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2013/01/23

北條九代記 太輔房源性異僧に遇ふ算術奇特 付 安倍晴明が奇特

      ○太輔房源性異僧に遇ふ算術奇特  安倍晴明が奇特

將軍賴家卿、御行跡(こうせき)雅意(がい)に任せ、政道の事は露計(ばかり)も御心に入れられず。只朝夕は近習の五六輩を友とし、色に※じ、酒に長じ、或は逍遙漁獵(ぎよれう)に日を送り、或は伎術(ぎじゅつ)薄藝に夜を明し給ひければ、上(かみ)の好む所、下これに效(なら)ひ、技能藝術の道を履(ふ)む者、四方より集(あつま)り、鎌倉中に留つて、世を謟(へつら)ひ人に媚び、恩賜を望み、輕薄を致す。此所(こゝ)に大輔房(たいふばう)源性とて、本(もと)は京師の間に住宅し、仙洞に伺候して、進士(しんじ)左衞門尉源整子(まさこ)と號す。儒流の文を學し、翰墨の字を練り、高野大師五筆の祕奥を傳へたり。垂露偃波(すいろえんは)の點(てん)、囘鸞翩鵲(くわいらんへんじやく)の畫(くわく)、蝌斗(くわと)、龍書(れうしよ)、慶雲(けいうん)、鳳書(ほうしよ)皆以て骨法を得たりと傍若無人に自稱を吐散(はきちら)し、「蔡邕(さいいう)は飛(とん)で白からず、羲之(ぎし)は白くして飛(とば)ず」なんど云ひわたり、後に入道して、太輔房源性と名付け、關東に下りて將軍家に召出だされ、近侍出頭殆(ほとんど)時めきけり。然のみならず蹴鞠は殊に賴家卿好ませ給ふ。源性又この藝を得て、毎度御詰にぞ參りける、利口才學の致す所にや。算術の藝は當時無雙(ふさう)なり。況や田頭里坪(でんとうりひやう)の積(つもり)、高低長短の漢、段歩畦境(たんほけいきやう)、其(その)眼力(がんりよく)の及ぶ所(ところ)分寸をも違へずと世の人是(これ)をもてはやす。漢の洛下閎(らくかくわう)、唐の一行、本朝曆算に妙を得たる安倍晴明と云ふとも、是より外には出づべからずと、慢相(まんさう)尤(もつとも)顯(あきらか)なり。此比奥州伊達郡(だてのこほり)に境目(さかいめ)の相論あり。其實檢の爲源性をぞ遣されける。幾程經ずして鎌倉に下向し、將軍家の御前に出でたりければ、奥州の事共尋仰せらる。源性物語申しけるは「今度奥州下向の次(ついで)に松島を見ばやと存じて、彼處(かしこ)に赴き候處に、一人の老僧あつて草菴の内にあり、日暮(ひく)れ、里遠(とほか)りければ、案内して一夜の宿を借りけるに、主の僧心ありて、粟飯(あはいひ)を炊(かし)き、柏の葉に盛りて、旅の疲(つかれ)を助(たすけ)たり。夜もすがら種々の法門を談ずるに、皆その奥義を現す。翌朝(よくてう)この僧云ふやう、我は天下第一の算師なり。樹頭(じゆとう)の棗(なつめ)を數へ、洞中(とうちう)の木を計る、是等はいと安(やすか)りなん。たとひ龍猛大士(りうみやうだいし)の行ひ給ひし隱形(おんぎやう)の算と云ふとも理(り)を盡し置き渡たさんに難らずと語る。源性是を聞くに慢心起りて思ふ樣、かゝる荒涼の言葉は誠に蠡測井蛙(いしよくせいあ)の心なり、流石、遠(とほ)田舍に住(すみ)慣れて、土民百姓の耳を欺く曲(くせ)なるべし。源性が算術をもとくべき人は世には覺えぬものを、と侮りける。其心根や色に出けん、彼の僧重て云ふやう、只今常座を改めず、速(すみやか)に驗(しるし)を見すべしとて、算木(さんぎ)を取りて、源牲が座の圍(めぐり)に置き渡すに、源性忽(たちまち)に心耄(ほ)れ、神(たましひ)暗みて、朦霧(もうむ)の中にあるが如く、四方甚(はなはだ)暗く、草菴の内總て變じて大海となる。圓座は化して盤石(ばんじやく)となり、飄風(へうふう)吹(ふき)起り、怒浪(どらう)、聲(こえ)急なり。忙然として、是非に惑ふ。既に死せりや、死せざるや、生死(しやうじ)の間(あいだ)辨(わきまへ)難し。時尅(じこく)を移して主の僧の聲として、慢心今は後悔ありやと、源性大に恐服(おそれふく)して、頗る後悔の由云ひければ、言葉の下に心神(しんじん)潔く夢の覺(さめ)たるが如くにして、白日、窓に輝けり。餘(あまり)の奇特(きどく)を感歎し、傳受の望(のぞみ)を致せしに、末世の下根に於ては授(さづけ)難き神術なり、今は疾々(とくとく)出でて歸れと勸めける程に、三拜して別れたり」と申す。賴家卿聞(きき)給ひ、「その僧を伴(ともなひ)來らざるこそ越度(をつど)なれ。何條狐に妖(ばか)されたるらん」と、さして奇特の御感もなし。古(いにしへ)安倍晴明は天文の博士(はかせ)として、算術に妙を得たり。或時、禁中に參りける、庚申の夜なりければ、若殿上人多く參り集り給ひ、寢(ね)ぬ夜の御慰(なぐさみ)樣々なり。晴明を召して「何ぞ面白からん事仕出して見せよ」と仰(おほせ)あり。「さらば今夜の興を催し、人々を笑はせ奉らん。構(かまへ)て悔み給ふまじきや」と申ければ、「算術にて人を笑せん事、いか樣にすともあるべき業(わざ)ならず。仕(つかまつり)損じたらんには賭物(かけもの)を出(いだ)せ」と仰あり、「畏(かしこま)り候」とて算木を取出しつゝ、座の前にさらさらと置き渡したりければ、何となく目に見ゆる者もあらで、座中の人々可笑(をかしく)なりて頻(しきり)に笑ひ出で給ふ。止めんとすれども叶はず。坐(そゞろ)に笑(わらは)れて頤(おとがひ)を解き腹を捧(さゝ)げ、後には物をもえ云はず、腹筋(はらすぢ)の切る計になりつゝ轉(ころび)を打ちても、可笑さは愈(いや)優(まさ)りなり。人々涙を流し手を合せて頷(うなづ)き給ふ。「さては笑(わらひ)飽きたまへり。急ぎ止(とゞ)め奉らん」とて算木を疊み侍りしかば、可笑さ打(うち)醒めて何の事もなかりけり。人々奇特を感じ給へりとかや。算法(さんぱう)の不思議はかゝる事共少からず、彼の源性が僅(わづか)に物の積(つもり)を辨へ、田歩の廣狹(くわうけう)を知るを以て、慢心自稱を吐散らす、小智薄術を戒めて、かゝる奇特を現しけん。松島の僧と云ふは狐魅(こみ)の所行か、天狗の所爲(しよゐ)か、重(かさね)て尋ねらるれども、僧の行方(ゆくがた)は知る人なし。

