金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 芦の湯 木賀
芦の湯 木賀
權現坂に道標(みちしるべ)の石あり。これより芦(あし)の湯へ一里。道に薺(なづな)の池、元西河原(もとさいのかはら)、多田滿仲(ただのまんぢう)石塔、曾我兄弟・虎御前の石塔あり。芦の湯は癩病、黴病(しつ)、五痔(ぢ)、そのほか一切(いつさい)の腫物(はれもの)によし。兩側一丁ばかりに湯宿(ゆやど)ありて奇麗なり。これより一里ゆきて木賀(きが)の湯なり。此間に明礬(めうばん)を製(せい)する所あり。木賀のうちに、岩湯(いわゆ)、上(うえ)の湯、平(ひら)の湯、大瀧(だき)の四ケ所あり。疝氣(せんき)、中氣(ちうき)によし。地獄といふは、芦の湯より八丁ばかりにあり。硫黄(いわふ)にて、つねに煙(けふり)たつところを地獄といふ。
〽狂 みな人の心のおにの
つのおれんかゝるぢごくの
おそろしさには
たび人
「この山にも地獄があるが、わしが前方(まへかた)、越中の立山へ參詣した時、立山の地獄では、しんだものにあふといふにちがひなく、わしがひさしくなじんだ女郎で、しんだのがあつたが、その女郎の幽靈に、立山であったから、『これはめづらしい。そなた今はどこにどうしてゐる』ときいたら、その女のいふには、『妾(わし)は今、畜生道(ちくせうどう)へおちてゐますが、妾(わし)が今の亭主は、顏は人間、體は馬(むま)でござりますが、人が世話(せわ)して、妾(わし)は今そこへかたづきました。世間の譬(たとへ)にも、馬にはのってみよ、人にはそふて見よといふ事がござりますが、わしはどうぞ馬にそふて見たいものだと思ひました。念がとどひて、とうとう馬の女房になつております。地獄の賽の河原町におりますから、御前(おまへ)も、はやふしんで、たづねてきてくださりませ』とぬかしたから、大笑ひだ。」
「そんなら、その幽靈馬の女房になつてゐるなら、大方(かた)、その幽靈のでる時には、『どうどうどう』と、その馬が太鼓をたゝくであらう。」
[やぶちゃん注:「芦の湯」現在の芦之湯温泉。国道一号線最高所付近にあり、箱根七湯の中では最も標高が高い。開湯は鎌倉時代。単純硫黄泉で神経痛・関節痛・動脈硬化に効く。コロイド硫黄のアルカリ性の湯質で硫黄系濁り湯としては珍しい泉質である。古くは江戸時代から文人墨客がこの地を訪れている(以上はウィキの「箱根温泉」の記載に拠る)。
「薺の池」箱根町元箱根にあるお玉が池。中野晴生氏のHP内の「お玉が池」によれば、『元禄十五(一七○二)年二月十日の夜のこと。関所の裏山を越えようとしたひとりの娘が捕まった。娘の名はお玉。南伊豆の百姓、太郎兵衛の娘で、その年の正月から、江戸に奉公に出ていた。お玉は主人に叱られたのか、我が家恋しさのあまり、奉公先を抜け出して故郷を目指す。もちろん関所手形など持つはずもない。思い余ったお玉は、関所破りという重罪を犯してしまった』。『お玉は哀れにも、捕まってから三ヶ月余りで獄門に処されてしまう。そのお玉の首を洗ったのが、お玉ヶ池だった。この池はそれまで「ナズナが池」と呼ばれていたが、お玉を憐れんだ村人によって「お玉ヶ池」と呼ばれることになったという』。『狂歌で有名な大田南畝は、紀行文『改元紀行』に、駕籠かきから「お玉ヶ坂」について、罪ある女が処刑された場所だと聞かされたと書き残して』おり、『池の名前の由来については、ほかにもお杉とお玉という上方の旅芸人の姉妹が、関所破りをして役人に追われ、お玉がこの池に飛び込んで死んだので、こう呼ばれるようになったとも伝えられる』と解説しておられる。
「元西河原」「元」と附くところを見ると、「東海道三嶋宿」の段で注したその当時の「賽の河原」のより昔の古形の場所であった考えられる。「金草鞋 第二編 東海道の巻」によれば、池の旗端に地蔵が立っていたらしい。
「多田滿仲」源満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)賜姓源氏源経基嫡男。多田源氏祖。法号は満慶。安和の変(九六九年)の発端となった陰謀(源連らが皇太子守平親王廃位を狙っているという)を密告して朝廷にその名を強く印象づけた。清和源氏が摂関家に臣従する契機はここに始まるとみてよい。越前・常陸などで地方官も務めたが、実際には京での生活を主とした。実際には安和の変は満仲が仕組んだ可能性もあり、更に花山天皇出家事件によって摂関家との関係を強め、武門としての地位を確立していった。箱根の精進池池畔には俗に満仲の墓と伝える三・六メートルにもなる巨大な宝篋印塔があるが、実際には永仁四年(一二九六年)の銘があり満仲とは無関係である(そう呼称されている理由は不明)。
「黴病」梅毒。黴毒と書いて「ばいどく」とも訓ずる。
「五痔」作家檜山良昭氏の「閑散余録」に曰く、『作家の原稿に誤字脱字あれば、尻には五痔脱痔あり』。『五痔とは切れ痔、イボ痔、トサカ痔、蓮痔、脱痔の五種。蓮痔とは痔瘻(じろう)のこと。あたかも蓮の茎穴のような形なので、古くはそう呼んだ』とある。因みにいぼ痔は内痔核又は外痔核、トサカ痔は鶏の鶏冠(とさか)が合わさったように見える脱肛、蓮(はす)痔は穴痔と同義。
「木賀の湯」、宮ノ下温泉に近く、箱根七湯の中で箱根湯本に次いで二番目に古く、開湯は平安時代末期から鎌倉時代初期、一説に治承・寿永の乱の折りから、源頼朝の家人木賀善治吉成が合戦の折りに負傷して箱根の山中に分け入ったところ、白狐が現れ、吉成を温泉に導いたという。その後その湯で傷を癒した吉成は合戦に戻り、合戦後、その地の地頭職に就いた吉成により木賀温泉となった。吉成を導いた白狐は吉成の妻となり、死後は白狐稲荷として奉られたともいう。江戸時代には温泉奉行が置かれて徳川家への献上湯。泉質は単純泉・アルカリ性単純泉、切り傷・神経痛・関節痛・冷え性に効く(以上はウィキの「箱根温泉」の記載に拠る)。現在の宮ノ下の三叉路から箱根裏街道を六百メートルほど行った位置にある。
「明礬」カリウム・アンモニウム・ナトリウムなどの一価イオンの硫酸塩と、アルミニウム・クロム・鉄などの三価イオンの硫酸塩とが化合した複塩の総称。硫酸カリウムと硫酸アルミニウムとが化合したカリ明礬が古くから知られ、これを指すことが多い。媒染剤・皮なめし・製紙や浄水場の沈殿剤など用途が広い(「大辞泉」に拠る)。
「前方」以前。
「その幽靈のでる時には、『どうどうどう』と、その馬が太鼓をたゝくであらう」歌舞伎下座音楽の一つで、幽霊や妖怪などの出現に用いる大太鼓を長ばちで打つ仕儀の「どろどろ」という名詞に、馬牛を御する(特に制止する)時に掛ける掛け声の感動詞「どうどう」を掛けた。]