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2013/01/17

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 道了権現

    道了權現

 最乘寺道了權現(さいじやうじどうりやうごんげん)は、靈驗(れいげん)あらたにましまし、別しては、火難盜賊(くはなんとうぞく)の難をのぞき玉ふこと、これまで信心の輩(ともがら)、その利益(りやく)をかうむることすくなからず。このゆへ、東都(とうと)にも信心の講中(かうぢう)數多(あまた)ありて、つねに參詣のたゆることなく、山中(さんちう)の境内ひろく、見所(どころ)おほし。

〽狂 すご六のさいみやうじとて

御りやくは こひめに

まかす神ぞ

       たうとき

參詣(さんけい)

「儂(わし)は、近所にほれてゐる娘があるから、いろいろとくどいてもきかぬゆへ、そこで儂が思(おも)ひつきで、このお山には、天狗(てんぐ)樣が、たんとござるといふこと、儂もその天狗樣になつて、その娘をさらひたいと思ふから、この道了樣へおねがひ申し、『どうぞ、天狗さまになりますやうに』と信心して月參(つきまいり)をいたしますが、昨日(きのふ)その娘が、味噌漉(みそこし)をもつてくるところを見ましたから、儂はもふ天狗樣になりはせぬが、試(こゝろ)みにこゝで娘をさらつて見やうと思つて、その娘へとびつくと、娘は肝をつぶし、味噌漉をすてゝにげてゆきましたが、その味噌漉ばかりとつてかへりましたが、夏には油揚(あぶらあげ)が三枚ござりましたから、さてもありがたい、道了さまの御利生(りしやう)かと、まだ天狗にはなりませぬが、もふ鳶(とんび)にはなりましたから、今日(けふ)はそのお禮にまいりました。」

「それは御奇特(きどく)な。儂も願望(ぐはんまう)があつて、おりおり參詣いたします。私(わたし)の親父(おやぢ)は、とかく私のことを、吾(われ)は間拔(まぬけ)だの、馬鹿だのと申しますから、どうぞ、利口(りこう)になりたいと、願掛(ぐはんが)けして、信心いたしますから、その御蔭か、ちつとは利口になつたと見へまして、親父が私(わたし)に渾名(あだな)をつけて、この頃は私のことを、道了(どうれう)の甚(ぢん)六だと申ますからありがたい。」

[やぶちゃん注:「最乘寺道了權現」は前の「湯本 小田原」の項の「關本の最乘寺へ道了權現へ」の注を参照されればよいが、ウィキ嫌いのアカデミストのために、ここでは最乗寺の公式HPより、その歴史を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、改行及びルビや記号の一部を変更・省略した)。

   《引用開始》

大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に四千余りの門流をもつ寺である。御本尊は釈迦牟尼仏、脇侍仏として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏ん万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。開創以来六百年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林一三〇町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は三十余棟に及ぶ。

開基の由来

開山了庵慧明禅師は、相模国大住郡糟谷の庄(現在伊勢原市)に生まれ、藤原姓である。長じて地頭の職に在ったが、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉不聞禅師に就いて出家、能登總持寺の峨山禅師に参じ更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺(ようたくじ)通幻禅師の大法を相続した。その後永沢寺、近江總寧寺、越前龍泉寺、能登妙高庵寺、通幻禅師の後席すべてをうけて住持し、大本山總持寺に輪住する。五十才半ばにして相模国に帰り、曽我の里に竺圡庵(ちくどあん)を結んだ。そのある日、一羽の大鷲が禅師の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛ける奇瑞を現じた。その啓示によってこの山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号した。應永元年(一三九四年)三月十日のことである。

大雄山最乗寺の守護道了

大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者として世に知られる。尊者はさきに聖護院門跡覚増法親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約一年にしてこの大事業を完遂した。その力量は一人にして五百人に及び霊験は極めて多い。應永十八年三月二十七日、了庵禅師七十五才にしてご遷化。道了大薩埵は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている。

