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2013/01/02

北條九代記 梶原平三景時滅亡

      ○梶原平三景時滅亡

同十二月九日梶原軍三景時潜(ひそか)に鎌倉に歸りし所に、日比連々(れんれん)御沙汰あり。和田義盛、三浦義村に奉行仰(おほせ)付けられ. 景時は鎌倉を追出されければ、力及ばず、相州一の宮に赴きけり。年來(としごろ)住(すみ)慣れし家をば破却して、永福寺の僧坊に寄附せらる。年こゝに改りて、正治二年正月二十日梶原景時京都を心ざし、子息、郎從三十餘人駿河國清見關(きよみがせき)に至る。近隣の甲乙人等的矢(まとや)射ける歸るさに、景時はしたなく行合(ゆきあひ)ける所に笠を傾(かたぶ)け、忍びて乘打(のりうち)しけり。芦原(あしはらの)小次郎、工藤八郎、三澤小次郎、飯田五郎頻(しきり)に追(おひ)掛けて、矢を射掛けたり。景時狐崎(きつねざき)にして返合(かへしあは)せ「何者なれば、梶原景時に向うて矢を發(はな)つぞ。緩怠(くわんたい)無禮の奴原(やつばら)、一々に頭(かうべ)を刎(は)ぬべし」といひければ、芦原申しけるは、「梶原にてもあれ、械原(かいはら)にてもあれ、この侍の中を割りて乘打し、而も忍びたる體裁(ていたらく)いかさま用ありと覺えたり。一人ものがすまじ」とて、互(たがひ)に刄(やいば)を交へて、相戰ふ所に、飯田四郎討たれたり。その聞に芦原小太郎強く進んで、梶原六郎景國、同八郎景則が首を取る。吉高(きつかうの)小次郎、澁河(しぶかはの)次郎、船越三郎、矢部小次郎等聞(きゝ)付けて、一族郎從殘らず引率して駆(はせ)付けれども、梶原方は爰を最後と轡(くつばみ)をならべ、鏃(やじり)を揃へて散々に防ぎ戰ふに、射伏せられ、切倒(きりたふ)さるま者多かりければ、芦原、工藤等(ら)開(ひらき)靡きて、辟易す。されども當國の御家人等(ら)聞(きゝ)傳へ聞(きゝ)傳へて競ひ集(あつま)りしかば、七郎景宗、九郎景連も工藤八郎に討(うち)取られ家子(いへのこ)郎等或は打(うち)取られ、或は深手負ひければ、景時、嫡子源太景季、二男平次(へいじ)景高三人連れて、後(うしろ)の山に引入て自害して、首級は郎等共木葉の下に埋(うづみ)置きしを、隈もなく捜出(さがしいだ)し、主從三十三人が首を路頭に梟(か)けて、札(ふだ)を立て、合戰の記録を鎌倉に注進す。その外餘黨多く、或は生捕(いけどり)或は討(うち)取る。洛中にも同意の者多く、景時九州に下り、平氏の餘類を語(かたら)ひ、天下を覆さんと計りし事その隱(かくれ)是(これ)なし。されども運命の極る所、一旦に亡(ほろび)果てたり。世にある時は飛龍(ひりやう)の雲を起して、大虛に蟠屈(ばんくつ)するが如く、諸人その咳唾(がいだ)を拾うて、※1睞(めんらい)の恩を望みしかども、權勢盡きて、威光消えぬれば、窮鳥の翅(つばさ)を※2(そが)れて、羅網(らまう)に榮纏(えいてん)せらるゝに似たり。甲乙彼(かの)積惡を憎みて、宿意の恨(うらみ)を報ぜんとす。此所(ここ)に至つて門族滅亡し、尸(かばね)を路徑(ろけい)に曝す事は自業(じがふ)の招く恥とはいひながら無慙(むざん)なりし事共なり。

[やぶちゃん注:「※1」=「耳」+「丐」、「※2」=「金」+「殺」。「吾妻鏡」巻十六の正治元(一一九九)年十二月九日・十八日、正治二年一月二十日・二十一日などに基づく。変の勃発から三日間を続けて見よう。

