耳嚢 巻之六 孝行八百屋の事
孝行八百屋の事
飯田町とか聞しが、其(その)所は詳(つまびらか)ならねど、彼(かの)八百屋はもと相應にもくらしけるや、身持放埓にて甚(はなはだ)人がらあしく、父母も見限りて舊離(きうり)せしが、火消やしきの役場中間(やくばちゆうげん)になりて彌(いよいよ)身持よろしからず。火災の節は、裸身へ役看板(やくかんばん)をひつかけ、階子(はしご)或は水籠(みづかご)などもちて駈歩行(かけあるき)ぬ。父は相果(あひはて)、母は店請人(たなうけにん)の方へ被引取(ひきとられ)けるが、さながら恩愛捨(すて)がたきや、彼(かの)もの役場などへ出る時は、母は表へたち出で、彼が樣子を見送りけるとや。然るに、右のもの與風(ふと)小川町邊の長屋窓下にたちしに、心學の講釋有(あり)しを聞て、父母には物事そむかず、何にても父母の好(このむ)所をなし悦(よろこば)しむる事、孝の第一にてと、其(その)枝葉をならべ講ずるを聞(きき)て、頻りに面白(おもしろく)思ひ、兩三日聞て、我(われ)孝心をおこすべきと、緡(さし)草履(ざうり)を拵へ、商ひし代錢を母のもとへ持參(もちまゐ)り、何にても好(このみ)候ものを調へ給候樣申(たべさうらふやうまうす)。其言葉ざま以前に替りし故、母もよろこびて心よくとり合せける故、大部(おほべ)やへ立歸りても母の悦(よろこび)しを思ひて、日々に錢を持(も)て母のかたへ至り衣食を助けゝるが、或時部屋頭へ願ひて鳥目(てうもく)壹貫文をかり請(うけ)、いさいの譯(わけ)を咄し、母のもとへ至り、何にても望(のぞみ)あらばかなへたしといひしが、年老(おい)て何もねがひなし、彼(かの)もの身持(みもち)よろしからず、母も寄宿の事故、父の石碑も不建(たてず)、供養法事も心にまかせず參詣さへ疎(おろそ)かなれば、寺參り致度(いたしたし)との願(ねがひ)故、則(すなはち)母をともなひ菩提寺へ至り、壹貫文の内五百文を寺へ納(をさめ)、心計(ばか)りの供養を賴(たのみ)、父の石碑もなきを歎きける。歸りには母をともなひ淺草觀音其外見せ物ある處へ至り、終日慰さめて歸りしが、さるにても父の石碑も建立致度(いたしかし)とて、明暮(あけくれ)手業(てわざ)など精出し、朝夕ひまあれば母をとぶらひける故、さすがに部(へ)や内にて無賴不道の役場中間ながら、孝心を感じ世話いたしける故、部屋頭を始め少々宛(づつ)の合力(かふりよく)等なしければ、右の金錢を以(もつて)、石碑を立(たて)、店請人へも厚く母の介抱の禮を伸べ謝禮致し、怠りなく孝心を盡しけるゆゑ、店請人家主抔も聞き及び、其外知音(ちいん)の者どもゝ、かく心底を改むるうへは何方(いづかた)へも店(みせ)をもたせ、相應の稼(かせぎ)いたし可然(しかるべし)と、とり寄(より)世話をなして八百屋を始めさせけるが、渠(かれ)が孝心を稱して店もはやりて、今孝行八百屋と專ら沙汰ある由、人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、前話に続いて、巷間のいい話で巻頭を言祝ぐ。私は、この話、何だかとっても好きなんである。
・「飯田町」概ね現在の千代田区飯田橋付近一帯の旧町名。
・「舊離」久離。既出。不身持ちのために別居又は失踪した子弟に対し、親や目上の親族が連帯責任を免れるために親族関係を断絶すること。「欠け落ち久離」とも。ここでは法的には異なった概念である勘当(親子関係の公的断絶処理)と同義で用いられている。
・「役場中間」既出。ここでの「役場」は特殊な用法で、火事場の意である。火消し役が役する火事場の謂いであろう。専ら消防作業に従事した中間のこと。
・「役看板」既出。一般には武家の中間や小者(こもの)などがお仕着せにした短い衣類で、背に主家の紋所などを染め出したものを言うが、ここは火消しの火事場袢纏、半被(はっぴ)。
・「店請人」居住していた借家の保証人。
・「與風(ふと)」は底本のルビ。
・「小川町」現在の千代田区神田小川町付近。駿河台南側で武家屋敷が多く、根岸の屋敷は駿河台で小川町の直近にある。
