耳嚢 巻之六 石山殿狂歌の事
石山殿狂歌の事
石山大納言殿へ立入(たちいり)せし番匠(ばんしやう)の年老(おい)けるが、身まかりしと聞(きき)たまひて、姥(うば)は殘りし由を狂じよめる由、
ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。狂歌滑稽譚シリーズ。
・「石山大納言」石山師香
(いしやまもろか 寛文九(一六六九)年~享保一九(一七三四)年)は公卿。藤原氏持明院支流葉川(園)基起(もとおき)次男。元禄一六(一七〇三)年従三位となって葉川(後に壬生(みぶ))家から分かれて石山家を興す。享保一九(一七三四)年従二位権中納言。狩野永納(かのうえいのう)に学んで戯画に優れ、書・和歌・彫金でも知られた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。岩波版長谷川氏は他に、師香の養子(姉小路実武次男)であるやはり画才のあった石山基名(もとな 享保五(一七二〇)年~寛政四(一七九二)年)の名を挙げておられる。彼は没時、正二位権大納言であった。
・「番匠」「ばんじょう」とも読む。大工職のこと。
・「ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく」底本には「なにと」の右に『(尊經閣本「何の」)』と傍注、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
ぢゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々(ばば)はかはいやなにとせんたく
とある(「ゝ」はママ)。「父」は「爺」で通用し、そもそも和歌では濁音は表記しないのが通例であるから問題はない。長谷川氏は『桃太郎の話の発端を利用。ぢゝは病いと山へを掛け、草かりは草刈と仮の代を掛ける。なにとせんたくはなにとせん(どうしようか)と洗濯を掛ける』と注されておられる。天寿を全うする年齢であったのであろう、弔問の挨拶句というより、往生と残った老媼への労りを込めた洒落た戯れ歌である。私の敷衍自在訳を以下に示す。
――じいさん、病(「やま」)いで「山」へ草「刈り」、ああ、行かしゃった、行かしゃった、「仮り」の宿りのこの世の中を、ああ、「鎌」振り捨てて、逝しゃった、ああ、逝かしゃった、それはそれ、天寿全う、芝刈り鎌(「かま」)、いや、じゃから「かま」わん、目出度とぅおじゃる……なれど――残れるばあさんは、いや、可愛(「かわ」)いや、可愛いや、「川」へ洗濯、ああ、行かしゃった、行かしゃった、一体今頃、どうしておじゃるか、おじゃるかいのぅ、麿でもちょいとは、心配じゃ、ああ、心配じゃわいのぅ――
私は、こう弔問歌、好きで、おじゃる。
■やぶちゃん現代語訳
石山殿の狂歌の事
石山大納言殿の御屋敷へ、永く出入りさせて貰(もろ)うて御座った年老いた大工、これ、身罷ったと聞き、また、配偶(つれあい)の老婦は未だ健在なる由も聞き及び遊ばされ、狂じて――基い!――興じて、お詠みなされた由の狂歌、
ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく