北條九代記 壽福寺建立 付 栄西禅師の伝
○壽福寺建立 付 榮西禪師の傳
閏二月十二日尼御臺所の御願として一つの伽藍を建立し給ふ。昔、故下野國司源義朝の鎌倉龜谷(かめがやつ)の御館(みたち)は先祖八幡太郎義家奥州合戰の時此所に居住し給ひ、忠戰(ちうせん)の大功を遂(とげ)給ひしかば、義朝に至るまで世々相繼ぎて御館(みたち)となりしを、中比より荒廢して、松栢枝を交へ梟の聲凄(すさま)じく、荊棘(けいきよく)根(ね)を纏(まと)うて狐(きつね)の棲(すみか)騷(さはがし)かりけるを、右大將家世を治め給ひけるより岡崎軍四郎義實既に一宇の草堂を造りて義朝の菩提を弔(とぶら)ひけり。右大將家御母儀の忌日を以てこの草堂にして佛事を執行(とりおこな)はる。その後土屋次郎義淸が領地となる。誠に捨(すて)難き舊跡なりとて、民部丞行光大夫屬(さくわん)入道善信承り、件の地を巡檢して、即ちこの地を以て葉上房(はがみばう)の律師榮西(やうさい)に寄附せられ、淸浄結界(しやうじやうけつかい)の勝境(しようきやう)とぞ定められける。不日(ふじつ)に土木の功を遂げて、落慶供養ありけり。導師は即ち律師葉上房上人なり。本尊は是(これ)籠釋迦(かごしやか)と號す。籠の上を百重(ももへ)貼りて、金色(こんじき)の相好(さうがう)を磨(みが)く、烏瑟(うしつ)の光(ひかり)雲に輝き鵞王(がわう)の裝(よそほひ)地に映ず。脇士(けうじ)の文殊普賢は是(これ)定惠(ぢやうえ)、悲智(ひち)の二門を表(へう)し、衆生済度の方便を現(あらは)せり。抑(そもそも)葉上房律師榮西は備中國吉備津(きびつ)宮の人、其先は、薩摩守賀陽(かやの)貞政が曾孫なり。その母田氏(たうじ)懐胎八月(やつき)にして誕生す。年初(はじめ)て八歳にして倶舍頌(ぐしやのじゆ)を讀む。十一歳にして郡(ぐん)の安養寺の靜心(じやうしん)法印を師として台教(たいけう)を學(がく)し、十四歳にして落髪し、十八歳にして千命(せんみやう)阿闍梨に虛空藏求問持(こくうざうぐもんぢ)の法を受け、十九歳にして京師(けいし)に赴き、又伯州の大山に登り、基好法師に密教の奥蘊(おううん)を受け、仁安三年夏四月入宋(につそう)して、四明丹丘(めいたんきう)の靈場を拜し、天台山に登り、新章疏(しんしやうしよ)三十餘部六十卷を得て、歸朝の後に之を明雲座主(めいうんざす)に奉る。平大納言賴盛卿深く歸敬(ききやう)あり。平氏没落して、賴盛又卒せらる。文治三年榮西又入宋し是より西域に赴かんとするに、北狄(ほくてき)既に中國に背きて、通路塞(ふさが)り、跋渉叶難(ばつせふかなひがた)し。赤城(せきじやう)に至り向うて、虛菴敞(きあんしやう)禪師に萬年寺に謁す。師の曰く、「傳(つたへ)聞く、日本は密教今盛(さかん)なりと、我が禪法と趣き一なり」。榮西是に參じて、大道を明(あきら)む。敞禪師即ち僧伽梨衣(そうがりえ)を付して曰く、「昔、釋迦老子、既に圓寂に臨みて、正法眼藏涅槃妙心實相無相(しやうぼうげんぞうねはんめうしんじつさうむさう)の法を以て、摩訶迦葉(まかかせふ)に付屬し給ふ、二十八傳(てん)して達磨に至り、六傳して曹溪(さうけい)に至り、又六傳して臨濟に至り、是より八傳して黄龍(わうりう)に至る。予は其八代の法孫なり。今この租印(そいん)を汝に授(さづ)く。日本に歸りて正法を開き、衆生を開示すべし。又菩薩戒は是(これ)禪宗門中(もんじう)の一大事なり。汝克(よ)く之を受持せよ」とて、應器(おうき)、坐具、拄杖(しゆじやう)、白拂(はくはう)以下悉(ことごとく)授けらる。建久二年に歸朝して、盛に禪教(ぜんけう)を興す。榮西身の長(たけ)卑矮(ひわい)なり。人或は輕(かろし)め嘲ける。