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2013/01/12

耳嚢 巻之六 英雄の人神威ある事

 英雄の人神威ある事

 石川左近將監(しやうげん)、大御番(おほごばん)にて大坂御城に在番たりし頃、毎夏蟲干(むしぼし)有之(これあり)、品々の武器兵具等取出し、其懸りの御武具奉行等取扱ひ、御藏より持運び候は、加番(かばん)大名の人足共の由。數多(あまた)の鐡砲の内、群にすぐれて重く持(もち)なやみ、彼(かの)人足にあたりしもの甚(はなはだ)持なやみ、多くの内かく重きはいかなる人か持(もち)たりし抔口ずさみけるが、是を改め見るに、南無妙法蓮華經とぞう眼(がん)にて彫入(ほりいれ)ありしかば、知れる者、是(これ)加藤淸正の持筒(もちづつ)を納(おさめ)たるなり、淸正の武器には、題目を多く書記(かきしる)せしと云けるにぞ、剛勇の淸正所持の上は左もあるべしと、皆々感稱せしを、彼かつぎ來りし初めの人夫、淸正は異國までも其名を響(ひびか)せし人ながら、人を可殺(ころすべき)鐡砲に題目も不都合なり、殊に此鐵砲故、大いに肩を痛めける、大馬鹿ものやと、品々淸正を惡口せしが、俄かに身心惱亂(なうらん)して倒れけるが、無程(ほどなく)起上(おきあが)り、雜人(ざふにん)の身分として我を惡口なしぬるこそ奇怪なれと、憤怒の勢ひ、初(はじめ)の人夫口上とは事替り、其凄(すさま)しさいわんかたなし。其あたりのもの、色々侘事(わびごと)してなだめぬれど曾て承知せず。無據(よんどころなく)其節の加番松平日向守なりし故、其小屋へ申達しければ、家老なるもの驚きて俄に上下抔を着(ちやく)し、彼場所へ駈(はせ)付け、扨々不屆至極なる人足かな、事にもよるべき、ゆゑある武器へ對しての雜言(ざふごん)、憤りの段尤恐入候得(もつともおそれいるさふらえ)ども、雜人の儀何分宥恕(いうじよ)を相願ふ旨、丁寧深切に述べければ、彼人足威儀を改め、ゆるしがたきものなれども、雜人の儀、其主人の斷(ことわり)も丁寧なればゆるしぬると云て倒れけるが、二三日は右人足は無性(むしやう)にて、人ごゝちなかりけると、左近將監かたりぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。加藤清正の御霊(ごりょう)の憑依譚であるが、このシークエンスを実写化すると、私などは吹き出してしまいそうになるのは、それこそこの「雜人」の如き「神威」を恐れぬ不届き者であるからであろう。

・「石川左近將監」石川忠房。石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)は遠山景晋・中川忠英と共に文政年間の能吏として称えられた旗本。安永二(一七七三)年大番、天明八(一七八八)年大番組頭、寛政三(一七九一)年に目付に就任、寛政五(一七九三)年には通商を求めて来たロシア使節ラクスマンとの交渉役となり、幕府は彼に対して同じく目付の村上義礼とともに「宣諭使」という役職を与え、根室で滞在していたラクスマンを松前に呼び寄せて会談を行い、忠房は鎖国の国是の為、長崎以外では交易しないことを穏便に話して長崎入港の信牌(しんぱい:長崎への入港許可証。)を渡し、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫と磯吉の身柄を引き受けている。寛政七(一七九五)年作事奉行となり、同年十二月に従五位下左近将監に叙任された。その後も勘定奉行・道中奉行・蝦夷地御用掛・西丸留守居役・小普請支配・勘定奉行・本丸御留守居役を歴任した辣腕である(以上はウィキの「石川忠房」を参照したが、一部の漢字の誤りを正した)。「將監」はもと、近衛府の判官(じょう)の職名。【2014年7月15日追記】最近、フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!

・「大番」常備兵力として旗本を編制した警護部隊で、江戸城以外に二条城及び、この大坂城が勤務地としてあり、それぞれに二組(一組は番頭一名・組頭四名・番士五〇名、与力一〇名、同心二〇名の計八五名編成)が一年交代で在番した(以上はウィキの「大番」に拠る)。

・「加番大名」これは職名で、城番を加勢して城の警備に任じたものを言う。大坂加番と駿府加番があり、ともに老中支配。

・「松平日向守」松平直紹(なおつぐ 宝暦九(一七五九)年~文化一一(一八一四)年)、越後糸魚川藩第四代藩主。福井藩越前松平家分家六代。日光祭礼奉行・田安御門番・半蔵門番・大坂加番などを歴任した。石川の大番勤務は安永二(一七七三)年から寛政三(一七九一)年までであるから、当時の松平の年齢は恐らく二十代後半から三十二歳ほどか。

