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« 詩人の死ぬや悲し 萩原朔太郎 | トップページ | 耳嚢 巻之六 物の師其心底格別なる事 »

2013/01/29

一言芳談 七十九

  七十八

 

 敬仙房(きやうせんばう)云、一生はたゞ生をいとへ。

 

〇生をいとへ、生をむさぼれば又生死の生を受くるなり。

〇生死ははじめもしらず、おはりもなし。死がまへか、生がうしろか、しる人まれなるべし。春が花をさかすか、花が春をなすか、いづれも分別の外にて有(ある)なめれ。莊子もそのにねぶりて、われと蝶とをわかず。釋迦文佛(しやかもんぶつ)も往來娑婆八千まで覺えて、無量は説(とき)たなはず。死は生のもと、生は死の末にて有べきか。たゞ生をいとへとは、一字關にて候へ。根本無明を識得するが、生のいとひやうにてある也。たゞ淨家の念佛者ならば、何となく念佛したるが、生をいとふさまなるべし。(句解)

 

[やぶちゃん注:「敬仙房」既出。「六十八」の注参照。

「又生死の生を受くる」六道輪廻転生を謂う。

「釋迦文佛」「釈迦文」は梵語の「シャカムニ」漢訳「釈迦文尼」の略で、釈迦の尊称。

「往來娑婆八千」往来娑婆八千遍。釈尊は衆生教化のために、八千回も生死を繰り返した末に最後インドで悟りを開き、仏となったということが「梵網経(ぼんもうきょう)」の説で、蓮如によって本願寺派で三文四事の聖教の一つと見做す筆者不詳の「安心決定鈔」に、

佛體よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流轉しけるなり。かるがゆゑに「般舟讚」には、『おほきにすべからく慚愧すべし。釋迦如來はまことにこれ慈悲の父母なり』といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釋し、自にはぢ他にはづとも釋せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、彌陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釋尊は五百塵點劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。

と載る(以上は安心決定鈔 – WikiArcに拠るが、引用は正字化し、記号の一部を変えた)。

「一字關」特に唐朝以後の禅僧が用いる、参禅者を禅機へ導くための一喝。言葉で表現することの出来ない仏法の真理を一字で表現したもの。「喝」だけでなく、「露」「参」「看」「咄」「関」「力」「聻(にい)」などがある。

「淨家」浄土教信徒。]

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