耳囊 卷之六 窮兒も福分有事
窮兒も福分有事
石川左近將監(しやうげん)かたりけるは、十八九年以前大御番(おほごばん)を勤(つとめ)、在番とて上方へ登りしに、由比(ゆひ)の河原(かはら)に拾貮計(ばかり)の坊主、肌薄(はだうす)にて泣入居(なきいりをり)候を頻りに不便(ふびん)に思ひ、立寄りて樣子を尋問(たづねとひ)しに、八王子のものにて京都智積院(ちしやくゐん)へ學問に登るとて同志の出家に伴はれけるに、連れの出家は途中にて離れ、ひとりさまよひしに、わるものゝために衣類荷物等を奪れ、すべき樣なしと申けるを頻りに不便に思ひ、何卒其行方(ゆくかた)へ送り可遣(つかはすべき)處、八王子へ送るべき樣も無之(これなく)、上方へ伴ひ遣さんと尋ねければ、さもあらば誠にありがたしと答へける所へ、江戶新川(しんかは)の酒屋手代通り懸り、是も上方へ登り、江州に在所有之(これあり)、是より立寄候間、江州までは可召連れ(めしつれべし)といひし故、左近將監が供連(ともつれ)の内へ入れて、次の泊りに旅宿(はたご)の者を賴み古着など調へ着せ、右新川の手代に渡し、跡へ成(なり)先へなり大津まで至りしに、約束なれば、新川の手代は江州より分れ、大津にて人を賴み智積院へをくるべきや如何(いかが)せんと思ひしに、眞言宗の出家兩人、大津の馬宿(うまやど)へ差懸(さしかか)り、右小僧の樣子を左近將監が從者に聞(きき)て、さてさて仕合成(しあはせなる)者なり、同宗の僧侶すて置(おく)べきにあらず、我らより智積院へをくるべきと言ひし。幸(さいはひ)なる事と、いさいに右出家の樣子を聞しに、是も智積院へ學問修行に登るよし。右出家へ引渡しけるが、京都智積院よりも大阪在番先へ、右小僧屆(とどき)し趣(おもむき)申來(まうしきた)り、其後は音信(いんしん)もなかりしが、今は八王子在大畠村寶生寺といへる御朱印地の寺に住職して、左近將監方へは、其恩儀を思ひ絕へず尋問して、懇意に致候となり。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。私は何故か、この小話が好きである。映画に撮ってみたいぐらい、好きである。
・「石川左近將監」前の「英雄の人神威ある事」に既出の石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)彼は安永二(一七七三)年に大番、天明八(一七八八)年には大番組頭となって寛政三(一七九一)年に目付に就任するまで続けている。「左近將監」は、ここで注しておくと、左近衛府の判官(じょう)のことを指す。
・「十八九年以前大御番を勤」「大御番」は同じく「英雄の人神威ある事」の注を参照のこと。ここは大阪城警護である。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、ここから逆算すると「十八九年以前」は、天明五(一七八五)年か六年辺りを下限とするから、どんぴしゃり! 石川が大番組頭になる前の大番であった頃の出来事であることが分かる。【2014年7月15日追記】最近、フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、「勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!
・「由比」静岡県の中部の旧庵原郡にあった東海道由比宿の宿場町。現在は静岡市清水区。『東海道の親不知』と呼ばれた断崖に位置する。付近には複数の河川があり、同定不能。
・「智積院」現在の京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町にある真言宗智山派総本山五百佛山(いおぶさん)智積院(ちしゃくいん)。寺号を根来寺(ねごろじ)という。ここ(グーグル・マップ・データ)。開基は玄宥(げんゆう)。
・「新川」東京都中央区新川の霊岸島付近。霊岸島とは元、日本橋川下流の新堀と亀島川に挟まれた島で古くは江戸の中島と呼ばれたが,改名は寛永元(一六二四)年に霊巌雄誉が霊巌寺を建立したことに由来する。しかし明暦の大火後に寺が深川に移転、その後は町屋が増加し、後に河村瑞賢が日本橋川に並行して中央に運河である新川を掘削、これが現称地名の「新川」となった。以後この付近は永代橋まで畿内からの廻船が入り込むことが可能であっために、江戸の港として栄え、下り物の問屋として霊岸島町には瀬戸物問屋が多く、また銀(しろがね)町や四日市町には酒問屋が多かった(以上は平凡社「世界大百科事典」の「霊岸島」に拠った)。
