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2013/01/13

耳嚢 巻之六 英雄の人神威ある事

     又

 肥後の熊本には、加藤淸正の廟ありて、像も有之(これある)由。當領主細川家にても厚く尊崇ありて、供僧抔、嚴(げん)に附置(つけおき)、時々享膳(きやうぜん)香華(かうげ)備へける由。彼(かの)供僧なる出家、ある時膳をすへて亭坊(ていばう)へ下り候と思ひしに、淸正の像の覆ひにや、鼠の損(そん)さし候處ありしを、彼供僧言葉に不出(いださず)、心に思ひけるは、淸正は無双の勇剛にて異國までも其名轟(とどろき)し人なれば、鼠抔の害をなす事はあるまじき事と思ひながら、下山し暫く過(すぎ)て、膳具とり仕廻(しまは)んと彼山に上りけるに、拜膳の邊り血にそみ、膳の上に大きなる鼠を五寸釘にて差(さし)貫きありし故、彼供僧は氣絶するまでに驚きほうぼう下山しける故、外々の僧登りて彼處を淸め膳を下げけると、肥後のもの語りける。

□やぶちゃん注

○前項連関:題も同じ「英雄の人神威ある事」、主人公も加藤清正の霊の神霊譚。加藤清正は肥後国熊本藩初代藩主である。

・「當領主細川家」熊本藩加藤家第二代藩主忠広は寛永九(一六三二)年に改易され(駿河大納言事件(徳川忠長の蟄居部分)に連座したともされるが、この改易理由は不明瞭で異説が多い)て出羽国庄内丸岡に一代限り一万石の所領を与えられて体よく流され、加藤家は断絶、代わって同年、豊前国小倉藩より細川忠利が五十四万石で入封、以後、廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。参照したウィキ熊本藩」の記載によれば、『国人の一揆が多く難治の国と言われていた熊本入封に際しては、人気のあった加藤清正の治世を尊重し清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、加藤家家臣や肥後国人を多く召抱えたという』と記す。

・「亭坊」本来は住職だが、ここは単に僧坊の謂いである。内容から清正の廟は山上にあり、専属の供僧たちの詰所である僧坊はその山麓にある。

・「下り候」底本では、右に『(尊經閣本「下り可申」)』とある。これならば、「くだりまふすべし」と読む。

・「異國までも其名轟し人」清正は朝鮮の出兵の折り、朝鮮の民衆からも「鬼上官」(幽霊長官)と呼ばれて恐れられたという。

・「ほうぼう」底本のママ。但し、「ぼう」は底本では踊り字「〲」。

■やぶちゃん現代語訳

 英雄の人には神威のある事 その二

 肥後の熊本には、この加藤清正公の廟が御座って、公の像も、これある由。

 御当家領主細川家にても代々手厚く尊崇あって、供僧なども、しっかりと専属の者を申しつけて配し、時々に膳や香華を供えておらるる由。

 その清正公廟所でのこと。

 かの供僧なる出家、ある時、山頂の廟所の前に膳を据えて麓の僧坊へと下ろうと思うた、その折り――清正公の尊像の前をでも覆って御座った格子の隅ででも御座ったか――鼠の齧って壊(こぼ)ちたところがこれ御座ったを見つけたゆえ、この供僧、言葉に出ださずに飽く迄、何とのう、心内に思うたことには、

『……清正公は、これ、勇剛無双の御方にて、異国にまでもその名の轟き渡った人なれば……鼠なんどの害をなすなんどということは、これ、およそあるまじきこと、じゃが、の……』

なんど軽々なることを思いながらほくそ笑みつつ下山致いた。

 さても暫く過ぎて、膳具をとり下げて仕舞(しも)うたろうと、再び、かの山へと上ったところが――

……膳を配した辺り……

……これ一面、真っ赤に血に染まって御座って……

……膳の上には……

……これまた、猫のような大きなる鼠を……

……五寸釘にて刺し貫いて……

……載せてあった!……

「……かの供僧は、氣絶せんほどに吃驚仰天、踵(きびす)を返して走り出しますと、ほうほうの体(てい)にて下山致しました。……周りの者が訳を聴けども、膳も持っておらず、泡吹くばかりで、これ、一向に埒が開きませぬゆえ……とりあえずは膳を、と、その外の僧どもが代わりに急ぎ登って見れば、これもう、廟前は血だらけの修羅場と化して御座ったそうな。……その者どもがおっかなびっくり、綺麗に清めまして、贄の如く屠(ほう)られた大鼠の遺骸の、ぶつ刺された膳を、これ、うやうやしゅう僧坊まで下げて、御座ったとのことで御座います。……」

とは、私の知れる肥後の者の語ったことで御座る。

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