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2013/01/21

耳嚢 巻之六 感夢歌の事

 感夢歌の事

 

 唐衣橘州(からころもきつしう)とて、狂歌よみて名高きおのこは、俗名小島源之助といひて、和歌をまなび詠じけるが、其子源藏は性質儒を好み、和學は一向に心にもかけざりしに、享和二年源之助は身まかりしが、享和の春、人の勸めにしたがひ、父の好(このみ)し事とて和歌を詠じみんと、家藏の和書取出し詠入(よみいり)候て、歌など讀しに、或夜の夢に父源之助來りて、汝が和歌をはじめ候心ならば、師を定て學べし、自己の流義にては歌に不成(ならざる)事と、永々と前書して、一首の歌を書きしるし與ふると見て、夢さめぬ。夢心に前書は覺へざりしが、歌はよく覺しと、源藏儀、予がしれる人に語りしとなり。

  海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波

源藏は儒にこりて、年頃歌抔といふはよみもせざれば、かくまでにも詠(よみ)得まじければ、空言(そらごと)にもあらじと、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関;特に感じさせない。夢告譚で、そこで得た書かれた文字としての和歌や言葉を記憶するという話柄は、「耳嚢」には存外、多い。そういう夢告譚の中でも特殊な話柄に、特異的に反応する根岸自身が興味深いと私は思う。

・「感夢歌」岩波版で長谷川氏は『ゆめにかんずる』歌と訓じておられるが、音で「かんむのうた」で私はよいと思う。

・「唐衣橘洲」(寛保三(一七四四)年~享和二(一八〇二)年)は大田南畝・朱楽菅江(あけらかんこう)とともに天明狂歌の社会現象を起こして狂歌三大家といわれた狂歌師の号。田安徳川家家臣で、本名は小島恭従(たかつぐ)、後に名を謙之(かねゆき)と改めている。通称は源之助。儒者内山椿軒のもとで、和学・漢学を修めた。明和六(一七六九)年に四谷の屋敷で初めて狂歌会を催した。これ以後、多くの狂歌連が生まれ、狂歌が一つの社会現象として幕末に至るまで混乱と退廃の社会を描出していった。橘洲を中心とした狂歌連は「四谷連」といった。号は、「伊勢物語」の古歌「唐衣着つつ馴れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」に由来する(以上はウィキの「唐衣橘洲」に拠る)。

・「其子源藏」 小島源蔵は昌平坂学問所の各種編纂物に名を残す、同学問所及第者に彼の名が見出せることが、北海学園学術情報リポジトリの石井耕氏の論文「御家人と昌平坂学問所・学問吟味」(二〇〇九年六月発行「北海学園大学学園論集」一四〇: 一五七-一七六)で分かる。以下、その記載によれば、寛政一二(一八〇〇)年、乙科及第、小普請組戸田中務支配、源之丞右衛門督。右筆。号は小島蕉園(源一)。親は小島源之助で別名、唐衣橘洲(著名な狂歌作者)、とあり、更に、森銑三の著作(一九七一年)に「小島蕉園」の稿があり、それによれば、寛政一二(一八〇〇)年三十歳、文化二(一八〇二)年七月(三十五歳)から文化四年十二月まで、甲州田中の代官(御目見以上)。文化六年五月小普請として、その後は町医者。文政六(一八二三)年五十三歳から四年の間、一橋領遠州波津の代官となったが、任地において文政九年正月十九日に没、享年五十六歳、と記されている由である。即ち、同論文の別な箇所に示されるように彼は御家人から旗本に昇進した人物であり、学問所内でも相当の努力家であったことが窺われる。根岸と同時代人である。

・「享和の春」橘洲は享和二年七月十八日に亡くなっているから、翌享和三(一八〇三)年の春であろう。源蔵は前年に甲州田中の代官に就任している。

・「海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波」読み易く書き直すと、

 海士人(あまびと)の見るめ汀(なぎさ)の捨小舟(すておぶね)寄邊(よるべ)定めよ和歌の浦波

で、「見るめ」は、「見る目」――師匠の眼の届くこと。ここは単に師がいないことだけではなく、狂歌宗匠たる自分が既に鬼籍に入って目を掛けてやる(指導する)ことが出来ないことを含ませていよう――と、海藻の「海松布(みるめ)」――古典ではお馴染みの緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル Codium fragile ――を掛け、「なぎさ」は、「渚」と、「みるめなぎ」から「見る目無し」の意を掛ける。

――漁師さえ振り返ることのない渚の捨て小舟(であるお前)は、和歌の浦(の和歌に慧眼を持った誰ぞ師匠の元に)その寄りどころを求めるがよい――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  感夢の歌の事

 

 唐衣橘州(からごろもきっしゅう)とて、狂歌師として世に名高い男は、俗名を小島源之助と申し、その初めにしっかりと和歌を学び詠じて御座った者なるが、その子源藏は、その性質(たち)、儒学を好み、歌学は一向に心懸けず御座ったところ、享和二年、父源之助は身罷った。

 その翌享和三年の春のこと、人の勧めに従い、父の好んだことなればとて、源蔵、和歌を詠まんと志し、家蔵の歌学書などを取り出だいては、古人の和歌を読み、実際に自身、三十一文字を詠むなど致いて御座った。

 そんなある夜の夢に――父源之助が来たって、

「……汝が、和歌を始めんと致す心掛けならば、これ、師を定めて学ばねばならぬ。自己流にては、そなたの場合、とてものこと、歌には成らざるゆえ、の……」

と、永々と前書きして、一首の狂歌を書き記して与えた――

――と見て、夢が醒めた。

「……夢心地なれば、前書きは、これ、全く覚えては御座らなんだが――その歌だけは、は、目覚めても、よう、覚えておりました。……」

と源蔵自身が、私の知れる者に語ったということである。

 その狂歌に、

 

  海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波

 

「……この源蔵は殊の外、儒学に凝りに凝って御座って、普段、和歌なんどというものは、、これ到底、一切読みも致さぬ者なればこそ……かくまで巧みにも、狂歌を詠み得るということ、これ、まず、出來まじいことなれば、以上の話は空言(そらごと)にても、これ、御座らぬと存ずる。……」

と、私の知人は語って御座った。

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