《景時上洛の噂/梶原一族、狐ヶ崎にて地元武士団と衝突》

〇原文

廿日丁未。晴。辰剋。原宗三郎進飛脚。申云。梶原平三郎景時。此間於當國一宮搆城郭。備防戰之儀。人以成恠之處。去夜丑剋。相伴子息等。倫遜出此所。是企謀反。有上洛聞云々。仍北條殿。兵庫頭。大夫属入道等參御所。有沙汰。爲追罸之。被遣三浦兵衞尉。比企兵衞尉。糟谷藤太兵衞尉。工藤小次郎已下軍兵也。亥剋。景時父子到駿河國淸見關。而其近隣甲乙人等爲射的群集。及退散之期。景時相逢途中。彼輩恠之。射懸箭。仍廬原小次郎。工藤八郎。三澤小次郎。飯田五郎追之。景時返合于狐崎。相戰之處。飯田四郎等二人被討取畢。又吉香小次郎。澁河次郎。船越三郎。矢部小次郎。馳加于廬原。吉香相逢于梶原三郎兵衞尉景茂。〔年卅四〕互令名謁攻戰。共以討死。其後。六郎景國。七郎景宗。八郎景則。九郎景連等並轡調鏃之間。挑戰難决勝負。然而漸當國御家人等竸集。遂誅彼兄弟四人。又景時幷嫡子源太左衞門尉景季。〔年卅九〕同弟平次左衞門尉景高。〔年卅六〕引後山相戰。而景時。景高。景則等雖貽死骸。不獲其首云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿日丁未。晴る。辰の剋、原宗三郎、飛脚を進じて、申して云はく、「梶原平三郎景時、此の間、當國一宮に於いて城郭を搆へ、防戰の儀に備ふ。人、以つて恠(あや)しみ成すの處、去ぬる夜、丑の剋、子息等を相ひ伴ひ、倫(ひそ)かに此の所を遜(のが)れ出づ。是れ、謀反を企て、上洛の聞え有り。」と云々。

仍つて北條殿・兵庫頭・大夫属入道等、御所へ參り、沙汰有り。之を追罸せんが爲に、三浦兵衞尉、比企兵衞尉、糟谷藤太兵衞尉、工藤小次郎已下の軍兵を遣はさるるなり。亥の剋、景時父子、駿河國淸見關(きよみがせき)に到る。而るに其の近隣の甲乙人等、射的が爲、群集(ぐんじゆ)す。退散の期(ご)に及び、景時、途中に相ひ逢ふ。彼の輩、之を恠しみ、箭(や)を射懸く。仍つて廬原小次郎・工藤八郎・三澤小次郎・飯田五郎、之を追ふ。景時、狐崎(きつねがさき)に返し合はせて、相ひ戰ふの處、飯田四郎等、二人討ち取られ畢んぬ。又、吉香(きつかう)小次郎・澁河次郎・船越三郎・矢部小次郎、廬原に馳せ加はり、吉香、梶原三郎兵衞尉景茂〔年卅四。〕に相ひ逢ふ。互ひに名謁(なの)らしめて攻戰す。共に以つて討死す。其の後、六郎景國・七郎景宗・八郎景則・九郎景連等、轡(くつばみ)を並べ鏃(やじり)を調(そろ)ふるの間、挑み戰ひ、勝負を决し難し。然れども、漸く當國の御家人等、竸(きそ)ひ集まり、遂に彼の兄弟四人を誅す。又、景時幷びに嫡子源太左衞門尉景季〔年卅九〕・同弟平次左衞門尉景高〔年卅六〕、後ろの山に引き相ひ戰ふ。而るに景時・景高・景則等。死骸を貽(のこ)すと雖も、其の首を獲(え)ずと云々。

・「原宗三郎」原宗房。以下、順に示す。「北條殿」北条時政。「兵庫頭」大江広元。「大夫属入道」三善善信。「三浦兵衞尉」三浦義村。「比企右衞門尉」比企能員。「糟谷藤太兵衞尉」糟谷有季。「工藤小二郎」工藤行光。

・「淸見關」現在の静岡県静岡市清水区興津清見寺町。

・「飯田五郎」飯田家義。

・「狐崎」静岡県静岡市清水区に静岡鉄道「狐ケ崎駅」がある(グーグル・マップ・データ)。JR清水駅の西南西約三キロメートル(海岸線ではない)。

・「吉香小次郎」吉川友兼。

・「飯田四郎」別本では飯田次郎とする。 

《景時以下、梶原係累家臣三十三名梟首》

〇原文

廿一日戊申。巳剋。於山中搜出景時幷子息二人之首。凡伴類三十三人。懸頸於路頭云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日戊申。巳の剋、山中に於いて景時并びに子息二人の首を搜し出だす。凡そ伴の類三十三人、頸を路頭に懸くと云々。

 

