鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 地蔵坂/小袋坂/聖天坂
地 藏 坂
建長寺ヲ出、南行シテ路傍ニ伽羅陀山ノ地藏堂アル所ヲ云。
[やぶちゃん注:これは当時既に廃寺となっていた伽羅陀山心平寺の地蔵堂である。「鎌倉廃寺事典」によれば、建長寺は元処刑場であったが、そこに元あった禅宗寺院が心平寺えあったとする。『建長寺創建の際、当心平寺の地蔵堂だけが残っていたのを、小袋坂上に移建したという』とする。「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の図の右下に「伽羅陀山地藏」と記す一堂が描かれてある。『この堂は小袋坂新道開通前まであって、いまは横浜三溪園に移されている。その本尊地蔵菩薩坐像は建長寺仏殿内に安置してある』とある。]
小袋坂〔或ハ作巨福呂〕
建長寺ノ南、地藏坂ヨリ南ノ切通ヲ云。延應二年〔月付落ル〕十九日、山ノ内ヲ切通シ、往還ノ通路ヲ作ル。賴經將軍ノ治世、泰時ノ執權ノ時ナリト云。山ノ内トハ小袋坂ヨリ北ノ出崎マデノ總名ナリ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」の「山内」の条に『里人は、東は建長寺、西は圓覺寺の西野の道端、川邊に榎木あるを境として、それより東を山内と云ひ、西を市場村・巨福路谷(こふくろがや)と云』とある。この時期には既に現在の狭義の「山ノ内」と同領域にこの地名が限定されていたことが分かる。]
聖 天 坂
小袋坂ノ出崎ノ西南ノ高キ所ニ、昔聖天ノ宮アリシ故ニ、今モ其所ヲカク云トナン。遂ニ雪ノ下へ出テ旅寓へ歸リヌ。明日ハ早武江へ行ントスルニ、名越口見殘シツレバ、老臣等ヲ遣シテ是ヲ見セシム。
[やぶちゃん注:見残して去ってしまう部分を、ちゃんと家臣に命じて見聞させているところ、流石、黄門さま、面目躍如たる感がある。]