金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 底倉 宮の下
底倉 宮の下
木賀より半道(はんみち)、底倉(そこぐら)の湯。このところは昔、地震にて石風呂(いしぶろ)もたへて、今はわづかに内湯(ゆ)二三ケ所あり。箱根名物の挽物細工(ひきものざいく)する家多し。これより宮(みや)の下(した)の湯へ二丁あり。大かた家つゞきなり。
〽狂 生醉のごろつき
あるくにぎはひは
これよりばちの
底(そこ)ぐらの
湯場
「わしはこの底倉の湯よりかなんど、あねさん、お前のそこぐらの湯へはいつて見たいが、それとも水風呂桶(すいふろおけ)で、牛蒡(ごぼう)をあらうようではおことわりだ。」
「そんな冗談(ぜうだん)をいはずと、一風呂(ひとふろ)はいつて見なさい。それこそ身内がとけるやうで、それこそゆでたての蛸(たこ)のやうになりなさるであらう。わたしの胼胝(たこ)にあやかつて
宮の下、内湯・瀧湯(たきゆ)あり。湯のわく水脈(すじ)より、筧(あけひ)より家(いゑ)の内へ瀧のごとくに湯をとり、これにうたるゝなり。頭痛・逆上(のぼせ)・肩引(けんひき)・足腰の痛みによし。
〽狂 功(こう)のふは神(しん)のごとしと
ちはやぶる
宮(みや)の下(した)なる湯場(ゆば)の
はんじやう
ごぜ
「わしどもは目が見へぬによて、男(をとこ)のよしあしはしれぬによつて、どんな男(をこと)でもかまはぬ。金(かね)でもくれる人でさへあればよいに。どふぞ、そんな男にかぎあたりたいものだ。」
「わしはまた目こそ見へね、器量がよいものだから、よい男がかゝるであらうとおもつてゐるが、まだそんな事もなし。この間も、人のいふには、そなたはたとへ目はなくても、その器量(きりやう)では、幸(しあは)せをしそうなものものだ、精だして貉(むじな)をくふと出世(しゆつせ)するものだといひなさるから、それから貉をとつてもらつてくひましたが、なぜまた貉をくふと出世しますかときいたら、その人のいふには、貉をくつて玉の輿(こし)だといいなさつたが、儂にはなんだかわからない。」
「富士屋に、江戸のうすき樣(さま)といふお座敷へ、たびたびまいりました。」
[やぶちゃん注:「底倉」現在の足柄下郡箱根町底倉。宮の下の三叉路から小涌谷へ二百メートルほど登った渓谷で、後の「二丁」かなり正確。早川の支流蛇骨(じやこつ)川に臨む。明神ヶ岳・明星ヶ岳の展望がよい。泉質は弱食塩泉。古来、宮ノ下・木賀とともに痔病に特効があることで知られる。太閤の石風呂は戦国末の小田原征伐のおりに豊臣秀吉が従軍将兵の傷を治したところと伝える(主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「半道」一里の半分。約二キロメートル。現在の地図上では、木賀と底倉は直線で五百メートルも離れていないが、恐らく当時は渓谷沿いに行ったものか。それでも「半道」はちょっと長過ぎる。
「挽物細工」所謂、箱根細工の一種。箱根細工は箱根や小田原地方で作られる木工製品を言い、大きく分けると、轆轤(ろくろ)を使ってお椀や丸盆などを作る、この「挽物細工」(轆轤細工)と、板と板を組み合わせて箱や引き出しを作る「指物(さしもの)細工」に分けらる。箱根地方では古くから特にこの挽物細工が中心で、戦国時代の記録にも、当時、畑宿では挽物細工が盛んに作られていたことが分かる。江戸時代になって東海道が整備されると、この箱根細工が旅人の土産物として人気を博した。江戸後期には箱根七湯に来る湯治客の湯治土産としても知られるようになった。これらの土産物は殆どが挽物細工であったが、江戸後半からは指物細工も見られるようになった。現在最も知られる寄木(よせぎ)細工や木象嵌(もくぞうがん)は、この江戸後半の時期から発生したものである(以上は箱根町役場公式HPの「工芸」に拠った)。