[やぶちゃん注:「※」=「氵」+(「搖」-「扌」)。「淫」の異体字。「いんじ」と読んでいるか(ルビはない)。本話は「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年十二月三日に拠り、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、後半の安倍晴明のエピソードは寛文二(一六六二)年板行の浅井了意「安倍晴明物語」の巻三「庚申の夜殿上の人々をわらはせし事」に拠るとする。

「奇特」本文にあるように、仏教用語としては「きどく」と濁る。神仏の持っている、超人間的な力・霊験をいう。

「謟(へつら)ひ」この「謟」には「へつらふ」という意はない。「疑(うたが)ふ」又は「違(たが)ふ」であり、「へつらふ」ならば「諂」である。ここは文意からも「世間にへつらって」ではおかしい(増淵氏は「世間にへつらって人々に媚び」と訳しておられるが、意味が通らない。この「人」は頼家であろう)。筆者は「世に謟(たが)ひ」と書いたものと私は判断している。

「雅意に任せ」「我意に任す」と同義で、自分の考え通りにする、我儘に振る舞う、の意。

「伎術薄藝」歌舞・音曲の芸能。

「大輔房源性」「進士左衞門尉源整子(まさこ)と號す」「諸將連署して梶原長時を訴ふ」の注に引用した「吾妻鏡」に既出。そこでは「えんしやう(えんしょう)」と読んでいる。頼家側近で、比類なき算術者にして蹴鞠の名手という、ここに記された以上の事蹟は私は不詳。但し、「進士左衞門尉源整子と號す」という部分は、「吾妻鏡」の従来の読みでは「源進士左衞門尉整が子」であり、本書に基づいたと思われる後年の曲亭馬琴の「苅萱後傳玉櫛笥(かるかやごでんたまくしげ)」(文化四(一八〇七)年板行)の上之巻に載る「源性(げんせう)が算術繁光が射法巧拙によつておのおの賞罰を蒙る事」では『進士(しんし)左衞門尉源(みなもとの)整子(まさたね)』とある。なお、「進士」は中国の科挙を真似た律令制の官吏登用試験の科目の名称で、それに合格した文章生(もんじょうしょう)のことをいう。

