耳嚢 巻之六 夜發佳名の事
夜發佳名の事
いまだ元文の頃は、賤(いやし)き者にも風流なる事ありしやと、秋山翁かたりしは、柳原へ出候夜發(やほつ)、大晦日の夜、三百六拾人の客をとりし女有(あり)て、其抱主(かかへぬし)承りて、今夜に限り、ひと年の日數なさけ商ひし事珍しとて、ひと年おかんと名乘候へかしと云し由。其頃毎夜夥敷(おびただしき)見物なりし由。秋山も小兒の頃故、おわれて見に行しが、美惡は覺へずと、語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:元文年間の出来事で連関。
・「夜發」既出。「やほつ」「やほち」と読み、夜間に路傍で客を引いた最下級の売春婦のこと。底本鈴木氏注に、『三村注「守貞漫稿に云、夜鷹は土妓也、古の夜発と云者是歟、或書云、本所夜鷹の始りは、元禄十一年九月六日、数寄屋橋より出火し、風雨にて千住迄焼亡す、其焼跡へ小屋掛し折節、本所より夜々女来りて小屋に泊る、世のよき時節故、若い者徒然の慰みに、互に争ひ買ひけるより始る云々、本所より出る夜たかに名を一年と云あり、ひとゝせと訓ず、此土妓の詠歌に、身の秋はいかにわびしくよひよひは顔さらしなの運の月かげ、何人の果なるを詳にせず、由ある女の零落なるべし」』とある。岩波版長谷川氏注によって、これは「守貞漫稿」の二十二(活字本の二十)であることが分かり、長谷川氏は更に、講釈師馬場文耕の「当世武野(ぶや)俗談」(宝暦七(一七五七)年板行)に『同様の夜鷹の話あり、「一とせのおしゆん」という』ともある。
・「佳名」「嘉名」とも書く。いい名・縁起のよい名、又は、いい評判・名声、の意で、ここでは洒落た源氏名という謂いの他に、売れっ子の意も含んでいる。
・「ひと年の日數」本邦の旧暦は太陰太陽暦によるが、旧暦の一ヶ月の日数は月に固定されず、年毎に各月が三十日の大の月か、二十九日の小の月となり、その近似値として十二ヶ月×三十日で三百六十日とした謂いである。実際の太陰太陽暦における一年の日数は、平年で三百五十四日程度、補正のための閏月のある閏年の場合は三百八十四日程度で、年によって大きく異なる。
・「秋山」「卷之四」の「痔の神と人の信仰可笑事」に登場した根岸の知音で、脇坂家に仕え、「脚気辨惑論」などの医書を表わしている江戸の著名な医師秋山宜修(かくしゅう 生没年未詳、号玄瑞)であろう。
・「おわれて」ママ。
■やぶちゃん現代語訳
夜發の佳名の事
「……未だ元文の頃には、賤しき身分の者にも……これ、相応に風流なる仕儀が御座ったことじゃ……」
と、秋山玄瑞翁の語ったことには――
……柳原へ夜な夜な出でて御座った一人の夜発(やほち)のうちに、ある年の大晦日の夜(よ)、丁度、三百六十人の客をとった女が御座っての、その抱え主がそのことを聴き、
「……今夜(こよい)と限って、一年(ひととせ)の日数(ひかず)、情(なさ)けを商(あきの)うたことは、これ、珍らしきことじゃ。……」
とて、
「……向後は、そなた、『ひと年(とせ)おかん』と名のりなさるがよい。……」
と云うたそうな。……
いや、その頃は、毎夜の如、一目、その「ひと年おかん」の顔を拝まんと、まあ、夥しき見物人で御座った。……
我らも、未だも小児の頃で御座ったゆえ、乳母に負われて見に参りましたが……さて……流石に、幼な子の折りの、遠き昔のことなれば……「ひと年おかん」のその美醜は、これ、覺へては御座らぬが、の……」
と語って御座ったよ。
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