耳嚢 巻之六 山吹の茶關東にて賞翫又製する事
山吹の茶關東にて賞翫又製する事
元文の頃にもありけるか、所は忘れたり、ある社頭の別當せる僧、上方へ至り、宇治山吹と云へる茶を求めて下りける時、旅泊にても、茶を好みけるままに、彼茶をとり出して紙の上に置て水など調じける處へ、宿やの飯もり女子出て彼茶を見て、是は山吹にて候、茶を好み給ふと見へぬれば、我等調じまいらせむといひしに、彼僧いとふしんなして、賤しきうかれ女の、山吹と名指、又調ぜんと云も心得ずとていなみければ、我等はいとけなきより茶は能く煎じ覺へしとて、やがて煎じ出しけるを風味するに、甚だ其(その)氣味すぐれしかば、渠(かれ)が身の上を尋ねしに、暫し落涙に及びていと恥(はづ)る體(てい)なりしを、せつに尋ねしかば、渠は宇治の一二を爭ふ茶師(ちやし)の娘なりしが、與風(ふと)男に被誘(さそはれ)て親元を立出で、其後男も身まかりしかば、心あしき人の手に渡りて今はかゝる身過(みすぎ)をなんなしぬると、涙とゝもに語りければ僧も不便に思ひ、我等は是より江戸表に出(いづ)れど、又不遠(とほからず)して上方へも登り候間、其節可尋(たづぬべき)間、ふみ書きおかるべし、親元へ屆けて能きに取計(とりはから)はんと約し立分(たちわか)れしが、程なく又上京するとて彼旅籠屋(はたごや)に泊りて、右の女より文(ふみ)請取(うけとり)て宇治へ至り尋ねしに、彼茶師、棟高き富饒(ふねう)なる家故、其主を尋ねしに留守成(なる)由故、其妻に逢(あひ)て夫の歸りをまち、しかじかの事語りければ、夫婦は大きに驚き、行衞不知(しれざる)娘を尋倦(たづねあぐみ)けるに、かく爲知(しらせ)給ふ嬉しさよと、早速迎ひの人を仕立(したて)、彼(かの)僧よりの書狀をもらひ、身代金(みのしろきん)などあつく持せて其(その)手代など下しければ、恰も、渠が來(きた)る迄逗留なし給へとせちに賴みける故、無據(よんどころなく)逗留しけるが、無程(ほどなく)彼(かの)娘上京して兩親一族へ對面なし、死せし者の生出(いきいで)しやうに歡びけるが、何にてもお僧の願ひかなへ給へと、數(かずかず)のこがねなど出しけるを、彼僧かたく辭(じ)しいなみてうけざりしを、いろいろ歎きて漸く少しの路銀のみもらひけるが、餘りの嬉しさにや、家に傳へる山吹の製し方を、祕傳ながらといひて彼僧に傳授しけるを、僧は一世の事故、彼(かの)社頭の神主につたえしを又傳ふる者ありて、山吹の茶の製法は、あづまにも今多くしれるものあるとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:一種の起立譚で連関。
・「山吹の茶」宇治茶の銘柄の一つ。山吹色は淹れた茶の色であろう。
・「社頭の別當」とあるから、この僧の勤めていたのは神宮寺であることが分かる。
・「元文」西暦一七三六年~一七四〇年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、六十年以上遡る、かなり古い都市伝説である。
・「不遠(とほからず)して」は底本のルビ。
・「爲知(しらせ)」は底本のルビ。
・「僧は一世の事故」僧は別当職であったから、その別当職を次の僧に譲ることを言うか。示寂ととってもよいとは思う。何れにせよ、次代の別当僧は恐らく彼の弟子といった親しい者ではなかったのであろう(そうであったとしても例えば茶の嗜み方は「師」として認めていなかった)。だからこそ、恐らく同僚として親しかった神宮寺の神主にその茶の製法を伝授したものと思われる。
・「尋倦けるに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『尋侘(たずねわび)けるに』とある。本書の方がよい。
■やぶちゃん現代語訳
宇治「山吹」の茶が関東でも賞翫され又製しもする事
遙か元文の頃のことで御座ったか――確かな在所は忘れた――ある神宮寺の別当をして御座った僧が、所用にて上方へ参った折り、茶の名所である宇治にて「山吹」という茶を買い求め、江戸へ下向せんとした。
とある旅籠屋(はたごや)にても、茶を好むが故に、買ったその「山吹」を早速にとり出だいて、茶を紙の上に置いて湯を頼んで持ち来たるを待って御座ったところへ、その宿の飯盛女(めしもりおんな)が湯を提げて出て参った。すると、僧が手元の茶の葉を見、
「……これは山吹の茶どすな。茶をお好みとお見受け致しますによって、一つ、妾(あて)がお淹れ致しまひょ。」
と申す。かの僧、大層、不審に思い、
「賤しき浮かれ女(め)の、何故(なにゆえ)に茶葉を見ただけで「山吹」という銘茶と名指し当てたばかりか――それを淹るる――その最も美味き淹れ方をも――知っておると申すは、これ、合点のいかぬことじゃ。」
と断ろうとしたところが、
「……妾(あて)は小さい時より……茶は……よう……煎じておりましたさかい、淹れ方もあんじょう、覚えております。」
と言うからに、さても淹れさせて見た。
そうして、女の煎じ出だいたを翫味したところが……
――これ、まっこと!
