西東三鬼句集「變身」 昭和三十六(一九六一)年十月まで 一〇〇句 / 西東三鬼4句集 了
昭和三十六(一九六一)年十月まで 一〇〇句
かかる仕事冬濱の砂俵(ひょう)に詰め
[やぶちゃん注:「ひょう」は底本「ひよう」であるが、現代仮名遣統一の句集であるから、促音化した。]
冬日あり老盲漁夫の棒ぎれ杖
沖まで冬雙肩高き岩の鳶
應えなき冬濱の砂貧漁夫
老婆來て魚の血流す冬の灣
冬霧の鉛の濱に日本の子等
駄犬駄人冬日わかちて濱に臥す
冬濱に死を嗅ぎつけて掘る犬か
北風吹けば砂粒うごく失語の濱
廣島より漬菜到來
廣島漬菜まつさおなるに戰慄す
死の階は夜が一段落葉降る
みつめられ汚る裸婦像暖房に
冬眠の畑土撫でて人も眠げ
霜ひびき犬の死神犬に來し
木の實添へ犬の埋葬木に化(な)れと
吹雪を行く呼吸の孔を二つ開け
霜燒けの薔薇の蕾は嚙みて呑む
元日の猫に幹ありよぢ登る
元日の地に書く文字鳩ついばむ
けもの裂き魚裂き寒の地を流す
姉呼んで馳ける弟麥の針芽
寒の空半分黄色働く唄
實に直線寒山のトンネルは
死の輕さ小鳥の骸手より穴へ
大寒の炎え雲仰ぎ龜乾く
折鶴千羽寒夜飛び去る少女の死
[やぶちゃん注:この少女は被爆した少女で、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなっている佐々木禎子さん(一九四三年~一九五五年十月二十五日)であろうか。以下、ウィキの「佐々木禎子」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略、読点を追加した)。
《引用開始》
名前は父、母が元気に育つようにと願いをこめて、店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。[やぶちゃん注:彼女(長女)の両親は理髪店(りはつてん)を営んでいた。但し、父は出兵して不在であった。]
運動神経抜群で将来の夢は「中学校の体育の先生」になること。
一九四五年八月六日、二歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から一・七キロメートルの自宅で黒い雨により被爆した。同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。一九五四年八月の検査では異常なかった。また小学六年生の秋の運動会ではチームを一位に導き、その日付は一九五四年十月二十五日と記録されており、偶然にも自身の命日となるちょうど一年前であった。しかし、十一月頃より首のまわりにシコリができはじめ、一九五五年一月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、二月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明。長くても一年の命と診断され、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。
一九五五年八月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。八月の下旬に折った鶴は千羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人は「もう千羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。千羽折ったものの病気が回復することはなく、同年十月二十五日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。最後はお茶漬けを二口食べ「あー
おいしかった」と言い残し亡くなった。
死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に二、三羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。
