一言芳談 七十二
七十二
又云く、或時心佛房に示して云、世間の鍛冶(かぢ)・番匠(ばんじやう)等が其道を傳ふる事は、かならずしもことごとく教へねども、其中に宗(むね)とあることをしつれば、其道を傳へたりといふぞかし。其定(ぢやう)に此二三年そひたるしるしには、世をのがれたる身にて、無常を忘れずしてだにあらば、本意なるべし。
〇そひたる、敬佛房、心佛房につきそひ給へるなり。
[やぶちゃん注:「心佛房」伝不詳。敬仏房の弟子。標註の謂いに頭を傾げる方もあろうかとも思われるが、高校の古文の授業を思い出して戴きたい。「つきそふ」は「かしづく」と同じく、人の世話をするの意で、それ自体に上下関係や敬意の関係はない。それに為手(して)尊敬の補助動詞「給ふ」のみが附されるのであるから、ここには「つきそふ」の動作主である敬仏房のみに敬語が用いられている。おかしくないのである。
「宗」中心となるもの、また、重要なもの。
「しつれば」の「し」な「爲」。
「無常を忘れず」Ⅱの大橋注に(引用中の古文引用部を正字化した)、
《引用開始》
賞山の『父子相迎上末諺註』に「あはれ、佛の御はからひにても、一期こゝろに無常わすれず。くちに念佛をやまぬ身にしあらば、いかばかり世のありさまもどかしう、すみたる心のうちならん。これなむ、又なくあらまほしき心なり』を注して、この敬仏房の法語を引いて、「聖光上人の持言に云、安心起行の要は念死念佛に有、いづる息、いる息を待ず。たすけ給へあみだほとけ、南無阿彌陀佛と云々。有本に無常をわすれずと有」という。
《引用終了》
とある。「父子相迎上末諺註」は、元亨年間(一三二一年~一三二四年)に成立した和文で浄土宗の教義を説く向阿証賢の「三部仮名鈔」(「帰命本願鈔」・「西要鈔」・「父子相迎」)の中の「父子相迎」の註釈書と思われ、筆者の賞山とは恐らく江戸時代の隆堯なる僧で、古書店の目録を見ると同人の「父子相迎諺註」(貞享三(一六八六)年跋・寛政三(一七九一)年板行)というのがある。これであろう。]
« 鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 旗立山 同定 | トップページ | 西東三鬼句集「變身」 昭和三十二(一九五七)年 九七句 »