「そこくらの湯」会陰のことを隠語で言っているようである。「そこ」は指示語か。「くら」には古語で「谷」の意があるから、比喩としてはおかしくはないように思われる。
「水風呂桶で、牛蒡をあらうようでは」「水風呂」桶の下にかまどを取りつけ、浴槽の水を沸かして入る風呂。塩風呂・蒸し風呂などに対していう。「すえふろ」とも読む。茶の湯の道具である水風炉(すいふろ)に構造が似るところからとされる。「牛蒡」は男根。ここはその仲居の器量がよいのであろう(挿絵の右手このシーンの二人が描かれているが、なかなかの美人である)。その見た目の器量の割に、下の方は見かけ倒しで(温泉だと言って実は沸かし湯であるような見かけ倒しで)、交接してもあそこがぶかぶかで、「牛蒡をあらうよう」なのじゃ、というとんでもない猥雑な謂いであろう。
「わたしの胼胝にあやかつて」この「たこ」は、繰り返し圧迫を受けた皮膚の部分が角質化し厚くなった、あの「たこ」で、実際に仲居の腕か足に仕事だこが出来ているのであろうが、実はこれもセクシャルな謂いが含意されているように思われる。即ち、客が彼女の下の方をぶかぶかの「水風呂桶」じゃあるまいね、と揶揄したのを返して、あたいのあそこは蛸のように吸いつき締りも極上よ、と返しているのではないかと私は読む。こうした客あしらいはお手の物の、こうしたところの当時の仲居、なかなか負けてはいない。
「水脈(すじ)」の漢字は鶴岡節雄氏の当てられたものを用いた。
「功のふ」この「ふ」不詳。先に書いた秀吉の絡みで「功の武」(戦功のあった武者)か。それとも単に湯の効能の意か(例えば「符」で「しるし」の意)。識者の御教授を乞う。
「かぎあたりたいものだ」「嗅ぎ当り」で、眼が見えないために、かく表現している。
「貉をくつて玉の輿」不詳。何となくやはりエロティクな含意があるように思われてならない。識者の御教授を乞う。この瞽女(ごぜ:盲御前(めくらごぜん)という敬称に由来する女性の盲人の芸能者。鼓を打ったり三味線を弾いたりなどして、歌をうたい、門付けをした。民謡・俗謡のほかに説経系の語り物を弾き語りしたりもした。)の二人の会話は、それこそ「なんだかわからない」のである。挿絵はこの二人の瞽女を描くが、背後右に矢場の的が見え、左の家屋の向こうには「軍書講(釈)」の旗が見える。宮ノ下温泉の当時の繁昌振りが窺える。
「うすき樣」鶴岡氏は『うてき』とされるが、脚注で『「う」か「か」か判然としない。「うてき」は「腕扱」(うでこき)の促音か。武力、その他の技量の特にすぐれている人。』と注されている。確かに一見「う」「か」にしか見えないのだが、「うてき」も「かてき」も単語としてピンとくるものが存在しない。先行する連れの瞽女の会話を受けているのだろうか?(その場合、貉の隠喩が関わってきそうには見える)寧ろ、私は実際のお大尽の名を、広告よろしく実名出演させたのではないかと考えた。そこで、この二文字目の部分の画像を拡大してみたところ、下に下がる線が早稲田大学版でも国立国会図書館版でも中途で切れているのがはっきりと見える。これは左側に一回時計回りに回転して戻った「す」ではなかったか、その彫が浅かったために刷りで飛んでしまったのではないか、という推論に達した。即ち、「臼杵」「臼木」「薄木」「宇宿」「魚吹」「薄衣」「薄」といった人名(若しくは雅号)である。勿論、識者の御教授を乞うものである。]