耳嚢 巻之六 十千散起立の事
本日より。根岸鎭衞「耳嚢 巻之六」を始動する。
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十千散起立の事
東都濱町に、小兒科の醫をなして數代世に聞(きこゆ)る印牧(いんまき)玄順といへるあり。其先(そのせん)は戰國にて御(おんてき)敵たる者の子孫にて、其主人沒落後、浪遊して抱(かかへ)る人なければ、或る醫師のもとに立寄(たちより)てたつきせしが、彼(かの)醫師、家傳に萬病散とかいへるを賣藥せしが、其奇效(きかう)いちじるしく、戰場にても多く需之(これをもとむる)故、右醫師に隨身(ずいじん)して其法を傳へけるが、其後印牧別になりて、師家の祕藥故(ゆゑ)同銘を遠慮して、十(じ)ウと千あわすれば萬なるといふ心にて、十千散と名附(なづけ)し由。今も彼(かの)家より出之(これをいだす)。予が子孫も右藥を用ひ、奇效ありしなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:前の「卷之五」掉尾は歯痛歯肉炎の民間薬で、医薬直連関。話の後半部、根岸にしてはかなりはっきりとした宣伝を狙っている感がある。巻頭で目立つ位置にあり、根岸の記録魔を聴きつけた印牧本人が伝家の秘薬を売り込んだという感じが、これ、なくもない。兎も角、根岸は医師の知人が妙に多い人物である。
・「東都濱町」両国橋下流の隅田川西岸の、現在の東京都中央区日本橋浜町の吸収された旧日本橋久松町の一部を除く一帯。
・「萬病散」底本の鈴木氏注に、『万病円に類する散薬か。万病円は解毒薬。』とある。江戸時代にあった、万病に効果があるという丸薬。宝暦五(一七五五)年刊「口合恵宝袋」に載る落語「万病円」などでも知られる。しかし、戦場で需要が高かったということは内服薬ではなく、金瘡などへの塗り薬のように思われるが、如何?
■やぶちゃん現代語訳
十千散起立(きりゅう)の事
江戸浜町に、小児科の医師を生業(なりわい)となし、数代に亙って世評も高き、印牧(いんまき)玄順と申すものが御座る。
印牧家と申すは、これ、その先(せん)、戦国の世にあっては徳川様の御敵(おんてき)たる者の子孫では御座ったが、先祖主人の没落の後、浪人となって抱えて呉れる御仁もなければ、とある醫師の元に雇われ、何とか糊口を凌いで御座ったと申す。彼の主人医師なる者は、これ、家伝の「万病散(まんびょうさん)」とか申すものをも売薬致いて御座ったが、その薬の神妙なる効能、これ、著しきものにてあれば、戦国も末の戦さ場にても数多(あまた)需要の御座った由。されば、かの主人医師につき従(したご)うて、また、その製法をも伝授されて御座ったれど、その後、印牧祖、この医師とは別れて独り立ち致いて御座ったと申す。されど、例の薬は元の師の家伝の秘薬なればこそ、同じ銘(めい)にて伝授の同薬を用うるは、これ、畏れ多いと遠慮致いて――「十」と「千」――これ合わすれば――元の秘薬の「万」となる――といふ謂いにて、「十千散(じっせんさん)」と名づけた由。
今も、かの印牧家より、これ、売って御座る。いや、私の子や孫もこの薬を普段よりよう用いており、まっこと、何にでも良う効くものにて御座る。