「仙洞」後鳥羽上皇では、院政の開始が建久九(一一九八)年で短すぎるので、後白河法皇であろう。

「高野大師」書道の名人としても知られた弘法大師。

「五筆」両手・両足及び口に筆を銜えて文字を書く術。弘法大師が行ったとされる。

「垂露偃波の點」「垂露」は、上から下に引く直線の収筆を少し逆に戻して終るもの、「偃波」は形がさざなみに似ているところからいい、古くは詔(みことのり)を記した詔書に用いた。その独特の止めを言うか。

「囘鸞翩鵲の畫」「囘鸞」も「翩鵲」も筆法の一つという。

「蝌斗」「蝌蚪」に同じい。中国古代の字体の一つで、古体篆字のこと。箆(へら)に漆をつけて竹簡に書かれたが、その文字の線は初めが太く先細りとなり、オタマジャクシの形に似るところから、かく呼んだ。

「龍書」書体の一種。伏羲が龍を見てそれを基に文字を作ったとされることに由来するもので、管見したものでは、総ての画(かく)がリアルな龍で出来ている絵文字であった。

「慶雲」「鳳書」いずれも書体の一種という。

「骨法」芸道などの急所となる心得。コツ。

「蔡邕」(さいよう 一三二年又は一三三年~一九二年)は後漢末期の政治家・儒者・書家。飛白体の創始者とされる。飛白体とは、刷毛筆を用いた、かすれが多く装飾的な書法。「飛」は筆勢の飛動を、「白」は点画のかすれを意味する。

「羲之」東晋の政治家で「書聖」と称された王羲之(三〇三年~三六一年)。行書の「蘭亭序」が最も知られるが、参照したウィキ王羲之によれば、王羲之は楷書・行書・草書・章草・飛白の五体を能くし、梁の武帝の撰になる「古今書人優劣評」には、「王羲之の書の筆勢は、一際、威勢がよく、竜が天門を跳ねるがごとく、虎が鳳闕に臥すがごとし」と形容されているとある。

「田頭里坪の積」本来、「田頭」は荘園に於いて荘田を耕作した農民を、「里坪」は「りつぼ」とも読んで、古代からの条里制における土地区画をいう。ここは、荘田の田畑の面積を見積もることを言っている。

「高低長短の漢、段歩畦境、其眼力の及ぶ所分寸をも違へず」「漢」は不詳。勘案の「勘」の誤りか。増淵氏は『思案』と訳しておられる。「段歩」は「反歩」とも書き、普通は「たんぶ」と読む。田畑の面積を「反(たん)」を単位として数えるのに用いる語。ここは、その鋭い眼力の及ぶところの検地の――当該田地の高低や、ちょっとした距離の長短の勘案、田圃とその畦や境界等々――その目測に於いては、これ、一分一寸たりとも決して誤ったことがない、の謂いであろう。

「洛下閎」漢の武帝の時代(前一四〇年~前八七年)の方士で天文学者。太初暦(武帝の太初元(紀元前一〇四)年の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法の一種)の暦纂者で、初めて渾天儀を製作したとされる人物。

「此比奥州伊達郡に境目の相論あり。其實檢の爲源性をぞ遣されける……」以下、「吾妻鏡」を引く。

〇原文

三日乙酉。陰。有大輔房源性〔源進士左衞門尉整が子。〕者。無双算術者也。加之。見田頭里坪。於眼精之所覃。不違段歩云々。又伺高野大師跡。顯五筆之藝。而陸奥國伊達郡有境相論。爲其實檢。去八月下向。夜前歸著。今日參御所。是被賞右筆幷蹴鞠兩藝。日來所奉昵近。仍無左右被召御前。被尋仰奥州事等。源性申云。今度以下向之次。斗藪松嶋。於此所有獨住僧。一宿其庵之間。談法門奥旨。翌朝。僧云。吾爲天下第一算師也。雖隱形算。寧劣龍猛菩薩之術哉云々。而更不可勝源性之由。吐詞之處。彼僧云。不改當座。速可令見勝利云々。源性承諾之。仍取算。置源性座之廻。于時如霞霧之掩而四方太暗。方丈之内忽變大海。所著之圓座爲磐石。松風頻吹。波浪聲急。心惘然難辨存亡也。移剋之後。以亭主僧之聲云。自讚已有後悔哉云々。源性答後悔之由。彼僧重云。然者永可停算術慢心。源性答。早可停止。其後蒙霧漸散。白日已明。欽仰之餘。雖成傳受之望。於末世之機根。稱難授之由。不免之云々。仰云。不伴參其僧。甚越度也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