禎子が生前、折った折り鶴の数は一三〇〇羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、一五〇〇羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋は「二千以上のようです」と語っている(二〇一〇年二月二十二日朝日新聞)。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が十二羽有った。その後創られた、多くの創話により千羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。
《引用終了》
因みに、本句との関係の有無は不詳であるが、オーストリアの児童文学作家カルル・ブルックナー(Karl Bruckner 一九〇六年~一九八六年)は一九六一年に佐々木禎子について描いた“Sadako will leben”(サダコは生きる)を出版している。この本は二十二の言語に翻訳され、一二二以上の国々で出版されている(日本語への翻訳は一九六四年に片岡啓治訳で「サダコは生きる―ある原爆少女の物語」として学研新書から出版された)。広島平和記念資料館平成十三(二〇〇一)年度第二回企画展「サダコと折り鶴」も併せて御覧になられたい。]
霰降り夜も降り顏を笑わしむ
鳶の輪の上に鳶の輪冬に捲く
腦弱き子等手をつなぎ冬の道
全しや寒の太陽猫の交尾
老いの屁と汗大寒のごみ車
月あゆみ氷柱の國に人は死す
寒の眉下大粒なみだ湧く泉
落ちしところが鷗の墓場寒き砂
死にてからび羽毛吹かるる冬鷗
岩海苔の笊を貴重に礁跳ぶ
うぐいすや引潮川の水速く
虻が來る女の蜜柑三角波
豆腐屋の笛に長鳴き犬の春
大干潟小粒の牡蠣を割り啜る
新宿御苑 七句
[やぶちゃん注:底本編者注に、『原形の六句表示は誤り』とある。なお、同年譜によれば、これは二月十二日のことで、山一句会の吟行であった。]
美男美女に異常乾燥期の園
枯芝を燒きたくて燒くてのひらほど
少年を枝にとまらせ春待つ木
飛行機よ薔薇の木に薔薇の芽のうずき
サボテン愛す春曉のミサ修し來て
喇叭高鳴らせ温室の大サボテン
蘭の花幽かに搖れて人に見す
埼玉縣吉見百穴 一〇句
卒業の大靴づかと靑荒地
貞操や春田土うれくつがえり
かげろうに消防車解體中も赤
芽吹く樹の前後抱きしめ女二人
老婆出て霞む百穴ただ見つむ
古代墳墓暗し古代のすみれ搖れ
百穴百の顏ありて復活祭
[やぶちゃん注:「復活祭」キリストの復活祭は移動祝日で、元来、太陰暦に従って決められた日であるから、太陽暦では年によって日付が変わる。グレゴリオ暦を用いる西方教会では、復活祭は三月二十二日から四月二十五日の間のいずれかの日曜日(ユリウス暦を用いる東方教会ではグレゴリオ暦の四月四日から五月八日の間のいずれかの日曜日)に祝われる。西方教会の日本福音ルーテル板橋教会HPの復活祭(イースター)一覧表に、この年一九六一年の復活祭はこの吟行(後注参照)の日、四月二日であった。]
聲のみの雲雀の天へ光る沼
みつまたの花嗅ぎ斷崖下の處女
春田深々刺して農夫を待てる鍬
[やぶちゃん注:底本の年譜によれば、同年四月二日、埼玉県吉見百穴へ『断崖』の吟行をし、帰途、新宿で数人と痛飲、とある。]
南多摩百草園 一〇句
婆手打つげんげ田あれば河あれば
ひげの鯉に噴出烈し五月の水
溝川に砂鐵きらめき五月來ぬ
青梅びつしり女と女手をつなぎ
初蟬の唄絶えしまま羊齒の國
熊ん蜂狂ひ藤房明日は果つ
峽畑に寸の農婦となり耕す
風靑し古うぐひすの歎きぶし
つつじ赤く白くて鳶の戀高し
初蟬や松を愛して雷死にし
椎匂う強烈な闇誰かを抱く
臀丸く葱坊主よりよるべなし
子が育つ靑蔦ひたと葉を重ね
薔薇の家犬が先づ死に老女死す
薔薇の家かつら外(はず)れし老女の死
奈良 八句
飛ぶものは白くて強し柳絮と蝶
青野に吹く鹿寄せ喇叭貸し給へ