・「可召連れ」「れ」の送りはママ。
・「馬宿」一般名詞。駅馬・伝馬に用いる馬を用意しておく場所。
・「をくるべきと言ひし」の「べき」はママ。
・「大畠村寶生寺」底本の鈴木氏注に、『大幡が正。宝生寺は山号大幡山。八王子市西寺方町。真言宗智山派。中興開山頼紹僧正は小田原北条氏時代、八王子城主から信仰され、天正十八年落城のとき、城内で怨敵退散の護摩をたき、そのまま焼死をとげた。のち家康が寺領十石を寄進した』とある。開山は明鑁(めいばん)上人で応永三十二(一四二五)年と伝えられるが、没年が延文五(一三六〇)年と合わず、開山は儀海とする説もある。
・「御朱印地」幕府が寺社などに御朱印状を下付し、年貢諸役を免除した土地を指す。質入は厳禁され、国役金が課され、御朱印状は将軍代替わりごとに下付された。
■やぶちゃん現代語訳
窮したる子にも神仏の御加護があるという事
石川左近将監(さこんのしょうげん)忠房殿のお話。
……十八、九年以前のこと、大御番(おおごばん)を勤め、在番方として上方へ登って御座ったが、その途中、駿河の由比の河原(かわら)にて、十二歳ばかりの青坊主、如何にもな薄着のままに、泣きながら蹲って御座った。……
……その泣き声、これ、頻りに不憫を誘いましてのぅ……立ち寄って、仔細を尋ね問うてみましたところ……これ、八王子の者にて、京都智積院(ちしゃくいん)へ学問修行に登るとて、同志の出家に伴はれて発ったものの、連れの出家とは途中にて逸(はぐ)れ、独り彷徨(さまよ)うて御座ったところが、悪者がために衣類荷物、悉くを奪れ……
「……どうしたらよいか……分かりませぬ……」
と今にも消え入りそうな声で申しけるによって、頻りに不憫に思うて、
「……まあ、何とか御坊の、行く方(かた)へと送って遣わそうとは存ずるが……八王子へ送り帰すは、これ、なかなかのことじゃ……いっそ、上方へ伴(ともの)うて遣わそうと存ずるが、如何(いかが)?」
と、訊ねたところ、
「……そうして戴けるならば……これ、誠に、ありがたきことに御座いまするぅ!……」
と、切羽詰って縋(すが)って参った。……
たまたま、そこへ江戸新川の酒屋の手代が通りかかりましての。聴けば、これ、
「……へえ、儂(あっし)は上方へと登りやす。……ただ、近江に在所がありやすんで、そこへちょいと立ち寄ろうかと思うておりやすんで……しかし、不憫な子(こお)や――分(あ)かりやした! 近江までは儂(あっし)が連れて参りやしょう!」
と肯(がえ)んじたゆえ、拙者の供連(ともづれ)の内へ、この手代と小坊主を入れての、道中と相い成って御座った。……
次の宿場にて、旅籠(はたご)の者に頼み、古着なんどを買わせて着せ、かの新川の手代に引き渡し、その後(のち)も、拙者の後へなり先へなりして、大津まで参って御座った。
約束なれば、新川の手代は、ここより近江の在所へと別れて御座った。
『拙者は、さて……大津にて人に頼んで智積院へ送るがよいか……いや……にしても……悪しき者どもに襲われたるこの子(こお)の心持ちを思えば……これ……頼むべき人物も……相応に考えずばなるまい……さても……如何(いかが)せんとするが、よきか……』
と思案致いて御座った。……
そう考え込んで御座った丁度その折り、大津の馬宿(うまやど)へさしかかって御座ったのじゃが、これまた、たまたま、真言宗の出家が二人、拙者の供連れと歩む少年僧が眼に入って、そっと我らが従者に仔細を訊ねて御座ったと申す。
従者の話を聴いた二人の僧は、早速に拙者に言上致いて、
「いや! さてさて、この男児も幸せなる者で御座る! 同宗の僧侶なればこそ、捨て置く訳には、これ、参りませぬ。我ら方より、確かに智積院へお送り申し上げましょうぞ!」
と、先方より願い出て御座った。
「幸いなることじゃ!」
と、委細に、かの二人の出家に問うて素性を確かめたところが、実はこの二人も、かの智積院へ学問修行に登る途中の由に御座ったゆえ、これならばと心得、その出家たちへ少年僧を引き渡して、くれぐれも確かに届け呉るるように頼み、その場は別れて御座った。……
その後、京都智積院からも拙者の勤むる大阪在番先へ、かの二人の僧に預けた小僧が辿り着いた旨の申し状が届いて御座った。……
その後は……暫くは消息も御座らなんだが……修学よろしく、かの青坊主……今は八王子在の大畠村、かの知られた宝生寺(ほうしょうじ)という御朱印地の寺にて、住職と相い成って御座ってのぅ!……拙者が方へは、かの折りの恩儀を思うて、これ、絶えず訪ねて参りましてのぅ……大層、懇意に致して御座るのじゃ。……
と、忠房殿、如何にも嬉しそうに、目を細めて語られて御座った。