鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 建長寺
建 長 寺
五山ノ第一ナリ。相摸守平時賴、建長五年ニ建立ス。開山大覺禪師、諱ハ道隆、蘭溪ト號ス。嗣法無明。詳ニ元享釋書ニ見へタリ。寺領九十五百九百文ナリ。表門ニ天下禪林ノ額、崇禎元年十一月日、竹西書ストアリ。門前ノ池ハ金龍水ト云名水也。山門ノ額巨福山、筆者シレズ。鐘アリ。至テ妙巧、鐘ノ銘、別幅戴之(之を戴す)。此寺昔ハ塔頭四十九ヶ寺アリシガ、今ハ廿一ヶ寺アリトナリ。昔ノ跡トテ今モ猶實ニ五山トオボシキハ圓覺・建長ノ二寺ノミ。境内廣ク、山澗林岡樹木欝々タル勝地ナリ[やぶちゃん字注:「澗」の「日」は底本では「月」。]。本堂ノ本尊、應行ノ作ノ地藏也。腹中ニサイタ地藏アリト云。應行ハ運慶ノ弟子也。此ニ谷アリ。地獄谷ト云。賴朝ノ時、犯罪ノ者ヲ成敗セシ所也。或時サイタト云者、科ニ因テ刑ニ逢ケルニ、敷皮ニナヲリケル時、人敢テ切ルべキ心地モナク、時ヲウツシケレバ、各罪ユルサレケリト心得テ退散シケリ。後ニ見レバ、多年尊信シケル地藏ノ首ニ、太刀ノ切目アリ。是ヨリ地藏ヲ地獄谷ニ安置シテ、サイタ地藏ト云ナリ。大友興廢記ニ、千躰ノ小地藏アリ。サユウト云者ノ作ナリト云。今ハ見へズ。但サイタ地藏ノコトカ。又開山堂ノ後ロヲ開山山ト云。地藏アリトナン。巳ニシテ方丈ニ到ル。龍源庵溪堂長老、諱ハ玄廉ト云僧迎接ス。方丈ノ後ニ靈松觀音石アリ、庭除多景也。千手觀音ノ木像〔常ニハ山門ニアリ。今修理ノ爲ニ暫ク此ニヲクト云。〕、時賴・開山ノ木像アリ。
[やぶちゃん注:「庭除」「除」も庭の意。庭園。中庭。]
寺寶
三幅對〔中尊釋迦 思恭筆 左右猿猴 牧溪筆〕
羅漢 八幅
〔但一幅ニ二人充畫ク、是ヲ唐畫ト云傳フ。狩野探幽永眞等ハ、兆典主ナランカト云フ。〕
開山堂ニ詣ル。圓鑑ト云額アリ。開山大覺ノ筆ナリト云傳フ。開山自作ノ木像其側ニアリ。柱杖ヲ渡海ノ柱杖ト云。入唐ノ時携タル故ト也。外堂ニ迦葉・達磨ノ木像アリ。開山ノ舍利、院中ニアリト云。開山堂ノ前ニ舍利樹ト云木アリ、枝葉扶疎タリ、側ノ堂三上テ寺寶ヲ見ル。
[やぶちゃん注:底本では、この「達磨……」の右に編者による『(以下錯簡ニ付キ異本ヲ以テ補ウ)』という傍注がある。確かに、次の行で再び「寺寶」とある。また、この注によって本「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は少なくとも二冊以上の異本があることが分かる。]
寺寶
〔此形ナル鑑ナリ。クモリテ分明ナヲズ。中ハサビノ如ク、高ク起上リタルアトアリ。〕
[やぶちゃん注:以下に「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項の「圓鑑(えんかん)」の図を示しておく。
此鏡ノ記、前人ノ説詳也。其略ニ云。開山隨身之鏡也。入寂ノ時隨侍ノ僧ニ授ク。其後平時宗禪師ヲ慕ヒ、愁歎斜ナラズ。或夜夢ニ禪師時宗ニ向テ曰ク、シカジカノ僧ニ授ケ置シ鏡ニ、我容ヲ殘ス也。我ヲシタハヾ、此鏡ヲ見ヨトノ玉フ。夜明テ時宗此鏡ヲ尋トリテミガケバ、觀音ノ像ト見へタル紋アリ。時宗感ジテ圓覺寺ノ山ノ内ニ觀音三十三躰ヲ安置シ、寶雲閣ト名ケ、其本尊ノ首ニ納シガ、圓覺寺火災ノ時、建長寺ノ守嚴和尚坐禪シテ在ケルニ、空中ニ聲有テ守嚴ト呼。守嚴驚テ圓覺寺ニ行、門前ノ白鷺池ニ觀音ノ首アリ。取上見レバ中ニ此鏡アリ。即ソレヨリ建長寺へ納ト也。佛光・一山・月江・虎關ナドノ讚銘序ノ諸作多シ。
大覺自作小觀音 一軀
開山法語 二幅
十六羅漢左右兩頭蓮 十八幅究
觀音像〔顏輝筆〕 三十二幅
朱衣達磨〔啓書記筆〕 一幅
開山自畫自贊〔開山筆〕 一幅
贊曰 拙而無比 與它佛祖結深※1 老不知羞 要爲人天開正眼
是非海中濶歩 輥百千遭 劍戟林裏横身 好一片膽
引得朗然居士
於※2峯上能定乾坤
負累蘭溪老
向巨福山乘舴艋
相同運出 自家珍
一一且非 從外産
辛未季春住持建長禪寺宋蘭溪 道隆
奉爲朗然居士書干觀閣
今案ズルニ辛未ハ文永八年ナリト。
[やぶちゃん注:「※1」=「窟」-「屈」+「免」、「※2」={(上)「雨」+(下)「隻」}。
