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2013/01/29

耳嚢 巻之六 物の師其心底格別なる事

 物の師其心底格別なる事

 

 享保の末、元文寛保の頃なりし。鑓劍(さうけん)の師範せし吉田彌五右衞門龍翁齋といへるありしが、弟子もあまたありて師範も手廣くなしけるが、又其頃、是も素鑓(すやり)の師範せし浪人山本雪窓と云ふもの、同じく牛込にありて、年も七十餘にて門弟も少々はありしが、至(いたつ)て貧窮にて渡世なしけるを、彌五右衞門弟子石岡千八といへる剛氣もの、雪窓方へ至り、龍翁齋の門弟にて印可も申請候得(まうしうけさふらえ)ども、他流の立會も不致間(いたさざるあいだ)、兼て承り及び候間、立合呉(くれ)候樣いたし度(たし)と申ければ、雪窓も打笑ひて、兼て彌五右衞門は師範も廣くいたされ、流儀の樣子も粗承及(ほぼうけたまはりおよび)候處、面白き事にて上手の由承りをよび候、我等は老年に及び殊に藝も未熟故、なかなか各(おのおの)と立合候やう成(なる)事には無之(これなく)、未鍊比興(みれんひきやう)にも可被存(ぞんぜられべく)候得ども、浪人のすぎわい外に無之(これなき)故、執心の人には師範いたしすぎわひに致(いたし)候間、仕合等の儀御免の樣(やう)いたし度(たき)旨、和らかに述ければ、千八もせん方なく立歸り、彌五右衞門稽古場へ出(いで)、雪窓はさてさて役にたゝざる師匠にて、かくかくの事なりとあざけり語りけるを、彌五右衞門聞(きき)て大(おほい)に憤り、武藝は其身の爲に修行なして、なんぞ他の批判勝劣を爭ふべきや、其方(そのはう)は雪窓に勝(かち)候心得に有(ある)べけれど左にあらず、雪窓に慰さまれたるなり、是より雪窓方へ參り、先刻の不調法後悔いたし候由を申、幾重にも侘いたし可然(しかるべし)、其儀難成(なりがたく)候はゞ以來破門の趣(おもむき)、急度(きつと)申ける故、千八も實に後悔の樣子なれど、尚(なほ)すまざるや、三男なりける鑓次郎差添(さしそへ)て雪窓方へ千八を遣はし佗させけるに、かゝる勇剛の心あれば、さこそ藝も被勵候畢(はげまれさふらはん)、能き御弟子なり、いさゝか雪窓心にかけざると、よくよく彌五右衞門へも達し給(たまひ)候樣申けると也。雪窓は一生浪人にておわりけるが、悴(せがれ)は當時大家へ被抱(かかへられ)、鑓術(さうじゆつ)の師範致しけると、彌五右衞門三男鑓之助、當時吉田一帆齋とて鑓術の師をなしけるが、右一帆齋かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関;感じさせない。本格武辺物。

・「享保の末、元文寛保の頃」享保は二十一(一七三六)年に元文に改元しているから、享保十八(一七三三)年頃から延享元・寛保四(一七四四)年までの間となる。

・「吉田彌五右衞門龍翁齋」作家隆慶一郎氏の公式サイト「隆慶一郎わーるど」の資料にある、清水礫洲(れきしゅう 寛政一一(一七九九)年~安政六(一八五九)年)は江戸生まれの儒者であるが、槍術剣術などの武術に優れ、沼田逸平次について伊勢流武家故実を修めた。天保一二 (一八四一) 年より伊勢長島藩藩儒として仕えた。)の「ありやなしや」に、礫洲が指南を受けた槍術として、酒井要人なる人物を掲げ(引用はリンク先のものを恣意的に正字化した)、

酒井要人(此頃は牛が淵櫻井藏之介地面に住す。顯祖。名正徳。字俊藏。號赤城山人。又淡菴。上毛人。謙山先生第二子。嘉永三年五月歿。齡八十三。葬小石川小日向日輪寺。配安平氏生四男一女。長即先人。次曰正則。次曰正順。出冐大橋氏。李曰正春。本編跋文其所撰也。女適村田氏。文久中。幕府建武場。養子要人。與淸水正熾等同徴。爲槍術教授)これはもと濱松水野家(遠江濱松水野越前守)の浪人吉田彌五右衞門といへるの高弟にて、小野派一刀流劍術、高田派寶藏院流槍術を指南す。御旗本に數百人の門弟あり。先人の門人なれば、余も若年には二術ともにその人に學べり。後に小川町今川小路に轉宅せり。今の要人は養子なり。

とあり、この「吉田彌五右衞門龍翁齋」なる人物が浜松水野家の浪人であったこと、高田派宝蔵院流槍術の師範であったこと、その高弟が「御旗本に數百人の門弟あり」とあるのだから、その師が相当な遣い手であったことが偲ばれる。