榮西その聲に應じて曰く「虞舜(ぐしゆん)は赤縣(せきけん)に王たり、晏嬰(あんえい)は齊國(せいこく)に相(しやう)たり。皆未だ長(たけ)高き事を聞かず」と同學の輩(ともがら)大に信伏す。されども實には其短を恥ぢて、求聞持(ぐもんぢ)の法を以て一百日行はる。初(はじめ)入壇の時堂前の柱に身の長(たけ)を刻(きざみ)置かれしが百日滿じて、柱に較べられけるに、四寸餘延びられける。奇特(きどく)の事と感じ合へり。建久三年に香椎(かしひ)神宮の邊(ほとり)に報恩寺を構へて、始(はじめ)て菩薩戒の布薩(ふさつ)を行ひ、同じき六年に筑紫の博多に聖福寺(しやうふじくじ)を草創あり。本朝に菩提樹のある事は榮西律師の渡されし所なり。凡到る所皆佛法盛(さかり)に弘(ひろま)る事佛神の冥慮(みやうりよ)に叶へるが故なりと諸宗の碩德(せきとく)許し給ふ。建仁二年の春、王城の東に方(あたつ)て、禪苑(ぜんゑん)を經營あり。即ち今の建仁寺、是なり。建保元年に僧正に任ぜられ紫衣を賜はつて、綱位(かうゐ)の重職に預る。今此相州鎌倉の龜谷に壽福寺を營まれ、伽藍の構(かまへ)、奇麗嚴淨なり。尼御臺所、京都にして十六羅漢の像を圖せしめ、金剛壽福寺に寄進あり。葉上房律師榮西、開眼供養行はれ、説法教化(けうげ)ありしかば、尼御臺所を初(はじめ)て聽聞の貴賤隨喜の涙、袂(たもと)をしぼる。寺院の繁昌、宗門の弘興(ぐこう)、この時に當て盛(さかん)なり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年閏二月十二日・十三日を元にしつつ、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、栄西の経歴は「元亨釈書」巻二の「伝智」一之二「建仁寺栄西」に基づくとある。
「岡崎義実」(天永三(一一一二)年~正治二(一二〇〇)年)は頼朝挙兵以来の宿老として重用されたが、老年になって出家後は不遇であったようで、この壽福寺建立の直後の正治二年三月十四日に、政子を訪ね、家門の窮迫を訴え、政子は頼家に所領を義実へ与えるように取りなしている。彼は、この年の六月に八十九歳で長寿を全うした。
「土屋義淸」(?~建暦三(一二一三)年)岡崎義実の子であったが、叔父土屋宗遠の養子となっていた。当初は平家に仕えたが、後、頼朝に従って大学権助となった。和田の乱で和田義盛に組して流れ矢に当たり戦死する。
「右大將家御母儀の忌日を以てこの草堂にして佛事を執行はる」「右大將家御母」とは源義朝の正室で頼朝の母である熱田大宮司藤原季範の娘由良御前(ゆらごぜん ?~保元四(一一五九)年)。ウィキの「由良御前」によれば、『当時の熱田大宮司家は、男子は後に後白河院の北面武士となるものが多く、女子には後白河院母の待賢門院や姉の統子内親王(上西門院)に仕える女房がいるため待賢門院や後白河院・上西門院に近い立場にあったと思われる。由良御前自身も上西門院の女房であった可能性が示唆されている』。但し、この仏事由緒は「吾妻鏡」には載らない。しかも由良の祥月命日は三月一日である。本記載の原資料は私には不明。
「不日に」間もなく。
「葉上房の律師榮西」(永治元(一一四一)年(異説あり)~建保三(一二一五)年)は本邦の臨済宗開祖。「ようさい」とも。房号は「やうじやう(ようじょう)」と音読みするのが普通。京に建仁寺を創建して天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし禅宗の拡大に努めた。また、茶を宋より移入し「喫茶養生記」を著したことでも有名。
「籠釋迦」は、実際には粘土の原型の上に布を貼って作られたものである。
「相好」仏身に備わる三十二の「相」とさらに細かい美点である八十種の「好」の特徴の総称。