突き上げて仔鹿乳呑む綠の森
乳房吸う仔鹿せせらぎ吸う母鹿
幼き聲々大仏殿にこもる五月
遠足隊わめき五月の森とび出す
藥師寺の尻切れとかげ水飮むよ
白砂眩し盲鑑眞は奧の奧に
[やぶちゃん注:年譜によれば、この年五月に関西に旅して、二十五日に奈良着、当日、薬師寺・飛火野(とぶひの。奈良市街の東、春日大社に接する林野。「とびひの」とも。池や沢などもあり,奈良公園に属する。七一二年に急を告げる烽火(のろし)が置かれた地で、万葉などの古歌にも詠まれた歌枕)・春日大社を歩き、二十六日には東大寺・正倉院付近を歩いて神戸へ発っている。]
出水後の日へ赤き蟹雙眼立て
子供の笛とろとろ炎天死の眠
日本の笑顏海にびつしり低空飛行
岩あれば濡れて原色の男女あり
岩礁の裸女よ血の一滴を舐め
飴ふくみ火山の方へ泳ぎ出す
魚ひそみ乳房あらはれ岩の島
市川流燈會 六句
[やぶちゃん注:これは千葉県市川市仏教連合会が毎年七月に催していた流燈会(灯籠流し)に寄せた句。底本年譜の七月二十九日の項に『市川に流灯会と花火を見に行く、夜「鶴」の句会に出る』とある。但し、その句会で作られた句かどうかは不明。]
流燈の夜も顏つけて印刻む
花火滅亡す七星ひややかに
遠雲の雷火に呼ばれ流燈達
流燈の列消しすすみ死の黑船
流燈の天愚かなる大花火
流燈の列へ拡聲器の濁み聲
松山 七句
呼吸合う五月の闇の燈臺光
船尾より日出船首に五月の闇
萬綠の上の吊り籠(ゴンドラ)昇天せよ
城攻める濃綠の中鷄鳴けり
城古び五月の孔雀身がかゆし
天守閣の四望に四大黄麥原
麥刈りやハモニカへ幼女の肺活量
[やぶちゃん注:この句群は時間が巻き戻っている。先の関西行の一つで、例の奈良から神戸へ帰った五月二十六日夜、船で松山へ向かい、翌朝九時に松山着、その日の午後には『炎昼』の句会をこなし、二十八日砥部(とべ)窯場(砥部焼は愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器で別名、喧嘩器とも呼ばれる)を見学、二十九日に松本城・道後温泉に遊び、三十日には蛸壺漁などもしている。三十一日夜十一時に乗船して、翌六月一日朝九時に神戸帰着、その日のうちに、大阪で人に会い、午後、『天狼』発行所に立ち寄り、夜、十一時に葉山の自宅に帰った。当時、満六十一歳、もの凄い、パワーである。]
あとがき
この句集は前句集「今日」以後の一〇七三句から成り、昭和二十六年秋から昭和三十六年秋まで、紛十年間の作品である。この間に十數年を過した關西から神奈川縣葉山に移住した。職業も齒科醫をやめ、いわゆる專門俳人になった。背水の陣である。それにもかかわらず、作品に精彩を缺くとせば、ただ自らの才能貧しきが故とせねばならない。
この句集が突如刊行のはこびに至ったのは、昭和三十六年十月、私が胃癌の手術をうけ、餘病を發して危篤に陷った時、かけつけて來られた友人諸兄の協議によるのである。遺著にもなるべかりし句集を、命びろいして机上に置き得るのも運命というものであろう。
この句集刊行の事に當られた友人諸兄に、心からなるお禮を申上げる。
昭和三十六年歳晩
著者
[やぶちゃん注:底本年譜によれば、同年八月上旬から胃の具合が悪くなり、九月に入ってレントゲンや検査を複数回受け、十九日に横浜市立大学附属病院で胃癌の疑い濃厚で切開手術の要ありと診断された(この間もその後も各種俳句大会や会議、恒例になっていた少年院訪問、さらに評論執筆など、実に精力的に動いている)。十月二日、横浜市立大学附属病院入院、病名、胃癌。九日、術式(午前九時開始、午後一時半終了)。十一月九日、退院(この間、十一月四日の『天狼』名古屋大会の挨拶を録音している)。十二月十六日の退院後の初めての外出先は久里浜少年院であった。二十日、東京の山一句会に出席、俳人協会設立に参加、とある。]
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これで、西東三鬼が生前に出した四冊の句集は総て電子化した。