耳囊 卷之六 奇石鳴動の事
奇石鳴動の事
享和二年夏、或人きたりて語りけるは、此頃田村家の庭に石あり其あたりは人も立よらざる事と云々。其所謂(いはれ)を尋しに、往昔(わうせき)元錄の頃、淺野内匠頭營中狼籍の罪にて、田村家へ御預けとなり、右庭上にて切腹の跡へ、大石を置(おき)て印とせし由。其頃本家仙臺より、諸侯を庭上に切腹、其禮失へりと、暫(しばらく)勘發(かんほつ)ありし由。當年いかなる譯故、右石鳴動せしや、其意は不分(わからず)と。奇談故、爰にしるしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。「大石」は洒落かい?
・「享和二年」西暦一八〇二年。本「卷之六」の執筆下限は文化元(一八〇四)年七月までであるから、凡そ二年前の新しい都市伝説である。
・「田村家」この当時は陸奥一関藩第六代藩主田村宗顕(むねあき 天明四(一七八四)年~文政一〇(一八二七)年)が当主。江戸藩邸は芝愛宕町(現在の港区新橋四丁目)にあった。同藩初代藩主田村建顕(たつあき 明暦二年(一六五六)年~宝永五(一七〇八)年)が奏者番であった元禄一四(一七〇一)年三月十三日に播磨赤穂藩主の浅野長矩が刃傷事件を起こした(巳の下刻・現在の午前十一時四十分頃)、が、この際、その日のうちに(不浄門平川口門を出たのは午後三時五十分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、より江戸城を出ると芝愛宕下(老中の土屋政直の命で長矩の身柄を芝のこの屋敷で預かり、大目付庄田安利の指示によって邸内の庭で翌三月十四日夕刻に切腹を務めさせた。この扱いをめぐって長矩の本家広島藩主浅野綱長及び建顕の本家仙台藩主伊達綱村(建顕は元禄八(一六九五)年に宮床伊達氏の当主伊達村房(後の伊達吉村)を養子に迎えるが、幕府に届け出る前に彼は当時の仙台藩主伊達綱村の養子に変更された)から抗議を受けている(因みに、この抗議や浅野びいきによって八月二十一日、大目付庄田安利は吉良上野介義央(よしひさ)に近い旗本達とともに勤務不行届として罷免され小普請入、その後も役職復帰出来ずに宝永二(一七〇五)年、失意のうちに享年五十六で死去している。以上はウィキのそれぞれの人物の記載を参照した)。本記載時は、既に事件から実に一〇一年が経過している。
・「勘發」「かんぼつ」とも読む。過失を責めること。譴責。
■やぶちゃん現代語訳
奇石鳴動の事
享和二年夏、ある人が来たって語ったことには、この頃、田村宗顕(むねあき)殿御屋敷の庭にある石の辺りにては、誰(たれ)一人、立ち寄らざるとのこと、巷で頻りに噂となって御座る由。
その謂われを尋ねたところが、去(いん)ぬる元禄の頃、淺野内匠頭殿、殿中狼籍の罪にて、田村家へ御預けとなり、その御庭にて切腹、その跡へ、大石を置き、かの印(しるし)と致いて御座った由。
また、その頃、本家の仙台伊達綱村殿より、
「大名を庭上にてみすみす切腹させ畢(おわ)んぬること、これ、甚だ礼を失せり。」
と、暫くは強う、その仕儀への譴責の御座ったとも申す。
さても、百年を過ぎたる当年、いかなる訳かは存ぜねど、かの印の石の、俄かに鳴動したるは、これ、その真意、不分明なり、との由で御座る。
奇談なれば、ここに記しおくことと致す。