「烏瑟」烏瑟膩沙(うしつにしゃ)の略。肉髻(にくけい:仏の三十二相の一つで頭頂部に一段高く碗形に隆起している部分を言う。)のこと。
・「鵞王」やはり三十二相の一つである縵綱相。一切衆生を漏らさず救い取るために仏には鵞鳥の水かきのように手の指と指の間に膜があることを指す。特にその「王」という意で釈迦の別名でもある。
・「定惠(ぢやうえ)」「ぢやうゑ」が正しい。禅定と智慧。鳥の両翼や車輪に譬えられ、互いに助けあって仏道を成就させるもの。
・「悲智」慈悲と智慧。衆生に対する、仏菩薩の慈しみ憐れむ深奥な心と広大無辺の知性を謂う。
・「備中國吉備津」栄西は現在の岡山県北区吉備津にある吉備津神社の権禰宜賀陽(かやの)貞遠の子として誕生。但し、ウィキの「栄西」には誕生地は賀陽町(かようちょう:岡山県中央部に位置した旧町名。現在の岡山県加賀郡吉備中央町上竹)という説もある、とある(以下の栄西の事蹟の幾つかの注でもウィキを主に参考にした)。
・「田氏」不詳。田(でん)姓は坂上田村麻呂の子孫、田村氏が苗字を省略して田姓を称したものとされる。戦国時代より丹波国で見られ、現在も兵庫県丹波地方で見られる。参照した「ニコニコ大百科」には、『富山県高岡市には田(た)姓が見られる。地形姓か』とあり、懐かしい。私は中高生時代に高岡に住んでいたが、何人も「田(た)」さんがいた。
・「倶舍頌」インドの世親著になる仏教哲学の基本的問題を整理した「阿毘達磨倶舎論」(あびだつまくしゃろん)の頌(梵語やパーリ語の詩体の一つで、仏教では仏菩薩の功徳や思想などを述べた偈(げ)のことを言う)。本書は世親の六百余からなる「阿毘達磨倶舎論本頌」という本頌と、世親自らがそれに註釈を書き加えた「阿毘達磨倶舎釈論」からなり、一般に「倶舎論」という時は後者の「釈論」を指すが、ここではわざわざ「倶舍頌」として、八歳で注釈なしに「頌」を感得したというニュアンスを示す。
・「安養寺」現在の岡山県岡山市日近にある救世山安養寺。栄西自作栄西禅師木像(高さ一七センチメートルで、祖師堂にある高さ四〇センチメートルの木製頂相の静心像の胎内に納められており、栄西が師に懇望されて自らの姿を水面に映して彫ったという奇仏である)や栄西手植の菩提樹があるらしい(安養寺敏彦氏の「安養寺のページ」の「救世山安養寺」に拠る。この方、自分の姓と同じ安養寺について資料蒐集をされておられる)。
・「台教」天台宗学。
・「虛空藏求問持の法」智慧や知識・記憶を司るという虚空蔵像菩薩の修法で、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱える。これを修した行者はあらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(ウィキの「虚空蔵菩薩」に拠る)。
・「伯州」伯耆国。現在の鳥取県。
・「奥蘊」「蘊奥(うんおう・うんのう)」の方が一般的。学問技芸などの奥深いところ。奥義。極意。
・「仁安三年」西暦一一六八年。この前に、栄西は自分の坊号を冠した葉上流を興している。
・「入宋」ウィキには『形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平氏の庇護と期待を得て南宋に留学』した、とある。
・「四明」四明山。浙江省東部の寧波西方にある山。古くからの霊山で、名は「日月星辰に光を通じる山」の意。寺院が多く宋代初期に知礼がここで天台の教えを広めた。
・「丹丘」次の天台山を含む当時の天台州の広域地名。因みに古来、仙人が住む場所のことをも「丹丘」と言った。
