北條九代記 梶原叛逆同意の輩追捕
〇梶原叛逆同意の輩追捕
同二十四日梶原父子が所領及び美作國の守護職を沒收(もつしゆ)し、駿州の住人芦原、工藤、飯田、吉高(きつかう)等(ら)に勸賞(けんじやう)行はる。京都の内に梶原が餘黨是ある由(よし)安達源三親長(ちかなが)に仰せて上洛せしめらる。爰に安房判官代隆重は、景時が朋友として斷金(だんきん)の睦(むつ)び堅(かたか)りしかば、兼てよち一の宮の城(じやう)に加(くはゝ)り、今度景時に相倶して、駿河に至り、合戰の刻(きざみ)に疵(きず)を蒙(かうぶ)り、引退(しりぞ)きて、松の梢に身を隱し忍びて、其夜を明しけるが、軍兵等(ら)分散して後に近き邊(あたり)の村に出でて食を求め侍けるを、糟屋(かすやの)藤太有季(ありすゑ)が郎從是(これ)を見咎めて生捕(いけど)りたり。武田兵衞尉有義も景時に同意して、密(ひそか)に上洛せんとす。伊澤五郎信光聞付(きゝつ)けて、甲州より馳(はせ)向ひければ、一家悉(ことごとく)逐電して行方(ゆくかた)なし。景時が一味同意の狀を取落し、帳臺(ちやうだい)にありけるを、拾取(ひろいと)りて賴家卿に奉る。梶原叛逆の事、愈々疑ふ所なしとて、一族餘類嚴(きびし)く尋ね搜されけり。翌月二月二十日安達(あだちの)源三京都より歸參して、播磨國の住人追捕使(ついふし)芝原太郎長保を召具(めしぐ)して來れり。安達言上しけるは、「京都の所司佐々木左衞門尉廣綱と相共に景時が五條坊門の家を追却(つゐきやく)し、郎從等(ら)を搦捕(からめと)り、その白狀に依(よつ)て、江州富山莊(とみやまのしやう)に馳向(はせむか)ひ、長保を生捕まゐり候」と申す。小山左衞門尉朝政に仰せて、推問せらる。長保申けるは、「某(それがし)播州(ばんしう)の追補使たり。景時は又守護職たるに依て、暫く奉公を致すしかども、叛逆の事に於ては露計(ばかり)も存知せず」と申しければ、先づ朝政にぞ預けられける。
[やぶちゃん注:ここは時計が少し巻き戻っており、「吾妻鏡」巻十六の正治元(一二〇〇)年正月二十四日・二十五日・二十六日・二十八日に拠る。特に大きな相違点は認められない。
「帳台」寝殿造りの母屋内に設けられる調度の一つ。浜床(はまゆか)という正方形の台の上に畳を敷き、四隅に柱を立てて帳(とばり)を垂らしたもの。貴人の寝所又は座所とした。
「安房判官代隆重」佐々木高重(?~承久三(一二二一)年)。彼は後に許され、阿波国守護代職も失っていない(本文は「安房」であるが、これは我々の今言う「阿波」と思われる。これは誤りというよりも、表記の両有性があったことに由来するものと思われ、実際に千葉の「安房」は古くは「阿波」とも表記されている)。後、承久の乱で阿波国内の兵六百人を率いて上京、佐々木経高の率いていた淡路の官軍と合流した。しかし、圧倒的な鎌倉軍をの前に、上皇方は敗走、佐々木経高・高重父子は討死している。
「武田兵衞尉有義」(?~正治二(一二〇〇)年?)甲斐源氏の棟梁・武田信義の子。元は平重盛の家臣であったが、治承四(一一八〇)年、父に従って一族と共に反平家の兵を挙げ、源頼朝軍に合流してからは源範頼の下で西国を転戦する。弓馬の道に優れたが、文治四(一一八八)年の鶴岡八幡宮での大般若経供養の式の場で頼朝の御剣役を命ぜられ、これを渋ったため、頼朝にかつて彼が重盛の御剣役を務めていたことを面罵一喝され、満座の中で大いにその面目を失ってからは凋落、書かれているように本事件によって逐電、失踪した。参照したウィキの「武田有義」によれば、『この過程においては、有義を征夷大将軍に擁立するという趣旨の景時の密書がその居館から発見されたとの申し立てが、弟の伊沢信光によって行われた。この事件以降『吾妻鏡』においては有義の名は現れず、「伊沢」「武田」両姓が併記されていた信光の姓が「武田」に統一され、武田氏棟梁の地位は信光に移ることになったと考えられている』とある。
「伊澤五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐武田氏第五代当主。第四代当主武田信義五男。前注で示した通り、実は武田有義の弟である。
「芝原太郎長保」彼は後に無実として許されている。]
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