、かの博徒どもも、膝を乗り出して、申し合いを始めて御座った。
さて、何がよかろうか、と悪知恵を突き合わす内、ある一人が、
「……あの尼御前が信心しておる本尊、これ、如何にもしょぼくさい大日如来の像と聴いたんよ。……そこで、よ……『この大日如来に、あらたかなる霊験のこれある』っち、皆(みんあ)してよ、あっちゃこっちゃで触れ廻ってよ、そんでもってよ、そのけったいな小仏がよ、これ、世間で大流行りし出したとしたとしたら、よ……こりゃあよ、尼御前の経済の、相応の助けとは、なるんでないかい?」
と、とんでもない不遜なることをぶち上げて御座った。
「そりゃ、名案じゃ!」
てな訳で、そこら中から集(つど)った江戸の手練れの博徒ども、一人残らず、そこたら中で、嘘の霊験を盛んに噂し、触れ回った。
すると、美事、あっという間に思惑が大当たり、みるみるうちに流行り出して、一旦は門前市を成すが如く、殊の外、繁昌致いた。
されば後には、かの大日如来を今の所へ堂を立てて鎮座させ、その当初は専業の別当までも常住して御座ったとも申す。
されば、地名や坂も、これ、「大日」を以って称するようになった由、かの在所の古老の物語で御座る。