・「未鍊比興」未練卑怯に同じい。「卑怯」は元来は「比興」と書くのが正しいともされる。

・「三男なりける鑓次郎」「彌五右衞門三男鑓之助」底本では、それぞれの通称部分の右に『(ママ)』表記あり。武士の名はしばしば改名されたし、必ずしも次男が次郎という訳でもないので、そのまま用いた。なお、この「吉田一帆齋」なる人物については、「広島県史 近世2」に、

一帆斎流

 天明~寛政期に吉田一帆斎という浪人が広島城下で剣・槍・長刀を教え、時の藩主、浅野重晟もその業前を見たという。

とある(個人ブログ「無双神伝英信流 渋川一流…道標」の広島の剣術流派 3から孫引き)。浅野重晟(しげあきら 寛保三(一七四三)年~文化一〇(一八一四)年)は安芸広島藩第七代藩主。事蹟的にも時間的にも齟齬はない。この自ら新流を起こした人物と同一人であろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 如何なるものにてもその師なる御仁のその心底は格別である事

 

 享保の末、元文・寛保の頃のことと申す。

 鑓剣(そうけん)の師範たる吉田弥五右衛門龍翁斎と申す御仁が御座った。弟子もあまたあって、師範として指導も手広く勤めて御座った。

 またその頃、これも素鑓(すやり)の師範を致いておった浪人山本雪窓と申す御仁が、同じく牛込にあった。雪窓殿は、これもう、齢(よわい)、七十余りにて、門弟も少しはあったものの、こちらは、至って貧窮にて、渡世して御座ったと申す。

 さて、ここに、弥五右衛門殿の弟子石岡千八と申す剛毅の者が御座ったが、或る日、雪窓方へ至り、

「――龍翁斎の門弟にて印可も申し請けておりまする者なれど、他流との立ち合い、これ、かつて致さざるゆえ、兼ねてより、雪窓殿が御名声、承り及んで御座るによって、お立ち合い下さるよう、お願いに参上致いた!」

と申したところ、雪窓、うち笑(わろ)うて言うことに、

「……兼ねて弥五右衛門殿は師範も手広く致され、その高田派宝蔵院流槍術流儀も、ほぼ承り及んで御座る。……それはもう、心惹かるるほどの上手の由、承って御座る。……我らは、これ、老年に及び、しかも、ことに鑓の芸なんども未熟なればこそ……なかなか、他流の御方々とも立ち合い致すようなる分際にてはこれなく……未練にして卑怯なる者ともお思いにならるるものかとは存ずるが……我らの素鑓の指南は、これ、貧乏浪人の生業(なりわい)以外のなにものにても御座なく、鑓術好きで、たってと言わるる御仁に形ばかりの師範を致すという程度の……まあ、食い扶持を得んがための生業として、ぼんくら鑓を振り回しておる輩(やから)に過ぎざる者なれば……試合の儀は、これ、何卒、ひらに御免下さるよう、お願い申し上ぐる……」

といったことを、実に和(なご)やかに述べて辞したによって、千八も、詮方なく、立ち歸って御座ったと申す。

 さて、千八儀、そのまま弥五右衛門方の稽古場へ出でて、

「――かの噂に聴いた雪窓なる御仁、これ、さてさて、役にたたぬ老い耄れお師匠(っしょう)さまにて、他流試合を申し込んだら、かくかくの体(てい)たらくじゃったわ! ハハハ!」

と同門の仲間に嘲り語って御座ったを、弥五右衞門が耳にし、大いに憤り、

「――武芸はその身のために修行をなすものじゃ! これ、他流他者を批判致し、その技の勝劣を爭うことが目指すにては、これ、ない!――その方は、今、雪窓に勝った――と心得ておるようなれど――さにあらず! その方は、雪窓に、その根本の誤りを、これ、体(てい)よく、宥(なだ)められたに過ぎぬ!――さても! これより雪窓方へ参り、『先刻の不調法後悔致し候』由を申し、幾重にも詫び致いて然るべし!――もし――その儀なり難しと申さば――以後、破門の儀、急度(きっと)申しつくるものなり!!」

と、激しく叱咤された。

 この師匠の言葉に突かれて、千八も心より後悔致いた様子にて、即座に雪窓方へと参らんとしたが、弥五右衞門はなお、それでも気が済まざるものが御座ったものか、自身の懐刀三男鑓次郎を千八にさし添えさせ、同道の上、雪窓方へ千八を遣わし。詫びを入れさせたと申す。

 しかし、迎えた雪窓は、

「……かかる勇猛剛毅なる心を持っておらるるとならば、さぞ、鑓の芸も大いに励んで、相応の技を体得なさっておらるることと拝察致いた。まっこと、貴殿はよき御弟子にて御座る。……聊かも、雪窓、気にはして御座らぬ由、よくよく、彌五右衛門殿へもお達し給はるるように。……」

と申されたとのことで御座った。

 この雪窓殿は、遂に生涯、浪人にて終わられたが、その悴(せがれ)と申すは、当時の大家へ抱えられ、鑓術の師範役となった。

――弥五右衛門三男鑓之助、号して当時、吉田一帆齋――

比類なき鑓術の師範にて御座った。

 以上は、その一帆斎殿御自身が語られた話で御座る。

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