・「心學の講釋有し」「心學」石門心学(せきもんしんがく)。江戸中期の思想家石田梅岩(いしだばいがん 貞享二(一六八五)年~延享元(一七四四)年:丹波国桑田郡東懸村(現在の京都府亀岡市)生まれの百姓の次男で呉服屋の丁稚奉公などを務めていたが、享保一二(一七二七)年に出逢った在家仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、四十五歳で借家の自宅に無料講座を開き、後に「石門心学」と呼ばれるようになる思想を説いた。)を開祖とする倫理学の一派。当初は都市部を中心に広まり、次第に農村部や武士階級にも普及するようになった。江戸時代後期に大流行して全国的に広まったが明治期に入って急速に衰退した。主に参照したウィキの「石門心学」や「石田梅岩」によれば、『「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序を』形成するところの「性理の学」であり、『その思想は、神道・儒教・仏教の三教合一説を基盤としている。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものである。その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる』とある。また、岩波版長谷川氏注には、『当時江戸には中沢道二が来ており、小川町近藤家邸中に住み、講席を設けていた時期がある。その講釈を聞いたのであろう』と推定しておられる。中沢道二(なかざわどうに 享保一〇(一七二五)年~享和三(一八〇三)年)は石門心学の門人の一人で、名は義道。京都西陣で織職の家の出身で、亀屋久兵衛と称した。一度家業を継いだ後、四十歳頃より梅岩の直弟子手島堵庵(てしまとあん)に師事、後に江戸に下って安永八(一七七九)年に日本橋塩町に心学講舎「参前舎」(心学講舎とは一般民衆への道話の講釈と心学者たちの会輔(修業)を目的として創られた学舎で、最盛期には全国に百八十ヶ所以上を数えた)を設け、石門心学の普及に努めた。道二の石門心学は庶民だけでなく、江戸幕府の老中松平定信を始め、大名などにも広がり、江戸の人足寄場における教諭方も務めた(ウィキの「中沢道二」に拠る)。本「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月で、冒頭、根岸が「其所は詳ならねど」と不確かな語り口をしているところからも、話柄自体は、確かに二十年ほど前の話という感じではある。
・「緡」銭緡(ぜにさし)。穴空き銭を纏めておくための、藁や麻の紐。岩波版長谷川氏注に、火消人夫が副業といていた旨、記載がある。底本の鈴木氏は「緡草履」で一語として捉え、『緡は当字で差縄。布や麻をより合せた縄。その縄で編んだ草履』とする。原材料は同じであるから、長谷川氏の方が自然な気がする。
・「一貫文」鐚銭であろうが、多く見積もっても現在の十数万円というところか。半分を供養に用いているから六万円程では墓石は無理という感じはする。
■やぶちゃん現代語訳
「孝行八百屋」の事
この通称、
――「孝行八百屋」――
と申すは、飯田町とかにあると聞いて御座るが……その謂われは詳しくは存ぜねど……何でも、かの八百屋主人(あるじ)は、これ、元は相応に暮して御座った町人の息子ではあったが、若き日に身持悪しく放埓にして、甚だ人柄も粗暴なればこそ、父母も見限りて、勘当久離(きゅうり)と相い成ったと申す。……
その後は火消屋敷の役場中間(やくばちゅうげん)となって、これまた、いよいよ身を持ち崩した。……
火災の折りには、裸形へ一張羅の役看板(やくかんばん)を引っ掛けたなり、梯子やら水桶なんどを持って、狂ったように駈け抜ける体たらく。……
かくするうちに、父は相い果て、一人息子以外には身寄りもなき母者(ははじゃ)は、これ店請人(たなうけにん)の方へと引き取られておったれど、流石に――恩愛は、これ、捨てがたきものと申すか――かの息子が火事場なんどへ出るという時は、かの母者は、身を寄せて御座った町屋の表へ立ち出でて、かの息子が立ち回るさまを心配し、こっそりとその姿を認めては、蔭にて見送って御座ったとか申す。……
然るに、ある日のこと、右の者、非番の折りから、ふと、小川町辺りの長屋の窓下(そうか)に、何するともの、佇んで御座った。
すると、近くの家内(いえうち)にて心学の講釈が催されてあった、その洩れ出で来る話が、何心のう、耳に入った。
「……父母には何事も背かず、如何なる場合にあっても、父母の好む所の所行を成し、父母を悦ばしむること、これ、孝の第一なり……」