・「家老」裃附けて清正の霊の憑りついた雜人の前にひれ伏して許しを請うこの家老は、こうした対応を即座にとったところから見ると、信心深い相応な年の者であろう。映像はしかし、何とも滑稽ではある。

・「無性」分別のないこと、理性のないことの謂いであるが、気が抜けたように茫然自失としていたことを謂うのであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 英雄の人には神威のある事

 石川左近将監(しやうげん)忠房殿、大番(おおばん)役にて大坂御城(ごじょう)に在番されておられた頃のこと、毎夏、虫干しがこれ御座って、品々の武器・兵具等を取り出だいては、その係りに当たって御座る御武具奉行らが丁寧に取り扱っては虫干し致す。お蔵より持ち運び出だす役は、これ加番(かばん)大名の人足どもが当てらるる由。

 さても、そのある夏の虫干しの折り、運び出だいた數多(あまた)の鉄砲の内に、群を抜いて優れて持つに重そうな――いや、その担当した人足、実際に甚だ持ち悩むほどの重い鉄砲が一挺、これ、御座った。

「……沢山ある鉄砲のうち、かくも重きものは、これ、如何なる人が持っておったもので御座ろう?」

などと、人足らが口々に噂致いて御座ったが、中の一人が、その鉄砲を仔細に改めて見た。すると、

「……おい! この鉄砲には……ここに……ほれ、『南無妙法蓮華經』の文字(もんじ)が、象嵌(ぞうがん)にて彫り入れて御座る……。」

と言うた。

 それを聴いて御座ったさる知れる者が、

「……さては! これ、朝鮮出兵の虎退治で知られた、あの、加藤清正公の持筒(もちづつ)を納めたるものじゃ! 清正公の武器には、これ、題目を多く書き記してあると聴いておるが……この異様なる重さといい……剛勇の清正公所持の上は、さもあるべきものじゃ!」

と、皆々感心致いておったのじゃが、かの、先程、お蔵より担ぎ出だいた初めの当の人夫が、

「……清正という御人(おひと)は異国までもその名を轟かせた人ながら、人を殺すための道具たる鉄砲に、こともあろうに、『南無妙法蓮華經』の御題目と彫るというも、こりゃ、不都合極まりないわ! 殊に儂(わし)は、この糞重い、たった一挺の鉄砲のお蔭で、すっかり肩を痛めてしもうたわい! こんなもんも、こんなもん持つ奴も、こりゃ、大馬鹿もののコノコンチキや!……」

と、これ、あらん限りの清正公への悪口(あっこう)を、これ、致いて御座った。

――と!

この男、俄かに身心悩乱しさまにて昏倒致いたが、ほどなく、

――ムングリッ!

と、起き直ると、

「――グワァ、ツッ!――雑人(ぞうにん)ノ分際デ――我ラニ惡口ナスコトコソ――奇怪(きっかい)ナレ!――」

と、その憤怒の勢いたるや! これ、もとの人夫の話し振りや質とは、すっかり様変わって! その凄まじきこと、謂わんかたなき、もの凄さ!

 その辺りにあった者ども、色々と詫び事致いて、清正公の霊を宥(なだ)めんとしたものの、清正が霊、これ、いっかな、承知致さぬ!

 よんどころのう、その節の加番大名は松平日向守直紹(なおつぐ)殿であられたゆえ、その控えておられた部屋へ申し達したところが、そこでその話を聴いた松平家家老なる者、吃驚仰天致いて、俄かに上下裃(かみしも)などを着帯の上、かのお蔵前の現場へと駈せ参じ、

「……さてさて、不届き至極なる人足じゃ! 軽口は、よう、場と物を弁えねばならぬのじゃて!……

……ああ! さても、相応の御由来ある御手持ちの御武具へ対しまして、忌わしき雑言(そうごん)の数々、これ、御憤りの段、尤も至極にして、恐れ入って御座いまする!……なれども、無知蒙昧の雑人の儀なれば、何分、御宥恕(ごゆうじょ)を相い願い奉りまする!……」

といった調子で、かの威儀を以って立ちはだかった――松平家の若い雑人の前に――うやうやしく丁寧親切に謝罪と寛恕を求め述べる松平家の初老の家老……

……すると

かの清正の霊の憑りついた人足、威儀を改め、

「――許シ難キ者ナレドモ――雜人ノ儀ナレバ――マタ、ソノ主人タル貴殿ノ、詫ビノ言葉モ、コレ、丁寧ナレバコソ、ユルシテツカワス!……」

と言い放ったかと思うと、

――コテン!

と倒れた。……

「……その後、二、三日の間は、かの人足の者、ぶらぶら病のようになって、全く以って正気ではない様子にて御座ったとのことじゃ。……」

とは、左近將監忠房殿のお話で御座った。

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