西東三鬼句集「夜の桃」Ⅱ(後) 了
赤き火事哄笑せしが今日黑し
馬がみな寒の沒日に向き進む
寒の家爪とぐ猫に聲を發す
大寒の松を父とし歩み寄る
大寒や轉びて諸手(もろて)つく悲しさ
われら滅びつつあり雪は天に滿つ
限りなく降る雪何をもたらすや
地に消ゆるまで一片の雪を見る
雪の上に雪降ることのやはらかく
天の雪地に移りたり星光る
左右の窓凍天二枚ありて病む
死にし人とこの寒潮を見下しき
大寒のトンネル老の眼をつむる
雜炊や猫に孤獨といふものなし
露人の歌みぞれは雪に變りつつ
夜の沼に雪亂れ降るかぎりなし
寒鮒を殺すも食ふも獨りかな
秒針の強さよ凍る沼の岸
靑沼に樹の影一本づつ凍る
凍る沼にわれも映れるかと覗く
凍る沼去るべき時を過ぎつつあり
凍る道凍れる沼を離れざり
沖遠しかがみて寒き貝を掘る
餓鬼となりしか大寒の松隆し
紅梅を去るや不幸に眞向ひて
竹林を童子と覗く春夕べ
寒明けの樹々の合掌聲もなし
動かぬ蝶前後左右に墓ありて
わが天に蝶昇りつめ消え去りし
花冷えの朝や岩鹽すりつぶす
櫻くもり鏡に寫す孤獨の舌
春菜を買ふべく鍵を鎖し出づ
春の馬よぎれば焦土また展く
春の夜の暗黑列車子がまたたく
斷層の夜明けを蝶が這ひのぼる
春山の路の牛糞友のごとし
うぐひすや子に靑年期ひらけつつ
子を思ひはじむ山中の春の沼
春草に伏し枯草をつけて立つ
黑蝶は何の天使ぞ誕生日
女遠しぐんぐん伸びる松の芯
蕗を煮る男に鴉三聲鳴く
ひげを剃り百足蟲を殺し外出す
夜が來る數かぎりなき葱坊主
五月闇汝歸りしには非ず
靑梅が闇にびつしり泣く嬰兒
少女二人五月の濡れし森に入る
月光の岩なり毛蟲めざめ居り
男立ち女かがめる蟻地獄
しやべる老婆靑野を電車疾走す
梅雨の馬いななく腦病院の裏
緑蔭より日向へ孤兒の眼が二點
蟻地獄暮れてしまへり立ち上る
地下を出て皆烈風の孤兒となる
一列の崖の孤兒から飛び出る尿
めつむりし孤兒に烈風砂を打つ
烈風の孤兒がナイフで壁に彫る
行列の頭は深く厦(いへ)に入る
行列の何か嚙みては嚥み下す
行列の嬰兒拳を立てて泣く
行列のみつむる土を風通る
行列に顏なし息をしつつ待つ
螢過ぎ海まつくらに荒れつのる
海道の夜明けを蟹が高走る
夏黑き船の何處かで爆笑す
炎天に鐵船叩くことを止めず
我と蚊帳吊るは海より來し靑年
眼中の蓮も搖れつつ夜歸る
亡びし樹にぞろぞろと羽蟻ぞろぞろと
混血の兒が樹を抱けば蟬とび立つ
星赤し翅うち交む油蟲
あひびきの少女とび出せり月夜の蟬
蚊帳の蚊を屠る女の拍手音
びびびびと死にゆく大蛾ジヤズ起る
天暑し孔雀が啼いてオペラめく
地からすぐ立てる夏の樹抱きつく少女
逃げても軍鷄に西日がべたべたと
大旱の赤牛となり聲となる
早天の鴉胸より飛び出しか
炎天の映る鏡に歸り來ず
何故か歸る雷が時々照らす道
靑蚊帳の男や寢ても躍る形(かたち)
爺婆の裸の胸にこぼれるパン
夏の闇火夫は火の色貨車通る
影のみがわが物炎天八方に
甲(かぶと)蟲縛され忘れられてあり
綠蔭に刈落されし髮のこる
稻妻に胸照らさるる時若し
旱星われを罵るすなはち妻
炎天を遠く遠く來て豚の前
炎天の少女の墓石手に熱く
墓の前強き蟻ゐて奔走す
墓の地に一滴の汗すぐ乾く
墓原に汗して老ひし獸めく
[やぶちゃん注:底本、「老ひし」の「ひ」の右に『ママ』注記。]
炎天に火を焚く墓と墓の間
墓に告ぐ汗していよよ瀆れむと
九十九里濱に白靴提げて立つ
熱砂來て沖も左右も限りなし
一荷づつ九十九里濱の汐を汲む
百姓の影大旱の田に倒る
牛の眼に大旱の土平らなり
旱天やうつうつ通る靑鴉
靑柿の下に悲しき事をいふ
月夜の蛾墓原を拔け來し我に
月夜の蛾男、女の中通る
炎天の人なき焚火ふりかへる
靑柿の夜の土から猫が去る
靑柿は落つる外なし燈火なし
しゆんぎくを播き水を飮みセロを彈く
燈を消せば我が體のみの秋の闇
秋濱に稚兒の泣聲なほ殘る
農婦來て秋のちまたに足強し
秋天にボールとどまる少女の上
稻妻に道眞向へば喜ぶ足
法師蟬遠ざかり行くわれも行く
ぼんやりと出で行く石榴割れし下
身を屈する禮いくたびも十五夜に
十五夜に手足ただしく眠らんと
夕燒へ群集だまり走り出す
百舌に顏切られて今日が始まるか
秋雨にうつむきし馬しづくする
靑年の大靴木の實地にめり込む
秋の森出で來て何かうしなへり
叫ぶ心百舌は梢に人は地に
こほろぎの溺れて行きし後知らず
蟷螂のひきづる影を見まじとす
[やぶちゃん注:底本、「ひきづる」の「づ」の右に『ママ』注記。]