金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 腰越 星の井 初瀨觀音
腰越 星の井 初瀨觀音
江の嶋をいでゝ、腰越(こしごへ)の漁師町をうちすぎて、七里の濱つたひ、向かふに安房上總(あわかづさ)の山々を見わたし、景色よし。されども、砂道にて難儀なり。此間(あいだ)、牛にのりてよし。この中程に行合(ゆきあい)川といふあり。日蓮上人御難儀の時、鎌倉の使(つか)ひと遣使(けんし)よりの使ひと、行合(ゆきあひ)しところなりといふ。
〽狂 たいくつさあともどりする
すなみちをのりたるうしの
よだれだらだら
「なんと子僧、この中で、俺(おれ)が一番よい男だらう。この邊にも、俺がやうなよい男はあるまい。どうだ、どうだ。」
「お前、まづ錢(ぜに)をくれさつしやい。錢をくれたら、ほめてやりませう。ひよつと先へほめて、錢をくださらぬと損だから、錢から先へくれさつしやい。」
「こいつ、如才(じよさい)のない子憎めだ。こつちも、そのとほり、さきへ錢をやつて、ひよつとほめてくれないと、こつちの損だから、先錢(さきぜに)は御免だ。」
「そんなら、くれずとおりつしやい。もらつた所が、どふも、褒め樣(やう)のない顏だから、わしも、もらはぬ方が氣が樂でよふござるよ。」
濱邊より鎌倉道(かまくらみち)いる所(ところ)に茶屋あり。こゝにて鎌倉の繪圖(ゑづ)をいだし、講釋してこれをあきなふ。横手原(よこてはら)、日蓮上人の袈裟掛松(けさかけまつ)あり。それより虛空藏堂(こくうぞうだどう)、星の井(ゐ)。村立場(たてば)、茶屋おほし。これより、初瀨(はせ)の觀音あり。海光山(かいくわうさん)といふ。坂東巡禮四番の札所なり。
〽狂 煮(にへ)かへりあせふく
ばかり
めしをたく
かまくら
みちの
夏(なつ)の旅人(たびゝと)
旅人
「ヲヤ、この婆(ばあ)さまは、たれもきかうといひもせぬのに、この繪圖の講釋をして、その代(だい)を十二文とるのか。よしよし、こなたのいつたとほり、儂がよくおぼへたから、此方(こなた)へ儂が講釋してきかせやうから、その十二文こつちへかへしなさい。」
「そんなら、お前、よくおぼへさしやいな。てふど、つい、向かふにやすんでござるお方へ、お前、講釋をしてあげてくれなさい。その錢はこつちへとつて、それでてうど、よふござらう。」
「婆さま、こゝの家(うち)に娘はないか。あるなら、だして見せなさい。婆さまと娘では茶代の置き樣(やう)がちがいます。」
[やぶちゃん注:「日蓮上人御難儀」日蓮四大法難の一つである龍ノ口の法難。文永八(一二七二)年九月十三日、「立正安国論」を幕府に奏上した日蓮が捕らえられ、龍ノ口の刑場(後に竜口寺となる)で斬首されんとした事件。江ノ島上空に黒雲が湧き起り、妖しい光球が首切り役人の刀に落ちて、刑が滞ったとする。同時に幕命によって処刑が中止され、その双方の使者(本文の「鎌倉の使ひ」が幕府からの中止命令を携えた使者、私が「遣使(けんし)よりの使ひ」と漢字で当てたのが、斬首実行部隊が妖異によって執行が出来ない旨を幕府に伝えるための伝令)行き合ったところが行合川と伝えるが、実際には、当時の執権北条時宗夫人覚山尼が懐妊中(十二月に後の第九代執権貞時を出産)であったことから、悪僧とはいえ、祟りを恐れて一等減じ、佐渡配流となっていたものを、絶大な権勢を恣にしていた北条家執事平頼綱による独断専行の処刑が停止されたものとする説を私は採る(皮肉にも後に貞時によって頼綱は誅殺されている)。また、御家人の中には宿屋光則を始めとして日蓮のシンパサイザーも頗る多く、後にこうした伝説が容易に形成され得たものと私は考えている。私は話柄としては面白いが、こうした宗教人のスーパー・マジック的なパフォーマンス伝承の類いが、頗る附きで嫌いであることだけは言っておきたい(だから、今まで鎌倉地誌書の注でもこのことを語ることを私は敢えて避けてきたのである)。
「牛にのりてよし」牛が当時、こうした砂浜海岸での旅人の足として機能していたことは私には面白く感じられる。また、全くの偶然であろうが、養和二(一一八二)年(五月二十七日に寿永に改元)の「吾妻鏡」の四月五日の条に、頼朝が、このルートの、腰越側の金洗沢で牛追物を催していることが、どうにも頭に絡みついて離れないのである(私の電子テクスト「北條九代記 賴朝腰越に出づる 付榎嶋辨才天」などを参照されたい)。
「なんと子僧、この中で」鶴岡氏は『なんと子僧ッ子の中で』と判読されておられるが、「ッ(ツ)」には見えないし、それでは文意が通じない。
