金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 大山石尊
大山石尊
雨降山大山寺(うごうさんおほやまでら)は、大住郡(おほすみごほり)にありて、良辨僧正(りやうべんそうぜう)の開基、眞言宗(しんごうしう)、別當は八大院、坊舍十八院。御師(おし)は百五十餘(よ)あり。麓(ふもと)の子安村(こやすむら)より前不動まで廿八丁。坂道の兩側は商人(あきんど)・旅籠(はたごや)たてつゞき、名物の挽物(ひきもの)をうる家おほし。本社は石尊(せきそん)大權現(ごんげん)、奧の不動より險難の坂道廿八丁、そのほか難所(なんじよ)おほし。
〽狂 參(さん)けいの貴賤(きせん)は次第(しだい)ふ動尊(どうそん)
平等利(べうどうり)やくをたるゝ大山
さんけい
「私(わたし)は先年(せんねん)、このお山へ參詣したとき、擂粉木(すりこぎ)を一本もつてきて、不動さまへおさめましたら、そのとき、宿(やど)屋へとまつた晩の夢に、天狗樣があらはれ玉ひて、
『これこれ、その方(ほう)は、なにとて人並みに太刀はおさめず、擂粉木をおさめしぞ』
とのたまふにより、私のいふには、
『私の太刀といふは、その擂粉木なり。侍の魂(たましい)といふは太刀刀(たちかたな)、町人の私の魂は擂粉木。常は宙(ちう)にふらふらとぶらついて邪魔(ぢやま)なものでござりますが、まさかの時は、きつと役にたつ擂粉木、私の爲には大事の擂粉木、太刀刀もおなじことでござりますから、それで擂粉木をおさめました』
といふと、天狗さまが、
『なるほど、それでわかつた。いかさま、擂粉木は男の魂、しかれば擂鉢(すりはち)は女の魂。そこで擂粉木を太刀の代はりにおさめたはよいが、この方(はう)にも擂粉木は澤山あつてこまる。めいめい持前(もちまへ)の擂粉木一本づゝ前にぶらさげている上に、顏にまた、擂粉木が一本あるから、もふ、擂粉木はいらぬ、これから參詣するなら、擂粉木より擂鉢をおさめてくれろ』
とおつしやつたから、こいつ合點(がてん)がゆかぬ。擂鉢は女だとおつしやつたから、擂鉢をおさめてくれとは、もしや、儂(わし)が嬶(かゝあ)をおさめろといふから、こいつ氣味のわるいことゝ、それからさつぱり參詣しませぬが、去年(きよねん)、儂の嬶(かゝあ)はしんだから、それで今年(ことし)は參詣にさんじました。」
[やぶちゃん注:「大山石尊」現在の伊勢原市の大山(丹沢山地の東端伊勢原市域の西北端に位置する。標高一二五二メートル)、別名、雨降山(あふりやま)にある大山阿夫利(あふり)神社。「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。相模国の式内社十三社の内の一社で、現在は本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。但し、これらの神は明治の神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神であった石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからかく呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には奥社に大天狗が、前社には小天狗がそれぞれ祀られていた。これが全国八大天狗に数えられた大山伯耆坊で、元来は伯耆大山の天狗であった者が、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったため、その後任として移って来たと伝承されている。富士講中で特に信仰されたと伝えられる。社伝によれば崇神天皇の御代の創建とあり、「延喜式神名帳」では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。天平勝宝七(七五五)年、良弁(後注)によって神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏などの武家の厚い崇敬を受けた。江戸期には当社に参詣する大山講が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣したが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈によって石尊大権現の名称や大山寺は一時廃され、旧来の阿夫利神社に改称された(その後の事蹟は次注参照。以上は主にウィキの「大山阿夫利神社」に拠ったが、大山寺の公式サイトの「お寺の歴史」の記載で補正をしてある)。
「大山寺」前注と重なる部分もあるが、本文読解にとって有益と思われるので、煩を厭わず、注する。大山寺は現在の大山阿夫利神社のある大山山麓(当初の本堂不動堂は中腹)にある真言宗大覚寺派の寺院。大山不動の通称で知られる。山号は雨降山(あぶりさん)。本尊不動明王。高幡山金剛寺・成田山新勝寺とともに、しばしば「関東の三大不動」に数えられ、江戸期には落語の「大山詣」「百人坊主」などで知られるように、江戸近郊の崇敬地、観光地として賑わった。「続群書類従」所載の「大山寺縁起」では、先に記したように天平勝宝七(七五五)年、東大寺初代別当良弁が聖武天皇の勅願寺として開創したといい、寺伝では空海を三世住持と伝承する。元慶二(八七八)年に地震に伴う火災で焼失、同八(八八四)年に復興したとする。「吾妻鏡」によれば建久三(一一九二)年八月九日には、源頼朝が政子の安産祈願のために当寺を含む相模国の寺社に神馬を奉納している。その後、一時衰退するが、文永年間(一二六四年~一二七五年)に願行房憲静(けんじょう)により中興、中世には修験系の信仰の場として栄えた。近世初頭、徳川家康が大山寺の改革を断行、慶長一三(一六〇八)年に五十七石、同一五(一六一〇)年には更に百石を寄進するなどして保護を与える一方、修験者や妻帯僧を下山させて清僧(妻帯していない僧)のみを山上に住持させた。第三代将軍家光も伽藍の修復代を寄進するなどの援助を与え、家光の代参として春日局が二度に亙って参詣している。江戸中期の十八世紀後半以降は、豊作や商売繁盛などの現世利益を祈念する人々による「大山詣で」が盛んになり、関東各地に「大山講」が組織され、大山参詣へ向かう「大山道」が整備された。前述の家康の改革で下山した修験者らは「御師」として参詣者の先導役を務め、山麓の伊勢原や秦野には参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えた。しかし、前注で示したように、明治初期の神仏分離令による廃仏毀釈で大山の廃仏と神社化が図られ、大山中腹にあった不動堂は破却、現在の大山阿夫利神社下社となった。その後、明治九(一八七六)年に現在地(元の来迎院の跡地)に不動堂の再建が着手され、明治一八(一八八五)年に明王院という寺名で再興、大正四(一九一五)年には明王院は観音寺と合併して、本来の大山寺の旧寺号が復活した(以上はウィキの「大山寺(伊勢原市)」に拠った)。
「大住郡」相模国に存在した郡(現在の伊勢原市全域及び平塚市・秦野市・厚木市の一部)。古えの郡衙は平塚市四之宮付近にあったと考えられている。
「子安村」現在の伊勢原市子易(こやす)。現在の伊勢原駅から大山方向へ約五キロメートル入った山村。
「麓の子安村より前不動まで廿八丁」約三・五キロメートル。これは、現在の参詣道経由の実測ともほぼ一致する。
「奧の不動より險難の坂道廿八丁」これは恐らく、大山石尊(現在の大山阿夫利神社)を越えて、大山山頂までの距離と考えられる。]