「奉爲朗然居士書干觀閣」の「干」は「于」の、原本の誤りか底本の誤植と思われる。
「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項の「朗然居士の畫像」条に連続した文として示されてある賛を、ここと同じ位置で、句読点を排して配してみる。
拙而無比 與它佛祖結深寃 老不知羞 要爲人天開正眼
是非海中闊歩 輥百千遭 劍戟林裏横身 好一片膽
引得朗然居士
於※2拳上能定乾坤
負累蘭溪老人
向巨福山倒乘舴艋
相同運出 自家珍
一一且非 從外産
辛未季春住持建長禪寺宋蘭溪 道隆
奉爲朗然居士書于觀瀾閣
「寃」は影印では(うかんむり)が(あなかんむり)であるが、基礎底本とした地誌大系本を採っている。「※2」は影印では「雨」が「兩」のように見受けられる字体。大きな相違点は「※2」の次の字で、ここでは「峯」であるのが、「新編鎌倉志卷之三」では「拳」となっている点。この「朗然居士」とは現在、蘭渓を招聘した時の執権北条時宗と推定されている。以下に影印の訓点を参考に書き下したものを同じような配置で示しておく。
拙にして比無し 它(ほか)の佛祖と深寃を結ぶ 老いて羞を知らず 人天の爲に正眼を開かんことを要す
是れ非海の中に闊歩して 輥(こん)百千遭 劍戟林裏に身を横たふ 好一片の膽
朗然居士を引き得て
※2拳上に於いて能く乾坤を定む
蘭溪老人に負累して
巨福山に向ひて倒るに舴艋(さくまう)に乘る
自家の珍を運出するに相ひ同じく
一一且つ外より産するに非ず
辛未季春住持建長禪寺宋の蘭溪 道隆
朗然居士が奉らんが爲に觀瀾閣に書す。
「它」は「他」の意か。「輥」はぐるぐる回ることを言う。「舴艋」は小さな舟のこと。「※2拳上」は不詳、ただ本文の「※2峯上」の方が当たりな感じがする。雲を突いて出る峰などの謂いか。識者の御教授を乞うものである。]
白衣觀音畫 一幅〔思泰筆〕
金剛經 一部〔大覺筆〕
紺紙金泥法華經 一部〔八軸〕
日蓮筆、袖並ノ繪モ日蓮筆ナリト云。
開山九條袈裟 四
同衣 一
坐具 一
珠數 一
掛羅 一連
[やぶちゃん注:「掛羅」は「くわら(から)」と読む。「掛絡」「掛落」とも書き、本来は禅僧が普段首に掛けて用いる小さな略式の袈裟を言うが、これは数詞を「連」としており(袈裟なら「頂」のはず)、推測であるが、掛羅袈裟に付けてある装飾用の象牙などの輪のことを言っているのではあるまいか。なお、次の「佛舍利」も参照のこと。]
佛舍利 二〔一ツハ水晶、玳瑁ニテ六角〕
[やぶちゃん注:「玳瑁」の前に「一ツハ」を補いたい。「新編鎌倉志卷之三」の「寺寶」の中には、
開山九條の袈裟 貮頂 環クワンは水晶。
開山七條の袈裟 貮頂 環は玳瑁、六角なり。
という条々がある。この袈裟の数を見ると、合わせて「四」で、実は先の光圀の記載はいい加減であることが分かる。更に高い確率で、それら「袈裟」の水晶と玳瑁(タイマイ)製の袈裟の装飾具だけを外したものを光圀は見せられて、仏舎利と騙されたと考えられる(禅門なら平気でやりそうだし、実際、それは確信犯であるのかも知れぬ。円覚寺や建長寺などで私の実見した仏舎利と称するものは、その殆んどがどれも水晶であった)。]
十六山善神 一幅〔唐繪、筆シレズ。〕
〔寺僧云、唐畫八十幅ホドアレドモ、朽弊シタル所アル故ニ出サズ。此外ニ書畫甚多シ。詳ニ見ルニイトマアラズ。〕
本堂ニ乙護童子ノ木像アリ。江嶋ヨリ飛來ルト云傳フ。溪堂長老ガ云、本ヨリ伽藍ノ守護神ニテ、寺ニアルべキコトナリトゾ。開山堂ノ總門高山ノ額ハ、納置テ出サズ。佛光ノ筆ナリ。西來庵ノ額、竹西筆ナリト云。興國禪寺ノ額、子曇西澗筆ナリ。傳燈庵ノ開山ナリト云。裏門ノ額ニ海東法窟崇禎元年十一月日竹西書トアリ。朝鮮人ナリ。建長寺ノ内、囘春庵存首座、長壽寺ノ天溪ナド云僧出テ案内セシ次デニ物語シテ云ク、此寺ノ後ニ池アリ。大覺池ト云。大龜常ニ居ルト云。
[やぶちゃん注:「開山堂ノ總門高山ノ額」の「高山」は「嵩山」の誤り。
「次デニ」は底本に右に『(序)』と補注するが、「次」は鎌倉時代以来、「ついで」と一般的訓ずるものである。]