優れた風味にて御座った。
されば、僧、かの女にその身の上を尋ねたが、始めのうちは、しばし涙を流いたまま、大層恥じ入った様子にて黙って御座った。しかし、切に尋ねてみたところが、
「……妾(あて)は宇治で一、二を争う茶師(ちゃし)の娘で御座いましたが……ふと、ある男に誘われて親元を出奔致いたので御座いまする。……その後、じきにその男も身罷ってしもうたため……我が身も心悪しき人の手に渡って……今は……かくもお恥ずかしき身過ぎを致いておるで御座りまする。……」
と涙ながらに語ったによって、これを聴いた僧も如何にも哀れに思い、
「……拙僧はこれより江戸表へ帰るのじゃが……遠からずしてまた、これ、上方へも上る故、一つ、その節、そなたの両親を尋ね申そうほどに、その折りがため、手紙を書きおくがよいぞ。そなたの親元へそれを届けて、なるべく、そなたの良きように計って進ぜよう。」
と約して、その場は別れた。
僧は江戸へ戻ったが、言葉通り、ほどのう、上京となったその途次、再び、かの旅籠屋に泊って、かの女より、命じおいた手紙を受け取ると、宇治へと向かった。
宇治に辿り着いて、女より聴いて御座った家を尋ねてみたところが、言う通りの、これ、棟高き裕福なる家なれば、その主を訪ねたところ、主人は留守、ということなれば、僧はその妻なる者に逢って、大事なることのありせば、とて、夫なる主人の帰りを待ち、帰った夫と、かの妻に向かい、しかじかの顛末を語ったところが、夫婦は大層驚き、
「……行方知れずになった娘のことは、これ、訊ね倦(あぐ)んでおりましたが、かくお知らせ下すったことの嬉しさよ!」
と、早速、使いの者を仕立て、かの僧よりの書状を貰い受け――そこに認(したた)められた文字(もんじ)の娘のものなることを確かめた上――身代金(みのしろきん)なんども十二分に持たせて、家の手代なんどを、かの旅籠屋へと送り出だいた。
主人は僧へも、
「どうか一つ、娘が帰って参りますまで、御逗留下さりませ。」
と切(せち)に頼んだ故――己(おの)が申したことの嘘か誠か、これ、半信半疑なる様も窺えたれば――僧もよんどころのう、この茶師が館に逗留致いて御座った。
ほどのう、かの娘も無事、宇治へと帰り着いて、両親や一族へ対面した。
特に両親は、死んだ者が生き返った如、大いに歓んで、
「かくなった上は何にても、お坊さまの願い、これ、叶えて差上げとう存じまする!」
と、数多(あまた)の謝金を差し出だいたが、かの僧は、これを固く辞し、受け取りを拒んで御座った。それでも、
「何としても、これ、御礼(おんれい)致さねば、人の道が立ち申しませぬ!」
なんどと、いろいろ嘆願致いたによって、仕方のう、宇治へと回った少しばかりの路銀をのみ受け取ったと申す。
かくも、謙虚なる仕儀にも打たれ、茶師、余りの嬉しさによるものか、家に伝わるところの「山吹茶」の製する法を、
「――秘伝ながら。……」
と申しつつも、かの僧に伝授致いた。
その僧、別当職の終りに当たって、かの神宮寺の親しくして御座った神主にその秘伝を伝え、その後(のち)また、それを伝える者が御座って、宇治「山吹」の茶の製法は、これ、坂東の地にて、広く知られておる、とか申すことで御座った。