と、その仔細を一つ一つを挙げては、分かり易い例を並べて講ずるを聞き、何故か、頻りに、
『……これは……何やらん……よう分かる……面白きものじゃ……』
と思うて、立て続けに三日の間、立ち聞き致いて、
「……我ら、一つ、孝心を起すべき――時じゃ!――」
と、一念発起致いて、火事場中間の大部屋へととって返すと、普段は見向きもせなんだ緡(さし)作りやら、草履(ぞうり)作りに精を出だし始めた。……
一切の遊びを断って、せっせと綯(な)っては売り、売っては綯うして、瞬く間に小金を貯め込み、その商いの代銭をごっそり母者が元へと持ち参って、
「……おっ母あ……そのぅ……何でも、おっ母あの、お好みなさるものを、これで、買(こ)うて、お食べ下されい。……」
と申した。
その言葉遣いや神妙なる立ち居振る舞い、これ、以前とは天地ほども変わって御座ったゆえ、母も悦んで、久々に気持ちよぅ、心開いて、息子と言葉を交わすことが出来たと申す。……
その日、かの息子、大部屋へたち歸ってからも、母の悦んだ姿を思い浮かべては……何やらん、清(すが)しい思いに打たれたとも申す。……
それより、日々に、貯えた銭を以って母者が元へと参っては、母者の衣食を何くれとのう、助けて御座った。――しかし、緡縄(さしなわ)やら草履にては――これ――貯まる金も知れたものじゃ。……
そんなある日のこと、かの男、部屋頭(へやがしら)へと願い出て、
「……鳥目(ちょうもく)……一貫文を……借り請けとう、存ずる。……」
と申したによって、頭も気色ばんで委細の訳を質した。
男がかくも哀れなる己が母の話を致いたところが、頭は黙って、男に一貫文の緡を渡いた、と申す。……
男は母のもとへと至り、
「今日(きょうび)は、おっ母あ! ほんに、何でも、望みのものあらば、叶えましょうぞ!……」
と、満面の笑みを以って言うた、と申す。
ところが母者は、
「……もう、年老いて、の、なにも願いは、なし……されば……そう……そなたが身持ちのよろしゅうのうなって、このかた……妾(わらわ)も、かく、人の家の世話になって御座いましたゆえ……御父上の墓石(ぼせき)も建てず、供養も法事も心にまかせず……実は、御骨を預けおいた菩提寺の参詣さえ、疎そかにしておりますれば……一つ、寺参りにお連れでないかえ……」
との願(ねご)うたと申す。
されば、直ちに母を伴い、菩提寺へと参り、一貫文の内、五百文を寺へと納め、心ばかりの供養を頼み、
「……父の墓石もなき……慚愧の念に堪えませねど……宜しゅうに菩提を弔(とむろ)うて下さりませ……」
と、かの息子、母者とともに、住持の前にて涙を流しては歎いた、とのことで御座った。……
その日の帰りには母を連れ、浅草觀音やその外、華やかな見せ物のある所を巡っては、終日(ひねもす)、母者を慰さめて大部屋へと帰ったと申す。……
「……何としても、父の墓石をも建立致したい!……」
と、またしても、それより一念を起こし、寝る間もなき程に、明け暮れとのう、かの緡や草履の手業(てわざ)その他に精を出だし、朝夕には、暇(いとま)ある毎に必ず、母を訪ぬるゆえ、流石に、それを傍(そば)で見知って御座った部屋内の――かの無頼非道のむくつけき役場中間どもなれど――やはり人の子――かの男の孝心を、誰もが感じ入って――火事場の出の代わりを申し出るやら――出来た緡や草履をこっそりと男の分に投げ入れてやるやら――何くれとのう、男の世話なんどを致いて御座ったとも申す。……
かくも、部屋頭を始めとして皆々の者が、少しずつ、かの男に合力(こうりょく)を成したれば、何とか、相応の金も貯まって御座った。……
かくて男は、その金銭を以つて亡き父の墓石を立て、店請人へも厚く、母者の保護と介助の礼を述べて謝礼も致し、万事、怠りのう、孝心を尽くして御座ったと申す。……
その礼を受けた母者の店請人や家主なんども、この類い稀なる男の孝心を聞き及び、その噂がまた、その外の彼らが知音(ちいん)の者どもへも、あっという間に広がって、
「――かく、心底を改めた上は何方(いづかた)なりとも店(みせ)を持たせ、相応の商売を致して然るべき男じゃ!」
と、心ある御仁たちが寄り集(つど)って相談の上、世話を致いて、八百屋を始めさせたと申す。……
かの孝心が知られて店も流行り、今に、
――孝行八百屋――
と称せられ、専らの評判にて繁昌致いておる由、さる御仁から聴いた話で御座る。