金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 子安 伊勢原 田村 / ブログ記事5000超
本投稿を以って本ブログ「鬼火~日々の迷走」(2005年7月6日開設)は公開記事5000を超えた。
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子安 伊勢原 田村
大山の麓、子安といふところより一里ゆきて伊勢原なり。このところより田村へ一里。田村川、舟渡(ふなわた)し。これより三里ゆきて東海道四谷(よつや)といふ合(あい)の宿へいづるなり。
〽狂 田むら川鈴鹿(すゞか)
にあらではやき瀨(せ)は
千の矢(や)をゐるごとき水せい
〽狂 いそげども日あしも
はやくくれあいの
しゆくときこへし
よつやにぞ
つく
駕籠(かご)
「旦那(だんな)さま、滅相(めつそう)に骨をおりました。どうぞ、酒手(さかて)をしつかりとおたのみ申します。」
「なんだ酒手だ。儂(わし)は攝州(せつしう)大物(だいもつ)の浦の船頭松右衞門といふものだが、船で妻子をやしなひながら、ついに酒手といふことを。」
「ヲヽ、しらぬ筈(はづ)しらぬ筈、この安駕籠(やすかご)にのりながら、わざとねたふり空鼾(そらいびき)、しらずばいつてきかせませう。駄賃のほかに一人前(ひとりまへ)廿四文くれるを酒手といふわいなふ。」
「おいおい、それでのみこんだ。そんなら、どうぞ、一人前八文づゝにまけてくれ。これをまけつといふわいのふ。」
「ハヽヽ、こりや旦那は盛衰記(せいすいき)ではなくて、狡(こす)い氣(き)だ、狡い氣だ。」
「それから、それから、これは御繁盛の旦那方から、儂にも酒手を一文くださりませ。おぬきなさるが御面倒なら、緡包(さしぐるみみなげてくださりませ。これはしたり、貴公(きかう)たんとおぬきなさるから、そんなに、たんとくださると思つたら、みんなあつちへぬいてとりて、緡ばかり下さるとは、なるほど、旦那は狡い氣だ、狡い氣だ。」
「儂はお山で屁(へ)がひりたかつたが、こゝでひつてはもつたいないとおもつたから、そつと紙をひろげて尻へあてがい、ひつてはつゝみ、ひつてはつゝみ、袂(たもと)にいれて、お山をおりたらすてよふと思つて、つい、そこまでもつてきたが、なんと駕籠の旦那、一包(ひとつゝみ)あげやう。慰みにかいで見なさらぬか。」
「イヤイヤ、儂もひり合はせをもつている。さつきからひつたのが、しやんとすわつてうごかずにゐるものだから、その臭(にほ)ひが、何處(どこ)へもいかずにいるを、ときどき、懷(ふところ)をあけて、臭ひをかぐのが、樂しみさ。」
[やぶちゃん注:「田村」現在の平塚市田村。相模川河口から六キロメートル程上流の右岸に位置する。
「田村川」古くはこの辺りで相模川を田村川と呼び、ここに田村の渡しがあった(左岸が高座郡で右岸が旧大住郡)。江戸時代は大山石尊への参詣人の往復で賑わった。「平塚の史跡と文化財めぐり」より引用された平塚市都市整備部水政課金丸亜紀雄氏のHP「平塚の川と橋」の「相模川」のページによれば、江戸時代には、渡船四隻が置かれており、渡し賃は一〇文であったとあり、現在でも『東側の堤から西を眺めると、裾野の長く広い富士山をはじめ、大山、丹沢山、足柄山、箱根山、伊豆の山々がある時は濃くあるときは淡く、日本画の名品に接する趣がある。新編相模国風土記も「渡頭よりの眺め最も佳景なり」と載せている』とある。
「東海道四谷」田村の渡しを通って現在の辻堂駅の北にある四谷。
「合の宿」間の宿。宿場と宿場との中間に設けられた休憩のための宿で、本来、宿泊は禁じられていた。
「なんだ酒手だ。儂は攝州大物の浦の船頭松右衞門といふものだが、船で妻子をやしなひながら、ついに酒手といふことを。」「攝州大物の浦」は現在の兵庫県尼崎市の一地区。古くは猪名(いな)川の河口港として栄え、元暦二(一一八五)年二月に源義経が平家追討のため船出した地として知られる(現在は内陸化)が、ここは、「平家物語」の「逆櫓」の舞台のモデルでもあり、「逆櫓」の「酒手」を懸け、梶原景時が兵船に逆櫓を装備して進退を自由にすることを発案したのに対して、予め後退に具えるは戦意を殺ぐとし、景時が、進むばかりの能しかなく、退くを知らぬは猪武者、と言い放って義経と対立した有名な逆櫓論争を踏まえて憤激しているのである。
「まけつ」値切る、の意の「まける」は現在は全国区の言葉であるが、元来は西の地方が発祥であったか。但し、ここはまけさせたものの、酒手を出せと言うのに従ったことを、「負け」に掛けて言ったものか。「けつ」は「尻(けつ)」で最後の「屁」と響き合わせているのかも知れぬ。
「狡い氣」「狡い」は、人を欺いて自分に有利に立ち回るさまで、悪賢い、狡猾である、ずるいの意。また、吝嗇(けち)だ、という意もある。先に出た「酒手」から「逆櫓」で、その縁語の「源平盛衰記」を引き合いに出し、「せいすいき」を「こすいき」に掛けた洒落である。
「緡」緡縄。銭の穴に差し通す細い縄。又それに差した銭束。因みに、この台詞を言っている人物は、誰だろう? 駕籠掻きの相棒か? 絵はそれを解き明かしては呉れない。時にこの絵、右手にいるのは露天商のようであるが、彼は一体、何を売っているのだろう? それに、この駕籠の前を行く屈強な男が背負っている長尺の板は何か? 社寺仏閣か霊地などに立てるための、何かの講中の標札か? それぞれに識者の御教授を乞うものである。【2013年2月6日追記】以上の内、男の背負っているものは判明した。これは大山講中の奉納用の木太刀である。たまたま再読していた林美一「江戸の二十四時間」(河出文庫一九九六年)の中に、『相州大山の山開きは六月の二十八日である。この日には関八州から信者たちが「大願成就」と墨書した大きな納太刀(木太刀である)をかついで出掛けてゆく。中には借金のがれに山へ逃げる不心得な信心者もいるらしいが、同注はさぞ賑』ったことであろう、とあったからである。従って、この道中絵も六月二十八日である可能性が高いということになる。思わぬところで目から鱗であった。]