《三浦義澄》

〇原文

廿三日庚戌。相摸介平朝臣義澄卒。〔年七十四〕三浦大介義明男。

酉剋。駿河國住人幷發遣軍士等參着。各献合戰記録。廣元朝臣於御前讀申之。其記云。

 正治二年正月廿日於駿河國。追罸景時父子同家子郎等事

一 廬原小次郎最前追責之。討取梶原六郎。同八郎

一 飯田五郎〔手ニ〕   討取二人。〔景茂郎等〕

一 吉香小次郎      討取三郎兵衞尉景茂。〔手討〕

一 澁河次郎〔手ニ〕   討取梶原平三家子四人。

一 矢部平次〔手ニ〕   討取源太左衞門尉。平二左衞門尉。狩野兵衞尉。已上三人。

一 矢部小次郎      討取平三。

一 三澤小次郎      討取平三武者。

一 船越三郎       討取家子一人。

一 大内小次郎      討取郎等一人。

一 工藤八〔手ニ〕工藤六  討取梶原九郎。

    正月廿一日

人々云。景時兼日。駿河國内吉香小次郎。第一勇士也。密若欲上洛之時。於過彼男家前者。不可有怖畏之由發言云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿三日庚戌。相摸介平朝臣義澄卒す〔年七十四〕。三浦大介義明が男。

酉の剋、駿河國住人幷びに發遣の軍士等、參着す。各々合戰の記録を献ず。廣元朝臣、御前に於いて之を讀み申す。其の記に云はく、

 正治二年正月廿日、駿河國に於いて、景時父子、同家子(いへのこ)郎等を追罸する事。

一 廬原小次郎、最前に之を追ひ責め、梶原六郎・同八郎を討ち取る。

一 飯田五郎が〔手に〕、二人〔景茂が郎等。〕を討ち取る。

一 吉香小次郎、三郎兵衞尉景茂を討ち取る〔手討〕。

一 澁河次郎が〔手に〕、梶原平三が家子四人を討ち取る。

一 矢部平次が〔手に〕、源太左衞門尉・平二左衞門尉・狩野(かのう)兵衞尉、已上、三人を討ち取る。

一 矢部小次郎、平三を討ち取る。

一 三澤小次郎、平三が武者を討ち取る。

一 船越三郎、家子一人を討ち取る。

一 大内小次郎、郎等一人を討ち取る。

一 工藤八が〔手に〕工藤六、梶原九郎を討ち取る。

    正月廿一日

人々云はく、「景時兼日、駿河國内吉香小次郎は、第一の勇士なり。密かに若し、上洛を欲するの時、彼の男の家の前を過ぐるにおいては、怖畏(ふい)有るべからず。」の由、發言すと云々。

・「相摸介平朝臣義澄」三浦義澄。この日に病没した。梶原景時の変では景時の鎌倉追放を支持した。享年七十四歳。

・「梶原六郎・同八郎」景時息の梶原景国と梶原景則。

・「手討」白兵戦での刀剣によるもの。当時は馬上での弓矢による討ち取りが圧倒的に多かったことを意味している。

・「源太左衛門尉」景時長男梶原景季。

・「平次左衛門尉」景時次男梶原景高。

・「狩野兵衞尉」狩野太郎兵衛重宗か。稲毛重成の兄で梶原景時娘を妻とした稲毛重忠の子という。

・「工藤八が〔手に〕工藤六」というのは、工藤八郎の手によって〔それに工藤六郎が助太刀して〕、の意であろう。

・「梶原九郎」景時息の景連。


「械原」この「械」には、罪人の手足に嵌めて自由を奪う木製の刑具の意がある。挑発的な謂いであったか。

 景時の謀叛の企てが最後に記されているが、これは例えば「吾妻鏡」のその後の記事、同年正月二十八日の条で武田信光(伊沢信光)から、景時は朝廷から九州諸国の総司令に任命されたと称して上洛、甲斐源氏の棟梁武田有義を将軍に奉じて反乱を目論んだというまことしやかな報告が載るが、信じ難い。土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持っていた景時は、幕府に見限られた以上、公家附の武士として朝廷に仕えようとしたものと見られる。寧ろ、狐ヶ崎での突発的なトラブルの挑発方の方が怪しい。ウィキの「梶原景時の変」には、『景時一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付けた女官の阿波局は時政の娘で、実朝の乳母であった。この事件では御家人達の影に隠れた形となっているが、景時追放はその後続く北条氏による有力御家人排除の嚆矢とされる』とある。

「大虛」大空。

「咳唾を拾う」「咳唾」は咳払い。「咳唾(がいだ)珠(たま)を成す」の故事(本来は、何気なく口をついて出るちょっとした言葉でさえ珠玉の名言となるの意から、詩文の才能が極めて豊かであることを言う)に引っ掛け、景時の一言一句に御世辞を言うこと。

「※1睞(めんらい)」「※1」=「耳」+「丐」。不詳。「眄」なら、流し目で見る、「睞」は横目で見る、であるから、ちょとでも目を懸けて貰う、の謂いか。

「※2(そが)れて」「※2」=「金」+「殺」。「殺(そ)ぐ」と同意であろう。

「羅網に榮纏せらるゝ」カスミ網に絡め獲られる。]

 

 

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