三日乙酉。陰る。大輔房源性(げんしやう)〔源進士左衛門尉整が子。〕といふ者有り。算術の無双の者なり。加之(しかのみならず)、田頭(でんと)の里坪(りひやう)を見て、眼精の覃(およ)ぶ所に於いては、段歩(だんぶ)を違へずと云々。

又、高野大師の跡を伺ひ、五筆の藝を顯はす。而るに陸奥國伊達郡に境相論有り。其の實檢の爲に、去る八月、下向す。前夜歸著し、今日御所へ參る。是れ、右筆幷びに蹴鞠の兩藝を賞せられ、日來(ひごろ)、昵近(ぢつきん)奉る所なり。仍つて左右(さう)無く御前に召され、奥州の事等を尋ね仰せらる。源性、申して云はく、

「今度、下向の次(ついで)を以つて、松嶋に斗藪(とさう)す。此の所に獨住の僧有り。其の庵に一宿するの間、法門の奥旨を談ず。翌朝、僧云はく、

『吾、天下第一の算師たるなり。隱形(おんぎやう)の算と雖も、寧んぞ龍猛(りうみやう)菩薩の術に劣らんや。』

と云々。

而れども、

『更に源性に勝るべからず。』

の由、詞を吐くの處、彼の僧云はく、

『當座を改めず、速かに勝利を見せしむべし。』

と云々。

源性、之を承諾す。仍つて算を取りて、源性が座の廻りに置く。時に霞霧の掩(おほ)ふがごとくして、四方、太(はなはだ)暗く、方丈の内、忽ち大海に變じ、著する所の圓座、磐石と爲る。松風、頻りに吹き、波浪の聲、急にして、心、惘然(ぼうぜん)とし、存亡を辨(わきま)へ難きなり。剋(とき)を移すの後、亭の主の僧の聲を以つて云はく、

『自讚、已に後悔有るや。』

と云々。

源性、後悔の由を答ふ。彼の僧重ねて云はく、

『然らば、永く算術の慢心を停めるべし。』

と。源性、答ふらく、

『早く停止(ちやうじ)すべし。』

と。其の後、蒙霧、漸く散じ、白日、已に明かし。欽仰の餘りに、傳受の望みを成すと雖も、

『末世の機根に於いて、授け難し。』

の由を稱し、之を免さず。」と云々。

仰せて云はく、

「其の僧を伴ひ參らざるは、甚だ越度(をちど)なり。」

と云々。

・「伊達郡」現在の福島県北部の伊達市・桑折町・国見町・川俣町・福島市の一部に相当する。律令制で道国郡制が整備されたとき、当初は現在の福島市とほぼ同じ地域と伊達郡・伊達市の地域を合わせて信夫郡(しのぶぐん)であった(古代には「信夫」は「忍」とも表記された)が、それが十世紀前半に信夫郡から伊達郡が分割された(これは当時、律令制の租庸調の課税を整備する必要性から各郡の人口をほぼ均一にするために、朝廷が郡の分割や住民の強制移動を全国的に行ったことによるもので、朝廷から見ると開拓地であった陸奥国にあってはこうした再編成が盛んに行われた)。この分割によって旧信夫郡の内、小倉郷・安岐(安芸)郷・岑越(みねこし)郷・曰理(わたり)郷が新信夫郡となり、伊達郷と靜戸(しずりべ)郷と鍬山郷の三郷が新たに伊達郡となった(以上はウィキの「伊達郡」に拠る)。

・「實檢」実地検地。

・「斗藪」梵語ドゥータの漢訳語で、衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にし、修行することを言う。

・「隱形の算」自分の姿を隠して見えなくする呪術。

・「龍猛菩薩」龍樹。二世紀中頃から三世紀中頃のインド大乗仏教中観(ちゅうがん)派の祖。南インドのバラモンの出身で、一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の注釈書を多数著して宣揚した。

・「算」「北條九代記」に出る算木。易で、卦(け)を表す四角の棒。長さ約九センチメートルで、六本一組。各々の四面の内、二面は爻(こう)の陽を表し、他の二面は陰を表す。

・「末世の機根に於いて、授け難し」「機根」は仏の教えを受けて発動する能力や資質をいう。本文でははっきりと教えを受けられるレベルが最低の「下根」と評している(但し、これは最低でも受けられるレベルではある)――世は最早、乱れに乱れ(暗に暗愚の君たる頼家を揶揄している)、救い難き末世となっており、そのような世の下級の機根しか持たぬそなたには授け難い――という謂いである。]

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