   《引用終了》

なお、現在の最乗寺の御「利益」は、特に健康祈願・病気平癒・商売繁盛・千客万来・家内安全・交通安全・厄除け・厄払と、何でもあり、である。

「〽狂 すご六のさいみやうじとて御りやくはこひめにまかす神ぞたうとき」この狂歌よく意味が解らない。識者の御教授を乞うものであるが、一つ気になるのは「さいみやうじ」でこれは「さいじやうじ」の誤りとは思われず、そうなるとこれは最明寺で、すると「すご六」が解けるようにも思われる。この最明寺は北条時頼の道号で、鎌倉の延命寺に伝わる以下の伝承で双六と関わるからである。以下、私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之七」から引用する。

〇延命寺 延命寺は、米町(こめまち)の西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。《裸地藏》堂に立像の地藏を安ず。俗に裸地藏と云ふ。又前出(まへだし)地藏とも云ふ。裸形(らぎやう)にて雙六局(すごろくばん)を蹈(ふま)せ、厨子(づし)に入、衣キヌを著(き)せてあり。參詣の人に裸にして見するなり。常(つね)の地藏にて、女根(によこん)を作り付たり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六を爭ひ、互ひに裸(はだか)にならんことを賭(かけもの)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(ばん)の上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總そうじて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶(たへ)てなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲(ため)の佛を、何ぞ猥褻の體(てい)に作るべけんや。

すると、下の句の「こひめにまかす」は「小姫に負かす」ではないか? 「小姫」とは高貴な人の小さい娘を親しみ敬っていう語であるが、延命寺の建立は正慶年間(一三三二年~一三三四年)とされ、時頼の没年は弘長三(一二六三)年、正室は離別、その継室で時宗の母とおぼしい葛西殿は文保元(一三一七)年に亡くなっているから、北条時頼夫人開基が正しいとすると、側室の讃岐局や辻殿と言う人物しか考えられない。建立年代からは時頼晩年の側室であったと考えられ(だからこそ若い妻との双六に野球拳並の破廉恥な掟を設けて楽しんだのだと自然に理解出来るのである。但し、時頼は満三十六歳で没しており、エロ爺ではない)、それこそ、その側室は「小姫」と呼ぶに相応しい若い娘であった可能性が極めて高いと思われる。「負かす」はサ行四段活用の、勝負で相手を負けさせるの意。裸になれと言う取り決めであれば、神は彼女を勝たせればよかったものを――流石に男の気持ちを汲んで、貴いものよ――ありがたくも小姫を負けさせて、乙女の裸(伝承上は地蔵菩薩の変化した身代わりであるが)が見られたわい!――といったエロティックな狂歌と私は推測する。大方の御批判を俟つ。それにしても何故、この狂歌がここに配されているのかは、私が大馬鹿なのか、判然としないのである。

「味噌漉」この参詣人のこの部分、「味噌漉しで水を掬(すく)う」(笊で水を掬うと同じ諺で、いくらやっても無駄な徒労無功の意)を利かして、この愚昧な男の馬鹿さ加減を揶揄しているものと思われる。同様に後の「夏に」参詣した折りに「は油揚が三枚」あったが、今はなくなっている。「さてもありがたい、道了さまの御利生」か、「まだ天狗にはなりませぬが、もふ」油揚げを攫う「鳶にはなりました」という部分も「鳶に油揚げをさらわれる」の諺、大切にしているものを横取りされて呆気にとられる、こともないこの愚な男、更には「三枚」はモーツァルトの歌劇ではないが、二人が争えば第三者が得をするで、「三枚目に攫われ」たことも知らぬ大馬鹿男というニュアンスがあるのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。

「道了さまの御利生かと」鶴岡節雄氏は「道了さまの御利生かして」と判読しておられるが、私はかく読んだ。大方の御批判を俟つ。

「道了の甚六」言わずもがな、惣領の甚六を聞き違えた救い難い大阿呆という設定である。

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