「ひょつと」副詞の「ひょっと」であるが、最初の牛引きの小僧の台詞のそれは、うっかりの意、後の乗客の謂いは、万一の謂いがしっくりくる。
「先錢」ここでは乗車賃ではなく、酒手(絵の少年だとお駄賃か)の謂いであろう。
「横手原」「新編鎌倉志卷之六」の「稻村〔附稻村が崎 横手原〕」に、
此海濱を横手原(よこてばら)と云ふ。【太平記】に、新田義貞、廿一日の夜半に、此處へ打ち蒞(のぞ)み、明け行く月に、敵の陣を見給へば、北は切通(きりとをし)〔極樂寺也。〕まで、山高く路嶮しきに、木戸を構へ、垣楯(かひだて)を搔いて、數萬の兵陣を雙(なら)べて並居たりけり。南は稻村崎まで、沙頭路狹(せば)きに、浪打涯(なみうちきは)まで逆木(さかもぎ)をしげく引懸て、澳(をき)四五町が程に、大船共を並べて矢倉(やぐら)をかき、横矢射(よこやい)させんと構へたり。誠(げ)にも此陣の寄手(よせて)、叶はで引ぬらんも理り也と見給へば、義貞馬より下(を)り給ひ、海上を遙々と伏し拜み、龍神に向て祈誓し給ひければ、其夜の月の入方に、前々更に干る事もなかりける稻村が崎、俄に二十餘町干上つて、平沙渺々たり。横矢射んと構へたる數千の兵船も、落ち行く潮にさそはれて、遙かの澳に漂へりと有は此所なり。故に横手原とは名くるなり。
とある。現在の稲村ガ崎二丁目、江ノ電稲村ヶ崎駅入口付近に相当する。
「日蓮上人の袈裟掛松」「新編鎌倉志卷之六」には、
日蓮袈裟掛松 日蓮の袈裟掛松(ねさかけまつ)は、音無瀧(をとなしのたき)の少し南なり。海道より北にある一株の松なり。枝葉たれたり。日蓮、龍口(たつのくち)にて難に遭し時、袈裟を此松に掛けられたりと云傳ふ。
とある、そこで私は以下のように注した。『掛けたのは袈裟を血で穢すのは畏れ多いとしたからとされる。現存せず、碑が立つのみであるが、現在、その碑は十一人塚を極楽寺方向へ百五十メートル程行った箇所に立っている。先に掲げた絵図[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之六」参照。]を見ると、不思議なことが判明する。絵図ではまさに現在の日蓮袈裟掛松跡に「音無瀧」と記されているのである。そして、絵図の「十一人塚」と「音無瀧」の位置関係から見ると、絵図の「日蓮袈裟掛松」が存在したのは現在の江ノ電稲村ヶ崎駅のすぐ西、何と現在「音無橋」と名が残る音無川の辺りに比定されるように見えるのだ。だから何だと言われそうだが、何だか私には不思議な感じがするのである』。
「虛空藏堂」極楽寺切通を抜けて下った坂の下、左側、次の星月夜の井の上方にある。星月山星井寺(せいげつさんせいせいじ)と号し、江戸期から成就院の持分であるが、この部分の描写、甚だ違和感がある。所謂、極楽寺及び同切通を含む部分が、記載からごっそり抜け落ちているからである。私は、一九はここを実際には踏破していない疑いが濃厚であるように思われる。
「星の井」星月夜の井。
「村立場」人足や駕籠掻きなどが休息する場所。
「茶屋おほし」鶴岡氏は『飴(あめ)屋おほし』と判読されておられるが、どうみても「あめや」とは読めない。「ちやや」である。立場なら、なおのこと、茶屋でこそ自然である。
「初瀨の觀音」長谷観音、長谷寺のこと。寺伝によれば、天平八(七三六)年に大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老五(七二一)年に徳道は楠の大木から二体の十一面観音を造り、その一体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう一体(末)を祈請の上で海に流したところ、その十五年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされており(以上はウィキの「長谷寺(鎌倉市)」に拠る)、大和の長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山である(但し、現在の鎌倉の長谷寺は慶長一二(一六〇七)年の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗している)。
「そんなら、お前、よくおぼへさしやいな。てふど、つい、」の部分は鶴岡氏のテクストから脱落している。画像左中央の講釈する老婦の絵図の直ぐ上にあり、失礼ながら、鶴岡氏が見落としたものと思われる。私の拙い判読の内、最後の「つい」は自信がない。識者の御教授を乞うものである。しかし、この部分が、「旅人」のではなく、この「婆さま」の台詞であってみれば、実にこのシーンの問答はすんなりと通るように思われるが、如何?]