一言芳談 七十三
七十三
俊乘房云、後世をおもはんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一(ひとつ)も、もつまじき物とこそ心えて候へ。
〇糂汰瓶(じんだがめ)、糠味噌つぼなり。此事くはしくは沙石集にあり。
[やぶちゃん注:本条は「徒然草」第九十八段に、二項目として、後掲する「百」の解脱上人条の一部とカップリングして、
一、 後世(ごせ)を思はん者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經・本尊に至いたるまで、よきものを持つまじきなり。
と引用されてある。また、松尾芭蕉に、「柞原集」に載る元禄四(一六九一)年四十八歳の時の膳所義仲寺での著名な清貧の詠、
庵に掛けんとて句空が書かせける兼好の繪に
秋の色糠味噌壺もなかりけり
はこれを元としており、句空は「草庵集」で、この『句は兼好の贊とて書きたまへるを、常は庵の壁に掛けて對面の心地し侍り。先年義仲寺にて翁の枕もとに臥したるある夜、うちふけて我を起さる。何事にか、と答へたれば、あれ聞きたまへ、きりぎりすの鳴き弱りたる、と。かかる事まで思ひ出だして、しきりに涙のこぼれ侍り。』としみじみと回顧して記している(「草庵集」以下は伊藤洋氏の「芭蕉DB」の当該句鑑賞を参照した)。
「此事くはしくは沙石集にあり」「沙石集 卷第四」の「道心執著を捨つ可き事」の冒頭にある。以下に引用する(底本は読み易い一九四三年筑土鈴寛校訂の岩波文庫版を用いた)。後に極少数の語注を附しておいた。
大原の僧正、顯眞座主、四十八日の間、往生要集の談議し給ふ事有けり。法然房の上人俊乘房の上人なんど、談議の衆にて、大原の上人達あまた座につらなり、如法の後世の學問の談議なりけり。四十八日功をへて、人々退散しけるに、法然房俊乘房兩上人斗ばかりはしちかく居て、法然房申されけるは、この程の談議の所詮いかが御心得候と俊乘房に申されければ、秦太(じんだ)瓶一なりとも、執心とまらん物はすつべきとこそ心得て候へとかたらる。僧正御簾のうちにきき給ひて、上人たち何事ヲ語り給ふぞと仰せられければ、俊乘房かくこそ申し候へと、法然房申されければ、御衣の袖に御涙を、はらはらとこぼして、このほどの談議に、これほどにめづらしき事承らずとて、隨喜し給ひけるよし、或人語り給ひき。
・「大原の僧正」顕真(天承元(一一三一)年~建久三(一一九二)年)天台僧。藤原顕能の子。母参議藤原為隆娘。比叡山で明雲らに天台教学や密教を学んだ後、承安三(一一七三)年、大原別所に隠棲した。浄土信仰へ傾き、文治二(一一八六)年に、勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて、大原問答を行ったとされる(本話。但し、参加者については異説もある)。翌文治三年には勝林院で不断念仏をはじめ、建久元(一一九〇)年、第六十一代天台座主に就任した(ウィキの「顕真」に拠った)。
・「所詮」本講義によって示された結論。]
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