・「天台山」中国浙江省東部の天台県の北方二キロメートルにある中国三大霊山の一つ。天台智顗(ちぎ)が五七五年からこの天台山に登って天台教学を確立した。ウィキには『当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった』とある。
・「新章疏三十餘部六十卷」天台教学の経典類。
・「明雲座主に奉る。平大納言賴盛卿深く歸敬(ききやう)あり」「娘への遺言」(HP主のHN等不明だが厖大な考察量に脱帽)の「雑学の世界」のこちらに(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)、『栄西が生まれた備中国を含む西国一帯は白河・鳥羽上皇の信任を得た平正盛・忠盛父子が代々国司を重任し、また、栄西の父・賀陽氏が神官をつとめる備中国一の有力神社の吉備津神社に平頼盛が大檀那として名を連ねていたとも伝えられている。』また、『平頼盛は忠盛と池禅尼の間に生まれ清盛の異腹の弟に当たるが、栄西が入宋を志して筑前の宗像神社の大宮司・宗像氏の下に身を寄せていた時は太宰大弐として現地に赴任して日宋貿易を仕切り、さらに、宗像社の領家職も務めていたから宗像氏とも強い絆を築いていた』。『その平頼盛が二十八歳の青年栄西の仏教界の現状を何とかしたいとの志を支援し、かつ、日宋間の人的交流の活発化も視野に入れて、仁安三年(一一六八)の栄西の初回の入宋に手厚い支援をした事は十分考えられる』。『さらに栄西が宋からの帰国に際して、天台の貴重な典籍「新章疏(しんしょうそ)」三十余部六十巻を天台座主(延暦寺のトップ)明雲に献上した事は、一度は延暦寺で学びながら失望して山を降りたとはいえ、栄西がこの実力者から目をかけられていたことを物語る』。『何しろ明雲といえば、天台座主として十年以上在位していたばかりか、平清盛の護持僧もつとめ、後白河院の寵臣・藤原成親(ふじわらのなりちか)を巡っては院との対立も恐れなかった権勢者でもある』。『清盛の護持僧たる平氏の威力を背景にした明雲が、栄西の入宋に関しては、単に将来性ある有望な弟子の為だけではなく、明雲自身にとっても貴重な天台の典籍入手の機会として、自ら資金援助をしただけでなく平頼盛に支援を強く働きかけたのではないかと私は推測する』。『つまり、平氏の時代、栄西は時の権勢者からの支援に恵まれていたのであった』とある。非常に鋭い考察である。
・「賴盛又卒せらる」頼朝を頼って生き永らえた頼盛の没年は文治二(一一八六)年。
・「文治三年榮西又入宋し是より西域に赴かんとするに、北狄既に中國に背きて、通路塞り、跋渉叶難し。赤城に至り向うて、虛菴敞(きあんしやう)禪師に萬年寺に謁す」「赤城」赤城峰で天台山の峰の一つ。ウィキには『仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事』とある。虚庵懐敞は、ものによって「きあんえじょう」とか「こあんえしょう」などの読みが振られている。
・「僧伽梨衣」僧の着る三衣(さんえ)の一つで僧の蔡正装衣。九条から二十五条の布片を縫い合わせた一枚の布からなる袈裟。大衣(だいえ)・僧伽梨(そうぎゃり)とも呼び、これを受けること自体が一種の法嗣の証明でもある。
・「圓寂」示寂。涅槃。死去。
・「正法眼藏涅槃妙心實相無相」一切のものを明らかにしつつ、且つ総てを包み込んでいるところの正しい仏法を示す「正法眼藏」、煩悩から脱して悟りきった心のいいようのない穏やかな寂けさを示す「涅槃妙心」、総てのものの真実の姿は相対的な差別のあり方を離れたものであるということを示す「實相無相」という三つの教え。
・「二十八傳して」二十八代に渡って相伝して。
・「租印」祖師から伝法されてきた証の僧伽梨衣。これで法嗣の印可となる。
・「菩薩戒」大乗の菩薩(修行者)が受持する戒。悪を止(とど)め、善を修め、人々のために尽くすという三つの面を持ち、梵網(ぼんもう)経に説く十重禁戒・十八軽戒(きょうかい)などがある。大乗戒。
・「應器」托鉢のための鉄鉢。
・「白拂」煩悩を打ち払うための柄の先に房を附けた法具。
・「建久二年」西暦一一九一年。
・「卑矮」ひどく小さいこと。
・「虞舜」中国の伝説上の聖天子有虞氏舜。「荀子」によれば帝舜は背が低かったとする。
・「赤縣」王城の地。中国では唐代に中央から近い県を赤といったことによる一般名詞を伝説上の舜の支配する国土に見立てて用いたものであろう。
・「晏嬰」春秋時代の斉の政治家。霊公・荘公光・景公の三代に仕えて憚ることなく諫言を行った名宰相として評価が高い。「史記 管晏列伝」には「六尺に満たず」とあって、周代の一尺は二二・五センチメートルであるから、身長一メートル四〇センチメートル足らずであった。
・「求聞持の法」先の「虛空藏求問持の法」。
・「四寸」約一二センチメートル。
・「香椎神宮」現在の福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮。
・「報恩寺」現存。臨済宗妙心寺派。栄西が中国から持ち帰った菩提樹を植え、また茶種を蒔いた日本最初の地とも伝える。
・「布薩」布教。
・「同じき六年に筑紫の博多に聖福寺を草創あり」建久六(一一九五)年、博多に聖福寺(福岡市博多区御供所町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、宋人が建立した博多の百堂の跡に建てた)を建立、日本最初の禅寺にして禅道場とした。ウィキには『同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る』とあり、この後、建久九(一一九八)年には「興禅護国論」を執筆、禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説いたが、この頃、京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向、幕府の庇護を得ようとした、とある。
・「諸宗の碩德許し給ふ」ウィキには『栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った』とある。
・「建仁二年」西暦一二〇二年。建仁寺建立は将軍頼家の影響力が大きかった。
・「建保元年に僧正に任ぜられ」西暦一二一二年。正確には権僧正。ウィキにはこの前、建永元(一二〇六)年には『重源の後を受けて東大寺勧進職に就任』しており、順調な栄進に対し、政治権力に追従する者という『栄西に執拗な批判が向けられたのは、従来の利権を利かせたい者による。よって栄西が幕府を動かし、大師号猟号運動を行ったことは、生前授号の前例が無いことを理由に退けられる。天台座主慈円は『愚管抄』で栄西を「増上慢の権化」と罵っているが、栄西の言動は、むしろ政争や貴族の増上慢に苦しむ庶民の救済と幸福を追求したからに相違ないことは、他の記録から明白である』と、全面的に栄西を擁護している。
・「綱位」僧綱(そうごう)の位。古くは僧正・僧都・律師。後に法印・法眼・法橋が加えられた。栄西は建暦二(一二一二)年に法印に叙任されている。
・「今此相州鎌倉の龜谷に壽福寺を營まれ」先に見た通り、寿福寺建立は正治二(一二〇〇)年であるから、記述順序に前後の錯誤があるように見えるが、要は本話の話の纏めに時間を巻き戻した、即ち、ここからがコーダということである。
・「宗門の弘興」禅宗(臨済禅)の教えを広め盛んにすること。]