金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 堂ヶ島 塔ノ沢
堂个嶋 塔の澤
宮の下より五六丁ゆきて、堂が嶋の湯なり。こゝにも内湯・瀧湯あり。湯の味(あぢ)鹽(しほ)はゆくして、癪(しやく)・支(つかへ)・痺(しびれ)によし。堂が嶋より一里半、塔の澤なり。こゝはいたつて景色よきところにして、山を勝麗山(しやうれいさん)といひ、川を早川といふ。この湯は、まことはかくして養生湯(ようじやうゆ)なり。諸病(しよびやう)によし。湯宿(やど)も奇麗風流にて、入湯(にうどう)の人もおほく、軍書・講釋・落語(おとしばなし)・楊弓(ようきう)もありてにぎはしき所なり。これより十町ゆきて湯本なり。
〽狂 鳴(なり)ひゞく
太鼓(たいこ)の堂(どう)が
嶋なれや
どんと
入こむ
湯宿繁昌(ゆやどはんじやう)
旅人
「わしは、れいの生醉(なまよひ)になつて、つい友だちの三五郎といふものゝ嬶衆(かゝしゆ)へぢやらつきだして、やつと相談のできたところへ亭主がかへつて、
『こいつらはふとい奴らだ。』
と腹をたつて、儂(わし)に
『七兩二分だせ。』
といふ。わしも、しかたがないから、
『いかにも承知(せうち)だが、今はじめて、たった一度のことだから、もふちつとまけてくれろ。』
といつてもきかず、
『ぜひ、七兩二分でなければ了見(れうけん)せぬ。』
といふから、家(うち)へかへつて、しかたなく家の嬶衆へうちあけて、この事をはなし、
『きうに金の工面(くめん)をせねばらぬ。』
といふとき、わしの嬶(かゝあ)のいふには、
『三五郎さまなら、金をやるにはおよばぬ、あつちから七兩二分とつてござれ。』
といふゆへ、
『それはどうしたわけで。』
ときくと、嬶のいふには、
『去年(きよねん)、お前が箱根の湯治にいつた留守に、三五郎さまがござつて、妾(わし)にしなだれかゝり、とうとう二夜(ふたよ)さ、妾の寢床へとまりました。たつた一度で七兩二分なら、三五郎さまは二度だから、こっちへ七兩二分借(かり)をとつてこい。』
といふ。
『こいつはでかした。』
そんならそうと、その譯(わけ)を先(さき)へはなして、こつちへ七兩二分とりましたから、
『今度も、どうぞ、おれが留守に、そんな口(くち)をこしらへておけ。』
と女房(ばう)へいひつけておいて、それでまた、此湯治場へでかけました。」
[やぶちゃん注:「堂个嶋」堂ヶ島温泉は宮ノ下付近の国道一号から早川渓谷へと下った谷底にある、夢窓疎石が開いたとされる温泉。現在は「対星館」と「大和屋」の二軒で、それぞれ国道から私設の、前者がモノレール式ケーブルカー、後者がロープウェイを利用して下る。私はどちらも行ったことがあるが、特に前者は、私が幼稚園児の頃、父母が預かっていた従兄弟二人の五人で泊まった忘れられない宿だ。その頃、まだケーブルカーがない時代、急な坂道を転げそうになって降りて行ったのを覚えている。従兄弟を本当の兄貴たちだと思っていた、僕にはサン・スーシの、幸せな時代だった。……
「塔の澤」塔之沢温泉は箱根湯本温泉の奥にある温泉。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉、神経痛・関節痛・冷え性に効く。伊藤博文や「篤姫」でブレイクした天璋院(てんしょういん)ゆかりの温泉としても知られる。
「癪(しやく)・支(つかへ)」「支」は癪と同義でも用いるが、ここでは、「癪」は、所謂、腹部や胸部の非常に強いさしこみ、特に腹部を強い突発性の激痛を指しているのに対して、「支」は主に胸がつかえる感じと、部位と強度の相対差で使い分けているように思われる。
「楊弓」本来はヤナギで作られた遊戯用の小弓。転じて、楊弓を用いて的を当てる遊戯そのものを指す。弓の長さは二尺八寸(約八五センチメートル)、矢の長さは七寸から九寸二分とされる。中国の唐代に始まったとされ、後に日本にも伝わり、室町時代の公家社会では、「楊弓遊戯」として遊ばれたが、江戸時代に入ると神社や盛り場などで楊弓場(ようきゅうば)または矢場(やば)と呼ばれる楊弓の遊技場が設けられるようになり、楊弓場には「矢拾女」「矢場女(やばおんな)」と称する、矢を拾ったり客の応対をしたりする女性がおり、これが後にしばしば娼婦の役目を果たすようになった。また、的に的中させた時の景品も時代が下るにつれて高価になっていったことから、天保の改革では、売春と賭博の拠点として取り締まりの対象となった。幕末から明治初期にかけて全盛期を迎えた(以上はウィキの「楊弓」に拠った)。]