生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 三 擬態~(2)
しかるに不思議なことには、味も惡くはなく、惡臭も放たず、毒もなく螫しもせぬ昆蟲で、しかも著しい色彩を有するものが幾種類かある。これらは、よく調べて見ると、必ず同じ地方に産して鳥類などに敬して遠ざけられて居る種類のいづれかに頗るよく似て居る。例へば蛾の類に「すかしば」〔スカシバガ〕と名づけるものがあるが、他の蛾類が通常灰色かまたは鼠色で一向目立たぬに反し、體には黄色と黑との横縞があつて頗る著しい。一體、蝶・蛾の類は鱗翅類というて、翅は一面細かい鱗粉で被はれて不透明であるのが規則であるに、この蛾は蛹の皮を脱ぐや否や翅を振つて鱗粉を落とし捨てるから、例外として全く透明である。その上他の蛾類は晝は隠れ夜になつて飛び廻るものであるが、この蛾は晝間日光の當つて居る處を好んで飛んで居る。かくの如く白晝身を現すことを少しも恐れぬが、その飛んで居る所を見るとまるで蜂の通りであるから、蜂と見誤られて敵の攻撃を免れることが出來る。外見が蜂に似て居れば、敵の攻撃を逃れる望みが多いから、「すかしば」の外にも一寸、蜂に似た昆蟲は幾らもあるが、かやうに敵に食はれぬために、他種類に似ることを擬態と名づける。
[やぶちゃん注:以下、ベイツ擬態の解説に入ってゆく。ベイツ擬態とは、無毒で比較的脆弱な生物が有毒種や獰猛な危険種などの真似をすることを言う(既に述べられた被摂餌種の天敵でない安全種に真似て眼を晦ましておいて捕食するところの――これは同じく既に述べられたように自分の自己天敵からの防衛にも用いられる――隠蔽型もこれに含まれる)これはイギリスの探検家ヘンリー・ベイツ(Henry W. Bates 一八二五年~一八九二年)が一八四九年頃から南米大陸を訪れて調査した際、有毒なドクチョウに似た無毒のシロチョウの仲間に気付いたのが始まりで、以来、 “Batesian Mimicry”(ベイツ型擬態)と呼ばれるようになった。
「すかしば」チョウ目Glossata 亜目Heteroneura下目スカシバガ上科 Sesioidea スカシバガ科 Sesiidae に属するスカシバガの仲間。私は真っ先にコシアカスカシバ Scasiba scribai が頭に浮かぶ。これは文句なしにキイロスズメバチ Vespa simillima xanthopteraに似ている。いや、大型個体は私はかの恐ろしきオオスズメバチ Vespa mandarinia に似てさえいると思っている(嘘だと思うなら、御用達の「みんなで作る日本産蛾類図鑑」のここをどうぞ。但し、私に輪をかけて昆虫系がおしなべて駄目な人はクリックするべからず)。日光沢や恐山の露天風呂では、こいつが一匹、周囲を飛び回っていて、「コシアカスカシバ」だよな、と分かっていながら(これが分かるようになったのは三十過ぎであるので、最早、オオスズメバチの恐怖のオペラント学習附けが消去出来ないのである)、大騒ぎをして走り廻ってしまったのを思い出す。]