一言芳談 六十
六十
顕性房云、心の専不専(せんふせん)を不論(ろんぜず)して、南無あみだ仏ととなふる聲こそ詮要(せんえう)と真実(しんじつ)に思ふ人のなき也。
〇顕性房云、心のみだるゝ時も、それにとりあはず、念佛すれば、心もあらたまりて、本願にもかなふなり。
[やぶちゃん注:「専不専」永観の「往生十因」に、『又爲散亂人觀法難成。大聖悲憐勸稱名行。稱名易故相續自念晝夜不休。豈非無間乎。又不簡身淨不淨。不論心專不專。稱名不絶必得往生。運心日久引接何疑。又恆所作是定業故。依之但念佛者往生淨土其證非一。』とある。大橋氏はⅡの脚注で『浄土門では弥陀の名号を専心にとなえるの意。』とするが、これはどうも「専」の注であるようだ。とすれば「専不専」とは、「浄土門に於いて弥陀の名号を専心に唱えるているか、いないかということ」となるが、この三字熟語、現在、ネット検索を掛けても、そのような一般的な語として浄土門の法話等には全く使用されてはいない。しかし、この文脈は、それを問題にしない、ということに心眼がある。「雑念を全くうち払って専心に念仏することが肝要であるとか、雑念を少しでも持って念仏するということは、念仏の本義から言ってどうなのか、といった議論など全く意味がない。『南無阿弥陀仏』と唱えるところの、その『声』こそが――のみが、胆(きも)である。ところが、そうした単純明快で『肝心な急所』を《本当に分かっている人は誰一人としていないのだ》、と顕性房は言っている。これはしかし、「真実に思ふ人のなき也」という完膚なき断定によって、顕性房自身へも鏡返しされる。この断定は、そう言っている顕性房自身さえ――いや寧ろ、顕性房自身に実感される無念にして慚愧に堪えない言葉である時にのみ、「真」である。私は、この一条にこそ、当時の一種の末法思想を感じると言ってもよい。湛澄の標注は分かり易い代わりに、受験参考書の合格必勝法みたような糞の糞、ないほうがましな部類の標註である。我々は、まさにあくまで玄(くろ)い絶対の絶望に放たれた茫然自失たる思いで、この一条を読むべきであると私は思う。――まさに気休めや神頼みの類はもう聴き飽きた、という声が今、この今の現実世界にこそ、通奏低音のように響いているではないか!――]